2022年12月3日土曜日

物価について 2

  初回は、主に新古典派の教科書経済学に載っている需給に関するクロス図の非現実性=虚偽性を説明しました。これについては、まだ重要な点が二三残っていますが、それらについては後日適宜言及したいと思います。それに言及するためには、その前に明らかにするべきことがいくつかあるからです。

 さて、今日はいわゆる労働価値説(value theory of labour, or theory of labour value?)について語ることにします。が、本論に入る前に、前回説明したクロス図が効用価値説(theory of utility value)と呼ばれていることに注意しておきたいと思います。実際には、この理論は、限界効用の低減および限界費用の逓増という2つの公準にもとづいているので、そのうち効用だけを取り出して、効用価値説と呼ぶのはいかがなものかとも考えるのですが、世間ではそのように呼んでいるので、ここでもさしあたりそのように呼ぶことにします。

 イメージとしては、例えば現代の物理学者が「質量」と呼ぶものを考えると理解しやすいかもしれません。ここに例えば10kgの米と10kgの鉄があるとき、両者は素材としてはまったく異なったモノ(米と鉄)です。しかし、この地球上では両者とも10kgであり、かりに月面に持って行って計れば、両者とも2kg弱になるはずですが、その中に含まれている実体(質量)は変わる訳ではありません。

 このように価格現象の背後にある実体(substance)が存在するという思想は、少なくとも古代ギリシャにまで遡ります。哲学者アリストテレスが家政術(oikosnomos)を論じた書物の中で、価格現象を取りあげ、複数の等しい価格の中には等しい何か(実体)が隠されているのではないかと考えたことはあまりにも有名です。

 x単位のワイン=1ドラクマ

 y単位のオリーブ油=1ドラクマ

 等しい価格1ドラクマの中には共通の何かがあるに違いないと考えるのは、ある意味で当然の思考方法でしょう。しかし、結論的に言うと、アリストテレースは、そのような実体(あるもの)を発見することはできず、そこで存在しないという結論に達します。

 それからおよそ2千年。ブリテン島の一群の経済学者たちは、当該商品を作り出すのに投下された労働こそがその実体であり、価格の大小は投下された労働量の大小によって決まるという思想に到達しました。(労働価値説としては、その他に支配労働価値説と呼ばれるものがありますが、これは省略します。)その中でも最も有名な経済学者がアダム・スミスであり、その経済学上の主著が『諸国民の富』(the wealth of nations, 1776)であることは言うまでもありません。

 

  しかし、アダム・スミスの労働価値説は、必ずしもスムーズに次の世代に受け継がれたわけではありません。多くの批判者が現れました。その中でも最も重要な人物が***であったと、私は考えています。彼は経済における人間の意識、または主観の重要性を指摘しますので、しばしば誤解されて、効用理論の提唱者とされることがありますが、それはまったくの誤り、無理解です。実際、彼は効用理論もまったく成立しがたいと考えていました。私は彼がイングランドの正当な哲学的伝統の上に立っていたと考えています。

 彼の言うことは、こういうことです。 どのような価値実体説であるにせよ、それらがなり立つからには、それは人(各個人にせよ、集団にせよ、社会全体にせよ)の意識にのぼらなければならず、人によって認識されなければならないということです。その認識メカニズムが明らかにされない限り、社会科学としての経済学の理論は成立しない、と。

 私もその意見に完全に同意します。そして、これが自然科学と社会・人文科学とを峻別する相違点をなすと思います。前の話に戻り、物理学の質量を取りあげましょう。物理法則、例えばニュートンの運動方程式は人間の意識とは無関係に成立します。もちろん、それを認識するのは人ですが、宇宙に発射されたロケットが描く軌道は、地上の人間の意識とは無関係に決まります。もちろん、官制センターの誰かが軌道を変えるための指示(電波を通じた操作)を与えれば別ですが、そうでない限り、ロケットは物理法則に従って運動するのみです。しかし、経済は人間の営みであり、人の意識によって決定されます。

  後に(19世紀)になってから、まずD・リカードゥが、そして次にK・マルクスが労働価値説の再構築を試みますが、その場合でも、いま述べたことは当然当てはまります。

  ここでちょっと思考実験をしてみます。今、あなたがマーケットで買い物をしているとします。あなたは、買いたい商品を探しだし、そのパッケージを見て価格を確認します。もしその価格を妥当と感じれば、買うでしょうし、高すぎると感じれば、買わない可能性もあります。しかし、決してその商品の生産のために投下された労働量を考えることはないでしょう。もしいたとしたら、それは超レアな人に違いありません。しかし、そのようなレアな人も実際にその商品に投下された労働量を知ることは不可能でしょう。

 ただし、これで話しは終わり、という訳ではありません。市場で商品を買うという瞬間の時点では、商品に投下された労働量を知ることができないとしても、もっとルーズな、現実の長いタイムスパンの中ではどうでしょうか?

 この場合でも、個々の商品の生産に投下された労働量を正確に計測することはありえない不可能事であることは疑えません。そもそも一口に労働量といっても、個々の労働は異質であり、ある人の一時間の労働(製鉄作業)と別の人の労働(農業)はまったく違う作業です。この点について、マルクスはもちろん気づいており、「具体的有用労働」が「抽象的人間労働」に一般化される経路があると主張します。また複雑労働の単純労働への還元についえても言及します。私は、この主張に完全には同意できないところがありますが、ともかく、最終的には、労働時間が労働量を計測するための単位であるという結論には、同意せざるをえません。

 そして、労働時間については、人によってかなり異なるとはいえ、当該社会にとって標準的または妥当な水準に関する社会的同意はあると言えるでしょう。現代の世界では、欧州の労働時間はかなり短くなっており、1500時間/年ほどでしょうか。日本の場合は、それよりかなり長く、2000時間ほど。ダラダラ働き、時間あたりの労働生産性の低さが問題点として指摘される程です。

 瞬時ではなく、長いタイムスパンの問題として、次に取りあげなければならないのは、所得です。所得は、一定期間に実現されるフローの量であり、ほとんどすべての人が働くのは、この所得を得るためです。そして、上記の労働時間を通じて人々が年間に受け取る所得は、年齢・職業・性別・熟練度・その他の要因に応じて、バラツキ(格差)があります。

 ともあれ、多くの人の意識の中では、「自分はこれだけ働いたのだから、これだけの所得を受け取って当然」と満足したり、「あれだけ働いたのに、少ない」と不満を並べる、等々です。

 ここで述べたことは、何を意味するでしょうか? 次のようなことは、間違いなく言えるはずです。

 1,マルクスが資本論で当然のように前提して記述を行っている投下労働時間に応じた厳密な等価交換は、実際には行われていない。むしろ不等価交換といった方がより正確であろう。

 2,それにもかかわらず、労働時間と所得というターム(現実に認識される事実)を通じて、労働量(あるいは労働時間)は、物価に大きく寄与している。

 この2点についてさらに敷衍したいと思います。

 現実の取り引きでは、投下労働に応じた等価交換が行われていないことは、現実の経済を少しでも観察したことのある人なら誰でも分かることでしょう。もしもそれを信じている人がいたら知性を疑いたくなります。それにもかかわらず、マルクスが等価交換を前提として理論を組み立てた理由が問題となりますが、その理由の一つが彼もまた人は「理念型」を通じてしか現実に接近できないと考えたからと、私は思います。

「理念型」(ideale Typen) というと、マックス・ヴェーバーを思い出す人が多いと思いますが、私の意見では、彼に限るわけではありません。

 そもそも人の認識能力は限られており、複雑で複合的な要因からなる不確実な現実世界を「ありのままの事実」として見るためには、複雑な手続きが必要となります。われわれは、構成的概念を用いて現実に接近しなければなりませんが、その理由は、私たちが現実を一挙に正確に認識できないからです。現代の物理学でも、私たちの住む宇宙(時空)のすべてを認識できないため、構成的概念を用いています。そして、「ありのままの事実」が少しづつ認識される程度に応じて、理念型に合わない部分を修正し、ある場合には構成的概念を全面的に組み直すことも行われます。

 社会科学でも同様でしょう。かつて、ある人が私に向かって、ヴェーバーの理念型は、静態的、固定的で現実にあわないという旨の発言をしたことがあります。しかし、ヴェーバー自身はそのようなことは当然織り込み済みであり、現実の世界はもっと複雑であることをよく知っていたはずです(「社会政策学と社会科学的認識の客観性」論文)。例えば彼は、中国が典型的な家産制国家であると言いますが、同時に、それを破るような試みが歴史上しばしば現れたことをも注意をもって指摘しています。

  マルクスに戻ると、彼もまた<とりあえず前提して議論を進め>、後でその前提自体を再検討するという作業をしばしば行ってきたように思います。ところが、原理主義的・訓詁学的マルクス派がそのことを理解せず、マルクスを検討することを拒否してきたように思います。そして、そうこうするうちにマルクス自身が拒否されることにもなってしまったようです。

  もう一つの点です。マルクスは『資本論』を出版した後に、ある医師から<この本は、労働価値説を前提として議論を議論を進めているが、労働価値説自体が説明されていない>旨の意見を受け取りました。私も(多くの読者もそうではないかと思います)、そう思います。そして、これに対するマルクスの返信が私には大きい関心をそそります。彼の返信は、<労働なしには、どんな社会も一週間と存続できない>といった趣旨のものです。

 私も、これには100%同意します。自然(地球)と労働は富の二つの源泉です。たしかに、これは投下労働に応じた等価交換を必ずしも意味するものではありません。しかし、労働なしで富は享受できないこと、そして物価の背後にある要素の中で、労働こそが無視できない、最も重要なものであるということは否定できません。

 繰り返しますが、私は厳密に投下労働に応じた交換がなされていると主張しているわけではありません。現実には、不等価交換が行われています。しかし、それにもかかわらず、労働量(または労働時間)は価格の背後にはり、それに最も強く作用する要因であることも否定できないはずです。それを人が意識・認識するメカニズムもあります。

 このような意味で労働価値説が妥当することは、社会的にも広く意識されています。例えば、現在日本の人口統計学的状況はかなり悲惨となっていることが(遅まきながら)意識されてきました。毎年の出生数は、安倍政権時代にも急激に減少し、減少傾向はおさまる気配を示していません。これは味気ない経済学のタームを使って表現すれば、今後、(外国から労働力=移民を受け入れない限り)労働力が何十年間も減少しつづけることを意味します。もちろん、これが意味することははっきりしています。

 私の意見は、「日本、オワコン。この先も長く続く衰退の道」、この一言につきます。下の図から、橋下・小泉構造改革(リストラ)の時代、安倍腐敗政権の時代にいかに危機的に少子化が進行したかを、よく見ていただきたいと思います。

(続く) 



 

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