2019年11月12日火曜日

『帝政ドイツと産業革命』第六章 ドイツの産業革命 

 やっと第六章に到達した。
 繰り返すことになるが、これで訳文の検討、推敲は終了というわけではない。また、これも繰り返すことになるが、翻訳にあたっては、ある大学紀要に掲載されている「翻訳」を参照させてもらった。前訳があるということはとても有難いことと、つくづく思う次第である。一つには、横のものを縦に直しただけではリーダブルな日本語にならないヴェブレンの難解な文書を少しでもこなれたものにするのに大いに役立つ。第二に、そもそも原文の言わんとしていることが、よく理解できなかったり、私の訳文が「誤訳」ではないだろうかと不安になったときに、比較対照するものがあることが大いに役立った。とりわけ、この六章は、難解な箇所が多く、この文章は一体何を意味しているのかと考え続ける回数が多かった。そのような時は、原文(英文)、拙訳案、紀要訳の三つを机の上に置いて一文に一時間以上も考え込むことがあった。
 言うまでもないことかもしれないが、今対象としているような難解な文章を翻訳しようとするような場合には、訳者の好み(趣味、嗜好)というものも訳文に大きく影響してくる。したがって二つの訳文が異なっているからと言って、少なくともどちらかが誤訳だと断定できないことも言うまでもないだろう。
 しかし、この章に限っても、そして上記のことを勘案しても、紀要訳には誤訳あるいは不適訳といわざるを得ない部分がかなり多いといわざるを得ないように思われる。一つ一つ指摘するべきかもしれないが、後日時間を見つけることができたら、論じることにしたい。ただ、私は誤訳摘発で有名な別宮氏ほどに厳しい態度で臨んではいない、つもりである。あくまで明白に誤訳であり、そのため意味が通じなくなっている箇所だけを念頭に置いて、このように書いている、という点だけは言っておきたい。




T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』


第六章 ドイツの産業革命
 
新しい産業的な時代が始まる時期――おそらく一九世紀の第二・四半期に――ドイツの政治家たちが追求した経済政策は、いまだに官房学的な類のものであった。このことは、たとえばアダム・スミスを追従した様々なドイツ人によって伝統ある官房主義集団からの少数の一時的な逸脱がここかしで見られたとしても、プロイセンおよびオーストリアなどを含むドイツ諸邦全体に言い得ることである。絶対主義的かつ軍国主義的なドイツ諸公国の政治構造と伝統の結果、事実上、官房主義的政策以外の何事も受け入れられることはなかったのである(46)。経済情況は産業と商業の新時代に入り、それゆえ祖国(Fatherland)の政治家は新しい商工業体制が提示しなければならなかったことを最大限に活用する方向にむかって経済政策に着手した。この新たな活動においては、国政の理想は以前と変わらなかったが、その考慮されるべき新しい方法と手段は、国家の王朝的目的のために国民の資源を最大限に活用するという古来の官房主義的な目的から逸れることなく、追求されるべき政策の概略を不可避的に変更しないわけにはいかない。
新時代の経済史はプロイセン国家およびプロイセン化された帝国の経済政策史として書かれるべきであろう。そのような歴史は、たとえ(それがかかわる)商工業現象の政治的利用および政治的関連を一瞬たりとも見失わないとしても、帝政ドイツの政治史にはならないだろう。それは、偉大な商工業国民――彼らの商工業に対する関心は、商工業以外の目的、社会の物質的福祉を超えたところにある目的、そして実際にいかなる点でも社会の富を超えたところにある目的を巡る利害関係を規制的に統御することにある――の物質的運命の記述となるであろう。このことは――少なくともそう考えられるのであるが――社会の物質的福祉にとって不利益となる経済政策を追求することを必ずしも意味するものではない――。実際、それが、社会の物質的利害はその隠された目的として国家の成功をもたらすような政策によって最もよく保護されるというこれらの政治家たちの信念の一部をなしている。しかし、そのような物質的利益は、国家的な利用に最もよく役立つように、最もよく役立つような事象や制約をもたらしつつ、達成されることになるに違ない。ここでは、もちろん、そのような歴史を試みるつもりはなく、ただこの時代の歴史を定めた特別な環境を想起し、こうした特殊な環境が結果にどのように影響したのかを示すつもりである。
平時であれ戦時であれ、すなわち商売上の提言であれ、国際政治上の提言であれ、近代的な技術は、ドイツ諸領邦風の極小国家の存在を、ナポレオン一世の争乱後の状態のような極小国家の存在さえ、容認しない。この技術、そして近代的な産業技術の様相が存続し運動するために利用している実業界は、非人格的な、世界市民的な性格を持っている。人間的な個性、地方的な特徴および国境線は、近代の商工業生活に係る一切の点で、役立たずというしかない。個人的特権または階級的特権にもとづくか、それとも国民的な分断(隔絶)にもとづくかにかかわらず、境界(circumscription)の抑制的効果はきわめて明白なので、分断が唯一の存在目的となっている・これらドイツ諸領邦の政治家でさえ、産業的および商業的に分断された社会として近代の経済体制の中で生存し、またそれによって生存することの不毛さをしぶしぶ理解するようになった。ドイツ国民の産業から自己の物質的生活手段を得ていた国家は、譲歩し、多くの条件を付けながら、緩慢な手段によって関税同盟に結集して、やがて後に北ドイツ連邦に、そして最終的に帝国に結集した。この動きのよい効果は、効率の上昇、またそれがもたらした物質的な繁栄として、十分によく知られており、かかる問題について語る能力のある多数の著者によって十分に広められ、推奨されてきた。そのようにして実施された最も顕著な改革の一項目は、関税障壁および貿易と通信に対する同様な境界間の障害の撤廃である。
政治家による商工業のこうした推進は、それが以前に強要していた制限の撤去にその本質があったという点で、ほとんど全面的に消極的あるいは許可的な種類のものであった。ずっと後のビスマルクの執政期の貿易と産業における帝国政策についても同様のことがあてはまる。その好結果は障害の除去によるものであると言うことができる。それが暗示する所は、この政策を引き続き追求していれば、たとえば国境線の全面的廃止のように、あらゆる種類の経済的規制に関係してドイツ産業の効率を同様に引き上げるという好結果をもたらしたはずだということである。やがてその後に続いた国境線の維持と重商的な関税政策などヘのさらなる回帰は、産業社会のためではなく、むしろ政治的な手段、国家利益のための手段であった。ドイツ国家の王朝的利益にかかわりなく、ただ社会の物質的繁栄を促進するのであれば、ドイツの企業および産業とドイツ外の企業および産業との間の境界およびすべての差別的待遇の廃止を決定づけたであろうことは疑いない――まさしくこうした配慮が帝国内のこの種の境界と差別的待遇の廃止を決定づけたように――。
純粋に物質的な面からみれば、その利益はドイツ人にとってこのような国内規制の撤廃から得られたのと同類のものであったであろう。そしてこの国境が実際に廃止された(帝国内の)些末な国境より大きい事実であったように、帝国の国境が廃止されていたと想像するならば、そこから得られる利益はおそらくもっと大きかったはずである。しかし、通商の妨害手段としての帝国の国境は、帝国を自給自足的な経済社会に、したがって国際政治戦略の中で利用されなければならない自律的な統一体にするための主要な手段であった。なるほど、単に物質的な繁栄という観点および経済的進歩の速度の観点からすれば、帝国国境のような障壁が維持されなかったほうが国はより豊かになったであろう。しかし、その直接の結果は、当時の消費の大きく不可欠な部分について、ドイツ社会を外国に依存させるような産業の専門化と貿易関係の網の目というものとなったであろう。そのため、帝国は戦時には相対的に脆弱であり、同時に社会と人民はますます戦争を嫌がることになったであろう。換言すれば、そのような政策は、少なくともフリードリヒ大王派の政治家が見ていたような王朝政治の戦略に断じて適うものではない。したがって、この件に関連して実際に追求された政策は、適度な制限と圧力の政策であり、それによって産業効率の自由な発展と自足的な産業社会の発展との妥協が成立したのであり、社会の一切の力を特定の政治的な(軍事的な)目的に向け、ほとんど躊躇せずに他国に対して敵対的な態度をとることが可能となったのである。その発達の新しい局面では、軍事的な理想がより前面に出て来るにつれて、政策は自律的な産業社会を創造することによって国を防御しやすい位置に置くことをより強力に目指すことになった。
産業問題への干渉もしくは規制の主たる方針は、保護関税によるものであった。もちろん、他の関税規制と同じく、これはほとんど全面的に禁止的であった。これとは別に、この領域における政治家の主な指導的な仕事は、概ね軍事戦略をねらった鉄道建設、そしてこれもまた大部分が軍事を目的としていた造船への助成金支給および監督にかかわっていた。しかし、より重大な事実は常に関税である。もし帝国の国境とその税関がなければ新産業時代に結果がどうなったかというのは、もちろん、省察的な質問であり、決して確信をもって答えられるではないけれども、関税が是正しようと努めた不足点を指摘すれば、結局、ドイツの産業状況が陥らぬようにと国家の政策が保護しようとした結果の性質を示すものとして興味を引くかもしれない。
よく知られているように、祖国は近代産業にとって重要な類の天然資源に特に恵まれているとは到底言い難い。鉱物資源に関しては、ドイツは唯一炭酸カリウムという品目で決定的に優位に立つだけである。鉄と石炭の埋蔵は申し分ないが、品質、立地または賦存量の点で決して二級以上のものとは決して言えない。それ以外では、ドイツは近代産業の依存するいずれの天然資源でも二級のものとさえ言えない。森林と漁場はまったく取るに足りないというわけではないが、まったく重要というわけでもない。土壌(農地)は、良質の土壌から劣等な土壌まで様々であるが、産業を他分野から集約的な農業――農作物の自由貿易下で魅力的な事業提案となる以上に集約的な農業――にかなり劇的に強制的に移さない限り、ほぼ全人口を養うにも足りない。輸送設備、港および天然の水路もまた、他の商業国と比較して、不十分と評価される。天然資源として唯一つの大きい資産は、勤勉、健康および知的な人口である。この点では、ドイツは、新時代が始まった時、全体として、フランスを除くいずれの隣国よりも好ましい状態にあり、ベルギー級の小国と同じ状態にあった。
商工業の新時代が国家権力によって国家目的のために規制されなかったと想定できるが、そのような事例では、そのために生じる状況の概略が現実に起きた事と近似的にさえ一致しないであろうということは、かなり確実に推測できる。第一に、というよりは予め認められる事として、産業社会の総効率は、効率性の上昇とその結果としての産出量の増加速度と同じく――神の摂理による調停を考えないとして――、無論、きわめて高くなり、その利益の国民間への分配はおそらくより公平になっていたと言えよう。農業生産、そしておそらく特に肉と乳製品の生産は、相対的により少なくなり、おそらく絶対的にも少なくなっていただろう。他方、これらの品目の輸入は顕著に増加していたであろう。それには産業諸階級の生活必需品の費用(価格)のはっきりした低下と栄養状態の改善が伴い、それは平均寿命のわずかな伸びおよび一人あたりの効率の上昇、それに伴う人口増加率の上昇をもたらすものと思われる。
国内農業生産の縮小のさらなる直接の結果は、食料の海外輸入の増加であろう。それは海運業の成長をもたらし、またおそらくこの輸送業、そしてこれらの輸入品を生産する諸国における農業の拡張と関連して、恐らく、わずかであるが持続的な移住を誘発することになる。このことはすでに北・南の両アメリカ大陸との海外貿易との関連ですでに目に見えるものとなっている。自由貿易政策の下ならば生じるようなそうした海外取引の拡大が与える追加的な刺激を受ければ、このあまり目立たないドイツ人移民は、これら複数の諸国の実質的な植民地化をもたらす結果になったであろうと予想するのが正しいかもしれない。実際にそうなったのだが、ドイツ人の移住は、ブラジル、アルゼンチンおよび合衆国に実質的なドイツ人の植民地を作るのに必要な量と一貫性にほとんど不足しなかったという印象を受けるのである(47)。
自由貿易政策の下でも、ドイツの石炭と鉄は両方とも生産されたであろうが、実際に行われたより小規模になったかもしれない。これらの原材料は現在より大きい割合のものが輸入されたであろう。そして、論理的には、その絶対量は現在の輸入額よりきわめて大きくなったはずである。したがって原材料と半製品を完成品と消費財に仕上げる産業がそれに比例して増大し、その成長には、増加した輸送量を取り扱うのに必要な、国内および海外の輸送システムの拡張とさらなる改善が伴うことになるだろう。ドイツ産業は、おそらく完成財の生産がより進むことになり、したがって現在よりも広範囲で欠くべからざる通商関係に結びつけられることになっただろう。そのような場合であれば、付随的な結果として、それはドイツ人の海外市場への依存がその対極にある取引相手側のドイツ市場への同様の依存を伴うことになるため、ドイツによる平和あるいはドイツとの平和を破棄することをほぼ不可能にしたであろう。その結果生じる一般的財市場の状況は、おそらく最近染料および綿の独米貿易であらわになってきた状況に類似するものとなったであろう。もう一つ別の重要な副次的結果は、過度の陸海軍編成を維持しているのが平和を破る(攻撃する)ことを目論んでいるからではないというもっともらしい根拠がなくなったことであろう。しかしながら、あまりに省察の域をでない性質の補足的考察や二次的な結果が多くなるため、ここでは詳しく列挙することができない。そのいくつかはこの先の議論の中で扱うことにする。
新時代に起こった出来事が現実にたどった推移の中で、国境は常に大きい要因であり、様々な関連において主要な決定要因の一つであった。国境が帝政時代の初期段階で問題とされた最も雄弁で最も明白な方法は、この拡大した領土内における相対的な自由――国のかなり広い範囲における通商の事実上の自由――である。その上、ビスマルクの支配の下では、おそらく国民間の関係における絶対的自由貿易とは言えないが、少なくとも些か英国の流儀にならった自由の拡大に向かう顕著な流れが存在した。この政策は、実際にはきわめて顕著というものでは決してなく、この政治家(ビスマルク)が引退すると静かに中断された。そしてより広範囲にわたり、より軍事的な「世界政策」(Weltpolitik)という新精神は、帝国の経済政策を、排除による自立の立場へと引っ張りこみ、それに伴ってドイツ人とその隣国との利害にとどまらず、感情の疎遠性(対立)を助長した。現皇帝の下で追及された貿易政策は、ドイツと他の工業国との敵対関係を増幅する役割を果たし、同じ時期のますます露骨になってゆく軍国主義の果たした役割より決して小さいとはいえない役割を演じるようになった。この貿易政策は際立って重商主義的な類のものであり、一方的な輸出貿易という幻想的な理想を指向するものであった。
この貿易政策は帝国が重要であるという幻影(理想像)によって強化されたが、そこから派生した一つの問題はビスマルクの引退以降のドイツ帝国の植民地政策にあった。植民地の獲得によって、工業原料の大部分が、もしかすると最終的には全部がこれらの属国から引き出されることが期待されてきた。そうすれば帝国は、その工業原料の供給を外国に仰がなくてもよくなり、それと同時にその植民地が完成財の市場の役割を果たすことができるようになるという訳である。その狙いは産業的に独立した帝政国家を樹立することにあった。こうした植民地事業の取引は帝国政策にとってあまり推奨できず、またあまり利益のあがらない章の一つをなしていたのであるが、祖国の王朝政治家たちはこの点についてイングランド人の学んだ教訓――植民地は王朝の領土としては役に立たず、また同時に産業社会および世界商業への参加者として前進することもできないという教訓――を自らのものとすることができなかったのである。その結果、ドイツの植民地は、イングランドの流儀にならってドイツ産業社会の分枝となる代わりに、帝国の属国となったのである。ドイツの経済界がそのような分枝を効果的に生み出した限りでは、それらの分枝はあまり協調的な努力をすることもなく、ドイツの支配に服していない国々の商工業の方法をそっと巧みに取り入れたのである。
上段で述べたことは、帝政時代のドイツ人の物質的な成功が帝政国家の助成によって達成されたのではなく、帝政国家にもかかわらず達成
されたことを意味するように聞こえるかもしれない。そのような見解にも一片の真実があるが、その裏面の評価にも書き留めるべき多くのことがある。帝国政府の経済的関与とのかかわりを綿密に調査するほど、その政策の妨害的性格がますます明白になり、また国の物質的利害関係を規制し、導き、促進しようとするいずれの努力でも、総じてそれが与えたと主張される利益はますます曖昧で捉え難いものとなる。とはいえ、国の物質的福祉(やがて現れるかもしれないと期待されている)に対する帝国の政策のこのより曖昧な関連を指し示すために書き留めるべき、副次的ではあるが重要な経済的利益の実体が存在するのである。
帝政期のドイツ人の経済的達成についての現在広まっている多くの説明では、ドイツ人が一九世紀に産業社会の仲間入りした際の障害が重視されている。この障害が重大なものであったことは疑いなく、これらの出来事の様々な関係によってかなり周知のこととなっているので、ここでその面を繰り返す必要はないだろう。この障害は、乏しい手段(資金)とわずかな経験しか持たずに仕事に就く新規参入者を悩ますいくつかの困難からなっている(48)
そこで克服するべき主要な困難とは、通常、資本の不足であると考えられており、その際、資本とは投資に利用できる資金を意味する用語と理解されている。正確に言うと、ドイツの事例では、そのような資金は不足しているわけではなかったが、さりとて簡単な条件で潤沢に入手できるわけでもなかった。産業的企業への投資の習慣も不足していたが、そのような習慣は簡単に獲得されたように思われる。それと同時に、必要な銀行業の施設も、景気の状況が銀行諸機関の与える信用の利用を頼るべくその拡張を求めるや否や、素早く現れたようである(49)。より大きくしぶとい種類の困難は、産業問題における経験不足や知識不足であり、新たに見つけられた方法と手段の自由な利用を妨げるような習慣と法的諸権利が存在したことである。この種の困難がドイツの事例にはあり、一九世紀の前半に見られた遅れの多くはドイツ人がナポレオン時代から帝国の形成期にかけて徐々に取り除きつつあった法的および習慣的障害によるものだったと考えられる。この同じ期間には、必要な情報も(自分たちの)日常の退屈な経験によるものではなく、英国で生み出されたものを模倣によって習得し集めたものであった。
必要な技術的習熟は容易に得られる種のものであった。チューダー朝期のイングランド人がヨーロッパ大陸から借用によって獲得したその種の技術的技能よりずっと容易であった。この昔のイングランドの事例では、借用し自分のものとしなければならかったのは、そうやって受け継ぐべき理論的知識と産業技術への実践的洞察にとどまらず、雇用される労働者側の個人的な慣化と手の器用さの習得でもあった。それは洞察に限らず多数の個人の長い期間にわたる訓練を必要とする事でもあった。徒弟期間は、周知の通り、五年から七年に及び、労働者(職人)の修業は徒弟修業期間では終了しなかった。手工業体制下で新しい産業技術を導入する際に最も好まれた方法は、修業を終えた職人を輸入するというものであり、戦争中のヨーロッパ大陸の君主たちがイングランド国に与えた大きい貢献の一つは、熟練労働者をイングランドに追放したことである。
一九世紀になってドイツ人は機械技術を借用したが、この機械技術は、それが導入された側の社会の潜在的可能性と注意力にもとづいて創出する需要の点で、上記の事情と異なっている。それは、主に、機械装置を設置するのに必要となるような現実の状態への実践的洞察に裏打ちされた理論的な問題である。熟練した技術者の注意を惹くような理論の技術的応用の詳細な作業を除くと、このようなことすべての中に曖昧、難解あるいは困難な種類のことはほとんどない。機械工業は、それ自体が単純であり、細かい工程に広く応用される特定の広範な原理にもとづいて稼働するので、相対的に少数の専門家による監督と統御に適している。雇用された労働者は通常まったく特別な訓練を受ける必要がない。機械工業が普通に稼働しているとき(機械を)操作する労働者として用いるのに必要となる特別な訓練は、手工業体制下と同等な有能な労働者を作るのに必要な訓練よりはるかに少ない。特定の機械的職業に関係する特別な工程にいくらか、相対的にわずかな特別な習熟とならんで、一般的な情報と手の器用さが、機械産業にきわめて順応した労働力をこうして作るのに必要となるすべてである(50)
ドイツの達成の性格と規模、およびその進歩の速度を評価するためには、この近代的な産業技術の様相の中で彼らが借用したものの性質を認識する必要がある。この機械技術の前提と論理は、それ自体として、決してひどく難しいといった性質のものではない。その修得は本質的にかなり簡単なことである。そのすべてが、その基礎的原理においては、深遠な、または信仰上の洞察も、鋭い知恵と悪賢さの広がりも、信仰や詩的な幻想の達成も、想像力や禁欲的な熟慮のひろまりも必要としない。実際、それは人類の最もありふれた達成であり、またその前提と論理は最も貧弱な直感的な理解力にとってさえ明白である。その多く、全体にとっての土台と出発点をなすような多くのことは、普通人の周囲にあるごく平凡な無生物とのあらゆる日常的な関係の中で普通人にとっては、不可避的および不可欠に、馴染み深いものである。その出発点および範囲と方法は「事実の問題」という一句に要約される。
イングランドの技術者とその同類の者たちは、産業革命を準備し、さらにその結果を技術と物質諸科学にもたらしたのであるが、その画期的な知的達成は、彼らが物質の性質と作用を洞察する新しい方法を得たことにあるというよりも、以前から知られていた多くのことを、環境の力によって、忘れることができたことにある。彼らは、自分たちの見る物事が擬人観的な特質と性格を持っていると解釈する習慣的性向が衰退したため、これらの物事をあるがままに解釈することができるようになったのである。諸環境が――その主なるものは王朝的企ての衰退につづく人格的支配の衰退であったように見えるが――物質的な現象を神秘的、呪術的、擬人的、霊的な用語で解釈するという過去から継承した根深い習慣を弱めたのである。ブリテン島では、このように物質的事実間に霊的な力や結びつきを見る習慣が大陸より早く、またより大きく衰微していた。そのためブリテン島の住民のうち好奇心の強い者は、形而上学的に思弁せず、あるいはそのような思弁のあとをわずかに残すだけで、これらの外的現象を不明瞭な事実として額面通りに受け取り、現象とその運動を(相対的に)素朴な知覚認識として解釈する単調な(無味乾燥な)習慣に――大陸の隣人たりより速やかに――入り込んだ。
それゆえ、機械技術の前提と論理の構成要素は、異質で見慣れぬ種類の思考習慣という実際には通り抜けできない外皮にしばしばおおわれているかもしれないが、誰の心の中にも存在している(ことになる)。これは、誰でも、あるいはどんな社会でも、ただ自己の思考(cogitations)にさからわなければ、自分の内なる意識から機械産業の実用的技術をただちに進化させる支度ができているという意味ではない。その前提と論理的な洞察が与えられている場合にさえ、これらの前提を働かせるためには、広い領域の事実についての経験的知識を蓄えなければならない。そしてこれはただ大きく長い経験と実地練習という代価を払ってしか得られないものである。というのは、この知識の細目は、あらゆる経験的な情報、特に物理的な情報という「不透明な(とらえどころのない)」性質を持つからであり、また知覚という狭い経路を通じてしか手に入れることができないからである。相いれない超現実的な先入観から解放されたときでさえ、またその限りで、試行錯誤を通じてその物質的な内容を、ゆっくりと段階を踏みつつ、修得する必要性がいまだに残っている。そしてドイツ人が相応の持ち分(役割)を引き継ぐ前に数世代の英国人を従事せしめたものこそ、工学のための素材を作り上げる不透明な事実を見つけ出すという・このゆっくりした過程であった。こうした物質的知識の最初の獲得は必然的に試行錯誤を伴うゆっくりした作業であるが、それは確実かつ明確な形で維持し伝えることができるため、それを移転(借用)によって修得するのは骨の折れることでも不確実なことでもない。
こうしたことから結論されるのは、この技術の実際の構成要素がひとたび明らかにされれば、それを消化するのに大きい困難を経験する必要も、長い時間を費やす必要もない、ということである。機械産業の装置と過程を知的に使用するのに必要となる情報は、所与の条件下でのある物質的対象の物理的行動に関する事実に即した情報の総体ほど深遠(難解)なことではない。もとより、その詳細は、全てを語るならば、かなり膨大かつ複雑である。また誰も、そのシステム全体の作用にかかわる全範囲の情報を修得するのを望まないかもしれない。しかし、結局のところ、システムというものは現存する知識を最も事実に即して組織化したものである。したがってそのシステムはそれが提供する機械器具と工程に適した条件を持つ社会によってきわめて容易に引き継がれる。
ドイツ人は、天賦の才能によって必要な種類と程度の知性を賦与されており、この点で、この近代的産業技術の様相を作り出した英国社会や他の社会と同じ土台の上に立っていた。同時に彼らは、その知識階級にあっては、技術を機敏に修得するのに必要なあらゆる理知的習慣を持っており、また労働者階級にあっては、十分によく訓練された熟練労働者の一勢力を有していた。したがって、ドイツ人が新産業の進歩を達成し得た速度は、その環境が新産業の利用をどれほど速く、またどこまで認めたかという問題にすぎなかった。したがってそ、その導入と拡大の速度は、概ね、経営と産業の裁量権を持っていた人々の進取の気性の問題であり、それは金銭的誘因の問題、そしてこの新しい産業の提示する好機を彼らがどう見通すかという問題となる。
これらの点で、ドイツ社会は特別によい位置に置かれていた。これらの新規事業から利益を受ける位置にいた階級は、昔の体制下の類似の産業的企業に対する相対的に低い収益に伝統的に慣れており、そのため(新たに)与えられた(より高い)報酬率はより大きい収益に慣れた営利社会よりいっそう強く彼らに強く訴えた。利用できる天然資源は、あまり使われずにいたので、相対的に少ない費用で手に入れることができた。有能な労働者の調達はきわめて安価な賃金で行なうことができた。そして最後に、とは言え最も劣るというわけでは決してないが、商工業が以前の伝統的な状態と決別していたため、ドイツの企業は、同時期のどの英語諸国の停滞している企業より因習的な制限や手元の旧式化した装置および組織に妨害されることがなかった。ドイツの利点を示す目録中の最後の項目は、同時代のイングランド商工業の苔むした情況と対比すれば十分に明らかであり、すでに前段で示した通りである。それはアメリカ社会についてはさほど明白でなくて、恐らくさほどあてはまらず、問題にさえならないかもしれない――アメリカ社会は、周辺の英語諸国の先頭に立っているのである――。どれ程であれ愛国的感情に曇らされた見解を持つアメリカ人は、もちろん、彼らの誇りにしている営利企業の精神にもとづいてそのような中傷を否認するであろうが、上述のような主張を認めるためには、それに関係する事実を冷静に眺めるのがよいだろう。 
新時代に自由裁量的な経営権を持つようになったドイツ産業の総帥たちは、まことに幸運にも、「しっかり掴み取り、分け合い、沈黙する」という規則に沿って営まれる投機的不動産と政治的汚職の小売取引にもとづく田舎町の訓練校から入学を許可されなかった。彼らは、あぶく銭の分配に与ろうとする保守主義者としてうまくやる選択的試験ではなく、産業企業を積極的に遂行するのに適した選択的試験に合格してやって来たのである。同時に、この国は主に――実際、無視できるほどの地方的な例外しかなかった――産業プラントを設立するための時代遅れの土地や方法に縛られていなかった。すなわち、自由裁量権を行使した人々は、産業を追求のための立地のただ機械的な便宜だけを考えて選択する自由を持っていたのである。事態を暗くする老朽化した装置も、時代遅れの取引関係もなかったため、彼らは知られている最良の装置と数年または数十年前に最良だった装置との妥協に満足せず、むしろ最良かつ最高の効率の新しい産業過程を自由に引き継ぐことができた。また例えば新規事業の資金調達のときも、その目的が金融的入れ替えによって無償で何かを得ることというよりも、市場で販売できる財とサービスを生産するための装備と運転資本に必要な金銭的手段を見いだすことであったため、その道はかなり簡素であり、販売できる社債を作り出そうとする無一文の会社発起人が取る困難で迂遠な方法に頼ることも事実上必要なかった。フランスの百万長者が登場していた時代に、会社発起人がドイツ社会に登場していなかったというのではないが、やっぱり産業から保守的な策略を弄する戦略家へと資金を移転させようと企てられた巧妙な金融のためにドイツの口座から清算される資金の浪費や消失は相対的に小さいままである。
営利の領域にいるこれらのドイツ人冒険家は、金融の将帥というより産業の将帥であり、ドイツ社会の小銭を抜け目なく奪い取ろうと待ち構えるというよりは、産業的な眼識と能力を求めて自由に仲間と職員を選んでいた。そして選び出す母体となる人々、仕事の能力を持ち、街角政治に浸りに行くのではなく、十分な教育的資格を持ち、新しい産業的展望に関心を抱いている人々――そのような人々に不足はなかった。というのも、ドイツ社会は、伝統的に潔白な職業に喜んで雇われようとする教育を受けた人々を十分に供給されていたからである。
もっと劇的な形の浪費に恰好な手段がなかったため、学問は、ながらく、費やす時間とエネルギーを持つ若者の主要な拠りどころだった。それに――通常の肉体労働もそうだったが――、通常の商業的職業が慣習上いくぶん紳士的な尊厳を持つとされていたこと、また公務、牧師および大学教授という尊厳ある職業にはもうそれ以上生存できないほどに人が群れていたことも理由である。こうした学問を受けた若者の供給は、そのように彼らに開かれていた新しい水路に容易に流れ込み、ここに相対的に儲かり、有用なことが明らかであり、不評でないことが明らかな仕事の機会が提供された。こうした産業の領域への若者の流入がひとたび始まるや否や、直ちにその正当性が明らかになった。それは新しい職業に就き成功した人々にある程度の金銭的確証を与えたのであり、その人気はそれを流行させるのにおのずと役立った。これらの産業の責任ある職員と部隊は、田舎の店やいんちき弁護士の法律事務所ではなく学校を通じてやって来た人々であり、近代産業の効率的遂行にとって不可欠な範囲の理論的および技術的知識を正しく評価する能力を欠いていなかった。またそのため、ほぼ同じ頃のアメリカ人が金融戦略家の支配下に引き込まれたように、ドイツの産業社会も確実に、そして抵抗する術もなく、技術専門家の支配下に引き込まれた。
  これらの副官(下級将校)たちは、いくつかの新規産業企業の自由裁量権を持つ頭領たちと同様に、比較的質素な生活様式と比較的つましい所得に慣れていたが、その理由は、ドイツ社会全体が伝統的に一貫して貧しい環境と倹約的な気分にあったからである。したがって経営者の報酬および一般的な役得として粗収入から差し引かれる金額は、古い産業社会で一般的に行われていた金額と比較して、または繁栄期に祖国の実践となった金額と比較しても小さかった。
また例えば利用可能な労働力の供給について言えば、身体的にも知的にも多量かつ良質であり、その上、権威に従順になる用意があるという利点を持っており、貧しく質素な生活水準によくならされていた――安く、能力があり、豊富だったのである――。この労働力の供給はまた、どんな感じられる程度にも、あの生まれつき非効率な種類の「極貧」住民――イングランドの工業都市で、機械過程の体制下での競争的な営利企業の支配する最初の百年の結果として、大きく膨張した――貧弱で、貧血ぎみで、痩せこけており、皮肉に成長した住民からなっていたのではない。
このこともまた最初の頃からはいくつかの点で目に見えて変化した。しかし、生活水準は英語圏諸国の水準に及ぶぬまでも向上し、それと同時に労働者は、ある程度気難しく不満を訴える様になった。ただし、これら他の国々における資本家=雇主をいらいらさせ、その利得を狭めるほど手に負えない様にというわけではない。
労働者階級の伝統は、また中産階級の伝統もそうであるが、過去のドイツでは、女性の手作業における有用な雇用を幾分促進してきたが、この利用の慣行はいまだによく維持されている。ただし、やはりここでも、少なくとも手労働の職業からの、特に野外手労働からの女性の慣習的に評判の高い免除または排除という同じく一般的な姿勢に流れている徴候がある。この損失原因からドイツ社会はまだ多くの損害を受けていない。例えばドイツ女性は、野外の労働を続けており、まだ考えられている身体的能力の大きい低下の影響をこうむっていない。また彼女らは怠惰による病気をそれに対応して増加した程度には病んではいないように見える。もちろん、これらすべてが富裕な女性にあてはまらないことは述べる必要もおそらくあるまい。彼女らは、最善の待遇が必要となるほどに、(因習的に)虚弱に近い状態にあるように見える。
この産業時代の初発から、またその後の単純な推移の大方を通じて、責任を持つ人々と労働者の総体の両者とも、あらゆる種類の産業的な事業、特におそらく技術的な事業に生き生きとした関心を抱いたように見える。自分の仕事に対するこのような素朴な態度の一つの帰結は、スポーツ、秘密結社、扇情的な新聞、酩酊、政治運動、宗教的衝突などのように不満を組織的に外に転じる差し迫った必要性が彼らはなかったということである。また相対的に倦怠感が欠如しているという同じ原因から、あのより成熟した社会――そこでは産業的事業と技術情報は、人々が長期にわたって熟知し、因習的な嫌悪物となっていたために、つまらない趣味のものとなっていた――のように長期休暇や折々の休日の必要性もなかった。また同じ理由で、仕事が人々の好奇心に訴える力や職人的熟練を開花させる魅力をまったく失っていないうちは、労働時間は、有益なことに、長くなりえた。人々の日常的な仕事が好奇心を保ち、その結果、興味を抱いて注意力を保つ限り、人々の機嫌をとり、精神的な不調をもたらさないようにするために、日常的利益に無関係な気晴らしや浪費などはそれほど必要ない。また情報に対する食欲がなくなり、また機械技術と呼ばれる応用科学の類のように人々の好奇心に直接に訴える事象に関する思索がなくなるのは、ほぼ流行によるものであり、それゆえ模倣によって広め、また何らかの満足のいく代わりの利益を導入することによって生み出す必要がある。しかし、そのすべてに時間がかかる
しかし、問題の性質上、代用品は最終的に発見されるであろう。商業化された産業によって存続するどんな社会も、正当性の厳かな規則にかかわる一切において、必然的に価格体系という至上の管轄権の下に入る。宗教的または軍事的な階層体系にとって有利な部分的、一時的な例外が生じるかもしれないが、そのような例外は部分的なものにすぎず、また一時的に終わる傾向があると同時に、ここで問題となっている点で価格体系の裁定を否認するものではない。そして、その価格体系は、こうした職人魂への感情的中毒のように明白に有益な経済的な性質を持った関心や習慣的な気分が金銭的理念に従っている社会では長く名声を保つことができないことを、まったく疑う余地なく、裁定する。というのは、そのような関心や気分は顕示的浪費という明快な原則を否認するためである。問題はただどれほど早くそうなるか、またその原則に不快な適当な代用品がどれほど早く発見され、弁護可能な形に仕上げられるかということにすぎない。通常、頼りになるのは、何らかのスポーツ――すなわち職人魂の感覚が即座にその無用さに吐き気を催さないようにしておくように「何事かを行っている」というそれらしい外観を生み出すと同時に高価で無用な何らかの形の浪費――である。
前段で述べたように、イングランドでは、スポーツへの耽溺が、主に代行的に行われるのであるが、慢性的な習慣となっており、イングランドの日常生活に通じていないドイツ人にとってかなり信じ難い程に社会に浸透している。この耽溺は、今やかつてのどの時期より明らかに普遍的制度となっているとはいえ、機械産業の到来前の時期に由来している。それは、漸次的にのみ現在の程度と遍在性にまで成長してきたのであるが、時間と生計費の不毛な支出を伴うという点でも、また産業目的にとって無用というよりむしろ有害な事で人々の心を習慣的に満たすという点でも、英国の産業効率の深刻な衰退要因となってから久しい。しかしながら、それは無用でありながら、かなり名声をはくしていると同時に、十分もっともらしい達成を示して、最上流階級の是認を得ている。ドイツ人もまた、至上の価格体系下の短い経験を通じて、試験的に、また高圧的にスポーツマンの儀式の輪に割り込んできたが、彼らは自分たちの身に浸み込んだ吝嗇生活(節倹)の中でここでも、金銭的文明の諸国民中の上流階層と肩を並べることを望み得るより先に多くのことを克服しなければならない。
少なくとも現在の段階では、すなわちドイツ人が後継者となった段階では、近代的な産業技術の状態は、実業的方法による経営か実業家による経営と緊密に結びついている。 このことが意味するのは、この技術体系を引き継ぐどんな社会であれ、やがてすぐに、産業体系が営利的利害によって継承され、実業家の金銭的利得のみを目的として運営されるということである。その営利的運営は出発点では少なくとも産業的事業に奉仕しているようにうえるのだが、その不可避的な結果はその関係の逆転である。そのため産業は営利のための手段となり、最終的には金融戦略の急務に奉仕する偶発的な手段として実践的運営の中に姿を現すようになる。
この金融戦略は戦略家たちにとって取得できる最大の純利得を得ることに向けられるが、それは社会の物質的富または生産効率に最大の純増を付け加えるような経営と一致するかもしれず、一致しないかもしれない。ドイツの発展の初期の諸段階では、実務家の利得と販売される生産物の産出との関係はかなり単純で直接的だった――ただし、ここでも考慮しなければならない例外はある――。しかし、時間が経ち、状況が英語圏諸国(そこでは産業企業に金融を与える業務が別の独立した取引部門になった)で広まっているより成熟した段階に入るにつれて、その関連は直接的で一貫したものではなくなり、きわめてく縁遠くまったく疑わしいものとなる。そのような場合には、自分たちの資金的富――貨幣単位で計算されるような富――を保全しようとする金融企業の保守的運営のために産業の衰退や停止が容易に生じ、それは社会の物質的富――重量で計算されるような富――の生産を停止したり、縮小する効果をともない、したがって時が経つにつれて社会が日に日に貧しくなることになる。この種のことが帝政ドイツで経験されたことは言うまでもないが、それは産業の営利的な運営に必然的な随伴することである。しかし、特に初期の段階を通じて、ドイツが近代的産業体制を採用しているときには、その種の経験はあまり重大なものではなかった。というのは、実務家は産業装備の増大する必要に応じ、運営するのに忙しく、利得が販売される産出物の増加から来ることを探し求めていたからである。
この方向に向かう特定の影響力を持っていたのは、ドイツの産業的事業の続行を可能にした広い利潤マージン、すなわち一方の販売市場における公正価格と、他方の低費用と供給不足との間に生じるマージン(利幅)であった。それが発展の初期段階における状況であり、その程度は、ドイツが費用と価格の点でその通商上の競争相手に広まっている条件に接近するにつれて絶えず減少し続けた。マージンは小さく不安定になり、不審と継起変動を受けやすくなった。というのは、部分的には販売市場が競争相手の侵入するところとなったためであり、また部分的には製造費と販売費が増加したためであり、また部分的には金融費用が増加したためである。
産業生産物の市場の衰退の要素のうちの一つは、装備の増加の割に国内需要が落ち込んだことであった。これはまったく明らかなことに、産業人口のための新しい住居や生活器具といった付属物を含めて、新規の生産施設の必需品の絶対的規模の落ち込みではなかった。この需要は絶対額では減少していないが、初期および後期のドイツ産業の総産出高に比べると相対的に、この国内市場部門が縮小を被ったことを示すことは難しいことではないだろう。
外国市場の有効な拡大が生産能力の成長と歩調を合う程のものでなかったことも本当の事である。これは周知の事実であり、ドイツの政治家からも、また種々な通商委員会からも、しきりに注目されている。それは、ビスマルク政権の後半に採用され、彼の後継者によってより決然と推進された植民地政策を擁護して主張された動機の一つである。そのような植民地計画がそのような目的のために真剣に策定されたことは、事実を知った者には誰であれ奇妙に思われるかもしれない。しかし、市場の追求がこの植民地政策の主要な推進要因の一つだったというこれらの人々の厳粛な陳述に幾らかの信認を与えずにいることもできない。次のように考えるのが適当であろう。すなわち、愚かにみせる資格が自分にあると信じないで、そのような愚行を主張するような人は、とりわけプロシア=帝国政治家のような厳粛な自己満足に陥っている人々の中には、いないであろう、と。
ドイツ産業の成長とともに成長してきたいっそう本質的にして同時に手に負えない困難は生産費の上昇である。それは新時代が緒についてからまもなくして小規模に始まり、それ以来ずっと累積的に拡大してきた――情況のさらなる展開の中で同じ要因が作用し続ける限り、それは必然的にいっそう増大するに違いない。ある小さい部分だが、ここで問題としている生産費用の増加は、資源の物理的消耗あるいは物理的老朽化の結果というより資本化(設備投資の増大)の結果である範囲内で、人為的な性質のものである。しかし、それでもなお、この資本化が産業的新規企業の資金調達を行うために欠かせない条件の一部になるという点で、費用増は効果的である。 他のどこでもそうだが、ドイツでも、天然資源も、立地条件という差別的利点、そして法的免除、助成金および関税による独占という差別的利益も、これらの有益な資産から引き出される見込み利得にもとづいてある程度まで資本化されてきた(投資対象とされてきた)。そしてそれらはそのように資本化されるため事業評価の基礎とされたのであり、それゆえまた信用拡張の基礎とされ、さらに規準収益率のもととなる資産の中で重要な地位を占めるようになった。これは、この種の資産が法人企業の資本化に引き入れられ、そのため粗収益から支払わなければならない固定費の基礎になったような事例にとりわけ当てはまる。このように社会内部の差別的利益を資本化する過程は、それに伴って固定費を増やしながら、徐々に累積的に進行した。それは、特に信用と法人企業の資本化が大規模に利用されるところでは、産業の営利的経営の不可避的な結果、というより付随物であり、それは時間が経ち、資本主義体制が発達するとともに必然的に成長する。
また同時に、それが産業体制の成長に固有のものであるため不可避的に、こうした立地等々のもたらす差別的利益は、老朽化によっていくらか減価し始めるため、資本化過程で己に帰されたような高い稼得能力の値をもはや有してはいない。それによっての、これらの事項が負担する固定費、つまり特定の営利事業体がこれらの資産の所有するために負担する固定費と、それらの資産の所有による稼得との好ましからざる食い違いが生じる。
前段で述べたように、この老朽化は、必ずしも物理的劣化という性質を持つものではなく、改良された技術的装置に置き換える必要さえない。しかし、全産業体制が規模の変化、生産の中心地と経路の移動、輸送と販売方法、その他の関連する産業体制の変化、標準的な労働条件または労働力需要の季節的変化等々――これらは大部分が関係する営利事業体の統御不能で修復不能な事象である――によって、老朽化した技術装備の利用を不要とするまでに成長したという事実から生じるにすぎない。実現された資本化と満足な収益力とのこうした食い違いの諸原因にはそれぞれの結果が伴い、それらの結果は営利を考慮して運営されるどんな産業社会でも成長、変化および再調整の付随物として不可避的に現われる。そして時が経つにつれて、それらは概して量的に拡大する。そのためドイツ産業社会は、近代的産業企業のかかる付随物を適度に分かち合うのに加えて、明らかにそれらを原因とし、それらに付随するその種の付随物をもっと多く持つのである。
種類は異なるが、ほぼ同じ全般的結果をもたらすさらなる困難が、もっと近くにあり、もっと利用可能な天然資源から引き出すことのできる原材料の供給力を越えた産業の成長から生じる。ますます遠くなるか、ますます難しくなる供給源に頼らなければならなくなるのである。これは、この頼りの綱が国境内にある資源か国境外にある資源かにかかわらず、費用を上昇させるように作用する。この原材料一単位あたりの費用の増加は、より利用の難しい資源に頼ることを必要にするその種のいっそう大規模な産業のもたらす生産経済の拡大によって少なくとも十分に相殺される傾向があると言うことができ、またそのように推定することをためらう必要もない。それでも、産業体制の規模と範囲の拡大は、その効率性の値がどれほどの高くなろうと、上記の推論をこうむるという事実に変わりはない。実際、これは帝国の政治家が、論理を奇妙にねじり、植民地の獲得によって修復することができると信じるように自身を説得していた予見されていた困難の一つであったのである!
体制の成長に本来的なものであり、また打破することのできないこれらの欠点のどれよりもはるかに深刻だったのは、生活水準の上昇――おそらくもっと正確には、支出水準の上昇というべきであろう――による生産費の上昇であった。これは、それが労働者階級働の維持費の増大の問題である限りにおいて、「労働争議」から切り離せない産業の妨害と停滞と並んで、不満と苛立ちという負担をもたらす。この点でも、ドイツの産業時代には不利な点があった。その問題は、初期における費用を超える販売価格のマージンからのわずかな減少に始まり、三〇ないし四〇年間にきわめて少しずつ大きくなってゆき、いささか手に負えないような問題になるに至った。
他のどこでもそうだが、ドイツでも、支出水準の上昇のために増大する労働者の不満は、――貴族的または独裁的な体制の形をとる慣習的または合法的特権によるか、それとも財産を所有する人々の行使する所有権によるかを問わず――所有階級と特権階級に賦与された無責任な権限の行使に対する不満のような臣民階級の不満と部分的に融合した。この融合が決して完全だったことはなく、同時にどんな具体的な事例であれその二者を区別することがいつも可能だったわけではない。この苦境は、全ての発展した商業国の産業経営を悩ましており、当局は、譲歩および救済策と抑圧的手段(飴と鞭)の両方を用いてきわめて効果的に対処してきた。そのため、ドイツ産業社会は、このしいた原因から生じる騒動、妨害および苛立ちを考えれば当然と思われるよりも小さい苦しみを経験しただけですますことができた。それでも、政治家および当該公共団体の一切の厳しい運営にもかかわらず、労働者階級の要求は、近頃では、資本化への「最低生存利益」の支払を可能にする利幅を脅かし、ドイツの営利事業にとって脅威となるほどの程の不都合な水準にまで拡大してきたことが明らかとなっている。また同時にそれは、実現できる利幅がこの手段によって最終的に小さくなりすぎ、政治的および軍事的な国家体制を保持することができなくなるという不測の事態を展望させるという点で、国家当局にとっても困った問題である。
この最後に関連して言えば、生活水準の上昇は際立って困った政治問題をもたらす。例えば、産業収益の配分を増加させるよう求める労働者には、不忠義の感情や罰などなく、そのため最高の恩寵を求め、成功するという理性的希望をもって彼らに愛国的心を訴えることなど不可能である。その種の忠誠心を維持するためには、むしろ国家は彼らの求める要求において誠実かつ確実に彼らの味方であると確信させる必要がある。一方、資本家=雇主にそのような訴えを行っても、少なくとも同じほど無益である。というのは、これらの人々は主要な機会(自己の利益を得る機会)の見込みによって動かされているからであり――さもなければ彼らは資本家・雇主とはいえないだろう――、また――最終的に圧力を逃れ、自分の事業をどこか他の場所に移すという選択肢を除くと――同じく選択の余地を残さない信用拡大、社債および固定費という蜘蛛の巣にからまっているからである。これらの関連のいずれでも、そのような不測の事態が近頃になって遠い先の出来事とは限らないように見えてきたが、その情況はまだ頂点に達したと言うことはできない。しかし、このすべてのことが帝国とプロイセンの政治家によって取り扱われてきたのであるから、またそれが究極的には他の誰の関心事でもなく彼らの関心事をなしているのであるから、もっと後で、これらの問題に関する国家政策を検討するときに、この問題の探究に戻るのが最もよかろう。
しかし、生活水準の上昇は、金持ちと裕福者にも自分で働く人々にも影響を与える。そして前者の必要は後者の必要より切迫しているわけではない――仮に後者の必要が物理的な生存最小限を超えた水準にあるとしても――。いずれにせよ、その生活水準は例外なく主に「まともな生活」とも呼ばれる立派な支出の水準であり、またそのようなまともな生活水準に達しないときに受ける傷は精神的な性質のものである――「まとも」という精神的な必要が、困苦という衝撃を後者(労働者)に投げ返し、かつ基本的な身体上の生存必要物にかかわる現実的な習慣的欠乏に苦しんでいることを明らかにするほどの肉体的快適さを犠牲にしては、満たされない限りにおいて――。しかしながら、これが通常の事実であり、こういったことは、生じている限り、困窮の被害者によって本当の(bona fide)の肉体的困窮と感じられ、そのため理性や感情に訴えることによって正すことも修正することもできるものではまったくない。
貧困者の間でも、また金持ちと裕福者の間でも、まともな支出の標準的規模は強制されたものとなるであろう。またここでは詳細に論じられない理由で(53)、そのように標準化されていて、どんな階級や社会でもまともさの主な構成要素として受け入れられる支出額は、大雑把に言うと、その階級や社会の習慣的所得が顕示的浪費の形で維持できる額によって決定される。それは「事情が許す限りの額(大きい利潤)」という原則のもう一つの応用である。しかしながら、そのような顕示的浪費のための慣習的な金額が慣習的な所得の支え得る金額に調節するのは、習慣化の働きであるため、時間と若干のいくらかの入念な苦心を必要とする。しかし、まともな支出は、そのようにいつもの日常の習慣に織り込まれるや否や、そしてその限りで、必需品の目録の中に座を占め、好ましく欠いてはならないものとなる。この点で、ドイツ社会は、強制的な吝嗇の時代から伝わった倹約の伝統を持っているため、これまでのところはただわずかな進歩をなしたにすぎない。彼らの中で最も費用のかかる者が十分に浪費的でなかったというのではなく、世間並みの人々が浪費家社会の中で一生の経験を積むという利益を受けてきた相続財産を持つ紳士の特徴となっているあの控えめな能率で大きい財産を消費するようにほとんどなっていないのである。最良の種類のイングランド紳士は、伝統的言って等しい地位にあるドイツ紳士の費用の七倍を全部で費やすであろうと、恐らくいまだに言うことができる。それに、ドイツ人は、金持ちも富裕者も、かなり予想される通り、よく、また速くたるみを取っている(合理化している)。彼らは人種的にはイングランドの仲間とまったく同じなので、その機会と適当な時間を与えられさえすれば、この文化的発展の特徴の点でも後れを取ることはないであろうということを銘記しておくべきである。
ここでも時間と生存手段のまともな浪費を非難するつもりがないことは言うまでもない。それは価格制度の必要な付随物の一つである。また、それは帝政ドイツがまだもっと成熟した産業国に追いついていない点の一つである。しかしドイツ社会はこの方向に向かってきわめて効果的に動いているので、もし事故が起きないとするならば――これはまさに現局面の大きい疑問点である――、産業的産出と現在の消費との自由に使える利潤幅はすぐに消えると期待されるかもしれない。こうした経路によって生じる消失を妨げることになる事情とは、財産をある種の実業家から別の実業家に永続的に移すことであり、また産業技術の持続的な成長を通じて産業の生産性を持続的に拡大することであろう。
(46)その世代(一九世紀中葉)のドイツの愛国的経済学者たち、そして彼らの見解を反映する著述家たちは、自分たちの提案する政策について語るとき、官房学より「国民経済」という表現の方を好んでいる。当時の経済学者を自称する者は、どんな公平な意味でも、主な関心を理論的研究より政策形成に置いていたことが特に注目に値しよう。イングランドの(古典派)理論家の提示する経済学体系に対する彼らの異議は、主にイングランドの古典派の公式の提示する実践的指針が国民的な力を建設する方向には実際に役立たず、特別の関連を持っていないという理由にもとづいており、これに関連して「国民的」という言葉は、国防と攻撃および用心深く国境を防衛するために組織された王朝国家を暗に示している。
一八世紀の典型的な官房学者が一九世紀の「国民主義者」、すなわち歴史学派の経済学者と相違する点は、原則と目的の違いというよりは、国家の経済的基盤と課題にかかわった後代の理論家によって考察された必要な広範な方法と手段の違いである。商工業の状態は、昔から顕著に変化してきており、国家の物質的力に最も貢献する経済政策ならば、必然的に、かつて充分と思われたものより広範囲のものとなっただろう。単なる財政的な開発手法では、もはや大規模な取引関係と資本化された産業体制を持つ社会を最大限に役立てるには十分ではなかった。とはいえ、国家の物質的な利害が一九世紀のドイツ経済学の中でに第一の位置を保持し続けること、またイングランド人に見られなかったことであるが、その体系的な解説の中で財政に関する考察に重みと重要性が与えられているのは確かである。財政学はドイツ人の経済理論の最強の線であり続けたのであり、それは国家の利害が最高位にあるという命題に一律に沿っている。イングランド人、特に古典派については逆のことが成り立つ。
(47)言うまでもなく、そのようなドイツの植民地には――もしそれらの植民地が、ひょっとして、自分たちの発展を助成してきた国民政権から離脱し、帝国の植民地として自発的な合併に向かう程の規模の君主権に対する忠誠に達し、それを保持するのでもない限り――あったとしても、わずかな王朝的価値しかないだろう。帝国に対する忠誠心の金銭的費用がすさまじく高く、しかもその金銭的利益がかなり疑わしい以上、そのような結果はほとんど考えられないだろう。また国外に定住するドイツ臣民がドイツの旗でなく、他国の――他国であればどこであろうと、と言いたくなるかもしれない――国旗のもとに進んで避難所を求めることから見ても、帝政国家の圧政下に喜んで身をささげるといったことはまったく考えられない。
(48)ゾンバルト教授(『一九世紀のドイツ国民経済』第二巻)のようなきわめて有能な観察者さえ、事態の同じ状態の与える利点をかなり無視して、この側面を観察し、詳述する。それはまったく通常の見解であり、またゲルマン主義のスポークスマンの側におけるある種の自己満足および「人種的な」評価に限らず、ドイツの偉業に対する(疑いなくふさわしい)称賛の豊かな根拠となっている。例えば、W・H・ドーソン『近代ドイツの進化』を参照。これは帝国の外交に就いている高名な人々によって(称賛なしで、したがってまた無条件に承認されることなく)かなり広範に書写されてきたという栄誉を担っている。また例えば、E・D・ハワード『ドイツの近年の産業的進歩の原因と範囲』を参照。ドイツ近代経済の時代についてのあらゆる研究の中で、上に引用したゾンバルトの研究がこの時期の研究者にとって最も有益なものであることは言うまでもない。
(49)十全な銀行業および類似の金融事業体の設置が当然のことと考えられる呼び物の一つであることを示すには、商業的または産業的な時期の歴史的研究のどれでも十分であろう。それらは世間の注目を浴び、またきわめて慎重に詳しく扱い、そこで特に貿易統計に感動している人々の注意を引き続けており、産業発展の主要因として高く評価されるようになる。
(50)普通の労働者が機械産業で引き受ける極度に機械的、単調、そして愚かしい部分の性質については、通常、多くのことがとげとげしい調子で言われてきた。これらの酷評はしばしば話し手側のある程度の無知を反映しており、その酷評が誇張され、寛容できる限界に度々近づくことは言うまでもないが、誇張をすべて正当に考慮しても、上段で主張したように手工業と機械産業がこの点で非常に大きく相違しているという事実はまだ残っている。
(51)『製作本能論』、第二、三、五および七章を参照。
(52)補注四の三三二ページを参照。
(53)『有閑階級の理論』、第二―第五章参照。

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