2013年12月21日土曜日

新重商主義(利潤主導・輸出主導型成長)からの転換 今でしょう!

 アダム・スミスの『諸国民の富』(1776年)が重商主義を批判し、政府の「見える手」にかえて「見えざる手」(利己的な個々人の行動がしばしば(frequently)公共の利益を最もよく実現することがあるという思想)、つまり自由放任主義を持ち出したことはよく知られている事実です。
 ところで、その重商主義ですが、古典派以前にそれを支持した経済学者たちが、貿易収支の黒字をもたらすような政策を主張したことはよく知られている事実です。このことは、簡単に言えば、有効需要の原理から簡単に説明できます。
 アダム・スミスも認めていたように、特に経済発展の初期の段階では、国内市場の規模がきわめて限られています。また、これもアダム・スミスがよく認識していたように、「規模の経済」または「規模に関する収穫逓増」が現実の経済では成立しています。したがって外国市場に輸出を拡大する(より正確には完成品の輸入を極力抑えて、貿易収支の黒字幅を大きくする)ことが当該国にとっては有利になります。すなわち、輸出額が増えるほど、企業の利益は拡大し、それによって投資誘因だけでなく、投資のための資金の供給も拡大します。
 ただし、アダム・スミスの時代のイギリスともなれば、貿易収支の黒字は「政府の見える手」を借りなくても、実現できるようになっていました。だから、スミスは安心して重商主義政策を批判することができました。
 ケインズ『一般理論』の第24章は、こうした事実をふまえ、重商主義の学説史的意義を高く評価しました。すなわち、対外市場の拡大は、有効需要の1項目(XーM)の拡大であることを重商主義の経済学者たちはよく理解していたというわけです。
 ところが、D・リカードゥを始めとするスミス後の古典派の経済学者はその意義を理解することができなくなっていました。もちろんR・マルサスなど一部の経済学者が有効需要の特別の意味を理解していましたが、リカードゥがそれを理解することはついにありませんでした。対外関係については、自由放任主義がそれらの経済学の帰結であり、リカードゥの「比較生産費説」、ベンタムとジョン・バウリングの「功利主義」がその経済学的・社会学的根拠となって終わってしまいました。
 ところが、現実の世界では、19世紀末になると事情がふたたび変わってきます。「新重商主義」と特徴づけられる政策がイギリスやドイツで採用されるようになりました。それは長期にわたる国内需要の停滞(貯蓄性向と投資誘因との不均衡。貯蓄性向>投資誘因)の矛盾を外にそらそうとするものだったと考えられます。しかし、すべての国が貿易収支の黒字を実現することはできません。それは列強諸国間の外国市場獲得競争を激化し、結局、2度に渡る世界戦争の勃発を導いたのでした。

 時は移って第二次世界大戦後、人類はかつての歴史に学び、ブレトンウッズ体制(準固定相場ドル本位制)のもとでほぼ貿易収支の均衡を達成しつつ、完全雇用を実現するのに必要な生産量を保証するような有効需要を生み出すことに成功しました。これが(完全に実現されたわけではないとしても)「フォーディズム」として知られているものです。

 貿易収支均衡XーM=0、国内需要(有効需要C+I)の拡大→生産拡大→完全雇用

 しかし、この体制も長くは維持されませんでした。
 1970年代初頭の成長率の低下、変動相場制(変動相場ドル本位制)への移行とともに、貿易収支の不均衡が常態化し、赤字国(米国)と黒字国(日本、ドイツ、中国、ロシア、産油国など)への分化が生じて来たからです。

 しかも、ドイツや日本は、1990年代以降も、貿易収支の大幅黒字国なのに、そして(完全雇用水準を維持するのに必要な)国内需要の大幅な不足状態に置かれているのに、「単位労働費用」をさらに引き下げることに躍起になってきました。それが勤労所得をいっそう抑制し、消費支出を抑えることによって、(企業家の期待利潤率・限界利潤率を引下げることによって)企業の投資誘因を削ぐにもかかわらずです。しかも、そのように努力すればするほど、貿易収支の黒字は増加し、名目為替相場はいっそうマルク高・円高の方向にすすみました。(ただし、直近の2年に限って言えば、日本の貿易収支は赤字に陥っています。しかし、それでも米国に対しては日本の貿易収支は黒字です。)
 
 こうしてドイツや日本は、かつてケインズが危惧した状態(新重商主義の症候群)に陥っています。金融緩和政策がぎりぎりのところまで行われて来たにもかかわらず、さらに「異次元の金融緩和」が語られ、円安、つまり輸出拡大による有効需要の拡大策が計られているのです。
 本当のところは、オバマが2008年に述べたように、「変化」(change)が必要です。それは、従来のように国内需要を抑制をもたらす賃金抑制をすすめることによって対外輸出を増やし、それによって対外紛争を招くような政策から転換し、むしろ国内で問題を解決する方策への大転換です。
 私はTPPにまったく反対ですが、民主党のオバマ大統領が何故TPPを撤回せずに、「輸出倍増計画」の一環として推進してきたのか、その理由はしっかり理解する必要があるでしょう。

2013年12月20日金曜日

経済における「期待」 雇用を拡大させるのはどのような期待か?

 「期待」(expectation)が経済事象では大きな役割を演じています。
 しかし、意外にそのことが知られていません。

 「期待」とは、将来、あることが起こるだろうと想像、推測することです。そこには必ずしも希望、つまりこうなって欲しいという心理的状態は含まれていません。数学の確率論で「期待値」という言葉がありますが、それに近い用語法といってよいでしょう。

 期待が大きな役割を演じていることを実例で示します。
 例えば企業家があらたに労働者を雇用するときのことを例に取ります。
 どのような時に、労働者がより多数雇われるのかについては、本ブログでも何度か書いてきました。その要点は、雇用は生産量が拡大されるときに増加し、逆に労働生産性はそれ自体としては雇用を減らす要因だということです。(ここで「自体」というのは、例えば労働生産性が上昇し、その結果、生産量がそれ以上の割合で増加するというようなことを考えないためです。)
 一定期間が経過したあと事後的に検証すると、このことは事実をよく説明しることがわかります。
 
 しかし、よく考えてみましょう。企業家は、生産を増やしたあとで、労働者をより多く雇用するわけではありません。逆です。生産を増やそうと決断したあとで、追加的な労働者を雇用し、生産能力を拡充し、その後で生産を増加させるのです。

 それでは企業家に生産を拡大させようと決断させるものとは何でしょうか?
 それが「期待」です。
 企業家は、将来(通常は、1年以上、少なくとも何年かにわたって)自社製品の販売量が増えると予想して、もしその販売量に比べて生産能力が少なければ、生産量を増やすことになります。

 まとめると、次のようになるでしょう。
 1 企業家は、将来の販売量(それにもちろん利潤)が増えると期待し、自社の生産能力を高めようとする。
 2 そのために外部からの労働力の追加が必要であれば、雇用を増やそうとする。
 3 その際、増加する労働力に比して資本装備が不足していると判断すれば設備投資を決断するであろう。新旧資本装備の入れ換えを検討するかもしれない。
 4 その他、生産増加前に必要な事柄についても配慮する。

 ところで、現実の経済事象をさらに深く理解するためには次の課題に答えることが必要になります。
 1 企業家の期待に影響を与えるのは、どのような事象か?
 2 <期待→雇用・投資の決定→資本財の注文・設計・雇用の拡大と訓練→生産拡大>という一連の企業家行動によって経済全体にどのような変化がもたらされるか?

 このうち1については、これまでも説明したので、簡単に済ませます。それは終局的には、人々が安心して消費支出をしよう(消費性向を高めよう)と考えるときです。もちろん、企業が従業員に対して自由に首切りできるような社会では、また非正規の低賃金労働が拡大しているような社会では、そのようなことは望むべくもありません。
 詳しくは「マルクス問題」・「ケインズ問題」・「ポランニー問題」の説明を参照してください。

 2については、それがマネーサプライに与える影響に触れておくだけにします。明らかなように、当該企業が実際に生産を拡大するまえに、企業は一連の支出を余儀なくされます。そのような支出とは、資本財の注文・設計にともなう支出(前払い金)や、雇用の拡大や新しく採用した労働者の訓練にともなう費用の支払に当てられる部分です。資本財の注文を受けた企業がその生産を開始する前に、そのような支出は必要になります。
 したがって生産を拡大しようという決定が、次に実際の生産拡大が生じるまえに貨幣需要を、したがってマネーサプライを拡大することになるわけです。
 しかし、マネーサプライが増加したあと、生産が拡大したからといって、マネーサプライの増加が原因で、生産の拡大が結果であるという結論を導くのは、明確な誤りです。

 世にマネーサプライを増やせば景気がよくなるという経済学者は多いのですが、現実はまったく異なります。
 上の書いたことは、ケインズの『一般理論』第18章「雇用の一般理論 再論』でも説明されていることですので、少なくとも経済専門家は読んでおくべきでしょう。

2013年12月18日水曜日

負担は公的負担だけではない

 しばしばマスコミ人は、公的負担(租税負担、社会保障費負担、政府の負債など)を論じるとき、それが負担のすべてであるかのように論じる傾向があるように感じるのは、私だけでしょうか。また現役世代の負担を論じるとき、公的負担が軽いほど現役世代の負担が軽くなると、短絡的に考えている節があるようにも感じます。

 まず前者から見ておきましょう。
 私たちは公的負担(租税や社会保障費負担)を担っていますが、それが負担のすべてではありません。私的負担も負担の大きな項目です。
   負担=公的負担+私的負担
 この簡単な式から分かるように、公的負担が少ないほど負担が少なくなるとは限りません。というのは、むしろ私的負担が増えることが予想されるからです。
 例えばヨーロッパ諸国では、大学までの学費が無償化されている国がたくさんありますが、それが無償化されていない日本や英国、米国では、良心が子供の教育費をその分だけ余計に支出(私的負担)しなければなりません。このことは、医療費や年金、失業給付金、その他の様々なことに当てはまるのですが、くどくどとは説明しません。(個人的に経験したことですが)例えば基礎年金しか出ていない両親の扶養義務を負う子供たちは結局私的負担を増やさなければなりません。あるいは、<現在の高齢者の中には、自分が公的負担をしなかったのに年金を受け取っている人がいる>といって批判している人もいるようですが、多くの人々の中には現役時代に両親を自分の財布や介護等で扶養していた人たちもいるはずです。

 このように言うと、<私的負担であろうと公的負担であろうと、結局、国民が支出した額を国民が受け取っているので同じだ>という人もいます。たしかにマクロ的にはその通りです。しかし、公的負担には、累進課税制度などを通じた所得再分配の機能があります。また人々は将来のリスクに対して個人個人では備えないという性向があるので、政府が制度を構築してそれに備えるという意味もあります。したがって、ミクロ的には公的負担には大きな意味があります。
 要するに、この問題を考えるとき<私的負担>と<公的負担>の関係をどのように考えるのかという視点がきわめて重要となるはずですが、まるで公的負担が少なければ、負担全体が少なくなるといわんばかりの主張が行われています。しかし、そのような見解が問題だということは言うまでもありません。それともマスコミで働いている人々の多くは高給を食んでいるので、高い公的負担が自分たちにとって不利だからそれに反対したいのでしょうか? 決してそうではないことを望みます。

 さて、もう一つの点ですが、少ない公的負担が若者の雇用を破壊しているという側面もあります。現在、問題となっているのは、例えば介護保健事業所における介護士さんたちの厳しい労働条件です。きつい労働内容、それに決して満足とは言えない給与所得という現実は、少ない公的負担が若者に決してやさしくはないということの実例です。多くの人々が資格を有しながらも2つの理由のために離職しているという現実があります。

 ジョン・K・ガルブレイスは、「労働」をめぐる「欺瞞」について、「仕事を最も楽しんでいる連中こそがほとんど例外なしに最高の報酬を得ているのである。・・・他方、反復的で、退屈で、骨の折れる仕事に就いている人の賃金はいたって安いのが当たり前とされている」と述べましたが、これが営利企業が支配する現代の企業家経済の特徴といってよいでしょう。
 民主的に組織された政府の介入なしに、こうした現実を変えることはできません。

高齢者を余計ものにするマスコミの問題報道

 マスコミでは、しばしば次のような半ば「常識」(「社会的信条」というべきか)となった言説が流されます。

 ・「少子高齢化社会で、少数の若者が高齢者を支えなければならなくなっている。」
 ・「65歳までの雇用義務化。若者を中心に雇用を圧迫か?」

 ただし、この2つの言説が同じ番組や紙面で同時に報じられることはありません。明らかに矛盾しているからです。しかし、人はそれに別の番組、別の時間に接すると、それぞれについて「なるほど」と受け入れてしまいます。(このような矛盾した報道は、他にもあるのですが、ここでは上の例にとどめておきます。)

 この2つの言説が組合わさるとあやしい主張となることを示しましょう。
 まずは上の2つの言説が矛盾していることを示します。
 たとえば100人の村(または町)があり、そのうち、60歳以上の人(高齢者)が20人、労働年齢人口(15歳〜60歳)が60人、若年者(15歳未満)が20人だとしましょう。現役世代60人が20人+20人=40人を支える必要があります。一人あたり2/3人になります。
 少子高齢化がすすんで、100人の村の構成が次のようになったとしましょう。例えば高齢者が35人、若年者が15人、現役世代が50人です。現役世代50人が50人を支えることになります。一人あたり1人になります。
 このとき60歳〜65歳の人(例えば5人)が現役世代にとどまれば、55人が45人を支える勘定になります。一人あたり9/11人となり、一人あたりの負担は軽減されます。それで問題があるのでしょうか? (ただし、ここでは、60歳〜65歳の人が働きつづけたいかどうかは、問わないことにします。)

 ところが、今度はそれが若者の雇用を圧迫するという言説が出てきます。
 こんな馬鹿な論理があるでしょうか? 
 よく考えてみましょう。例えば戦後から1980年代まで、日本の労働力人口はずっと増加してきました。が、だからといって、その時に雇用が圧迫されて、失業者が街にあふれるというような状態になったでしょうか?
 もちろん、そんなことはありません。当時、日本は世界でもまれなほど低い失業率を誇っていました。
 どうしてでしょうか?
 理由は簡単です。雇用は、所得をもたらします。そして所得は支出され、消費財に対する有効需要を構成します。有効需要があれば、企業がそれに応じた生産を行い、それに応じて人々を雇用します。
 
 もう少し詳しく企業がどのように雇用を決定するのを見ておきましょう。
 ケインズ『一般理論』の第18章は、それをきわめて現実の経済に即してリアルに説明しているので、それにもとづいて説明します。
 簡単に言えば、ここでの要点は、雇用は企業家のいだく「期待」に依存しているということにあります。
 「期待」という理由は、企業は特定量の生産を開始する前に資本装備や労働力を準備しなければならないからです。企業がこれから始まる期間(月、四半期、年など)に自分の会社の生産する商品に対して有効需要が十分あると判断すれば、それに応じて労働者を雇います。そして期待が高ければ、雇用量も増加します。戦後、1980年代まで労働力人口が増えても失業率が高くならなかったのは、このような期待があったからであり、そのような「期待」が今度は経済成長と雇用の拡大を実現したからです。

 けっして60歳〜65歳の人々が労働市場に残っても、それがただちに若者の雇用を圧迫するわけではありません。
 65歳定年延長が若者の雇用を圧迫すると心配するマスコミ人はおそらく、何となく雇用量が一定だと考えて、単純な引き算を行ったのでしょう。もしあらかじめ雇用量が一定だと仮定すれば、その仮定が成立する限り、定年延長は若者の雇用を間違いなく圧迫するでしょう。しかし、そのような仮定が間違っていることは言うまでもありません。
 もちろん、65歳に定年延長をするときに、その給与水準や労働内容については、それ相応の配慮が必要になることは言うまでもありません。

 私の言うことが正しいことは、現実の統計からも言えます。
 「就業構造基本調査」などが示しているように、そもそも若者の雇用が1990年代から現在にかけて劣化してきました。つまり、20代、30代の男女を通じて非正規の低賃金労働が拡大してきたのです。実は、そのこと自体、そしてそのような状態をもたらした日本企業の「雇用戦略の転換」(非正規・低賃金労働の拡大による人件費の圧迫)が大きな問題です。それは、日本全体の勤労所得を圧縮し、消費支出を縮小し、それによって企業自らの「期待」を大きく縮小させてきたからです。

 最初に掲げた言説は、とにかく「高齢者の存在が問題だ」と主張し、問題の本質をそらしたり、政府に失業や低賃金労働拡大の言い訳を許す言説以外の何物でもありません。




森・小泉構造改革 日本で高失業率が容認・促進された決定的な瞬間

 その決定的瞬間は、2001年1月の中央省庁再編のときでした。
 このとき経済企画庁が消滅し、内閣府に事務が引き継がれました。
 
 2003年2月の衆議院予算委員会の審議(小泉構造改革の最中です)
 竹中平蔵(経済財政政策担当大臣)の発現
 「いまの労働市場は、構造的に大変厳しい需要と供給のミスマッチを抱えている。それをとにかく放置しておいては大変失業率が上がる。それを何とか食いとめるために様々な措置を講じたい。その中の重要なものを予算の措置でお願いしているわけですが、この構造的な部分というのはかなり根強いものがありまして、結果的に失業率は若干高まるということを甘受せざるを得ない。・・・」

 ここには、大変問題となることが述べられています。
 1 失業は構造的なものであり、需要と供給のミスマッチによる。
 2 そのための政策措置(だけ)を講じる。

 一体「構造的」とは何のことでしょうか? 「ミスマッチ」ということでしょうか? つまりいわゆる「摩擦的失業」と考えられて来たものでしょうか? 
 もしそうだとしたら、竹中氏はそのことをどのようにして解明したのでしょうか? かれは唯そう断定しているだけであり、何も証明はしていません。
 私のブログでも縷々説明してきたように、失業をそのような「ミスマッチ」、「摩擦」、「構造」によって説明することにはほとんど根拠がありません。どのようなミスマッチがあったというのでしょうか? もしそうならば、特定の産業や地域に失業があり、他の産業・地域では労働力不足があったはずですが、それはどの地域・産業にどの程度あったのでしょうか?
 本当は、ケインズの理論が明らかにしたように、失業率の上昇は、1992年以降の金融危機に端を発する長期不況・停滞の中で、人々の消費支出が停滞し、企業の長期期待(投資誘因)が低下していたからに他なりません。1997年以降の金融危機の再燃、不況、さらに2000以降の金融危機の再燃、不況がこれに加わりました。
 ところが、そうした本質的な要因を一切無視して、ミスマッチによって説明するということは、別の地域・産業・職に移動すれば、失業が解消するのに、解消しない人々(特に若者)の責任だと、責任を転嫁するものです。
 私の出席した審議会等(何とは言いませんが)でも、さかんに「ミスマッチ解消」のための措置が盛んに喧伝されるようになり、私は嫌気がさしてきた覚えがあります。2001年〜2003年といえば、1990年代末以降の企業の「雇用戦略の転換」に応じて非正規低賃金労働の拡大によって日本全体の賃金所得(勤労所得)が大幅に低下しはじめた時期です。むしろ、それによって勤労者の消費支出が減少し、日本経済の健全性が損なわれ始めていた時期です。

 とにかく、この時期は、日本政府が公式に完全雇用政策を積極的に放棄したという意味で記憶に残る年月です。私たちはそのことを知り、決して忘れてはなりません。



2013年12月17日火曜日

人はなぜ御用学者になるのか

 人は何故御用学者になるのか? 島村英紀氏の同じタイトルの著書(「地震と原発」というサブタイトルが付されていますが)があり、読みました。
 御用学者が生まれる理由は、ある意味では簡単であり、「アメ(権益)とムチ(不利益)」の網の目がはりめぐされていることにあることはいうまでもありません。しかし、それを抽象的にではなく、具体的に知ることが重要でしょう。島村氏の著書は、「理系」(工学や理学)の状況について紹介しており、きわめて興味深く読める本です。
 ただし、理系でも、御用学者が生まれるのは、特に「複雑な現象」を研究する領域におおく、物理学や数学などの比較的単純な領域(簡単な領域とはいいません)では比較的すくないのかもしれません。
 私は環境問題を軽視しているわけではなく、むしろきわめて重要視しています。資源も浪費するのでなく、大切にしなければならないと考えていますが、この複雑科学の環境問題においても「権益」がはびこっていることは、本書を読めばよく理解できます。例えばIPCC(気候変動に関する政府間パネル)はこれまで4つの報告書を出していますが、第一回目の報告書から第3回目の報告書にかけて如何に「地球気候の科学」から「政治に奉仕する下僕」に成り下がったか、がわかります。(詳しくは読んでみてください。)
 島村英紀氏の著書は、「地震と原発」を対象としたものであり、さもありなんという話が沢山紹介されています。IPCCが生まれのも、「二酸化炭素を大気汚染・地球温暖化の悪者」に仕上げ、「クリーンなエネルギー源として原子力発電」を売り込むための方策だったという推理はあながち作り話(嘘)ではないでしょう。

 理系と同様に、複雑科学の社会科学(経済学など)でも同じ事情は存在します。そして、ケインズやジョン・K・ガルブレイスがそのことを指摘してきたことも紹介しました。
 石水喜夫氏の『日本型雇用の真実』(ちくま新書、2013年)も、御用学者論を展開するために書かれたものでは決してありませんが、経済学が「科学」から「政治の下僕」に成り下がった事情に関する書き物として有用な著書です。新古典派の「労働市場論」という現実離れした「理論」が如何にして御用学者によって展開されてきたのか、それを私もいつかは書こうと考えています。そうしないと、大学の経済学部に入学した純真な経済学徒が騙されて「科学」だと信仰しはじめないとも限りません。
 
 しかし、この点で、私は「よいニュース」をお話しできるように思います。
 以前、まだ小泉純一郎氏が「構造改革」「郵政民営化」などのキャッチコピーを展開していたとき、それに疑いを差し挟む学生はほとんどいませんでした。社会全体が聞く耳を持たないような状況にあったとき、学生も無条件で構造改革が正しいと信じているので、最初に導入部で学生にどのように説明したら、信頼してもらえるか苦労しました。

 しかしながら、現在ではかなり雰囲気が違います。新自由主義、雇用柔軟化、構造改革がどんな結果をもたらすかを実際に知りはじめているからです。
  ・依然として「アベノミクス」に興味を持つ学生はいますが、それを懐疑する気持ちもあり、きちんとそれがどのようなものかを明らかにしたいと考えています。決して、それを疑いなきキャッチコピーとして考えているわけでもないようです。
  ・また依然として株価が上がると、景気がよくなるというマスコミの発信をそのまま受け入れている学生は多くいますが、株主価値論を前提としていること(アメリカ等では、株主への配当を拡大しようする経営衛が賃金を抑制しようとする傾向があり、多くの人の所得の増加と対立関係にあること)を理解してきています。
  ・リーマンショック後に、金融危機が何故生じたのかに興味を持ち、また失業率が上昇したのは金融危機に理由があったことを考えるようになってきています。
  ・特に1997年以降、賃金の低下など労働条件の悪化、失業率の上昇、ブラック企業の増加、非正規・低賃金労働の拡大などなどを肌身をもって知っているため、不安を感じ、それとともに疑問を感じ始めています。
  ・物価の上昇が景気の回復に導かれるという主張にはもっと懐疑的になっています。給料が上がらないのに、円安で輸入物価があがったらどうなるかも理解しています。
  ・残業代ゼロ、首切り特区についても同様。
  ・ブラック企業については、具体的に企業名をかなり知っています。
  
 まだ政治に気兼ねなく、はっきりと自分の意見を表明できる学生は少ないと感じますが、疑問を感じ、自分で考えようとする態度をもつ学生が増えれば、御用学者を避け、「科学」を求める学生も増えるでしょう。ゆとり教育世代もなかなかかも知れません。

県民経済計算 地域差はどれほどあるのか?

 よくGDP統計(国民経済計算統計)がニュースになることがあります。成長率が年何%かとか、年率換算で何%とかと報じられるニュースの基礎となっている数値です。
 もちろんGDPは国全体の統計であり、いわば各都道府県の合計または平均値です。
 では、各都道府県の数値はどうなっているのでしょうか?
 これは県民経済計算統計から知ることができます。北は北海道から南は沖縄までの数値が存在しますが、ここでは一人あたりのGDPではなく、一人あたりの雇用者報酬額(年)がどのように変化してきたかを見ることにしましょう。
 一人あたり雇用者報酬が全国では、1997年頃までは増加してきたのに、1997年を界に低下してきたことはすでに紹介したことがありますので、ここでは東京の数値を基準(東京=100)としたとき、全国平均や各地域の数値がどのように変化してきたかを見ることとします。
 まず全国平均です。

 政府の統計では、1975〜1999年の統計系列と1996〜2009年の統計系列とがあり、かなりのズレがあります。(1996〜1999年の4年間については、2系列の数値がありますが、ピタッと一致していません。(何故このような乖離が生まれたのかは不明です。)
 しかし、それはともかくとして、1975年から1992年頃までは、東京とその他の地域との間の格差が次第に拡大していたことがわかります。そして1992〜1997年の数年間に(つまり日本が平成不況に見回れていた時期に)格差の縮小傾向が生じていたこともわかります。しかし、1997〜2001年頃を画期としてふたたび格差は拡大してきています。

 もう少し詳しく地域別に見るとどうでしょうか?
 

 この図に示されているように、九州、四国、北海道・東北の一人あたり雇用者報酬が最も低くなっており、中国、中部がそれよりは高い水準に位置していますが、いずれも東京を基準(東京=100)として70以下の水準に位置しています。

 これらの統計は、東京を中心とする関東圏、または大阪を中心とする関西圏や愛知県などが比較的恵まれた経済状態にあるのに対して、それ以外のいわゆる地方経済がかなり苦しい状態にあることを端的に示しています。
 
 東京や大阪の平均報酬が高い理由は明白です。そこにはグローバル化した多国籍企業の本社が存在し、そこに日本だけでなく世界から「富」が集まるからです。これに対していわゆる地方はそうではありません。
 東京の状態から日本経済を見るのではなく、地方の視点から日本経済を見ることが必要な所以です。

2013年12月16日月曜日

マルクス問題、ケインズ問題、ポランニー問題

 前に、市場を廃止することが難しいことを述べましたが、今度は市場が完璧な制度ではなく、欠陥・問題を持つことを指摘しなければなりません。

 それは「マルクス問題」、「ケインズ問題」、「ポランニー問題」の3つの形に整理することができるでしょう。(ロバート・ポーリン『失墜するアメリカ経済』参照。)
 最初にそれぞれについて定義的に言及しておきます。

1 マルクス問題
 現代の資本主義経済(企業家経済)では、資本機能を担う人々(経営者、株主=所有者)と労働者(従業員)との間には大きな力の差があり、労働者は圧倒的に弱い立場にある。その結果、利潤(R)が増加し、賃金(W)は利潤に比べて圧縮される傾向を持つ。
  Y=W+R    所得分配
 とりわけ失業率が高いとき、労働者の交渉力は著しく低下し、賃金シェアーの圧縮傾向や労働条件の悪化が生み出される。また所得格差も広がる。
 労働者の交渉力を強め、社会を安定化させるためには、労働保護立法が必要となる。

2 ケインズ問題
   Y=C+I       総需要(有効需要)
   S=I                     貯蓄と投資の事後的な恒等式
 現代の経済では、雇用量は生産規模に依存し、生産規模は有効需要によって決定される。ところが、人々の貯蓄性向(流動性選好、貨幣愛)が投資誘因よりも強いため、総需要が抑制される傾向がある。また人々は社会不安を感じたとき、貯蓄性向を一層強め、消費支出を削減するが、それは企業家の期待利潤率を低め、投資誘因をいっそう弱くする。
 また金融自由化は資産バブルを生み、その後に金融危機をもたらす。その結果は、社会不安の増幅、不況、失業の拡大である。
 一言でいえば、総需要の縮小が不況・景気後退をもたらす。
 総需要を縮小させないためには、消費性向を高め、消費支出を減らさないことが必要であり、社会を安定化させる制度が求められる。

3 ポランニー問題
 伝統的な社会では、市場は存在していたが、それは「社会構造」の中に埋め込まれていた。どんな社会でも、安定化のためには、そのような市場の社会構造の中への埋め込み(コモンズ、公共財)が必要である。しかし、19世紀の産業革命以降、人類は「市場」を社会構造から解放し、自由市場(自由放任主義)を生み出した。そして、それが社会の不安定化をもたらした。→「マルクス問題」と「ケインズ問題」の発現
 1929年以降の金融恐慌、大不況、失業の発生はそのためである。そして、それはナチズムをもたらした。また戦後の社会民主主義体制=福祉国家、混合経済をもたらした。
 しかし、人類は、その教訓を忘れ、近年ふたたび(新)自由主義に走っている。そして、ふたたび金融危機、不況、失業に悩まされ、政治的な混乱がもたらされている。

 *マルクス、ケインズ、ポランニーという偉大な経済学者が明らかにした問題という意味であり、決してこれらの経済学者が問題児だったというわけではない。念のため。



市場は何故必要か? マーシャリアンクロスは成立するか?

 これまで主に「市場」の欠陥といえる事柄について述べてきました。
 ただし、「市場」は欠陥だらけだから、廃止しようといって簡単に廃止することはできません。今日は、まず「市場」が何故必要なのか、何故廃止できないのかを考えてみましょう。考えるヒントはこれまでの優れた経済学者の書いたもののなかに転がっています。
そのあと、マーシャリアンクロス(財市場)について一言。

市場は何故必要か?
1 経済学者だけでなく、多くの哲学者や社会科学者は、人間が利己的な生物であると考えてきました。「利己心」だけだと主張するわけではありませんが、「利己心」を持たない人はいないでしょう。アダム・スミスなどは、人が利己心を持つからこそ、他人もそうであろうと考え、共感(同情)することができると主張しています。とりあえず、このことを前提として立論をすすめます。

2 次に人が家族や世帯などの小さな共同体の中で暮らしており、あまり他の社会と接触しないような状態ではなく、広範な人々と財やサービスを交換する社会を考えます。このような社会は「市場」なしでも存在しうるでしょうか? 出来るかも知れませんが、その場合、様々な難しい条件をクリヤーすることが必要になるように思われます。例えば異なった財と財との交換比率をどのように決めたらよいでしょうか? また誰が決めるのでしょうか? 民主的にでしょうか? それとも王様や皇帝のような政治的首長でしょうか?

3 市場における交換の場合には、それは比較的簡単に行くでしょう。
 いまある人(A)が自分の持っている(生産した)財(X)を売りに出すとします。彼/彼女は、それを出来るだけ高く売ることを欲するでしょう。そして、それを売った代金で今度は別の財(Y)を購入することになりますが、今度はそれを出来るだけ安価に買うことを欲するでしょう。出来るだけ高く買い、安く売る。これは「利己心」の発現によるものです。しかし、他のすべての人(B、C、D、・・・)も同じように行動します。
 そこで、いまAとBが同じ市場で、同じ財Xを売りに出すとき、AがBより高い価格を設定すれば、他の人々はBから財Xを購入するでしょう。
 このことは、市場は利己心の発現の場であると同時に、利己心が競争によって抑制される場でもあることを意味しています。

4 要するに、人はより安価に買い、より高く売ることを欲するのが、市場という機構=メカニズムです。その結果、財X、Y、Z、・・・の価格は適当な水準に設定されることになり、また交換比率も市場における売買の中で自動的に(つまり特定の誰かが設定するのではなく)決定されることになります。


マーシャリアンクロスは成立するか?
5 このように書くと、だから財市場ではマーシャリアンクロスが成立するんだね、という人が出てくるかもしれません。マーシャリアンクロスというのは、右上がりの供給曲線SSと右下がりの需要曲線DDのことを意味し、その交点(均衡点)が価格と量とがちょうど釣り合う点となる考え方のもととなる「×」のような図のことです。
 しかし、待ってください。人がより安価に買いたいと思い、より高く売りたいと思うという性向を持っていたことを認めるとしても、そこからマーシャリアンクロスが導かれるでしょうか? 理論的には決して導かれません。
 3と4に戻って考えてみましょう。そこでの人々の行動は、結局、次のようになります。いま財Xを売りたい人が複数いて、それぞれが異なる値段を設定しているとします。この場合、購入者はより安価な販売者から購入するでしょう。より高価な販売者は、売れ行きが悪ければ、価格を引下げなければなりません。
 一方、財Xを購入したい人が複数いるとします。そのうち一人は他の人より高い買値を提案するとします。この場合、高い買値をつけた人に財Xが販売されることになり、より低い買値をつけた人は財Xを購入できないかもしれません。その場合、買値を引き上げなければならなくなります。
 さて、これらの例では、価格の相違がどのような販売者と購買者の価格設定行動をもたらすかを示しただけであり、需要量と供給量を考えませんでした。SSとDDを描くためには、それらの量を考えなければなりません。

6 しかし、ここで私たちはきわめて当惑的な事態に遭遇します。
 いま需要量と供給量と言いましたが、そもそもどこにおける、どの時点の需要と供給なのでしょうか?
 例えば1700年12月××日における××国××市における「定期市」のように特定の場所と時間における「市場」(閉鎖的空間)における需要と供給でしょうか? 確かにそこには一定量の商品と交換用の貨幣が準備されていると考えてよいでしょう。そのような場における交換の様子を思考実験して見ることもできます。
 しかし、実は、そのような市場は単独では成立しません。そもそも市場に持ち込まれた商品は、すでに成立している価格相場を前提にして、工場で特定量だけ生産されたものでしょう。また買い手も一定の価格水準が存在することを前提にして、購入量を予定し、持ち込む貨幣量を決めていることでしょう。決してその場で価格をはじめて知り、購買量や供給量を決めるのではありません。一つの市場の外部には、他の多数の市場と生産の世界が広がっています。
 ところが、マーシャリアンクロスの形状を説明する人々は、判で押したように、外部世界と何の関係もない空想的で閉鎖的な「市場」(いちば)にわれわれを連れ込み、むりやり右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線を想像させます。たしかに、そのような仮想空間では、そのように想像するしかないかもしれません。

7 アダム・スミスは、われわれを決してそのような空想的・閉鎖的な「市場」に連れてゆこうとはしませんでした。確かに彼は、われわれを、主人(経営者)も職人(労働者)もおらず、資本装備を持つ工場もなく、交換のための貨幣さえ存在しないような未開の時代にわれわれを連れてゆきます。そして、10時間の労働の成果(X財)と別の10時間の労働の成果(Y財)を交換するのが人間の本性にかなっていると主張します。しかし、まだこの説明の方が市場とそれを取り巻く生産の世界を視野に入れているだけ、現実主義的ではないでしょうか。少なくとも生産や他の市場から切り離された空想的・閉鎖的市場空間に閉じ込めるよりは、です。

8 結論しましょう。
 市場は「欠陥」を持つとはいえ、人々の利害を調整する場であるため、廃止するのは難しい。
 われわれのミクロの行動は、集計されて社会全体の帰結をもたらします。しかし、社会全体の状態がわれわれのミクロの行動を規定をしているという連関があります。この双方向の影響を研究するのが科学的態度というものです。しかも、その際、生産、分配、消費の相互関係を視野に入れなければなりません。

2013年12月15日日曜日

1月のTPP閣僚会議をスイスのダボスで開催?

 1月22日〜25日から開かれるTPPの閣僚会議がスイス東部の豪華な山中の観光地ダボス村で開催されるという噂があります。もっとも今からでは無理なので、ロンドンやジュネーブで開催という説もあるようですが、どちらにしても、環太平洋諸国からははるかに離れた場所です。
 もしダボスで開催される場合、これまではTPPに関する秘密情報を交渉担当者などから得ようとして閣僚会議の開かれる場所に行っていた人も、高い費用や小さな収容能力のため行くことがでなくなることは間違いないでしょう。
 今回のTPP交渉はまったくの秘密裡に行われており、政治家なども米国の上院下院の議員でさえ内容を知ることができないほどです。ダボスで会議を開くのは、交渉が進展するにつれて秘密の扉をいっそう堅く閉ざそうとする動きに他ならないとみる見方もあります。最終的にダボスに決定されるかどうかは不明ですが、ダボスの名前が出て来たという背景には秘密主義を徹底したいという姿勢があることは間違いないでしょう。

 もちろん人が秘密にしたいのは、公開するとまずいからです。TPPの場合、巨大多国籍企業の代表者は参加を許されて要望を表明していますが(リーク情報)、参加国の国民やもちろんのこと議会のメンバー(議員)も情報から遮断されています。ここから判断すると、巨大企業にとってはおいしいけれど、国民にとってとんでもないことが話し合われていることは間違いありません。実際、リーク情報からは、恐ろしくなるような様々なことが明らかにされています。


「ダボス」のニュースソースは、次の通り。 
http://www.itsourfuture.org.nz/tppa-ministerial-slated-for-davos-switzerland-in-january/

ケインズ『一般理論』第24章の4 戦争の要因について

 ケインズの『一般理論』は、閉鎖経済(つまり対外経済関係を捨象した国民経済)を前提として経済社会のあり様を論じており、国際体制についてはほとんど議論を展開していません。しかし、23章と次の24章(最後の2章)では、それまでの議論を踏まえて戦争と国際体制、国際貿易について論じています。
 それは決して長い文章とは言えませんが、きわめて示唆的な部分です。そこで、その内容を紹介し、ごく簡潔に解説を付しておくこととします。

 24章の4で、ケインズは「旧体制に比べれば新体制は平和にとってはるかに好ましい体制だということ」を指摘し、その後で、戦争の理由について述べています。ここで旧体制というのは、第一次世界大戦以前の体制のことであり、新体制とは第一次世界大戦後、つまり1919年のヴェルサイユ講話条約以後のことです。
 ケインズが戦争の理由としてあげるのは、次の2つです。
 1)その一つの理由は、国民を戦争に導きたがる好戦的な独裁者やそれに類した人間の存在にあると考えて、ケインズは次のように書きます。
 「少なくとも戦争を頭に思い浮かべることが、スリル満点の楽しみとなっている独裁者やそれに類した人間にとって、国民の中に眠る、好戦的気質を目覚めさせることなど、なんの造作もないことである。」

 2)しかし、それよりもいっそう重要な要因があり、しかもそれが第一の要因をたやすくする、とケインズは考えます。
 「それよりもはるかに重要なのが(戦争の)経済的原因、すなわち市場獲得競争であって、これは人々の炎を煽るという彼らの仕事をたやすくする」。
 さらにケインズは、これらの要因が現実の歴史において果たした役割に触れ、「第二の要因は19世紀に主導的な役割を演じた」ことを指摘したのち、「現在(1930年代)にもふたたび主導的な役割を演じようとしている」、と述べます。
 簡潔な叙述ながら、現代世界経済史の研究成果(イギリス帝国主義研究、ハンス・U・ヴェーラーのドイツ帝国研究など)ときっちりと整合します。が、徐々に説明しましょう。

 では、市場獲得競争を戦争に駆り立てる動機は、何故、生まれるというのでしょか? 実は、これこそが最も重要な点であり、ケインズの経済学研究の核心部分と関係しています。また、それは単に過去の出来事(2度の世界戦争)を説明するだけでなく、現在の各国間のフリクションを説明するものでもあります。

 ケインズは単刀直入にいいます。「国々が自らの国内政策によって完全雇用を達成するすべ」を学ばずに、「ただ失業問題を競争に破れた隣国に転嫁するだけ」の時にそのような動機が生まれる、と。
 ここで言う「ただ失業問題を競争に破れた隣国に転嫁するだけ」の政策とは、どのようなことでしょうか? これは現在では「近隣窮乏化政策」と言い習わされているものですが、これを理解してもらうためには、以下の事情を説明しなければならないでしょう。(実際、ケインズも15世紀以降の経済と経済学の歴史までにさかのぼって、説明しています。余計なことかもしれませんが、この辺が並の経済学者とは大きく異なるところでしょう。)

 1)雇用は生産量に比例し、生産量は有効需要に比例する。
 ケインズ(およびカレツキ)の天才的能力は、重商主義の経済学者が直感的に理解しており、その後、古典派(アダム・スミス、リカードゥなど)によって否定された見解を復興させました。それは、「有効需要」(つまり消費支出、投資支出、純輸出=輸出ー輸入)が生産の規模を決め、雇用量を決めるという見解です。
 それまでは、マルサス、マルクス、ホブソン、ゲゼルなどの大経済学者を例外として「供給がそれ自らの需要を生み出す」という定式化が「法則」(セイ法則)として絶対視されていました。「セイ法則」に疑問を提示し、否定しようとした人は、まず無能力者扱いされて大学等で教えることができなかったのですから、ケインズやカレツキが「革命」を行ったいっても決して過言ではありません。
 さて、ケインズが明らかにしたように、現実の経済では、人々が消費財を購入するために貨幣を支出し、また企業が生産財を購入するために貨幣を支出する(投資する)ときにはじめて、消費財や生産財の生産と販売が可能になります。
 これに関連してもう一つ重要なことがあります。それは貯蓄と投資との関係です。この関係も古典派によって誤った扱いを受けてきました。この点では、古典派より以前の重商主義の経済学者の直感の方が正しかったほどです。
 さて、貯蓄とは、所得のうち消費されなかった部分であり、資金の供給を意味します。一方、投資とは実物投資(設備投資)のことであり、資金に対する需要を意味します。この両者の関係についてもケインズは古典派の思想(信条)に対する革命を達成しました。
 古典派は、貯蓄が投資を決定する(まず貯蓄が決定され、それに等しい額の投資が行われる)と考えました。この思想によれば、経済が停滞し、投資活動が不活発になるのは、貯蓄が十分に行われないからだということになります。また、そこからは、貯蓄を殖やすためには消費を削るべきである(節倹の美徳)という結論が導かれます。
 前に本ブログでも説明しましたが、これに対してケインズは、両者の関係がまったく古典派の想定とは異なる(正反対)と考えます。何故そうなるのでしょうか? 確かに貯蓄(資金の供給)と投資(資金の需要)とは事後的に必ず一致します(S=I)。しかし、それは事後的な一致(post)であり、事前の期待(ante)ではありません。事前の期待に関する限り、現実の経済では、歴史をさかのぼれる太古から(ソロモンの昔から)常に、貯蓄が投資を超過するのが一般的な姿でした。(つまり、貯蓄性向が投資誘因より高い。)多くの場合、これは人間の貨幣愛(love of money)から説明されます。現代でもそうです。しかし、古い時代はともかく、現代経済では現実の投資は、個々の企業家によって期待利潤率によって独立に決定されます。それは決して社会全体の貯蓄の供給金額を配慮してなされるのではありません。したがって事前にはどのように貯蓄性向(貯蓄衝動)が高くても事後的には、貯蓄は投資に等しくならざるを得ません。もし無理に貯蓄の増殖を実現しようとすれば(つまり流動性選好を強めれば)、それは消費支出を犠牲にするしかありません。しかし、消費支出の削減は、社会全体で行われれば、総需要(さしあたり消費需要の項目)を減らし、それが企業家の期待利潤率を引き下げることによって投資支出を減らすことになるでしょう。
 このように現代の経済では、「節倹の美徳」は成立せず、むしろ消費支出を減らし、投資支出を減らし、それによって完全雇用を維持するのに必要な総需要を実現するとは限らない、これがケインズの経済学から導かれる一つの重要な結論です。

 「われわれが生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富と所得の分配が恣意的な不公正なことである。」

 2)総需要を拡大させる政策によって完全雇用を達成することは可能
 しかし、ケインズは、政府が適正な政策を実施すれば、あるいは適正な制度を構築することによって総需要を拡大し、完全雇用を実現するために必要な生産量を達成することは可能であるといいます。この点は、今回の課題ではないので、簡単に済ませますが、次の点にだけは触れておきます。
 古典派の場合には、生産を拡大するためには貯蓄(→投資)を増やすことが不可欠であり、そのために高金利が欠かせないと考えられていました。何故なら、金利が高いほど、貯蓄(正確には預金などでしょうが)の供給が増えると考えられていたからです。現在でも、新古典派の金融に関するマーシャリアンクロスでは、貯蓄の供給曲線は利子率の増加関数(右上がり曲線)になっています。
 しかし、ケインズの場合には、投資を決めるのは、企業家の期待利潤率であり、むしろ高金利は投資を抑制するものと捉えられています。

 3)国際貿易、特に輸出と貿易収支の黒字について
 いよいよ戦争の理由(外国市場獲得競争)の核心にせまってきました。
 現在でもそうですが、国内経済が不振に陥ったとき、多くの人々(政治家、経営者、エコノミストなど)が考えるのは、外国への輸出を増やせばよいじゃないか、ということです。また輸入をなるべく控えるべきだという思想が付随している場合もあります。それは結局貿易収支(純輸出)を黒字にすべきだということに帰着します。
 この思想には、もっともな点があります。まず国内需要が低迷しているときには、輸出の拡大がそれを補い、総需要を拡大するからです。また、貿易収支の黒字は、国内に外国からの金融資産が増えることを意味します。(国際金本位制の体制下では、金貨を保有することも可能でした。)それは言葉の広い意味では対外投資が行われることを意味します。そして、それは上で指摘したやっかいな問題(貯蓄性向は投資誘因を超過する傾向がある!)を解消するのに役立つでしょう。当該国の人々は、それによって総需要を拡大するとともに、自らの貯蓄性向(貨幣愛)を満たし、場合によっては投資(ただし対外投資)を実現し、かくして「一石二鳥」になったのですから。
 しかしながら、すでに重商主義の理論家も気づいていたように、すべての国が同時に貿易収支の黒字を達成することはできません。
 ある国の黒字は国外に必ず貿易収支の赤字国が存在することを前提とします。そして、その赤字国では、上記の2つの問題がより増幅することになります。完全雇用を実現する水準から見た場合の貯蓄(S)超過と総需要(C+I )の不足がそれです。

 ちなみに、1970年代以降の変動相場制の下では、この問題は為替相場戦争の形を取ってきました。例えばもっとも分かりやすいのは、「アベノミックス」とされるものの為替相場(円安)の部分です。円安が輸出を促進するといって大喜びしている人々が多数いるではありませんか? もちろん、外国からはそれが「近隣窮乏化政策」だという非難があびせられ、それに対しては日本の政治家やエコノミストから、<円安は輸出を促進するために人為的に発生させたものではない。だから隣人窮乏化政策ではない>といった反論がなされます。
 しかし、意図されたものであれ、そうではなかれ、当該問題が上で指摘した問題と密接に関係していることは言うまでもありません。
 最初の課題に戻りましょう。19世紀末〜20世紀初頭、そして1930年代にはこうした問題が世界戦争を引き起こすほどの大問題となったことを忘れてはいけません。また「隣人窮乏化政策」に訴えるのではなく、各国がそれぞれの国内で完全雇用政策を実施するべきだというのがケインズの訴えでした。ケインズが戦後国際通貨体制の構築に際して、「ケインズ案」を考えていたことはよく知られていますが、その際、彼は貿易収支の均衡するような為替相場メカニズム(貿易赤字国だけでなく、黒字国にも不均衡の責任を求めるようなメカニズム)を提案していました。これについては、以前のブログで説明していますので参照してください。


 4)付録 J・ストレイチーの現代資本主義論
 最後に補足的に、1930年代以前と戦後(1945年以降)の経済のあり様について補足しておきます。
 戦後、ケインズ案は採用されませんでしたが、ブレトンウッズ体制の下で、貿易収支の均衡達成を義務づける制度(準固定相場ドル本位制)が採用されました。この通貨体制下では、貿易収支の赤字国だけが通貨の切り下げを求められていました。実際に、イギリスはポンド・スターリングの切り下げ(減価)を実施しています。
 戦後の「黄金時代」には、多くの国で完全雇用がほぼ達成され、賃金率も労働生産性の上昇に応じて引き上げられてきました。そして、それは人々の勤労所得水準を引き上げ、消費支出)を拡大し、またそれに応じた投資支出を実現させることになったため、生産量を拡大し、雇用率を完全雇用水準に近づける働きをしたと考えられます。
 戦後は、この点でも以前とは大きく異なっています。ストレイチー(『現代の資本主義』)が指摘するように、19世紀からの古典的な資本主義経済では、賃金は常に抑制される傾向にありましたが、それは総所得を、したがって総需要を抑制し、景気を悪化させ、失業率を高める作用を果たしてきました。しかし、「現代の資本主義」はようやくそこから決別したかに見えたのです。
 
 しかしながら、そのような幸福な状態は長く続きませんでした。
 1979年におけるサッチャーの英国首相への就任、1981年におけるレーガンの米国大統領への就任はふたたび古典的資本主義(新自由主義という名の自由放任主義)への回帰をもたらし、それとともに古典的な問題(国内の失業、対外的フリクション)をもたらします。しかし、これについては、項を改めて説明することにします。

2013年12月14日土曜日

社会科学の裸の王様・経済学 12 極めつきの欺瞞・金融

 次に、ガルブレイスが『悪意なき欺瞞』(*)で言及している「極めつきの欺瞞」と呼ぶ中央銀行制度(米国では、連邦制度理事会)をめぐる欺瞞を紹介することにします。

 中央銀行の虚偽のシナリオ
 
 しばしば金科玉条のようにされている金融政策上のスタンスがあります。それは次のように要約できます。
 ・景気後退の場合。中央銀行は、金融緩和(金利引下げ、買いオペによる貨幣供給)により、市中銀行が金利を引下げ、マネーサプライを増やすことが期待される。つまり、金利の引下げが、企業の借用を増やすことが期待されています。
 ・景気が加熱気味となる場合。中央銀行は金融引締め策(金利引き上げ、売りオペによる貨幣供給の縮小)によってマネーサプライを抑え、インフレ懸念を払拭するとされています。

 これは多くの人によって正しいと考えられていますが、実際には教科書の中ではあり得ても、現実にはあり得ないシナリオだとガルブレイスは主張します。
 このことは、私のブログでも説明しました。
 ガルブレイスも指摘するように、それは現実や実務経験から生み出されたものでないことは確かです。これは私の補足ですが、19世紀のイギリスでは、このような考えは通貨学派に近いものがありましたが、それは金融の実務・実態に詳しい銀行学派から厳しく批判されました。19世紀の昔から、マネタリスト(貨幣数量説)と金融の実務家の間でマネーサプライの要因に関する論争があったことが注目されます。20世紀のイギリスでは、ケインズとその周辺の人々がその批判者となりました。実際、現実には、ケインズやカレツキの明らかにしたように、企業が投資するために銀行から借財するのは、将来の儲けが期待できるときだけです。
 かくしてガルブレイスは結論します。実に簡潔にして要を得た名言です。

 「金融政策が無効であることほど、歴史によって繰り返し証明されてきた経済法則は他に例がない。」

 無為無策の歴史
 
 ガルブレイスは、このことを示すために、第一次世界大戦から戦後にかけてのいくつかの事例を挙げていますが、ここでは省略します。ただし、別の所で、ガルブレイスが「紐で引っ張ることは出来るが、押すことはできない」と述べていることに注意しましょう。これは、1979年以降の極FRBの端な金融引締め策によって激しい景気後退が生じたことが示すように、景気を悪化させることは簡単だが、悪化した景気をよくすることは絶望的に難しいということによって例証されます。また、それは金融危機に見舞われた1990年代から現在にいたる日本経済を見れば、簡単に分かることです。
 
 幻想に過ぎない中央銀行の役割

 ガルブレイスの結論です。
 われわれがなすべきことは、彼らの役割が無意味だということを理解した上で、その存在を「仕方ない」ものとして容認することしかない。

 ガルブレイスが語るように、そろそろ金融政策という非本質的な領域から離れて、本質的な領域を問題とするべきでしょう。しかし、こう言うと、金融政策に利害を感じている人は、必死で反論するでしょうが、・・・。




2013年12月13日金曜日

不思議な、不思議な失業のお話し

 雇用を確保するために、賃金を引き下げなければならないという人(エコノミストや政治家)がいます。
 そのような人たちの主張に対して反論するもっともよい一つの方法は、どこまで下げれば失業がなくなるのですかと問う事でしょう。
 もちろん具体的に答えることのできる人が一人でもいるとは思えません。そもそもマーシャリアンクロス(新古典派の労働市場論)では、均衡点にある賃金率は一つだけですが、現実には様々な賃金率が存在し、広範囲に分散しています。高い方を下げるのでしょうか? それとも低い方をもっと下げるのでしょうか? すべてを下げるのでしょうか?
 人々に賃金の最底辺へのレースを強いる武器として使われているこの理論が実は矛盾だらけだということを思考実験で示しましょう。

 *マーシャリアンクロスではまた、すべての人が質的に同じ労働をしており(!?)、同じ実質賃金率で働くことを理論の絶対的な前提条件とされています。それは前にも述べたように考えれば考えるほど不可思議な「理論」なのですが、ここではその点は置いておきましょう。

 いま仮に百歩譲って、平均して10%だけ引き下げればよいという回答があったとしましょう。例えば平均して100(指数)の水準にあった実質賃金が90にまで引き下げられるとします。またそれによって失業率が(例えば)10%からゼロ%に低下したとします。このケースでは、実質賃金総額は、0.9×1.1=0.99(ほぼ1)に等しくなります。
 さて、このとき貨幣賃金、商品価格や利潤はどのように変化するのでしょうか?
 おそらくこの理論の提唱者は、一方では、貨幣賃金引下げとともにそれに比例して価格が低下するから商品に対する需要が増え、それに応じて生産が増え、失業者が減ると考えるのでしょう。つまり賃金だけでなく、物価も10%低下すると考え、そして生産物が(例えば)10%増加する、というわけです。この場合には、もちろん利潤総額は不変です。
 しかし、奇妙ではありませんか!? もし貨幣賃金率が10%低下し、物価が10%低下したら実質賃金率はまったく低下していないことになります。それでは、新古典派の労働市場論は役割を果たしていません。
 そこで次に、貨幣賃金率は低下するが、物価はそのままに固定することによって、実質賃金率を引き下げる方法を考えます。(上の例も、後者も多くの考えうるケースの一つですが、その他の多くのケースを考えるときの基準となりえます。すべてのケースは、この2つの組み合わせで説明されます。)この場合、物価は変化せずに、そのままです。(もちろん、利潤は増えます。)しかし、このケースでは消費者や投資家(企業)が何故生産を拡大しうるのかがまったく理解できないことになります。何故ならば、物価が変化していないのですから。その上、もし生産が増えないならば、利潤が増加したとしても賃金が同じだけ低下するだけであり、所得総額は同じになります。

 こんな中学生でも理解できることを「正気の経済学者」がどうして理解できないのでしょうか? ここでもバカと天才は紙一重と言わざるを得ません。(上のような説明は、もう少し洗練された方法で、ケインズも提示しています。)

時間とともに変化する現実の経済モデル

 現実世界の経済学における経済変動の説明

 企業が時間の経過とともに(毎年)設備投資を行うと、その純投資額だけ資本装備額(ネットの固定資本ストックK)は増加します。また少なくともこれまでは労働力(労働者の数N)は増加してきました。
 現実の経済でも、この2つの量(K/N)は、貨幣額(金額)で定量的に示すことができます。現代の経済では、通常、このK/Nはしだいに増加します。そしてそれとともに労働生産性(労働者一人あたりの可能な生産額)Y*/Nも増加します。
 そして、これらの2つの量(K/NとY*/N)は、比例的な関係のあることが実証研究によって分かっています。
  Y*/N=αK/N  よって Y*=αK または K=Y*/α=σY*     

 ここでαを資本の生産性と名づけ、その逆数 σ=1/α を資本係数と名づけます。
 これは社会全体の生産能力が資本装備に依存していることを示します。
 この辺までのところは、ハロッドやドーマーといった研究者の明らかにしたところです。

 しかし、生産能力があるということと、実際に生産が行われるということは必ずしも同じではありません。むしろ両者は異なるのが普通です。
 では、実際の生産 Y はどのように決まるのでしょうか?
 それは総需要 Y=D=C+I+G+(XーM)によって決まります。
    C:消費、I:投資、G:政府支出、(XーM):純輸出
 いま政府支出と貿易を捨象すると、Y=C+I となります。
 以上の結論をまとめてみましょう。
    Y*=αK=K/σ
    Y=C+I
 基本的には、この2つの式が経済の変動を考えるときの基礎となります。もちろん、これらは時間とともに変化するので、わが現実世界の経済学では、次のように時間(t)の関数として、次のようにあらわすことにします。
    Y*=αK(t)
    Y=C(t)+ I(t)
     
 現実の経済では、所得分配も重要な役割を演じています。そこでそれも表現しましょう。所得は、賃金Wと利潤Rに分かれますので、
    Y=W(t)+ R(t)

 さらに、賃金からの支出と利潤からの支出が総需要(有効需要)を構成しますが、ここでは前に示したように、賃金からの支出はすべて消費財の購入に当てられ、利潤からの支出は消費と貯蓄(=投資)に当てられると想定します。(実際には、賃金からも貯蓄がなされますが、それは小さいので、簡単のために捨象します。)
    Y=Cl(t)+Ck(t)+S(t)

 ところで、雇用Nは、生産額Yに比例し、労働生産性ρに反比例することも既にしめしてあります。もちろん、労働生産性も時間とともに変化します。そして、それはK/Nに比例します(上段参照)。
    N=Y(t)/ρ(t)  
 ここで活動的人口(労働人口)をLとすると、雇用率は、
    E=N/L={Y(t)/L(t)}/ρ(t)
 失業率は、
    U=1ーE 
 (ただし、Lは主にかなり長期の歴史的事情に関連しており、短期的変動は存在するとしても、それほど大きくはないと想定されます。特に賃金率が低いほど、労働者は一定の所得を確保しようとして長時間働くため、現実は新古典派の想定とはまったく逆の傾向を示します。)

 これで実際の経済を分析するためのお膳立ては大体整いました。あとは、これらが時間とともにどのように変化してきたかを分析することになります。
 またこの分析を通して、経済全体が相互にどのように関係しているかを理論的に考察することも必要になってきます。
 
 ケインズやカレツキ、ハロッド、ドーマーの努力によって現代経済学は、経済の動学化にかなり成功してきました(ただしまだ完成とは言えないでしょう)。
 もちろん、上の諸量が相互にどのように関係しているか、それをきちんと説明するためには、「ミクロ・マクロ問題」(ミクロとマクロの相互関係)を明らかにする必要もあります。すなわち、マクロは確かにミクロの集計という面を持ちますが、そのミクロ的な行動にマクロ的な状況が大きな影響を与えています。
 ここで重要なことは、雇用や失業もここに示した経済全体を構成する諸要因を明らかにしたときに解き明かされるのであり、そこで、単純に雇用や失業を実質賃金率だけで説明するのが如何に非科学的な馬鹿げた態度かが明らかとなることです。


社会科学の裸の王様・経済学 11 時間のない不思議な仮想空間

 主流派のミクロ経済学に関する教科書を読んでいると、奇妙な事柄に頻繁に出会います。私は経済学部に入学した直後にすぐ、そうした奇妙な事柄に遭遇してしまい、大いなる違和感を感じました。ジョウン・ロビンソン氏は、「経済学者に騙されないようにするために経済学を始めた」と言っていますが、大げさに言えば私もそうです。
 どこがおかしいのでしょうか? 
 本ブログでは、これまでもおかしな事柄を取り上げてきましたが、ここでは「代替」と時間について検討することにします。
 代替というのは、例えば「労働」と「資本」とが一定の比率で取り替え可能だというようなことです。既にここでまともな人ならば、「労働」のほうはともかくとして、「資本」という言葉で教科書が何を表現しようとしているのか、戸惑います。
 <資本というのは、資金(お金・貨幣)のことだろうか? いや、労働と取り替え可能というのだから、ここで述べているのは物的な実物資本のことに違いない。すると、機械・道具や設備(資本装備、固定資本ストック)のことだろうか? いやそれだけではなく、原材料・エネルギーも含まれているようだ。しかし、それらは資本だろうか?> 
 現実的に考えると、こんなところでしょうか。しかしまだまだ疑問は続きます。
 <ところで、代替というのは、生産に投入される労働量(資本量)を減らしても資本量(労働量)を増やせば、同じ結果(産出量)が得られるということのようだ。しかし、そんなことは本当にありうるのだろうか? 例えば自家用車を生産するとき、労働量を増やしても、機械や原材料(鉄板など)を減らすことはできるのだろうか? わずかな代替率はあるとしても、労働量と資本量の比率は、その時に支配的な技術的な条件によっておおよそ決まっているのではないだろうか? また資本といっても生産物の内容によって資本装備の具体的内容も決まるのが現実の姿だが、教科書では、資本は質的に一様で量的にのみ異なるとされている。資本ではないけれど、風邪薬を飲んでも腹痛に効果がないのと同じように、資本も融通無碍に変化しえる量ではないのではないか? それにもしそうだとしたらそれはどんな単位で計測されるのだろうか?>
 
 ここまで考えて、さらにここで教科書には時間がないことにも気づきます。
 <普通(現代の若者なら、基本、でしょうか)、ものが変化するときは、現実の時間の中で変化するというのが物理学でも勉強した基礎だけど、ここには時間がないようだ。それでよいのだろうか? 変化が非常に短期の時間経過とともに生じ、前提条件があまり変化しないならば、許されるのかもしれない。でも、資本(実物)を労働で代替する場合、いったん行った投資(資金)を回収しなければならないけど、現実の経済では無傷ではできないよね。例えば10億円で1台の機械を購入したあと、投資の半額だけとりやめて5億円だけ回収し、5億円分の労働で代替しようとしても、そもそも無理。なぜならば機械を分割することもできないし、時間ももとに戻せないから。(後で知ったけど、これを埋没費用というらしい。)>

 さて、このように教科書の「理論」(といえるような代物ではありませんが)では、資本も労働もそれぞれ質的に同一で(!?)で量的にのみ異なる(!?)と仮定されています。また時間は可逆的であり、そこで埋没費用など無視できると仮定されています。しかし教科書はそうでも、現実はそうではありません。したがって、教科書に書かれていることを現実に当てはめることがそもそも無理だということは明白です。教科書を書いたひとは、その内容は現実に存在しない仮想空間にしかあてはまらないと認めるべきです。しかし、彼らは現実の世界をその仮想空間の中に無理矢理押し込めようと試みるという愚をおかします。正しいのは理論であり、現実ではない、というかのように。ゲーテのファウスト博士も真っ青になることでしょう。何故かって? ファウストは次のように言います。

 「理論は灰色(blau)であり、生き生きとしている(lebendig)のは現実なのだよ。」

ブラック企業を拡大させる「首切り特区」に反対する

 安倍内閣によって「首切り特区」の構想が打ち出されました。
 『週間朝日』でさえ、「首切り特区でブラック企業の合法化の恐怖」(10月26日号)とその問題性を取り上げています。
 そのような「特区」を作って喜ぶ人がいるのでしょうか? また社会全体がよくなるというのでしょうか? これこそナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』(上・下)が暴露した惨事便乗型資本主義の典型に他なりません。
 もちろん例によって<自由に解雇可能だから、企業が安心して労働者を雇用できる>、と例によって適当な(デタラメな)ことを言う御用学者は山ほどいます。
 しかし、そんなことがあるはずがありません。
 まず企業は、自由に解雇できるならと、首切りをちらつかせて労働者に違法就労を強制するでしょう。「君の代わりに働きたい人はいくらでもいるんだよ。」この決まり文句の前に弱い立場の従業員は、違法な長時間労働を強要されるでしょう。そのような時に労働者が取れる自衛手段(実際は自衛手段になりませんが)は貯蓄を増やそうとして、消費を削ることだけです。しかし、そのような消費を削る行為は社会全体で行われると総需要を縮小させ景気後退を招きます。そして、結果として失業はますます拡大するでしょう。それは企業にとってさえも景気の停滞や後退というまずい結果を導きます。これが「合成の誤謬」と名づけられているものです。
 要するに、「首切り特区」は、労働条件を悪化させるだけでなく、失業を拡大し、社会全体を不安定化させるトンデモ政策に他なりません。

 かつてジョン・K・ガルブレイスという米国の経済学者が次のような趣旨のことを述べたことがあります。<ジョン・M・ケインズなどの良心的経済学者によって労働保護立法の意義が明らかにされ、資本主義はより安定的な方向に向かって来ていた。ところが、経済学者の中にも、経営者の中にも、政治家の中にも、それを破壊し社会を不安定化しようとする人々がいる。それはどうしてなのだろうか>、と。
 
 その答えは、ガルブレイス自身が与えており、また本ブログでもカレツキの政治経済学やOECD諸国の経済動向の解説を用いて説明しました。要するに、現代の企業家経済の社会では、失業率が低下し、労働生産性に応じて実質賃金が上昇したり社会が安定化することを心良く思っていない人々がいる、という否定しがたい事実があります。近年(といっても米英で現れたサッチャー、レーガンが現れた1980年頃から30年ほどですが)の傾向を見ているとこの事実は否定しがたいほど明瞭です。戦後しばらく眠っていた「マルクス問題」(大企業の巨大な権力の前に労働者が貧困化してゆくという問題)がいま再現しつつあります。

2013年12月12日木曜日

社会科学の裸の王様・経済学 10 ケインズ主義って何?

 ジョン・M・ケインズが20世紀の偉大な経済学者であったことは言うまでもありません。しかし、しばしば「ケインズ主義」や「ケインズ政策」なるものが批判の俎上に載せられることがあります。これらは一体何なのでしょうか?
 そもそもケインズの名前のついた呼称はたくさんあります。上の他にも、「ケインズの経済学」、「ケインズ経済学」、「ポスト・ケインズ派」、「新ケインズ派」(ニューケインジアン)など様々です。これらはどのように使い分けられているのでしょうか?
 まずケインズ主義。昔、あるときカール・マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったという逸話は有名ですが、ケインズにも同様な話があります。あるとき彼は「私はケインズ主義者ではない」と言いました。一般的に言って、ある思想家の思想を別の人々が本人の思想とは別様に解釈するということは大いにありうることです。その意味で、「ケインズ主義」(Keynesianism)などという言葉は、無意味な言葉と言ってもよいでしょう。もしケインズ自身の経済学という意味で用いるならば「ケインズの経済学」というべきです。ただし、もちろんケインズほどの偉大な人物の経済学ともなると、それをどのように解釈するかは人によって相違点が出てきますから、難しいところです。
 「ケインズ政策」という言葉はどうでしょうか? これなども手垢のついた言葉となってしまいました。およそケインズの著書(『貨幣論』や『一般理論』、その他)などを読んだことなど決してないと思われる経済学者が「ケインズ政策」などという言葉を使って、しかも批判するのですから、「世も末」と嘆きたくなります。ケインズの乗数の「波及論的理解」などはケインズが聞いたら、おそらく怒り狂うでしょう。(これについては、私の恩師の一人、故宮崎義一氏と伊東光晴氏の『コンメンタール 一般理論』(古いけれども、高水準)などを見てもらえば、了解できるはずです。)しかも、無知な経済学者の中には、財政支出についてもこれを使う人がいるのですから、何をかいわんやです。ケインズの乗数は、Y=C+I (有効需要)の式におけるYと I との(一定期間における)関係を示すもの以外の何物でもありません。歪めて解釈しておいて、ケインズは誤っているといっても、世の中では通用するかもしれませんが、きちんと経済学を理解している人にとっては、馬鹿丸出しの所作に他なりません。
 では、ポスト・ケインズ派のほうはどうでしょうか? これは、通常、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)に刊行前後に、ケインズ・サーカス(ケインズの周囲にいてケインズの『一般理論』の形成・普及に貢献したした人々)によって形成されてきた経済学を意味しています。その中心にはジョウン・ロビンソンがおり、その他にハロッド、カルドア、カーン、カレツキなどがいました。これらの経済学者は、ケインズと直接に意見交換を行い、ケインズに影響を与えつつ、またケインズから強い影響を受けていました。その中でも特筆されるのは、ミハウ・カレツキです。彼はケインズ以前に「ケインズ革命」を成し遂げた人物としてよく知られています。(彼はポーランド出身であり、その初期の著作はポーランド語で書かれていたため、広くしられていませんでした。)
 彼ら、つまりケインズ自身およびポスト・ケインズ派には共通する経済的ヴィジョンがあります。それは、「不均衡」、「不確実性」、「有効需要の原理」、「市場の失敗」、「非自発的失業」などのタームで示すことができます。そこに共通しているのは、現代の「企業者経済」(資本主義経済)では、失業(非自発的失業)や金融危機などに示されるように、不均衡が本質的な特徴であるため、政府が様々な制度を構築することによってそれを修正することが必要であるという見解です。それを基礎づけるのが、不確実性や有効需要の原理に他なりません。
 ところが、・・・。
 ケインズの経済学は、イギリスでも誤って解釈されましたが(ヒックスのIS-LMなど)、大西洋を渡り米国に達するやさらに大きく変容を遂げていましました。しかも、それは本来のケインズの見解とは似ても似つかないものになりました。その変容した果ての経済学が「新古典派総合」や「ニューケインジアン」の経済学です。どのように変容したのでしょうか?
 それは、これらの経済学では「均衡」「確実性」「セイ法則」「市場原理主義」、「自発的失業」などのタームがきわめて重要となっていることによって示されます。たしかにケインズの経済学のごく一部分(労働市場に関連する一部)はそこに取り入れられています。しかし、ケインズの経済学の本質的な部分は古めかしい(19世紀以来の)新古典派経済学によって換骨奪胎されてしまいました。ケインズがそれを知ったら、抗議することは間違いありません。「諸君らは間違っている。私の名前を用いないように」、と。何しろ、ケインズにあっては資本主義は欠陥(失業、不安定、不均衡)を持つために修正しなければならない代物だったのに、米国ではむしろ安定と均衡、効率性を実現する立派な構築物に祭りあげられたのですから。
 しかも、この変容に際して、ケインズが「現実離れしている」ため「悲惨な結果をもたらす」と警告した諸前提がふたたびこっそりと経済学に持ち込まれました。

 最後に、誤解のないように一言。アメリカ大陸にもポスト・ケインズ派の経済学者はいます。ジョン・K・ガルブレイスもその一人でしたが、その子息のジェームス・ガルブレイス氏もその伝統を引き継いでいます。またH・ミンスキー氏やその影響を受けた一連の経済学者、H・ラヴォア氏、アルフレッド・S・アイクナー氏などもあげられます。
 しかし、米国の主流派が新古典派の人々にあるという事実に変りはありません。どうしてそうなのでしょうか? これにはアメリカ合衆国の経済の成立事情がかかわっていると考えられます。ご存知のように米国はイギリス人(スコットラドやイングランドのアングロ・サクソン系民族)が植民して作りあげた国です。そこでは、資本主義を欠点のない・完璧な構築物と見なさなければならないという「歴史的使命」のようなものが見え隠れしているかのように見えます。しかし、これについてここでは深入りすることは出来ません。

2013年12月11日水曜日

E・トッド『新ヨーロッパ大全』を読む

 1992年にE・トッド氏の『新ヨーロッパ大全』(日本語訳、藤原書店、石崎晴己訳)が出版されてから20年たった。
 この書物は、ヨーロッパおよび米国(ヨーロッパ、特にイギリスからの分家)の社会(政治・経済・宗教)を語る上で、必読文献といってもよいであろう。特にアングロ・サクソン系(米英)の人々の集合心性を理解する上できわめて有益な書物ではないだろうか? 
 20世紀にこの課題に最初に本格的に挑んだヨーロッパの社会科学者は、ドイツの有名な社会科学者のマックス・ヴェーバーであった。彼の最も著名な論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」」は、しばしば不正確に理解されているが、カソリシズムとプロテスタンティズムの「エートス」の相違を明らかにし、近代資本主義の成立との内面的関係という問題をある限られた視角から分析しようとしただけでなく、大陸ヨーロッパ(ドイツ人やフランス人)とドーバー海峡の向こう側にあるブリテン島の主たる住民(アングロ・サクソン民族)の心性の特徴を描こうとするするものであった。あのきわめて特徴的な人々(スコットランド人とイングランド人)はどのような土壌の上にカルヴィン派の教派を受け入れたのか、その受容が資本主義を生み出す上でどのような役割を演じたのか、彼らの文化は「われわれ」のそれとどのように異なるのか、これがヴェーバーの頭の中にあった問題に違いない。
 トッド氏の書物も、家族史、土地制度史、宗教史、政治史に関する具体的・定性的・定量的なデータにもとづき「ヨーロッパ人」を、しかも、一つのステロタイプとしてではなく、その多様性を理解しようとしたものである。彼はこの点できわめて説得的な議論を展開しているように思われる。
 彼の意見では、アングロ・サクソン系の文化は、中世以来の伝統的な家族構造・土地制度の点で、自由主義的(非権威主義的)で不平等な配分にもとづいていたと特徴づけられるといってよいだろう。おそらくイギリス社会史・経済史に詳しい人は、その意味がよく理解できるであろう。イングランドやスコットランドでは、中世から「核家族」が基本的な家族形態であった。人々は若い時期に両親の家を(奉公人などとして)離れなければならない。したがって両親との同居はきわめて少ない(自由主義)。子供は、親の高齢化とともに財産を相続するために家に戻るが、その際には、一子相続制(primogeniture)が原則であり、長男以外は親の財産を相続することはない(不平等)。遺産相続に参加できなかった兄弟たちは、奉公人(servants)として兄弟または他人の家に居候し、生活したり、村の共同地(総有地)に狭い土地を分けてもらい小屋住(cottagers)としての生活を送ることになる。これらの小屋住が17〜18世紀の共同地の囲い込み(enclosure)に際して、ジェントリー(地主)から暴力的に追放されたことは経済史の教科書に登場するのでよく知られていよう。ここで注意しなければならないことは、奉公人や小屋住たちが農民の子弟から生まれた人々であったとはいえ、決して没落した農民(farmers)ではなかったことである。小屋住は農民の家族の中から不平等な相続の結果、生まれて来たのである。
 この自由主義と不平等性の組み合わせは、宗教改革でも(つまりカルヴィン派の受け入れの際も)繰り返される。プロテスタンティズムは、人々(俗人)が教会という教階的組織から自由であり、自ら聖職者であることを公然と主張し、牧師も俗人も自らの良心にしたがって(自由に)「福音」によって信仰生活を送るべきことを説く。しかし、その教義内容は決して平等主義的ではない。個人個人の救済・非救済はあらかじめ全知全能の神によって予定されており、すべては神意によって決められることである。個人に出来ることといえば、神による魂の救済を信じてその招命(calling)=福音に従って生きることであるに過ぎない。
 たしかに後になってこうした二重予定説の教義はしだいに薄れてゆく(例えばジョン・ミルトンや、メソジストなどを見よ)。しかし、それでも自分が神によって選ばれた民の一人であるという意識は色濃く残る。19世紀から20世紀にかけて宗教改革時の宗教的熱狂から覚め、形骸化が進んでも、この選民意識はしぶとく残り、それが他の諸民族に対するあらわされる優越的な態度、「帝国主義の精神」となって現れる。それは、19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ人(例えばヴェーバーや、シュルツェ・ゲーヴァニッツなどのドイツ人)には、きわめてアングロ・サクソン的な精神の発現と思われたであろう。「プロテスタンィズムの倫理と資本主義の「精神」」の末尾の、「うぬぼれた末人」(letzte Menschen)の登場に対する批判めいた言葉は、そのことをよく示しているように思われる。

 さて、話は変わるが、わが日本はどうであろうか? 
 ヴェーバー的には日本仏教が問題となり、トッド的には日本の家族制度や土地制度が問題となるであろう。
 後者の点では、日本のほとんどの地域で権威主義的家族形態と不平等な相続制度が支配的であったことが知られている。このことは、戦前から戦後にかけて実施された相続慣行調査(川島武宣氏『農家相続と農地』、『日本社会の家族的構成』など)や国勢調査からもうかがわれる。九州南部(鹿児島県や宮崎県の一部)と沖縄とを大きな例外として、戦前の日本の基本的な相続慣行は一子相続制であった(不平等)。しかも、家族形態においては核家族とならんで、夫婦が年老いた親(両親・片親)と同居する世帯がかなり高い割合で観察されている。これに対して、相対的にであるが、自由主義的かつ平等な傾向を示す地域もわずかであるがある。それは、南九州から沖縄県にかけての地域である。そこでは末子相続という名の分割相続(共同相続、均分相続など)が見られ、琉球処分以前の沖縄では村による「土地割替」(土地共有と定期的な再分配)の慣行さえ見られた(平等主義)。しかも、ここでは親との同居世帯は他の地域に比べると少ない(相対的に自由主義的な傾向)。もっとも、ここでも親との同居世帯は一定の比率で存在しており、その非権威主義的傾向・自由主義的傾向は他の地域と比較した場合の相対的なものに過ぎないという方が正確だろう。(常識にはそわないかもしれないが、もしかすると青森県が若干これに近いかもしれない。ここでは他の東北地方と比べて、親との同居世帯の比率が若干低いことが統計的に示される。)
 
 ただし、日本では少数派だった平等主義的配分も、東アジアの他の地域ではむしろ多数派であった。中国と朝鮮半島における分割相続の慣行が支配的であったことは、社会学者の間では常識に属する。
 ヨーロッパでも、上述のイギリス型だけでなく、他のタイプも存在しており、一方では、例えばフランスの一定の地域が、また他方ではロシアを中心とする東欧の相当部分が分割相続の厳格に適用される(平等主義の)地域であったことが知られている。しかし、トッド氏が明らかにしているように、フランスは自由主義的家族の地域であり、ロシアは権威主義的家族の地域であるという大きな相違がある。またドイツの広範な地域には、日本と類似の権威主義的・不平等的な家族・相続慣行が認められる。私には、現在のヨーロッパ諸国の経済の制度的特徴の多くがこうした事情とかなり密接に関連しているように思われる。
 私は、中国や朝鮮半島の家族がどの程度に権威主義的なのか、あるいは自由主義的なのか、詳しく知るための統計資料をまったく持っていないが、さしあたり韓国については国勢調査資料から世帯類型を知ることはできそうである。
 過去からの伝統がどの程度まで現代の政治・経済・社会に影響を及ぼしつづけているのか(われわれはどの程度過去にとらわれているのか)、これは社会科学上の大問題である。それをアプリオリに前提することができないことはいうまでもないが、同時にそれをアプリオリに否定することも科学的な態度ではない。
 ちなみに、日本の研究者の中には、ヨーロッパ研究を行っている多くの研究者が「ヨーロッパ」を「アジア」に平板に対立させていると述べ、批判している人がいるが、実際にはヨーロッパもアジアも多様であり、日本でさえ多様な諸地域を抱えている。そのような批判をしている人こそ、単純な対立図式から自由になれていないのではないだろうか。

2013年12月10日火曜日

社会科学の裸の王様・経済学 9 新古典派経済学の正体を暴露する


 世界の著名な・優れた経済学者が「主流派(新古典派)」の経済学についてどのように述べているか、ちょっと覗いてみましょう。それぞれ異口同音に、それが現実離れした前提の上に構築されており、現実世界を映すものではないことを強調しています。

 ジョン・M・ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』
 「(新)古典派理論の想定する特殊な事例はあいにくわれわれが現実に生活を営んでいる経済社会の実相を映すものではない。それゆえ古典派の教えを経験的事実に適用しようとするならば、その教えはあらぬ方向へ人を導き、悲惨な結果を招来することになるであろう。」

 スティーヴ・キーン『経済学の正体を暴く』(Debunking Economics)
 「それは現実の資本主義経済の動学的には妥当せず、事実上は間違った直感的で静態的なスナップ・ショットに過ぎない。」
 *これは近代の(例えばニュートンの)力学(dinamics)などと決定的に異なる点です。ご存知のように、ニュートンは物質が時間の経過とともに運動する状態を説明することに成功しました。ところが、「科学」を自称する新古典派はいまだに動学を語ることができません。(ポスト・ケインズ派は、ハロッド、ドーマー、カレツキなどの努力もあり、かなりの程度に動学理論(dinamics)に成功しています。)


 ジョウン・ロビンソン『経済論集、第4巻』
 「(新古典派は)恣意的に構築された前提条件にもとづいてモデルを組み立て、それらの前提が現実にあてはまることを取り繕おうともせずに、そこからの「結論」を現実の出来事に当てはめようとする。」

 マーク・ブローグ「近代経済学における混乱をもたらす潮流」(Challenge!, Vol.41, No.3, May-June, 1998.
 「経済学は、その実践的な帰結のためにではなく、ますます自分自身のために演じられる知的ゲームになってきた。経済学者は、しだいに主題を、数学科で理解されているような分析的な厳格さがすべてであり、(物理学科で理解されているような)経験的妥当性がまったく当てはまらない無一種の社会数学に、・・・つまり「価格」、「量」、「生産要素」等々のような用語を使うが、それにもかかわらず、明らかにも、また恥ずべきことながら、どんな認識可能な経済システムにも当てはまりもしない一般均衡理論に転換してきた。
 完全競争は、決して存在しなかったし、また決して存在できなかった。その理由は、企業は小規模なときでさえ、価格を受け入れるだけということはなく、価格を創り出そうとするからである。すべての現在の教科書は多くを語るが、次に即座に、完全競争という「夢の世界の」幻想の国が現実世界の競争についてわれわれが何か意味のあることをいうための基準であるとまで言う。・・・しかし、理想化された完成状態は、われわれがそれと現実世界の競争との間のギャップを計測する方法を決して語らないときにどのようにして基準となりうるのだろうか。すべての現実世界の競争は「近似的には」完全競争に似ているが、近似の程度は、漠然とさえ、決して特定されないことが意味されている。・・・
 次の典型的な前提条件を考えよう。完全に確実な、まったく全能な、いつまでも長期的に同一の消費者:取引費用ゼロ:すべてのあり得る出来事に対するすべての時間について記述された要求に対する完全市場。不均衡価格でのどんな種類の取引も存在しない:価格と量のかなり急速な変化率:現実の時間においては急激な計算できない不確実は存在しないが、論理的時間においてはただ確立的にのみ計算可能なリスクが存在する:ただ線形的に同質な生産関数:どんな技術進歩も具体的な資本投資を必要しない、等々、等々。これらすべては現実離れした仮定というだけでなく、不真面目な前提である。それでも、これらは主導的な経済諸理論の中に決定的に出てくるのである。
 *いや、まさに「不真面目な」馬鹿らしい前提です。これらがどれほど馬鹿らしい仮定であるかは、その他にもまだまだあります。そこから生まれるのは、現実世界の経済学ではなく、仮想空間の経済学。これについては、いつか書くこともあると思います。
 
 何の本だったか忘れてしまいましたが、宇沢弘文氏(東大名誉教授)はかつて、<米国で書かれる経済学の論文のほとんどはゴミである>という趣旨のことを述べたことがありました。これも上と同じ趣旨からの発言です。

 ジョン・K・ガルブレイスも多くの名言を残していますが、最近一つを紹介しましたので、ここでは省略します。

2013年12月9日月曜日

社会科学の裸の王様・経済学 8 貯蓄と投資

 貯蓄と投資との現実の関係もまたしばしば間違って理解されている。
 以下では簡単のために外国と政府を捨象して考えることとする。

 この仮定の下では、貯蓄とは所得のうち、消費財の購入のために支出されなかった部分に等しい。これは定義のようなものだから、何故そうなるのか、理由を考えずに受け入れるしかない。いま、所得をYとし、消費財の購入のための支出(消費支出)をCとすると、貯蓄Sは、次のように示される。
  S=YーC    よってY=C+S                 (1)
 定義上、貯蓄の範疇に入るのは、銀行等に預金すること、株式や国債などの金融資産を購入することである。タンス預金(現金を保有し続けること)も貯蓄であり、土地(実物資産)の購入も貯蓄の範疇にいれてよいだろう。問題となるのは、居住用の住宅を購入するような場合である。住宅は見方によっては耐久消費財と考えることもできるが、見方によっては実物資産と考えることもできる。ここでは、住宅を資産と考えて、住宅購入を貯蓄としておくこととしよう。(これに賛成できず、消費財と考える人は、貯蓄から外してもかまわない。しかし、統計上は、どちらにするか、はっきりさせることが重要。)
 一方、見方を変えると、所得は、消費財の購入のために支出されるが、同時に生産財(資本財ともいう)の購入のためにも支出される。この資本財を I で示そう。すると、所得はCと I の購入のために支出されたことになる。このCと I は、それぞれ消費需要(消費財に対する需要)と投資需要(生産財に対する需要)を構成する。そして社会全体では、それぞれの需要に応じて生産が行われ、最終的にはその生産物を販売することによって所得が生まれる。したがって、結局、国民生産=国民所得は消費需要と投資需要の合計、または消費財Cと生産財 I の合計に等しくなるはずである。それを式で示すと、
  Y=C+I                                 (2) 

 *厳密にいうと、消費需要と消費財の生産、投資需要と生産財の生産には、わずかなズレがある。それは在庫の変動に等しい。例えば企業は100の需要を見込んで生産するかもしれないが、そのうち95しか販売されなければ、5が在庫の増加に等しくなる。しかし、企業は短期的には需要を見込んで生産しているとしても、より長期的には在庫変動を通して実際の需要の変動を把握している。したがって在庫が大きく変動することはないので、さしあたり(在庫変動が問題となる局面を除くと)需要=生産と考えても、当面は差し支えない。

 ところで、上の(1)と(2)は、社会全体では、貯蓄と投資が等しくなることを示している。(ただし、ここで述べられている貯蓄と投資は、一定期間中に実現されるフローの量である。後に言及するストック(一時点における量)と区別しなければならない。)
  S=I    (社会全体で成立する等式)
 
 もちろん、個々の経済主体に関する限り、この等式は成立しない。このことは明白である。例えばある年に100万円を貯蓄した人は必ず100万円を投資したことになるということはない。ただし、ここで投資というのは、企業の行う設備投資(機械や設備の購入・設置)のことであり、株式や国債の購入、預金などはそこに含まれない。
 また社会全体でも、事前の期待に関する限り、貯蓄と投資が一致することはないであろう。あくまで一致するのは事後的な結果である。
 しかし、社会全体について、かつ事後的にであれ、この等式は一体どうして成立するのだろうか? 
 その理由に関して、現代の経済学者は2つのグループに分かれる。
 1)貯蓄が投資を決めると考える。
 2)投資が貯蓄を決めると考える。

 このうちどれが正しいのかを示すために、いくつかのことを考えよう。
 まずまだあまり経済学を勉強したことのない人は、1)が正しいと考えるかもしれない。というのは、私たちの日常の常識では、まずお金が先にあって、次にそれを支出するからである。そこで、上の問題についても、お金(貯蓄)があり、次にそこから支出(投資)がなされると考える。これで間違いない、というわけである。
 しかし、結論を急がないで、もっと深く考えてみよう。
 実は、ある時点でお金を持っていなくても、次の時点で支出することは可能である。例えば銀行から借用することができれば、その借用資金(借金)を使って支出することができる。あるいは企業のように新規の社債や株式を発行し貨幣=資金を調達しても支出が可能となる。あるいはまた自分が所有している株式や国債、土地などの資産を売却したり、自分の預金を引き出してお金(現金)を作れば、何か(消費財や生産財)を買うことができる。これらの場合には、貯蓄を取り崩すので、経済学的に言えば、マイナスの貯蓄をしたことになる。ただし、この場合、株式や国債を購入した人や、預金を引き出された銀行は貯蓄をしたことになり、全体としては過去に行われた貯蓄のストックの金額は変化しない。
 ともかく、人々はある時点で一定の(過去になされた)貯蓄のストックを有しており、その一部を利用して消費財や生産財を購入するための支出を行うことができる。そして、その金額は、その後の(つまり将来の)一定期間(週、月、年)中に実現されるであろう所得に制約されているわけではない。
 むしろ経済の実相は、こうである。まず人々によって独立的に(外生的に)支出(消費支出、投資支出)が行われると、それに応じて有効需要(消費需要と投資需要)が生じ、(上述のように)企業はその需要に応じて生産を決定する。またその生産物は販売されて所得を生み出す。
 このように考えると、正しいのはむしろ2)の見解だということになる。
 このことが正しいのは、景気変動(不況や好況)の存在という事実によっても示される。

 2)の見解による景気変動の説明
 人々がその時々の時点で決定する消費需要の変化によって説明される。多くの場合、人々は前期に行われた消費支出の金額を基準にして時期の消費支出を決めるであろう。それはルーティン的なものであるということができる。もちろん、その時々の経済社会の条件・社会的雰囲気も影響する。高度成長の時期であれば、労働生産性の上昇に応じて、賃金が上昇していたので、人は前期よりも消費を増やそうとするであろう。しかし、現在のように労働生産性が上昇しても賃金の引き上げが実現されない時期には、人は消費を増やさない・抑制しようとするであろう。
 歴史的に有名な事例を持ち出せば、次のようなこともある。1929年末〜1932年のように不況が発生し、人々が不安に陥ったとき、多くの人が共通して取る行為は、貯蓄を殖やそうとして消費支出を削るというものである。この場合、最初の短い期間においては、人々は増加した貯蓄を実現することができるかもしれない。しかし、多くの人が消費支出を減らすとともに景気後退が感じられるようにようになり、企業が生産力を増強させるための投資を縮減しはじめるとともに、生産財の生産も縮小される。これによって総需要(消費需要+投資需要)が低下し、不況のいっそうの深化と失業の拡大がもたらされる。その結果、多くの人が当初意図した貯蓄の増加もしだいに実現できなくなる。
 このように個々の企業が(また社会全体の企業も)将来の期待利潤やリスクを考慮して、投資を決定することは、ケインズやカレツキの発見した事実であるが、このような事情は経済社会にある種の「不確実性」をもたらす。
 
 これと反対に、1)のように、貯蓄が投資を決定すると考えるのは新古典派に特有な思想であるが、それによって景気循環を説明することは絶望的に不可能となる。
 そもそも新古典派の経済理論には、本来、市場経済が景気後退や失業をもたらすという思想自体が欠如している。事実、彼らの見解では、貯蓄が投資を決定するが、その貯蓄を決定するのは、マーシャリアン・クロスである。それによれば、貨幣市場では、右上がりの貨幣供給曲線と右下がりの貨幣需要があり、その交点で利子率と貯蓄量が決定されるとされている。言うまでもなく、その利子率と貯蓄量は市場を均衡させる量である。
 したがって、ここでも不均衡は、もっぱら市場外部の要因によって説明されることとなる。曰く、貨幣供給を司る金融政策や財政政策の誤り、労働者の高賃金、その元となっている労働者保護立法の誤り、等々である。

 このように述べてくれば、貯蓄が投資を決定するという思想は、「供給がそれ自らの需要を創出する」という「セイ法則」の亜種であることがわかるであろう。ただし、この婆には供給とは貯蓄(資金)の供給であり、需要とは投資需要のことである、が。
 ともあれ、新古典派はここでも貯蓄の供給側から物事を説き、例によって富裕者を優遇し、反対に労働側に対する集中砲火を浴びせることになる。富裕者の優遇策とは、富裕者減税、法人税率の引下げ、「株主価値」の喧伝(と賃金の抑制)等々であることは繰り返すまでもないであろう。

2013年12月7日土曜日

社会科学の裸の王様・経済学 7 合理的な馬鹿

 アマーティア・センの著作に『合理的な馬鹿』というものがあります。それをタイトルに使いましたが、ここでの内容はセンの解説ではありません。

 さて、学生の頃、消費者選択の理論というものを学ばされました。先日の演習のときに学生の一人に聴いたところでは、現在でも教えているようです。

 ところがこれがいろいろな意味で合理的な馬鹿げた「理論」です。何故か?
 詳しくは説明しませんが、この理論では、2財(例えばリンゴとミカン)を取り上げ、
限られた予算制約の中でどのような選択が最適(個人的な効用を極大化する)かを説明するものです。2年生くらいの学生には結構難しく感じるようです。

 さて、この理論のどこが馬鹿げているのでしょうか?
 普通教室では(教科書でも同じです)、2財を素材とした説明が終わったあと、教師が「それをN財に拡張します。それでもこの理論は成立します」と宣言して終わります。すなおな学生はなるほどと納得するでしょう。
 しかし、N財とは何でしょうか? 現実の経済社会では商品の種類は数え方にもよりますが、何万種類にもなります。ちょっとしたコンビニでも数千種類はあるといわれています。いまここでは、かなり少なめに2000種類としましょう。つまり、N=2000です。
 この場合、人間の頭脳は「消費者選択の理論」によると、どれほどの回数の計算を行わなければならないでしょうか? 数学の「計算量の理論」によると、その回数Cは、少なくとも2^2000以上になります。
 「あっ、そっ」と言って終わりにする人もいるかもしれませんが、この2の2000乗という数字がどれほど大きいのか調べてみます。
 2の4乗は16(>10)ですから、C>10^500。つまり10の500乗よりはるかに大きくなります。では、10の500乗とはどれほどの数でしょうか? お分かりのように、それは十進法で500桁の数です。1の後にゼロが500個並び、気の遠くなるような数です。
 それでは、それだけの回数の計算をコンピューターで行ったらどれほどの時間が必要でしょうか? 現在の超高性能コンピューターどころか、究極の超高速演算処理を可能とするコンピュータで計算しても、どう少なく見積もっても億年単位の時間が必要となるようです。(この辺りは理系の人の知識をかりなければ分かりませんが、幸い数学をやっていた息子に少し知識がありました。)
 
 「人間は合理的な行動を取る」と教えながら、実際にはこんな馬鹿なことを学生に教えるているのです。このこと自体が人間が(いや新古典派の経済学者が)いかに情報を正確に得ておらず、現実離れした不合理な行動をとっているかを如実に示しています。

 ちなみに、私などはスーパーで商品を選ぶととき、そんな計算などせずに、ルーティン的に、つまりハビット(慣習的行動)にしたがって適当に選んでいます。ヒューリスティックにと言いますが、いくつかの行動(商品選択)パターンは決まっていて、ただ値段や嗜好、大きさ、季節などのによって多少変えているに過ぎません。ある程度は合理的に行動しているかもしれまんせんが、かなり不合理とも言えます。
 ところで、消費者選択の理論を教えている人は、ちゃんとすごい回数の計算をしているんでしょうね。さもなければ「罰せられはしないけれど欺瞞」(innocent fraud)を働いていることになりますよ。


社会科学の裸の王様・経済学 6 「セイ法則」の欺瞞

 実は、このブログ<社会科学の裸の王様・経済学>は、Steve Keenという経済学者の著書のタイトルを拝借したものです。彼の書いた著書は、いろんな点で面白いものとなっており、このシリーズでも機会を見つけて紹介したいと考えています。

 さて新古典派批判というある意味ではやりがいのない作業を遂行する上で、「セイ法則」ということについて触れない訳にはいきません。セイというのは、19世紀のフランスの経済学者の名前(Jean Baptist Say)ですが、その名を冠した「法則」は決して法則といえない代物です。このシリーズの第1回に紹介した引用を参照してください。「原理」と呼ばれるものは、ほとんどの場合、当該社会で力のある富裕者に役立つときに「原理」の名前をつけられるということでしたが、この原理もその通りです。

 セイ法則は、「供給はそれ自らの需要を創り出す」という風に定式化されます。それは、<需要側を説明する必要はない。何故ならば、供給側が説明できれば、自動的に需要側が説明できるのだから。重要なのは供給側を説明することにある>ということを含意しています。
 
 さて、この「原理」は、長い間多くの人々を苦しめてきたものあり、また現在でも多くの人を苦しめ、悲惨な結果をもたらしています。このようにいうと、あまり経済学になじみのない多くの人は、「えっ、どうして」と尋ねたくなるかもしれません。

 その答えは簡単です。
 例えば1990年代初頭以降の日本のように、経済がスランプに陥り、失業率が上昇してきたような場合を考えてください。
 このとき、供給側(サプライサイド)を強調する新古典派の経済学者は、次のように言います。
 ・企業がやる気を出すために、法人税をはじめとする企業負担を減税しよう。
 ・富裕者が投資できるように、富裕者を中心に減税しよう。
 ・企業が安心して労働者を雇えるように、いつでも簡単に解雇できるようにしよう。
 ・労働条件を引き下げれば、費用(人件費)が下がり、企業は生産を拡大する。
 ・労働条件の引下げを実現するために、労働組合を弱体化させよう。
 ・労働条件の引下げを実現するために、雇用を柔軟化しよう。
 ・最低賃金を引き下げよう。
 ・失業率は高いほうが、労働者が競争するからいいんじゃないか?
 ・能力給によって労働者を競争させると効率があがる。
 ・失業保険制度なんかないほうが、労働者が企業のために頑張るからよい。
 ・グローバル化の時代には、労働条件を下げないならば、企業は外部に逃げますよ。
 ・投資家の利益=株主価値をあげないと投資が増えません。そのためには賃金を引き下げてでも、利潤(株主への配当)を増やしましょう。
 ・高い給与を得ている公務員を減らして、彼らの仕事を民間企業に委ね、仕事は低賃金の労働者の行う外注に出しましょう。

 これは私が勝手に考えたのではなく、すべて新古典派の系列のエコノミストや政治家などが発した発言をまとめたものです。
 いやはや、言いたい放題です。まだ米ソ冷戦の昔、「資本主義の黄金時代」と呼ばれた時代には口が裂けても言えなかったような内容ですが、現在は「供給側」(実は企業側)のためなら何でもありといったところです。

 ケインズやカレツキは、こうした供給側の経済学が一見すると正しそうに見えながら、誤っていることを指摘した経済学者でした。その理論が「有効需要」の原理です。彼らは、供給側の要因が需要側の要因と関連しながらも、両者はまったく異なることを発見しました。
 「需要と供給とはまったく別の要因によって説明しなければならない。」「現代資本主義のスランプは、有効需要の問題から生じている。」これが正しい命題です。(この命題のもっと詳しい意味は後で説明することにします。)
 しかし、新古典派は、「セイ法則」にしがみつきます。これが崩壊すると、彼らの経済学の全構築物が崩れるからです。それだけではありません。新古典派の経済学者にとってケインズやカレツキはきわめて邪魔な存在となりました。ここに「ケインズ殺し」(ケインズは死んだ)の動機が生まれました。
 そして、そのときは1970年代にやって来ました。

社会科学の裸の王様・経済学 5 市場の欠陥

 現代経済は「市場経済」と呼ばれています。この市場(market)と呼ばれる制度は必要なものでしょうか? 私は必要な制度であると考えています。
 しかし、必要だということと完全、完璧ということは同義ではありません。例えば親にとって子供は大切な宝ですが、子供がすばらしい人格を兼ね備えているとは限りません。
 市場は公正な制度であるとしばしば考えられ、そう言われていますが、実際には様々な欠点・欠陥を備えています。
 市場はなぜ公正な制度だと考えられているのでしょうか? それは多くの人にとっては、単にそのように喧伝されているから、そう思っているに過ぎません。では、そのように語る人(経済学者や政治家)はどうしてそのように言うのでしょうか?
 新古典派の経済学者は、その教科書的な、かつ最も抽象的な理論においては、市場に参加するプレイヤーたちが多数の等しい力(つまり購買力や供給能力、つまりところは貨幣)を持つ同権的な諸個人からなることを前提として議論を組み立てます。彼らは完全に自由に市場で競争するということが仮定されています。
 つまり最初から公正性が前提されているのですから、そこから導かれる結論が公正性であることは説明する必要もありません。

 しかしながら、現実の経済社会では、市場はそのような同権的な諸個人による財とサービスの交換の場でしょうか? まったく違います。
 ちょっと観察しただけでわかるように、市場は、所有する貨幣量だけで見ても、様々な力(power, Kraft)を有する人々(個人、法人)の交換の場となっています。例えば開発途上国の第一次産品(commodities)の取引をめぐっては、一方の極に分散した小規模な生産者(小農)たちがおり、他方の極に少数の巨大な多国籍企業が存在しています。その間で取引が行われるとき、前者が圧倒的に不利な条件・弱い立場に置かれていることは一目瞭然です。経済史を見ると、19世紀から現在まで工業製品に対する第一次産品の相対価格(交易条件)はずっと低下してきましたが、その背景にはこのような力関係がありました。その結果、途上国の商品は買いたたかれ、その生産者たちは低所得の状態に置かれますが、巨大商社は巨額の利益を上げることができました。フェアー・トレード(公正貿易)が叫ばれるのは、このような不公正を是正しようとするからに他なりません。
 力の差は、途上国と先進国の間に存在するだけではありません。それぞれの国内でも、労働市場の場合に特に顕著となります。
 労働市場では、一方に労働者(雇われるようとする個々人)がおり、他方に企業(雇い主)が存在します。この両者の関係は決して対称的ではありません。特に失業率が高い場合に、労働者の立場は非常に弱くなり、企業の立場はきわめて強くなります。どうしてか? 労働者は雇ってもらえない場合、所得を得ることができなくなります。彼らは企業の提供した労働条件を受け入れるしかありません。これに対して企業は、「君の代わりに働きたい人はいくらでもいるんだ」という態度を取ることができます。現代のブラック企業はこのような台詞で従業員を脅しているようですが、それはブラック企業に限るわけではありません。
 現実の経済社会をよく観察していたアダム・スミス(『諸国民の富』)は、このことをよく知っていました。彼は18世紀のスコットランドやイングランドの労使関係について興味深い詳しい記述をしています。18世紀といえば、ちょうど産業革命が始まった頃であり、まだ現代の巨大企業が登場するはるか以前です。(新古典派の経済学者は、都合の悪いことは隠そうとする習性を持つので、是非読んでみることが必要です。)
 19世紀末にも同じことが観察されます。ここでは特に1873年以降の大不況の時期のことを例に説明しましょう。1890年代まで続くこの「大不況」(the Great Depression)は経済史上よく知られている出来事です。最近は、この大不況の時期に実質GDPが成長していることをもって大不況ではなかったという見解(有斐閣の『西欧経済史』など)も出ていますが、それはかなり現実を無視した誤った見解です。
 まず失業率がきわめて高い水準に達していたことに注意しなければなりません。景気をGDPの量や成長率だけで判断してはいけません。またこの時期は独占的な大企業が成立しつつある時期でしたが、これらの大企業は高い失業率の条件下で、賃金の引き上げを抑制することに成功していました。つまり、賃金圧縮が生じ、賃金シェアーが大幅に低下していたのがこの時期のもう一つの特徴です。こうした賃金シェアーの低下は、大衆消費財の市場の不況を招き、結局は国内市場を停滞させます。ここでは詳しく述べませんが、この時期に英国やドイツなどが製品の販路を輸出に求めて対外進出を行おうとしますが、その背景には以上のことがあったと考えられます(ストレーチー『現代資本主義論』)。
 
 確かに第二次世界大戦後の「資本主義の黄金時代」にフォーディズム(妥協的労使関係)の下で、こうした関係にはいったん終止符が打たれ、完全雇用政策の下で労働生産性の上昇に応じた賃金引き上げが実現するようになりました。しかし、1980年前後に始まる新自由主義政策の下で、また高失業率とグローバル化の環境の下で、ふたたび企業と労働者の力関係に大きな変化が生じました。
 米国では、1973年から現在までに労働生産性が2倍以上に伸びたのに実質賃金(中位)が7%も低下したことはこれまでも述べた通りです。

 結論しましょう。
 経済学の教科書の中の虚構の市場はどうなっているかに関係なく、現実の市場はきわめていびつな構造をしています。そのことを知ってか知らずにか、市場原理主義を喧伝するのはジョン・K・ガルブレイスのいう「欺瞞」(fraud)に他なりません。

 またそのような「自由市場」にすべてを委ねてしまえば、「悲惨な結果」が招来されることも言うまでもありません。諸個人の権利を守るためにも市場にすべてを委ねるのではなく、公正な社会的ルール(労働保護立法など)を作ることが必要不可欠となる理由がここにあります。

社会科学の裸の王様・経済学 4 前提の非現実性と理論の崩壊

 実は、どんなにつまらない事に思えても、「規模に関する収穫逓減」と「限界効用の逓減」(それに後で触れる「労働の限界不効用の逓増」)といった前提が否定されると、新古典派の理論体系はガラガラと崩壊してしまいます。つまり、これらの諸前提は、それほど重要なものなのです。

 そこで、新古典派の経済学者はそれを守ろうとして必死に努力します。
 あるときは批判を無視します。そして、批判される心配がないところ(おとなしい学生のいる教室、批判者のいないマスコミ、教科書の中など)では、その見解を主張します。
 また例えば西村和雄氏のように、「新古典派を捨てたら、経済学は科学でなくなる」と言う人もいます。(『複雑系入門』、NTT出版、1998年)
 しかし、彼の言う「科学」とは一体なんでしょうか?
 実は、そのことを理解するためには次のような歴史を知る必要があります。
 その昔、経済学は political economyと呼ばれていました。これは古代ギリシャのアリストテレスのようにオイコス(イエ)を営むための家政学ではなく、近代の市民社会=政治的社会全体の経済学であるという意味合いを持っていました。しかし、19世紀末に経済学はeconomics になりました。この言葉の語尾(cs)を見てください。これは物理学(phisics)や数学(mathematics)を意識して作られたことを暗示しています。
 古典物理学では、距離、速度、加速度、質量、温度、抵抗、電流、電圧、などが計測され、数学を使ってそれらの関係、つまり諸法則が示されます。経済学者がそれにあこがれをいだき、生産量、価格、所得、労働量、資本などの諸量の関係を数学的に取り扱いたいと熱望したふしがあります。しかも、その際、彼らは社会法則を自然法則と同じものとして扱いたいと欲したふしがあります。それがアダム・スミスなどの古典派経済学者と19世紀以降の新古典派の経済学者の大きな相違です。新古典派は、資本主義経済の中で人々が行う諸行動を自然法則として記述しようとしたのです。
 しかも、ここにもう一つ重要な特徴点が加わります。それは資本主義経済を歴史的なものとしてではなく、自然的なものとする限り、彼らは現実の「企業家経済」を容認する道を選ぶしかなかったことです。それはとりもなおさず、資本主義経済の支配的階層・階級の利害を容認することを意味します。さらに、彼らが教える相手(学生)は、富裕者階級出身の子弟だったことも見逃せません。
 マーシャルのように「暖かい心と冷静な頭脳」を持つように言い、ロンドンのイーストエンドの貧困に眼を向けさせようとした良心的な学者もいましたが、そのような人は少数派だったに過ぎません。経済学の堕落と、「裸の王様」化が進展しました。
 
 しかし、イギリス国内では在野の経済学者として資本主義の歴史性を主張したマルクスがおり、その社会的影響力は決して無視できませんでした。またマルクス以外にもウエッブ夫妻のような人々(産業民主制にもとづく社会改良派)がいました。新古典派は、それらの人々からの批判に常にさらされていました。20世紀前半にケインズや、カレツキ、ロビンソン、カルドアなどが現れる土壌が存在したわけです。

 さて、どんなに高等数学を使い、現代の経済を自然法則的に扱うことができるというポーズをとったところで、それの扱う対象が現実離れした「仮想空間」である限り、経済学は「裸の王様」であることを免れません。近代の科学、特に自然科学は、物理学であれ化学であれ、現実に即した諸前提から出発して学問体系を組み立てています。なぜ、経済学だけ現実離れした諸前提にもとづいて理論を組み立てることが許されるのでしょうか。

 「科学」を自称する新古典派経済学の「裸の王様」ぶりをさらにみてゆくことにします。

社会科学の裸の王様・経済学 3 収穫法則の誤り

 規模に関する収穫逓減の間違い

 「規模に関する収穫逓減」が間違いであることは、1920年代のイギリスではじめて明らかにされました。それ以来現在に至るまで、米国や日本で行われた企業調査によって同じことが再三確認されてきました。

 その前に「規模に関する収穫逓減」とは何かを説明します。
 もの(財・サービス)を生産(産出)するとき、ものの投入が必要となることは言うまでもありません。また労働力の投入も必要となります。もちろん、これらの投入には費用がかかります。そして普通は産出量の増加とともに費用も増加します。この費用はどのように増加するのでしょうか?
 まず産出するには、産出量がゼロでも必要な固定費が必要となります。ここでは簡単のため機械・設備(資本装備)の費用と考えておきます。次に産出量に比例的に増えてゆく費用、すなわち原材料費・燃料費や人件費(賃金コスト)があります。
 ここで重要となるのは、産出量が1単位づつ増えてゆくときの、その1単位あたりの限界費用(最後の1単位を産出するのにかかる費用)と平均費用(全産出物の平均費用)です。常識的には、限界費用は産出物を1単位生産するのに必要な原材料費・燃料費・人件費ですから一定ですが、これに対して平均費用はしだいに低下(逓減)してゆくと考えられます(1単位あたりの固定費が低下するためです)。これを費用の増加と産出量の関係から見てゆくと、「規模に関する収穫逓増」が成立しそうです。
 
 もう少し詳しく検討します。
 「規模に関する収穫逓増」は、どこまでも成立するでしょうか? 基本的・本質的には、当該企業の生産能力に達するまでは、という限定が必要です。しかし、ほとんどの企業では、エンジニアは需要をかなり超える生産能力を想定してプラントを設計しているため、生産能力以下のところで生産を行っていることが分かっています。あるいは、現実の生産量は有効需要によって決まるが、その生産量=有効需要は生産能力以下のところで決まっているということができます。
 したがって結論すると、通常の場合、規模に関する収穫逓増(費用の一定または逓減)が成立しており、新古典派の想定するような事態は見られません。
 新古典派の想定するような事態(収穫逓減、費用逓増)は、企業が生産能力を超えて生産を行おうとする場合に生じますが、そのような事態はきわめて例外的であり、新古典派でさえ想定するところではありません。
 
 1920年代に実施されたオックスフォード経済調査は、明確に新古典派の想定を非現実的として却下していたのです。しかも、その後も同様な調査が実施されましたが、いずれも同じ結果を示しています。
 1950年代に実施された調査(Eiteman & Guthrie)では、調査されたある経営者は新古典派の収穫逓減・費用逓減の想定に接して次のように言ったと言われています。「正気な経済学者」(sane economists)にして何故そのような無意味な(nonsense)ことを考えのか、と。

 1990年代のS.Blinderの企業調査(Asking about Prices, 他)も同じ結果を示していますが、ここでは詳細は省略します。興味のある人は、読んでみてください。(ちなみに、そのような優れた研究に対して、新古典派の面々は無視するのが通例であり、この場合もそうでした。このことは、引用される回数で研究者の評価をすることが馬鹿げていることを示しています。この点については、複雑系で有名な金子邦夫氏の著書も参考に。)

 それでは、もう一つの「限界効用の逓減」のほうはどうでしょうか?
 こちらはカール・ポッパー先生の「反証不可能性」の検定にひっかかります。
 もし反証可能性があるというひとがいたら、是非、効用を測定し、限界効用が逓減したという測定結果を持って来て欲しいところですが、これまで誰一人として限界効用を(もちろん効用も)測定した人はいません。

 これに対して、例えばリンゴを食べるとき、最初の一口は美味しいが、食べ続けていると美味しくなくなるという大学教授の御仁がいました。それはたしかにそうでしょう。しかし、それと限界効用の逓減はどのように関係するのでしょうか?
 私などは、毎年12月に知人から沢山のリンゴを送ってもらっていますが、毎日、家族で1、2個づつ食べており、毎日同じように美味しくいただいています。その時の気分によって美味しさの感じが変化するかもしれませんが、ついぞ美味しさが低下したと感じたことはありません。それとも新古典派の経済学者の間では、リンゴは一度に沢山食べなければならないという決まりがあるのでしょうか? もしあるとしたならば、限界効用を測定するためのルールや根拠を是非詳しく教えて欲しいものです。

 子供騙しの稚拙な「理論」への執着。それはまさに「裸の王様」に他なりません。

社会科学の裸の王様・経済学 2 富裕者に奉仕する原理


 経済学者は、自分たちの考えや理論を「科学的」であり、「価値自由」だと宣伝してきました。しかし、事実はまったく異なります。ここで「価値自由」というのは、19世紀末〜20世紀初頭のドイツを代表する社会科学者マックス・ヴェーバーの言葉であり、各人の持つ価値(目標、目的、理想、理念、倫理感)にかかわりなく客観的な妥当性を有することをいいます。 しかし、経済学、特に米国の主流派、つまり新古典派(新古典派総合、ニューケインジアンを含む)は「科学」と言える状態からはほど遠く、「価値自由」でもありません。以下では、そのことを示してゆきたいと思います。
 むしろ、それは著しくイデオロギー的であり、その結論は、ほとんどいつも、富裕者、地主、ボス、資本家、経営者の耳に心地よく響くものばかりです。
 残念ながら、このことは私の独創的発見ではありません。優れた先人たちが見抜いています。
 まずは昔のロシアの経済学者、クロポトキンの言葉から、
 
 「経済学は、社会で生じていることをいつも支配階級の利益に沿って述べ、かつそれらを正当化することだけを行ってきました。・・・資本家に有利なことを発見すると、経済学はそれを原理として打ち立てました。(クロポトキン伯爵『パンの征服』)

 次にアメリカ合衆国の20世紀最大の経済学者、ジョン・K・ガルブレイスから、


 「新古典派経済学は、次の双子の前提に要約される。貧者は多く支払われすぎているために懸命に働かず、富者は十分に支払われていないために懸命に働かない。」

 これらの言葉は、例えば私のこれまでの「失業」に関するブログを読んだことのある人には、よく理解していただけると思いますが、ここで簡単にそれをおさらいをしておきましょう。
 新古典派の労働市場論では、失業(ただし、彼らの議論では、すべての失業は自発的失業、つまり労働者が自発的に選んだ失業です)は、実質賃金が均衡水準より高くなっているために生じるとされています。そこで失業をなくすためには、実質賃金を引き下げるべきということになります。また、このような結論を導きだすために、マーシャリアン・クロス、つまり右上がりの労働供給曲線と右下がりの労働需要曲線が引かれ、交点=均衡点が存在することが前提とされます。

 この雇用と失業を説明する「理論」なども、上のクロポトキンや、ガルブレイスの名言にぴったりの事例です。
 もちろん、新古典派の労働市場論が客観的に妥当(つまり科学的)で、「価値自由」に成立する理論であれば、脱帽せざるを得ません。しかし、本当にそうなのでしょうか?
 決してそうではありません。
 そのように考えた優れた経済学者の一人がジョン・M・ケインズでした。彼は、その主著『雇用、利子および貨幣の一般理論」(1936年)を次のような書き出しで始めています。

 「・・・古典派理論の想定する特殊な事例はあいにくわれわれが現実に生活を営んでいる経済社会の実相を映すものではない。それゆえ古典派の教えを経験的事実に適用しようとするならば、その教えはあらぬ方向へ人々を導き、悲惨な結果を招来することになろう。」(岩波文庫版、間宮陽介訳、5ページ)
 *ケインズの用語法では、「古典派」は新古典派を意味します。

 実際、ケインズのいう「悲惨な結果」がグローバルな規模で生じています。それは1970年代以降、ケインズ批判の大合唱の中で新古典派が復活し、新古典派の教えが経験的事実に適用されるようになってきたからに他なりません。新古典派にとってケインズは憎い敵であり、それゆえしばしば新古典派による「ケインズ殺し」(ケインズは死んだ!)が行われてきました。彼らのほとんどは、ケインズなど読んだこともない人たちです。
 ちょっと先走ってしまいましたが、新古典派は何故誤りをおかしているのに自ら気づかない「裸の王様」だと言えるのでしょうか? 
 これはこのシリーズ全体の主題になりますが、今日は差し当たり、「反証可能性」の問題をあげておきます。

 「反証可能性」とは、カール・ポッパーという哲学者が、実証的な科学の条件として持ち出して来たものです。彼の見解では、科学が科学といいうるためには、「反証可能性」がないとならないとされます。例えばある理論があることを前提として組み立てられているとします。この場合、その前提が正しいか誤っているかを経験的な事実に即して検証することができなければ、したがって反証する可能性がなければ、そもそも経験科学と言えず、単なる形而上学または信念、信仰、教義、等々に過ぎないということになります。
 この見解は、もし反証可能性を持ち、しかも反証されたならば、その理論は否定されるということを意味します。(そうですよね、ポッパーさん。そうでなければ、反証可能性の意味がありません。)
 実になるほどと、うなづける意見です。
 そこでそれを新古典派の経済学にあてはめてみましょう。
 ここでは、マーシャリアン・クロスのうち、商品価格の決定を説明する商品市場論をとりあげましょう。
 この市場論でも、商品の供給曲線SSは右上がり、商品に対する需要曲線DDは右下がりに描かれています。そして交点=均衡点で、価格と量とが同時決定されます。多くの人が高校の政治経済の教科書等で一度は見たことがあるでしょう。
 しかし、私は中学生、また高校生のときから、この図をみるたびに違和感を感じてきました。どうしてでしょうか? その理由は2つあります。一つは、価格設定は人々=生産者の所得に関係していることに気づいていましたが、この図は生産量や所得分配の問題にいっさい触れていません。もう一つは、それに関係しますが、この図を本当に具体的に描けるのだろうかという疑問です。具体的に描くというのは、例えば米ならば、単位(例えば10kg)あたりの価格の変化(例えば0円→5,000円)に応じて需要量、供給量をきちんと示すことができるのだろうか、という素朴な疑問です。
 私は、その後も現在まで「需要・供給の抽象図」を見たことは何度もありますが、一度も、具体的な数値入りの図を見たことはありません。そうです。世界中の大学・経済学部で何億回となくこの図が描かれるにもかかわらず、実際の図が描かれたことはまったくないのです。
 その理由は明白です。描けないからです。それを描くためには、社会実験が必要になります。つまり、ある時間(年月日時)に10kg千円の価格を設定したとき、供給量、需要量がどうなるかを計測します。次にまた別の時間に(いつ?)10kg1100円の価格を設定したときどうなるかを計測します。次に・・・。
 社会実験ができず、具体図を描けない。それは反証不可能ということではないでしょうか、ポッパーさん? 
 しかし、私がこのように言っても、なんだかんだと言って雑音が聞こえてきそうです。
 
 他に調べる方法はないでしょうか? 高校生時代の私にはとても分かりませんでしたが、なくもありません。
 その方法とは、右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線の「根拠」を新古典派の人々に語ってもらい、それを検証することです。
 現在までに新古典派の経済学者が示した根拠は、次の通りです。
 1)右上がりの供給曲線→「収穫に関する費用逓増」
 2)右下がりの需要曲線→「限界効用の逓減」

 そこで、次にこれらが検証可能(したがって反証可能)なのか、また検証可能な場合、それは経験的事実に照らして正しいのかが問題となります。
 しかし、結論的に言うと、1)収穫逓増は、経験的事実に照らして誤り(反証された)ことが明らかであり、2)「限界効用の逓減」は反証不可能です。

 それを次回に示します。
  

社会科学の裸の王様・経済学 1 はじめに

 アダム・スミスの『諸国民の富』(1776年)の出版から237年。この間、様々な経済学が構築されてきました。
 しかし、経済学を研究し、教えている者がこう書くと、自らの営業に対する妨害のような気持ちもしますが、実は現在大学で教えられている経済学、社会で流通している経済学の理論にはきわめて大きな(致命的ともいえる大きな)問題、欠陥があります。もちろん多くの優れた経済学者がそのことに気づいており、言及してきました。例えばケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)は、当時の主流派=(新)古典派の経済学が「現実離れした想定」に依拠しており、したがってそれに沿って政策が実施されたならば、「悲惨な結果」がもたらされると述べることから始まっています。
 この欠陥は、現在でも取り除かれたとは到底言えません。
 もちろん理論には抽象性がつきものです。そして、抽象とは複雑な現実を単純化することですから、それにともなう問題があることは言うまでもありません。しかし、ここで取り上げようとしているのは、そのようなことではありません。しばしば理論が現実に反する仮定にもとづいて構築されているという点です。
 その欠陥とは何か?
 
 「経済学批判」と題して、なるべく一人よがりにならないように、著名な経済学者の発言を紹介しながら、問題点を順次検討してゆくことにします。
 もしかすると現在の若く純真な学生諸君にはショックを与えることになるかもしれません。しかし、私自身が若いときから騙されて来たという思いがあります。また「黒いカラスを黒いという」ことが学問を行っている者のはたすべき努めであると考え、あえて書くことにします。
 

2013年12月5日木曜日

失業率の上昇を説明する その8 カレツキの「政治的景気循環」

 カレツキの政治経済学 〜 企業家は完全雇用を好まない

 ケインズが20世紀の最も優れた経済学者であることは言うまでもありません。
 しかし、そのケインズの経済学の核心部分(有効需要の原理)を先取りした経済学者がいました。それがミハウ・カレツキです。しかし、カレツキは、ポーランド出身の経済学者であり、また初期の作品はポーランド語で発表されていたため、英語圏ではよく知られていませんでした。
 ケインズとカレツキには、出身と言語だけでなく、出発点となった経済学の面でも相違があります。簡単に言えば、ケインズはイギリスの(新)古典派経済学から出発し、新古典経済学を自己批判する形で経済学を革新しましたが、カレツキは、マルクス派の経済学から出発し、ケインズと同じ経済理論に到達しました。つまりカレツキは、最初から新古典派の経済学の外部にいたことになります。
 こうした相違は、ケインズとカレツキの2人が同じく「ポスト・ケインズ派」の祖と見なされているにもかかわらず、両者の経済学に微妙な相違をもたらしています。
 よく知られているように、ケインズは、新古典派経済学者を味方に引き込むために、彼らを完全に批判するのではなく、いくつかの点で大きな「譲歩」をしました。その一つは、「規模に関する収穫逓減」(費用の逓増)の前提です。これに対して、カレツキは、そのような妥協をしていません。彼は、ケインズが高く評価していたイタリア人の経済学者 P・スラッファにならって、収穫逓増(費用逓減)という現実に即した前提から出発しています。ケインズのこの妥協は後に新古典派からのケインズ経済学批判に絶好の機会を与えてしまったと考えられます。
 したがってポスト・ケインズ派の間では、多くの点でカレツキの経済学をケインズの経済学(『一般理論』など)より優れているという見解がかなり広まっています。
 イギリスやヨーロッパのポスト・ケインズ派(カルドア、ロビンソン、その他)の間で、高く評価されているのは、例えばカレツキの次のような側面です。ケインズと異なって、カレツキは、「マルクス問題」を高く評価していました。マルクス問題というのは、「企業家経済」(資本主義経済)における資本と賃労働の間の関係、特に所得分配をめぐる対立です。労働市場において、労働者は、企業家(資本=生産手段の所有者)に対して、弱い立場(弱い交渉力)に置かれています。また政治もそのような状態を認めていました。例えば、19世紀のイギリスの法律では、団結禁止法や主従法という法律によって、労働者は労働組合を組織して労働条件について団体交渉を行うことを禁止されていました(違反者は3ヶ月の禁固刑など)。
 労働者がその地位を高めたのは、政治的民主化が大きく進展した第二次世界大戦後のことであり、そのようなことは様々な労働保護立法(団結権の法認、団体交渉権の賦与など)、完全雇用政策によって実現しました。労働生産性の上昇に応じて実質賃金が引き上げられるようになり(労働生産性インデクス賃金体系)、そのようなシステムは後に「フォーディズム」という名称を得ました。特に戦後の諸政府が完全雇用政策を採用するようになったことは特筆すべきことです。何故ならば、労働側は、完全雇用(低失業)のときに賃金所得拡大のための力を得るからです。
 しかしながら、カレツキは、この歴史的妥協が資本主義体制を修正し、安定化に貢献することを見ていましたが、それと同時に企業者の嫌うところだということも見抜いていました。何故でしょうか? 完全雇用政策下での労使同権は、賃金(これは企業者にとっては費用であることに注意)を引き上げ、利潤シェアーの拡大を阻止するだけでなく、その低下を甘受しなければならなくなるかもしれないからです。
 
 事実、その時はもまなくやって来ました。
 1973年と1979年の石油危機によってインフレーションが輸入され、原油輸入国から巨額のオイルマネーが輸出国に流出し、原油輸入国が世界の可処分所得の4%にも相当する有効需要を失い、不況に陥ったとき、企業(利潤)と労働者(賃金)との所得分配をめぐる紛争が始まりました。それはフォーディズムの危機を意味しました。
 1979年にイギリスでサッチャー首相が、また米国でヴォルカーFRB議長が登場し、それぞれの方法で「マネタリズム政策」(デフレ政策)を実施したとき、石油危機による景気後退とはまったく区別される景気後退の波が世界を捉えました。大不況の中で、失業率は急上昇し、賃金引き上げの運動は抑圧されました。米国の航空管制官のストライキが弾圧され、イギリスの労働組合運動が弾圧されたのもこのときです。
 
 1979年の英米における出来事は、それまでの「完全雇用政策」が明示的に放棄されたことを示しています。そして高失業率の中で賃金(貨幣賃金・実質賃金)の引き上げはほとんど不可能となってゆきます。実際、米国の労働統計局の統計では、1973年をピークとして管理職を除く普通の従業員の平均賃金(中位)は増えないどころか、低下してゆき、現在までに7パーセントも低下したことが明らかにされています。それはまさしくカレツキの政治的景気循環の状態に他なりません。

 ところで、このことは現在という時期にとって何を意味するでしょか?
 「マルクス問題」の復活です。1950年代から1973年までの「資本主義の黄金時代」には、フォーディズムの下で労使同権が実現され、「マルクス問題」は解決されたかに見えました。皮肉にも、東西冷戦の下で社会主義に対する「資本主義の優位性」を示さなければならなかったことも「マルクス問題」を歴史の表から消すのに大きく貢献したということもできるでしょう。しかし、1980年代におけるレーガン・サッチャーの新自由主義政策の台頭、計画経済(国家社会主義)の崩壊を経て、いまやふたたび「マルクス問題」が再登場しています。

 米国では、以前、巨大企業のCEO(最高経営責任者)と普通の従業員との所得格差が40倍ほどと言われていました。しかし、今や両者の格差は、500倍とも1000倍とも言われています。低賃金労働が拡大し、それとともに貧困率も上昇してきました。これらのことが示すように、米国における”ウォール街を占拠せよ”運動も、英国における「暴動」も決して何の理由もなく生じたのではありません。

 これに対して、新古典派の理論家は言います。「失業がいやなら、低賃金を受け入れなさい」。「賃金の引き上げはインフレを加速します」。「企業の高い社会保障負担や高賃金は企業の海外への流出を招き、失業を拡大します。それでいいのですか』、と。しかし、これまでも述べたとおり、それこそが現実に反する言説、ケインズとカレツキが見事に批判した「現実離れした理論」に他なりません。