2019年8月25日日曜日

帝政ドイツと産業革命 第二章 古い秩序 3 異教的アナーキー(異教時代の無秩序)

 前回の更新(第二章の2の訳文掲載)から長い時間が経ってしまった。
 
 今回の部分は、北欧のゲルマン諸民族が「王朝国家」を形成する以前の古い、といっても決して「太古的」というわけではないが、まだキリスト教が広まる以前の「異教時代」を叙述したものである。
 ここで「アナーキー」(anarchy)とカタカナ(英語)のままにしておいたのは、まだ「王朝国家」が成立する以前の時代にかかわることなので、ある種の「無政府状態」であったのは言うまでもないけれど、ただ政府が存在しないというだけにとどまらず、ある種の自由な、あるいは無秩序・無規律な状態を示しているように見え、これを表すのにぴったりの適切な日本語が思いつかなかったためである。とりあえず「アナーキー」のままにしておいたが、もちろん「異教時代の無秩序」でもよいのかもしれない。
 

ソースティン・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年)
 第二章 古い秩序
 

 3 異教的アナーキー

キリスト教に改宗し、それに続いてキリスト教の世界史に入る前のバルト諸民族の文化については、同時代やほぼ同時代の記録がない。したがって、その文化を少なくともかなりよく後に残し、かつそれを多少とも異質な社会状態と見ていた書き手が見ていたような、事情を回顧的に示すような証拠を除くと、その文化諸制度に関する直接の証拠は現存しない。したがって先史時代のバルト文化の、物質的な関連以外の状態を示すものは、不充分な文書と状況証拠にもとづく再構成という性質を持たざるをえない。とはいえ、バルト文明の支流と考えられるイングランド人やドイツ人の長期にわたる素質と遺伝的才能を理解しようとする努めるためには、この先史時代の社会状態を明確に概念化することがきわめて必要であり、そこで冒険の危険を甘受し、この目的のために利用できる資料を最大限に活用することが必要となる。資料は最善であっても、まだまだ不足していることが多い。しかし、人間の諸制度に関するどんな調査もそんな場合には「常に最善で充分である」という警句に立ち戻らなければならず、かくして手元にあるものを最大限に活用しなければならないであろう。

スカンジナビア諸国の後期異教文化が与える見通しを通して振り返るとき、この地域の考古学資料の提供する背景に照らして見れば、バルト沿岸地帯社会の先史時代の社会状態の概略的で暫定的な再構成を試みることができよう。そのような暫定的な記述の目的は、今日の北欧諸民族がおそらく遺伝的な気質と能力によって最も適合している生活体系と産業技術の状態を、換言すれば生まれつき適合し、もし環境が許すならば自分たちの「自然状態」として入りこむことになった生活体系と産業技術の状態を、また北欧の金髪雑種人口にとって本質的に異質な異なった生活様式を要求するもっと後の産業技術の状態の圧力を受けて習慣化によってのみ転換・離脱してきた生活体系と産業技術の状態を、できるだけ近似的に示すことである。
市民的な機構の中では、すべての権力は、厳密な公式的な分類ではないとしても事実上は自由保有農民からなる人々の集会に最終的にゆだねられている。それは肩書き上、身体強健で資産を持つ地位にある男性市民を含むが、公式的には自由人のどんな部分をも除外せず、おそらく絶対に厳格にではないとしても、すべての女性を排除する。この協議のための集会は、実際に行使された権力としては、立法、執行(ごくわずか)および司法の権力を行使した。
(1)注3、302ページを参照。
(2)武装した身体強健な男性たちに参政権を賦与するという制限と、武装して集会に参加しなければならないという条件は、彼らがもっと昔のヨーロッパ文明国に侵入した時期と侵入後の時期のこれら野蛮人の略奪者的な群れ(バンド)や戦士社会に観察されるのであり、古代のスカンジナビアに行われていたようには見えない。むしろ少なくとも集会における武器の時折の禁止があった。しかし、そのいったすべての問題は緩やかな形で市民の選択にまかされていたように見える。実践は変化してきたように見える。

警察権はあったとしても無きに等しいが、それでも確立した治安規制の慣習はある。そして国王の農場外では「国王の平和」の観念はない。また人民集会地区の外部にはなんらかの種類の公的権力の強いる「公安」の観念がない。この市民的組織全体を通じて際立っていることは、それが隣人的な自治の考えに依拠しているという証徴であり、その自給的な隣人関係の内部では、――個人や集団が耐えがたい公的な迷惑へと拡大しないように、自分の親族の支援を得て、また最終的には自警団の結成もありうることに示されるような忍耐の緩やかな限度内であるが――自分自身の利害を守るために個人が全面的に依拠されているという点である。
この市民体制は、強制的な統御を行使しない協議集会の常識によって制限される無秩序(アナーキー)であると説明できよう。あるいは、もしその傾きの表現がよいならば、執行権力を停止している民主的な政府と呼んでもよいもしれない。そのすべてが、法制度、合法性の観念が、またはそのような社会で生じる傾向のあるあらゆる事態をカバーする特定の、また細かい法条項の観念さえないことを意味するわけではいささかもない。
そのような不服従にもとづく準無秩序な社会統御の体系は、それが優遇する自然的な性向――その公正の倫理的または審美的な意味――にもとづいてのみ取り入れられうる一方で、その実践可能性は特定の機械的な環境に制約されている。その体系は集団内部の人的関係に依存しており、その支配が及ぶ集団は、そのような人的および非公式の関係の限度内に制限されるにちがいない。それは事物の性質上(本質的に)近隣組織であり、近隣関係の有効な範囲を越えると適用されない。したがって、それは、必要な産業関係がそのような隣人的な接触の可能性を超えない時に、その限りで実践可能である。そして産業の遂行またはその結果生じる経済関係の規模を過度に増やすような産業技術の状態のどんな知覚できる進歩でもあれば、社会の無秩序な体系はますます不安定になる。
早晩、一方の産業社会の伸長によって機械的に実現可能なもの、というよりむしろ不可避的なものと、他方の隣人の常識的な監視というアナーキーな体制の最大限の可能な限度との裂け目は埋め合わせられないほど大きくなる。そこで、旧体制は、組織の効率の条件をなす一体化した感情の同意の有効限度をはるかに超える組織規模をもたらす累積的変化の影響を受けて崩壊せざるをえないことは明白である。その徴に、変化する環境の下でこうした性質を持つ文化を数千年にもわたって発展させることによって、こうした生活様式の規模に対して優れた適応性を示した民族は、おそらく、これらの穏やかな限界を大幅に超える産業技術の状態が強要する条件には安住できないであろうし、またそこで、これらの新しい条件の下で、同じ規模の文化的なバランスと優雅さ、人々の快適さと満足、または健全などこでも見られる多産性などを達成することもできないであろう。
より大きい物的装置を必要とするか、より大きい範囲の事業を認めるような産業技術が進歩するとともに、そのために必要な手段の所有者は、隣人的な監視が効果的な限度を越えて自分の事業を拡張できる立場に入りこむ。彼がこうした限度を越えて引き受けることは、アナーキーな支配下では、その限度内に住んでいる自分の隣人たちに関与しない。実際、外部のどんな事業でも、彼は自分の従事する取引が隣人たちを侵害しない限り、自分にとってよいと思われるように生きることが正しく善なることなのだから、「生き、かつ生かす」という規則の下では、近隣者の道徳的支持を得るだろう。そして必要に備えて、彼は、集団的連帯という常識的な魂が隣人たちを支える限り、かなりの程度に隣人集団の積極的な支持を得るだろう。他の社会、とりわけ遠く離れている社会を、また特に異質(疎遠)と感じられるような社会を犠牲にした利得は、内部で育まれた習慣の基準にてらせば不愉快なものではない。
同時に、財産を重んずる文化におけるあらゆる金銭上の利得がそうであるように、そのような利得は、利得を得る人の地位を引き上げる。そして、その構成員中の誰かに外部から移転するすべての利益は、集団的連帯という無批判的だが至る所に見られる感覚の判断によって、その社会にとっての利益であるかのように感じられる。
(1)この集団的連帯の感覚は、明晰な推論によって簡単に説明することのできないような人種心理学の特徴となっている。しかし、それは疑いなく人間性の不透明な遺伝的事実として受け入れられなければならないだろう。またこの性向を欠くか、それともそれを不十分にしかそなえていないどんな人種の型もこの特徴を持つような型との生物学的競争の中で確実に消えたに違いないのだから、選択的生存(適者生存)の論理によって十分容易に説明し得る。――人間生活が、少なくともここで問題となっている人種にかかわる人類の生活史の分節を通じて、集団によってのみ続けられてきた限りで――。この性向が効果的に実在し、無批判的に効率であることは、国際貿易の問題にかかわる近代諸国民の態度に見られる。そこでは、貿易は直接にかかわっている実業家たちの利得のために続けられている。またそこでは、当国の実業家たちのものとなるような利益から社会全体に利益が生じると考えることなどは精査に耐えないだろう。

そのような事業の得ることのできる好評と追加的な力は、一方では事業遂行の刺激としての、他方では実施を承認するものとしての役割を果たす。そして、あらゆる利用可能な手段を用いて競争的な利得を追求することが譲り渡すことのできない権利であり、また外部者を犠牲にした利益が自分の所属する社会への奉仕より優先されるべきであるということが、普通の習慣となるに至る。また先史時代についても歴史時代についても明晰な分析によっては説明できないが、古代と近代の用法によってよく認証されており、また遺伝的な短所または遺伝的な長所と評価されるような心理学的詭弁のある種の不明瞭なトリックによれば、集団的連帯の感覚は、達成感と一体化し、集団の構成員全体が高貴な身分にあるどの集団構成員の達成にも幸せを感じるというような効果をもたらす。この感情的詭弁はきわめて広く通用するので、社会は外部者を犠牲にした特定の構成員個人の地位上昇の成功を承認し、喜んでいるようという相貌を示すだけではない。社会はまたよく考えずに、自己を明らかに犠牲にして、また新規事業から利得――例えばローヤルティの徴取のような――を受けとらないことが確実なのに、そのような事業をすすめることになる。
つまり旧秩序の小規模な王国の市民は、王国の領土を拡大し、自分たちの君主の家産に第二の王国を追加しても、物質的な利益を得ないだけではなく、それどころか彼らの利益はおそらくそのような帰結を避けることにこそあった、とまったく確かに言うことができる。健全な論理によれば、市民は君主の野望をくじく方策をとるべきだった。ところが、実際には、彼らはそうした王朝権力を強める企てをおしすすめるためにかなりの努力をした。もちろん、それ以来ずっとそれこそが王朝の戦争史であり政治史であった。君主の要求と役得は小さな近隣諸王国という旧秩序の下ではきわめて少なく不規則だったように見える。しかし、王の領地が王を隣人的な感情による効果的な監視の限度を超えるような規模に拡大するやいなや、――すなわち、その領域が一つのこじんまりとした隣近所の程度を越えて拡大するやいなや――君主は、別の君主から奪い取りながらその隣接地の忠誠を利用することが出来たであろう。そして君主権は、次にやがて産業技術の状態によって付加される限界以外には、その持続的な拡大に対するどんな障害も見いださないことになっただろう。この限界は、主に自由にできる交通手段によって決定され、また副次的には君主が自分の領地を拡大し、より広くなった領地を統御する際に用いる部下と手段を調達するために依存する社会の生産効率によって決定された。習慣化は、君主の支持によって強化・認証されながら、忠誠という美徳を生み出した。そして、最後には――旧秩序の最後には――、 「生き、かつ生かす」という統治は、国王が自分にとって好ましいと考えるように生き、また普通人が自分のあがめる王が自分に授けるように生きるという規則に変容するに至った。この集団的連帯への傾向は、彼らの信任する代弁者の権力が強化されることを承認する傾向と一体化し、それは、旧秩序の下で隣人的な忍耐とならんで家の支柱をなしていた不従順と自発性とに代わって、自己利益の否認が新秩序の主要な美徳になるという結果をもたらした。
この時点の事業は二つの主要な線に従っていたように見える。両者は異なっているが、いずれも結局のところほぼ同じ結果をもたらしている。(a) 地方の国王たちは、自分たちの領地を拡張し、帝国のための闘争には不適当な類の王を廃し、その相続権を奪い、かくしてより大きい領域へと統合した社会に以前より専制的な支配をおしつけ始めた。(b)不安な若者や、君主権の圧力増加を耐え難く感じるより高齢の者たちは、冒険的に仲間を結成し、新しい土台への道を外部にきり開くか、混乱の中で衰退した。いまや「祖国」となっている土地を蹂躙し、服従させたあの略奪者の集団は、この階級の出自であるように見える。これらの群集、例えばヘルリ(Heruli)の群集のような群集の中に時折現れる群集は、王族の子によって導かれていたかもしれないが、それは通常の事例ではなかったようである。しかし、いずれにせよ、その結果は、準無政府主義的な自治という旧秩序がやがて無責任な権威と臣従とに席を譲ったという点では、まったく同じである。

2019年8月3日土曜日

企業者の失業に対する態度  経済学を科学する(1)

 企業者は労働者の「失業」(unemployment)、すなわち過小雇用についてどのような態度をとるか? あるいは、どのような状態が望ましいと考えているだろうか?

 このように問題を提起すれば、ほとんどの人は、「失業がないのが好ましい」に決まっているし、企業者も血の通った人間である以上、そう思っているはずと答えるのではないだろうか?

 たしかに企業者が血の通った人間だということは間違いなく、またそのような人間としては失業で人々が苦しむことを望んだりしないだろう、と考えられる。あるいは、もっと一般化して言えば、人々の労働条件がよくなることを望んでいるであろう、ブラック企業などもっての他だ、と考えるかもしれない。

 しかし、もしそうだとしたら、何故ブラック企業がはびこり、また失業はなくならないのであろうか?
 このように問うてくると、多くの人は、少し考えてから、ブラック企業が現れるのは、あるいは企業がブラック化するのは、企業が激しい競争に晒されているからだとか、失業は少なくとも個別の企業者の責任ではなく、彼らの思惑を離れた複雑怪奇な経済活動の結果だと答えるかもしれない。

 この回答には、経済科学が考慮するべき点が含まれているかもしれない。
 それは企業者はやはり単に善良な意思を持つ隣三軒両隣の普通の人ではなく、企業者としての立場(position)にあり、企業者として行動するべきことを(少なくとも一部の)利害関係者から期待されているということでああろう。すなわち、企業者、例えば雇われ社長としては、自分の任期中に会社の利潤をできるだけ増やし、株主に対する配当、経営者への報酬、内部留保を増やさなければならない、等々である。もし、これがかなわなければ、二年後三年度の株主総会で自分自身が解雇され、失業してしまうかもしれない。

 では、経済学はこれについてどのような回答を用意しているだろうか?
 ここでも、経済学者はいくつかの意見を異にするグループに分かれる。そして、このグループ分けは、本ブログでも繰り返して説明してきたものに他ならない。
 1 新古典派
    いわゆるニュー・ケインズ派、マネタリスト(通貨学者)を含む。
 2 ポスト・ケインズ派
    ケインズの流れを汲むグループとカレツキの系列では若干意見が相違する。
 3 マルクス派
    他ならぬ、マルクス自身の説明がある。
 4 制度派
     T・ヴェブレンは、これについて明確な説明を持っていた。

 ここにあげた4つの流れは、ここで提起されている問題について、さらにいくつかの小グループに分けられるかもしれないが、相互に共通する、あるいは類似する見解を持っているとも言いうる。
 きわめてルーズに言えば、1)新古典派が失業を自然現象として説明するか、その責任を労働者のせいにする傾きがきわめて強いのに対して、2)~4)は、むしろ本質的に企業のありかた、ということは資本主義のありかた(分かり易く言えば「欠陥」)に密接に関係しており、 例えばカレツキ、マルクス、 ヴェブレンのように、企業者の態度・行動に帰せられるという点で一致している。
 もしそれらの間に相違があるとしたら、それはその「欠陥」が資本主義の修正によって取り除くことが可能なのか否かという「ビジョン」の相違に由来すると言ってもよいように思われる。しかし、終局的な解決方法の如何を別とすれば、したがって100年、200年先といったようにそれほど遠い将来ことでなければ、むしろ共通性の方が強いとも言えるだろう。

 それを制度派のT・ヴェブレンの用語で表現すれば、「失業」は、「事情がゆるす限り、他の人々(つまり大抵は、多数の労働者)を犠牲とした多くの利得」(What the traffic bears) を目的とする資本主義体制に特有の現象にほかならない。「失業」、あるいは生産要素の過小雇用は、そのために費用(その中では人件費が最も重要)を引き下げるために行われる最も通常な、どこでも行われる方法である。もちろん、そのことは公然の秘密とされなければらず、またそれ以上に他の様々な宣伝・方策によって糊塗されている。


 さて、経済学はこの問題をどう説明しようとしているか、そしてどれが最も事実に近いのか、これが問題である。               (この項、続く)

2019年7月27日土曜日

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 「経験」と「歴史」はどう違うか?
 
 その前に、歴史はおろか、経験にさえ学ぼうとしない人もいるかもしれないと思うと、ともかく学ぼうとするのはよほどましということになるかもしれないと思う。

 さて、夏目漱石の「創作家の態度」というエッセイは、漱石としてはめずらしく一種哲学的な趣のあるエッセイだが、ちょっと読んだところでは、その辺にある哲学書の解説というよりは、自分の脳で考えたものらしい。ただ、その中で最初の部分に「ジェームスと云う人」に言及しており、その人の「吾人の意識するところの現象は皆選択を経たものだと云う事」を紹介している。後の方になると、かなり難しい議論を展開しているが、これなどは最初の導入部だけあってずいぶんと分かり易い。
 「経験」というのは、皆、個人個人の生涯(life-history)の限度中で得られた体験であることは言うまでもないが、それだけでなく、何らかの「選択を経たもの」であるという制限・制約を受けていることになり、歴史に比べていっそう狭くるしいものであることはわかる。しかも、個々人にこうした選択をさせる脳(意識)の働きは、漱石が別の処で論じている「模倣」、つまり社会学でいうところの「社会化」、広い意味での「教育」によって条件づけられており、当該個人を育ててきた社会(国、地域、一族、家族など)の「バイアス」(ある傾向への偏り)、「先入観」(preconception)、「思考習慣」--これはソースティン・ヴェブレンの用語から借用している--の働きに関与していると言えるだろうから、国籍や地域性によって異なるということもできよう。
 またこれとはことなった方向から考えることもできるように思う。
 「柳の下にドジョウはいない」ということわざがあるが、これは、ある人がある時にたまたま柳の木の下を流れる流れにドジョウを見つけ、獲ることが出来たとしても、柳の下を流れる川で常にドジョウを捕まえることができるわけではないことを示したものである。言うまでもなく、仏教の有難い御経をひもとかなくても、すべての現象・事象は相互依存的に生成する(dependent-rising)という縁起が成り立つことは、ちょっと哲学的な思考をすることができる人には自明の理である。ある時に川にドジョウがいたのは、そのための他の諸条件が整っていたからに他ならない。私が子供の頃は、春まだ田圃の耕作が始まる前だったか、刈り取りが終わった後だったかよく覚えていないが、シャベルで田圃の土をかくとドジョウがうようよといたものだが、いまはいない。強力な殺虫剤、多分今では使用されていないホリドールという強烈な薬品によって絶滅したからであろう。そういえば、昔は田圃のあちこちにいたタニシ(貝)もいない。ただ、源氏ホタルのエサになる「ビンドジ」という巻貝は郷里の家の後ろの池とも側溝とも言えない処に細々と生息しており、そのために我が旧家は貴重な源氏ホタルの発生地となっている。

 つい話しがそれてしまうが、経験とはどのようなものかを説明、いや自分で納得するために考えながら書きつらねているため、ついそうなってしまう。
 さて、以上の「経験」と対比すると、おそらく歴史とはそうした個人個人の選択を経た経験を越えるものということになろう。でなければ、この文章にとって都合が悪い。
 それはむしろいくつかの層からなる人々(社会)の経験を脱構築する(deconstruct)ものでなければならない。それは少なくとも、様々な人を特定の方向に偏らせる諸要因を自覚化させるものでなければならず、したがってある選択をもたらした意識上の諸要因を明らかにするものでなければならない。
  またそれは別の観点から言うと、相互依存的な世界をそのようなものとして見直し、その相互依存関係、あるいは因果関係の実相にせまるものでなければならない。

  さて、自分は何故このようなどうでもよさそうなことにこれほどにこだわっているのか?
 それは、私のちょっとした経済学上のこだわり(発見というほどのものではない。というのはすでに多くの人が指摘しているようにも思うためである)に解決の糸口を見つけることができるかもしれないと考えるためである。その発見というのは、経済が例えば「オランダ病」や「イギリス病」、そして現今の「日本病」などの病に罹った場合、 人々は合理的に行動し、その病から脱出する手段を簡単に見つけることができるのではなく、むしろ反対に悪化する方向の行動(経済的行動にとどまらず、政治的選択を含める)を取ることが往々にしてありうるということに他ならない。
 さすがに、ケインズは、『一般理論』の本論で、彼の基礎理論を展開し終えたのち、最後の部分でこれに取り組んでいるように見える。彼の見解は「思想」と「与えられた利害関係」(idea and vested interest)というものである。ただし、この両者は別々のものであるかのように捉えられているかもしれないが、分かちがたく相互に密接に関連していると捉えるのがよいように思う。また彼が本論中で指摘した「合成の誤謬」という論理的誤謬も両者の関連を歴史の中で具体的に把握するためには、論理的な環として重要なことであるように思われる。しかし、従来の経済研究の中では、この側面を深めることはあまり追求されてこなかったように思う。
 
 ともあれ、いわゆる経済学研究が政策科学として成立するためには、こうした制度派的な視角からの分析が必須であるように思う。

2019年7月23日火曜日

漱石もマルクス『資本論』を読み、金権腐敗の輩に筆誅を加えていた 私も見習わねば・・・

 1997年に財界(大企業)が雇用戦略を転換し、労働条件の改悪、賃金抑制を実施しはじめたことは、経済学をやっている人ならほぼ誰でも知っている。実際、賃金率は名目・実質ともに低下しはじめた。それがデフレ不況(本質的には賃金デフレ)の開始である。当時、比較的ましだった日銀は、それに警鐘をならした。賃金低下→購買力低下→有効需要不足→不況→デフレ圧力→賃金低下のスパイラルを懸念したからである。
 本来なら政府も「そんな馬鹿なことをしてはならない」と諭すべきところだった。ところが、橋本、小泉「構造改革」(リストラ)は、諭すどころか、推進さえした。
 そして、多くの有権者が「構造改革」というキャッチコピーに踊らされた。マイナス思考の構造改革を批判する私などがむしろ守旧派と非難される始末だった。しかしである、1906、7年頃になるとさすがに雰囲気が変化しはじめてきた。賃金低下、非正規雇用の増加に疑問を持つ人が増え始めたのである。以前は私の言うことに聞く耳をもたなかった人が「佐藤さんの言うことが分かってきました」という人も現れてきた。その間、実に10年もかかっている。そしてその間に非正規雇用は増え、賃金水準は低下し、出生率は低下しつづけ、ブラック化する企業が増えた。
 今また「アベノミクス」なるキャッチコピーに踊らされている人がいる。たしかに小泉「構造改革」と異なっているところがある。それは盛んにデフレ克服、「物価上昇」を叫んでいるところだ。しかし、人々(特に零細業者や労働者)の名目所得(賃金、年金)の引き上げが先行する物価上昇(例えば名目所得が年に2パーセント上昇し、その結果1パーセント物価が上昇するなど)ならともかく、金融操作でまず物価を2パーセント引き上げるなど、愚の骨頂だ。人々の所得が増えないままに物価が上がったら、実質所得が減り、そして人々はますます節約するばかりである。
 私が元持っていた新潟市のある社会人経済教室では、年金生活者の一人がそのことに激怒さえしていた。
 アベノミクスは実際には「アホノミクス」であり、「アベコベノミクス」である。それが日本の社会経済に活気をもたらすことは原理的に言ってありえない。というのは、それは、人々、特に日本の80パーセントを占める個人業者、中小零細企業で働く人々、年金生活者の労働条件と生活をよくする方策ではないからである。それは以前として下請け企業や労働者をt犠牲にして大企業に内部資金をせっせとと蓄えさえ、その内部資金を守るための官制の株価を維持する政策にすぎないからである。
 現在の安倍政治は、金権政治(plutocracy)であり、一部の財界(グローバルな巨大企業)の利益をはかるものにすぎない。それを支える政治屋はいつもは金満家のご機嫌をうかがいながら、選挙のときだけは有権者に愛想わらいを浮かべる。その証拠に、消費増税は財界のご意向であり、内外金融利害の圧力によるものであり、それによってのみ大企業や富裕者の減税の穴埋めができているという「事実」がある。ただし、これが「事実」だということは、ここでは詳しく展開しません、よ。

 ここまで書いてきたとき、ふと明治・大正時代に同じようなことを述べた文学者がいたことに気づきました。
 夏目漱石です。彼もまた「金権腐敗」の輩が多い、世が激しい格差社会だということに激怒し、ペンをもって「筆誅」を加えんとしていたわけです。実は、漱石は、経済社会のことについては、相当の知識をもっており、また様々な社会経済事象を考え抜く力を持っていました。これについては、近く新しい記事を書いて、紹介したいものです。
  私などはもちろん文才は漱石の足元にも及ばず、漱石の思考力にひれ伏すしかありませんが、せめて「筆誅」を加えんとする志だけは漱石にまけないようにするつもりです。



2019年7月22日月曜日

安倍政治の転落のはじまり

参院選挙が終わった。

 自民党が議席を減らし、改憲勢力が3分の2を割り、ひとまずはほっとしたが、これは安倍政治の転落の始まりとなることは間違いない。
 まず消費増税はかなり長期の消費不況をもたらすだろう。東京オリンピックが終わったあと、いっそうの深刻な状況が訪れる可能性が高い。
 三党合意(社会保障の充実のための消費増税)を反故にして、年金やその他の社会保障費を削減してきたため、多くの人に犠牲が転嫁されている。これも景気悪化に寄与する。
 安倍晋三の大企業優遇政策(法人税減税)の穴埋めに消費税が使われており、また米国からの数兆円に達する武器の爆買など、深刻な財政問題も浮上する。
 マイナス金利を伴う日銀の異常な金融緩和策によって、ほとんどの銀行は金利収入の道を失い、危機的な状況に陥っている。利潤を取るために、従業員(銀行員)に無理なノルマを課し、社会的に許されない営業活動に手を出している。
 年金財源や日銀マネーを使った株価の官制相場もいつ崩壊するかわからない。
 円安誘導はドル高・輸入品物価高をもたらし、実質賃金や支給年金額の実質的低下を招いてきた。一時は「お友だち」の経団連(要は大企業)が賃金を引きあげるふりをしてきたが、以上のような将来不安から、大企業が従業員の労働条件を悪化させ、賃金を抑制して貯めてきた内部留保(利益剰余金)をひたすら大切に守ろうとしてきた。しかし、株価が低下し、虎の子のマネー資産が減価すれば、一種のパニックが生じることになるであろう。
 
 それでも、いままで安倍政権がもってきたのは、「偽ぞう・捏ぞう・安倍晋ぞう」と揶揄される欺瞞政治、マスメディアに対する圧力(政権の広報機関化)などであり、多くの人を「マインド・コントロール」状態に置いてきたからである。しかし、日本のマスメディアの不透明性(政府からの圧力による)は、国連の批判を浴びるにいたっている。また中国、韓国、北朝鮮に対する日本人の不信感を増幅し、ナショナリズムを煽動してきたことが一定の「成果」をあげたためであろう。これは神がかりの異常な政治家が自己の真の姿を糊塗するためにしばしば使う手である。しかし、それもいつまで通用するかはわからない。
 
 安倍政治が終わるときには、景気後退が引き金になり、スパイラル的に様々な問題が露呈される可能性がきわめて高くなる。事物は相互に複雑に依存しているからである。そのときに、多くの人々はそれまで隠蔽されていた「アベノミクス」(アホノミクス、アベコベノミクス)の正体をいやでも知らされることになるであろう。

 もちろんそれには犠牲が伴うであろう。しかし、それはアベノミクスなる異常な政策が6年もの間、実施されてきたことの報いである。


2019年7月19日金曜日

 神奈川県参院選

 立憲野党の2議席(立民・牧山、共産・あさか由香)獲得を願って、
 2人目・あさか由香候補への投票で実現を という横浜駅西口の集会







 おそらく初めてのことと思いますが、
  無党派の前川喜平さん(前文科省事務次官)
  政治学者の山口二郎さん(法政大学)
  れいわ新選組の山本太郎さん
 この3人が横浜駅西口に応援に来てくれました。
 無党派、他党派の人が応援に来てくれたのは、歴史的な出来事ではないでしょうか?

 前川さん
  日本社会・経済、民主憲法を破壊する安倍政治をやめさせる。
  安倍政権の9条改憲(自衛隊の加憲)は恐ろしい。すでに安保法制という違憲立法を制定し、それを合憲化するだけです。アメリカの「有志連合」として海外に自衛官が派遣される。そして「非常事態」、これで憲法は停止されます!!
  あさか由香さんの当選で立憲野党の2議席を実現しよう。
  「偽ぞう・捏ぞう・安倍晋ぞう」をやめさせる。

 山本太郎さん
  日本社会・経済・憲法を破壊してきた安倍政治を終わらせる。
  中小零細企業やそこで働く人々を長時間働かせ、絞り取り、大企業に貢いできた自公政権をおわらせなければならない。人々の所得が増えないから、消費も停滞し、企業は設備投資をしない。日本が衰退する政策を自公政権がすすめてきた。
 消費税をゆくゆくは廃止する。
 庶民が普通に心配なく働ける社会を作ることが求められている。
  「一枚目の投票用紙には、あさか由香。」
  「二枚目には山本太郎と、もし嫌いなら日本共産党と。」


 会場は熱気に溢れていました。
 私も日本を破壊してきた小泉構造改革、それを引き継いでいる安倍政治、国民・勤労者を絞り取り、巨大企業にひき渡す政策に終止符をうち、明日に希望を持てる社会を実現してほしいと思います。 そのためには有権者一人一人の投票が必要です。

 「消費増税、しょうがない」などと諦めるのはやめましょう。
  帰り道、松沢候補(維新)の旗に「何でもかんでも反対に野党」という文句が書いてありましたが、意味不明です。
 ことごとく国民を疲弊させる反国民的・売国的政策をやっているのは、自公とその補完政党=維新です。彼らこそ進歩的な政策を邪魔している守旧派です。
 いまや、日本は「普通に働けば暮らせる社会」をがスローガンとなるような国に落ちこぼれてしまいました。20年以上も、庶民を絞れるだけ絞って、景気を悪化させながら、そこから生まれた利潤を大企業(中小零細企業も犠牲者です)にまわしてきました。
 景気が悪いから、大企業は設備もしません。
  それにしても「普通の生活」が多数者の望みとなるとは、日本もずいぶん落ちぶれたものです。しかし、そう言わざるをえないほどになりました。
 私は偏狭な党派心からこのブログを書いたことは一度もありませんし、いまもそうです。8時間働いたら普通に生活できる社会、まずは、このつつましやかな希望を実現して欲しい政治家を国会に送りたいと思います。
 
 あさか由香さん、それに前川喜平さん、山口二郎さん、山本太郎さんのスピーチ内容は、これまで私がブログで述べてきたこととほとんど同じです。
  私があさか由香さんを支持こそすれ、反対する理由はありません。
 一方、安倍政治(偽ぞう・捏ぞう・安倍晋ぞう)は本当にイヤです。
 安倍晋三が嫌いという人は私の周りにも、自民党に投票してきた人の中にもいます。しかし、もし自民党・公明党に投票したら、それは安倍政権を支持したことになります。
  

2019年7月17日水曜日

坂口安吾「坂口人生相談 その6 暗き哉 東洋よ」

 以前たまたたま読んだ坂口安吾の「安吾新日本地理」シリーズが面白くて、しばしば安吾のエッセイを読むようになったが、「安吾人生相談」に「その6 暗き哉 東洋よ」と題した文章がある。

 この文章は、ある高齢の女性の自殺とそれをめぐる夫たち(高名な学者とその弟子達)--「王様とそれをかこむ神がかりの徒」と坂口は言う--の対応を扱ったものだが、それはともかく、安吾は最後に次のようにつづる。

 人間の倫理は「己が罪」というところから始まったし、そうでなければならんもんだが、東洋の学問は王サマの弁護のために論理が始まったようなものだから、分からんのは仕方がないが、
 ああ、暗い哉。東洋よ。暗夜いずこへ行くか。
 オレは同行したくないよ。

 マスコミではほとんど報道もされないが、昨今も高齢者の自殺があいついでいるらしい。耳にしたくないような痛ましい死に方をした高齢の女性もいる。その時にどのような思いだっただろうか。
 
 ああ、暗い哉。東洋よ。暗夜いずこへ行くか。
 オレは同行したくないよ。

 もちろこの東洋には日本も入っている。
 そして、これは私の昨今の気持ちを表現するものでもある。