2022年12月6日火曜日

物価について 6 日本のデフレ プラス企業の価格設定方式

  今回もつらつらとですが、デフレについて書くことにします。

 本当は、研究書を参照しながら正確に書きたいのですが、鴨長明ではありませんが、わが家はとても狭く、私の部屋も方丈さながらの4.5畳、他の部屋にも本を置いていますが、置ききれずに段ボール箱に入れている始末、いちいち出して読む気になれません。ということで、頼りになるのは記憶のみ。

 さて、日本では長らくデフレ(物価水準の低下)が続いていると言われてきました。本当にデフレかというと怪しい点もあるのですが、まあ、デフレということにしておきましょう。最もデフレといっても、あらゆる商品の価格が低下してきたわけではなく、上がるモノがあれば、下がるモノもある、といった体(態)であり、ただ平均すると下がっているということです。価格が下がるのは、主に工業製品であり、その理由は単純に生産性が上昇するからに他なりません。もっとも生産性が上昇しても価格が安定している場合もあれば、上がる場合もあるわけですが、昨今の日本では下がり気味でした。一方、サービス産業の場合、あまり生産性は上がりません。(なぜかって、例えば教師や床屋さんなどを考えてください。彼らは十年一日のごとく、同じペースで生徒を教えたり、髪を整えています。)そこで、ほおっておくと、製造業における人々の平均所得と比べて相対的に少しずつ所得水準が低下してきます。もしその職業が社会的に不必要なものであれば、やがていつかは姿を消すでしょう。しかし、もし社会的に有用なものであり、需要があれば、彼らが生きていくための所得(living income)を保障しなければなりません。言っておきますが、彼らが怠けているわけではありません。それはその産業の性質によるものです。

 前置きが長くなりましたが、「日本のデフレ」と言われているものを調べるには、少し歴史を遡って見る必要があります。それに加えて、企業というものがどのようにして自社製品に価格をつけているのか、つまり価格設定方式なるものを知る必要があります。

 後者から見ておきましょう。おそらく猿は分からないでしょうが、おそらく中学生や高校生ともなれば理解すると思いますが、モノを作るには費用がかかります。 そして、その費用は、1)プラント(工場や機械など)の減価償却費、2)製品の原材料・エネルギー代、3)賃金・給与(従業員への支払い)、4)利潤(これは株主への配当、経営者報酬、企業の内部留保、法人税などに分かれます)です。この他に雑多な支出があるかもしれませんが、取るに足らない額ですので、略します。これを見て、4)利潤は費用ではなく、売上げから費用を差し引いた企業所得(利得)ではないかという人がいるかもしれませんが、そのように考えることも可能ですし、いや、それも社会的に見れば生産するための費用に違いないと考えることもできるでしょう。私はどちらでも構わないと思います。

 さて、企業はこれらの費用を回収し、もちろん4)の所得を実現するために、複式簿記をつけており、そのための計算を実施します。そのとき、普通一般に行われていることが知られている方式は、「マークアップ方式」(mark-up)と言われているものです。実例としてよく知られているのは、小規模飲食店のそれです。そこでは、材料費を計算し、その2倍になるように値段を設定するというものです。例えば材料費400円かけて作ったラーメンは800円也というわけです。そして、付加価値(800円-400円=400円)から従業員の所得やその他の費用を捻出することになります。普通の企業の場合には、もう少し複雑で、少なくとも原材料費やエネルギー代(電気ガス石油代など)に人件費(主に従業員の給与)を加えて、その額に一定の率をかけて、総額を計算し、それを生産量で割って算出する。これが普通のやり方です。

 p=(c+w) m / q

 価格=(原材料費・エネルギー代+人件費)×マークアップ率÷数量

 1,800円=(1,000,000円+500,000円)×1.2÷1000単位

 この場合、粗利潤は総額300,000円となり、それがプラントの減価償却費と利潤に相当する部分ということになります。ここで理論上問題となるのが、マークアップ率がどのように決められるのかという点ですが、これが必ずしもきちんと説明されているわけではありません。多くの場合には、これまでの経験から過去に実際に実現されたマークアップ率を計算し、それを新たな価格付けに際しても適用することが多いようです。(この問題をさらに追求すると、かなり複雑で、複合系の問題になってしまうので、ここでは断念します。)

 さて、もしあなたが会社の経営者だったならば、利潤(利得)を増やすために、どのような方策を考えるでしょうか?

 競争的な環境の中で長期的な観点から考えれば、設備投資を通じて技術革新を行い生産性をあげればよいというのは一つの有力な考えであり、実際、高度成長期には、またその後も欧米に比べて比較的高い成長率を実現していた1980年代まで日本企業はそのように行動してきました。

 ところが、1991年が日本企業にとって一つの大転換になりました。シニアの人ならば誰でも覚えているはずの、バブル崩壊と金融危機です。戦後経験したことのなかったような景気後退も生じました。しかも、その年は、戦後のベビーブーム期の最高点(1947年)に生まれた人々が44歳になった時です。40代といえば企業でも入社後20年以上たち給与がかなり高くなった時期です。会社経営者にとっては、不況の中で増えてゆく人件費が頭痛の種だったはずです。

  悪魔が彼らの耳元でささやいたに違いありません。「賃金を圧縮せよ! さらば救われん」というわけす。

 もっとも私もそうですが、会社経営をやっている人ならば、戦後の高度成長期に大学でケインズ経済学を学んだはずであり、彼らがきちんと理解していると仮定するならば、「合成の誤謬」なるものを知っていたはずです。 それは、「もし賃金圧縮をあなたの会社が行うだけならば、あなたの会社の製品価格を引き下げることができ、その結果、あなたの会社の売上げ、そして利潤は大きく増えるであろう」が、しかし、「もし賃金圧縮をあらゆる会社が行ったならば、日本国民の総給与所得は減少することになり、その結果、彼らの購買力は低下し、有効需要は減少し、不況となる危険性が高い」と教えたはずです。

 ところが、いかなる偶然か、1992年に日本も加盟しているOECD(先進国の仲良し経済クラブ)の企業者グループが「ケインズ殺し」を行いました(ケインズは1950年になくなっているので、ここで言うのは、当時盛んに「ケインズ(理論)は死んだ」ということです)。

 彼らはケインズから、アメリカで流行していた新古典派または90%以上が新古典派経済学である「新ケインズ派」へと鞍替えし、新しい「理論」を唱えるようになっていました。その主たる主張というのは、高賃金は(あるいは労働者を簡単に解雇できないような硬直的な労働市場を持つ国は)、高い失業率という代償を支払わなければならないというものでした。その上、その主張の矛先が日本に向けられたのです。1992年にOECDが日本に対してなされた対日勧告は、なぜかこの国ではよく知られていませんが、その後の政策変更を決定づけた点で、きわめて重大な意味を持つものです。さすがに当初は日本政府も躊躇しましたが、結局のところそれを受入れ、あまつさえ積極的に推進するようになります。

 一方、経済界でもそれに同調する動きが活発化します。こちらは覚えている人が多いと思いますが、『新時代の日本的経営』なる本が1993年に出版され、その中で、非正規雇用と期限付き雇用を日本は推進するべきことがはばかることなく謳われました。

 こうして<高賃金>、<労働者を保護する日本的労働制度>が積極的に宣伝されるようになり、その動きはマスコミや労働組合(もちろん連合です)にまで広がってゆきます。これに反対する主張や運動はあたかも「反動」であるかのような論調が広がっていったのが1990年代という時期でした。そして、その施策は、はやくも1997年から実施に移されます。

 ただし、 ことわっておきますが、その被害者となったのは、ベビーブーム期生まれの年代ではなく、むしろこれから新たに労働市場に入ってゆく新卒世代でした。はっきりしているのは、40代50代を敵にまわせば、政治的に持たないことが分かっていたからです。昔から「分断して統治せよ」(divide and rule)と言います。多数者を敵にまわすのではなく、分断された少数者を従わせるのは、古来からの政治家の常套手段です。

 「失われた世代」(lost generation、ロスジェネ)なる言葉が生まれたのは、これより後のことでしたが、 その因はすでに1990年代に生まれていたわけです。

 ここで書いた90年代の経過や、その後の帰結などについては、まだ書くべきことがたくさんありますが、今回は以上にとどめておきます。いずれにせよ、デフレもまた「所得をめぐる紛争」と深くかかわっていることははっきりしています。 

2022年12月5日月曜日

物価について 5 所得分配をめぐる紛争

  しばしばインフレというと、やれ「コスト・プッシュ」だ、やれ「デマンド・プル」だという人が出てきます。そのように語っている人自身が自分の言うことをどれだけ自覚的に認識しているかは不明ですが、なんとなくそう言っているだけかもしれませんし、あるいはここでも言及した需給曲線の均衡点「理論」を念頭に置いているのかもしれません。しかし、すでに述べたように、需給均衡理論は、所与の環境が同じという状態のもとで、何らかの偶発的な撹乱要因が作用した場合に、どうなるかを示す努力もしてはいますが、終局的には、事態が均衡点(p、Q)にどのようにして収束するかを示すものであり、本質的にインフレ(やデフレ)といった均衡を壊すような事態を説明することができるような理論体系ではありません。その上、例えばコスト・プッシュはただ単に生産費用が上がるということ、つまりインフレが生じているからインフレが生じるということを示すにすぎず、要は同義反復にすぎません。デマンド・プルの場合も、人々の所得=購買力が増加したので、需要量が供給量をオーバーする結果として、インフレが生じると言われると、何となく説明しているようにも見えますが、通常はインフレが生じると、経済における調整が進行し、人々の(名目)所得も増えるので、それが次のステップのインフレを持続させるという面がなくもありません。

 誤解のないように言っておきますが、私は供給側や需要側の要因がまったくないと言っているわけではありません。ただ、その具体的な様相をはっきりさせずに、抽象的にコストだデマンド(需要)だといっても無意味だと言いたいだけです。おそらく、インフレ(そしてデフレ)の一般理論を構築するとしたら、ポスト・ケインズ派の人々が語るように、「所得配分をめぐる紛争」が根底にあると言えるでしょう。そこで、ずっと後で、新古典派の均衡理論をディスする前に、 簡単に所得分配をめぐる紛争(conflicts)とはどのようなものかを説明しておきましょう。(ここで、「紛争」という言葉が何か資本主義の欠陥を指し示すように思えるため、気にくわないという人がいたら、そうした人のためには、「競争」と言い換えてもよいと思います。

  「所得分配をめぐる紛争(競争)」ということのイメージをはっきりさせるために、1970年代のインフレーションを取りあげます。このインフレーションは、日本などの原油輸入国にとっては、輸入する原油価格の高騰によって進行したので、輸入原料(原油)の値上げによるコスト・プッシュとも輸入インフレとも言ってよいでしょう。フリードマンの言うように、決して通貨増発が原因だったわけではありません。当時は、フリードマンを神のように崇める人もいましたが、今そのようなことを言ったらただのおバカさんです。

 が、そもそもなぜ原油の価格げ突然急激に引き上げられたのでしょうか? そのためには、戦後の国際経済体制を概観しておく必要があります。つまり戦後、日本、ドイツを含む欧米社会が産業的発展を謳歌する中で、第一次産品の生産と輸出に特化していた産油国を含む途上国は、輸出品の価格低迷に苦しんでいました。このことは、いわゆる交易条件に関する各種の統計を見れば一目瞭然です。(ここでは面倒なので、示しませんませんが、興味のある人はググって確認してください。)

 なぜか? 力、すなわち市場支配力の差です。欧米日の主要国は圧倒的な資本力を持ち、途上国の製品(第一次産品)を安価に買いたたくことができました。例えばコーヒ豆の生産者は多数ではあっても、資力の乏しい分散した小規模な農夫であり、一方、買う側は巨大な独占的企業です。彼らにとってはあたかも赤子の手をひねるようなもの、勝負あったです。ついでに私が大学のゼミ報告大会で経験したことにもふれておきます。私の学生は、なぜか報告テーマにコーヒー豆に関連した「フェアトレード運動」を選びました。そして、当日、報告すると、ある大学の若い教師が「自由市場に介入するのは、公正な市場を歪めるのではないか」と問うたしだいです。この後の展開は省略しますが、質問した教師は、どうやら自由で公正な市場が存在すると本気で信じていたようです。

 原油については、1960年代まで欧米の石油メジャーが中東の油田を支配しており、原油をやすく買い取り、欧米日に輸出して巨万の富を築いていたことは言うまでもありません。 「石油メジャー」、今では懐かしい言葉になりました。

 ところが、そんな中東の産油国にとって絶好の機会が訪れました。それは第四次中東戦争です。この機会を捉えて、彼らは国際石油カルテルを結成し、自国の原油販売価格を何倍にも上げることに成功しました。これは、原油を輸入している国にとっては、これまでの代金の何倍も支払わなければならないことを、つまり巨額のオイルマネーが輸入国から輸出国に移転したことを意味します。ロシアがウクライナと戦争している今現在も、本質的にはまったく同じことがおきていますが、これは日本の統計も認めている通り、巨額の所得(マネー)が原油(+ガスなど)の輸出国に流れていることを意味しています。

 イギリスの著名な経済学者のN・カルドア卿は、1980年代に書かれた本の中で、このオイルマネーの総額を推計していますが、いまは本棚をひっくり返して調べるのが面倒なので、詳しい紹介は省略します。ともかく、輸入国の景気を例えば3%も悪化させるほどの、所得流出だったわけです。そして、当時(1970年代初頭)すでに3%の経済成長を実現することが難しくなっていた欧米諸国はGDPの低下を伴う激しい不況に陥りました。ちなみに、日本の成長率は5,6%ほどはあったので、プラス成長は維持したように思います。

 この出来事は、振り返って見ると、戦後の世界経済体制の枠組みはがらっと変わる転機をなしたことは間違いありません。途上国は、また中国も、ひたすら第一次産品の輸出国の状態からの脱却をめざし、工業化の政策を推進してきました。一方、欧米諸国では、それまでの福祉体制から脱却しようとして、新自由主義政策(自己責任の強調、リストラ、金融の自由化など)を進めるとともに、工業分野を安価な労働力の途上国に移転させてきました。現在の国際経済体制が1970年代と1980年代に生じた大転換の余波の中にあることは、否定できないと思います。

 少し脱線気味になりましたが、元に戻り、もう一つ1991年のロシアのハイ・インフレについて述べたいと思います。きちんとした統計資料をあげながら書くのがおっくうなので、記憶にもとづいて大雑把な話しをしますが、大体の筋は間違っていないと思います。

 習知のように(?)、ゴルバチョフ氏がソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカをはじめてから、ソ連経済にもかなり大きい変化が生じました。その全てに言及することはできませんが、インフレに関連する限りで言うと、ソ連のゴスバンクが国有企業に与えた貸付額も巨額に膨れ上げっていました。建前上、ソ連企業は、利潤を国庫に納めることとなっており、また損失を自己負担することになっていましたが(独立採算制)、実際には、ゴスバンクが融資によって補塡していました。また経済発展のための設備投資が推奨され、そのための資金もジャブジャブと供給されていました。こうした潤沢な資金は、様々な経路を通じて従業員の貨幣所得(労働報酬、給与・賃金)を大幅に増やしたとされています。私は正確な統計を持っていませんが、ごく短期間のうちに倍になったとも言われています。しかも、この間も供給側の要因はほとんど改善されていなかったわけですから、末期の旧ソ連では、激しい需給不均衡が生じていたことは間違いありません。またかなりのインフレーションが避けられないという見透しもありました。したがって人々は、給与を手にすると買物競争に 走り、その結果、「モノ不足」「行列」が日常茶飯事となりました。テレビでこうした報道を見て、ソ連は「貧しくて、モノ不足」という印象を持った人が多かったはずです。

 ちなみに、ゴスバンクが融資した貸付が企業によって、また給与として受け取った従業員によって返還されることはありませんでした。これは、アベノミクス(異次元の金融緩和、事実上の日銀の国債引受)によって政府に巨額のマネーが渡っている日本に似ていなくもありません。この国債は、近い将来償還される当てもなく、むしろ今後増えていくだろうことは誰もが予想していることです。そして、もはや日本人はMMTという神様のような存在にすがりつくしかない状態にあるようです。かつてハンガリーの経済学者ヤノシュ・コルナイは、「ソフトな予算制約」(銀行がいくらでも求めに応じて資金を提供する)という用語を用いて、ソ連経済の作動様式に批判的見地を示しましたが、日本がそれに近づいていることは、不気味な限りです。

 また脇道にそれました。ロシアに戻ると、すでに1990年には、ロシアを自由な市場経済にすれば、激しいインフレが生じるであろうことは多くの識者には明らかになっていました。それに加えて、ロシアでは1991年に激しいインフレに道を開く本質的な「改革」が実施されました。その中でも最も重要な施策の一つは、私有化(privatizatsiia)です。多数の国有企業が二束三文で旧経済官僚の手に売却されました。

 ここで旧ソ連の国有企業の多くが独占的な、つまり競争相手を持たない巨大企業だったことを思い出す必要があります。二束三文で独占的な巨大企業を手に入れたオリガーキーは、思う存分所得(利潤)を増やすために、何の気兼ねもなく、自社製品の販売価格を上げはじめました。ここには、前に欧米企業ビジネスマンを価格粘着性に固執させる動機はまったくありません。ロシアの消費者は、値上げされた商品を買うしかなかったのです。もちろん、インフレとともに、賃金の引き上げを求める声も高まります。かくしてインフレのスパイラルはとどまるところなく、進行します。現象としては、「コスト・プッシュ」も「デマンド・プル」も生じることになるのです。

 そして、このインフレを止める最後の手段としては、中央銀行の金融引き締め策しかないことに人々は気づきます。別に貨幣量の拡大がインフレの原因ではなくても、そうせざるを得ないというジレンマがここには見られることになるわけです。

 さて、ここまで書いてきましたが、近年(ここ30年?)の日本では、インフレではなく、デフレに見舞われてきたが、こちらはどうなのかという疑問もあるかと思います。そこで、つぎにこの点をいくぶん詳しく見ておきたいと思います。

 (続く)

物価について 4 幼稚な、あまりに幼稚な貨幣数量説

  物価は変動しますが、中でもインフレーション(インフレ)と呼ばれて、物価水準の持続的な上昇傾向が現れることがあります。歴史上よく知られているものには、1923年ドイツの天文学的なハイパーインフレーション、戦後日本のハイインフレーション、1970年代の停滞(stagnation)を伴ったインフレーション、ソ連崩壊後のロシアの1991年のハイパーインフレーション、そしてロシアのウクライナ侵攻によって生じている現在の世界的インフレーションなどがあります。

 こうしたインフレはどうして生じるのでしょうか? 1970年代に世界的なインフレが生じたとき、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンは、インフレが「貨幣的現象」であると言い、また「貨幣数量説」を唱えました。彼は、後に俗に「ノーベル経済学賞」なるものを取っていますが、これは正確にはノーベル賞ではなく、「アルフレッド・ノーベル」の名を語ったニセのノーベル賞であり、正しくは「ノーベル記念スウェーデン国立銀行賞」です。これについても、いろんな話しがあるのですが、ここでは脇道にそれてしまうので、本道に戻ります。

 さて、インフレが まさに「貨幣的現象」であることには私も同意します。しかし、貨幣的現象だから貨幣数量説が成立するというのは、論理が完全に飛躍しています。それは幼稚すぎるほど、幼稚な理解とさえ言えるでしょう。

 簡単に言えば、この考えは、物価水準が貨幣(通貨)量に比例しており、通貨量の変動に応じて物価が変動するというように定式化されます。数式で表現すれば次の通りです。

 p=M/Q (p:物価水準、M:通貨量、Q:流通商品量)

 実は、この式には、様々な経済学上の問題点が含まれており、それを一通り説明するだけでも一苦労ですが、特に先を急いでるわけでもないので、ざっと説明したいと思います。

 まずQ(流通商品量)ですが、世間には数万品目とも数十万品目ともいわれる商品種類があります。そしてそれらの量(総金額ではありません!)を表現する方法は、残念ながら、まったくありません。例えば米なら昔は「俵」「斗」「升」などで表現され、今ではkgで計量表示されます。また鉄などの金属はkgやトンなど、車は「台数」で示されます。しかし、医療などのサービスに至っては従事する人の勤務時間を除いて量を表示する方法を私は知りません。これらの雑多な商品の総量(おそらく物理量というべきでしょう)を一つの単位で示すのは不可能というべきです。実際には、人は(もちろん経済学者も)貨幣で示した総額を物価水準で割って総量(とその変化)を類推しているにすぎません。(そして、これが実際に行われている方法です。物価統計を思い出してください。)ただし、仮に労働価値説が成立し、すべての商品の価格が投下労働時間に比例していると想定するならば、総労働時間が商品量を示す"proxy"(代替物)にはなるでしょう。

 しかし、この点はあえてスルーして、かりに商品総量が 物理量で計測できるとしましょう。次の問題は、通貨量ですが、これは現在ではどこの国でも行われている統計(中央銀行などの諸表)から知ることが出来そうです。しかし、ここにも問題はあります。というのは、学生向けの新古典派の教科書経済学では、貨幣は商品を売買するための手段としてしか登場しませんが、例えばケインズが述べているように、貨幣(通貨)には商品の売買のための機能以外にも様々な需要(用途)があるからです。例えばもしもの時の準備(予備)のための需要、資産保有のための需要(銀行預金など)、資産の売買のための需要などがそれです。つまり統計から通貨量を知ることができても、そのうちのどれだけが商品の売買のために使われたのかを知ることは、一般的に不可能です。もちろん、ある種の推計はできるかもしれませんが、それが事実に近いか、またどれほど近いかは「神のみぞ知る」です。

 もう一つことわっておかなければならないのは、これは「金」というそれ自体として価値を持つ商品が貨幣素材であった以前の金本位制の時代ではなく、金本位制離脱後の通貨体制のことだということです。 現今の通貨体制では、銀行は様々な法的制約を受けていますが、単に技術的ということであれば、人々の貸付を行うことによって、いわば無から通貨を創りだしています。もし私が銀行から10億円を借りることに成功すれば、私の銀行口座には、10億円の預金残高が記入されることになるでしょう。銀行員がPCに向かって私の銀行口座に10億円と記入すれば、それで終わりです。

 *ついでながら、銀行は、私たちが預金したお金を使って、それを他の人に貸し付けるという誤った理解をしている人がいるようですが、それはもちろん幼稚な誤解です。そもそも現今の通貨は、銀行が人々に貸付を行わない限り、社会に出てきません。

 *もう一つ、ついでながら、最近、ネットでも紹介されるようになったMMT(現代貨幣理論)ですが、これの成否について、このような小考で論じることができないことは言うまでもありませんが、一言のみ。まずMMTがここで述べたような通貨発行のメカニズムから出発していることは言うまでもありません。しかし、政府が大量の国債発行をし、それを日銀が事実上引き受けるというような体制について、例えば山本太郎さんが「借金をしている人がいるということは、他方で貸している人もいるということです」と言っていることについては問題があると思います。確かに簿記における負債=資産という恒等式が常に成立することは言うまでもありません、それが政府がどれだけ国債発行をしても問題はないという結論を導くことはありません。もっとも、彼も「インフレが生じない限り」という限定を付していることは注意しなければならず、また彼がクズ政治家の多い状況の中で、多くの点で、まともな政策を提言している野党政治家の中の一人であることは間違いないと思います。

 さて、ミルトン・フリードマンは、銀行がヘリコプターからお金(銀行券)をばらまくという比喩を使いましたが、現実にはもちろんそのような事は絶対にありえません。実際には、市中銀行が人々に貸付を行うことによって、通貨は社会に出てきます。

 さて、ここからが本論ですが、フリードマンは、生産量に比べて社会にでまわる通貨が増えすぎるので、インフレが生じると考えました。この思想は、上式から見て、正しそうに思えます。しかし、そこにはいくつかの虚偽の推論が含まれています。

 まず貨幣数量説は、頭の中の想像としてであれば、成立する余地はあります。もし何らかの事情で、突然、通貨量が2倍になったとします。その他の事情が同じならば、物価が2倍になってもおかしくないかもしれません。これは、例えば宇宙のすべてが2倍になったならば、私の背丈も、部屋も、物差しも、何もかも2倍になり、その結果、2倍になったこと自体が認識できないのと、似ているかもしれません。

 しかし、実際に考えなければならないのは、そのような妄想ではなく、あくまで現実の世界で人々が新たな貸付を受け他結果、通貨量が増えて行くという事態です。 これは、中央銀行や市中銀行が勝手にヘリコプターから通貨をばらまくという妄想とは異なるものです。

 はたして銀行(中央銀行を含む)は恣意的にばらまく通貨を増やしたりするものでしょうか? もちろん、銀行は人々(個人や企業)の通貨需要に応じて、貸付を行うものであり、かってに通貨(貸付)を増やすことなど決してできません。これを経済学の言葉でいうと、通貨量は「内生的に」(経済社会の必要に応じて)生じるものであり、銀行が「外生的に」(経済状況とは関係なく恣意的に)決めることができるものではありません。

 もっとはっきり言えば、実際には、通貨量が増えるからインフレが生じるのではなく、逆にインフレが生じるために、通貨需要が増えて実際の通貨量(貸付量)も増えるというのが実際に因果関係です。

 このことを示すものとして、実際に生じたインフレ時にどのような事が生じているかを示すのがよいと思います。どれでもいいのですが、例えば1991年のロシアで生じたハイインフレを取りあげましょう。この時も、ひとたび激しいインフレが生じると、その勢いは止まらず、あっという間に物価は千倍あるいはそれ以上に上昇しました。もちろん、ロシア中央銀行が意図的に1000倍あるいはそれ以上の通貨を発行してインフレを加速しようとしたわけではありません。彼らはインフレを抑えようとして、金利を引き上げ、通貨量を抑制しようとしました。しかし、主観的には通貨量を抑制しようとしても、現実には通貨不足が生じており(多くの地域で現物交換さえ行われるようになり)、通貨を求める声は高くなり、結局はそれに対応することを余儀なくされます。統計を見れば一目瞭然ですが、M/pの値は激しく低下してゆきました。もし通貨(M)の増発がインフレの主導的要因であれば、少なくとも物価水準pに比例して通貨量Mの数値が増えるはずですが、現実に生じていたのは、その逆だったのです。<激しいインフレの中の通貨不足>、これが1991年のロシアを襲った現実でした。

 では、インフレはどうして生じるのか? これをあらためて問う必要が出てきます。あらかじめ、現在の本当に有能な経済学者たちが見ている本当の要因を示したいと思います。それは、一般化して言うと「貨幣的要因」であることは間違いありませんが、通貨量ではなく、「所得をめぐる紛争」(conflict over income)に他なりません。「所得」、これはすでに本ブログでも示したように、価格決定の背後にあるきわめて重要な要因です。それが物価変動に大きい作用を及ぼしたと考えるのは、きわめて合理的なことです。が、この点については、稿を改めて検討してみたいと思います。

 (続く)

2022年12月4日日曜日

物価について 3

  前回は、価格現象の背後には、価格を価格たらしめる価値の実体があるという思考法を取りあげ、効用価値説と労働価値説を簡単に検討してみました。この2つのうち、効用価値説が成立する余地はないことを、ごく簡単な経済学史の整理を通して明らかにし、また労働価値説についても、それが例えば物理学にいう物質(の重量)と質量との関係にような意味では、労働が価格(価値)の実体ではありえないことを結論しました。ただし、労働量(というより労働時間)と価格との関係については、人が一定期間に妥当な労働時間と妥当な所得を実現することを求め、その結果、労働量が価格を決定するための最重要な要因となる力学(メカニズム)が存在する可能性を示唆したつもりです。

 もちろん、これらの点についてもまだ述べるべき問題が残されていますが、それはしかるべき機会に委ねることとして、今回はさしあたり物価の変動に移ることとします。

  物価がそれをとりまく諸条件(環境)の変化に応じて変化することはあらためて言うまでもありません。とはいえ、日常の経験からも明らかな通り、モノ(商品)には、①価格がかなり激しく変動するものもあれば、②どちらかといえば安定しており、少なくとも短期的にはほとんど変動しないものもあります。スーパーなどで経験している通り、前者には、農産物や海産物(主に第一次産品)が含まれており、これらの商品の値段は毎時間、毎日とはいわなくとも、めまぐるしく変わります。季節的な変動が激しいのも、こうした商品の特徴です。卑近な例をあげれば、今年は雨がちの天候が続いたため、タマネギやジャガイモの値段が例年と比べてもかなり高騰しましたが、現在ではほぼ例年の水準に落ち着いているようです。このように多くの第一次産品が価格を大きく変動させる要因が供給側の事情にあることは、普通の人でもよく理解していることでしょう。例えば私の好きなイカがほとんど店頭に並ばなくなり、稀に並んでも異常な高値(700円/杯)がついていては、買う気も起きなくなります。

 一方、同じ食品でも加工品などは、一年を通じて同じ値段に設定されていることが多く、工業製品(第二次産業の製品)や各種のサービス(第三次産業の産出物)もかなり安定しています。そこで、今年のようにインフレーションが大きい問題となった年には、いつも498円で売られていた食品(海鮮丼)が598円になっているのを発見したときには、インフレが実際に生じていることを実感することになりました。

 このような物価の安定性、あるいは「粘着性」(stickiness)は世界的に見られる現象であり、特に欧米ではときおり経済学者の調査の対象となるほどです。その際、ほとんどの商品の価格を設定するのは、それを生産する企業ですので、物価関係の調査は企業の価格設定行動に関する調査を通して実施されてきました。

 その結果を要約すれば次のようにまとめられるでしょうか。

 通常、企業は価格設定についてはかなり保守的であり、1)値下げを欲しないばかりでなく、2)値上げについても消極的な態度を取ります。まず値下げについては、仮に自社が値下げしたとき、もし他社が追随しなければ、自社の売上げが増え、結果的に総売上げが増えるかもしれませんが、しかし、実際には、他者もそれに追随する可能性が高く、その結果、その業界全体が損失を被る危険性が高い、このようにビジネスマンは考えます。それでは値上げについてはどうか? もし値上げしたとき、かりに他社が追随すれば、(消費者が購入をひかえることもできず)その業界全体が利益を増やす可能が生まれることが期待されます。しかし、ビジネスマンは、もし他社が追随せず、値上げしたのが自社だけとなった場合、自社の販売が減少し、利得を増やすどころか、損失を被るリスクが高い、と考える。

 要するに、ビジネスマンがこのように考えるのは、彼らが現代経済でも市場競争が行われており、その環境を前提として価格設定変更のリスクを考えるからです。その際、彼らがかなり大きく変動する第一次産品を製品の原材料の購入者であるにもかかわらず、そうした変動を想定して価格設定を行っているため、彼らは同時に第一次産品の価格変動を吸収し、抑える役割を演じていることも指摘しておく必要があります。

 しかし、こうしたことは彼らの次のような価格設定行動を理解するために重要です。それは、インフレーション(仏家水準の上昇)が進行している時の行動です。この場合、原材料や(それに対応する)賃金の上昇の影響は、自社だけでなく他社も同様に被るため、値上げを躊躇することはほとんどありません。これは欧米の企業についてはもちろんですが、近年値上げにことさら神経質になっていた日本企業についても(欧米に比べれば、小さいレベルかもしれませんが)同様です。 (ちなみに、日本経済については、機会を見つけてより詳しく検討してみたいと思います。)

 ところで、こうした価格の「粘着性」問題については、ビジネスマンの上記の態度が経済理論的にどのように整合的に説明されるのかを、検討しなければなりません。 とりわけ、私たちは価格決定に関するクロス(需給の均衡点)理論を否定した以上、それに替わる理論的説明を行うことが求められます。

  またこれらのこととは別に、インフレーション(そしてデフレーション)の問題を議論する必要があり、特にそれらがなぜ、どのような要因で、あるいはメカニズムを通じて生じるのかを検討しなければなりませんが、そのためには、何と言っても現代における貨幣(または通貨)の問題をあらかじめ理論的に整理しておく必要が出てきます。

  (続く)

2022年12月3日土曜日

物価について 2

  初回は、主に新古典派の教科書経済学に載っている需給に関するクロス図の非現実性=虚偽性を説明しました。これについては、まだ重要な点が二三残っていますが、それらについては後日適宜言及したいと思います。それに言及するためには、その前に明らかにするべきことがいくつかあるからです。

 さて、今日はいわゆる労働価値説(value theory of labour, or theory of labour value?)について語ることにします。が、本論に入る前に、前回説明したクロス図が効用価値説(theory of utility value)と呼ばれていることに注意しておきたいと思います。実際には、この理論は、限界効用の低減および限界費用の逓増という2つの公準にもとづいているので、そのうち効用だけを取り出して、効用価値説と呼ぶのはいかがなものかとも考えるのですが、世間ではそのように呼んでいるので、ここでもさしあたりそのように呼ぶことにします。

 イメージとしては、例えば現代の物理学者が「質量」と呼ぶものを考えると理解しやすいかもしれません。ここに例えば10kgの米と10kgの鉄があるとき、両者は素材としてはまったく異なったモノ(米と鉄)です。しかし、この地球上では両者とも10kgであり、かりに月面に持って行って計れば、両者とも2kg弱になるはずですが、その中に含まれている実体(質量)は変わる訳ではありません。

 このように価格現象の背後にある実体(substance)が存在するという思想は、少なくとも古代ギリシャにまで遡ります。哲学者アリストテレスが家政術(oikosnomos)を論じた書物の中で、価格現象を取りあげ、複数の等しい価格の中には等しい何か(実体)が隠されているのではないかと考えたことはあまりにも有名です。

 x単位のワイン=1ドラクマ

 y単位のオリーブ油=1ドラクマ

 等しい価格1ドラクマの中には共通の何かがあるに違いないと考えるのは、ある意味で当然の思考方法でしょう。しかし、結論的に言うと、アリストテレースは、そのような実体(あるもの)を発見することはできず、そこで存在しないという結論に達します。

 それからおよそ2千年。ブリテン島の一群の経済学者たちは、当該商品を作り出すのに投下された労働こそがその実体であり、価格の大小は投下された労働量の大小によって決まるという思想に到達しました。(労働価値説としては、その他に支配労働価値説と呼ばれるものがありますが、これは省略します。)その中でも最も有名な経済学者がアダム・スミスであり、その経済学上の主著が『諸国民の富』(the wealth of nations, 1776)であることは言うまでもありません。

 

  しかし、アダム・スミスの労働価値説は、必ずしもスムーズに次の世代に受け継がれたわけではありません。多くの批判者が現れました。その中でも最も重要な人物が***であったと、私は考えています。彼は経済における人間の意識、または主観の重要性を指摘しますので、しばしば誤解されて、効用理論の提唱者とされることがありますが、それはまったくの誤り、無理解です。実際、彼は効用理論もまったく成立しがたいと考えていました。私は彼がイングランドの正当な哲学的伝統の上に立っていたと考えています。

 彼の言うことは、こういうことです。 どのような価値実体説であるにせよ、それらがなり立つからには、それは人(各個人にせよ、集団にせよ、社会全体にせよ)の意識にのぼらなければならず、人によって認識されなければならないということです。その認識メカニズムが明らかにされない限り、社会科学としての経済学の理論は成立しない、と。

 私もその意見に完全に同意します。そして、これが自然科学と社会・人文科学とを峻別する相違点をなすと思います。前の話に戻り、物理学の質量を取りあげましょう。物理法則、例えばニュートンの運動方程式は人間の意識とは無関係に成立します。もちろん、それを認識するのは人ですが、宇宙に発射されたロケットが描く軌道は、地上の人間の意識とは無関係に決まります。もちろん、官制センターの誰かが軌道を変えるための指示(電波を通じた操作)を与えれば別ですが、そうでない限り、ロケットは物理法則に従って運動するのみです。しかし、経済は人間の営みであり、人の意識によって決定されます。

  後に(19世紀)になってから、まずD・リカードゥが、そして次にK・マルクスが労働価値説の再構築を試みますが、その場合でも、いま述べたことは当然当てはまります。

  ここでちょっと思考実験をしてみます。今、あなたがマーケットで買い物をしているとします。あなたは、買いたい商品を探しだし、そのパッケージを見て価格を確認します。もしその価格を妥当と感じれば、買うでしょうし、高すぎると感じれば、買わない可能性もあります。しかし、決してその商品の生産のために投下された労働量を考えることはないでしょう。もしいたとしたら、それは超レアな人に違いありません。しかし、そのようなレアな人も実際にその商品に投下された労働量を知ることは不可能でしょう。

 ただし、これで話しは終わり、という訳ではありません。市場で商品を買うという瞬間の時点では、商品に投下された労働量を知ることができないとしても、もっとルーズな、現実の長いタイムスパンの中ではどうでしょうか?

 この場合でも、個々の商品の生産に投下された労働量を正確に計測することはありえない不可能事であることは疑えません。そもそも一口に労働量といっても、個々の労働は異質であり、ある人の一時間の労働(製鉄作業)と別の人の労働(農業)はまったく違う作業です。この点について、マルクスはもちろん気づいており、「具体的有用労働」が「抽象的人間労働」に一般化される経路があると主張します。また複雑労働の単純労働への還元についえても言及します。私は、この主張に完全には同意できないところがありますが、ともかく、最終的には、労働時間が労働量を計測するための単位であるという結論には、同意せざるをえません。

 そして、労働時間については、人によってかなり異なるとはいえ、当該社会にとって標準的または妥当な水準に関する社会的同意はあると言えるでしょう。現代の世界では、欧州の労働時間はかなり短くなっており、1500時間/年ほどでしょうか。日本の場合は、それよりかなり長く、2000時間ほど。ダラダラ働き、時間あたりの労働生産性の低さが問題点として指摘される程です。

 瞬時ではなく、長いタイムスパンの問題として、次に取りあげなければならないのは、所得です。所得は、一定期間に実現されるフローの量であり、ほとんどすべての人が働くのは、この所得を得るためです。そして、上記の労働時間を通じて人々が年間に受け取る所得は、年齢・職業・性別・熟練度・その他の要因に応じて、バラツキ(格差)があります。

 ともあれ、多くの人の意識の中では、「自分はこれだけ働いたのだから、これだけの所得を受け取って当然」と満足したり、「あれだけ働いたのに、少ない」と不満を並べる、等々です。

 ここで述べたことは、何を意味するでしょうか? 次のようなことは、間違いなく言えるはずです。

 1,マルクスが資本論で当然のように前提して記述を行っている投下労働時間に応じた厳密な等価交換は、実際には行われていない。むしろ不等価交換といった方がより正確であろう。

 2,それにもかかわらず、労働時間と所得というターム(現実に認識される事実)を通じて、労働量(あるいは労働時間)は、物価に大きく寄与している。

 この2点についてさらに敷衍したいと思います。

 現実の取り引きでは、投下労働に応じた等価交換が行われていないことは、現実の経済を少しでも観察したことのある人なら誰でも分かることでしょう。もしもそれを信じている人がいたら知性を疑いたくなります。それにもかかわらず、マルクスが等価交換を前提として理論を組み立てた理由が問題となりますが、その理由の一つが彼もまた人は「理念型」を通じてしか現実に接近できないと考えたからと、私は思います。

「理念型」(ideale Typen) というと、マックス・ヴェーバーを思い出す人が多いと思いますが、私の意見では、彼に限るわけではありません。

 そもそも人の認識能力は限られており、複雑で複合的な要因からなる不確実な現実世界を「ありのままの事実」として見るためには、複雑な手続きが必要となります。われわれは、構成的概念を用いて現実に接近しなければなりませんが、その理由は、私たちが現実を一挙に正確に認識できないからです。現代の物理学でも、私たちの住む宇宙(時空)のすべてを認識できないため、構成的概念を用いています。そして、「ありのままの事実」が少しづつ認識される程度に応じて、理念型に合わない部分を修正し、ある場合には構成的概念を全面的に組み直すことも行われます。

 社会科学でも同様でしょう。かつて、ある人が私に向かって、ヴェーバーの理念型は、静態的、固定的で現実にあわないという旨の発言をしたことがあります。しかし、ヴェーバー自身はそのようなことは当然織り込み済みであり、現実の世界はもっと複雑であることをよく知っていたはずです(「社会政策学と社会科学的認識の客観性」論文)。例えば彼は、中国が典型的な家産制国家であると言いますが、同時に、それを破るような試みが歴史上しばしば現れたことをも注意をもって指摘しています。

  マルクスに戻ると、彼もまた<とりあえず前提して議論を進め>、後でその前提自体を再検討するという作業をしばしば行ってきたように思います。ところが、原理主義的・訓詁学的マルクス派がそのことを理解せず、マルクスを検討することを拒否してきたように思います。そして、そうこうするうちにマルクス自身が拒否されることにもなってしまったようです。

  もう一つの点です。マルクスは『資本論』を出版した後に、ある医師から<この本は、労働価値説を前提として議論を議論を進めているが、労働価値説自体が説明されていない>旨の意見を受け取りました。私も(多くの読者もそうではないかと思います)、そう思います。そして、これに対するマルクスの返信が私には大きい関心をそそります。彼の返信は、<労働なしには、どんな社会も一週間と存続できない>といった趣旨のものです。

 私も、これには100%同意します。自然(地球)と労働は富の二つの源泉です。たしかに、これは投下労働に応じた等価交換を必ずしも意味するものではありません。しかし、労働なしで富は享受できないこと、そして物価の背後にある要素の中で、労働こそが無視できない、最も重要なものであるということは否定できません。

 繰り返しますが、私は厳密に投下労働に応じた交換がなされていると主張しているわけではありません。現実には、不等価交換が行われています。しかし、それにもかかわらず、労働量(または労働時間)は価格の背後にはり、それに最も強く作用する要因であることも否定できないはずです。それを人が意識・認識するメカニズムもあります。

 このような意味で労働価値説が妥当することは、社会的にも広く意識されています。例えば、現在日本の人口統計学的状況はかなり悲惨となっていることが(遅まきながら)意識されてきました。毎年の出生数は、安倍政権時代にも急激に減少し、減少傾向はおさまる気配を示していません。これは味気ない経済学のタームを使って表現すれば、今後、(外国から労働力=移民を受け入れない限り)労働力が何十年間も減少しつづけることを意味します。もちろん、これが意味することははっきりしています。

 私の意見は、「日本、オワコン。この先も長く続く衰退の道」、この一言につきます。下の図から、橋下・小泉構造改革(リストラ)の時代、安倍腐敗政権の時代にいかに危機的に少子化が進行したかを、よく見ていただきたいと思います。

(続く) 



 

2022年12月2日金曜日

物価について 1

  しばらくぶりに本ブログを更新することにします。

  この間ずっと、T・ヴェブレンの翻訳に取りかかってきましたが、5回目の訳文の推敲が終わりに近づき、何とか出版できるような日本文になってきたように思います。これまで一パラグラフずつ、そして一文ずつ、きちんと意味の通じる訳文になっているかを確認しながら、またそのためにパラグラフごとに二行以内の要旨をつけながら(アダム・スミス『諸国民の富』がそのような形式になっています)、やってきて、ほぼ誤訳や不適切訳をなくしたのではと思っています。

 それはさて、「物価」ですが、今年になって日本でもかなりのインフレーション(持続的な物価水準の上昇傾向)が生じ、この間もこれまでスーパーで498円で売られていた海鮮丼が598円と20パーセントも上がっていました。この物価上昇は、言うまでもなく、輸入インフレ(輸入品の物価上昇)によるものであり、それがまたロシアによるウクライナ戦争、そして日本にとっては円安(ドル高)によるものであることは言うまでもありませんが、これに関するラジオ、テレビ等における各種の解説に違和感を覚えるものがかなりあったので、ここに私自身の考えてきたことを、きちんととは行きませんが、雑感風に綴ってみたいと思ったしだいです。

 市場(market)で売られている財やサービスに「価格」がつけられていることとは、小学生や中学生はもちろん、幼稚園児でも知っていることと思いますが、それがどのようなメカニズムによって決まるのか、どのようなメカニズムによって変動するのかは、かなり複雑であり、また複合的な性質をもっているため、それをきちんと説明するのは、専門家にとってもそう簡単なことではないと、私は思います。

 こういうと、もしかすると人の中には、高校生(中学生)の時に、社会科の教科書に「×」(クロス)の図が載せられていたのを思い出して、需要曲線と供給曲線の交点で決定される(供給量=需要量と価格が)に決まっているジャンと思う人がいるかもしれません。私が大学の演習でこの問題を扱っていたとき、右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線の交点で価格も量も決まりますと、答えた学生がいました。

  しかし、これは誤りです。少なくとも私はそう思いますし、多くのまともな経済学研究者もそう考えています。この「物価について」では、この点から始めて、物価の様々な問題について述べて行くことにしたいと思います。

  さて、×(クロス)の思想がなぜ誤りなのか、経済学史(経済学の歴史)を紐解きながら、解説することにします。

 この図(が示す思想 )は、何となく正しそうが気がします。繰り返しますが、何となく、です。が、何となくなので、その根拠を問われると、答えに窮する人が多いでしょう。わが学生も、私が「どうして?」と問うと一瞬戸惑い、次に「消費者(購入者)は価格が低いほうが有利ですし、反対に生産者(供給者)は、価格が高い方が有利です」という風に答えたように思い出します。たしかに人々(需要側、供給側)の「希望」がそうであることは間違いないでしょう。しかし、「希望」はあくまで「希望」であり、現実のメカニズムもそうなっているとは限りません。困りました。

 そこで、次に「あなたは現実の商品、例えば米について今時点でのクロス図を描くことができますか?」と問うてみるとします。よく米を買いに行く主婦(または主夫 )ならば、5kgの米が1500円~2000円程で買えることは知っていると思いますが、それは無限にある点の中のただ一点=交点(p、Q)の情報にすぎません。

 


 しかし、実証科学をめざす経済学ならば、この図がインチキと断定されないために、十分なデータがあれば、「描けるはず」ということを示さなければなりません。すくなくとも、原理的には可能だということを示すことができなければ、話しになりません。

 そこで、この点では有能と認めざるを得ない一群の人々は、次のような思想に到達しました。

 

1)右上がりの供給曲線(SS)の根拠

  単に「希望」ではなく、実態的な根拠があるというために考え出されたのは、モノ(財やサービス)を作るのに必要な費用が逓増するという「理論」でした。モノを作るのに費用がかかり、モノの生産量が増えるにしたがって総費用が増えるというのは、誰も否定しえない自明な事実でしょう。しかし、それだけでは十分と言えません。生産量が10単位のとき総費用が100円であり、生産量が20に増えたとき総費用が200円だとします。この場合、一単位あたりの生産費はいずれも10円であり、費用は逓増したとは言いません。

 そうではなく、生産量が増えるにつれて単位あたりの費用が10円、15円、20円・・・と上昇してゆくとき、費用は逓増すると言います。そして、このように費用が逓増するからこそ、物価が10円、15円、20円・・・と上がって行くのに応じて、生産者は利益が出るギリギリの点まで生産量(供給量)を増やして行く、という思想です。うまいこと考えました。その頭のよさには脱帽してしまいます。・・・が、この思想が正しい(つまり現実に即している)かどうかは、別のことです。これについては、後で検証します。

  2)右下がりの需要曲線(DD)の根拠

 こちらも単に「希望」ではなく、「疑いない事実」にもとづく根拠があるということが実証科学としての経済学には必要ですが、そのために考え出されたのは、効用の低減という思想でした。つまり、私たちは、モノを買うとき、必要があって買うわけであり、ある種の効用を感じるから買うという事が何となく正しそうと思われます。米を例に取れば、最初の5kgには100の効用を感じ、それを含めた10kgには200の効用を感じ、さらにそれらを含めた15kgには300の効用を感じるという風に考えると、単位(5kg)あたりの効用は、100と変わらないことになります。しかし、一連の理論家たちは、購買量が増えるにしたがって、この効用(限界効用)が次第に低下してゆくと考えました。このように考えると、個人レベルで考えても、まだ集団で考えても、購買量が増えるのは、限界効用の低減に応じて価格も低下してゆく場合です。(したがって、この定理では、効用と価格には一定の正比例関係があるということになります。

 実に美しい理論というべきではないでしょうか?

 しかし、(これの提唱者にとっては)悲しいかな! 現代の科学は、自然科学であれ社会科学であれ、「疑いなき事実」(matter-of-fact)にもとづいており、そこから出発し、そこに回帰します。そして、上の理論(以下、「公準」といいます)は、この点からみて、決定的に怪しいことが分かっています。

 これについての詳しい紹介は、おいおい実施することにしますが、ここではさしあたり簡潔に次の点だけを示しておくことにします。

1)ほとんどの調査は、費用の低減を否定している!

 これまで欧米でも、また日本でも各種の調査が商品の価格設定に関連して行われてきましたが、その結果、ほとんどの製品について、費用は逓増するどころか、逆に低減していることが明らかにされてきました。このことはすでに19世紀末には明らかにされています。

 しかし、よく考えれば、当然のことです。モノを生産する企業が生産量を増やしてゆくほど、効率よくモノを生産することができ、より安い価格で提供できることは、よく知られています。企業がより多くの商品を売るために、商業的努力をしていること、さらにはより多くの商品を購入する顧客に特別のよい条件を提供することもそれを裏書きすることになるでしょう。

  ただし、念のためにつけ加えますが、農業などの第一次産業では事情が少し異なっており、(限界)費用は逓増する場合が多く見られます。これは、すでに農業に適した土地がすでに利用されており、それ以上に生産を増やそうとした場合に、不適地を耕したり、肥料などの追加投資を必要とするためと考えられています。しかし、企業調査は、そのような分野が総生産の数%ほどを占めるにすぎないことを示しています。

 2)効用は測定不能です!

 一方、そもそも限界効用の逓増、低減を語るまえに、効用は測定可能なのかという問題があります。そして、結論を言えば、それが測定可能と証した人は一人もいません。仮に測定可能とはどういうことかについても述べておきましょう。まずそれには単位が必要となります。また個人ごとに異なる効用評価を比較したり、合計したりすることができなければなりません。あなたは米5kgに対してどれだけの効用を感じるでしょうか? またそれを数字で表すことができるでしょうか? もちろん、それは各人の心の中の心理的事実として否定はできないかもしれません。が、同時に、物価の根拠となりうるためには、客観的・外面的な数値によって示すことができなければなりません。そして、結局、この難題に答えることのできる人はいませんでした。

 この状況に最後まで抗った人はいます。中には、効用は(量を表すための)基数ではなく、序数だといった人がいます。例えば、私はバナナが一番好き、リンゴが二番目で、蜜柑が三番目・・・。K君はリンゴが一番好き、二番がカレーで、三番がラジオ・・・・しかし、これが何の役にたつのでしょうか?

 もう一つの残念なあらがいは、例えばleets(steelの逆)なる単位を考え、それが価格に比例するというものでした。例えば10 leets=100円という等式が成立すれば、1000円のモノの効用は10 leets ということになります。しかし、これは主客転倒しています。本来は、効用が価格を説明しなければならないのに、価格が効用を説明するという逆転が生じているわけです。よく言っても「同義反復」(tautology)にすぎません。

 こうしてクロスの思想は、経済学史上は消え去りました。ところが、です。それにもかかわらず、高校の教科書には載せられており、また大学の新古典派経済学の教科書には、載せられています。ただし、多くの場合、その根拠は、「当然の公理」として書かれていないか、書かれていてもぼやかされているか、です。これは、今日の物理学がそのよって立つ根拠となる事実を明示的に示し、そこから出発するのとは大違いです。

 が、今日のところは、ここまでにします。


2020年2月2日日曜日

労働価値説とは何だったのか? 観念論的形而上学化と経験科学

 大学の経済学部に入学してしばらくしたときのことを今でも思い出す。
 それなりに経済学に関心を持っていた私は、マルクスの『資本論』(岩波文庫本)を読んでみた。周知のように、それは「資本主義的生産様式の社会における富は巨大な商品集積として現われ、個々の商品は富の原基的形態として現れる」という文章から始まり、「商品の分析」に入り、いわゆる労働価値説に進んで行く。

 ところで、労働価値説とは何か? 正直にいって、今でもあまりよく理解しているとは言えないが、ごく大雑把に言えば、資本論では、交換される二つの素材を異にする商品の交換価値は、同質・同量でなければならないとされ、結局、それ(実体)は抽象的人間労働でなければならないとされ、さらに等しい労働量が交換されるという結論に至る。

 ここで、少し後知恵的なことも交えて、当時の私の当惑を記すと、次のようになる。
1)例えば1000円の本と1000円のセーターには、等しい労働量が投下されている(結晶化または対象化されている)ということになるが、それはどのような経験的事実によって確認されたり、保証されるのであろうか?
2) あるいは、本当に等しい価格のものには、等しい労働量が対象化されているのであろうか? 例えば1000円の本にも1000円のセーターにも一時間分の労働が対象化されているのだろうか?
3)それとも、現実はそうはなっていないことは明らかに見えるが、この理論は現実の姿(Sein)を示すというより、むしろ「そうあるべき」(shall, sollen)だということなのであろうか?

 もちろん、18歳以上となれば、それほど子供ではないので、現実には等しい労働量が交換されているなどということは経験的にみて私には信じられなかった。
 しかし、マルクスは、一つには、複雑労働と単純労働が異なっており、前者は後者の何倍かの労働に値すると言っており、また二つめには、個々人の能力が相違していることを前提として「社会的な平均」に言及している。

 しかし、これは、根本的な疑問を持っている人にとって効果的な回答であるようには決してみえない。というのは、マルクス自身が言っているように、現実の商品をどんなに観察しても、そこには生産に要した労働時間などなにも表示されていないからである。
 商品が対象化された労働量に応じて交換、あるいは貨幣を介して売買されることを説得するには、それなりのメカニズムの説明が必要であろう。
 
 実際、資本論が出版されたのち、マルクスの知人であったある医師は、マルクスに宛てた手紙で、資本論は、労働価値説を前提して書かれているが、決して労働価値説を説明してはない、と書き送った。そして、これに対するマルクスの返信は、もし社会全体が労働をやめたならば、その社会は一週間と持たないだろう。というのは、すべての生産物は労働によって生産されるのであるから。あるいは労働は富の唯一の主体的要因である。
 もちろん、このことは自体はまったく疑うことのできない事実であり、数式が好きな人なら、若干単純化して、次のように書き示すかもしれない。
  Q=α*L   Q:産出量、 α:労働の生産性、 L:労働時間(労働量)

 しかし、これは交換される二つの商品に対象化された労働量が等しいという主張とはまったく異なるレベルの主張である。

 そこで、異なった素材の価格の等しい商品には等しい労働量が対象化されているという意味での労働価値説は、当為(Sollen)を説く道徳または観念論的形而上学として放棄するべきであるという見解が、広い意味でマルクス経済学の立場に立つ人の中にも出てくることになる(カレツキなど)。ただし、マルクスの意義はそれでなくなるわけではない。
 
 一つには、上式(Q=α*L)という意味での労働の意義は、決してなくなっていない。またもう一つ、私には、かなりルーズな意味になるかもしれないが、労働量が価格形成に大きい影響を与えていることは間違いないように思える。しかも、それには経験科学上の裏付けが可能である。

 シェークスピアが語るように、人は(夜見る)夢と夢の間に囲まれて生きている存在である。一日は24時間であり、その時々の社会の習慣、条件などによって人が生活のために労働する時間は一定の幅に制限されている。例えば週40時間、35時間など。そしてこの時間の労働によって人は生活のための特定の所得(主に賃金)を得る。言うまでもなく、この所得は、基本的な厚生要素として商品の生産費の中に入る。その他に生産費に入るのは、企業者(経営者や株主)の得る純利得、不労所得である。
 この不労所得が生じるという理由から、アダム・スミスは、現代では商業社会以前の古い社会に見られたような労働価値説が(厳格、正確に?)成立しなくなると結論した。しかし、かりにそうだとしても、等しい時間働けば、等しい所得が得られたような社会のありかたがそれによって根本的に瓦解してしまったわけではない。人々が労働によって暮らせるようにという古い原理はいまでも生き延びている。この原理は、人々がこの世に生きている限り、成立する原理である。それは新古典派の形而上学的・観念論的・非現実的な「効用理論」とはまったく異質なものである。この効用理論たるや、人が主観的に感じる効用だけを論じていて、人が如何にして労働するのか、生活するのかをまったく視野の外に追いやっている。しかも、その効用たるは、経験的に測定することも、計算することもできない代物である。

 さて、アダム・スミスが現代では利得が生まれたために、古い労働価値説が成立しないとした、その利得であるが、これこそが実は大問題である。
 先ほどの Q=α*L の示すことと、労働による所得の原理との二つを組み合わせると、どのような帰結になるのか? これこそが重要である。
 観念論的・形而上学的な労働価値説に安住した人々は、経験論的な地平から逃避し、マルクスの信用を地におとしめたように思えるが、私には、経験論的な地平に立って理論を再構築する必要があるように思えてならない。
 先ほどの参議院選挙で、ある野党の候補は、「8時間働けば、普通に暮らせる社会」を作ろうと呼びかけて闘ったが、これは、経済学の価値論の世界の言葉に訳せば、8時間労働によって(なるべく平等な)所得分配を実現する、また高利得を廃するという事にほかなならないだろう。そして、それは(なるべく)等しい労働量(労働時間)の交換を実現する経済社会ということに他ならない。(結果的に、何故そうなるのかの説明はごく簡単であり、省略するが、できれば後日行いたい。)
 経済学はモラル・サイエンスである。それは、等しい労働量が交換されていない不等価交換社会の不正義を廃絶した上に、より公正な、自由な、豊かな社会が実現できることを示すことも可能である。ただし、経済学の限界もある。それを実現するのは、実際にこの世界に住み働いている人々の政治的な声である。