2019年8月25日日曜日

帝政ドイツと産業革命 第二章 古い秩序 3 異教的アナーキー(異教時代の無秩序)

 前回の更新(第二章の2の訳文掲載)から長い時間が経ってしまった。
 
 今回の部分は、北欧のゲルマン諸民族が「王朝国家」を形成する以前の古い、といっても決して「太古的」というわけではないが、まだキリスト教が広まる以前の「異教時代」を叙述したものである。
 ここで「アナーキー」(anarchy)とカタカナ(英語)のままにしておいたのは、まだ「王朝国家」が成立する以前の時代にかかわることなので、ある種の「無政府状態」であったのは言うまでもないけれど、ただ政府が存在しないというだけにとどまらず、ある種の自由な、あるいは無秩序・無規律な状態を示しているように見え、これを表すのにぴったりの適切な日本語が思いつかなかったためである。とりあえず「アナーキー」のままにしておいたが、もちろん「異教時代の無秩序」でもよいのかもしれない。
 

ソースティン・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年)
 第二章 古い秩序
 

 3 異教的アナーキー

キリスト教に改宗し、それに続いてキリスト教の世界史に入る前のバルト諸民族の文化については、同時代やほぼ同時代の記録がない。したがって、その文化を少なくともかなりよく後に残し、かつそれを多少とも異質な社会状態と見ていた書き手が見ていたような、事情を回顧的に示すような証拠を除くと、その文化諸制度に関する直接の証拠は現存しない。したがって先史時代のバルト文化の、物質的な関連以外の状態を示すものは、不充分な文書と状況証拠にもとづく再構成という性質を持たざるをえない。とはいえ、バルト文明の支流と考えられるイングランド人やドイツ人の長期にわたる素質と遺伝的才能を理解しようとする努めるためには、この先史時代の社会状態を明確に概念化することがきわめて必要であり、そこで冒険の危険を甘受し、この目的のために利用できる資料を最大限に活用することが必要となる。資料は最善であっても、まだまだ不足していることが多い。しかし、人間の諸制度に関するどんな調査もそんな場合には「常に最善で充分である」という警句に立ち戻らなければならず、かくして手元にあるものを最大限に活用しなければならないであろう。

スカンジナビア諸国の後期異教文化が与える見通しを通して振り返るとき、この地域の考古学資料の提供する背景に照らして見れば、バルト沿岸地帯社会の先史時代の社会状態の概略的で暫定的な再構成を試みることができよう。そのような暫定的な記述の目的は、今日の北欧諸民族がおそらく遺伝的な気質と能力によって最も適合している生活体系と産業技術の状態を、換言すれば生まれつき適合し、もし環境が許すならば自分たちの「自然状態」として入りこむことになった生活体系と産業技術の状態を、また北欧の金髪雑種人口にとって本質的に異質な異なった生活様式を要求するもっと後の産業技術の状態の圧力を受けて習慣化によってのみ転換・離脱してきた生活体系と産業技術の状態を、できるだけ近似的に示すことである。
市民的な機構の中では、すべての権力は、厳密な公式的な分類ではないとしても事実上は自由保有農民からなる人々の集会に最終的にゆだねられている。それは肩書き上、身体強健で資産を持つ地位にある男性市民を含むが、公式的には自由人のどんな部分をも除外せず、おそらく絶対に厳格にではないとしても、すべての女性を排除する。この協議のための集会は、実際に行使された権力としては、立法、執行(ごくわずか)および司法の権力を行使した。
(1)注3、302ページを参照。
(2)武装した身体強健な男性たちに参政権を賦与するという制限と、武装して集会に参加しなければならないという条件は、彼らがもっと昔のヨーロッパ文明国に侵入した時期と侵入後の時期のこれら野蛮人の略奪者的な群れ(バンド)や戦士社会に観察されるのであり、古代のスカンジナビアに行われていたようには見えない。むしろ少なくとも集会における武器の時折の禁止があった。しかし、そのいったすべての問題は緩やかな形で市民の選択にまかされていたように見える。実践は変化してきたように見える。

警察権はあったとしても無きに等しいが、それでも確立した治安規制の慣習はある。そして国王の農場外では「国王の平和」の観念はない。また人民集会地区の外部にはなんらかの種類の公的権力の強いる「公安」の観念がない。この市民的組織全体を通じて際立っていることは、それが隣人的な自治の考えに依拠しているという証徴であり、その自給的な隣人関係の内部では、――個人や集団が耐えがたい公的な迷惑へと拡大しないように、自分の親族の支援を得て、また最終的には自警団の結成もありうることに示されるような忍耐の緩やかな限度内であるが――自分自身の利害を守るために個人が全面的に依拠されているという点である。
この市民体制は、強制的な統御を行使しない協議集会の常識によって制限される無秩序(アナーキー)であると説明できよう。あるいは、もしその傾きの表現がよいならば、執行権力を停止している民主的な政府と呼んでもよいもしれない。そのすべてが、法制度、合法性の観念が、またはそのような社会で生じる傾向のあるあらゆる事態をカバーする特定の、また細かい法条項の観念さえないことを意味するわけではいささかもない。
そのような不服従にもとづく準無秩序な社会統御の体系は、それが優遇する自然的な性向――その公正の倫理的または審美的な意味――にもとづいてのみ取り入れられうる一方で、その実践可能性は特定の機械的な環境に制約されている。その体系は集団内部の人的関係に依存しており、その支配が及ぶ集団は、そのような人的および非公式の関係の限度内に制限されるにちがいない。それは事物の性質上(本質的に)近隣組織であり、近隣関係の有効な範囲を越えると適用されない。したがって、それは、必要な産業関係がそのような隣人的な接触の可能性を超えない時に、その限りで実践可能である。そして産業の遂行またはその結果生じる経済関係の規模を過度に増やすような産業技術の状態のどんな知覚できる進歩でもあれば、社会の無秩序な体系はますます不安定になる。
早晩、一方の産業社会の伸長によって機械的に実現可能なもの、というよりむしろ不可避的なものと、他方の隣人の常識的な監視というアナーキーな体制の最大限の可能な限度との裂け目は埋め合わせられないほど大きくなる。そこで、旧体制は、組織の効率の条件をなす一体化した感情の同意の有効限度をはるかに超える組織規模をもたらす累積的変化の影響を受けて崩壊せざるをえないことは明白である。その徴に、変化する環境の下でこうした性質を持つ文化を数千年にもわたって発展させることによって、こうした生活様式の規模に対して優れた適応性を示した民族は、おそらく、これらの穏やかな限界を大幅に超える産業技術の状態が強要する条件には安住できないであろうし、またそこで、これらの新しい条件の下で、同じ規模の文化的なバランスと優雅さ、人々の快適さと満足、または健全などこでも見られる多産性などを達成することもできないであろう。
より大きい物的装置を必要とするか、より大きい範囲の事業を認めるような産業技術が進歩するとともに、そのために必要な手段の所有者は、隣人的な監視が効果的な限度を越えて自分の事業を拡張できる立場に入りこむ。彼がこうした限度を越えて引き受けることは、アナーキーな支配下では、その限度内に住んでいる自分の隣人たちに関与しない。実際、外部のどんな事業でも、彼は自分の従事する取引が隣人たちを侵害しない限り、自分にとってよいと思われるように生きることが正しく善なることなのだから、「生き、かつ生かす」という規則の下では、近隣者の道徳的支持を得るだろう。そして必要に備えて、彼は、集団的連帯という常識的な魂が隣人たちを支える限り、かなりの程度に隣人集団の積極的な支持を得るだろう。他の社会、とりわけ遠く離れている社会を、また特に異質(疎遠)と感じられるような社会を犠牲にした利得は、内部で育まれた習慣の基準にてらせば不愉快なものではない。
同時に、財産を重んずる文化におけるあらゆる金銭上の利得がそうであるように、そのような利得は、利得を得る人の地位を引き上げる。そして、その構成員中の誰かに外部から移転するすべての利益は、集団的連帯という無批判的だが至る所に見られる感覚の判断によって、その社会にとっての利益であるかのように感じられる。
(1)この集団的連帯の感覚は、明晰な推論によって簡単に説明することのできないような人種心理学の特徴となっている。しかし、それは疑いなく人間性の不透明な遺伝的事実として受け入れられなければならないだろう。またこの性向を欠くか、それともそれを不十分にしかそなえていないどんな人種の型もこの特徴を持つような型との生物学的競争の中で確実に消えたに違いないのだから、選択的生存(適者生存)の論理によって十分容易に説明し得る。――人間生活が、少なくともここで問題となっている人種にかかわる人類の生活史の分節を通じて、集団によってのみ続けられてきた限りで――。この性向が効果的に実在し、無批判的に効率であることは、国際貿易の問題にかかわる近代諸国民の態度に見られる。そこでは、貿易は直接にかかわっている実業家たちの利得のために続けられている。またそこでは、当国の実業家たちのものとなるような利益から社会全体に利益が生じると考えることなどは精査に耐えないだろう。

そのような事業の得ることのできる好評と追加的な力は、一方では事業遂行の刺激としての、他方では実施を承認するものとしての役割を果たす。そして、あらゆる利用可能な手段を用いて競争的な利得を追求することが譲り渡すことのできない権利であり、また外部者を犠牲にした利益が自分の所属する社会への奉仕より優先されるべきであるということが、普通の習慣となるに至る。また先史時代についても歴史時代についても明晰な分析によっては説明できないが、古代と近代の用法によってよく認証されており、また遺伝的な短所または遺伝的な長所と評価されるような心理学的詭弁のある種の不明瞭なトリックによれば、集団的連帯の感覚は、達成感と一体化し、集団の構成員全体が高貴な身分にあるどの集団構成員の達成にも幸せを感じるというような効果をもたらす。この感情的詭弁はきわめて広く通用するので、社会は外部者を犠牲にした特定の構成員個人の地位上昇の成功を承認し、喜んでいるようという相貌を示すだけではない。社会はまたよく考えずに、自己を明らかに犠牲にして、また新規事業から利得――例えばローヤルティの徴取のような――を受けとらないことが確実なのに、そのような事業をすすめることになる。
つまり旧秩序の小規模な王国の市民は、王国の領土を拡大し、自分たちの君主の家産に第二の王国を追加しても、物質的な利益を得ないだけではなく、それどころか彼らの利益はおそらくそのような帰結を避けることにこそあった、とまったく確かに言うことができる。健全な論理によれば、市民は君主の野望をくじく方策をとるべきだった。ところが、実際には、彼らはそうした王朝権力を強める企てをおしすすめるためにかなりの努力をした。もちろん、それ以来ずっとそれこそが王朝の戦争史であり政治史であった。君主の要求と役得は小さな近隣諸王国という旧秩序の下ではきわめて少なく不規則だったように見える。しかし、王の領地が王を隣人的な感情による効果的な監視の限度を超えるような規模に拡大するやいなや、――すなわち、その領域が一つのこじんまりとした隣近所の程度を越えて拡大するやいなや――君主は、別の君主から奪い取りながらその隣接地の忠誠を利用することが出来たであろう。そして君主権は、次にやがて産業技術の状態によって付加される限界以外には、その持続的な拡大に対するどんな障害も見いださないことになっただろう。この限界は、主に自由にできる交通手段によって決定され、また副次的には君主が自分の領地を拡大し、より広くなった領地を統御する際に用いる部下と手段を調達するために依存する社会の生産効率によって決定された。習慣化は、君主の支持によって強化・認証されながら、忠誠という美徳を生み出した。そして、最後には――旧秩序の最後には――、 「生き、かつ生かす」という統治は、国王が自分にとって好ましいと考えるように生き、また普通人が自分のあがめる王が自分に授けるように生きるという規則に変容するに至った。この集団的連帯への傾向は、彼らの信任する代弁者の権力が強化されることを承認する傾向と一体化し、それは、旧秩序の下で隣人的な忍耐とならんで家の支柱をなしていた不従順と自発性とに代わって、自己利益の否認が新秩序の主要な美徳になるという結果をもたらした。
この時点の事業は二つの主要な線に従っていたように見える。両者は異なっているが、いずれも結局のところほぼ同じ結果をもたらしている。(a) 地方の国王たちは、自分たちの領地を拡張し、帝国のための闘争には不適当な類の王を廃し、その相続権を奪い、かくしてより大きい領域へと統合した社会に以前より専制的な支配をおしつけ始めた。(b)不安な若者や、君主権の圧力増加を耐え難く感じるより高齢の者たちは、冒険的に仲間を結成し、新しい土台への道を外部にきり開くか、混乱の中で衰退した。いまや「祖国」となっている土地を蹂躙し、服従させたあの略奪者の集団は、この階級の出自であるように見える。これらの群集、例えばヘルリ(Heruli)の群集のような群集の中に時折現れる群集は、王族の子によって導かれていたかもしれないが、それは通常の事例ではなかったようである。しかし、いずれにせよ、その結果は、準無政府主義的な自治という旧秩序がやがて無責任な権威と臣従とに席を譲ったという点では、まったく同じである。

2019年8月3日土曜日

企業者の失業に対する態度  経済学を科学する(1)

 企業者は労働者の「失業」(unemployment)、すなわち過小雇用についてどのような態度をとるか? あるいは、どのような状態が望ましいと考えているだろうか?

 このように問題を提起すれば、ほとんどの人は、「失業がないのが好ましい」に決まっているし、企業者も血の通った人間である以上、そう思っているはずと答えるのではないだろうか?

 たしかに企業者が血の通った人間だということは間違いなく、またそのような人間としては失業で人々が苦しむことを望んだりしないだろう、と考えられる。あるいは、もっと一般化して言えば、人々の労働条件がよくなることを望んでいるであろう、ブラック企業などもっての他だ、と考えるかもしれない。

 しかし、もしそうだとしたら、何故ブラック企業がはびこり、また失業はなくならないのであろうか?
 このように問うてくると、多くの人は、少し考えてから、ブラック企業が現れるのは、あるいは企業がブラック化するのは、企業が激しい競争に晒されているからだとか、失業は少なくとも個別の企業者の責任ではなく、彼らの思惑を離れた複雑怪奇な経済活動の結果だと答えるかもしれない。

 この回答には、経済科学が考慮するべき点が含まれているかもしれない。
 それは企業者はやはり単に善良な意思を持つ隣三軒両隣の普通の人ではなく、企業者としての立場(position)にあり、企業者として行動するべきことを(少なくとも一部の)利害関係者から期待されているということでああろう。すなわち、企業者、例えば雇われ社長としては、自分の任期中に会社の利潤をできるだけ増やし、株主に対する配当、経営者への報酬、内部留保を増やさなければならない、等々である。もし、これがかなわなければ、二年後三年度の株主総会で自分自身が解雇され、失業してしまうかもしれない。

 では、経済学はこれについてどのような回答を用意しているだろうか?
 ここでも、経済学者はいくつかの意見を異にするグループに分かれる。そして、このグループ分けは、本ブログでも繰り返して説明してきたものに他ならない。
 1 新古典派
    いわゆるニュー・ケインズ派、マネタリスト(通貨学者)を含む。
 2 ポスト・ケインズ派
    ケインズの流れを汲むグループとカレツキの系列では若干意見が相違する。
 3 マルクス派
    他ならぬ、マルクス自身の説明がある。
 4 制度派
     T・ヴェブレンは、これについて明確な説明を持っていた。

 ここにあげた4つの流れは、ここで提起されている問題について、さらにいくつかの小グループに分けられるかもしれないが、相互に共通する、あるいは類似する見解を持っているとも言いうる。
 きわめてルーズに言えば、1)新古典派が失業を自然現象として説明するか、その責任を労働者のせいにする傾きがきわめて強いのに対して、2)~4)は、むしろ本質的に企業のありかた、ということは資本主義のありかた(分かり易く言えば「欠陥」)に密接に関係しており、 例えばカレツキ、マルクス、 ヴェブレンのように、企業者の態度・行動に帰せられるという点で一致している。
 もしそれらの間に相違があるとしたら、それはその「欠陥」が資本主義の修正によって取り除くことが可能なのか否かという「ビジョン」の相違に由来すると言ってもよいように思われる。しかし、終局的な解決方法の如何を別とすれば、したがって100年、200年先といったようにそれほど遠い将来ことでなければ、むしろ共通性の方が強いとも言えるだろう。

 それを制度派のT・ヴェブレンの用語で表現すれば、「失業」は、「事情がゆるす限り、他の人々(つまり大抵は、多数の労働者)を犠牲とした多くの利得」(What the traffic bears) を目的とする資本主義体制に特有の現象にほかならない。「失業」、あるいは生産要素の過小雇用は、そのために費用(その中では人件費が最も重要)を引き下げるために行われる最も通常な、どこでも行われる方法である。もちろん、そのことは公然の秘密とされなければらず、またそれ以上に他の様々な宣伝・方策によって糊塗されている。


 さて、経済学はこの問題をどう説明しようとしているか、そしてどれが最も事実に近いのか、これが問題である。               (この項、続く)