2017年7月24日月曜日

2015年末以降の安倍内閣支持率上昇の謎? 

 時事通信社などの世論調査(安倍内閣の支持率)で、きわめて不思議なことがある。それは、2013年から急落傾向を示していた支持率が反転し、今年のはじめまで上昇しはじめたことである。その後、急落し、現在(7月24日)には20%台にまで落ち込んでいる。趨勢を直線で表すと、当初の60%前後から現在の20%台まで、下降トレンドの直線が描ける。時事通信社の調査だけでなく、他の調査結果でも、程度の差はあれ、同じようなトレンドが確認される。
 いったい何があったのだろうか?
 この年の重要な政治的出来事は、安保法制(戦争法)の成立(9/19)である。
 この法律は、集団的自衛権を前面に出し、米国との軍事同盟を強化し、米軍と共同歩調を取り、場合によっては日本を攻撃していない国に対する先制攻撃も辞さないというものであった。この法律に対する国民の疑念は強く、それはとりわけ成立直前に支持率をいっそう押し下げるように作用した。
 ところがである。反転が生じ、2016年度を通じて、支持率は回復した。
 一体、2016年になにがあったのであろうか?
 2016年には次のような出来事があった。
  国内
   熊本地震
   天皇のお言葉(安倍首相に対する批判という意見もあり)
   障害者施設19人刺殺事件
   TPPの可決→米トランプの反対で流産
   日銀マイナス金利の決定(金融政策の破綻)
   消費税率引き上げ延期(選挙前)
   宜野湾市長選 → 沖縄非難のヘイト番組の登場
   自衛隊の海外派遣
  外国
   北朝鮮弾道ミサイル、核実験、潜水艦ミサイル、核実験
   ベルギーテロ
   仏テロ
   ドイツ銃乱射事件、トラックテロ 
  
 国内には、これといって安倍内閣の支持率を引きあげるような出来事は一つも生じていない。しかし、海外での出来事となると別である。
 中でも注目されるのは、ヨーロッパにおけるテロの頻発と、北朝鮮の弾道ミサイル、潜水艦ミサイル、核実験(2回)である。
 安倍内閣がこれを利用したことは、私が指摘するまでもない。一方では、米軍と共同行動を取り、北朝鮮を刺激することまで行った。他方では、それを忖度した組織があらわれた。NHKはまるで戦時中であるかのようなニュースを流し、また東京では電車がとめられたり、屋外に出ないように注意する町内放送があったりした。要するに、北朝鮮に対する危機を煽り、国民を軍事立国承認の方向に導いたことは間違いない。これについては、前のブログでも書いたが、私が驚くほど、真に受けた人が多かった。
 また世論調査でも、内閣支持率に対する質問の前後に、北朝鮮関係の質問を入れ、一種の誘導質問として利用したことは、まったく明らかである。
 しかし、この点でも流れは若干変わった。韓国における保守派(朴)にかわり進歩派の大統領が誕生した。またトランプは中国と会談し、中国と北朝鮮との外交関係にゆだねる方向に一応は向かった。それに日本の国民の多くは、北朝鮮から一方的に攻撃を受けると信じるほど判断力が低いとも思われないし、むしろ北朝鮮を刺激し(または攻撃し)、金ジョンウンが正気を失ってやけっぱちになるほうが怖いことも理解しているだろう。
 しかし、支持率がふたたび反転し、低下に向かうきっかけとなったのは、森友と加計のアベ友学園問題(疑惑)であろう。それとともに懐憲(立憲制の破壊)のために安倍政権が行ってきた悪行の数々がふたたび人々の脳裏に戻ってきた。
 現在の低支持率は、本来の趨勢がたどるはずの帰着点と一致する。
 調査は、不支持の理由として、安倍晋三が信頼できない人物であるという理由を明らかにしている。まさにその通りである。虚偽、隠蔽、秘密外交、圧力、国民に対する動員の指示、不遜、憲法・法の無視・軽視など、政治の私物化など、あらゆる悪徳がこの人物にはつきまとっている。「云々」を「でんでん」と読むだけのことであれば、可愛いものである。
 安倍晋三という人物の姑息さを多くの人はこんどこそ忘れないだろう。いや、忘れないでほしい。なによりも自分自身のために。


 

 


安倍氏の経済政策の経済的帰結 21 ポスト・アベノミクスを考える

 例え話しをしよう。
 いま人が道を歩いており、途中で道を間違えたことに気づいた。どうするべきだろうか? 一つの方法は、来た道を引き返して正しい道にまで戻ることである。これは着実だが、時間も労力もかかる。もう一つは、いまいる場所から目的地に到着する経路を探すことである。これは時間と労力を省くかもしれないが、迷う可能性も高い。またもう一つ、これまで来た道を歩き続けることもありうる。さらに、現在の場所にとどまるという選択肢もありうるかもしれないが、「不思議の国のアリス」ではないが、一箇所にいるためには、走り続けなければならないというのが、資本主義経済の一つの特徴である。(これについても、以前ブログで説明した。)

 もう一つの例え話しをしよう。日本経済は病気にかかっていると考える。「日本病」(Japanese disease)となづけておく。病気といっても軽いものから重篤のものまで様々だが、かなり重篤ということにしておこう。
 この重篤患者には、これまでも様々な種類の治療が試みられたが、どれも効果がなかった。ところが、ある医者が現れて、それらすべての治療法をミックスし、しかもそれまでの治療とは「量的・質的に異次元」の治療をすればなおるかもしれないと考えて、治療を行った。抗生剤などの投薬量は格段に増えた。しかし、医療の現場ではよくあることだが、従来の長期にわたる治療薬の投与のせいで、効果はなくなっており、耐性菌がうまれていたため、副作用だけが拡大してしまった。
 例え話しはあくまで例え話しでしかないが、あえて比喩的に言えば、日本経済の現状は上のようなものだろう。
 
 ところで、金子勝・児玉龍彦『日本病』(岩波新書、2016年)は、まさに日本の経済社会が「日本病」にかかっていることを示した本だが、学ぶべきことが多い。
 その中でも「エピゲノム」という生化学上の概念からの類推(アナロジー)を用いて、日本経済の特定方向への迷走を示していることが興味深い。複雑系に属する経済や経済学の世界では、従来もしばしば生物学からの類推によって複雑な経済社会の動きを説明するこがよくあったが、たしかに経済と生物という複雑な有機体には共通性がある。
 さて、エピゲノムであるが、それは生物個体の発生に関連している。生物学では初歩的なことだが、人の身体は数十兆個もの細胞からできており、その一つ一つに核DNA(X染色体とY染色多)や複数のミトコンドリアDNAが含まれている。そこには遺伝情報が書き込まれている。
 しかし、不思議なことに、人は最初の一つの細胞(受精卵)から細胞分裂を繰り返して、複雑な有機体を構成するに到る。最初の細胞は、出発点となる「万能細胞」である。しかし、不思議なことに、細胞分裂を繰り返すうちに、ある部分は(例えば)胃となり、他の部分は骨となり、心臓となり、肺となり、その他諸々の臓器などになる。
 これは細胞分裂を繰り返す中で、特定の細胞にはその細胞の分裂の履歴(記憶、情報)が書き込まれており、その履歴情報にしたがって次の分裂時の、その細胞の位置づけ・機能が決定される。胃が胃となるのは、こうした制御系(エピゲノム)のおかげである。

 実は、現実の経済世界でも、このエピゲノムに類似した機能が大きな役割を果たすと言えそうである。つまり、現実の市場経済(資本主義経済)では、いつでも同じ環境がずっと続いているのではなく、様々な履歴情報がどこかに記憶されており、それが次の経済状態(状態、秩序、レジームなど)を生み出すと考えられる。
 こえと関係している系論(コロラリー)は次のようなものである。
 それは、経済社会は、こうした履歴情報によってしだいに、または(時には)急速に変化してゆくが、必ずしも好ましい方向にゆくとは限らないことである。生物体でも、エピゲノムの状態しだいでは「死」を導くことがありうるように、経済社会が破滅的に方向にむかって進むこともありうる。実際、特定の経済社会が比較的長期にわたって、特定の方向にむかって、「破滅」に到るまで進みつづけることは、しばしば見られたことである。これは、従来の制度派経済学の「経路依存」(path dependency)と関係づけられるようにも思われる。

 しかし、例え話しや類推をいくらしても、あまり意味がないかもしれない。
 一つだけ、現実の経路をできるだけ簡潔に説明しよう。
 1980年代、米国のレーガン新自由主義政策、特に高金利政策によって米国はドル高を招来してしまった。米国への国際資金フローとともにドル高・円安が生じ、(当時の状況では)ドイツと日本の輸出攻勢を招いた。米国から見ると、資本収支の黒字、貿易収支の大幅赤字である。このとき、レーガンは、日本経済社会の閉鎖性が米国製品の輸入ブロック、資本移動ブロックをもたらしているというシナリオを武器に、日本に金融・資本移動の自由化を強要した。
 しかし、これが1980年代後半、とりわけ80年代末の「真性バブル」を惹起したことはよく知られている通りである。そして、それが1990年代の金融危機を発生させてしまった。この時、銀行は大量の不良債権をかかえたため、その処理に追われ、大企業も利潤の相当部分を不良債権の処理に使用しなければならなくなった。この記憶は、よくもあしくも、まだ日本社会に残っている。その処理が最終的に宣言されたのは、2006、07年頃である。
 しかも、1990年代には、賃金を圧縮・抑制することによって国際競争に耐え、利潤を拡大し、(企業の国際的買収に備えるためにも)企業の内部留保を増やそうという指向が強まっていた。だが、個別企業の観点から見れば、それでよいとしても、それは社会全体として経済の萎縮をまねく方策にすぎない。また、この間、所得税の限界(最高)税率の引き下げ(富裕者優遇策)、法人税の減税(大企業の優遇策)が実施され、政府歳入の低下をまねき、政府粗債務の雪だるま式の増加をまねいたうえ、今度は健全な経済発展を疎外している財政悪化をなくし、「財政健全化」を達成するためという理由づけ・名目で消費税増税が行われた。それが、いっそう有効需要を圧縮し、経済社会全体の萎縮を招いたことはいうまでもない。

 本来なら、ここで来た道を引き返すか、別の方向に転換するべきだっただろう。
 しかし、ここでアベ政治と「アホノミクス」が始まってしまった。それは、従来試みられてきた政策を、拡大された規模で実施するものであった。
 1、異次元の金融緩和
 2、消費増税、プラス 法人税の減税
 3、円安による輸出指向、だが逆に貿易収支の赤字が拡大した
 4、円安と対になっているドル高による輸入インフレ、家計を直撃
 5、雇用流動化 これらは「一億総活躍社会」や「働き方改革」といった耳ざわりのよい言葉で飾られているが、人々の総動員を指示するものである。
 6、主に消費増税によって歳入が増加したため、政府の国債発行額は減少している。したがって一見すると、必ずしも俗にいう「ケインズ政策」(赤字財政の拡大による政府支出の拡大)を実施していないように見える。しかし、社会保障費が抑制される一方で、軍事費は拡大している(軍事ケインズ主義)。そもそもこれがアベ政治のめざすところであろう。
 
 しかし、その帰結(パフォーマンス)は、すでにこれまで示してきたことだけからでも明らかなように、お寒い限りである。人々の実質所得(賃金所得)は増加しておらず、家計はまったく潤っていない。会社の内部留保は、マイナスGDPの年にさえ増加してきた。

 しかも、この4~5年間のアベノミクスによって大きく変化したため、問題はもっと深刻になっている。
 それは日銀が国債を400兆円以上も保有し、また日銀とGPIFが日本における最大の株式保有者となって官制相場を生み出したということである。しかし、GPIFと日銀がどんなに頑張っても、世界全体の投資家の株式売買額、保有額にはかなわない。海外投資家は、やすい時に株式を購入し、日銀やGPIFが官制相場を生み出して株価を高めても、純利得を得るために売却する力を有している。それは株価を大きく下落する力を持つ。
 こうして政府、公的年金基金、日銀があぶないカジノ取引に精を出し、一生懸命にアホノミクスの宣伝にやっきになっている。
 一方、労働側の状態を制度的に改善するための方策は、取られていない。むしろ、残業代ゼロにみられるように逆となっている。

 しかし、悲しいことに、こうした状況を前にして、政治家や経済学者、企業者がすべて全体を見渡す力を持っているわけではない。また企業者はそうした力を持っているとしても、個別企業の経営者として社会全体のために行動しようとはしない。それは自殺行為である。
 また情報履歴の点から見ると、人々は、通常、自己に関係する部分の履歴情報を持っているにすぎない。また人々は、ほぼいつも「他の事情が一定ならば」(other things being equal)という仮定を自明のものとして、自分や自分の周囲を観察している。もちろん、こうした状態からは、いま歩いている道が誤っているという結論が自動的に出てくるわけではない。

 一つの可能性は「破局」がつづくまで、歩みつづけるというものである。ある人が述べたように、「希望的観察」を現実と考え、現実を見ないようにする、わが農耕民族の性質がわざわいしているという見方に立てば、その可能性は低くないといわざるを得ない。
 ただし、この「破局」がどのようなものとなるかを、正確に予測することはできない。そもそも社会をなす人々の行動は不確定であり、社会の将来は不確実である。
 もう一つの可能性は、主導的な立場にあるリーダー(知識人、政治家)が「日本病」を正確に診察・理解し、大きい影響力を発揮して、人々に代替の道を示し、それを有権者が受け入れることである。



2017年7月23日日曜日

安倍内閣支持率 26%に転落(毎日新聞)

 世論調査は、ある時期には時の政治権力にとって宣伝となりうるが、局面が変わると一転してきびしい批判に転じることがある。
 前にも列挙したことがあるが、アベ政治は、これまで軍事立国をめざして、様々な姑息政策を実施してきた。
 1、アベノミクスの「三本の毒矢」、いかがわしい新アベノミクス
   国民瞞着、これまでの自民党政策を総動員したにすぎない危険な政策
 2、特定機密保護法 政府にとって都合のわるい情報の隠匿を合法化
 3、解釈改憲 違憲を表明した内閣法制局長官の強行的に交替させた(戦後初)
 4、戦争法 集団的自衛権(軍事同盟、先制攻撃も辞さず、日本を攻撃していない国に戦争をしかける権利。)もちろん、国連は好ましくないものと考え、様々な条件を課している。
 5、大学に対する軍事研究の要請・圧力
 6,共謀罪 何をしたら犯罪になり処罰されるのか不明。複数の人が何かについて話しただけで処罰される恐れあり。国連による疑義・批判に対して、誠実に回答する義務があるにもかかわらず、逆に非難した。国会質疑では、法務大臣が説明できず、放棄。参院では、委員会採決をせずに、本会議で強行決議。
 7,森友学園、家計学園疑惑
   説明を一切放棄し、文書の隠匿、省庁への処分を示唆しつつ圧力をかけてきた。
   菅官房長官などは、「怪文書」などと発言した。(後に「怪文書のようなもの」と言ったと馬鹿馬鹿しい言い訳をしている。)
 8、大臣の失態、失言、虚言、秘密外交、参考人質疑時の安倍首相の逃亡
   これについては、毎日のように報道されており、多すぎる。
   嘘の一例:TPPについての選挙前の反対、選挙後の積極的推進
    (嘘はつかないと言いながら、嘘をついてきた)
   ちなみに、TPP交渉は秘密裏に行われてきた
    (国民は内容を知らないのに、賛成か反対かという世論調査が実施されいてた!!)
 9、マスコミへの言論介入、メディア統制
   読売新聞やサンケイ新聞の自民党「広報紙」化
   (読者からも厳しい批判を受け、購読の取り消しも相次いでいるらしい。)
10、警察の忖度、圧力?
   安倍友の違法行為を放置し、批判者はきびしく取り締まる。
11、中国と韓国、北朝鮮との緊張関係を自ら生み出し、利用して国民を煽り、安倍政権の軍事立国主義(戦争できる国、兵器輸出、原発輸出など)を推進してきた。
12、総じて安倍首相による政治の私物化、政治家は有権者から選挙で選ばれるという姿勢を欠如させ、国民を総動員したり、国民に指示を出すという態度があからさまになっている。(実は、こうした態度は、「アベノミクス」の初発から現れていた。「デフレ心理」「デフレマインド」を脱却しない国民(や経済学者)が間違っているという不遜な態度が見られていた。

 まだまだあるが、項目をあげるだけでも大変である。その詳細はとても短いブログでは書ききれない。これだけひどいことをしてきた内閣は、少なくとも戦後に関する限りは、ない。
 こう書いてくると、これまでマスメディア、特に読売新聞や共同通信社などが安倍内閣の高い支持率を公表してきたこと自体が不思議な現象だったといわざるを得ない。
 しかし、これまで比較的無関心であった国民も、森友学園疑惑(アッキード事件)をきっかけに、真実を知り始めた。またアベ政治に迎合してきたマスコミも、さすがに態度を変えざるを得なくなった。週刊紙もそうであり、特に注目されるのは、週刊新潮や週刊文春がアベ政治批判に転じたことである。
 
 私は今春、「横須賀市民九条の会」のリーフに「安倍政治に対する信頼は今後しだいに低下してゆく」と書いたが、その予測が的中して、嬉しいかぎりである。
 毎日新聞の調査では、低下は加速度的に進み、なんとダブルスコア(支持26%、不支持56%)の危険水域に到達した。
 これもあきらめずに、ジャーナリスや市民が地道な活動を続けてきたことによるものである。
 政治の世界では、市民が主役であり、政治家は市民=有権者の審判を受ける立場の人々である。政治のこうした根本原理をないがしろにし、安倍晋三が指示・指令し、国民を動員するという態度に人々が異を唱え始めたことは明らかである。上記の安倍政治とは、そうした態度から生まれたものに他ならない。
 もはや私たちが求めるのは「詳しい説明」などではない。
 多くの市民とともに即刻退陣を求めたい。

毎日新聞の調査結果

2017年7月21日金曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 20 なぜ成長なのか? 軍事と戦前回帰のためです

 安倍晋三氏が「成長」を政策目標としてきたことは、これまで繰り返し説明してきたとおりである。
 しかし、経済政策を分析する者は、それにとどまらず、さらにその先を、すなわち、その目的が如何なる妥当と思われる手段によって達成されるのかを問うと同時に、その目的が政策立案者の如何なる価値理念と関連しているのかを問わなければならない。これは、かつてマックス・ヴェーバーが「社会政策」を論じたときに、提起した事柄である。もちろん、その価値理念が政策達成手段とどのような関係にあるかも問わなければならないことは言うまでもない。
 
 さて、「チーム・アベノミクス」(安倍、黒田、岩田、浜田、他)が全体としてどのような価値理念を共有しているかは、必ずしも明らかではないが、安倍晋三氏については、かなり明らかである。一言でいえば、それは日本の軍事大国化であり、改憲、とりわけ戦力(軍隊)の保有を禁じている憲法9条の改訂し、合憲的に海外で戦争することができるようにすることにおかれている。
 このことは、浜矩子さんが「アホノミクス」を分析した著書の中で、はっきりとさせている。詳しくはそちらに譲ることにして、ここではできるだけ簡単にすませることにしたい。
 「新・三本の矢」の一つ、(名目)GDP600兆円もこの軍事をねらいとして出されてきたものである。
 このような「価値理念」(ここではさしあたりそれに対する価値評価を保留する)に沿った政策手段は、もちろん、例えば格差の縮小や、社会保障の充実を目的とした政策手段とはおおきく異なることとならざるをえない。
 例えば、これまでの日本で大きな問題とされてきた正規従業員と非正規従業員の所得格差を解消するための政策を採用する場合、それもまた名目GDPの増加をもたらす政策になることが予想される。
 簡単のために、実質GDPの増加がない場合を考える。出発点において例えば70%を占める正規従業員の賃金率を(例えば)2500円/時間とし、30%を占める非正規従業員(労働時間はフルタイムの半分とする)の賃金率を(例えば)1000円/時間とする。もし後者を2倍に上げる(2000円/時間)とすると、企業の人件費総額は、8%ほど増えることになる。それが平均して8%のデフレーターの変化(物価上昇)をもたらすとすると、名目GDPも8%ほど増えることになる。500兆円のGDPは540兆円となる。増加した40兆円は、主に低賃金の非正規雇用者の所得の増加に充てられることになる。それは所得再分配政策の結果生まれたインフレーションということができる。
 しかし、アベノミクスが志向しているのは、このような方策ではない
 確かに安倍晋三氏は、様々な演説の中で、社会保障の充実に触れないわけではない。しかし、それは社会保障政策の充実を重要視している国民・有権者に対するいわば「おまけ」、「隠れ蓑」、「リップサービス」であり、彼の軍事優先政策を実現するための有権者の瞞着にほからない。
 安倍氏が成長、名目GDP600兆円にこだわるのは、それが軍事費の拡大を許容することにつながるからである。GDPが名目であれ増加しないことには、国民の間での軍事費増は反感を買うだけである。そのことは、安倍氏もよく承知している。
 だが、安倍氏の場合には、それはきわめてわかりやすく演説等に現れている。その最大の目的が軍事(「強い国を取り戻す」)にあることは、氏の発言や具体的な政策項目にきわめてよく示されている。しかも、それはなりふりかまわず名目GDPを増やすための様々な資源を動員しようとする政策と結びついている。
 1,統計の動員(規準の改定など)
 もっともてっとりはやいのは、GDP統計の処理法である。これによって、かなりの程度のGDPの水増しが期待できる。実際、これは米国ではずっと以前から実施されてきたことであり、必ずしも新基軸ではない。もちろん、専門家は騙されないが、一般の国民すべてが専門家というわけではない。
 2,兵器輸出、原発輸出、観光業の促進
 安倍氏は、兵器であれ原発であれ、それが世界の平和運動に逆行しようと、いっさいおかまいなしに輸出を促進する。
 観光業もまた輸出サービスの一つである。その結果かどうかは別として、現在日本には中国や韓国を中心として東アジア、東南アジアから多数の観光客が日本を訪れいている。こうした政策志向が、安倍氏によって潜在的な敵国と見なされている(らしい)中国や、(安倍氏を熱烈に応援してきた)ネトウヨなどが嫌っている韓国からの観光客に依存しているいことは皮肉である。
 3,「一億総活躍社会」、労働の強制、企業に対する激=指令
 「働き方改革」などというと、ちょっと聞くと聞こえはよいかもしれないが、内実は「働かせ改革」となっている。労働者を「付加価値製造装置」なみに扱い、何としてもGDPを拡大してみせたいという安倍氏個人の期待がみえみえである。
 浜矩子氏がしているように、「同一労働同一賃金」も「世界一企業が自由にできる国」を標榜するだけあり、企業経営者の意向にそった制度構築に他ならない。労働に即した制度構築ではなく、企業の付加価値および利潤の産出に対する貢献という観点からの「同一労働同一賃金」がおよそどのような帰結をもたらすかは、はっきりしている。
 年金給付開始年齢を75歳に引きあげるという提案も、決して国民のためのものではない。たしかに、それは有権者の多くを反対に向かわせるのではなく、むしろ高齢者vs生産年齢人口との間に亀裂・対立をもたらす可能性(危険性)もある。しかし、現在の生産年齢人口も将来の高齢者である。それは年金制度の基礎を掘り崩し、その結果、現役世代の消費をけずってでも貯蓄をするという性向を高めるかもしれない。だが、その結果はさらなる消費の低迷と、その結果として生じる設備投資の低迷、労働生産性の停滞を導く確率・蓋然性がきわめて高い。
 安倍氏は、日本人が長期停滞の中で「自信」を失っており、その自信を取り戻させると言い、また明治や昭和の日本人に出来たことが現在の日本人にできないはずがないと檄をとばしているが、日本人が失ったのは「自信」などという心理的なレベルのことではない。もし失われたものが「自信」であるならば、たしかに「自信」をつけさせるのは大切なことであろう。
 しかし、本ブログでも述べてきたように、日本社会が失ったのは、橋本・小泉構造改革によって破壊された様々な領域における様々な制度である。その中でも、労働生産性の上昇を労働時間の縮小や賃金引き下げにつなげるような制度的破壊がすさまじい。人々はただこの制度的破壊に対応した行動をとっているにすぎない。
 政府は相も変わらず「トリクルダウン」の類推に頼っているが、そんなものは自動的には生じないし、生じる道理もない。経済は穴のあいた「たらい」ではない。たらいならが、降雨とともに雨水が下に漏れるだろう。しかし、企業が貯めたマネーは、企業が賃金(人件費)として従業員に配るように決定しない限り、いつまでたっても庶民にはまわってこない。こんなことは、中学生や高校生でも理解できる初歩的な事実である。いつまでも国民を騙し続けることはできない。(だから政府も公式の答弁では、トリクルダウンを否定している。)
 こうした状況の中で、「自信」を失っているからとして、「自信を取り戻しなさい」と檄をとばし、「一億総活躍社会」といって人々に労働を指示し、企業に指令する。現在では人は自分のことは自分で決める。そのための制度的な基礎を構築するのが政府の役割である。指示・指令は、余計なお節介であり、まるで一昔前のソ連のようだ。そこでは、党中央や中央の計画機関が様々なスローガンをかかげて檄をとばしていた。もっとも、それに対するめざましい反応はなかったため、ソ連は崩壊したのであるが・・・。

 

安倍氏の経済政策の経済的帰結 19 焦点は安倍・黒田後のことに

 アベノミクスの限界、「物価2%」6度目の先送り、黒田日銀での達成断念。
 
 今日(7/21)の東京新聞一面の見だしにはこのように書かれている。
 黒田総裁は、「デフレ心理が根強く残っている」とし、物価の伸び悩みは企業が商品・サービスの値上げや賃上げに慎重なためと繰り返した、そうな。また短期金利をマイナス0.1%とし、長期金利を0%に抑える現行の金融緩和策を据え置き、という会見のポイントも示されたようである。

 このような「リフレ論」が効果をあげることができない理由は、再三指摘してきたので、ここでは多くを繰り返さないが、「物価2%」目標について、あらためて次の2点を指摘しておきたい。

 1,もはやお題目とかした「物価2%」だが、これがアベノミクスの目標全体にとってどういう位置づけになるかを考えてみよう。安倍氏は、政権につくにあたって「長期停滞」「デフレ不況からの脱却」を政策目標としてあげていた。しかし、1990年代初頭からの日本の実質成長率は平均しても1%を超えていた。もしそれを「不況」と規定し、それを超える成長率、例えば2%ないし3%の成長率をターゲットとするならば、それは物価2%プラス実質成長率2ないし3%で、名目4%~5%もの成長率を目標としたことになるだろう。
 かりに低めに4%の名目成長率を実現していたとすれば、2013年初から2017年末の5年かにかけて、実に22%の国民粗所得の上昇をもたらしたことになる。もし賃金がそれと比例して増加したら、月収30万円の水準が36、7万に上昇したことになる。5%の名目成長率なら38万円を超える。これはすばらしいパフォーマンスというしかない。確かに安倍氏は「アベノミクスによって歴史に名を残す」ことになったであろう。
 もちろん、現実はミゼラブルであり、物価上昇のほとんどは、消費増税と輸入インフレによるものである。しかも、それらは両方とも、国内家計の可処分所得を減少させる方向に作用させるものであり、その限りで、またその程度におうじて成長にとってはマイナス要因である。これまで述べたことの繰り返しになるが、輸入インフレがなぜ国内家計の可処分所得を減少させるかと言えば、輸入インフレは外国商品の価格の上昇を意味し、それはとりもなおさず、日本人の支出増による外国人の所得の増加を意味する。
 このような輸入インフレによる可処分所得の減少は、かつて1970年代の石油危機に際してもっとも激しく生じた。それは、原油価格の激しい上昇を通じて、石油輸入国の可処分所得を2%ほど引き下げる結果をもたらした。その結果は激しいデフレ効果である。もちろん、石油輸出国では逆の効果が生まれたことは言うまでもない。
 ともあれ「物価2%」・「所得4%」という数字は、夢のまた夢というしかない。「黒田殿、ご乱心めされるな」とでも言いたくなうような数字、殿の正気さを疑わせるに十分な数字である。

 2,しかし、黒田氏は言うかもしれない。それこそ「デフレ心理が根強く残っている」ということに他ならない、と。また黒田氏は次のように考えているかもしれない。自分は絶対に正しい。間違っているのは、企業、家計(個人)の「期待」や「心理」であり、その心理さえちょとと変わるだけで、事態はよくなるはずだ、と。またこうも考えているかもしれない。人々(企業や個人)の正しい「期待」形成を邪魔するような経済学者が悪い、と。その場合、言うまでもなく、私のような人は悪い経済学者に入れられてしまうだろう。
 これは私の勝手な想像であり、そうではないかもしれないが、もし黒田氏がそう考えているとしたら、合理的な「期待」の形成を阻止する大きい力を一部の経済学者が持ったことになる。
 しかし、思い返してみると、2013年には、マスメディアでは、アベノミクスがどのような経路を通じて経済をふたたび力強く成長させるに到るかを解説するエコノミストたちが大活躍していた。彼らは、マスコミに登場することもなく、日影で活動していた経済学者よりはるかに人々の「期待」に影響を与えることができたはずである。しかるに、人々の「期待」が変わることはなかった。なぜか? 
 人々は、金融の領域における政策はそれだけでは「所得」「賃金」という実体経済の領域における制度・環境を変えることがありえないということを経験から感覚的に知っていたからである。家計が「デフレ心理」を抜け出すこともなく、消費を拡大することもなかったのはそのためである。他方、企業はそのような人々の心理と行動を織り込んで、経営を行い、賃金を決定する。たしかに、業を煮やした安倍首相の要請にもいったんは応えた。しかし、背に腹は変えられない。「その他の事情が同じならば」(other things being equal)、利潤の縮小を意味する賃金の引き上げなどにはそうそう簡単には応じられないからである。また賃金の引き上げを余儀なくさせるような力(例えば労働組合)も著しく弱い。こうして賃金所得が増加しないから、人々は(実質)消費を増やすこともない。かくして人々の「デフレ期待」が再生産される。

 さて、幻想は幻想にしかすぎないことが多くの人に知れわたってしまった。裸の王様は裸だということが広く知られたのである。
 安倍首相も終わり、黒田日銀も終わる。だが、その後に何が来るのであろうか?
 現在日本の経済政策をめぐる焦点はそこに移りつつある。 
 そして、その際、アベノミクスが終われば、それでよしというわけではない。その負の遺産が残されているからである。


2017年7月20日木曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 18 国家資本主義的統制経済か?

 佐和隆光氏の『経済学のすすめ』(岩波新書、2016年)は、いろんな意味で関心を引く良書であり、一読をお勧めしたいが、その中でアベノミクス(安倍氏の経済政策)について触れたところがある(98ー100ページ)。
 最初にその箇所を要約しておこう。
 一体アベノミクスは「新古典派」なのか、「ケインズ派」なのか、と問題提起したのち、佐和氏はそのどちらでもないとして、「国家資本主義」と断定する。その証左は次の通りである。
 1,日銀のインフレターゲット論は、個人や企業の(期待や行動の)多様性を認めない新古典派仮説の典型であり、上位下達の愚民政策である。
 2,インフレ期待が成長と賃金上昇に結びつかないことに業を煮やした政府は、経団連に賃金引き上げを要請した。労使交渉に政府が介入するという前代未聞の挙。(国家主義の一連)
 3,政策が「期待」という人により異なる要素に依存しているため、政府は、マスメディアにおけるエコノミストの発言に用心深くなっている。冷水をあびせるような発言を封印しようとしてきた。(メディア、市民監視の一例)

 安倍氏の政策運営は、法案の強行採決に見られる通り、自由主義と民主主義を踏みにじるという点で異例きわまりない。安倍国家主義への懸念は、いまや日本国内を越えて国際的なものとなっている。その一例はフィナンシャル・タイムズの社説「安倍の国家主義のゆくえを懸念する--NHKの国家統制を憂う」である。

 結論。中曽根・小泉元首相は保守主義者であり、社会的・政治的には秩序と伝統を重んじるが、経済的には徹底した自由主義者(新自由主義者、構造改革論者)だったが、安倍晋三氏は、社会的・政治的には両元首相と立場を同じくするが、その経済政策は政府主導の統制色が強い。

 私も基本的には、この佐和氏と同じように、安倍経済政策の国家主義的色彩を強調しておきたいと思う。
 しかし、若干注意が必要なのは、佐和氏も否定しないと思うが、安倍晋三氏は決して「新自由主義的」な政策をイデオロギーとして全面的に放棄したわけでは決してないことである。
 そもそも「新自由主義」政策に対して財界から決して強い批判が出てこなかったこと、むしろ現在でもそれを推進すべきという声が強いのは、新自由主義が大企業の利益にマッチしているからであり、その限りにおいて、である。法人税や企業の社会負担に対する不満が(場合によっては、それを理由とした脅しが)並べられるのは、そのことを明確に示している。
 このように一方で新自由主義を声高く唱えながら、他方では富裕者、特に大企業の経営者、株主、金融関係者の利害を忖度するのは、現在の資本主義経済の常である。
 このことを明確に指摘したのは、米国では、ジェームス・ガルブレイス氏の『プレデター国家』(2008年)であった。すでに20世紀末から米国の保守派・プレデター(捕食者たち)は、「自由市場」を放棄している。それは依然として彼らのキャッチ・コピーではあっても、彼らと国家権力との癒着が進行している。これがガルブレイス氏の結論であった。またガルブレイス氏は言う。彼らは、軍事支出の拡大はもちろん、社会保障(年金)、教育に対する政府支出などに必ずしも反対しない。もちろん、それが彼らの利益に奉仕するからであり、その限り、その程度に応じてである。しかも、その際、もし必要とあれば、「自由市場」の効用を宣伝することもいとわない。

 これが現在米国や日本で進行中の事態であることを心に銘記するべきであろう。

「日本列島における人口と家族の歴史」新規建設中のホームページに移転

 日本列島における人口と家族の歴史は、新規建設中のホームページ(学術研究のサイト)に移転します。
 現在、ホームページ自体を建設中ですが、ある程度進行しましたら、サイト名を含めてお知らせします。

 

2017年7月19日水曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 18 異次元の量的緩和 日本一人旅

 一つのよく知られた図がある。
 日欧米の中央銀行の総資産(GDP比)の推移を示すものである。
 すでに2012年までの時点で、日銀は欧米の中央銀行(FRB、ECB)以上の量的緩和を実施していた。その後、黒田日銀の下で、異常ともいえる金融緩和が行われてきた。その方法は、国債購入やETFであり、その結果、日銀はほぼGDPに等しい額の資産(国債、ETF,融資など)を保有するに到っている。
 そのような中で、GDPの1/4ほどに相当する資産を持つにすぎない(!?)FRBが保有資産の圧縮に踏み切る。欧州もその下地をこしらえている。
 しかし、黒田日銀は、ずっと前に達成するはずだった「デフレ不況」克服を達成できずに、達成時期を先に、先にと何度も延長してきた。まだまだ、日銀の保有資産がGDPの(例えば)二倍になっても続けるつもりだろうか?
 FACTAが「緩和日本」一人旅と指摘するとおりである。
  

FRB「資産圧縮」前倒し開始欧、英、加が金融引き締めの下地をこしらえる中、いよいよ米イエレンが保有資産圧縮に踏み切る。「緩和日本」一人旅。

https://facta.co.jp/article/201708010.html

 FACTAの記事は述べる。
 「今や一人旅となったのは日本。本来なら米欧に合わせて、長期金利をある程度上振れさせたいというのが、日銀事務方のココロだろう。だが、肝心の消費者物価はようやくマイナス圏を脱したばかり。都議選の大敗で安倍晋三政権の先行きも覚束ないなかで、金融政策のかじ取りの変更など日程に上るべくもない。マネーの蛇口を開きっぱなしなのは、日本だけ。周回遅れの余剰マネーの向かう先はどこなのだろうか。」

 この文章にも気になるところがないわけではないが、不安は不安である。仮に大量の国債とETFをかかえた日銀が債権価格の低下によって債務超過になった場合、どのような事態になるのだろか?
 たしかに現実は不確実であり、人々は必ずしも合理的に行動するわけではないがゆえに、破綻がいますぐ来るわけではないとしても、私たちが異常な事態の中にいることは間違いないだろう。

 

2017年7月18日火曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 17 「賃金単位」と労働生産性、他の指数の推移に見る

 「長期停滞」、「デフレ不況」といわれてきたものの実態を分析するために、最初に分析の道具を紹介しておきたい。 

 その道具は、ケインズの「物価の理論」にある。
 J・M・ケインズは、『一般理論』第21章「物価の理論」の最後の文(結論)で次のように述べている。

 物価が長期的に見て安定的になるか不安定的になるかは、賃金単位(もっと正確に言えば、費用単位)が生産体系の能率の上昇率に比してどの程度の上昇傾向を持つかに依存している。

 この文章は、ちょっと読んだだけではわかりにくいかもしれないけれども、物価、つまり商品(財やサービス)の価格が長期的にみて上昇するか、下落するかは、「賃金単位」と「生産体系の能率」の変化によって決まるという趣旨である。
 これは、ケインズが「貨幣数量説」を根本的に否定している一節でもあり、重要なので、少し詳しく説明しておきたい。彼は、物価が所得・費用と密接に関係していると考えていたが、この観点からは物価の式が次のように説明できる。

  P=(M+D+E+R)/Q     (/は割り算、または分数を示す)

 ここで示した記号の意味は次の通り。
 Pは物価を表す。個々の商品の物価と考えてもよく、社会全体の全商品の平均、つまり物価水準と考えてもかまわないが、以下のM、D、E、R、Qもそれに応じて使い分けなければならない。ここでは、社会全体を考ええる。
 Mは、商品を生産するために使用した原材料、エネルギー費用などの流動費を表す。
 Dは、同じく生産に使用した固定資本の費用、すなわち減価償却費を表す。
 Eは、その商品を生産するのに支出した人件費、つまり賃金総額を示す。
 Rは、その商品の生産・販売によって実現される利潤を示す。
 Qは、その商品の生産量を表す。

 ここで、MとDは物的費用だが、外国との取引を考えない閉鎖経済を前提とすると、基本的には国内の賃金と利潤に還元される。(原材料も機械も企業によって生産される商品であり、その費用も終局的には賃金と利潤に分解される。)
 そこで上の式はさらに縮めて次のようになる。
  P=(E+R)/Q
 ここで利潤Rを賃金総額Eの一定割合α(<1 となるのが普通)で示すと、
  P=(E+αE)/Q=E(1+α)/Q
 さらに、ここで賃金総額Eをケインズの意味する「賃金単位」で示すと、彼の定義では、「賃金単位」Wは、賃金総額Eを雇用量(つまり時間や人数で計測した雇用量)Nで割ったものに等しいので(つまり「賃金単位」とは一種の平均賃金率のことです)、
  W=E/N
 よって E=WN となる。
 これを上の式に代入すると、
  P=WN(1+α)/Q =W(1+α)/(Q/N)

 ところが、この式で Q/N とは、「生産体系の能率」あるいは労働生産性(雇用一単位あたりの生産量)のことに他ならないので、この労働生産性をβで示すと、最終的に次の式が導かれる。
  P=W(1+α)/β

 これは α が一定とすると、まさに「生産体系の能率」(労働生産性)よりも「賃金単位」のほうがより上がれば、物価が上がることを示し、逆は逆であることを示す。
 もちろん、α は一定とは限らず、利潤率も変化するかもしれないので、上の文では「もっと正確に言えば、費用単位」という表現が出てきたのである。

 このことからも、ケインズが「貨幣数量説」を否定し、所得・費用をめぐるコンフリクト(紛争・摩擦)中心に据えた「物価の理論」を構築していたことがよくわかる。(ただし、現実の経済では、外国との取引が行われているので、物価の上昇が外国における賃金単位の上昇の影響をうけていたり(輸入インフレ)、逆に物価の低下が外国における賃金単位の低下の影響を受けている(輸入デフレ)可能性もある。)
 
 ところで、日本では、1997年から長期停滞が生じ、それを「デフレ不況」と呼ぶ人もいた。デフレとは、物価水準が持続的に低下することを言う。
 したがってケインズの「物価の理論」からすれば、賃金単位の長期にわたる低下が生じていたことになるが、これは実際に統計的に示すことがでる。
 いま政府の「国民経済計算」から、賃金総額(E)、実質GDP(Q)、「法人企業統計」から企業の経常利潤(R)*を、労働力統計から雇用量(雇用者数、N)を得て、そこからさらに労働生産性(β)、価格指数(P)、賃金に対する利潤の割合(α)を推計すると、次のような図が得られる。
 *企業の利潤総額を示すことは難しいが、さしあたり概数を得るために、法人企業統計の税引き前利潤に1.2をかけ、金融業を含む全産業の利潤とした。
 以上の数値はたしかに概数であり、より正確な数値に変えることが望ましいが、現在の日本の統計の状況では難しい。
 



 まず上図は、労働生産性(β)が2007年頃まで上昇しているのに、賃金単位(W)が1998年から着実に低下していることを示している。これは、下図に示すような、物価水準の低下と連動している。ただし、2002、2003年頃からは物価水準(P)がわずかに上昇しているが、これは α (したがって利潤)の急上昇によって説明される。α は利潤を賃金総額に対する割合で示したものである。それが上昇していることは、言うまでもなく利潤シェアが拡大し、利潤(R)そのものも増加したことを意味している。当時の小泉構造改革の下で、賃金単位(W)が低下するのを尻目に、大企業は利潤を増やし、内部留保を拡大していたのである。
 そして、その後の米国・欧州金融崩壊の中で、賃金総額はさらに下落する。
 だが、この頃から企業の設備投資が停滞しはじめ、労働生産性(β)も停滞の様相を色濃くしはじめる。労働生産性の低下は、安倍政権の下でも続いており、むしろ労働生産性の停滞が安倍政権時代の特徴だといってもよい。
 一方、物価水準(P)の動向を見ると、低下が見られない(!)ばかりか、上昇傾向を示している。だが、これは次のように説明される。
 第一に、労働生産性の停滞の状況下で、円安・ドル高による輸入インフレが生じた。このとき、もし貨幣賃金率がそのままであれば、実質賃金の大幅低下は免れない。しかし、安倍首相は経営者団体との談合によって大企業の一定度の引き上げを実施した。だが、すでに明らかにしたように、それは大企業自体の実質賃金を引きあげるにも足りなかった。
 第二に、それ以上に注目されるのは、巨大企業の利潤の増加である。それは図では α の増加(2012年から2013年にかけての再度の上昇)にはっきりと示されている。要するに、企業所得=費用の増加が価格低下を「ふせぐ」という構造である。これは、安倍政権で格差が拡大していることや、企業の内部留保が拡大していることを説明するものでもある。

安倍氏の経済政策の経済的帰結 16 安倍を支えたリフレ派ブレインたちの言い訳

 現在、アベノミクスをかつて支持していた「ブレイン」たちの言い訳があちこちでなされている。
 その一人、浜田宏一氏や岩田規久男の言い訳を紹介し、批判したサイトを一つだけ紹介しよう。
 
Money Voice
http://www.mag2.com/p/money/27546
 
   そもそも「物価は貨幣現象」というのが、浜田氏や岩田氏、黒田氏などの「リフレ派」の主張だった。
 もちろん、物価が貨幣に密接に関連した現象であることは、誰も否定していない。問題は、「貨幣現象」という表現を超えたことを、彼らが主張していることである。彼らの主張は、むしろ「貨幣数量説」と呼ぶ方が正確である。
 では、貨幣数量説とは何か? それは物価水準が貨幣ストック(市場に供給されている貨幣量の総額)によって決定されるというアイデア、教義である。それは次のきわめてシンプルな数式によって示される。
   PQ=MV
 この式で、Mは貨幣量、Vはその流通速度(年を単位とすれば、その平均使用回数)、Pは物価水準、Qは財やサービスの生産量である。
 ここで定義より、MVは(一定期間内の)総流通高、PQは(同じ期間内の)総生産高となる。両者は、一定期間内には均衡する(等しい)と考えると、上の式が導かれる。
 次に、両辺をQで割り、P=MV/Qという式が得られる。
 次に、貨幣数量説の論者は、次のように言う。
 1)貨幣量Mが増加すれば、それに比例して、物価水準Pは上がる。
 2)流通速度Vは、ほぼ一定である。
 3)生産量Qが増えるとき、それに比例して貨幣量Mが増えれば、物価は一定である。
  (生産量の成長率より貨幣量の成長率が高いときに、物価水準は上昇する。)

 しかし、この一見して正しそうな議論は、様々な現実離れした想定をしなければ成立しない。一ダース以上あるが、そのうち、最重要なものだけをピックアップしよう。
 1)流通速度Vは変化しない。(V一定の想定)
 2)貨幣量が原因(独立変数)であり、物価水準が結果(従属変数)である。
   (因果関係の<貨幣→物価>の方向)
 3)貨幣量は、現実の経済社会の諸要因とは独立に、中央銀行によって自由に決定されうる。(いわゆるヘリコプターマネー論)
 4)貨幣量は、実体経済(Q)の変化に対して「中立的」である。(これが本来の、つまりフリードマンの「貨幣数量説」の見解だったことに注意。)
 5)貨幣は、財やサービスの取引にのみ用いられ、資産の取引には用いられない。(少なくとも、上式の前提はそうである。つまり資産取引を視野に入れると上式は成立しない。)
 
 しかし、実際にはこれらはとうてい成立しそうもない。
 1)流通速度がかなりの短期間に変化することは、しばしば見られたことである。
 2)これについては、あとで詳しく述べよう。
 3)貨幣量は、現実の社会経済的諸要因とは独立に、中央銀行によって自由に決定されるわけではない。このことは、今回のアベノミクス(異次元の金融緩和)によっても示されたが、中央銀行がかなり自由に決定することができるのは、ベースマネー、つまり中央銀行が市中銀行に供給するマネー部分だけである。実際、この数年間にベースマネーは日銀の国債購入によって異常に拡大した。しかし、市中銀行が社会(企業、家計等)に供給する貨幣量(貨幣ストック)は、それほど増えていない。またインフレーションが生じたわけでもない。現実の貨幣量に大きい影響を与える社会経済的諸要因については、これまでも指摘してきたが、今後も指摘することとなろう。
 4)浜田氏や岩田氏は、物価上昇が景気をよくすると述べるが、厳密に言えば、このような見解は元祖「貨幣数量説」のフリードマンのものではない。それはFRB議長を務めたバーナンキの思想・政策に由来する。その思想は、カルトじみたものであり、簡単には、インフレ期待が人々によって持たれるならば、人々は成長を確信して消費支出を拡大することになると要約される。
 しかし、はたして中央銀行の政策が人々に同じインフレ期待をもたせるに至り、その結果また同じく一様に成長期待を持つと言えるだろうか? ガルブレイスが彼の思想・政策を「バーナンケンシュタイ」と揶揄する所以である。
 5)「マネー経営資本主義」がくびきから解き放たれた現在、巨額のマネーが資産取引にむかっていることは、ことによると中学生や高校生でも知っているだろう。
 ところが、多くの財やサービスの取引と異なって、資産取引では、需要と供給のバランスが大きく資産価格を変動させる。資産を購入するために多量の資産購入資金が資産市場に投じられれば、それは資産バブルをひきおこすことになる。それはただで純利得(kゃやピタルゲイン)をもたらす。だが何らかのきっかけでいったん資産価格が下落し、純損失(キャピタルロス)が予想されるや、多量の資金が逃避し、資産価格をいっそう暴落させることになる。
 貨幣量の増加が、財やサービスの物価上昇ではなく、資産価格の異常な上昇(バブル)をもたらしたことは、1980年代末に日本人が経験したところである。

 ここでよく考えてみよう。貨幣数量説の説くところは、「物価水準」、つまり諸物価の一種の平均値にすぎない。ところが、実際には、個々の財やサービスによって価格はまちまちに変動(上がり、下がり)する。このような個別商品の価格変動を説明できない欠陥理論が「貨幣数量説」である。
 それでは、それに代わる物価の説明理論は、あるのか? もちろん、ある。それは費用=所得の理論である。
 ちょっと考えればわかることだが、私たちがモノを生産し、他の人に提供するのは所得を得るためである。もちろん、Aにとっての所得は、Bにとっての負担(費用)となる。
 人が市場経済のルールにそって所得を増やすためには、供給量を増やすか、価格を引きあげるかするしかない。このことを示すために、場面・必要に応じて、様々なモデルを提示することが可能だが、ここでは、賃金(労働者の所得)および利潤(企業の所得)と物価との関係を示しておこう。 
  P=(W+R)/Q 
 ここで、Pは個別の商品の価格、Wはそれを生産するのに要した人件費(賃金)、Rはその生産と供給によって実現した利潤である。ここでは、簡単のため、生産に必要な原材料費や設備投資(減価償却)は省略する。これはズバリ、生産費(利潤を含む)を産出量で割ったものである。例えば100万円で販売した商品の生産量が100単位であれば、一単位の価格は1万円となる。
 その際、企業が製品価格を安くするためには、人件費か利潤を減らせばよい。そうすれば、売れ行きが増え、結果的には、賃金も利潤もそれほど減らないかもしれないし、場合によっては増えるかもしれない。逆に、人件費や利潤を増やそうとして、価格を引きあげた場合、売れ行きが減ってしまい、目的を達成できないかもしれない。
 しかし、すべては不確実である。そのため、企業は簡単には価格を引きあげたり、引き下げたりしたがらない。重要なことは、価格は、人々の所得および支出(負担、費用)と密接に関係していることである。
 もちろん1997年以降の長期停滞--「リフレ論者」が「デフレ不況」と呼んできたものーーは、こうしたことと密接に関係しているのである。
 「異次元の金融緩和」は失敗するべくして、失敗したといわなければならない。
 繰り返すが、それは人々の所得と支出に関する状況を無視して、中央銀行のマネタリーベースをいじったにすぎない。
  
 「リフレ論者」がどのような見苦しい言い訳をしているかは、本ブログの本来の趣旨ではないので、あえて詳しくは紹介しないが、最初にあげたサイトをよく呼んで欲しい。
 彼らは、そうならなかった「偶発的な事情」をことさら強調するが、それらはいずれも理論の破綻を示すものに他ならない。
 安倍首相が白川日銀に圧力をかけ、白川総裁をやめさせ、黒田氏に交替させて実現した異次元の金融緩和だったが、黒田氏の約束した期限がとうに過ぎたにもかかわらず、適度なインフレとすばらしい経済成長、実質賃金の上昇は生まれていない。
 彼らは失敗したとは言えないので、「道半ば」、「失敗していない」などと取り繕うばかりである。黒田氏など、すでにリフレ政策を実施していた白川総裁に対して、期限を明示していないと非難していたが、その黒田氏の明示した期限はとうに過ぎている。すると、彼はその期限をさらに先に延ばし、先に延ばししてきた。「モラルハザード」もいいところである。
 誠実であるならば、「私が間違っていました」と言うべきだろう。















 

安倍氏の経済政策の経済的帰結 15 世論調査と選挙の社会学

 すこし古くなってしまったが、民主党がなぜ選挙で敗れ、自民党が勝ってきたのか、なぜ日本のリベラル左派は政治的に大きな力を発揮できないのか、これについて宮崎駿氏がイギリスのタイムズ紙のインタビューに応じ、答えている(2015年7月14日)。
イギリスのTIMES誌です。安倍首相に関しては、よく分からない部分があります。たとえば原発問題などの世論調査を見ると彼の人気は低いが、選挙では自民党が勝ってきました。宮崎監督もどちらかというとリベラルに属していると思いますが、なぜ日本の左派の人々は政治的に大きな力を発揮できないんでしょうか?宮崎駿さん「民主党の最初の総理は、沖縄の基地の問題についても日本全体で背負うべきであって、『沖縄だけに負担させるのは間違いである』と、はっきり言った方です。でも、たちまち党内の勢力争いの中で、引きずり降ろされてしまいました。その後、地震と原発が立て続けに(日本を)災厄が見舞って、その混乱の中で、とうとう自民党政権がずっとやりたくもできなかった消費税(引き上げ)を民主党が決めるハメになってしまったんです。この結果、長い政治的な無力感と不信感がこの国にはびこったのだと思います。自民党は過半数以上の支持を得たのではなくて、多くの人間が投票しなかったことによって、天下を取ったんです。ですから、これはまた変わります。永続的なものではないと思います。安倍首相は自分が『憲法の解釈を変えた偉大な男』として歴史に名を残したいと思っているのでしょうが、愚劣なことだと僕は思っています」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/13/miyazaki-hayao-vs-abe_n_7789934.html

 「政治的無力感と不信感」が日本にはびこったこと、多くの人間が投票しなかったことによって、自民党が選挙で勝ったにすぎない。この意見に私も賛成である。
 しかも、「政治的無力感と不信感」とは、長い自民党政権時代につくられてきたものである。沖縄をはじめとつる米軍基地の存在、原発事故、法人税減税・所得税の限界減税による財政赤字・政府粗債務の拡大、消費増税だけに依存する租税のフラット化、人口減少、富と所得の格差拡大、非正規低賃金労働の拡大、金融危機とその要因(金融自由化と資産バブル)、失業率の上昇、消えた年金問題・・・・・・
 数え上げればキリがない。これらの問題に自民党政権がかかわっていないものがあるだろうか?
 
 これらの諸問題を民主党政権は、けっして上手にとはいわないが、誠実に取り組もうとしていたことだけは確かである。しかし、震災と原発が日本を襲い、財務省と自民党がやりたくてもできなかった消費増税を民主党(野田政権)が決定するハメになってしまった。そしてマスコミよる集中砲火。これは財務省と自民党の思うツボだった。
 案の定、自民党(安倍晋三)は、消費増税という成果を他党の不評を犠牲にして手に入れ、しかも、それによって歳入が増加し、毎年の公債発行額を減少することに成功したことまで、自分の功績にしてしまった。だが、安倍首相はそれを部分的に台無しにする政策を実施さえしている。それは法人税の減税である。これは大企業の利潤と内部留保を増やしこそすれ、国民や財政健全化にとってはマイナスの役割しかはたさない代物である。
 しかも、安倍政権の下で、上にかかげた問題はそのまま手をつけられずに残されている。
 最近になって安倍内閣の支持率は急速に低下し、現在「危険水域」といわれるところ(もっとも低い調査では20パーセント台)にまで落ち込んでいる。それはようやく(というのが私の思いだが)、国民の多くが安倍晋三氏の姑息さ(政治の私物化)に気づいてきたからであろう。
 こうなる前には安倍内閣の支持率は比較的高い水準にあった。ただし、その際でも、当該世論調査をよく読むと、それが安倍政権の政策やそのパフォーマンスを積極的に支持するというものではなく、まったく消極的な支持(なんとなく、他によい人がいないらしい)にすぎなかったことがわかる。政治、外交、社会、文化など、どの項目をとってみても、「支持者」の間でも哀れなほどに低い評価が与えられていた。
 したがって次に掲げるような「軍事化」や「政治の私物化」など反国民的姿勢が明らかになるや、支持率が急落することは当然のことだったということができる。
 
 特定機密保護法の強行採決
 安保法制(本質的には、戦争する国に日本を変える戦争法)の強行採決
 共謀法(何をしたら犯罪として罰せられるか不明な国民・市民監視法)の強行採決
 選挙を理由とした虚偽
  TPPについての選挙前後の豹変
  消費増税に関する選挙を理由とする豹変
  五輪招致の際の福島原発「アンダーコントロール」発言
 財政健全化を名目した消費増税、個人負担増の裏で行われている法人税減税など
 原発、兵器輸出の促進
 マネー資本主義、カジノなどの推進
 安倍友の優遇(森友学園、加計学園、メディア関係者)
  公文書の隠滅など
  省庁、警察に関する圧力(安倍友の優遇と反対者の処分など)
  慢性的な虚偽報告を含む
 お友達内閣の国会内外における失態・失言
 マスメディアに対する圧力(NHKの籾井会長問題など)
 国民を過労に導く「働き方改革」の宣伝
 非正規雇用を常態化させる法律の制定
 
 このような反国民的政策を行いつつ、安倍政権は、支持率の低下を恐れて、中国・韓国・北朝鮮をダシにして国民を煽ることをわすれなかった。しかし、これについて、ここでは簡単にとどめなければならないが、自衛隊を先制攻撃も辞さない軍隊に変え、実際に(韓国はもちろん)中国や北朝鮮と戦争することを本気で考えている人はほとんどいないであろう。思い出せば、尖閣問題をことさら全面に出し、中国との関係悪化の引き金を引いたのは、あの右翼の石原慎太郎氏であった。また北朝鮮がターゲットにしているのは、1953年の休戦協定以来ずっと北朝鮮にとって脅威をなしてきた米国であった。その北朝鮮を日米が軍事的に刺激しながら、ミサイル実験が行われると、あたかも日本が攻撃されるかのように煽ってきたのが安倍政権だった。しかし、もし本当に米軍が北を先制攻撃したならば、その場合には、何があってもおかしくないだろう。そのような危険を冒すほど愚かしいことはない。

 しかし、多くの人々は安倍晋三氏の本当の目的と彼による「政治の私物化」に気づき、そのことによって幻想から解放されてきた。いずれによせ、安倍政権の命脈は長くないだろう。私たちは、それを早く終わらせ、それと同時に安倍氏の本当のねらい(自衛隊を戦争する軍隊に変えるための改憲)という「第四の矢」(毒矢)のために利用されてきた「アベノミクス」--この社会的、経済的も有害な政策--を終わらせなければならない。
 「アベノミクス」。この安倍氏の経済政策を意味する言葉は、安倍晋三氏自身の造語ではなく、どうもマスコミによる造語らしいが、「第四の矢」(毒矢)を実現するために、宣伝用として利用されてきた。またそれは当初こそその目的にある程度まで--人々の生活をよくすることによってではなく、幻想に支えられてー-貢献してきた。しかし、いまやそれがまやかしであることも明らかになっている。

2017年7月17日月曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 14 日本経済は英米独仏の経済とどう異なっているか?

 かつて安倍首相は、「私の名はアベノミクスによって歴史に残る」と語ったそうだが、たしかにネガティブな意味ではそうだろう。

 かつてある社会科学者が述べたように、人間は歴史を作るが、自由に作ることができるわけではない。与えられた条件の中で、またそのときどきの歴史的・制度的条件によって制約された手段を用いて作ることができるだけである。
 したがって何かを変えるために政策を打ち出す者は、最初に現状を分析し、所与の条件や利用できる手段の妥当性を検証しなければならない。しかし、安倍氏には、これらの必要条件とも言えることを行う能力が欠如している。「云々」という感じを「でんでん」と読むのはまだ無害であり、許容しうる。だが、政策立案に能力の欠如については、決して許すことができない。
 
 さて、同じ資本主義経済でも各地域、各国によって大きな歴史的環境・条件の相違、制度的相違があり、それが人々の経済活動の結果、パフォーマンスに大きい相違をもたらすことはよく知られている。そうした制度的相違は、労働慣行、企業統治、財政・社会保障制度、医療制度、金融制度など、あらゆる社会経済領域にわたっているが、ここでは、さしあたり人口と労使関係における相違をとりあげておこう。

 広く人々に周知となっているかどうかはわからないが、現在、人口の成長率には、専心資本主義諸国の間でも、大きい相違が認められる。大雑把に言えば、英米仏、それに北欧(スカンジナビア諸国)の出生率(fertility、合計特殊出生率)がほぼ  2.0 の水準にあり、人口が長期にわたって維持される条件を満たしている(当面については、人口成長が見込まれる)のに対して、日本、ドイツ、イタリアではかなり低い(ルーズに言えば、1.3前後の数値を示している)。
 このように先進諸国が人口成長率の点で大きく二分され、英米仏 対 日独伊という対照は、第二次世界大戦の構図を思い出させるが、それはともかく、その理由・事情は、複雑な社会政治経済文化的要因と関連しており、簡単には説明できない。そこでその説明は他日を期すこととして、ここでは所与として措こう。一方では、人口はわずかながら増加すするグループがあり、他方では停滞または減少しつつあるグループがあるわけである。
 ここで、労働人口(生産年齢人口)一人あたりの成長率が同じ、例えば低めに1パーセントと想定する。このように一人あたりの成長率が同じでも、社会全体の成長率は、英米仏などでは1パーセントより高くなり(例えば2パーセント)、日独伊などでは、1パーセントより低くなる(例えば0パーセント)。もちろん、理論上、後者でも高い成長率を達成することは不可能ではないが、それは一人あたりのより高い成長率の実現を前提とする。
 人口増加率、つまり出生率(fertility)を引きあげるための諸政策をとたらどうかとも考えられる。しかし、かりに今から恒常的に出生数が飛躍的に増え、出生率が2.0になったとしても、今年出生した乳児が労働市場に登場するのは20年後であり、日本全体の生産年齢人口が増えたと実感できるようになるためには、30~40年はかかるだろう。
 さて、こうした相違は、後者(日独伊)の場合、かなりやっかいな問題を惹起する可能性(注意。可能性ですが、その蓋然性は高い)がある。それは企業全体の労働力の縮小であり、利潤の縮小である。言うまでもなく、「競争的市場」の中で営まれているここの企業は、こうした縮小する労働力や利潤を平等にシェアーすることができるわけでは決してない。確かに、シュンペテリアンの吉川洋氏(『人口と日本経済』中公新書、2016年)が楽観的に語るように企業者がアニマルスピリットを発揮して行う「イノベーション」に期待できる部分もあろう。しかし、楽観的になるためには、一定のかなり厳しい条件が必要となり、その条件を企業社会が全体として満たすとは限らない。
 考えられる危険な経過は、個別の会社が競争的市場の中で、自社の生き残りをかけて、労働力と利潤の奪い合いを行うことである。それにもっとも成功する個々の会社は、低賃金の従業員を多数確保する会社(多分にブラックな会社)ということになるだろう。もちろん、失敗する会社は、競争的市場から退場するしかない。もちろん、これは最悪の経路であろう。しかし、それにリアリティがないわけではない。
 目下のところ、日本で生じているのは、女性の就業者の増加である。2013年から現時点までに男性の就業者(正規、非正規)の数はほとんど変わっていないが、女性の就業者数(正規、非正規)はかなりのペースで増えている。しかし、そのような増加には限度があり、数年以内にはピークに達するだろう。

 いまひとつの相違、労使関係について見ておこう。
 今後は人口論的には、同じグループに属するドイツと比べてみることとする。
 端的に言って、この点におけるドイツと日本との相違は、従業員・労働組合の賃金交渉力の相違である。もちろん、19世紀以来の労働組合運動の伝統、1918年のドイツ革命にはじまる労働者の政治的力の成長、戦後の一連の労働保護立法などの要因によって、ドイツの労働組合の中央組織は、強い交渉力を持っている。これに反して、1980年代以降、日本の労働組合は力を失ってきた。その一つの理由が国鉄などの民営化による労働組合の弱体化にあり、またそもそも日本の労働組合が産業別・職業別組合ではなく、基本的に「企業別組合」(外国語風に言えば「会社組合」。この言葉は英米では御用組合を意味する)であり、特有の脆弱性を持っていたことである。
 ドイツでは、経営者は労働組合の強い交渉力のために貨幣賃金(名目賃金)を引きあげることを余儀なくされる。これは、日本の貨幣賃金が1997年以降ずっと趨勢的に低下してきたのと好対照をなしている。日本について「長期デフレ」を語ることができるとしたら、それはこの賃金低下による。要するに日本の「デフレ不況」と言われているものは、本質的に「賃金デフレ」である。その結果、国全体の消費需要が縮小し、経済が停滞してきたことはすでに述べた通りである。ドイツには、この「賃金デフレ」はなかった。
 賃金が上がるためには、労働側に経営者に対する「対抗力」(counterveiling power)がなければならない。
 とはいえ、ドイツの労働組合にも一つの大きい弱点がある。それは日本とかなり相違して(日本に流通している常識と反するかもしれないが)、ドイツ経済が戦後一貫して輸出志向的(新重商主義的)であり、その輸出依存度がかなり高かったことである。このことは、ドイツの職・雇用が輸出に大きく左右されていたことを意味する。そこで、次のようなことが生じる。
 もし賃金上昇率が労働生産性の成長率を超えると、この単位労働費用の増加は、輸出製品の価格を引きあげ、ドイツの輸出量(対EU、対米)を減らす危険性があった。または少なくとも、そのように当局(政府、中央銀行=ドイツ連邦銀行)に認識されていた。そこで、貨幣賃金の一定程度以上の上昇が、その結果、高いインフレ(例えば2パーセント)が生じそうになると、中央銀行は、金利を引きあげる。それは景気を悪化させるだろうが、同時に賃金の引き上げに対する抑止策として作用する。
 以上である。

 さて、アベノミクスと称するものには、貨幣賃金の引き上げを許容するような、あるいは促進するような新たな制度的装置がつけ加えられただろうか?
 答は、ノーである。前に書いたように、彼は自分の政治的支持率を上げるために、財界と談合を行い、賃金引き上げを演出したにすぎない。アベノミクスは失敗するべく運命づけられていたのである。
 
 
 
 
 
 

 

 


 
 
 







2017年7月16日日曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 13 金融資本主義/マネー資本主義は資本主義経済の本性

 安倍氏の経済政策の一つの帰結は、金融資本主義/マネー資本主義を煽ったことにある。
 日本社会は、1980年代末の資産バブル、1990年代初頭以降のバブル崩壊、度重なる金融危機、長期停滞(といっても成長率が1980年代よりは低かったとしても、いまよりははるかに高かった)、不良債権処理、失業率の上昇、非正規雇用の拡大、名目賃金の低下、等々の出来事に見舞われ、すっかり自信を失ってしまったようである。
 本来ならば、(1)資産バブル→金融危機(金融崩壊)の要因、(2)実体経済の毀損(賃金低下、高失業、非正規雇用拡大など)の要因をきちんと分析し、生来にむけてきちんとしたビジョンを提示しなければならないはずである。
 ところが、そうはならず、相も変わらず、金融資本主義/マネー資本主義の幻想にとらわれ、金融資本主義をすすめることが実体経済の成長を促進すると信じている人が多い。国民にビジョンを提示するべき政治家の中にもそのような人は多くいる。安倍首相もその一人である。
 一体、どうして金融資本主義の幻想にとらわれてしますのだろうか?
 それに答える前に、イソップ寓話から「サソリと蛙の話」を紹介しておこう。それは、こんな内容である。 

 サソリが川岸で蛙に出会い、背中に乗せて向こう岸まで運んでと頼んだ。「でも君は僕を刺すんじゃないか?」と蛙が言うと、サソリは「そんなことをしたら、二人とも沈んでしまうよ」と答えた。そこで蛙はサソリを背中に乗せて川を渡りはじめたが、川の真ん中まで来ると、サソリは蛙を刺した。「どうしてそんなことをするんだ! 二人とも死んでしまうじゃないか」と蛙が言うと、サソリは答えた。「しかたないんだ。それが僕の性質(本性)なんだ。」

これは、米国で金融資本主義/マネー資本主義を研究している人たちの間では知れ渡っている寓話だが、まさに上記の問いに対する答えとなっている。金融資本主義は、いかに有害であっても、
資本主義社会(生産様式)から取り除くことが難しく、その上、実体経済に害を与える「性質」「本性」(nature)のものである。すなわち「貨幣愛」や「強欲」に根を持つ金融資本主義は、歴史上、繰り返し台頭するが、それが暴走し危機におちいると、金融資本主義を支えている実体経済も沈没し、ともに崩壊の危機を迎える。
 資本主義は、こうしたやっかいな性質を持つにもかかわらず、それを抑制するのが困難である。これがヴェブレン、ケインズ、ガブルレイス、ミンスキーなどの一致した結論だった。
 実際、戦後しばらくの間、つまりまだ戦前の悪夢を知っている人たちがいた頃は、金融資本主義はかなりの程度に抑制されていた。しかし、それを解き放ったのは、米英の政治家たち(レーガン、サッチャーなど)である。もちろん安倍首相をはじめとして、現在の保守政治たちはその影響から解き放たれていない。
 その上、金融資本主義の利益関係を持つ人たちは、マネーの力を持つがゆえに、政治家に対して多大な影響力を行使することができる。とりわけ保守派の政治家たちが選挙前には有権者に対して低姿勢でありながら、選挙が終わってしまえば、サソリのように国民を刺すのは、そのためである。どの国でも「金権政治」(plutocracy)はややもすると「民主主義」のように見えてしまうという性質を持っている。
 このことを米国人は現実から学んでおり、よく理解できるようだ。
 

2017年7月15日土曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 12 マネー資本主義と「プレデター国家」

 安倍氏の経済政策が「新自由主義的」な色彩を濃厚に帯びていると、本シリーズの最初の方で書いた。しかし、その政策がまったく「自由市場」に経済活動のすべてを委ねているかといえば、決してそうではない。
 新自由主義の本家をなす米国でもそうである。米国の経済学者、ジェームス・ガルブレイス氏が強調するように、保守派はとうの昔に実態的には「自由市場」を放棄しており、むしろ国家を一部の人々の利益のために有効に利用する「プレデター国家」(掠奪者国家)になってしまった。もちろん、この恩恵を受けるのは、一握りの金融業者、投資家、経営者、特に巨大企業のCEOs(最高経営責任者)、一部の政治家などである。
 ただし、彼らは「新自由主義」の看板を完全に下ろしてしまったのでは決してない。彼らにとって利用価値が高いと判断された場合には、躊躇なく利用する。要するに、一握りのプレデター(略奪者)たちは、自分たちに利益になるように市場と国家権力との癒着をはかっている、これがガルブレイス氏の結論である。(詳しくは『プレデター国家』(The Predator State, 2008)を参照。残念ながら翻訳はない。)

 さて、このプレデターたちが特に関心を示すのが金融の領域、マネー資本主義である。それはインカム・ゲイン(利子配当)だけでなく、キャピタル・ゲイン(売買差益)をもたらす。このマネー資本主義は、米国でもすでに19世紀末から20世紀初頭には成立しており、これも有名は米国の経済学者、T・ヴェブレンは、「不在所有」(absentee ownership)の名をもって呼んでいる。ヴェブレンによれば、それは「他の誰かを犠牲にして(または他の誰かの費用でただで純利得を得ること」(to get net gains for nothing at the cost of any others)である。
 こうしたマネー資本主義が20世紀に世界経済を大混乱に陥れたのち、戦後は規制を受けることになったため、しばらくなりをひそめていたが、1980年代以降の金融自由化とともにふたたび現れ、金融崩壊と財政崩壊、経済的混乱を起こしてきたことは周知のところであろう。

 わがアベ政権もこの金融資本主義のとりこになっていることは疑いない。
 しかも、安倍氏が金融を「自由市場」に委ねることによって純利得を生み出そうとしているのではなく、まさに「プレデター国家」よろしく国家ぐるみの方策によって純利得を生み出そうとしていることは、まったく明白である。それは、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人、以下公的年金基金という)と日銀の資金(ETF)を利用して官制相場を生み出してきたことに示される。
 ここでは、そのことを簡単に、次の図によって示そう。
 まずは日経225の動向であるが、安倍氏が首相に就任したのち、株価(日経225)が急速に上昇している。その後、いったん停滞したのち、2014年後半から翌年初頭にかけて急上昇している。だが、2015年に頂点に達した後、翌年秋にかけて低下したのち、年末から翌年にかけて幾分回復している。


  このような株価の変動が、GPIF(公的年金基金)や日銀の資産運用と密接に関係するものであったことは、すでに多くの人によって明らかにされており、私がここで繰り返す必要もないくらいであろう。そこで、ここでは次のグラフを掲げるにとどめておこう。
 

 注)国内株式~短期資産までがGPIFの資産運用の増減額、最後が日銀のETF。
   グラフは前年の3月末日から当該年の3月末実までの増減額を示す。 

  少しデータは古いが、官制資金が官制相場と大いに関わってきたことを示す図もあげておこう。



 安倍氏が首相に就任したのち、GPIFは、保有する国内債券(国債)を日銀に売却するとともに、国内株式や外国株式、外国債券を大量に購入しはじめた。上の図と下の図を照らし合わせてみれば、日本の株式価格上昇がまさに官制相場だったことが分かるだろう。
 また2014年からは、日銀のETF(信託財産指数連動型上場投資信託)が増加しはじめている。しかし、2015年度には株価が下落し、またそれと歩調を合わせてGPIFの資産運用額も年度末までに増えていない。この年、GPIFは巨額の損失を計上した。要するに、国民の財産をキャピタルロス(売買差損)の形で失ったのである。この年には株を買い支えた公的資金はETFであった。
 2016年度にはGPIFも日銀(ETF)も巨額の国内株式購入の増額を行っている。その額は10兆円ほどに達する。たしかに株価(日経225)は、わずかに回復した。しかし、それは2012年から2015年の上昇に比べれば、きわめて小幅にすぎない。
 おそらく、外国人投資家の日本株購入がなくなり、大量売りが行われれば、ひとたまりもないであろう。ふたたび国民の財産が大きく損なわれる危険性はきわめて大きい。
 最後の図からもわかるように、官制資金は相場に大きい影響を与えるが、それを織り込んで先を予想しながら行動する「投資ファンド」はもっと巨額である。

 アベノミクスが実体経済には害悪をもたらした上、マネー資本主義(不在所有)の危険な橋をわたっていることは明白である。
 
 

2017年7月14日金曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 11 政府統計に見る/即刻退陣に値する「功績」

 この辺りで、安倍政権の経済政策のパフォーマンス(実績)を統計的に少し詳しく検討してみよう。

 実質GDPについては、すでに紹介してあるので、その他のデータを以下に載せることにする。
 まずは日本全体の「消費」総額から。下の2図は、上が名目値、下が実質値であるが、2014年の第一四半期(Ⅰ期)に消費が急増しているのは、消費増税前の駆け込み消費支出による。もちろん、消費増税が実施されると、消費額は急落し、その後、2015年にかけて緩慢に増加してゆくが、その後、ほと停滞している。しかも、上図は、消費者物価指数(CPI)により調整していない名目値である。しかし、周知のように2014年には、消費者物価の相当な上昇があった。そこで、消費は実質的には上の図が示すよりはかなり低くなる。下がその実質値である。見られるように、アベ政権誕生前には、そこそこに拡大していた消費が駆け込み需要の急落後は、まったく停滞している。現在ようやく政権誕生前の水準に戻っているにすぎない。(この点については、吉川氏の見解を批判的に検討する形で前に述べているが、ここでは繰り返さない。ともかく図をよく見て欲しい。)
 



 念のため、消費者物価指数とGDPデフレーターの図もあげておこう。
 

注)

 デフレーター(これも一種の物価指数)の図で、特に注意して欲しいのは、民間最終消費支出(の物価指数)の上昇に先行して、輸入品の物価が上昇している点である。これはまさにアベ政権の下で実施された為替介入による円安・ドル高によって輸入品価格が大幅に上昇し、それが消費者物価の上昇をもたらしていることを示している。
 これに関連して、もう一つ注意しなければならないことは、物価上昇が国内的要因によるものではなく、まさに輸入インフレだったことである。しかし、輸入インフレは、外国製品の物価高に他ならず、まさに外国人の所得増加に寄与するものでこそあれ、国内の人々の所得を引きあげるものではない。このような物価上昇は、日本の居住者の可処分所得を相応に引き下げる効果を持ち、したがって消費を冷え込ませるように作用する。物価が上がれば、消費が増えるなどとは、正気を失った人か経済をまったく知らない人の妄想に他ならない。
 そこで、政府の一部局が作成した図を次に示しておこう。
 

 消費支出の対前年実質増減率を示す図であるが、まさにミゼラブルとしかいいようがない。もちろん、こうした消費の縮小・低迷は、因果関係の方法は別として、家計の可処分所得の縮小・低迷と密接に関係していた。
 (以下の出典は、総務省『家計調査報告概要』、2017年5月、総務省『家計調査報告[家計収支編]』2017年2月による。)
 


  今回は、もう一つ労働統計に関係する図をあげておこう。
 

 この図は、日本全体の就業者総数、就業時間総数、および労働生産性(従業員一人一時間あたりの実質GDPと定義する)の推移を示したものである。実数ではなく、2012年=100とする指数で示されている。図中、2010年の数値が欠けているが、これは震災により統計を取ることのできなかった県(2県)があったためである。この図から、さしあたり次の二つのことを読み取ることができる。(なお、これについては、服部茂幸『偽りの経済政策』岩波新書、2017年、「第2章 雇用は増加していない」を参照。ただし、本ブログの説明はこれとは若干異なる点がある。)
 1,たしかに就業者(人数)は、全体として増加傾向にある。しかし、延就業時間数は増えていないばかりか、減少傾向にある。これは就業員一人あたりの年間平均就業時間が減少していることを示すが、その意味することは、ただ一つ、低賃金の非正規雇用の拡大に他ならない。
 こうしたことは、歴史的には、物価上昇の中で実質家計所得が減少したときに、以前と同じ消費水準と所得水準を維持しようとして、多くの家計が家計補充的な所得を得るために取る行動ときわめて類似している。
 アベ政権の「一億総活躍社会」とは、結局、そのようなことではないかと疑わせるに十分な資料である。が、これについては、さらに詳しく検討しなければならない。
 2,労働生産性の推移についてみると、2000年から2016年にかけて、26.1%の成長が生じている。これは年率に換算すると、1.46パーセントに等しい。また安倍氏が政権についた2012年末から2016年にかけては、労働生産性の成長はさらに低くなり、年率0.6パーセントにすぎない。
 ところで、労働需要(求人)は、生産量(産出)の増加関数であり(簡単に言えば、一方が増えれば他方も増え)、労働生産性の減少関数である(一方が増えると他方は減る)。このことは、労働生産性の上昇が労働需要減をひきおこさないためには、1.46パーセントの生産量の増加(成長)が必要であることを意味する。
 しかし、すでに気づかれているように、2000年から2016年にかけて、そのような高い成長率は実現されてこなかった。また安倍政権期には、0.6パーセントの成長も実現されてこなかったことになる。
 現在の日本では、労働年齢人口がしだいに減少しつつある。すなわち、労働供給のプールとなる人口コホートが減少しており、中小企業では労働力不足も語られている。
 こうした事態を全体的にどのように把握するべきか、が大きな問題となっている。 
 しかし、安倍晋三氏には、こうした重要な問題を考える力はないようである。
 Abe is over (Love is over の替え歌)ではないが、「悪い過ち」だったことを知った以上、経済の立場からも早急な退陣を切に求めるしだいである。


安倍氏の経済政策の経済的帰結 10 「総理の御意向」による賃上げ

 経済の「長期停滞」(「デフレ不況」とも言われた)と賃金の低下との関係に関する予備的な説明は以上にとどめておこう。
 さて、第二次安倍政権が誕生してから、賃金(雇用者報酬)が実際に上がったではないかという反論があるかもしれない。
 たしかにその通り。実際には正確に言うと、名目賃金(貨幣賃金)はたしかに上がったが、実質賃金は低下したというのが事実である。
 ここではその背景と経過を簡単に見ておこう。
 1,「アベノミクス」は、金融緩和による貨幣ストックの増加を通して、2パーセントのインフレ(物価水準の上昇)と経済成長を実現するとして公言していた。ということは、最低限2パーセントの貨幣賃金の上昇が実現しなければ、実質賃金が低下したということになる。
 いくら「云々」を「でんでん」と読むような知性の持ち主でしかなくても、物価上昇率より低い賃上げでは、実質的に賃金水準が低下することになることは理解したはずである。
 2,ここで賃金を決定するのは現実の経済社会では誰かを考えてみよう。それは企業経営者である。もちろん、企業経営者は何の制約もなく、自由に賃金率を決めるわけではない。労働市場には労働市場特有の慣行・制度があり、それを無視するわけにはいかない。特に現行の賃金水準、それに将来の自社製品の売れ行き・付加価値・利潤の予想(期待)、物価上昇率の期待などに配慮しなければならない。
 3,だが、当時、外国為替相場がドル高・円安の方向に進んでいた。これは、経済学の初歩的な教科書的にも示されている通り、日本製品の国際価格低下と日本からの輸出量の拡大をもたらすであろうと期待される。が、他方では、円安は輸入品物価の上昇を意味する。実際、首相就任後の当時、輸入品物価の上昇によるインフレ(輸入インフレーション)が進行中だった。
 これはアベ政権にとっては、アンビバレントな出来事だった。つまり、一方は、異次元の金融緩和によって「デフレからの脱却」(インフレ)が進んでいますという宣伝を行い易いが、他方ではインフレ率を超える賃金の引きあげを実施しない限り、実質賃金が低下することになる。
 ここは、是非とも財界に名目賃金率(貨幣賃金率)を引きあげてもらわなければならない・・・・・・。この「総理の御意向」は、もちろん財界に伝えられて、一種の談合が実施された。
 しかし、言うまでもなく、本来、賃金は「総理の御意向」にそって決められる筋合いのものではない。そこで、官邸(総理)は、財界に対してバーターとして法人税の減税を提案した。「税金まけちゃうから、世界一企業が自由にできるような国するから、少し従業員の給料上げてよ。」こんなところである。
 4,かくして前代未聞の「総理の御意向」による賃金引き上げが実施され、しかも、この賃上げは、アベ友=籾井会長のいるNHKなどをはじめニュース番組で大々的に宣伝されることとはなった。歴史的な賃金引き上げが演出されたのである。
 ちなみに「総理の御意向」という圧力は、森友学園問題・加計学園問題に限られているわけではない。ただ、財界への圧力、談合が社会問題化されなかったにすぎない。
 5,だが、残念ながら、それにもかかわらず、貨幣賃金上昇率はインフレ率を下回っていた。その結果は、言うまでもなく、実質賃金率の低下である。これは厚生労働省などの公表した統計情報にはっきりと示されている。これも詳細は他日を期したい。
 当然、私もブログで指摘したが、テレビ等でも指摘されることなる。
 そして、それを指摘された安倍首相の混乱・錯乱ぶりは見事なほど異常であった。訳の分からないことを早口でしゃべりまくり、その様子はおそらく一部の心酔者を除いて多くの視聴者を唖然とさせたに違いない。
 
 ここに示した事態は、安倍氏の経済政策のアベコベぶりを見事に示すものである。
 安倍氏の混乱ぶりはともかく、しかし、私たちが「アベノミクス」の本質を正確に捉えるには、そもそも現実の経済社会では賃金率や雇用・職がどのように決まるのか、をきちんと理解しなければならない。
 

2017年7月13日木曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 9 雇用者報酬は何故さがったのか? なぜアベノミクスは雇用者報酬を上げることが出来ないのか?

 1998年から雇用者報酬(以後賃金と言う)が下がったのはなぜか、またこの賃金低下は名目GDPの低下とどのように関係しているのか? これはアベノミクスが果たして有効な政策でありうるかという問題と密接に関係している。またそれは、アベノミクスがなぜ雇用者報酬を上げることができなかったかという問題とも関係している。そこで、多少まわり道でも、この問題を取りあげなければならないだろう。

 まず第一の問題は、なぜ賃金が1998年から低下しはじめたか、であるが、もちろん、現実には多様な要因が作用しており、必ずしも単純ではない。
 しかし、一つの大きい事情・要因が作用していたことは疑いない。その事情・要因は、日本政府の経済政策と密接に関連しているが、とはいえ、責任すべてが政府の政策に帰されるわけではない。
 この点は、以前厚生労働省で「白書」の作成に尽力した石水嘉夫氏の『ポスト構造改革の経済思想』(新評論、2009年)の第一部第三章「構造改革と日本社会」でも説明されているので、詳しくはそちらを参照してもらいたいが、ある政策的な意図をもって実施されたことである。ごく簡単にかいつまんで説明しよう。
 一つは、ここで問題にしている転換は、日本にどどまらず「自由主義経済諸国の雇用戦略」として実施された「雇用戦略」に関係している。
 1994年にOECDは、「職の研究」(Job Study)を明らかにし、その中で高賃金と平等が職の喪失(失業のこと)をもたらすという「相関」があるという想定の下に、不平等と高賃金の抑制を勧告した。私はそのような相関は存在しないと考える経済学者の一人であり、世界の良識的な経済学者も、当然ながら、そのような思想に対して激しく批判した。もちろん社会科学的・経済学な研究にもとづいた批判である。またきわめて異例のことだが、OECDのTUAC(労働組合諮問委員会)も反対声明をあげた。しかし、1996年には、EDRCによる対日審査が行われ、それは長期雇用、年功序列型賃金などの日本型雇用慣行を激しく非難し、日本政府の雇用政策に変更をせまった。具体的には、就業形態の多様化と労働移動などを促進することなどである。この就業形態の多様化が何を意味するかは、敏感な人ならすぐわかるだろう。要するに、派遣労働をはじめとする低賃金の非正規雇用を増やせということや、解雇規制をなくす方向に変えよというものである。この対日審査はきわめて問題の多いものであったが、それについての詳細は他日を期そう。
 もう一つ注目されるのは、日本国内でもそれに応じた動きが経営者団体の中にあったことである。1995年日経連は、『新時代の日本的経営』なるプログラムを公表した。それは一言でいえば、雇用の領域における自由市場の優位を詠うものであり、要するに「雇用流動化」論に他ならなかった。
 これに対して、たしかに連合は、そこにもられている「雇用流動化」が総人件費を抑制することをねらうものであるとの視点から、反対の立場を表明した。
 だが、この賃金論のレベルでの反対は、「構造改革」論による日本経済の活性化という、かなりキャッチーな宣伝の前に無力であり、日本の政治と社会は、一挙に雇用流動化論に向かう。労働者派遣事業の自由化などの方向に突き進むことになったのである。もちろん、この動きは金融自由化や財政構造改革(財政の領域における自由市場化!)への動きと連動していた。
 さて、こうした動きの背景にあったのが、既に最初に説明した新古典派経済学、すなわち新自由主義政策を基礎づける理論だった。ここで、前に述べたこと、つまり新古典派経済学では、高賃金は失業を招くため(言い方を変えると、失業があるということは、賃金が高すぎることを意味するため)失業をなくすためには、賃金を引き下げるべきであるという教義があることを思い出して欲しい。この理論は、ポスト・ケインズ派経済学によって根底的に批判されていたが、この時期にふたたび台頭していたのである。
 社会というものは奇妙なものであり、ある時期にある教義が流行ると、社会全体がその虜になり、そこから抜け出すことが難しくなる。私など、大学でいくらそれが現実離れした理論にすぎないと教えても、教えを受ける学生側が社会(親、新聞・テレビ・ラジオなどのマスコミ、大学における新古典派の講義など)から影響を受けているため、それに流され、聞く耳を持たなくなる。ちなみに、その状況が大きく変わってきたのが、2008年頃からであり、この頃から構造改革に疑問を持つ学生が増えてきた。
 この他に、日本企業の中には、高齢に達し、高賃金の「団塊の世代」がまだ在職しており、それが人件費を引きあげているため、人件費を減らしたいと考えている企業が多く、理論や「雇用流動化」の議論とはかかわりなく、人件費を削減したいと考えていたという事情もある。さらに、1990年代の金融危機の中で、不良債権を処理しなければならず、利潤の相当部分をそのためにあてていた企業があったという事情も指摘できよう。
 こうして1997年橋本首相によって財政構造改革が実施され、日本経済が前年度の3%ち近い成長率から一気に転落するとともに、非正規戸雇用の多用による総賃金の引き下げが開始されたのである。
 しかし、賃金の引き下げは、個別企業の観点からは費用負担を減らし、企業経営を健全化するように見えても、社会全体の立場から見ると、総費用の縮減が日本人全体の家計の消費需要を大幅に抑制し、不況や景気後退、停滞を招くことになる。
 以上が1998年から生じた停滞の歴史的背景である。たしかに、こうした動きは、2003年から2006年にかけて米国の住宅・金融バブルが生じるとともに、日本からの対米輸出の増加をもたらし、一時的に名目GDPの増加をもたらした。しかし、それもつかの間のことであり、2008年のリーマンショックは、ふたたび世界全体を奈落の底に落としてしまったのである。

 このように見てくるならば、単に「異次元の金融緩和」によって長期停滞が克服できるといった筋合いのものでないことがわかるだろう。そこには、労働市場における変調が作用していたのである。
 では、アベノミクスは、このような労働市場のありかたを変えることができたのであろうか? これが安倍首相が避けてか、知らずしてか決して問うことのない次の問いとなる。
 

安倍氏の経済政策の経済的帰結 8 たしかに「アホノミクス」です

 浜矩子さんが述べるように「アベノミクス」は、たしかに「アホノミクス」または「どアホノミクス」と呼べるだろう。
 私は、本来性格的に人を激しく非難したくない質だが、安倍氏については、事情が異なる。彼は一国の総理大臣であり、その政策如何によっては日本人をとんでもない場所につれてゆく危険性が大いにある。
 ここでは最初に、二人の著名な経済学者・研究者(山家悠紀夫氏と伊東光晴氏)のアベノミクス分析から始めたい。
 山家悠紀夫さん(『アベノミクスと暮らしのゆくえ』岩波ブックレット、2014年)は、すでに「アベノミクス」が始まった時点で、その特徴を三つあげているが、私もまったくその通りと考える。
 1)「非科学的」な政策
 2)多くの経済思想が混在した政策
 3)現状認識を見誤った政策
 また伊東光晴氏は、次のように述べている(重倉篤郎『日本の死に到る病 アベノミクスの罪と罰』河出書房新社、2016年)。
 「祖父(岸信介元首相)を神様のように思っている。思い込みが激しい。改憲をやりたがっている・・・」
 「思い込みの激しさが、希望的観測を現実だと思わせている節がある。その好例が五輪招致の際の福島原発汚染水『アンダーコントロール』(完全制御)発言だ。経済政策でも同様だ。成長によって全ての問題を解決しようとしている。ただこれは幻想だ。現実に経済は成長していないし、人々の家計も潤っていない。」
 「安倍氏は自分でやっていないことを自分の功績にしてしまう。最初の三本の矢で株高、円安を自分の功績にしたのと同じだ。」

 二人は、同じ事実を前にほぼ同じことを述べているが、伊東氏のほうが安倍晋三という人物のメンタルな側面に即した言及と言えるだろう。私の意見をつけ加えると、おそらく安倍氏はコンプレックスを持っているにちがいない。それが、祖父を神様のように思わせるとともに、祖父を超えたいという心的衝動を生み出すのだろう。だが、彼はそれを合理的、論理的な思考と政策によって成し遂げようとするのではなく(もちろん、そうはできないので)、姑息政策(常習的な虚偽、政治的圧力など)によって成し遂げようとする。
 
 だが、何はともあれ、安倍氏が<日本経済を長期停滞から脱出させるための政策>を実施しようとしていることだけは、つまり経済政策上の目標だけははっきりしていると言えるようだ。私は、この目標が彼の軍事路線(戦争法など)、改憲路線と密接に関係していると思うが、この際、この論点は後回しにしよう。
 さて、通常、いかなる政策立案者も、政策目標を立てる場合には、まず (1) 現状を明確に認識し、どこに問題があるか(つまりその政策を打ち立てる動機となった原因・要因が何か)を明確にした上で、次に (2) どのような政策手段によってその問題が解消されるか(つまり目的と手段との科学的整合性・妥当性)を検討・説明し、さらに (3) その手段によって生じる結果(副作用を含めて)検討・説明することが求められる。
 だが、山家氏の著書が明らかにしているように、安倍晋三氏にそれを求めても無駄であろう。彼はただ「アベノミクスを強力に推進します」、「長期停滞からの脱出に効くはずです」と勝手に宣言しているにすぎない。きちんとした現状分析もなければ、政策目標と政策手段との整合性の説明もない。まさにあるのは「思い込み」や「希望的観測」にすぎない。
 もちろん、山家氏が第二の特徴としてあげている「多くの経済思想の混在」も、安倍氏が多くの経済思想を深く学んで、その神髄を理解しているといったことではまったくない。ただ希望的観測にもとづいて、彼にとってよさそうに見えるものをつまみ食いしているでけである。だから、新自由主義政策も、その一つの流れをなすマネタリズムも、いわゆる「リフレ論」も「積極的な財政支出」(「ケインズ政策」)もごちゃ混ぜになっている。
 よく知られているように安倍氏は嘘もつく。彼は、財政健全化のために再度の消費増税(8%→10%)は景気動向にかかわらず必ず実施します、と発言していたが、総選挙の大きな争点になりそうだと判断したときに、延期した。
 たしかに現状認識については、安倍氏が言及していないわけではない。しかし、その現状認識は、残念ながら、まったく間違っている。
 山家氏も指摘しているが、安倍氏は長期停滞(あるいは安倍氏やその周辺が多用する表現「デフレ不況」)が1990年代のバブル崩壊とともに始まっていると述べているが、決してそうではない。むしろ長期停滞や「デフレ不況」というならば、それは1998年頃から始まるというのが正しい。
 これは、下図(名目GDPの推移)から明らかである。見られるように、名目GDPの停滞は1998年からはじまる。また、名目GDPの低下・停滞がまさにこの時期に始まる「雇用者報酬」の低下とシンクロしていることも明らかである。
 しかし、こうした事実に安倍氏はいっさい言及しない。知らないのだろうか? もしそうだとしたら「どあほ」というしかない。一方、もし知っていて言及しないのであれば、不誠実きわまりない態度である。いずれにせよ、こうした趨勢は、まさに歴代の自民党政権(橋本政権、森政権、小泉政権、第一次安倍政権)の時代に生じたことである。
  

 

出典)内閣府「国民経済統計」より作成。


安倍氏の経済政策の経済的帰結 7 「ケインズ政策」の効果?

 安倍氏は俗にいう「ケインズ政策」を実施したのか、もしそうだとしたら、その結果どうなたのか? これが前回のブログで、私の提起しておいた問題である。
 しかし、結果については、一部は既に示してある。実質GDPについて言えば、それは安倍政権成立前のパフォーマンスを大幅にしたまわっている。要するに低成長である。
 この本質的な原因・要因が何かは、あとで詳しく検討しなければならないが、とりあえず言えることは、アベ財政政策がなにかしらの成長率の上昇をもたらしたということはない、ということだろう。
 だが、論より証拠、実際の統計を見ておこう。下図は、財務省のホームページから得たものである。
 
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/003.htm

 この図からすぐにわかることは、アベ政権がいわゆる「ケインズ政策」を実施した形跡はうかがえない。何故か?
 第一に、一般会計の歳出額は、増えていない、どころかむしろ減少ぎみである。
 第二に、一般会計税収は、増加している。この増加が何によるものかは、既に示したが、繰り返すと、消費増税によるものと、それ以外の(安倍首相にとっての)幸運によるものである。決してアベ政権の自慢できるような手柄ではない。もっとも、人の成果をあたかも自分の成果であるように自慢するのが、安倍氏の性格である。これも既に述べたところである。
 要するに、平成24年を起点に見ても、単年度の財政赤字の増加を通して「ケインズ政策」を行った形跡は一般会計の収支からは認められない。むしろ全体として見ると、消費増税の手段を用いた緊縮政策(austerity)が基調となっている。この緊縮に一役買っているのが、あろうことか(すでに指摘した)法人税の減税である。
 もちろん、単年度の赤字がなくなったわけではなく、依然として大幅な財政赤字は続いている。またその結果、公債発行額も巨額(40兆円弱)にとどまっており、政府の粗債務残高は増加しつづけている。
 したがって、日銀が市中銀行から巨額の国債を購入することは、国債の保有者を転換する効果(市中銀行→日銀)を持つことは確実であり、事実、現在日銀は国債の最大の保有者となっている。
 
 もっとも特別会計を含めてみると、アベ政権成立後も年金などの社会保障関係支出は少し増加しており、また(注意せよ!)国債費(利子・償還)も増加しているが、特段に「ケインズ政策」と呼ぶほどのものではない。念のために、下段に一般会計・特別会計の歳出合計額を示しておこう。(この中には、国債費、つまり償還額および利子支払いが含まれていることに注意。)
 
財務省のホームページ「一般会計・特別会計歳出の推移」より。

 もう一つGDP成長率に対する寄与率の指標も示しておこう。
 利用できる国民経済計算統計は、2016年(暦年)までのものであるが、少なくともアベ政権が誕生して2年たっても、政府支出(消費、固定資本形成=投資)の寄与度が上昇しているとはとても言えない。
 

 この図は、まずアベ政権成立前の時期について、リーマンショック後しばらくして輸出が回復するとともに、純輸出の寄与度が上昇したこと、公的固定資本形成のパーセントが2010年、2012年、2013年とかなり高かったことを示している。しかし、アベ政権時代には公的資本形成の寄与度はマイナスとなっており、政府最終消費支出も増えてはいない。
 
 以上がアベ政権の「ケインズ政策」なるものに関する統計的検証である。ただし、誤解をさけるために、一言だけ述べさせてもらうと、私は決して緊縮論者ではない。しかし、同時に野放図な財政支出拡大論者ではない。金融と同じく財政にもそれそうおうの節度が求められる。財政崩壊がきわめて恐ろしい事態であることは、ギリシャの例も示すところである。だが、このことについては、また後で説明する機会があるだろう。

2017年7月12日水曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 6 「ケインズ政策」?

 安倍氏の経済政策の中に、明確に「新自由主義」政策的な要素が混入していることを確認してきた。
 ところで、経済社会は複雑系であり、様々な要因が複雑にからみあっていて、相互に影響しあっているため、またそれに応じて因果関係も、原因(A)→結果(B)という単純なものでないため、私の説明も先に進んだり、後ろに戻ったりしなければならないが、ここではさしあたり、前に進むことにしよう。

 アベノミクスには、様々な要素が雑然と混ぜ合わさっているため、「小泉構造改革」の論理のような単純さに欠けている。そこで、新自由主義政策の側面を持つとともに、またそれと対立するように見える側面も指摘しなければならない。
 それというのは、いわゆる「ケインズ政策」のことである。そもそもケインズ自身がどのように捉えていたかは別として、不況・景気後退・停滞に際して財政支出を拡大すること、したがって単年度の財政赤字の拡大を許容し、また累積的な政府粗債務(gross debt)の拡大を許容するような政策を俗に「ケインズ政策」と呼ぶことが多い。もちろん、ケインズ(Keynesian)の修飾語を付けるのがまったく誤りというわけでもない。何故ならば、政府支出の増加は、その他の事情が同じなら(other things being equal)、それと等しい社会全体の有効需要を拡大させ、さらには--必ずそうなるというわけではないが(注意せよ!)--民間投資や家計の消費支出を拡大させるという効果を期待することができるからである。
 実際、安倍氏の経済政策には、こうした政府支出の拡大を可能とするような制度的装置が前提とされている。それは、いわゆる「異次元の金融緩和」策である。
 このように言うと、首をかしげる人もいるかもしれない。異次元の金融緩和策とは、貨幣供給(貨幣ストック)を拡大させ、インフレーションをもたらし、それによって景気をよくする政策ではないのか、と。たしかに、アベノミクスが喧伝されていたアベ政権の初期には、そのような解説が広く行われていた。しかし、それが効果(成長)をもたらさないだろうということは、本ブログでも何回も触れたし、またその通りとなっている。このt点については、今後も触れることがあるだろう。
 しかし、貨幣ストックを増やすためにという名目で実際に採用された具体的な手段を理解すれば、「異次元の金融政策」が通俗的に理解された「ケインズ政策」に他ならないことが自ずからわかるだろう。
 ごく初歩的なことだが、社会全体の貨幣供給(貨幣ストック)を増やすためには、銀行が社会。つまり企業(会社)や家計・政府に対して提供する資金を増やさなければならない。ルーズに言えば、それが「貨幣ストック」の定義であり、それ以上でも以下でもない。
 では、会社(ここではさしあたり会社だけを取りあげる)は、どのような時に新たな資金を銀行から調達するのだろうか? これも細かく言えばきりがないが、ルースに言えば、例えば会社が生産能力拡大のために設備投資を実施しようとしており、そのための資金を内部では調達しえないときである。会社は、銀行に貸付を依頼する。銀行は審査の上これに対応するだろう。では、その先に行って、会社が設備投資を行うのは、どのような時か? これも多様だが、最も簡単なケースでは、社会全体またはその会社の商品に対する消費需要が拡大しており、適正な生産能力の限界に近づいているときである。
 要するに、通常の因果関係から言えば、<消費需要→設備投資需要→資金需要→貨幣ストック>という流れが考えられるはずである。

 ところが、である。アベ政権と黒田日銀(およびその理論的支持者、岩田氏)は、まった逆の因果関係を考えていた(くどいようだが、本当に考えているとしたら、という条件つきであるが)。彼らは、日銀が市中銀行に供給するマネー(ベースマネーという)を増やせば、自動的に銀行は会社にカネを貸し、会社は借りたカネで設備投資を行い、設備投資を行えば生産能力が拡大し、そうすればセイ法則(新自由主義の理論上の支柱)によって有効需要(消費需要)が増え、経済は成長する、メデタシメデタシ、考えたことになる。まさに逆転の発想だが、このような逆転した因果系列が実際に生じるはずもない。これはちょっと考えれば、誰でもわかるはずである。そこで、彼らもひとひねりする。
 それが「期待」(expectation)である。ただし、ここでいう期待とは、希望という意味あいはなく、むしろ推測という意味に近い。要するに、彼らの説明では、日銀が本気を出して経済を成長さえようとしているという気迫が社会に伝われば、人々は将来の成長を期待して、消費を拡大するだろう。そうすれば、設備投資も拡大し、生産能力も増え、会社の資金需要も増え、銀行の貸し出しも増えることになる。メデタシメデタシというわけである。
 しかし、ここでよく考えてみよう。人々は、あるいはすべてといわないまでも多数派をなす人々が本当にそのような期待をいだくだろうか? そのような期待をいだく人はまったくいないとは言わない。しかし、多数派(majority)がそのような期待をいだくと期待するのは、カルト信仰に他ならないではないか。あるいは米国の有名な経済学者、ジェームス・ガルブレイスの言い方を借りると、「バーナンケンシュタイン」という怪物(バーナンキは、同じようなことを考えた前アメリカ中央銀行・FRB議長)に他ならない。
 実際、この4年間を振り返ってみても、このような期待が生じた気配はなく、上記の因果関係に沿った成長が生じた形跡もない。
 ここで私の経験談を書いてみるのも、無駄ではないかもしれない。ある場所で社会人相手にまだ「アベノミクス」が始まってまもないころ、それについて勉強会を開いていた。ところが、その中の一人(シニアの人)が「インフレーションを人為的におこすなんてとんでもない。私たちの年金が減額され、貯蓄しても利子がゼロなのに、物価があがったら、どうして生活してゆくのか?」とご立腹。もちろん、安倍・黒田の「期待」(希望的観測)に反して、経済が成長するなどという期待は持ち合わせない。これはほんの一例であるが、成長の期待を持っていますという人に私はついに出会わなかった。私が聞いたのは、本当に物価は上がりますか? 利子は上がりますか、経済は成長しますか? といった疑問・質問の声ばかりだった。

 だが、「異次元の金融緩和」には、もう一つのサーキットがある。それは、日銀が市中銀行にマネー(ベースマネー)を供給する方法にかかわっている。これもご存じの人はご存じの通り。日銀が市中銀行に貨幣を供給する主な方法は、銀行の保有する有価証券、とりわけ国債を購入することである。もし銀行が10億円の国債を日銀に売却すれば、10億円が銀行の対日銀預金口座に振り込まれる。もちろん、振り込まれたからといって、銀行が会社に貸し付けるマネーを自動的に増やすわけでないことは、上で説明した通りである。
 だが、国債というのは、政府の借金である。それを日銀が銀行から買うということは、政府にとっては国債を発行しやすくなることを意味している。
 そして、財政支出は、有効需要の拡大を通じて、経済を成長させることになるのではないだろうか?  
 この「期待」が実際にその通りに働いたかどうかは、実際のデータを用いて検証してみるしかない。 (次回に続く)
 

2017年7月10日月曜日

小泉構造改革 「抵抗勢力」というキャッチコピーを考える

 小泉純一郎は、小泉構造改革を始めた頃、「抵抗勢力」というキャッチーな言葉をしきりと使った。敵ながら、ある種の「政治的性格」(political character)を持っていたことは認めなければならない。このキャッチコピーに騙されて支持した人も多いかと思う。しかし、それがまやかしのキャッチコピーにすぎないことを以下で説明したいと思う。

 さて、「抵抗勢力」とは何かを少し考えてみる。
 英語では、まず 'forces of resistance' などと訳すことができるだろうか?
  文字通り、抵抗の勢力、抵抗する勢力であり、レジシタンスなどというカタカナ語からは、ナチズム、ファシズムに抵抗する人々という肯定的なイメージも浮かんでくる。
 しかし、小泉純一郎がこの言葉を用いた文脈ではそうではない。それは「守旧派」、つまり反動的な勢力、推進するべき改革に抵抗する勢力といったところだろうか。
 英語には、insurgent という単語もあるが、こちらは反乱者、造反者という意味合いがあり、政府に反乱を起こした者、党内で造反した者という意味のようである。彼が「自民党をぶっ潰す」といった時には、彼自身が造反者だったという見方もできるが、彼の側から見れば、構造改革に造反する者を抵抗勢力といったとする見方も可能かもしれない。

 さて、私がここで言いたいことは、実は、そんなキャッチーな用語の語義の事ではなく、もう少し経済の歴史に即したことである。

 「構造改革」(restructuring)の思想は、自由市場礼賛、市場原理主義、市場優先主義の思想に由来することは、今ではよく知られるようになっている。この思想は、19世紀後半の新古典派経済学にまでさかのぼることができ、またこの新古典派の思想は、それ以前の古典派経済学、またはむしろ そのバルガライザー(vulgarizers)、つまり古典派経済学の難解な経済学を通俗化しようとした人々にまでさかのぼる。
 自由市場が経済を効率化し、安定化し、成長させ、自然的な分配を実現する、等々という思想は、19世紀に一連の経済学者によって打ち立てられた。もちろん、そのためには、現実の経済社会の実相とは異なる様々な想定(虚構)が必要であった。そのような虚構との中でも重要なのは、規模に関する収穫逓減(費用逓増)、セイ法則(供給がそれ自らの需要を創出する)、需給による価格決定などである。
 しかし、19世紀は同時に、これらの想定が経済社会の実相とは異なる虚構にすぎないことを明らかにする経済学をも生み出しはじめていた。マルサス、マルクス、ヴェブレン、リストなどこちら側の経済学者も多数いる。
 しかも、これらの流れは、20世紀前半に圧倒的となった。もちろん、スラッファ、ケインズ、カレツキ、ヴェブレン、ジョウン・ロビンソン、カルドア、ハロッドなど蒼々たる経済学者の尽力によるところも大きいが、それ以上に市場原理主義にもとづく経済運営が破綻したことの意義も大きい。このことは、1929年10月の米国の大恐慌が自由な金融活動と金融バブルの膨張による金融破綻によって生じ、1930年代初頭に大不況にまで進展したことを考えれば、容易に理解することができる。それはドイツにおけるナチズムの形成の一大要因となってしまった。また19世紀末から20世紀前半にかけて政治的民主主義が進展するとともに、産業民主制の思想が伸張したことも作用した。
 かくして市場原理主義(およびそのひどい帰結)は、人々の脳裏に焼き付けられ、自由な市場ではなく、「規制された市場」(regulated market)と「産業民主制」こそが人間の顔をした経済であることを人々は理解した。

 だが、である。ここで三つのことを指摘しなければならない。
 まず歴史は忘却されるということである。第二次世界大戦後の規制された資本主義経済の高成長、「黄金時代」の到来とともに、新古典派の経済学者の中には、それが「自由市場経済」によるものであるという主張をなすものがふたたび台頭していた。また人々も、ソ連や中国の失敗を見ながら、その主張に同調しはじめた。
 もうひとつ、企業、とりわけ大会社の利害関係者(経営者、株主)や金融にとっては、市場に対する規制ほど我慢ならないものはなかった。高い法人税率、高い限界所得税率、一連の労働保護立法(これは企業の社会的負担を意味する)、金融規制(各国によって方法は異なる)などに対する不満を並べるのは、言うまでもなく、彼らの仕事である。
 そして、1970年代に石油危機が生じ、インフレーションと不況、景気停滞が同時に生じると、 古い自由市場体制を懐かしむ経済学者・理論家、企業者、政治家の声は絶頂に達した。
 これが、1980年代の英米の新自由主義政策と「構造改革」(restructuring)の思想の台頭を許した背景である。
 日本では、1990年代の金融危機(それ自体が米国の新自由主義によって強要された金融自由化の所産だったが)の結果、経済成長率が低下し(それでも今よりは高かったが)、企業や金融機関が不良債権の処理に悩まなければならなくなるとともに、いっそう新自由主義=構造改革の思想とそれを受け入れる背景は強まった。
 しかしながら、それは今日までに経済成長を加速するものではなく、むしろ格差を拡大させるようなものであったことがわかっている。

 結論しよう。新自由主義=構造改革派こそが、大きな経済史の流れの中では、19世紀末~20世紀初頭のレジームに戻そうとする「抵抗勢力」に他ならない。この抵抗勢力は、現在でも、大きな勢力でありつづけている。いや、資本主義経済が続く限り、それはなくならないであろう。
 しかし、それを修正しようとする反対勢力(forces of resistance)も決してなくなることはない。その証拠に、どんなに構造改革を推進したといっても、現実の市場は「規制された市場」(coordinated market)にとどまっている。政府の財政規模は、先進国の中で最も低い財政比率を持つ日本でも、30パーセントを超えているのである。
 

2017年7月9日日曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 5 

 これまで「アベノミクス」を「新自由主義」政策の枠組みの中で把握できると説明してきたが、正直に言うと、安倍氏がそのような政策の哲学を理解しているかどうかも、かなり怪しい。むしろ安倍氏の頭の中にあるのは、激しい「思い込み」にすぎないようである。これについては、伊東光晴氏が倉重篤郎著『日本の死に至る病 アベノミクスの罪と罰』(河出書房新社、2016年)の中で述べていることが事実であろう。ちなみに、少し引用すると、

 「祖父(岸信介元首相)を神様のように思っている。思い込みが激しい。改憲をやりたがっている・・・・・」 
 「思い込みの激しさが、希望的な観測を現実だと思わせている節がある。その好例が五輪招致の際の福島原発汚染水『アンダーコントロール』(完全制御)発言だ。ただこれは幻想です。経済政策でも同様だ。現実の経済は成長していないし、人々の家計も潤っていない。」

 幻想か現実か、論より証拠、とにかく現実を見ておこう。
 下段に、1995年から2016年までの経済成長率(実質GDPの対前年比、%)を示す。(服部茂幸氏が公式統計データから作成した図があったので、それを利用させてもらうことにする。)
 この図からも明らかなように、アベ政治=「アベノミクス」期の成長率は、それ以前の成長率と比べても低い。首相就任前の成長率が比較的高いのは、2008~09年のリーマン危機(米国金融崩壊)や欧州の金融危機後の大不況からの回復期のみかけけのことだから、措くとしても、あの小泉構造改革時より低い。ちなみに、小泉構造改革時も初発の時点では自ら招いた景気後退があったため、2003~2007年が比較的好調の時期であったにもかかわらず、それほど高い成長率を達成していない(平均して年1%ほどにすぎない)。それより低い数値である。
 もっとも、より詳しく見ると、たしかに成長率は上がっている。しかし、それは消費増税直前の駆け込み消費需要増のためにすぎない。したがって消費増税が実施された後にはマイナス成長を記録し、その後は暫くしても(駆け込み購入の効果が薄れてからも)、実質成長率は1パーセントにも達しないというミゼラブルな率にとどまっている。
 
 出典)服部茂幸『偽りの経済政策ーー格差と停滞のアベノミクス』岩波新書、2017年、11ページより。

 だが、安倍晋三氏は、租税問題では幸運だったはずである。彼は、政権について、「税収21兆円増」を実現したことを誇っている。だが、もちろん、そのうちの8兆円は、民主党政権時代に(野田政権によって)決定されていた消費増税を実施しただけであり、安倍氏は国民大衆からの非難を浴びずに、増税を実現することができたにすぎない。
 残りの13兆円はどうか? これも伊東光晴氏が明らかにしているように、アベノミクスの果実とは到底いえない(重倉前掲書参照)。
 1)金融機関の法人税収の増加
  従来、金融バブル崩壊によって生じた不良債権の処理のために、その処理費を毎年の利益から償却することが認められてきたが、その特典制度が満了したため。
 2)リーマンショックによってトヨタなどのメーカーが深刻な負債を抱え込んだが、安倍政権の成立とほぼ同時にその償却を終え、法人税を払えるようになったため。トヨタなどが巨額の利益をあげながら、しばらく法人税を支払っていなかったことは、しばしば批判の対象となっていた。
 3)金融資産のキャピタルゲイン(差益)やインカムゲイン(利子)に対する金融所得課税が10%の軽減措置から本則の20%に戻ったため。

 実際、日本の巨大企業がいかに税制上の特典(特権)を受けていたかは、私のこれまでのブログでも紹介してきた。
 ところが、「安倍氏は自分でやっていないことを自分の功績にしてしまう」というわけである。
  

 しかし、安倍政権が誕生してからすでに4年以上が経過している。それにもかかわらず、約束した高成長は実現しないだけでなく、惨めな結果に終わっている。それは何故なのか? 
 その最大の理由が消費税の増税にあることは、後でも説明するが、まったく明らかである。グラフが示すように、それは国民大衆から8兆円もの可処分所得を奪ったのである。この増加分は国民全体の消費需要の3%、またはGDPの1.6%(=8÷500)に相当する。したがって、この消費需要の縮小を補う何らかの需要増加をもたらす要因がない限り、激しいデフレ効果をもたらすことは明らかである。
 
 しかし、これに対して、経済学者の中には、異なる主張をする人もいる。
 例えば吉川洋氏は、安倍政権が選挙政策の一環として、再度の消費増税(8%→10%)を延期したことに関して、それを「消費増税を財政健全化のために行っても、国民の消費性向を下げ、景気を悪化させ、結果的に税収を減らし、かえって財政健全化を疎外する、というアベノミクス論者が得意とする議論」に反論するという形で、次のように述べている。

 「単純な誤解だ。なぜならば、消費増税は駆け込み需要とその後の落ち込みをもたらすが、平均すると消費トータルの落ち込みはなく、当然のことながら税収は安定的で増税分がそのまま上乗せされる。税収の中で減るものがあるとすればそれは消費税収ではなく、所得・法人税収である。そして、それは消費増税が原因によるものではない。」

 だが、この説明は意味不明であり、そもそも説明になっていない。どのような理由から「平均すると消費トータルの落ち込みはなく、当然のことながら」と言うことができるのだろうか? また何故所得税や法人税が減少するのだろうか?

 吉川氏は、一般的には良識的なケインズ派(およびシュンペーター総合)とみられており、所得分配と消費需要との関係などには敏感なはずであるが、あまりにもシュンペーターの「技術革新」説に傾くあまり、知らずとセイ法則を認めてしまっているのだろうか?
 もっとも別の箇所で、吉川氏は、「長期的課題(社会保障・税財政政策)と短期的課題(景気動向)を切り分けて考えるべきところを混同、消費税が一時的に景気に与える影響に目を奪われ、長期的課題解決の好機をみすみす犠牲にした」と述べてているので、長期的な課題、とりわけ社会保障の充実のために、消費税増税がやむをえない措置と考えているのかもしれない。
 しかし、それならば、消費税だけでなく、法人税や所得税もともに合わせて総合的に考えるべきであり、逆累進性を特徴とする消費税だけを引きあげるかのような発言は、おおいに疑問である。
 実際、1990年年代から一貫して自民党政府は、法人税率と所得税の限界税率の引き下げと消費税率の引き上げという「税制のフラット化」に邁進してきたが、安倍政権の下でもこの動きはすすめられている。下図は、法人税率の動きである。所得税の限界税率の減税については、おそらくよく知られていることであり、ここでは省略しよう。
 このような減税が消費増税と合わせて所得と富の格差を拡大し、長期にわたって消費性向を引き下げ、社会保障制度の基礎をくずすことは明らかであるように思われる。
 



5月3日『読売新聞』「安倍首相インタビュー全文」を読む 雑感

 ある所で、例の改憲に関する「安倍首相インタビュー全文」(『読売新聞』5月3日付)を読む機会があった。
 新聞には、<自衛隊の合憲化使命>、<「違憲かもしれないが命張れ」では無責任>、<国民の目の前で具体的な議論していく>、<教育「一億総活躍」に役割>などの見だしが並んでいる。
 以下はそれを読んだ感想である。
 1)特にアベ改憲を実現しないようにするためにも、よく読んでほしい。
  それなりに説得力のありそうな文章だからだ。
 2)このインタビュー全文は、おそらく読売新聞社との綿密な相談の上に文章化されたものであろう。もちろん、その証拠を私が持っているわけではない。しかし、国会で追及されたとき、安倍氏が自分で説明するのではなく、新聞を読むように求めたことは、そう推測させる一つとなる。また安倍氏が理路整然とこのように語りえたとは、私には到底思えない。だが、特に根拠があるわけではないので、この点は措いておこう。
 3)現状では、自衛隊は災害救助をはじめ、国民を守る仕事をしているが、一方で、80パーセントもの憲法学者が「違憲」を主張しているという現状(「違憲かもしれないが命張れ」では無責任)は、そこそこに有権者に訴える力を持つかもしれない。
 また現行9条の1,2項はそのままにしておき、自衛隊に関する条項をつけ加える(加憲)もまた有権者に訴える力を持つかもしれない。
 4)しかし、ここで憲法9条をよく読んでみよう。
 
 第九条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。 国の交戦権を否認することを声明す。
 第二項 前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する。

 これに「自衛隊」条項を付加した場合、どのような条文となるのだろうか?
 一方で、<戦力を保持せず、国の交戦権を否認する>、<戦争><武力による威嚇又は武力の行使>を放棄するとしている項目とどう整合するのだろうか? しかし、それ以上に重要なことがある。
 
 5)まず、改憲案がこのように変化したのは、安倍首相自身の現状に対する認識の変化があったからであろう。つまり安倍氏の軍事路線は「危ない」という認識の国民の間での高まりである。
 本来の(かつての)自民党の改憲案(2012年)では、次のように書かれている。

 9条2項削除・国防軍創設
 第二章 安全保障
 (平和主義)
 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
 2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
 (国防軍)
 第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。 
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。


 見られるように、第9条の改憲案では、武力・軍隊(国防軍)を保持することが合憲化され、かつ「自衛権」(つまり自衛という名目の戦争)を認める方向に根本的に変えられている。 
 6)この改憲案と5月3日の「安倍首相インタビュー」の間に、何があったのか? それはもちろんアベ政治・アベ改憲への国民的な拒否の高まりである。各種の世論調査でも、自民党の改憲案のあまりのひどさにマスコミも公表を尻込みし、また改憲に反対する意見が日ごとに高まっていた。「安倍首相インタビュー」はこうした情勢を見通した変化を示すものであることは明らかである。
 7)安倍晋三氏は、明らかに失敗したと言わざるをえない。もし、これまでの安倍政治(特定秘密法、戦争法、共謀罪法、安倍友学園問題<これには文書の隠滅、警察への圧力、省庁への処分をちらつかせる圧力などを含む>、失態・失言など)の経過がなく、いきなり、9条の1,2項をそのままにして簡潔に「自衛権」条項を付加するだけでならば、有権者は説得されてしまったかもしれない。
 8)だが、安倍氏は、首相就任以来、軍事にひた走ってきた。特定秘密法の制定があり、さらに勝手な「解釈改憲」を行い、安保法制(「戦争法」)によって日本が自衛隊を外国で戦争することができる国にしてしまった。また「集団的自衛権」を認めたが、これは外国(さしあたり米国)と軍隊の存在を前提とする軍事同盟を結ぶことを公式に認めるものであり、かつ米国が「先制攻撃」を否認していない以上、その「先制攻撃」を認めることにしてしまった。つまり自衛のための先制攻撃(!)を認めたのである。
 9)原稿憲法の下でさえ、このような状態である。もし仮に安倍政権にもくろむこのような改憲(加憲)が認められてしまえば、それは自衛隊員の死(戦死)の危険性を高めるだけにでなく、日本を戦争に巻き込む危険性を持つものであることは言うまでもない。
 そのような軍隊が合法化は、軍事法廷に関する法律の制定をもたらし、共謀罪法と連携して日本の国民をさらに軍事に導く危険性を持つ。
 決して安倍氏の虚言に騙されてはならない、と思う今日このごろである。




安倍晋三氏と金正恩氏の奇妙な「共同」関係

 アベ政治が危機に陥っている。
 しかし、アベ内閣には、外に有力な味方がいる。
 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正恩(キム・ジョンウン)氏である。
 もちろん、安倍氏と金氏が個人的に仲の良い関係にあるというわけでは決してない。金氏は、森友や加計のような、いわゆる「安倍友」ではない。
 客観的に国際政治の観点から見れば、金氏のねらいはあくまで米国であり、なんとかして米国から国際的な存立承認を得たいということであろう。1950年に勃発した朝鮮戦争は、1953年7月の休戦協定によって事実上終了した。その後、朝鮮半島の両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア(当時)、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれ、中国軍も1958年に完全撤収した。
 しかし、今日にいたるまで平和(講和)条約は結ばれていない。しかも、韓国には日本と同様に米軍が駐留しており、米国は「集団的安全保障」を盾に、外国軍との軍事同盟を結んでいるだけではなく、敵国に対する「先制攻撃」も否定していない。一方、このような中で、かつの中国は北朝鮮にとって頼みの綱であったが、1980年代の改革開放政策の中で関係は著しく変化してしまった。
 たしかに、一時きわめて高まった米・北朝鮮間の緊張も、米中会談によってトランプが中国の北朝鮮に対する圧力政策によって解決することを探った時点で、若干和らいでいる。しかし、中国の北朝鮮に対する接近にも限界があることがかなりはっきりしてきている。
 中国自体もアベ政権にとっては、潜在的な敵国として日本の有権者を煽る対象とされてきた。もっとも、さすがに日本が中国を相手に戦争するという強硬な姿勢を支持する人はきわめて少ないだろう。日本になんとなく(または明確にか?)漂う反中国感情は、日本の経済社会の長期停滞と中国経済のめざましい成長の対比とは無関係ではないようである。観光地を旅行すれば、日本の高齢者(私もその一人だが)とともに、東アジアからの旅行客がきわめて多いことはいまや誰でも知っている事柄である。これは、観光地にとっては自分自身の経営=生活の存続にかかわることであり、否定できない現実であるが、それと同時に屈折した感情をもたらしているようである。このことは、私がこれまで宿泊した旅館の人々のちょっとした発言からも何となく感じられることである。
 しかし、だからといって実際に中国と戦争しようとする人はまずいないであろう。それは現在のグローバル化した世界の中では、日本経済のみならず、世界経済にとって破滅的な被害を意味している。
 ともあれ、北朝鮮の体制側のねらいは、自国体制の存続の保障であり、その交渉相手は米国に他ならない。あらゆる面で対米従属の立場を保持してきた日本など眼中にもないといってもよい。
 もちろん、私は北朝鮮の瀬戸際政策(核開発、ミサイル実験)を擁護しているのではない。実に腹立たしく、困ったことだと思っている。
 しかし、窮地に陥ったアベ政治には、こうした北朝鮮の態度は使える起死回生策となる可能性・危険性がある。また安倍晋三氏は、これまで露骨にそれを利用してきた。「ミサイル発射実験」に際して電車を止めてみたり、NHKに戦時さながらの緊急放送を繰り返させてみたり(それともNHKが忖度して放送しているのか?)、米軍と一緒に北朝鮮に対する軍事的挑発を繰り返しながら、彼の軍事路線、9条改憲を国民に対して宣伝するのに必死になっている。その軍事路線は、特定秘密法、日本の自衛隊が外国の軍隊と一緒に外国で戦争に参加できる体制を整えた安保法制(戦争法)、共謀罪(何をしたら罪になり罰せられるかわからない法律を制定し、政府に対する反対意見・運動を抑止する)などに顕著に表れている。
 少なくとアベ政治にとって金正恩氏が暴走すればするほど、アベ政治=軍事路線にとっては国民的な支持が集まりやすくなることは否定できない。
 
 しかし、仮に万が一、米国が北朝鮮を先制攻撃し、北朝鮮が反撃することとなれば、相手国は米国だけではない。日本国内の米軍基地はもちろん、自衛隊基地、それに北朝鮮が仮にそれらを狙ったとしても、北朝鮮の武器の低い性能のため、日本全体が攻撃対象となることもありうるだろう。
 米軍の傘にしたにいれば安全というのは、神話にすぎない。

 過去の多くの戦争も、またとりわけ二つの世界戦争は、「狂気の政治家」によって、またそれに追随した人々によって惹起されてきた。また、その背景には、経済の破綻(失業と格差)があった。しかし、幸運なことに、現在の経済がどんなに多くの困難な問題を抱えているといっても、20世紀前半のようなひどいものではない。人類は、それなりに賢くなってきている。
 
 われわれが追求するべきは、軍事的挑発とそれによる国民的同化ではないはずである。