2015年10月31日土曜日

現在と将来 ケインズの「不確実性」と現存の状態を持続させる慣性力


 当然のことであるが、私たちは常に現在の時点で行動する。経済行動についても同様である。未来はまだ来ておらず、過ぎ去った過去は取り戻せない。
 しかし、よく考えると、現在の瞬間瞬間における私たちの行動は、一方では、人々が過去になした行動の経験とその帰結を調査することによって得られた情報・知識に依存しており、他方では、将来に関する何らかの知識に依存している(はずである)。
 例えば企業が設備投資に関する決定を行ない、次いで実行する場合には、あるいは労働者を雇用する決定を行い、次いで実行する場合には、これまで出来事についての情報を、それがどれほど不完全であろうとも、獲得し、分析し、また将来に対する一定の期待にもとづいて、自分たちの経営行動を実行に移すはずである。過去および将来の知識なしに、経営行動を決定することは自殺行為に他ならない。
 しかし、私たちは、過去の経験を正確に調査し、それを将来のためのガイド(案内役)として役立てているかというと、大いに疑問である。
 ケインズもまたそのように考えた。たしかに将来については、まず一つには確率論的に把握する可能性の高い事象がないわけではないかもしれない。しかし、すべてが確率論的に把握できるわけではなく、むしろほとんどの事象は、「単に私たちは知らないだけである」。多くの事象については、「何らかの計算可能な確率を打ち立てる科学的基礎がない」。例えば一週間後のN市の天気が晴曇雨のうちいずれとなるかは、気象庁の天気予報によりある程度まで確率的に把握できるとしても、例えば2年後、あるいは5年後、10年後の天気については、私たちは単に知らないだけである。10年後の株価、私たちの所得、電化製品の価格、利子率、寿命、失業率、中東(イラク、シリア、イランなど)の情勢を知っている人はいない。またそれを確率論的に取り扱うことに意味があるとも思えない。つまり私たちの将来についての知識は、多くの場合、あるいはほとんどの場合と言ってよいかもしれないが、まったく「不確実」(uncertain)である。
 しかし、それでも私たちは、「合理的経済人」として面子を保つべく行動する(ことを余儀なくされる)。
 それはどのようにしてだろうか?
 ケインズは、そのための多くの技術(テクニック)があり、そのうち重要なものが以下にあげた三つであるという。
 1)現在の状態を将来のガイドとする。つまり、現在の状態が続く、あるいは将来も変化しないと想定する。
 2)現在の状態が将来の展望を正しく反映したものと考え、受け入れる。
 3)よりよく情報を得ている自分以外の世界の判断に、したがって現在の多数派、または平均の見解に従う。

 さて、このケインズの思想については、様々なことを指摘できるように思われるが、ここでは次の点を指摘するにとどめておこう。
 1)ケインズのこの思想は、現代の行動経済学者の考えを先取りしたものであると言えよう。これは、私たちが過去の経験を正しく調査し、また将来に対する確実、正確な知識をもって行動するのではなく、現在の時点における人々の社会的行動におおきく制約されていることを意味する。
 2)これはまた、社会全体がある状態に陥ったとき、それを持続する大きい力が作用するため、将来に関する別の展望にもとづいてそれを変えることがかなり困難であることを示す。
 例えば賃金率を変えること、とりわけ労働生産性に応じて引き上げることは、社会全体にとって購買力と消費支出・需要を増やすことによって個別企業にとっても決して悪い話しではないとしても、きわめて困難となる。上記の1)2)3)が「合理的経済人」としての現在の判断・行動を正当化しているからである。
 この慣性力を帰るには、果たして何が必要となるだろうか? 

 
(ケインズ、1937年論文)
 私たちは、そのような環境の中で、合理的な経済人としての私たちの面子を保つように行動することがどのようにして出来るのだろうか? 私たちはその目的のために多くの技術を考案してきており、そのうち最も重要なものは次の三つである。
 (一)私たちは、過去の経験の客観的な検討によって過去の経験がこれまで将来のガイド〔案内役〕であったことを示すよりも、現在が将来についてのはるかに役に立つガイドであると想定する。言い換えれば、私たちは私たちの何も知らない現実の性格について将来の変化の展望をおおかた無視するのである。
 (二)私たちは、価格の現在の状態および現存する産出物の性格に表現されているような見方の現存の状態が将来の展望の正しい集計にもとづいており、そのため私たちは何か新しいことや適切なことが視野に入って来ないか、入って来るまでは、それをそのようなものとして受け入れることができると、想定している。
 (三)私たちの個人的判断に価値がないことを知りつつ、私たちは、おそらくよりよく情報を得ている自分以外の世界の判断をよりどころとする。つまり、私たちは、多数派または平均の行動に従おうと努力する。各人が他人を模倣しようとしている諸個人からなる社会の心理学は、私たちが厳密に「伝統的」判断と呼ぶことのできるものに帰着する。

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