2019年8月3日土曜日

企業者の失業に対する態度  経済学を科学する(1)

 企業者は労働者の「失業」(unemployment)、すなわち過小雇用についてどのような態度をとるか? あるいは、どのような状態が望ましいと考えているだろうか?

 このように問題を提起すれば、ほとんどの人は、「失業がないのが好ましい」に決まっているし、企業者も血の通った人間である以上、そう思っているはずと答えるのではないだろうか?

 たしかに企業者が血の通った人間だということは間違いなく、またそのような人間としては失業で人々が苦しむことを望んだりしないだろう、と考えられる。あるいは、もっと一般化して言えば、人々の労働条件がよくなることを望んでいるであろう、ブラック企業などもっての他だ、と考えるかもしれない。

 しかし、もしそうだとしたら、何故ブラック企業がはびこり、また失業はなくならないのであろうか?
 このように問うてくると、多くの人は、少し考えてから、ブラック企業が現れるのは、あるいは企業がブラック化するのは、企業が激しい競争に晒されているからだとか、失業は少なくとも個別の企業者の責任ではなく、彼らの思惑を離れた複雑怪奇な経済活動の結果だと答えるかもしれない。

 この回答には、経済科学が考慮するべき点が含まれているかもしれない。
 それは企業者はやはり単に善良な意思を持つ隣三軒両隣の普通の人ではなく、企業者としての立場(position)にあり、企業者として行動するべきことを(少なくとも一部の)利害関係者から期待されているということでああろう。すなわち、企業者、例えば雇われ社長としては、自分の任期中に会社の利潤をできるだけ増やし、株主に対する配当、経営者への報酬、内部留保を増やさなければならない、等々である。もし、これがかなわなければ、二年後三年度の株主総会で自分自身が解雇され、失業してしまうかもしれない。

 では、経済学はこれについてどのような回答を用意しているだろうか?
 ここでも、経済学者はいくつかの意見を異にするグループに分かれる。そして、このグループ分けは、本ブログでも繰り返して説明してきたものに他ならない。
 1 新古典派
    いわゆるニュー・ケインズ派、マネタリスト(通貨学者)を含む。
 2 ポスト・ケインズ派
    ケインズの流れを汲むグループとカレツキの系列では若干意見が相違する。
 3 マルクス派
    他ならぬ、マルクス自身の説明がある。
 4 制度派
     T・ヴェブレンは、これについて明確な説明を持っていた。

 ここにあげた4つの流れは、ここで提起されている問題について、さらにいくつかの小グループに分けられるかもしれないが、相互に共通する、あるいは類似する見解を持っているとも言いうる。
 きわめてルーズに言えば、1)新古典派が失業を自然現象として説明するか、その責任を労働者のせいにする傾きがきわめて強いのに対して、2)~4)は、むしろ本質的に企業のありかた、ということは資本主義のありかた(分かり易く言えば「欠陥」)に密接に関係しており、 例えばカレツキ、マルクス、 ヴェブレンのように、企業者の態度・行動に帰せられるという点で一致している。
 もしそれらの間に相違があるとしたら、それはその「欠陥」が資本主義の修正によって取り除くことが可能なのか否かという「ビジョン」の相違に由来すると言ってもよいように思われる。しかし、終局的な解決方法の如何を別とすれば、したがって100年、200年先といったようにそれほど遠い将来ことでなければ、むしろ共通性の方が強いとも言えるだろう。

 それを制度派のT・ヴェブレンの用語で表現すれば、「失業」は、「事情がゆるす限り、他の人々(つまり大抵は、多数の労働者)を犠牲とした多くの利得」(What the traffic bears) を目的とする資本主義体制に特有の現象にほかならない。「失業」、あるいは生産要素の過小雇用は、そのために費用(その中では人件費が最も重要)を引き下げるために行われる最も通常な、どこでも行われる方法である。もちろん、そのことは公然の秘密とされなければらず、またそれ以上に他の様々な宣伝・方策によって糊塗されている。


 さて、経済学はこの問題をどう説明しようとしているか、そしてどれが最も事実に近いのか、これが問題である。               (この項、続く)

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