2014年3月23日日曜日

台湾で学生・民衆が立法院・行政院を占拠 TPPにつながる中台間サービス貿易協定を巡り

 しばらく家を留守にしており、ブログの更新ができませんでした。しかし、この間にウクライナでも、台湾でもかなり大きな出来事が生じています。

 台湾では、5日ほど前に激怒した民衆全国から押し寄せ立法院と行政院を占拠しました。しかし、日本の大手マスコミは、ウクライナについてはそれ相応に報道していますが、台湾については沈黙を決め込んでいます。もっとも、ウクライナについても、民衆の平和的な抗議運動をクーデターに変えた極右「右派セクター」(Pravy Sektor)の運動についてヨーロッパの新聞(例えば英国のガーディアン紙など)は詳しく報道していますが、日本のマスコミは沈黙を決め込んでいます。

 さて、台湾が騒然としている理由は、中国・台湾間で結ばれようとしている「サービス貿易」に関する協定を政府が強行しようとしているためです。この協定は、現在日本を含む12カ国で交渉中のTPPに類似した自由貿易協定の一種です。
 これがどうして民衆の激怒をかったのでしょうか? これはTPP交渉に参加している日本にとって決して他人ごとではありません。実は、近年米韓の間でも自由貿易協定が結ばれ、それに端を発して韓国国民の間でも抗議運動が高揚し、韓国議会が大荒れに荒れました。そして、この時も日本の大手マスコミはいっさい報道しようとはしませんでした。
 何故韓国や台湾の多くの人々が激怒し、また何故日本の大手マスコミはそれを報道せずに、隠そうとするのでしょうか? 本ブログでも何回か書いたように、これはTPPが多くの人(99%)と少数の富裕者(1%)と巨大企業のそれぞれにとって何を意味するかを暗示しています。実際、台湾の沈駐日「大使が講演で述べたように、台湾(馬総統)はTPP交渉に参加しようとしています。そして、台湾の市民の運動はまさに中台サービス貿易協定にとどまらず、実質的にTPPに対する反対を意味しています。その証拠に馬総統は、中台間のサービス貿易協定をめぐる今回の抗議運動が台湾のTPP参加に悪影響を与えると述べています。
 一方、日本のマスコミがTPPの推進派でありスポンサーでもある巨大企業(経団連)に気兼ねしていることは言うまでもありません。
 なお、沈駐日大使の講演については次のサイトを参照してください。
 http://sankei.jp.msn.com/world/news/140323/chn14032315330003-n1.htm

 それはともかく、台湾の様子が実況中継されていますので、サイトを紹介します。残念ながら私は中国語を知りませんので、演説の内容は理解できませんが、騒然とした状態はよくわかります。

 http://www.youtube.com/watch?v=uTxGjgRu3Xs&feature=share

 http://www.ustream.tv/channel/longson3000

2014年3月16日日曜日

中国・明末の寒冷化

 中国・明末は、地球規模の寒冷化が見られた「小氷期」および「マウンダー最小期」にあたりますが、実際にこの時期に中国でも寒冷化がみられたのでしょうか?
 このことを確認する上で重要となるのは、自然科学的な研究以外には、文献的史料です。

 実際に、明代末の17世紀前半にかなり後半な地域を捉える大飢饉があったことが史料からも確認されます。いくつかの断片的な記載を以下に記しておきます。


 雲南(1601年と1610年)
 雲南は四季を通じて気候温暖で、例年は冬でも雪が降らない土地といわれていましたが、17世紀に入り夏(6月)や晩秋(9月)にも大雪が降ったとされています。

 『雲南通志』明神宗万暦二十九年(1601年)九月、雲南大雨雪」
 『雲南通志』「明神宗万暦三十八年(1610年)四月壬寅、貴州暴雪、形如砖、居民片瓦無存者」
 『明史記載「夏六月、雲南臨安大風甚寒、民多有凍死死者、取り雀亦多凍死。」

 四川も北方に大八山があるため、北方の寒気流が流れ込んでくることはなく、冬でも温暖な場所と言われています。しかし、史料は、1623年に夏に大雪が降ったことを語っています。
 『四川通志』「明熹宗天启三年(1623年)夏五月,四川天降大雪,積数尺,樹枝草茎尽折。」
 (以上、http://tieba.baidu.com/p/161656490 より。)

 陝西(せんせい)では、明代末の大農民反乱のきっかけとなった1628年の旱魃があり、この頃から大水、大雪、霜、雹、蝗の害、飢饉が深刻となり、疫病がはやり、その中で多数の人々が死亡し、あるいは課税を逃れて逃散し、あるいは飢饉の中で食人さえ行なったことが史料に記されています。
 ・「死者枕藉、臭気薫天」
 ・「死亡逃散十分已去其六七」

 河南省では、崇禎三年から3年連続で大旱がありました。
 ・「野無青草、十室九空」
 ・「黄埃赤地、郷郷凡断人煙、白骨青燐、夜夜常聞鬼哭」

 こうした旱魃は、清代になっても続きました。
 ・「水旱南北同災、直省飢饉開報、・・・大兵、大旱、大水、開集一時。」
 ・「百姓流亡、十居六七」
 (以上、王育民『中国人口史』、江蘇人民出版社、1996年 より。)


 日本でも17世紀前半には、寛永の大飢饉が生じています。特に東北地方(青森)から中部地方(岐阜など)にかけての地域で大飢饉が発生しました。

 中国の国号の「大明」は太陽のことを示すといわれていますが、実際には気温の低下とともに大明帝国は滅びたと考えられます。

2014年3月15日土曜日

中国・明朝時代の気候史と人口史

 前2回、14世紀から17世紀までの「寒冷化」の時期のヨーロッパ(西欧と東欧)の気候史と人口史との関係について触れました。そこでは気候変動の中で「荒廃」「廃村」「逃亡」「移動」などの言葉で示される事象が生じていたことが疑われます。
 それでは、東アジア、特に中国についてははどうでしょうか?
 東アジア史は私のまったくの専門外ですが、素人ながらに少しばかり調べたことを記してみたいと思います。

 まず歴史的な気温変化が問題ですが、とりあえずNOAAのデータから中国(西部と東部、北京)に関するデータ(5図)をあげておきます。





 NOAAのサイト上の Shi,  Shihua,  Ge,  Yang のデータより作成。
 北京の黒線は、11カ年移動平均値による。 ftp://ftp.ncdc.noaa.gov/pub/data/pa/
    
 はっきりとはわかりませんが、これらの上図から推測すると、14世紀から17世紀にかけて気温が大きく低下した時期が中国でもあったと考えられます。
 
 この時期は中国では明から清初の時期ににあたりますが、この頃に寒冷化が中国社会に大きな影響を与えたことを示唆するような歴史的事象は認められるでしょうか?

 私が読んだ限りでは、中国史(明史、清史)の研究書には、それを明示的に示すものはありませんでした。しかし、人口史と政治史の研究書の中にきわめて注目される指摘をいくつか発見することができました。
 まず人口史から。周知の通り、元朝のあとに成立した大明国では、1381年、洪武帝が全国で戸口調査を行い「黄冊」という戸籍簿を作成しました。この時、実施された制度が里甲制度です。一般人民を構成するすべての「民戸」はこの戸籍に登録され、各県の下に里が置かれました。一里は110戸からなり、そのうち10戸は里長を交代で行う戸、残りの100戸は各々10戸ずつの甲に分けられるという制度です。もちろん、この黄冊にもとづいて賦役と租税が里・甲・民戸に割り当てられました。なお、兵役に従事する軍戸については、県とは別に「衛」が設けられていました。各衛の定員は兵士5600人であり、それは5つの千戸所(定員1120人)に分けられ、さらに各千戸所は10の百戸所(定員112人。うち下士官12人、兵士100人)に分けられました。
 さて、明国ではこのようにして戸と人口が把握されましたが、それはどのように変化したでしょうか?
 実はこれがかなりややこしい。
 まず戸籍簿に登録された人口については、数値に疑問の余地はなく、次図に示すように16世紀後半から17世紀の中葉にかけて人口はかなり減少しています。(王育民『中国人口史』、江蘇人民出版社、1996年のデータより作成。)

 


 なお、明の光宗帯泰昌元年(1620年)の調査(明憙宗実録巻四)では、合計で984万戸、5166万人が数えられましたが、その31年後の1651年(清世祖順治八年)の調査(清実録世祖巻六十一)では人口は1063万人へと5分の1に激減しています。しかし、この減少の少なくとも一部は、明と清の人口調査の方法の相違によって説明されます。つまり明朝ではすべての人口(男女とも)が調査対象となりましたが、清朝では、「丁」(15〜60歳の男性)だけを人口調査の対象とするように変えましたので、明朝のデータと直接接続することはできません。そこで、1651年以降については、丁と人口の比率を推計し、調整した数値を点線で示しています。

 しかし、この点を考慮しても、人口統計から見る限り、なお明末・清初には注目するべき異変(減少)が生じていたことは間違いありません。
 ただし、この結論を導くためには、もう一つ述べておかなければならない点があります。それは戸籍簿に記載された人口が当時の民戸およびその全人口を捉えているか否かという点です。これに関連して、これまで多くの研究者は、明・清朝の一般人口だけでなく、官僚たちも国税の支払を出来るだけ少なくするために、戸口と人口を過小に評価していると考えてきました。
 では、人口はどれほど過小評価もされていたのでしょうか。Kent G. Deng によれば、この点で欧米の研究者はあまりに極端な数字の操作を行ってきたと言えるようです。有名なAngus Maddisonの人口推計でも、明代末に1億5千万人から1億2500万人ほどの水準と推計されています。しかし、このような数値が如何なる根拠によって導き出されたのでしょうか。これについて、K.G. Deng は根拠のない数字の操作(manupilation)に過ぎないと結論づけており、私も以下で示すような点からも、そのような意見に賛成です。またそのような数字の操作を行った研究者の中には、明末・清初に人口が低下せずにずっと増加しつづけたと主張するものもいるようですが、それもかなりあやしいと考えられます。


 Fact or Fiction? Re-examination of Chinese Premodern Population Statistics, Department of Economic History of London School of Economics, Working Paper, July, 2003.より。

 さて、中国の人口が明末・清初に減少したこと、人口が回復しはじめたのは清朝のある時期からのことであることは、次の研究から明らかになるように思います。
 一つは、佐藤文俊氏の『明末農民反乱の研究』(研文出版、1985年)、もう一つは王育民氏の『中国人口史』(江蘇人民出版社、1996年)に示されている「史実」(史料に記載されている事象)です。要約すると次のようになるでしょうか。

 ・明末(17世紀前半)に中国で大規模な農民反乱が生じ、その中で結局明朝が打ち倒され、清朝が起こりますが、その農民反乱は、飢饉、飢餓、人々の「逃亡」、「土賊」、「流賊」、「流冦」といった言葉に示される変動・事象から生じました。また反乱は、李自成や袁時中のように、華北(甲が以北)で土賊として蜂起し、ついで黄河を南に渡河して「流冦」となりました。
 ・しばしば研究書は、農民が逃亡によって戸籍簿から逃れる理由として重い賦役と納税を逃れるためとしています。また戦乱も逃亡の理由としてあげられています。しかし、当時の史料は、里甲から逃亡した戸の負担分が(連帯責任のため)残された戸に重くのしかかり、結局は、次々に残された人々が里甲から逃亡せざるを得なくなっているという事情を記載しています。したがって苛斂誅求の他にも理由を求めなければなりません。
 ・私が読んだ研究書からは、飢饉が寒冷化によるものであるという記載は得られませんでしたが、16〜17世紀に飢饉が頻発したことは疑いないように考えられます。特に1628年(その後、1640年頃)に華北の陝西で生じた大飢饉は、1644年における明朝の滅亡の直接の原因となった出来事と言うことが出来ます。この頃から明国を揺るがす大反乱が生じ、反乱軍はやがて山西省、河北省、河南省、陝西省、四川省、安徽省、湖北省におよぶ大勢力となりました。
 そして、その中から李自成が頭角をあらわし、結局、1644年に明朝を滅ぼします。 
 ちなみに、この時、満州族が中国を支配することになったのは、山海関において清軍に対する防衛にあたっていた呉三桂が満州人と反乱軍の間で孤立したため、満州人に同盟を申し込み、反乱軍を鎮圧したためであり、清朝にとっては中国の支配権が突然ふところに転がりこんできたかたちだったようです(岡田英弘『中国文明の歴史』、講談社現代新書、2004年)。

 このように見てくると、寒冷化が中国社会に大きな影響を与えたという「仮説」はかなり有力なように見えてきます。

 ただし、もちろんこれですべてが明らかにされたというわけではありません。
 そのためには、飢饉、流民、逃亡、反乱などがはたして気候に関連していたのか、綿密な史料的検討が必要になるでしょう。私には、『中国人口史』などで紹介されている史料のいくつかが重要なように思われますが、それについては次回に回します。

2014年3月14日金曜日

久々のベースアップ しかしわずか千円、2千円とは!

 今年の春闘では、10数年ぶりでベースアップが行われたと、ニュースが大騒ぎしています。たしかに10年以上にわたって日本の給与水準が低下してきたのですから、大きなニュースとなることは間違いありません。
 しかし、おかしい点がいくつもあります。何点か指摘したいと思います。

・安倍政権は、2%の物価上昇で景気がよくなるという「アベノミクス」なるものを宣伝してきました。しかし、それならば人々の(名目)所得も2%以上に増えなければなりません。そうでなければ実質所得が低下するからです。
 日本の平均給与(月額)がかりに30万円として、その2%は6千円となります。つまり30万6千円になってはじめて実質所得が同じです。
 それなのにたった千円や2千円では、所得の実質的な低下になります。
 もちろん、賞与(ボーナス)による上昇はありますが、給与の増加をそれに依存させるということは、経営者も従業員も将来に対する安定的な「期待」を持てないことを意味します。これで安心して消費需要を増やすことがはたして期待できるでしょうか。
・さらに非正規雇用の低賃金部分については、時給で10円などという低いベースアップの数字がならんでいます。わずか1%ほどの上昇です。
 正規と非正規の賃金格差(同一労働)は、世界でも日本と韓国できわめて激しいことが知られています(100対60など)。その是正など遠い将来の話になってしまいます。

・このことは、これまでの政府の説明にもあてはまります。
 1997年以降、日本の一人あたり名目GDPが低下してきたとき、政府(竹中平蔵氏など)は物価水準が低下しているのだから、実質的には所得(一人あたりGDP)は増加していると説明してきました。しかし、GDPの中には、賃金の他に利潤も含まれていて、この利潤部分は経営者報酬や配当など、主に富裕者(1%の人々)の所得分となります。80%以上の人々が受け取る名目賃金のほうは、13%も低下してきましたが、(デフレといわれながら)物価はそれほど低下していません。つまり実質賃金も低下していたのです。(政府がデフレをことさら強調して来た背景には、実質賃金の下落を隠したいという意図があったとしか考えられません。)
 ということで、同じ論理になりますが、2%の物価上昇が生じているときには、2%以上の(名目)賃金率の上昇がなけれれば、景気がよいとは決して言えませんない。

・しかも、今回のベアは、今のところ大企業(賃金圧縮によって内部留保をためてきた)大企業に限られています。中小零細企業については、どうなのでしょうか?
 本当は、中小零細企業が苦しいながらも賃金率を引き上げたとき、その費用増加を価格に転嫁したときに物価上昇が生じるというのが本来の経済のありかたであり、実際1980年代ころまではそうでした。そのような物価上昇を許容する制度的条件があったのです。まただからこそ景気がよいときには物価が上昇したわけです。
 今は本末転倒です。マネタリスト(通貨論者)が通貨量を増やせば物価が上がり、そうすれば景気がよくなる(!)という転倒した論理です。
 はたして今春中小企業が賃金率を引き上げ、その人件費増加を価格に転嫁しようとしたとき、大企業は製品の買い取り単価を引き上げるなどして、それを受け入れるのでしょうか? 消費者もそうです。名目賃金が増えるのですから、物価上昇にもかかわらず、消費量を減らさないという行動が前提となります。

・今回、NHKのニュースでも正しく報道されていましたが、「政治主導」でベアがあったことは間違いありません。もしわずかでもベースアップがなければ、安倍政権がもたないことを財界(経団連)も知っているわけです。
 他方、財界は今年のようなベースアップがずっと続く訳ではないと釘をさしてもいます。しかし、もし2%の物価上昇が続くのに、それに応じる所得の増加がなければ、99%の人にとってアベノミックスとは何でしょうか。

・4月からは消費税の増税(3%ポイント)があり、ニュースでも不安が伝えられているように、それが景気を冷やすことは十分に予測されます。増税は、人々の可処分所得の減少を意味します。そこで人々の消費支出を減らします。したがって政府が支出を増加させない限り、国民全体の消費支出は減少することになります。これは経済のイロハです。そこで政府は、景気を悪化させないように、今度は公共事業(土木事業)を増やすという方針を決めました。そもそも消費税増税は、社会保障支出との「一体改革」を旗印にして行われたものです。本来は、社会保障支出(教育、医療、年金など)の増加と歩調をあわせて消費税の増加をはかるべきものした。

 最後に数値例を示しておきます(これは粗雑な計算に過ぎませんが、おおまかな傾向は示します)。かりに日本の毎月の消費支出が30兆円とします。また同じだけの給与が毎月支払われているとします。この場合、3%の増税が家計の可処分所得を 9000 億円減らします。他方、平均賃金30万円としてベア 2000 円は0.7%ほどの増加ですから、可処分所得を 2000 億円ほど増やします。これは差し引きすると7000億円ほどの減少です。
 もちろん可処分所得の減少が必ず消費支出の縮小をもたらすわけではありません。マイナスの貯蓄(貯蓄の取り崩し)がありうるからです。

 しかし、4月以降、日本経済がどうなるのか、1997年の財政構造改革の時と同じような悲劇的な景気後退がないことを祈るのみです。



2014年3月11日火曜日

ロシア史と近代寒冷化

 昨日は、14世紀初頭から17世紀にかけてヨーロッパ(西欧)の寒冷化とそれに伴う様々な事件・事象について触れました。しかし、この時期に西欧諸国で大きな変化が見られるならば、ヨーロッパの東半分でも何かあったのではないかと考えるのは当然のことです。

 14世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパの東半分というとポーランド王国・リトアニア大公国とロシア(モスクワ大公国)です。
 実は、ここでもとても大きな事件・事象が生じています。それについて概略を記したいと思います。しかし、その前に当該時期にこの地域の気温がどのように変化したかを示すデータを示しておきましょう。
 次のグラフは、NOAAの「北半球」(北緯30°〜90°)における平均気温を示すデータから作成しています。元のデータは、Ljungqvvist(2010)です。本当はモスクワ市あたりの歴史データがよいのでしょうが、中欧のデータは入手できても、東欧・ロシアのデータをまだ入手できていません。そこで当面北半球で代替させておきます。


ftp://ftp.ncdc.noaa.gov/pub/data/paleo/contributions_by_author/ljungqvist2010/ljungqvist2010.txt
(温度は、各々10年ごとの平均値で表示されています。各年の変動がここに示された数値より分散していることは言うまでもありません。)

 このグラフでも概ね10世紀から13世紀にかけて温暖期があり、その後、14世紀から17世紀にかけて変動しながら気温が低下していたことが示されています。また18世紀に入り、気温の急速な反転が見られます。

 14世紀から17世紀にかけてロシアで生じた変化とは何でしょうか? 端的に言うと、次のような出来事です。

 1)ロシア人口の北部から南部への移動
 2)村落住民の移動禁止令(ユーリーの日という慣習法の廃止)
 3)動乱(smuta)と専制国家(samoderzhavie)の成立

 実は、これら1)2)3)が何故当該時期に生じたのかは、これまで大いなる謎だったといってよいかもしれません。少なくとも私にはそうでした。しかし、西欧諸国でも寒冷化を避けて北部から南部への移動、高地から低地への移動が生じたように、ロシアでも同じことが生じたと考えれば、多くのことが説明できます。

 ロシアの大歴史家 B・O・クリュチェフスキーの『ロシア史講話』などを参照にして、当時生じたことを説明してみたいと思います。

 1)出発点となる時代の社会制度
 古い時代のロシアは「分領制ルーシ」(Udel'naya Rus')と呼ばれていました。当時のロシアではモスクワ大公国が特別の位置を占めていましたが、ロシアは事実上いくつかの公国に分かれていました。そして各公国の中では、公(kniaz')の他にボヤール(boyare)という貴族階層が存在し、これら統治者階級であった公とボヤールは自分たちの領地(世襲領地 <父から受け継いだ土地 votchina)を所有していました。
 それでは、被統治者階級の村落住民(農民、krest'iane)は、どのような状態にあったでしょうか? 
 まず村落定住様式から見ると、「村と諸部落・新開村」(selo s derevniami i pochinkami)という単位がありました。村(selo)とは、通常、3、4戸の農民世帯からなる集落であり、教会が置かれていました。新開村(pochinok)とは文字通りには新たに開かれた集落ですが、通常は1戸の定住地でした。この新開村が次第に成長して2戸、3戸からなる部落に転じてゆきます。こうした古い土地台帳上の「村と諸部落」は教区(prikhod)としての役割を果たしていましたが、それと同時に行政単位の役割も演じていたと考えられています。それらは「郷」(pogost, volost')とも呼ばれていました。まだ人口が希薄な時代にあっては、農民たちはこうした郷の領域の中で自由に土地を占取すること(土地の自由占取)を許されていたと考えられています。農民たちは郷の内部で一定期間土地を耕作したのち、しばしば耕作地を放棄することがあったため、「荒廃地」(pustosh)という名称も古い土地台帳には記載されていました。
 それでは、村落住民と公・ボヤールとの関係は、どのようなものだったでしょうか? 古い時代のロシアでは、農民たちは公やボヤールに人身的に従属する「農奴」(体僕)ではありませんでした。それは、農民たちが公やボヤールの土地(世襲領地)を自由に離れ、別の公やボヤールの土地に移動することができたことからも明らかです。ただし、農民たちは公・ボヤールの土地を耕作するためには、税(=地代)を支払わなければなりませんでした。したがって公とボヤールは農民が収穫後に税を支払うまでは彼らの移動(世襲領地外への外出)を禁止することができました。一方、農民の側も収穫が終わるまでは公とボヤールの領地から強制的に追い出されることもありませんでした。農民たちが世襲領地間を移動するための期間は、収穫後の一時期(1週間ほどの期間)に設定されており、それは「ユーリーの日」と呼ばれていました。

 2)しかし、このような状態は16世紀、17世紀までには決定的に変化していました。
 まず、ロシア・ソ連の歴史家は、その理由を明示することはありませんでしたが、村落住民たちが北部から南部に移動しはじめたことを明らかにしています。例えばクリュチェフスキーをよく読めば、そのことが理解できますし、また『東欧・ロシア農業史年報』に載せられた16〜17世紀の土地所有・村落定住・人口史に関する論文は、北部の村と諸部落がしばしば放棄されて、村落人口が減少したのに対して、南部(後に中央農業地帯と呼ばれた地域)に属する諸県(トゥーラ県など)では人口が増加したことを明らかにしています。また移住の動きが南部のステップ地域に向かっていたことも明らかにされています。
 
 さて、ロシアの中心地だったモスクワ大公国の存在した東北ロシア地域から南部への村落住民の大規模な動きが始まっていたとしたら、それはモスクワ大公国、そしてロシア全体にとってかなり危機的な事態だったはずです。それは村落社会のレベルでも、政治的上部構造の領域でも大きな変化をもたらさずにはすまなかったはずです。
 実際、14世紀から17世紀にかけてはロシアでもきわめて大きな変化が生じた時期でした。その詳細をここで説明することは出来ませんが、次の点だけ強調しておきたいと思います。
 第一に、政治的大動乱の中で、村落住民の移動が事実上、また法的にもはっきりと禁止されるに至りました。17世紀前半までには、「ユーリーの日」は廃止されており、また村落住民が自分の所属する村落共同体(郷、村、部落など)=本籍地(mesto pripiski)を指定され、逃亡地から本籍地に戻されることが「法典」によって確定されました。さらにその後、農民は最終的には国内旅券制度によって束縛されるに至りました。確かに場所的な移動の自由が完全に奪われたわけではありませんが、その場合でも、村落住民は国家に対して自分の納税義務を果たすべき場所を明示することを義務づけられました。かくして農奴制が制定法によって明示されたわけではなかったにもかかわらず、農民たちが土地に緊縛されるという結果(農奴制)がもたらされました。
 第二に、政治的な上部構造においても大きな変化が生じました。一つの変化は、モスクワ大公が他の公国を併合し、また教会・修道院の領地やボヤールの領地を没収し、全ロシアのツァーリ(最終的には皇帝)になり、それとともに公とボヤールは没落しましたことに見られます。また、それと並行してツァーリ権力をささせる階層として国家勤務者階層(pomeshchiki)と呼ばれる人々が登場してきました。彼らは、国家=ツァーリに対する勤務の報酬(秩録)として一代限りで領地(pomest'e)を与えられ、国家官僚として政府を支えることになりました。こうして16〜17世紀にロシアの地で西欧人からしばしば異質な体制と見なされた専制国家が登場してきたわけです。

 要約すれば、14、15世紀頃まで支配的だった公・ボヤール体制と農民の自由移動・自由土地占取の体制は、村落住民の南部への移動(「逃亡」begstvo)の中で危機に陥り、その中からロシア的な対応として移動の禁止と専制国家化が生じたと考えられます。
 同じ危機は、ポーランド・リトアニア大公国の領域でも生じたと考えられますが、そこでも北部における人口の減少、ウクライナへの村落住民の逃亡、動乱が生じました。しかし、それは結局ポーランド国家の弱体化をもたらし、分割されるという悲劇的な結果をもたらします。
 私には、どうして近代に東欧の人口の南方への移動が始まったのか、また大動乱が生じたのか、長年不思議でしたが、ようやく解決の糸口がつかめたように思います。

2014年3月10日月曜日

ヨーロッパ気候史 いくつかのエピソード

 気候史は、本来、自然科学上の問題であり、またそれが社会に与えた影響を取り扱う限りで社会科学上の問題と言えます。
 しかし、今日、それは著しく政治問題化しています。単に人為的地球温暖化の「仮説」が正しいのか、誤っているのかが学問上の問題となっているのではありません。
 とりわけ IPCC の報告書によってオーソライズされた「ホッケースティック理論」の支持者たちは、それが学問的検討の対象となることさえ好まないように見えます。彼らは懐疑派がもちだす中世に温暖化した時期があったという見解に対して不快感を抱きますが、それは、中世温暖化が20世紀末の人為的温暖化を過小評価するのではないかという懸念に由来していることは間違いないでしょう。(ヴルフガンク・ベーリンガー『気候の文化史』丸善プラネット、2014年などを参照。)

 そもそも中世温暖期とは、1965年にヒューバート・ラム(Hubert Lamb)が歴史的な諸記録(古文書)の綿密な調査と気象学的・物理的なデータを基に導き出した概念でした。かれは、中世温暖期の頂点は1000年から1300年の間(中世中期)にあり、当時の気温は1931年〜1960年より1ー2度高く、極北では4度ほど高かったと推定しました。
 彼がこのように考えた根拠はたくさんあります。
 1)バイキングの航海は流氷によって妨げられることはなかった。またグリーンランドにあるバイキングの墓地は今日でも永久凍土の中に埋まっている。(これは、時代を異にしますが、マンモスが氷の中から出てくるのと類似しています。まさか昔マンモスが氷の上を歩いていたと考える人はいないでしょう。)
 2)別の証拠は、900年から1300年の間の時期に氷河が世界的に後退していたことを示している。
 1850年以来後退している氷河の多くから中世の植物が出て来ている。これは氷河の範囲が現在より狭かったことを意味している。
 1186/87年には1月にストラスブールで木が花を咲かせていた。 
 1130年の夏には降雨量が少なく、ライン河が歩いて渡れるほどだった。
 1035年には、ダニューブ河の水が少なく歩行可能だった。同年、レーゲンスブルクに石橋がかけられた。
 3)中世温暖期の証拠は、園芸作物の耕作限界地にも見られる。
 アルプスにおける木の生育地は今日より高く標高2000メートルにまで達した。
 ラインとモーゼルにおけるドイツの葡萄栽培は、今日の限界より200メートル高い位置でも可能だった。
 葡萄は、ポメラニア、東プロイセン、イングランド、南部スコットランド、それにノルウェーでも育っていた。これは今日の北限のはるか北にある。
 中世には北部でも盛んに森林開墾が行われ、人口が増加したが、それはまさにこの時期に一致している。
 4)古い花粉の記録でも次のことが証明される。
 中世のノルウェーでは、小麦がトロントハイムでも栽培されていた。
 北緯70度でもある種類の燕麦が栽培されていた。
 大ブリテンの多くの地域でも、栽培地は今日の北限より北に達していた。
 5)昆虫の生育などの考古学的史料
 寒さに敏感な heterogaster urticae がイングランド北部のヨーク市にいたことが知られている。この昆虫は現在ではイングランドの南部の暖かい場所でしか見られない。
 中世中期には、バイキングのロシアへの拡大、アイスランド、グリーンランドなどの植民活動が行われた。グリーンランドでは、特定種類の穀物も栽培されていた。しかし、中世温暖期が終わるとともに、バイキングの繁栄も終わり、グリーンランドの植民地の多くは放棄され、ノルウェーでも極北や標高の高い地点は放棄された。
 http://www.science-skeptical.de/blog/the-medieval-warm-period-%E2%80%93-a-global-phenomenon-unprecedented-warming-or-unprecedented-data-manipulation/001342/

 このように現在の温暖化の理由が何であれ、それとは別に確かに中世温暖化はあったということができます。
 ところが、ヨーロッパでも中世中期を過ぎ、14世紀初頭になると寒い年が多くなってきました。さらにその後、徐々に寒冷化がはじまったと考えられます。
 実は、中世温暖期にも寒冷の年がなかったわけではありません。天候が悪く飢饉が生じる年はありました。しかし、1310年代は寒冷(厳しく長い冬、雨の多い夏)、雹や洪水によって引き起こされた飢饉によって特徴づけられ、しかも、その深刻さと広がりにおいて前世紀のあらゆる飢饉をはるかにしのいでいたと考えられています。
 当時の記録をいくつか紹介します。(W・アーベル『農業恐慌と景気循環 中世中期以来の中央農業及び人口扶養経済の歴史』未来社、原著は1996年刊行。)

 ・マンスフェルト年代記
 「この陰鬱な飢饉の教訓はここに示す短句の最後の言葉に書かれている。すなわち、何人にも飢餓の時の記憶されんためにこそ、悪徳農夫(CVCVLLUM)と覚書を記したのである。」
 「それゆえ若干の農地には雑草さえ生茂っていた。そして諸都市では実際すべてが食べ尽くされてしまったので、多くの人々は衰弱し、餓死せざるを得なかったし、彼らが路上のあちこちに横たわり、死と格闘している姿が見られた。そのためエルフルトの人々は荷車を待たねばならず、それに死者をのせて、特別の墓が用意されたシュミーデシュテットに運び、自ら埋葬したのである。」

 若干コメントすると、ここで CVCVLLUM(cucullus)と綴られている言葉は「郭公」を意味するが、それは飢饉の年に穀物を高値で売って儲けることのできた悪徳農夫を示す。同時にそれは並べ替えるとローマ数字の1315年を意味する。

 ・シトー派修道院カムプの年代記作者は、1317年について、人々が死んだ獣を食べていると述べ、またラムゼイ修道院の一農場では、1319年について次のように述べた。「その後、突然の疫病が私たちの家畜に襲いかかっているため、それらがきわめて大量に死んだ。そのため多くの家畜の屍体から大気感染した。その後にはおそらく人間の疫病の恐れが生じるだろう。」

 ・プロイセン年代記は、多くの人間が都市でも農村でも死んだので、「土地はほとんど完全に荒廃したままとなり、そこでは農地を耕作しうる人が誰もいなくなってしまったほどであった」と記載している。


 この時期の飢饉が前世紀の飢饉と異なりかなり深刻だったことは、14世紀初頭における穀物価格の急速かつ持続的な上昇からうかがえます。

 しかも、この後に歴史上有名な1347年〜1350年の黒死病(ペストと推測されている)によるヨーロッパ人口の減少が生じました。これによって人口の3分の1、あるいは半分が失われたとされています。黒死病は、最初、コルシカ島やサルデニャ島から始まり、フランス南部の港町マルセーユからヨーロッパ大陸に広まったため、イタリア商人の船で東方から運び込まれたネズミが病原菌の発生源と考えられており、あまり気候と関連づけられることはありませんでした。
 しかし、14世紀初頭に始まる寒冷化と飢饉が人々の体力を奪ったため、被害が大きくなったことが考えられます。黒死病は、この時が最初でも最後でもありませんでしたが、その被害はこの時に最も大きくなりました。しかも、黒死病がしばしば飢饉の時に猛威を振るうことは14世紀中葉に限ったことではありませんでした。

 ところで、14世紀から17世紀にかけて寒冷化が進行したとするならば、それに照応する様々な変化もまたこの時代の記録に残されているはずですが、どうなのでしょうか? これについては、さらに実証を進めなければなりませんが、現在でも多くのことが明らかにされています。

 1)湖・河川・海の凍結の頻度の上昇
 2)植物相と動物相の変化
    小麦、葡萄、オリーブの栽培地域の南下
    アルプスの樹木限界の低下
    ハマダラカの南下(マラリアの危険は去る)
 3)定住における変化
  グリーンランドのバイキングの滅亡
  アイスランドとノルウェーの衰退
  人々の寒冷地(ヨークの事例など)からの撤退(中世の廃村研究グループによる)

 私にとって特に興味深いのは、14世紀中葉の黒死病の時期に前後して「廃村」または「荒廃」と称する大規模な現象が始まり、17世紀まで続いたという事実が研究史上はやくから指摘されていた点です。荒廃はしばしば村人口の減少や村落全体の消滅という形を取り、村人の死亡や別の土地への移住を伴いました。では、一体、人々はどこからどこへ移住したのでしょうか?
 W・アーベルは、彼の著書の一部で、中世末期の「荒廃」と「移住」を取り上げており、その際、①農地の荒廃と集落の荒廃、②一時的荒廃と永続的荒廃、③部分的荒廃と全面的荒廃を区別する必要を論じており、多くの場合、一時的荒廃が永続的荒廃に、部分的荒廃が全面的荒廃に至ことを認めています。また農地の荒廃と集落の荒廃が多くの場合に密接に関連していたことを認めています。
 しかし、彼は荒廃の諸原因として、「疫病および戦争、火災、盗みと略奪、地震と洪水、地味の悪い土地、不利な気候状態、細分化された農地、(三圃制における)恊働への強制、またはその逆、つまり一層大規模な共同社会における恊働の要請(および狭小すぎる村農地の放棄)」を羅列しているだけであり、われわれの注目する気候的要因(寒冷化)には触れていません。しかし、そこにも一つだけ注目されている点があります。それは彼が<地理的な要因>としているものです。彼が実際に示した人々の移住は、明らかに北部から南部へ、標高の高い土地から低い土地へ、つまり寒さを避ける方向を指し示しています。例えば、スカンジナビア、ドイツの南部(アルプスに近い部分)などで廃村が顕著なのに対して、フランスではそれほどではありませんでした。
 
 もちろん中世の温暖期ではなく、中世末から近代初期の小氷期に人々がきわめて厳しい環境に置かれていたことは間違いありません。

地球気温の変化は太陽活動に関係しているのか?

 地球気温の変化が二酸化炭素量の変化の結果なのか、それとも太陽活動の変化の結果なのか、それとも両者に関係しているのか、本来、私のような素人の出る幕ではないはずですが、そうともまいりません。というのは、いくつかの理由がありますが、その一つは私の仕事に直接関係しています。
 私は、現代の経済変動ともに、過去の社会経済史を研究対象としており、したがって当然ながら過去の経済変動を調べることもあります。
 ところが、第二次世界大戦以後に大量に二酸化炭素が「人為的に」放出され始める以前から地球温暖化の時期があり、また場合によっては地球寒冷化の時期があったということになると、そのような気候変動が本当にあったのか、またそれを引き起こした犯人は何だったのか、について知りたくなってきます。
 ヨーロッパに関する限りでも、16世紀以降の穀物価格の変化、職人の賃金率の変化、穀物収量の変化など、様々な(といっても限りがありますが)データが蓄積されています。またおそらくそれらと関係すると思われる様々な事件や事象がありました。それらがどの程度、地球の気候変化に関係するものなのかを知ることは非常に興味を惹きます。
 その一つとして16世紀の価格革命(穀物価格の上昇)について様々な見解がありますが、経済史上有名なのは次の3つほどです。
 1 新大陸からの銀の流入による貨幣価値の低下によるインフレ。これは多分に貨幣数量説的な見解とも言えますが、銀の取得が以前より少ない費用で行えるという変化を強調すれば、労働価値説とも矛盾するわけではありません。
 2 ハミルトン・ケインズ説。これは全般的な価格上昇に比べて、賃金率の上昇が低かったという点に注目して、この時期に賃金シェアーの低下と利潤シェアーの上昇が見られたことに注目するものです。それは特にイングランドとフランスで顕著だったのに対して、銀の直接の流入国だったスペインでは見られなかった現象でした。当時のフランス重商主義の経済学者は、スペインの高賃金を指摘しています。かくしてこの説は、英仏におけるり利潤シェアーの上昇を資本蓄積にとっての有利な条件と考え、当時のスペインの没落と英仏の台頭を説明しました。
 3 新マルサス主義的な見解。伝統的な社会では農業生産性が停滞的であり、その上昇は人口増加をしたまわっている。特に天候が不順な寒冷化の時期には、凶作のために多くの人々が困窮し、体力が低下するため伝染病が広まりやすい。ヨーロッパでも、まだ17世紀〜18世紀以前には人々はこのような伝統的社会の制約から逃れることができていなかった。この立場は、伝統的な社会に関する新マルサス主義的な見解を代表するものです。

 こうした見解うちどれが真実に近いのか? それはいくら頭の中だけで考えても明らかにはなりません。また気候変動がどのような影響を当時の社会(人々)に与えたのかも、考えるだけではわかりません。

 しかし、気候変動はあったのか、またもしあったとしてどのような要因によって引き起こされたのか、その具体的な姿はいかなるものであったのか、多くの人々が知りたいという気持ちを持っており、またそれを知ることは有益なことと思います。前回私が素人ながらに、半ば「常識」となっているけれども、ほとんどの人にとっては信じ込まされているに過ぎない人為説やそれに対する批判的見解(太陽活動説)をまとめたのは、そのためでもあります。 
 
 ここで少し太陽活動説の補足をしておきます。前回、地球気温の変化を太陽活動に関係づける考え方の一つとして、きわめて高速で宇宙から飛んでくる宇宙線(プラズム)が地球大気に触れたとき、雲が形成されやすくなること、しかし、太陽活動の活発化によって太陽風(プラズマ)が強くなると雲を形成する宇宙線が妨げられるという説があることを述べました。
 その際、もっとも重要な問題はそれが実証されるかどうかにあることは言うまでもありません。しかし、この点については、両陣営の間で繰り広げられている論争から想像されるように、肯定的な研究結果もあれば、否定的な研究結果もあります。

 まず肯定的な見解から。Geograohical Science Letters, 32, 2005 に掲載された W. Soon の論文の相関図です。

これは相関ですが、それを科学的に納得してもらうためには、太陽活動の変化がどのようにして地球気温に影響をあたえているのか、そのメカニズムを解明しなければなりません。その有力な一つが、宇宙線と太陽風との作用に関するものです。
 下図のように宇宙線は大気中で雲の形成上で大きな役割を果たしますが、太陽風がその宇宙線を地球に届かなくするというように要約できるでしょうか。基本的にはそれが実証されたという内容です。



 http://wattsupwiththat.com/2011/05/17/new-study-links-cosmic-rays-to-aerosolscloud-formation-via-solar-magnetic-activity-modulation/

 
 次に太陽活動の否定派=人為説派
 http://wired.jp/2007/07/09/「地球温暖化の原因は太陽の活動」説を否定する/
 宇宙線と太陽風の効果を疑問とする研究成果が提出されたという紹介です。


 最後は、慎重派とでもいうべきでしょうか。国立環境研究所の江守正多氏の文章です。
 http://www.cger.nies.go.jp/climate/person/emori/files/nikkei/ecolomycolumn_4.htm


 科学はドグマではなく、実証研究と論争によって発展します。だから私も科学的な論争には大いに賛成します。大いにやっていただきましょう。
 ただし、それでも私にとっては大きな疑問が残ります。仮に人為説が正しいとします。その場合、1940年以前、あるいはもう少し厳しく言って、19世紀中葉以前の時代における気候変動はどのように説明されるのかが、依然として一つの大きな問題として残ります。
 この場合、それに対する説明法としては、例えば19世紀以前には、大きな地球気温の変化はなかったと考えることも可能でしょう。あるいはもし大きな気温変化があったとしても、それは太陽活動によるものではなく、主に「火山活動」によるものであるという見解もありえます。火山の噴火は、その周囲地域に微細な火山灰や噴煙を長期にわたってまき散らし、それによって地表を日光から遮ります。実際、小氷期は、活発な火山活動が見られた時期に重なっているという研究もあります。
 したがって過去の地球気温の変化は現在の地球温暖化とは無関係であり、現在の地球温暖化は人為的な二酸化炭素の放出によってもたらされていることだけが問題なのだからという仮説もあり得るのかもしれません。しかし、仮説は仮説に過ぎず、実証されない限り、正しい見解・真理だというわけにはまいりません。これは私が本ブログで経済学についても求めている原則です。

 しかし、専門家でもない者が専門外のことについて語り過ぎたかもしれません。次回からは、歴史的な気候変動(そのようなことがあったと前提して)が経済社会にどのような影響を与えた可能性があるのかを、少し詳しく紹介することにします。



2014年3月9日日曜日

人為的地球温暖化説の政治的起源 マーガレット・サッチャー:警告派から懐疑派へ?

 地球気温をめぐる人々の考え方には、この数十年で大きな変化がありました。
 1970年代までは、地球寒冷化説が主流をなしていましたが、それは急速にしぼんでゆき、反対に人為的温暖化説が登場してきました。その背景には、確かに1970年代から実際に地球気温の反転があったことは間違いないと思いますが、それだけでは人為説を説明したことにはなりません、いったい何があったのでしょうか?
 そのためには、もちろん科学者の側の事情を調べる必要があることは言うまでもありませんが、ここではまずイギリスにおける政治の側からの事情を簡単に紹介したいと思います。
 
 話は、1979年の総選挙でマーガレット・サッチャー氏が勝利し、「鉄の首相」としていわゆるマネタリズム=新自由主義の経済政策を推し進めた時期にまでさかのぼります。
 周知のように、彼女は政権に就くや、2つの相互に関係しあう目的を追求しようとしました。一つは、当時進行しつつあったハイ・インフレーションをとめることであり、もう一つはイギリスの「民主的社会主義」、つまり労働党やそれを支持する労働組合運動を弱体化させることでした。そのために彼女が採用した政策はマネタリスト的な財政政策です。簡単に言えば、その手段は大衆増税と社会保障支出の削減によって財政収支を黒字に転じるというものでした。財政収支の黒字というと何となく「いいんじゃないの」という言葉が聞かれそうなきがしますが、実は、それは一つの大きな問題をはらんでいました。つまり、それは一方では国民の可処分所得を大幅に減らし、民間消費支出を削減することによって、他方では政府の財政支出=公的支出を削減し、それにによって景気を著しく悪化させる結果をもたらしたのです。この政策は、イギリスの著名な経済学者、カルドア氏によって正当にも批判されました。(これについては、本ブログでも詳しく紹介したことがありますので、そちらを参照してください。)
 ともかく、その結果、イギリス経済はインフレーションを沈静化することに成功しますが、それは厳しい景気後退を経験し、失業率は激しく上昇し、賃金上昇が抑制されるようになるという大きな代償(今日まで続く)をともなうものでした。
 それと同時に、サッチャー氏は、イギリスの労働組合運動、特にその中心的存在であった炭坑労働者の労働運動を抑圧しはじめます。1984年にサッチャー氏の政策に反対して炭坑労働者がストライキを起こしますが、サッチャー政権は、文字通り警察力などの暴力を用いて労働運動(ストライキやデモ、団体交渉)を弾圧することから、石炭産業を閉鎖することまで実施しました。それまで存在していた最低賃金制を事実上廃止したのも彼女です。また政権末期には「人頭税」を導入しようとしました。さしものイギリス国民も当初はインフレを嫌い、そのスタンスに同意していましたが、賃金シェアーが低下し、低賃金労働が拡大しはじめるとともに評価は急激に低下してゆきます。私がイギリスに滞在していた1996年には、いまだにそれに憤り、「顔も見たくない」という人がかなりいました。
 なお、当時サッチャー氏の顧問として働いていた一経済学者(Alan Budd)は、後になってサッチャー氏に利用され、反労働的な政策(賃金圧縮、低賃金労働の拡大)に力を貸してしまったと、告発しています。
 http://cheltenham-gloucesteragainstcuts.org/2013/04/09/former-thatcher-adviser-alan-budd-spills-the-beans-on-the-use-of-unemployment-to-weaken-the-working-class-sound-familiar/
 
 そのサッチャー氏が人為的地球温暖化を警告しはじめたのは、以上の経過からみて理解できないわけではありません。ただし、それだけでなく、それには次の2つの事情が関係していたと考えられます。
 一つは、彼女が自然科学(化学)の学位(BSc)を持っており、それが利用できるように思われたことです。
 もう一つ、イギリス保守党が核兵器の保有を念頭において原発を稼働させるという方針をもっていたことです。
 イギリス炭坑労働者のストライキの起きた1984年頃から、英国の国連大使をつとめたクリスピン・ティケル卿(Crispin Tickell)がサッチャー氏にキャンペーンを開始するように勧め、その後のサッチャー氏の講演にも援助をしていました。(もっともティケル卿は気象学の専門家ではありませんでしたが、サッチャー氏も学術的な講演をしたわけではありません。)
 http://www.masterresource.org/2013/04/thatcher-alarmist-to-skeptic/
 http://www.theguardian.com/science/political-science/2013/apr/09/margaret-thatcher-science-advice-climate-change

 サッチャー氏が「緑」の活動を積極的に展開したのは、ほぼ1980年代の後半に集中しています。その中で最も注目されるのは次の講演です。

 <1988年の王立協会への講演>
 <1989年の国連での講演>
 <1990年の第2回世界環境会議での講演>
 
 これらの講演で、彼女は地球環境に対する警告家(alarmist)として注目されるようになりました。
 その内容の一部を見ておきましょう。

 「私たちが、地表を劣化させ、水を汚染し、前代未聞の率で大気に温室効果ガスを付け加えることによって世界に対して行っていること、これらすべてが地球の新しい経験です。わたしたちの惑星の環境に被害を与え、危険を加えながら変えているのは人類であり、その活動です。
  その結果、将来における変化はわたしたちがこれまで経験してきたどんなことよりも根本的で広範なものになるでしょう。その意義は原子を分裂させる方法の発見と比較されるものです。実際、その結果ははるかに広いものとなりえます。
 ・・・
 誰が責任を持つのか、誰が支払うのかをめぐって口論するのはよいことではありません。私たちは広範な国際的な恊働的努力を通じてのみこれらの諸問題を解決することに成功するでしょう。」

 ここでははっきりと「温室効果ガス」が述べられており、しかも、原子力発電所を含意する「原子を分裂させる方法の発見」の意義が明確に語られています。

 しかし、サッチャー氏にとっては残念なことながら、化石燃料の燃焼から原発へのシフトを説くには不利な状況が当時生まれていました。言うまでもなく、一つは、1986年にソ連のチェルノブィリで発生した原発事故です。これは化石燃料以上に原子力が環境破壊に貢献することを示すものであり、これ以降、状況は急速に変化してゆきます。しかし、1988年から1990年にかけてサッチャー氏がティッケル卿との恊働関係を維持しつつ上述の講演を行ったことが示すように、それはサッチャー氏の見解を変えることはありませんでした。
 サッチャー氏は、法律家兼気象学者であったジョージ・ハドリーの名を冠した研究所(ハドリー気候予測・研究センター)の設置を許可し、それは1990年にエクセターに設立されました。この頃、サッチャー氏は、気象学の研究者に対して、<お金はいくらでも出す。地球温暖化は人為的に放出されている二酸化炭素の結果だということを明らかにしてほしい>という趣旨の発言をしたと言われています(BBCのThe Great Global Wariming Swindle)。
 
 ところが、サッチャー氏の「緑の期間」(green period)は長くは続きませんでした。それはほぼ数年で終わっています。1990年代に入り、彼女は人為的温暖化説を強く主張しなくなりました。一説では、彼女は温暖化に対する「懐疑派」(aceptic)に転じたと言われているほどです。
 その背景に何があったのでしょうか?
 これを説明するのは難しいことですが、一つの事情として北海油田の発見と開発を考えないとならないでしょう。
 イギリスでは、1970年代に北海油田の開発が進み、おりしも世界的な石油価格の高騰により、オイルマネーがイギリスにも流入しました。それは長年国際収支の赤字と通貨の切り下げ圧力と通貨危機に苦しんできた英国経済に転機をもたらしました。ポンド・スターリング(£)の価値があがりました。たしかに、これによってイギリスの輸出が阻害され、輸入が促進されたため、イギリスの製造業の国際競争力が低下し、いわゆる「イギリス病」(British desease)が始まる契機ともなりました。また1980年代の逆石油危機によって石油・天然ガスの輸出金額が大幅に低下したことも確かです。しかし、それでも石油と天然ガスがイギリス経済にとって大きな役割を演じて来たことは否定できません。つまり実際に生じたのは、石炭から石油・ガスへの転換に他なりません。
 http://euanmearns.com/uk-north-sea-oil-production-decline/

 このようなイギリスの置かれていた環境の中で化石燃料(石油とガス)に反対するキャンペーンがどのような社会経済政治的含意を持つかは説明するまでもありません。
 
 しかしながら、サッチャー氏の主観的な意図がどうであれ、彼女が政治的スポンサーとなった人為的地球温暖化説は、政治的な権威づけを得て、その後、きわめて大きな影響力を有するいたります。1988 年にはIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が世界気象機関(WMO)と国連環境計画 (UNEP)により設立されましたが、それは1990年代に入り、本格的に活動を開始します。
 

2014年3月8日土曜日

福島原発事故の費用 3 原発の処理・廃炉費用


 事故原発の処理・廃炉費用についても考えなければなりません。
 原発事故が起きた年、2011年10月に内閣府・原子力委員会の「原発・核燃料サイクル技術等検討小委員会」は、「福島第一原発事故を踏まえ」原発で重大事故が起きるリスク(事故リスク)をコストに反映させると電力1kWhあたり1.2円上昇するとの試算を示しました。
 この試算の前提となる事故にかかる費用は、5兆5000億円と見積もられています。しかし、これがとんでもない過小の見積りであることは言うまでもありません。
 本ブログでも見たように、すでに除染と損害倍賞だけで軽く10兆円(しかも過小に評価してです)を超えています。その他に事故原発自体にかかわる費用があります。
 当該委員会は、1〜4号機の廃炉費用について9600億円としましたが、これは廃炉の見通しもたっていない状況で出されたとんでもない数字といわざるをえません。

 そもそも原発の事故処理自体のために、どれほどの費用がかかるのでしょうか?
 その具体的な数字をあげることはできませんが、それを考える上で参考になる特集記事が毎日新聞(2013年8月19日朝刊)にのりました。
 それを紹介したサイトがありますので、是非読んでいただきたいと思います。

 この記事にはいくつかの重要なポイントがあります。
 ・これまで(昨年夏まで)に福島原発の処理費用だけで、すでにざっと計算して1兆円ほどが支出された。
 ・日本政府は、日本の全原発の廃炉費用として3兆円ほどしか考えていない。
 ・また日本政府は、それらの廃炉期間として30年ほどしか考えていない。
 ・しかし、これがイギリスの経験に照らして、あまりに楽観的すぎることは間違いない。イギリスでは、1993年に廃炉作業をはじめたウェールズ地方の原発は、26年しか稼働しなかったが、その廃炉にはこれまでに20年かかり、あと70年を要する。放射能があまりにも強く、作業をいったん2026年に停止し、その後2083年頃までに廃炉にする予定という。さらに核燃料を何万年にもわたって保管しつづけなければならない。事故のなかった原発でさえ困難な仕事なのだから、事故を起こした福島原発の場合はもっと深刻な事態が想定される。それがどんなに困難な作業になり、また巨額の費用を要することになるのか、想像を絶する。
 ・これらの重い負担(危険と費用)が現在の世代だけでなく、未来の世代に重くのしかかる。

 国の借金を将来の世代に残すなという政治家は多数いますが、むしろ原発についてこそそのことを声を大にして主張するべきではないでしょうか。まさか「わがなき後に洪水よ来れ」と考えているわけではないでしょうが。
 その上、安倍政権は原発を再稼働しようとしていますが、そのためには廃炉費用に加えて、安全対策のための費用(耐震、津波、その他の事故)が必要となります。長期的に視野に立つと、再稼働は費用を増やすだけの愚かな政策に他なりません。
 毎日新聞。これからもきちんとした事実の報道をするべく頑張ってください。




 


福島第一原発事故の費用 2 原発事故の賠償交付金


 次に、福島原発事故によって生じた費用のうち、倍賞交付金をとりあげます。

 日経新聞(2013年10月16日)によれば、国が倍賞交付額として東電に交付した援助額は、2013年9月末時点で3兆483億円に達しました。また、この援助額が本年度中に 5 兆円となる可能性があり、その場合には、全額が回収されるのが31年度の2044年後になるという会計検査院の試算が報道されています。
 つまり、東電は、国が原子力損害賠償機構を通じて援助する 5 兆円を31年間にわたって国に返済しつづけるということです。その他に利息分などの追加負担が国に生じるので、実質的な国民負担額は794億円に上るともいわれています。
 ただし、この国民負担分というのは、政府財政を通じた負担分という意味であり、東電が政府に返済する額も(東電とその他の電力会社の)電気料金の引き上げなどの形で、国民負担となることは言うまでもありません。

 検査院は「資金回収 が長期に及ぶと国民負担が増える」と指摘していますが、これは理利息分が上記の額より増えるということを意味しています。


 さて、この数字は東電が被害者に支払う金額であり、被害者が実際に受けた被害額ではありません。言うまでもなく、十分な倍賞金を得ない人は多く、したがって後者の金額はもっと大きな額になるはずです。
 それがどれほどの額になるかを知るには、専門的な調査・研究が必要となり、詳細な数字をあげることはできませんが、参考のために震災後の福島県における避難者数をあげておきます。
 原発事故の汚染度によって原発事故の被害地域は6つの区域に分けられており、それぞれの地域に避難者がいます。その他に「自主避難者」がいます。また避難したいけど、様々な事情で避難しない(または出来ない)人がいますが、こうした人々も被害者であることは言うまでもありません。
 宮城県や岩手県と比べて福島県では、県内避難者(最大で10万人ほど)に対して県外避難者(最大で6万人、復興庁のデータ)がきわめて多くなっていますが、それは言うまでもなく原発事故の影響がきわめて大きいことを示しています。

 http://www.reconstruction.go.jp/topics/post.html

 これらの中の多くの人々は、あるいは土地と家を失い、あるいは職と所得を失い、あるいは交友関係・コミュニティを失い、精神的な被害を受けました。しかし、それを貨幣額で示すことなどそもそも不可能な話です。


原発事故の費用 1 除染、除染費用および除染ビジネス

 2011年3月11日の震災後に生じた福島第一原発事故によってどれほどの費用が生じたのでしょうか?
 費用のすべてを集計することは難しい作業ですが、一部だけでも明らかにしてみたいと思い、少し調べてみました。

 今日はまず除染費用を取り上げます。
 ちなみに、除染というのは、一定の場所、例えば建物の屋根や壁に付着した放射性物質を高圧水をかけて取り除いたり、あるいは小学校などのグランドや公園、田圃などの表土を取り除いて別の場所に移すことと定義的に言うことができます。
 ただし、水をかけても放射性物質や放射能がなくなるわけではありません。放射性物質が高圧水に溶け込みだけです。また表土を取り除いても同様です。そこで除染というからには、汚染水を特殊な容器に入れて保存したり、汚染土を別の場所(仮り置場、中間貯蔵施設など)に保管する必要が出て来ます。
 しかしながら、そのような意味での除染さえどこまで行われているかは、まったく不明です。むしろ、京都大学の小出裕章氏が明らかにしているように、例えば高圧洗浄水をかけた後、その水を垂れ流しにしているだけであり、汚染物質を別の場所に移すだけ、つまり「移染」が行われているだけというのが実情のようです。結局、汚染物質は、(汚染土の場合のように)保管場所にとどまるか、それとも(汚染水の場合のように)川に流れ込み、最終的には海を汚染することになります。

 さて、この除染・移染にどれだけの費用が使われているのでしょうか?
 東洋経済によれば、「これまでに財政措置された除染費用は2014年度予算概算要求を含め約1.8兆円に登り、国費はそれを超える追加分が投入されるが、除染費用の総額は5兆円を超える可能性がある」ということです。

 http://toyokeizai.net/articles/-/23983?page=2

 http://www3.nhk.or.jp/news/genpatsu-fukushima/20130723/index_josennhiyou.html

 2012年度 3700億円 
 2013年度 6556億円 
 2014年度 5000億円 概算要求

 最後の 5 兆円という数字(試算)は、独立行政法人産業技術総合研究所のグループによる試算ですが、これは福島県以外の地域についてもきちんと除染すれば必要と考えられる数字です。人や組織によっては、5兆円では無理であり、18兆円、40兆円、80兆円という数字も出されていますが、実際には除染は技術上やその他の理由により不可能であり、これらの数字に実質的な意味はないというしかありません。
 さて、5兆円とされた除染関係費用の中身ですが、産業技術総合研究所のグループの計算では、福島県内の「放射性物質を取り除く作業」、「作業で出た土などの運搬」、および「仮置き場や最長30年間にわたる中間貯蔵施設における保管」などが考えられています。また地域的には、避難区域の除染に2兆300億円、それ以外の地域で3兆1000億円が必要とされています。
 さて、いずれにせよ巨額の数字ですが、それが除染ビジネスを生み出しています。投下された巨額の国費は、結局、建設会社への支払のために使われます。これほどの無駄使いがあるでしょうか。たしかに「除染」によって本当に汚染物質を取り除けるのであれば、まだよしとしなければならないでしょう。しかし、決してそうではありません。本当の意味での除染は技術的にはほとんど不可能であり、多くの場合、汚染の移転が行われるに過ぎないのですから。


地球温暖化詐欺 BBC 1

 地球温暖化(global warming)は自然科学上の大問題となっていますが、それにとどまらず社会科学上の大問題ともなっています。

 そもそも地球温暖化とは何でしょうか?
 全地球的な平均気温の上昇のことであり、そこには原理上海水温の上昇や陸地気温の上昇も含まれるはずですが、主に問題となっているのは大気の平均気温の上昇です。
 ここで、あらぬ誤解を避け、問題をきちんと理解するためには、出発点で少なくとも次の点に留意することが必要となります。
 1)地球温暖化とは、全地球的な平均気温の上昇を意味しており、地域的・局所的な気温変化とは区別しなければなりません。例えば19世紀から21世紀にかけて人口の集中する都市部では、局所的に平均気温が(例えば摂氏3度も)上がりました。それは「ヒートアイランド」現象などと呼ばれていますが、地球温暖化ではありません。その他に様々な事情により地球の様々な地域が様々な温度変化を経験していますが、それらを平均した温度の上昇が地球温暖化といわれるものです。したがって原理上、地球温暖化を事実として示すためには、①地球上の全地域の経年温度変化を調べ、その平均値を計算するか、②(それが不可能なので)代表的な地域を選んで、温度変化を調べ、適切な方法で平均値を計算することになります。
 実際には、温度計が発明・実用化されてからまだ150年ほどしか経過しておらず、しかも、主に計測地点が都市部に集まる傾向があったため、きちんとした計測値を得ることはかなり難しい仕事となります。
 2)世に地球温暖化が問題とされている理由の一つは、19世紀の産業革命以来、特に20世紀になってから大量に化石燃料が燃やされ、二酸化炭素が大気中に放出されてきたという事情と関係しています。私は自然科学者ではないので、基礎的な知識の多くを自然科学の研究成果に負うしかありませんが、その一つは、二酸化炭素が「温室効果ガス」(greenhouse effect gas)だというものです。そのような効果を持つ物質としては、二酸化炭素の他に、水蒸気(水)、メタンなどがあるようですが、それらに共通しているのは、昔化学の時間に習ったように、原子が多くの「手」で結びついて分子を構成しているという点です。例えば二酸化炭素(CO2)は、炭素が二本の手で酸素と結びついており、水蒸気(水、H2O)は酸素が二つの手で水素と結びついています。
 そこで次の問題は、現在問題となっている地球温暖化が二酸化炭素という「人為的な」温室効果ガスの大気への放出によるものか否かという点にあります。
 もちろん、二酸化炭素であれ何であれ温室効果ガスが増えれば、温暖化が生じるのではないかと考えられますから、この点から見れば、「人為的な」二酸化炭素の増加が地球温暖化を起こして来たことは間違いないと言えるかもしれません。
 しかし、それほど簡単ではありません。というのは、大気中の温室効果ガスとしては、二酸化炭素はごくわずかであり、ほとんどは水蒸気だからです(これも自然科学者からの教示によります)。地球大気に対する比率で言えば、二酸化炭素は0.032%ほどであり、温室効果ガスの中では、水蒸気が約90%に対して、二酸化炭素は10%以下です。したがって地球温暖化が生じているとしても、それが人為的な二酸化炭素の放出によるものであるかどうかが、大きな問題となってきます。
 この問題は、地球気温に影響を与える要因は、二酸化炭素の増減しかないのかという質問に結びついてきます。そこで、近代以前の気温変化が問題となってきます。
 3)地球の気温が過去の時代において歴史的にどのように変化してきたかを調べる学問分野があります。これは大別して、いわば自然科学的に行う方法と、文献学的に行う方法があります。
 前者は、樹木の年輪や古い時代にできた氷の中に閉じ込められている物質(二酸化炭素など)を調べる方法などです。なお、これについても私は素人であり、様々な研究者の研究成果をそのものとして受け取ることしかできません。
 一方、後者は過去の文書(新聞、日記、その他の記事)から各地域の気温に関連する情報を集め、推測するという方法です。有名な例では、例えばグリーンランドが現在では、氷に覆われているけれども、ヨーロッパ中世の温暖期には氷のない緑の地(グリーンランド)であり、バイキングが移住して住んでいたと言われています。ところが、中世温暖期が終わり、グリーンランドがふたたび厚い氷に覆われ始めたため、バイキングは故国に戻らなければならなくなったというような事例があります。17世紀には、ロンドンを流れるテムズ河が凍ってしまい、人々が氷上で遊ぶことができるほどだったということもよく知られています。
 またこれもよく指摘されることですが、日本では、第二次世界大戦後に寒冷化が顕著となり、1970年代にはもっと寒冷化が進行することが心配されていました。
 なお、戦時中の1940年代初頭に日本の各地域が暖冬を経験していたことは、本ブログでもエピソード風に紹介しました。
 こうした歴史的な気温変化をもたらしたのが何だったか、これについては(地球の外部の要因としては)太陽活動の影響、太陽と地球の位置関係の微妙な変化などが指摘されており、(地球内部の要因としては)大気の複雑な変化などが指摘されていますが、これについては、後で詳しく触れることにします。またそれがどの地域で、どのようなものであったのかも後に詳しく触れることにしたいと思います。
 ともかく、このように人類が大量の二酸化炭素を大気中に放出していない過去においても地球の各地(といってもかなり広域的です)ではかなり激しい気温変化が見られていることが知られています。
 したがって人為的な地球温暖化は一つの重要な「仮説」(hypothesis)としては無視できない重要なものですが、決して疑問の余地なく解明され尽くした不動の真理だというわけではありません。私自身は、科学者としての良心・良識にもとづいた研究であれば、人為的温暖化説に肯定的な立場であれ、否定的な立場であれ、尊重したいと思っています。この立場は貫徹したいと思います。

 しかし、どうもきれいごとだけ言って済ますわけにもいかないようにも思います。
 というのは、地球温暖化という環境問題が政治問題となり、ビジネスにまでなっている気配があるからです。私が本ブログで、地球温暖化問題を取り上げ、タイトルを「地球温暖化詐欺」としたのもそのためです。

 BBCが地球温暖化詐欺(The great global warming swindle)という番組を制作したのは、もう数年前のことです。私は、それまで、近代以前にも地球気温が周期的に変化してきたという事実(多分)は知っていましたが、同時に「人為的(二酸化炭素)地球温暖化」説をも何の疑問もなく信じていました。しかし、この番組がきっかけとなり、また「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書をめぐる疑惑(いわゆるクライメートゲート事件)に関する何冊かの本を読んでから、考えを変えました。
 また昔からこの問題に取り組んでいた一人の自然科学者(名古屋大学名誉教授ですが、名前は伏せておきます)から、「人為的地球温暖化」説は決して科学的に証明されてはいないんです、という言葉を1990年代に聞いたことを思い出しました。その先生は温厚な人であり、人為的温暖化説を否定するとは言いませんでしたし、資源保護や地球環境(気温だけではない)の立場から化石燃料を浪費することは好ましくないとも話されていました。しかし、自然科学も(経済学などの社会科学同様)きわめて複雑な科学であり、簡単ではないとも言われていました。<人為的温暖化は疑いない、それで決まり>といった態度は科学的な態度ではないということだったように記憶しています。

 さて、このような訳で、複雑な科学の一つを代表する地球気温学について、科学的な良心をもった研究に対しては尊敬の念を表わしたいと思います。しかし、それがビジネス化したり、政治化したり、特にデータの改竄などの「疑惑」が生じているとなると話はまったく別です。
 本来研究者は、真理を明らかにするために国家(政府)から資金を受け取り、研究を行うわけですが、それが逆転して資金を受け取るために政治が求める結論を積極的に求めるとなれば、科学の死に他なりません。
 しかも、すでに高度の経済発展を成し遂げた「先進国」ではともかく、途上国にとっては化石燃料の禁止的ともいえる措置は死活問題です。

 本当に疑惑、詐欺と呼ばれるようなことが生じているのでしょうか? 
 かつてケインズは、多くの経済学者が現実離れした研究成果を出す理由を、「思想」(信条・信仰)と「権益」(vested interest)によって説明しようとしましたが、私もそれと同じ精神から当該問題について出来るだけ追求して見たいと思います。
 繰り返しますが、私は何らかの気象学上の結論を出そうとしているわけではありません。ただ何があっても人為的地球温暖化を信じるというタイプの人の意見を変えることは到底できないと思いますが、かつての私のようにそのように信じこんでいたという人には大いに意味があるかもしれません。

2014年3月7日金曜日

EUが日本の放射能汚染について科学的調査を実施、報告

 あまり一般化してはいけないかもしれませんが、わが国の政治家たちが福島第一原発事故を忘れさせようとしているのに対して、外国では EU が事故による汚染について調査をしていたことがわかりました。
 その内容については、次のサイトで知ることができます。

 http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2659.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter


 それによると、日本の面積の15%ほどがチェルノブイリ避難基準にいう「徹底的な放射能監視地域」にあたっているようです。
 旧ソ連地域に比べるとはるかに狭い日本。しかも、恐ろしい事故が起き、それがまったく解決していないにもかかわらず(その証拠に、事故を起こした発電所のウラン燃料がどのような状態で、どこにあるのかもわかっていません)。またウランの最終処理の問題が何ら解決していないにもかかわらず、原発を再可動しようとしている党と政府。
 よく「国の借金を次世代に残さない」と主張している党と政府が、借金よりはるかに恐ろしい物を次世代に残そうとしています。

 

2014年3月4日火曜日

官・民二分法の欺瞞

 この国では、しばしば「官」と「民」という言葉が使われます。しかも、その際、「官」には否定的な語感が感じられ、「民」には肯定的な語感が含まれていることは、多くの人が感じていることと思います。
 しかし、官、民とはいったい何でしょうか?
 まず官は官僚の官を連想させます。「官僚制はよろしくない、なくすべきべきだ。」こんなところでしょうか。
 一方、「民の声は神の声」(Vox populi vox dei.)などという言葉があり、こちらは肯定的な響きがあります。
 しかし、「官と民」という言葉を多用する人(例えば竹中平蔵氏など)が、「民」というとき、実際には人々(諸個人)という意味で使っているのではなく、会社やビジネスという意味で使っていることに気づいている人は多いと思います。
 ちなみに、ガルブレイスの著作に『悪意なき欺瞞』(ダイヤモンド社)という本がありますが、原著では corporate sector (会社セクター)という言葉が翻訳では「民」と訳されています。偉大なる誤訳といってもよいかもしれませんが、日本ではまさにビジネス界が「民」という用語で示されているのですから、その意味では日本の現実を素直に反映するものといえるかもしれません。「民活」(民間活力)などという言葉がありますが、この言葉をキャッチコピーとする政策は、往々にして従業員を「自由に」使って経営者や株主だけが所得を増やすブラック企業(これも民です)を許容する結果をもたらしてきました。本来は、「民」の活力ですから、従業員が所得を増やし、元気を出さなければならないはずですが、・・・。

 ともあれ、多くの人の頭の中には、官は国家官僚組織、民は会社(民間企業)という2項図式が存在していることは、様々な発言から明らかです。
 
 しかし、このような二分法は日本の一部では通用するかも知れませんが、誤用に他なりません。
 まず官僚制ですが、これは行政組織だけでなく、民間企業にも存在します。あえてマックス・ヴェーバーなどの社会科学上のビッグ・ネームを出す必要もないでしょう。現代の企業が合理的官僚制として組織されていることは周知の事実です。従業員を何千人、何万人もかかえる現代の巨大企業は、それなくしてどのように支配(命令と実施)を実現するのでしょうか? 
 一方、「官」によって示される政治の領域は、本来、近代市民社会(政治的社会)の理念にあっては、すべての構成員が平等な権利をもって参加する公共的な領域であって、一握りの官僚の組織をいうわけではありません。「官」という表現法自体に、日本の政治の世界が公共の領域ではなく、何か常人が近寄ってはいけない特権者の世界というニュアンスが感じられ、政治の世界が何か薄汚い世界であるかのようにイメージされています。それに、いったい民間企業の官僚制がクリーンな世界だとでもいうのでしょうか。

 次に民ですが、これは上で示唆したように、本来は人々(people)のことに他なりません。しかし、民を会社=ビジネス界(corporate sector)と観念することによって本来の民は閉め出されてしまいました。人々は会社に滅私奉公するべき存在と見なさるか、あるいは存在すら意識されていないかのようです。

 どこがおかしいのでしょうか? そもそも官と民という二分法が誤っているというしかありません。米国でも欧州でも、政府、会社(ビジネス)、家族・個人は別々の存在として意識されていまし、日本でもそうです。われわれは、官と民という巧妙なレトリックに騙されてはなりません。
 社会のリードする人々には、官と民の二分法ではなく、せめて政治(公共性)、会社(ビジネス)、家族(個人)というトリアーデ(toriade)を知り、それぞれがどう関係するべきかを考えて欲しいものです。


世界の合計特殊出生率の変化


国連「経済社会事情局」が世界各国・地域の時期別の合計特殊出生率に関するデータを公表しています。
 1950〜1955年には、OECD諸国でも、合計特殊出生率(TFR、女性が一生の間に生む子供の平均的な数)は、OECD諸国でも2.5以上であり、中南米、アフリカ、中東、南アジアおよび東アジアでは5以上の国・地域が多く見られました。この時期はグローバルな人口爆発が心配された時期でした。
 しかし、21世紀初頭までに事情は大きく変わりました。先進国の多くでは、TFRは2以下に低下し、他の国・地域でも2〜3またはそれ以下に低下しています。サハラ以南のアフリカ諸国では依然として4以上、中には7を超えている国も見られますが、中南米、中東、南アジアおよび東アジアでは、かなり低下しています。
 こうした変化は決して否定的に捉えるべきことではありません。一つには、伝統的な社会では高い乳幼児死亡率が見られたため、次世代の人口を維持するには多産が必要でしたが、現在までに乳幼児死亡率は決定的に低下しました。またTFRの低下は女性の家庭内における地位、社会的な地位の上昇を反映していると考えることができます。もちろん「持続可能な発展」の観点からみても、人口爆発が生じることは決して好ましいことではないでしょう。かつて心配された世界人口の爆発の心配はなくなりました。
 
 しかし、言うまでもないことですが、TFRの2以下の水準への低下は、長期期には人口が減少してゆくことを意味しています。現在、例えばイギリス、フランス、米国などが2前後になっており、ドイツや日本、韓国などが1.3前後の水準になっています。このままの状態が続けば前者では人口は長期的に安定的に推移しますが、後者では人口がかなりのテンポで減少することになります。
 その際、人口が減少することが問題というわけでは決してありませんが、あまりに急速な人口減少が大きな問題をもたらすことは間違いありません。そのことは極端な例を示せばあきらかでしょう。例えば仮にTFRが0(ゼロ)になれば、ほぼ80年で当該国・地域の人口はゼロになります。それは破局的な状態を意味しています。
 それではどのような数値が好ましいか? これは社会哲学的な問題を含んでおり、誰もが合意できる明らかな正解というものはないと考えられます。結婚するのか否か、また何人の子をもうけるのか、それは個人の自由の領域でもあります。そして、社会全体の結果は諸個人の行動結果の集計という一面を持っています。
 しかし、他面では、各個人の行動は、社会全体の環境によって制約されます。経済学でも現在のアメリカの主流派のように、ケインズの経済学を批判しようとして、マクロ経済学をミクロ経済学によって(のみ)基礎づけようとするものもありますが、それは完全に失敗しています。経済主体のミクロ的行動はマクロ(社会全体)=社会全体の環境によって影響を受けているからです。人口についても同じことがいえます。
 もし子供を持ちたいにもかかわらず、それを不可能にする困難な事情があるならば、改善が必要となります。日本の統計(厚生労働省)でも、同じ年齢階層で結婚した女性の合計特殊出生率は決して低くありません。しかし、未婚者の出生率は低く、また男女とも未婚者の多くは非正規雇用者であることが示されています。TFR(1.3〜1.4ほど)を前提条件として今後の日本の経済社会のありかたを考えるのか、そうではないのか、大いに議論が必要です。



http://esa.un.org/wpp/fertility_figures/interactive-maps_TF.htm




2014年3月2日日曜日

ヨーロッパの伝統的家族と相続 3 ロシアと中国とフランス

 かなり急進的な土地革命を経験した代表的な国が3つあります。フランス(フランス革命時の封建的特権の無償廃止)、ロシア(1918年の土地革命)、中国(1950年の土地革命)です。日本も戦後農地改革を経験しましたが、これは戦後GHQの影響下で行われたものなので、ここでは触れないことにします。
 
 上の3カ国に共通点はあるでしょうか?
 あると言えばあります。それはいずれも平等主義的な相続制度(均分相続慣行)の主要な国だったという事実です。それが土地革命とどのように関係しているのでしょうか?
 
 そのことを納得してもらうために、まずロシア帝国の農業・土地問題から始めることとします。
 ロシアというと人はどのようなことを連想するでしょうか? 北の寒い国とか、石油国家、ソ連、計画経済、共産主義などという言葉が出てきそうですが、広い国という言葉も出てくるかもしれません。
 実際、ロシアは広大な国です。人口も多いのですが、その農地面積も広大です。20世紀初頭の統計では、ロシアの平均的な農家が保有している耕地面積はドイツの平均的な農家の保有する面積より広かったとされています。
 ところがです。19世紀末から20世紀初頭の頃のロシア人経済学者の書いた文章を読むと、当時のロシア農民は「土地不足」(malozemel'e)で苦しんでいたことが論じられていたことがわかります。広い国土で「土地不足」? そんな訳はない、といったところでしょうか。
 
 しかし、私は決して冗談を言っているのではありません。
 そのことを理解するためには、次の点を知る必要があります。
 1 当時のロシア農業は粗放的であり、土地の生産性が著しく低かった。したがって一定の収穫量(例えばドイツ人の農民経営が実現しているような収穫)を実現するためには、相当の土地面積と播種量が必要だった。
 2 19世紀後半〜20世紀にかけて農村人口はかなり急速なペースで増加しており、その増加率は50年で2倍にふくれあがるほどであった。したがって1861年の農奴解放から20世紀初頭までに農民の保有地は平均して2分の1ほどの縮小したことになる。この農村人口の増加傾向は、20世紀に入っても進んでおり、1917年のロシア革命後も進行しつづけた。
 3 農民の保有地(分与地 nadel)と並んで、大地主の所有地(私有地)があり、農民たち、特に土地不足の零細農はその私有地を高い小作料を支払って借地しなければならなかった。小作料は、農民の「土地不足」のために年々高騰する傾向にあった。
 4 ロシア農民の伝統的な家族形態は、先に触れたように、共同体家族(平等な相続をともなう)であり、結婚した兄弟がしばしば同じ屋根の下で暮らすことがしばしばあったが、また兄弟が家族を分割し、その際、均分相続制度の下で、土地=経営が細分されることとなった。
 5 さらにいわゆる大ロシア諸県(現在のロシア地域)では、耕地が個々の農家の私有地ではなく、村落(村落共同体)の共有地と観念されていた。
 といっても、共有地が村人によって共同耕作されていたわけではない。それは各農家の耕作するところであり、そのために土地は各農家に平等に配分される必要があった。最も広まっていたのは、各農家の男性人口(納税人口、現存人口)を基準として土地を配分するという慣行である。
 しかし、土地配分の当初は平等性が保たれていたとしても、時間の経過とともに不平等が拡大する。そこでロシアの法律は、村集会が多数決をもって土地の再配分(土地割替、peredel)を行うことを許可していた。

 以上のような制度を背景として何が生じたのでしょうか?
 一言で言えば、農家人口の増加とともに拡大する「貧困の共有」です。たしかに村落の土地共有と均分相続によって土地は人々(特に男性)に平等に配分されました。しかし、
人口増加とともに土地は縮小してゆき、わずかな私有地を借地するためでも高い小作料を支払わなければならなくなります。
 もう一つ注意しなければならないのは、当時のロシアは工業化を達成しつつあったとはいえ、そのペースは増加する農民の過剰労働力を吸収するほどではなかったことにあります。イギリスの歴史家、E・H・カーは、ロシアの工業化のペースがロシア帝国の農村人口の増加速度にくわべてきわめて低かったといっています。
 ともあれ、農民、特にわずかしか土地を持たない小家族=貧農は大いなる不満を持ちます。その怒りは、19世紀末から20世紀初頭には、不当な不労所得を得ている地主に対して向けられることになりました。
 最初の大きな爆発は、1905年の第一次ロシア革命の時に生じました。このとき、全ロシア農民同盟という組織は、大土地所有を無償で没収し(土地の社会化)、それを農民の間で平等に分配することという要求を出しました。

 これに対して当時のロシアの世論はどうだったでしょうか?
 興味深いのは、帝政ロシア政府は、こうした農民の要求を断固として拒否し、むしろ農村共同体の土地共有制度が農民運動の急進化の背景にあると考えて、それを破壊しようとしました。土地の私有化の政策です。
 さらに面白いのは、1913年に内務省が準備した法案です。
 この法案は、家族の内部の均分相続を停止させ、事実上の一子相続制をロシア農村に導入しようとするものでした。つまり、私たちがイングランドやドイツ、バルト地域で見られたような相続制度を「上から」導入しようとしたのです。これは、農業者を「優先的相続人」だけにし、弟たちを工業をはじめとする非農業部門に流し込むという「西側」の発展経路にロシアを誘導しようつする意図を持つものでした。
 しかし、この計画は第一次世界大戦によって頓挫します。そして、1918年に急進的な土地革命がついに実施されるにいたりました。

 もちろん、これで終わりというわけではありません。1918年の土地革命もすべてを解決したわけではありません。それは一面では、農民の土地保有を平等化しましたが、他面では、農村の人口増加を促しただけであり、農民一人あたりの土地面積を狭くするという昔から続いて来た傾向を押しとどめることはできませんでした。
 もし1920年代も続いたこの傾向が1930年代の持続していたならば、ロシアは巨大な農業国・農民国になっていたかもしれません。(実際には、その途中で、1930年代に農業の集団化が行われ、それと同時に計画経済による工業化が推進されました。)

 



 
  






ヨーロッパの伝統的家族と相続 7 ポーランド・ウクライナ・リトアニア・白ロシア

 家族史にとってロシア(大ロシア)とドイツ・オーストリアとの中間地域は、まだが研究が十分に行われているとは言えない地域といっていいかもしれません。少なくとも私にとっては不明な点が多数あります。

 この地域には、かつてポーランド王国とリトアニア大公国が存在していましたが、この両国は1550年代に併合し、ポーランド・リトアニア共和国をつくりました。そのうち旧リトアニア大公国の領域は、大体現在のリトアニアとベラルーシ(白ロシア)に重なっており、旧ポーランド王国の領域は、現在のポーランドとウクライナに重なっていますか。その後、ポーランド・リトアニア共和国を構成していた地域は、大部分がロシア帝国に編入され、旧スウェーデン領だったバルト3県とともにロシア帝国内のヨーロッパ・ロシアの西部諸県(ポーランド王国諸県、リトアニア諸県、白ロシア諸県)に編成されました。一方、同共和国の一部(現在のポーランドの一部とウクライナの西部)はオーストリア帝国に編入され、ガリシア(Galicja)地方を構成することになりました。したがって現在ニュースをにぎわしてるウクライナは、かつてはポーランド王国に属しており、その後、ポーランド分割によってロシア帝国とオーストリア帝国に分かれ、最後にソ連時代を経て、1991年以降、独立の国家になった地域ということになります。

 このうち旧リトアニア大公国領(リトアニアと白ロシア)における家族史についてはW・コンツェ氏が主に土地台帳にもとづいて実証的な研究を行なっており(1940年刊行)、基本的な事柄が明らかにされています。一方、旧ポーランド王国領(ポーランドとウクライナ)については、ソ連時代になされた研究があり、私もキエフ市で集めた史料(課税台帳)にもとづいてちょっと調べたことがありますが、なお判然としないところがかなりあります。

 これらの地域では、15世紀以降、西方(ドイツ)からの影響下に「フーフェ」(voloka, wloka, valakas)の制度が導入され、それが同地域の農業・土地制度に大きな影響を与えたことは間違いありません。フーフェとは一定面積の耕地(通常は33エーカーに等しい)を意味します。それが導入された村落では、測量によって耕地が1フーフェずつに区画化され(ただし、三圃制、混在耕地制のため、耕地が必ずしも一つの区画をなしているというわけではありません)、原則として各農家に1フーフェの耕地が形式的に平等に分配されました。そして国家または貴族領主は、このフーフェを基準として各種の賦役・公課を課税することになります。
 しかし、それまで各地に存在していた家族制度の作用により、フーフェ制が導入されて以降の家族類型や相続制度も、またフーフェ制そのものも、「西側」におけるものとは著しく異なったものとなったことは間違いありません。

 まずフーフェ制の導入以前には、土地台帳(課税台帳)では、農民の定住地を構成する基本的な単位=世帯(イエ)を表わす言葉として dvor, dvorishche, dym などが使われていました。W・コンツェ氏やソ連の研究者が明らかにしたように、これらの世帯は、基本的には複合世帯であり、かつ結婚した兄弟の同居を特徴とする(横への拡大を伴う)複合大家族でした。この特徴は、リトアニア、特にバルト海に面したサモギティア(コヴノ県)では弱く、むしろ直系家族的な色彩が強くなる傾向がありましたが、内陸部に入るにつれて強くなり、東スラブ人(白ロシア人およびウクライナ人)のもとでは一般的な特徴となります。

 かくして一つの問題は、16世紀以降にフーフェ制が導入されたとき、フーフェと世帯がどのような関係にあったのか、つまりフーフェがどのように世帯に配分されたかにあります。当時、白ロシアやウクライナでは、まだ開墾されていない土地が広範に存在し、したがって測量によって村落フーフェが創り出されたとき、相当数の「自由フーフェ」(農民によって占取・利用・耕作されていないフーフェ)が存在しました。しかし賦役・公租を増やすという国家および領主の利害からすれば、なるべく多くのフーフェを農民に占取させることが求められたことは言うまでもありません。つまり厳格に言えば、ドイツなどで行われたように、直系家族または核家族に対して1フーフェを分け与えることが期待され、求められるべき原理だったとでした。少なくとも1フーフェを結婚した複数の兄弟に対して配分するといったことは避けるべきことでした。
 しかし、この原理は決して守られたとは言えません。白ロシアやウクライナの多くの村落では、複数の夫婦(兄弟夫婦)がフーフェを受け取りました。そのような場合、事実上は、複合世帯をなしていた各夫婦(核家族、または親を含む直系家族)が部分フーフェ(半フーフェ、3分の1フーフェなど)を受け取り、土地台帳上はフーフェの一体性が維持されているようにふるまったか、それとも実際に複合世帯を存続させ、次の世代に家族分割を実施し、部分フーフェに分かれたか、のいずれかであったと見られます。
 ちなみに、人口増加とともに「自由フーフェ」はしだいに姿を消してゆきますが、それがどのような手続きによって占有されるにいったったのかは、必ずしも明らかではありません。
 ともかく、フーフェ制の導入が即座に家族形態と相続制度を大きく変えたということはなかったと考えられます。事実、1861年に実施された農奴解放の前後においても、このようにフーフェが複合大家族によって保有されているという状態は続きました。したがって19世紀後半には西部諸県でも(ただしバルト諸県やコヴノ県の事情はまったく異なります)、人口増加と同時に進行した家族分割の波の中で世帯あたりの耕地面積は大幅に縮小するに至ります。(ただし、ウクライナでは、土地を保有しない農村下層民が人口比では少数であるとはいえ存在します。それがどのようにして生まれたのかは、私には不明です。)
 
 以上はロシア帝国領に編入された部分についてですが、旧オーストリア・ハンガリー帝国領に含まれることになった部分(ガリシア、レンブルグ周辺部)については、事情が異なるかもしれません。もしかすると、<不平等な相続を伴う直系家族>というドイツ的な制度の強い影響のもとに大きな変化があったかもしれませんが、不明です。
 

2014年3月1日土曜日

ヨーロッパの伝統的家族と相続 6 リトアニアと白ロシアの家族類型

 E・トッド氏の『世界の多様性』(藤原書店、2008年)は、世界のすべての家族・相続類型を論じた興味深い著書・大作であり、巻末に家族類型の地理的分布図を示していますが、細かなところではいくつかの修正が必要なように思います。
 その一つはいわゆるバルト地域です。この地域は、19世紀末には帝政ロシアの版図に含まれており、当時の行政区画では、バルト諸県(リーフラント、エストラント、クールラント)に分かれていました。また現在のリトアニアに編入されている範囲はおおむね(ということは完全には一致しないということですが)帝政ロシアのリトアニアに対応していました。このリトアニア地域には、バルト海に面したコヴノ県(カウナス県)とそこから内陸に向かういくつかの県が含まれていました。コヴノ県は、別名で言語によってサモギティア(Samogitia)とか、シャーマイテン、ジェマイティア(ドイツ語:Schamaiten、リトアニア語:Jemaitia)とも呼ばれていた地域です。

 さて、問題となるのは、以上のうち、バルト諸県からコヴノ県にかけての沿バルト海(ドイツでは東海)地域です。ここで支配的だったのは、外婚的な共同体家族(均分相続制を伴う)ではありませんでした。
 そこで支配的だったのは、ドイツの多くの地域で見られたような直系家族(一子相続制を伴う)でした。ただし、バルト諸県やコヴノ県からヴィリニュース県を経て内陸に向かうと状況は大きくことなってきます。これらの内陸諸県では、リトアニア諸県でもしだいに、また白ロシアでは決定的に支配的な家族は複合的な共同体家族の様相を強めてゆき、また相続も均分相続になります。
 このことは、リトアニアと白ロシアの地域については、ドイツ人の社会史家、ヴェルナー・コンツェ氏のモノグラフィー(東方研究)で疑問の余地なく明らかにされています。
 
 Werner Conze, Agrarverfassung und Bevolkerung inLitauen und Weissrussland, Bd. 1 (1940).  

 おそらくトッド氏は、英語文献とフランス語文献を中心に検討され、ドイツ語とロシア語の文献については精査されなかったためと思われます。しかし、別の場所(372〜373ページ)では、ロシア帝国内でバルト海地域からのロシア内陸部への文化的テイクオフについて触れており、バルト海沿岸地域が高い識字率で注目されることなど、文化的・経済的に特別な位置にあったことは認めており、非常に興味を引きます。

ヨーロッパの伝統的家族と相続 5 フランスの平等主義

 私にとって、フランスは非常に興味をひく国の一つです。まず1789年にはじまるフランス革命のスローガン「自由、平等、博愛」(liberte, egalite, et fraternite)が気になります。これに対して1640年代のイギリスの内戦は、責任内閣制にもとづく議会制政治をもたらし、「自由」を実現したということができますが、そこには「平等」がありません。近代イギリス経済史の上でも、近代性が強調されながら、17〜19世紀に土地の所有権は、ジェントリー(gentry)、つまり本来的には封建制時代の封建領主(諸侯、騎士)に由来する階層または彼らから土地の領有権・所有権を買い取った富裕な商人たちに帰します。農夫たち(farmers)は、例え村落内では農業労働者(奉公人、小屋住みに由来する階層)を雇う富裕層であるとしても、借地権者(tenants)に他なりません。
 ただし、イングランドは、一子相続制の国だという通説に対して、実際上は均分相続が行われていたとする異説がないわけではありません。ジョアン・サースク(J. Thirsk)などがその一人であり、外見上兄の単独相続であっても、弟の独立時に兄が財産の一部を分け与えるので、実際上は分割相続が行われる場合があったと主張されています。しかし、そうだとすると、イングランドやスコットランドにおける多数の奉公人と小屋住みの形成は、その場合にどのように説明されるのか疑問が残ることになります。
 
 これに対してフランスでは家族史の上でも「自由」と「平等」が大きな主題となっています。そもそもフランス革命中にジャコバン派は、封建的特権を無償で廃止するというかなり急進的・平等主義的な変革を行いました。トッド氏は、フランスの政治史上の自由・平等と家族史上の自由・平等の一致は決して偶然ではないと言いますが、私も密かにその意見に賛成です。

 さて、フランスの家族史の研究者は、フランスが3つの地域に大別されるという点で一致を見ているようです。法制史家のジャン・イヴェールやそれに依拠して相続および家族のありかたを整理した社会史家のエマニュエル・ル=ロワ=ラデュリも基本的に3つの類型を区別しています。1983年に出版された『家の歴史社会学』(新評論)にラデュリの論文が掲載されており、二宮宏之氏による整理が掲載されていますし、また安岡重明氏の論文(「日欧の家産単独相続に関する覚書」*)もそれに触れていますので、詳しくはそちらに譲りたいと思いますが、それらを参考にして簡単に要約すれば、次のようになるかと思います。
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00008269&elmid=Body&lfname=007000470001.pdf
 なお、この論文には、相続慣行の分布図がつけられており、各相続類型の地理的な分布を知るのに役立ちます。

 A 一子優先型(地域的には南部のオック語の地域からその北部周辺部にかけて)
 ここでは子供の中の一人(主に長男)に優先継承権(preciput)が認められており、親は遺言によって特定の子供を優位に置くことができる。
 B   均分相続型(西部のノルマンディー、ブルターニュ地方など)
 ノルマンディーのように、男子間の均分相続とされて女子が排除される場合もあるが、多くの場合には男女を区別しない均分相続を特徴とする。相続以前に婚資などの形で財産の贈与を受けていた場合、相続の際、その分をいったん遺産に「持ち戻す」(raporter)ことを強制される。
 C 中間的解決(オルレアン、パリ盆池など)
 AとBの「中間的解決」の型。この型の原型においては、生前贈与を受けた者は相続から排除され、他の者の間で均分相続が実施された。しかし、16世紀以降に新しい型が行われるようになり、生前に贈与を受けた者も、その分を持ち戻すことによって相続に参加することを許される。いわゆる中間的解決であり、選択許容型である。
 D この他にノルマンディーのコオ地方に完全な長子相続型が存在したが、この型はフランスでは例外的であった。

 問題は、こうした相続慣習の類型がどのような家族類型に関係しており、またどのような経済事情と結びついていたかにあります。
 
 まず、A(一子優先型)が出来るだけ家族(経営)の分割を避け、永続的家族財産を守ろうとする家族戦略と関連していたことは明らかです。しかし、この相続戦略の問題点が、特に人口が急速に増加している時期に、多数のプロレタリア(土地なし)を生み出すことにあります。このことはすでにイングランドやドイツの場合に関連して触れました。

 では、西部のB(均分相続型)の場合はどうでしょうか? 
 前回、帝政ロシア・ソビエト初期の共同体家族における均分相続の問題を簡単に見ておきましたが、同様なことがフランスでも生じていたのでしょうか?
 イヴェールとラデュリの明らかにしたところによれば、フランス西部における事情はかなり異質です。そこでは次の2点が強調されています。
 1 人々は、家族の「土地の細分化の危険性」に対しては無関心であり、それよりは夫婦それぞれの家系(系族、lineage)の価値を優先させる。その定式は、「父親の財産は父方の家系の人々に、母親の財産は母方の家系の人々に」であり、この規則は厳格に適用される。18世紀のある法学者は、こうした西部の土地制度を評して、「父方と母方の親族は、共同相続人ではない。彼らは共通のものを何一つ持たない。そして、父方の親族よりも、むしろ土地の領主が母方の親族の遺産を相続する」という。
 つまり、こういうことです。ある夫婦について、夫は父方および母方それぞれの系族の財産を相続し、妻も父方および母方のそれぞれの財産を相続し、それらの財産はそれぞれ子供たち(息子と娘)に伝えられてゆく。しかし、もし相続するべき子供がいない場合には、財産はさかのぼって各系族の人々に相続されるか、(それができない場合には)領主や徴税請負人に与えられる、と。 
 2 そこで、家族関係の核心をなす夫婦の統一に関しても無関心とされる。「夫婦二人は、異なる家系から出て、やがて死すべき存在として一時的に結合しているに過ぎない(!)」という。
 
 ところで、それにしても、近代に人口が増加したとき、「土地の細分化の危険性」は現実のものとならなかったのでしょうか?
 たしかにフランスについては、「分割地農民」(農地を細分化された(parcelliser)農民)が経済史の教科書にも出てきます。しかし、フランスの当該地域(西部のブルターニュやアンジュ地方など)では、そもそも農地の主要部分が自作農(fermiers)の保有する土地であると考えることが正しくないのかもしれません。
 というのは、確かにA(一子優先型相続)の地域は、自作農が優勢な地域でしたが、それに対してBの支配的な西部は、小作制と大規模経営の支配的な地域でもあったからです。つまり、西部では村落家族は、かなりの程度に土地を持たない・プロレタリア化されていたため、生産手段としての土地=永続的家族財産を維持することに関心を持たずにいることが出来たと考えられます。この点は、フランス革命時の土地革命におけるこの地方の対応を検討することからもうかがえます。

 C 中間的解決の地域(オルレアン、パリ盆池)
 上に上げた2つの体系に対して、中間的解決の体系は、少し複雑です。
 第一に、「法の最も古い成層」で優越しているのは父と母の意志(つまり遺言)でした。それは保有地を細分化しないようにという配慮とも関係していたことは間違いありません。そのために適用された慣習法の条項は、次のようなものでした。つまり、両親は家を離れて他所で結婚する子供(息子、娘)にいくぶんかの贈与を与え、これらの「独立した子供たち」を遺産相続者から排除しましたが、一方、家に(未婚のまま)とどまって老齢期の両親の面倒をみる子供(息子、娘とも)に対しては、「単純な平等」(均分相続)を保証しました。
 この体系は、平均的に二人を少し超える子供が結婚可能な年齢に達するという古い形の人口誌にはよく適合していたと考えることができます。つまり、生き残った二人の子供のうちの一人(主に男子)は両親と同居し、そして時が至れば(つまり家長が亡くなれば)遺産の相続をするように定められていました。また、もう一人の子供(多くの場合、娘)は、適当な時に婚資(という名の贈与)を与えて排除すればよい、というわけです。
 しかし、このオルレアン=パリ型の慣習法は、ルネサンス期から(14世紀以降)変化してゆきます。13〜15世紀以来、パリとアミアンの慣習法は、家を離れる子供たちのために緩和策をとっていたが、その一つは、子供たちの婚姻契約書の中に贈与の取消し(rappel)という特別条項を入れた場合、両親が死亡し相続が行われるときに、贈与を取り消した上で、遺産の分け前を要求することができるというものでした。ただし、当時、書面による契約のもとに結婚できるような農民は希だったに違いありません。
 1510年頃、パリ周辺で新しい慣行が樹立されました。この新たな慣行は、選択と持戻しという2つの言葉で要約されます。またそれは、「何人も受贈者であり、相続人であることはできない」という規定に示されます。つまり、ひとたび贈与を受けて家を離れた人も相続のときにかつての贈与を取り消し、贈与分を持ち戻すことによって相続に参加できることになりました。贈与を取り消すことなく相続に参加しないか、贈与を取り消して相続に参加できるか、そのいずれかを選択することができるというのが新しい慣習法の精神です。(ちなみに、フランスでもローマ法=制定法の世界は、南部に限られており、中央部から北部にかけては慣習法が大きな力を持っていました。)

 こうしてパリ盆池周辺では、16世紀以降、より柔軟で寛容な法の下で、農民保有地の細分化をもはや阻止できないようになってきます。そして、そこでは、帝政ロシアの場合のように権威主義的な複合大家族、または共同体家族(父母の下で結婚した兄弟が同居するようなタイプの家族)ではなく、小さな核家族がますます支配的になってゆきます。
 夫婦と未婚の子供たちからなる核家族と平等な相続。これはフランス民法典に示されるきわめて近代的な家族制度ということができます。
 しかし、それは工業化以前の伝統的社会の中でどのようにして可能となったのでしょうか? またそれはロシアや中国のような国が抱えこむことになった「土地不足」「農村過剰人口」の問題をもたらすことはなかったのでしょうか?
 この問題を説く鍵の一つは、パリ盆池が近代に多数の農業労働者をかかえる大経営の地域となっていたことにあります。そもそもパリ盆池は、自営農の地域ではなく、プロレタリア化した村落住民の地域となっていました。

 多様な家族類型を持つフランス。この多様性は、フランス革命時の土地革命に際しても現れてきます。