2016年10月13日木曜日

「賃金デフレ」はなぜ日本だけで生じてきたのか? 1 

 1997年以降、日本はかなり激しい「賃金デフレーション」に見舞われてきた。
 簡単に言えば、これは、<賃金率の低下→雇用者所得の減少→消費支出=消費需要の縮小→景気悪化→賃金率の低下>という悪循環に陥ったことを示している。

 しかし、こうした「賃金デフレ」が見られたのは、少なくとも主要国の中では日本だけではなかっただろうか? 確かに米国でも賃金圧縮(wage squeeze)が生じ、その結果、賃金シェアーの低下が見られ、労働生産性が上昇しても実質賃金がほとんど上昇しないという現象が1970年代以降顕著となっていた。しかし、この場合でも、貨幣賃金(名目賃金)は上昇していた。もっとも米国では1980年代から今日に至るまでマイルドなインフレーション(消費者物価の上昇)が生じていたため、実質賃金がほとんど上がらなかったことも付け加えておかなければならない。

 本題に戻ろう。なぜ日本のみ貨幣(名目)賃金の低下を伴う「賃金デフレ」だったのか?
 結論的に言えば、それはジョン・ガルブレイスのいう「対抗力」(counterveiling power)が1990年代以降に労働側から失われてきたからである。

 対抗力とは何か?

 私たちの暮らしている経済社会(資本主義社会、企業者経済)では、ほとんどの人々は企業に雇われ、賃金所得を獲得し、それによって消費財・サービスを購入して生活している。つまり、企業とそれに雇われる従業員というのが現代社会の根本的なしくみである。これは今さら指摘するまでもない事実である。
 ところで、新古典派の教科書では、現代経済のプレーヤーは依然として個人であり、しかも「原子論的な個人」(atomized man)である。そこではすべてのプレーヤーが市場において平等に契約し、取引を行う。

 しかし、それは机上の理論(theory on paper)にすぎない。ソースティン・ヴェブレンも、ジョン・ケインズも、ジョン・ガルブレイスも、現実には大きな権力を持つ巨大企業が存在し、その前に諸個人は無力な存在にすぎないことを十分に理解していた。
 このことを例解する様々な歴史的事象があるが、ここでは先を急ぎ、一点を除いて、一切省略しよう。一点というのは、資本主義経済の歴史において、賃金の成長は常に労働生産性の成長にずっと遅れていたということである。もちろん、労働側の力が弱かったためである。これは、まだ資本主義経済が始まった場会の時期に経済学を作り出したアダム・スミスでさえ『諸国民の富』で指摘している重要なるポイントである。

 ところが、戦後の1950年代~1970年代の復興と成長の時代に、この傾向は弱められた。これは最近注目されたトマ・ピケティの『21世紀の資本』でも指摘されている事柄であるが、その背景には労働側が戦後大きな「対抗力」を得るに至っていたという歴史的な事情がある。それは様々な制度的要因に支えられていた。例えば民主化と普通選挙権による社会民主主義勢力やリベラル左派の台頭、労働保護立法、完全雇用政策、福祉国家的な諸制度の成立などである。


 だが、この傾向もすぐにふたたび逆転する。1980年代から現在に至るまで、アングロ・サクソン系諸国を筆頭とする「新自由主義」政策の再台頭によって、労働側の「対抗力」は著しく弱められてきた。ここまでは、主要国にほぼ共通する変化である。

 しかし、それではなぜ日本だけが「賃金デフレ」に見舞われたのか?
 これも本質的には制度的な要因によって説明される。

 まず「賃金デフレ」とはなっていない外国の場合、例えばドイツを例に取ろう。
 この国には、日本と異なって強力な労働組合組織がある。しかも、それは日本と異なって企業別組合ではなく、職能別・産業別の組合組織である。その中央組織は、現在でも賃金決定に関する力を有している。また法(EU指令も含めて)は、労働条件に関する労使の共同決定を義務づけている。
 ただし、ドイツの労働組合は企業に対して無制限に賃金の引き上げを強要するほどの力を持っていない。その力は次のような事情によって制約されている。
 その事情とは、ドイツが戦後一貫して「重商主義」の道を歩んできたことである。現在でもドイツは、GDPの8パーセントに等しい貿易黒字を実現している。もちろん、ドイツ企業がこのような行動を取ることができるのは、ドイツ以外の諸国(あるいは少なくともどこかの国)が貿易収支の赤字を経常することを前提としている。ともあれ、ドイツ経済は、この重商主義政策を可能とするために、ドイツ連邦銀行のある行動によって統制されている。簡単に言えば、ドイツ連邦銀行は、輸出超過を可能とするために常に「単位労働費用」を引き下げることを基準として、労働者の賃金要求が労働生産性の上昇を決して超えないように監視しており、もし労働組合の賃金要求がそれを超えるようであれば、金融引き締めを行い、輸出を減らし、輸出に依存しているドイツの企業が従業員を解雇するという「脅し」をかける。これは伝統的なドイツ連邦銀行の金融政策である。

 また英仏米には、それぞれに特有な制度的背景があるが、これについては後日機会をみて触れたい。

 これに対して、わが国ではどうだろうか?
 おそらく、私よりも実際に日本企業に雇われ、働いている人のほうが実感的によく知っていることが多いかもしれない。
 まず日本の労働組合が企業別組合であることは言うまでもない。これは企業と従業員との特別な関係を構成する。しかも、以前は行われていた「春闘」は力を失ってしまった。さらに1990年代初頭に始まった金融危機(バランスシート不況)が独特の条件(赤字補てんための利潤の利用法、投資、消費の動向など)を生み出してしまった。また1995年の『新時代の日本的経営』に示された雇用戦略の転換(非正規雇用による低賃金労働の普及)を政治と世論が許してしまった(つまり財政構造改革や構造改革のこと)。さらにそうした状況の中で、21世紀初頭に失業率が高まってきたが、それは賃金の引き上げに対する圧力となるばかりか、引き下げを許す圧力を強めてしまった。
 前にも本ブログで紹介したが、2000年の日銀による調査報告は、日本企業が賃金の引き下げと価格引き下げによって状況を打開しようとするように方向転換することの危険性を指摘している。

 しかし、現実には、日本経済は、経済の中で最も重要な部分(労使関係と賃金の決定力学)に目をつむり、この危険な道をその後も続け、--おそらく最もさしつかえのないと思われた--金融政策による解決に問題を委ねようとした。
 しかしながら、「賃金デフレ」の根本要因が以上の事実にあるからには、金融政策はまったく有効性を持たないことは言うまでもない。
 
 そもそも貨幣ストック(実際には中央銀行がそれなりに決定できるのは、マネタリーベースである)が増加すると、物価があがり、それによって景気がよくなるなどという「経済理論」は、どんな正常な思想からも出てくることはありそうにない。

 実際にはインフレは、「所得分配をめぐる紛争」から生じるのであり、例えば賃金が労働生産性より引き上げられた場合に、企業が利潤圧縮を避けようとして、販売価格を引き上げる、等々である。その際、貨幣賃金の増加は、人びとの名目所得を増やし、名目消費需要を増やし、企業の名目利潤を増やすかもしれない。
 これは、次の恒等式をよく検討すれば理解できるだろう。(この式では、簡単のために、各企業にとって必要な原材料の金額や資本財の金額=減価償却費は捨象する。)

  Y=QP=W+R    (1) Y:生産額、 Q:生産量、P:価格、 W:賃金、 R:利潤
  P=(W+R)/Q    (2)


 なお、(1)式は、個別企業にも、また社会全体でもあてはまる式である。この点で、きわめて奇怪な貨幣数量説とはまったく異なるものである。


 参考のために、2016年10月10日の「東京新聞」11ページのグラフをあげておく。




(この項、続く)
 
 

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