2015年8月31日月曜日

ハイエク:特定国の政府を憎むあまり、現実の経済社会を無視した哲学

 ハイエクという経済学者がかつていた。日本ではあまり知られていないかもしれないが、とにかく「自由市場」を擁護した経済学者である。ジョン・M・ケインズと論争したことで一番よく知られているといってよいかもしれない。また『隷従への道』の著者として知られ、さらにはジョン・ロックなどのイギリス個人主義の哲学を賛美する一方、ルソーなどの平等主義を説くフランスの哲学を嫌ったことでも知られているかもしれない。
 ある意味では首尾一貫していると言えるが、簡単に言えば、ソ連の計画経済は論外であり、ケインズなどのような国家(政府)の市場経済への介入や、ルソーの平等主義哲学さえ最終的にはきわめて抑圧的な全体主義にゆきつくと主張したのであるから、その意味では相当な人物である。1970年代にチリで民主的に誕生したアジェンデ政権をクーデターで倒し、新自由主義政策(市場原理主義にもとづく経済政策)を実施するように促したのも彼である。ハイエクにとっては矛盾ではなかったのかもしれないが、CIAと軍部による反民主的クーデターとその後のピノチェ(Pinochet)によるテロ支配(弾圧、虐殺)も、「自由市場」の実現のためには正当化されたのである。
 そのような訳で日本では(またかなりの程度に世界でも)ハイエクは評判がかんばしくない。というより嫌いな人が多い。実は私も大嫌いである。
 それでも一定の評価を与える人がいるので、黙っているわけにはいかない。

 さて、ハイエクの頭にあったのは、科学(学問)というよりも「信条」「信念」「思想」のようなものだったと思うので、誰が何と言おうと、彼はその態度を変えなかったと思われる。そしえ、そのことが示すように、ハイエクの立論には独断(定言的命題)がきわめて多い。
 その一つは、彼が現実の経済社会(資本主義)が「複雑な社会」であることを認めながら、他方では、個々人の「契約関係」=「自由市場」=「競争」の連鎖であることに固執したことである。彼は現実の経済社会を構成する主体、例えば企業が決して市場、契約というカテゴリーでは説明しきれないにもかかわらず、無理にそのように議論を持ってゆく。一例をあげよう。「複雑な社会に生きる人間には、彼にとって社会過程の盲目的な初力と見えるに違いないものに自己を適応させるか、もしくは上司の命令に従うかの二者択一しかありえない。・・・前者は彼に少なくとも何らかの選択の余地を残すものであるが、後者はまったくそれをまったく残さない。」
 ここで彼は後者(命令)を「中央集権的計画」ととらえ、前者を「市場の非人格的諸力」に自己を適応することと捉え、単純化した上で、後者を非難する。それは『全体主義」への隷従を導く、と。

 なるほど、と言いたいところだが、これはまったく事実に反する。そもそも企業を構成する人々は「自由市場」または契約関係の連鎖からなるものではない。企業は有機的な組織であり、そこにも「命令」はある。その命令に逆らうことが何を意味しているかは、一度でも企業で働いたことのある人なら分かるであろう。他方、ソ連のようなかなり抑圧的と見られていた体制にも、自己を適用させる余地はそれ相応にあった。それはアレック・ノーヴなどの西側における最高のソ連経済の研究者の書いたものを読めばわかる。
 
 結論しよう。ハイエク(そしてその弟子のフリードマン)の言うことに従ったらどうなるか? 人々は企業という別の巨大組織、ガルブレイスの言う官僚組織とその命令に隷従することを強要されるであろう。それはもう一つ別の「隷従への道」に他ならない。これは単なる可能性ではない。近年の世界の新自由主義、コーポラティズム(corporatte predation)はそのことが現実となりつつあることを示している。



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