2019年10月30日水曜日

帝政ドイツと産業革命 第四章 イングランドの事例


 続いてヴェブレンの『帝政ドイツと産業革命』の第四章「イングランドの事例」の訳文をかかげる。
 ドイツとイングランド(またはより広くブリテン島)は、どのように違うか、これを比較史的に概観するのが、第四章におけるヴェブレンの主題であるが、彼は、両者には本質的な相違はなく、ただ両者が近代化の経験をスタートしたときの時代(時機)と期間(時間の長さ)の相違だとする。両者とも、隣人たちから借用(borrowing)を行い、それに自分たちの目的にあわせて改善してきた。しかし、イングランドは、近代のより早い時代に、かつ長い時間をかけてゆっくりとそれを行い、ドイツはずっと遅れて、つまりすでにイングランドが覇権を確立してから、しかも短期間でそれを行わなければならなかった。イングランドが孤立した島国であり、ドイツと異なって、相対的に平和な状態(他国と交戦していない状態)にあったことも相違を生み出すかなり大きい事情であったとされる。
 こうした差異が両者のどのような差異をもたらしたか、その詳細は本文で詳しく議論されている。 




T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年)
 


第四章 イングランドの事例

このように明示的に提示すると、一つの技術体制は、その技術を出来合いのものとして、その技術を元々生み出し、かつ生活様式の付随的な他の変化と関連づけながら累積的に成熟させてきた社会でその技術が既に生み出していた効果と異なったものとして、受け継いだ社会に対して経済的価値と文化的投射を持つ、という見解にまとめられるが、そのように整然とした一般論として述べると、この命題は聞き慣れず、またおそらく疑わしくみえるかもしれない。しかし、よって立つ前提として公に認めるかどうかはともかくとして、その命題は確かな常識としての地位を固めて久しい。そのような借用の事例が歴史家や文化人類学の研究者の中で注目される場合には、このようにあまりなじみのない産業的手法と手段の体制を受け継いだ民族は、「粗野」、「未熟」、「均衡を欠く」、「粗雑」、「非純血種」などと特徴づけられるのが普通である。これに反して、かかる社会のスポークスマンは、「若々しい」、「たくましい」、「質実」、「血気盛り」と語る傾向がある。いずれにせよ、その意味は、差別的な感情を別とすると、次の通りである。すなわち、そのような民族は、一方では、かかる技術効率の進歩に必然的にかかわるものとして実現されるべきであり、またいつか必ず生まれるあの非物質的な文化要素、産業事象ではないことにかかわる思考習慣を獲得しなかったということであり、他方では、新たに発見された物質的効率を身につけた民族は、その同じ技術を久しく使用してきた諸民族の中でしだいにその技術を使いづらいものにした無益で抑制的な習慣や流儀を受け入れなかったということである。どちらの見解にも異議を唱える必要はない。習慣化の現象、したがって習慣の成長の現象として見れば、鏡に写る両面である。それらは同一の見解の二つの側面である。またドイツの事例とイングランドの事例の相違、またその他のヨーロッパの産業的に先進的な民族の事例との相違はこうした性質のものである。ドイツ民族は、この技術が生まれながらに所属する近代的産業文化の恩寵を受け継がずに近代技術を受け取った。しかし、彼らがこの技術体系をその性質の欠点を抜いて受け継いだことを指摘することも少なくとも同様に肝要である。
その点で、ドイツの事例では、英語諸国民の持ったような規模の経験と文化的な熟成がない。換言すれば、ドイツ人が西洋の物質文明の流れの片岸に立ったときに何が欠けていたかは、この技術的成長の時期全体のイングランド国民の事例と対比すると最もよくわかる。この二つの国民の人種的起源は同じであり、彼らの文化上の先人は古代を通じて同じであり、異教時代の後期にさかのぼる。両者の経験は、中世にさえ、はっきりと異なる文化的な帰結をもたらすほどに異なっていない。相違が顕著になり始めたのは封建制時代の末期からであり、技術的状況が英国の産業体系を最近までドイツの産業体系から区別してきたあの近代的性格を帯びたのは、イングランドの編年誌が教えるように、近代が始まってからのことである。したがって英国の文化的パターンが他の点でもドイツのパターンからはっきりと分化してきたのも近代である。
あらゆる注意深い歴史研究で注目を引くような細部の相違は、もちろん、きわめて早くから現れる。そして、一般的な類の文化的発展に関係する限り、これらの初期の相違は、これら二国民の間の情況の後代の相違とまったく同じ種類のものなのであるからか、ここで当然想起されるべきだろう。民族移動の時期以来、ブリテン諸島への侵入者は、いま「祖国」(ドイツ領)となっている土地に侵入した同族の運命を左右した環境と異なった性格の環境にさらされてきた。ブリテンに侵入した異教徒はローマ化されたキリスト教徒の住民を目の前にした。それは、彼らが征服した民族、またまず政府組織を設置して支配しようとした民族は、ローマの平和および教会司祭の支配下に従順と整然とした(秩序ある)生活をすでに学んだ民族だったことを意味する。一方、ドイツに定住した野蛮人は、もっと扱いにくく、おそらく経済的により価値の低い住民を見いだしたように見える。同時にドイツ領の野蛮人の様々な集団は、相互により絶え間なく争い続ける一方で、ローマ帝国およびその後継者とずっと敵対的に接触し続けていた。そのためアングロ・サクソン期のブリテンはまったくの騒乱状態にあったにもかかわらず、流血と負傷、暴行、奴隷制と迫害という状態が暗黒時代を通じてドイツの生活体系を形成していたのと対照的に、終局的にはブリテン島の情況は比較的平穏だった。それでもこの二国は同じ封建時代を経験したのであり、二つの異なった線の文化的発達をその後にたどったと言うことができる程に生活様式の方法を全般的に深く変えることはなかった。
中世から近代への移行にあたって、イングランド諸民族は、西ドイツと南ドイツを含む西欧および中欧の他の地域と比較して文化的に遅れていた。その時期が一五世紀末か、それとももっと前の時期から始まるのか、その如何にかかわらず、また産業と物質文明の点で比較するのか、それとも知的達成と生活様式という非物質的な条件についてするのかにかかわらず、そうである。しかし、それに続く百年間にイングランド社会は長足の進歩を遂げ、その百年間が終わるまでにヨーロッパ大陸の隣人たちと(この点は疑わしいかもしれないが)肩を並べるほどになっていた。この英国の進歩は絶対的であるとともに相対的なものであり、ブリテン島における加速的な進歩と大陸の領土の多くにおける進歩速度の停滞の両方によるものであるが、ただしその停滞は大陸では一六世紀末頃より一七世紀によりはっきりしている。大陸の競争相手諸国の事態と再び比較すると、相対的にイングランド社会はこの時期に政治的、軍事的および宗教的な混乱による休止を経験するが、この休止は減速(mitigation)であり、完全に停止した(surcease)わけではない。それは、古典的時代の新しい商業、産業、および学問の進展と、とりわけその進展がもたらした生活の保証の増加の進展と疑いなく大いに関係している。またそれと同時に、それがブリテンの平和の最初期の時代のこととして注目に値する――この平和はそれ以来時としてもちろん危険にさられながらも結局のところかなり一貫して続いてきたのであり、この点にこの島にもたらされた生活条件と大陸に広まっていた生活条件との差異が示されているのである。そのため、条件付きであるが、近代を通じて平和の技術がより大きい注意を求めてきたのである。同じ時期に戦争の技術と王朝政治・宗教の技術が大陸諸国民の主要な注意を求めてきたと、同じ程度の確信をもって言うことができるかどうかは疑問であるが、いずれにせよ、この点での対照は見逃すにはあまりに明瞭であり、またその性格は人間関係および人間の目的を支配する諸制度および先入観の異なった成長に有効でなかったとするにはあまりに深すぎる。

いま検討している目的にとっては、近代英国社会は、いくつかの点に照らすと、二つの局面または段階に分けるのが最善かもしれない。初期の局面は一六世紀初頭のある時期から一七世紀のある時点まで続き、一方、後者はおおよそ一七世紀後半に始まり、現在まで続く。前者の段階は言うまでもなくエリザベス時代に最盛期を迎えた。ただし、その文化的な帰結は後の時期に十分に実現される。後者の最高潮は、慣習的にそう呼ばれている産業革命によって刻印され、主に一九世紀の英国文化にその刻印を残している。
英国近代をそのように細分する理由も指標も、主に技術的または産業上の性質やそれに関連するものである。これらの二つの時期のうち初期は、イングランドが産業技術を借用し、同化した最高潮の時であり、したがってある意味でドイツの帝政時代に対応する。後者の時期は、特別な意味でイングランドの生活における創造的な時代として特筆され、機械産業によって特徴づけられ、また支配されている現在の技術体系を生み出した時期である。そしてドイツ人のこれまでの生活史にはこれに対応する時期はない。したがってイングランド社会の生活史には含まれるが、ドイツ人の国民的天分を作り出した経験を欠如させるおよそ三百年ないし四百年の時期があるように見える。
この命題は、このような無限定な形のままでは、誇張に行きつきことは疑いないだろう。必要な修正を行うことが明らかに効果的であるが、それらを公式的な言説にまとめるのは決して簡単ではない。殊に、時間であれ、他のどんな次元であれ、定量的に記述できる修正を導入するのも難しいだろう。またここで問題としている点――二つの社会の先だつ対照的な経験と、それに続く対照的な習慣的傾向――に関する限り、イングランド人がしだいに近代化される体制の下で生活の訓練を受けてきたのに対して、ドイツ人は古めかしい種類のより多くの、かつより厳格な経験を集めてきたことを想起しても、両者の差異が減じることはない。
ここでもまた、ありうる誤解を避けるためには、二つの対称的な民族がそれぞれ受けてきた経験と、したがってまた、その結果生じた習慣化の対照に注意を向けるとき、差別的な比較を意図してはないことに注意することが必要と思われる。ある特別な目的のために評価する場合を除くと、ある因襲的に承認された長所や便宜にもとづいて、一方が他方より良いとか悪いということにはならない。明白にするように努めるべき全要点は「相違がある」ということにすぎない。もちろん先進工業国で通用しているような近代西欧文化の見地から見ると、この差異は比較される二者のうちドイツ側の精神的発達が抑制されているとみなされるべきだろう。もちろん退化や遺伝的欠陥といったものではなく、中世から最も隔たっている諸民族に見られるように、近時の文明人の理想、目的および精神(animus)と折り合わない習慣的性向があるというだけである。それは本質的な意味における人間的性質の特徴ではなしに、ただ習慣と伝統という第二の天性にすぎない。そのように中世的な心の本拠地保から遠ざかることは、それを見る者の好意の持ち様に応じて前進とも後退とも評価されることになる。したがってそれは好みの問題となるのであり、この点について議論の余地はない。
この時期のイングランド史を大きく温情的な見地から取り扱った近代の著述家たちは、エリザベス朝のイングランドを自己完結的な文化的時期と見なしがちであり、この時期をそれ自体の歴史の範囲内に含まれる生命力から成長してきたと考える。またそのような意見が、新しい学問の開拓、当時の軍事的および商業的な企て、およびその文献の迅速で確実な進歩に関する限り、英国の達成の実り豊かな季節についての有力な意見であることは疑いない――もしこれらの実りある成果とその成果がそれを創造した豊かなエネルギー支出に直接にもとづいていたことだけに注意を払うならば――。しかし、エリザベス朝のイングランドはたまたまついでに起こった挿話的な出来事ではない。ドイツの帝政時代と同じく、エリザベス女王時代は新しい情況、社会の運命と努力を左右した物質的な力の情況の新しい態勢から成長し、またその態勢を実現したのである。またそれに対応するドイツの事例のように、この新しい経済力の態勢の大部分は、概ね外国からもたらされた産業技術を新たに取得した結果である。
厳密な意味におけるエリザベス朝時代につながる初期チューダー期は、イングランドの産業を大陸の近隣諸国と肩をならべるための運動を始めた。それはエリザベスの統治の大部分を通じて続けられた。この運動は主に工程、装置、労働者および手法を借用することにかかわり、またこれらすべての事物をブリテン島の社会の必要と利用に巧妙にあてはめることにかかわっていた。そのように借用するとき、イングランド人にはどんな借用者でも受け取ることのできる利点があった。彼らはよいと認められるものを取り入れ、それを生み出した国では借用した要素に付きまとっていた因習的な制限を抜いて取り入れたのである。こうした因習的な要素とは、手工業体制に特有な要素であり、それとともにその体制につきもののギルドおよび勅許の規制、決まった利用法、経路と手法の零細取引である。新しい前進の中の小さからざるものは、イングランド人がオランダ人から学んだ造船業と航海術である。
産業体制の新しい出発――新しい出発という用語よりは改善と革新という用語の方がよく表現できるが――の副次的だが直接的な効果は、産業力の利用している新しい態勢の中で可能となった資源が(事実上)発見されたらことであり、またこれらの新資源が自由に利用に向けられたことにある。以前に行われていたものとは対照的に新しく広範な機会が提供され、またこれらの機会は、そこでいつでも企業を刺激するものとして態勢の中に演じ入れられることになり、繁栄の累積的蓄積をもたらした。手元の富は有益な利用のための新しい機会を刺激して有用性を増し、また産業的支配権を手中にした人々は様々な機会を予見したのであり、それらの機会を自分自身が信頼してこそ、その新しい見通し自体の鼓舞する冒険的企業を実現することが可能となったのである。
それは商業と産業の周期的繁栄――累積的に増加する信認、投機の進行、浮揚の高まり、拡張、インフレーション(膨張)、つまり何であれ不況の反意語として選ばれる用語の時期――のどんな研究者にもなじみの物語であり、この特別な繁栄期の主要な特徴はこの時期が新しい効率性の獲得から成長したものであるという点にあり、この新効率の獲得は、手中にある産業的資源が新しい産業体制の下でより多く利用されることにより産業的価値の増加を実現するという付随的な発見によって援助されながら事実上新しい技術的資源の発見につながったことによるものである。それともに、このような諸力の実際の発見がかなりの時間にわたって漸次的に進んだため、その推進力の上昇を最初にとらえた世代の生存中にこの繁栄と企業の時代を刺激の枯渇による停滞が急襲することはなかったというもう一つの特徴もあげられる。
この点で、帝政ドイツの事例は類似現象を示しているものの、ドイツ人が新しい産業体制を獲得する規模と歩調の成長も、また近代的商業と産業企業のより速やかな歩調も、彼らの経験を短縮しており、それはイングランド人の場合には百年以上もとらえた出発点から頂点までのゆるやかな運動を一世代に圧縮するほどであった。そくどのこの大きい相違は、手工業体制とその零細商業と比較されるような機械技術の異なった特徴から生じる。
ドイツの事例と比較してこのイングランド期の事業を引き立たせるもう一つのきわだった特徴がある。ドイツの新経済体制については、その開花が本質的には小さく一時的な混乱を取り除きながら、キリスト教世界全体の諸国民の平和と産業企業の発展の半世紀間に生じたため、ドイツの企業はすでに先に進んでいた他の産業諸国と競争しながら道を歩まなければならなかった。これに対して、エリザベス朝のイングランドは、キリスト教世界の他の地域がついでやがて破壊的な戦争にまきこまれ、産業の不振と経済の崩壊の長引いた時代に陥ったために、企業経営については特別に有利な状態にあった。そしてイングランドの産業社会にとって幸運なことに、それは彼らの産業上および商業上の競争相手の中でも最も有能な相手に特に厳しくふりかかった。それに続いて大陸では長期にわたる国家形成の時期があり、それはブリテン島という部分的な例外を除けば、キリスト教のヨーロッパを際限のない戦争と政治的陰謀に巻きこみ、南ドイツの営利企業の大崩壊の時代をもたらし、その破滅的崩壊のうちに終わった。大陸キリスト教世界のこうした漸次的な、ほとんど中断されなかった経済的衰退は、イングランド人に商工業に漸次的に持続する(progressively susutained)差別的な利益を与えたので、国内で醸成されたあらゆる騒動にもかかわらず、ブリテン島の住民は、一六世紀の特殊な環境が手中にもたらしていた主導的状態を保持したのである。またそこであまり重要いでない抑制――いくつかは大きい絶対的規模の抑制――にもかかわらず、エリザベス時代にはじまった繁栄はそれに続く二百年にわたって緊張度を減じて進み、また一八世紀の産業革命がもたらした新時代につながったと言うことができよう。
このありきたりな物質的成功の時期の大半は、そのイングランド人の名誉というより近隣の大陸人の不名誉のせいであると認めるべきだろう。イングランド人の大きい利点は孤立のために簡単に防御することができたことであり、そのため彼らが相対的な平和状態に置かれていたことにある。また大陸諸国の王朝的野心と愛国的および宗教的情熱は、それら諸国に極度の経済的混乱と産業的衰退をもたらし、かくしてイングランド人を前代未聞の逸すべからざる機会をいかがわしくも(doubtfully)有効に思うままに利用できる状態にしておいた。経済的利害と技術進歩の点で、エリザベス時代からナポレオン一世時代までの期間は、大陸のキリスト教世界の諸民族にとって、「蝗害年」(蝗の食べし年月)という表題のもとに置いてもよいかもしれない。イングランド人にとっては、同じ時期の中葉半分は慣性による緩慢な進歩によって占められている。
しかし、イングランド人がそのように大陸キリスト教世界の技術的知識を取得し、また妨げられずに利用することを許された期間は、帝政ドイツの対応する配分時間を六倍ほど超えており、そのため利用と新体系に移行するために強いられた速度は穏やかだっただろう。そのため物質的な生活様式における習慣化の新体系は、他の点における社会の思考習慣を修正するという帰結をしあげるのによりふさわしい機会を持つことになっただろう。生活体系の中にそのように取り込まれた技術的諸制度は、この新しい経済状態にそのように中毒した人々にそのための訓練を押しつけ、他の事柄についても、その産業体制に本来そなわている気分に調和するように人々の思考を変えることになるであろう。
イングランド人が借用し更なる帰結へと発展させた体制は手工業と小商業の体制であり、この産業体制にとって本来的または正常な気分は、自助と機会の平等を指し示す気分であった(23)。この体制に具現化される産業的職業および利害と規制の体系の一切の浸透している訓練は、穏やかだが大規模かつ着実な推進力をもって、ゆっくりと作用し、イングランド人の中に民主主義的な権利と不干渉、自助と自律の精神を生み出してきた。それは一六八八年の革命で政治的に頂点に達し、それに続き自然権という形而上学にもとづくコモンロー体系の発展を通じて感情(世論)の向かう方向を指し示し続けた。
それゆえに手工業と自助という近代初期の体制に向かうイングランド人の動きの結果は、就中、専制の解体および独裁的な権威筋による強権的監視の崩壊だった。新しい産業体制に続いて、またそれによって経済における裁量権と主導権の再分配が生まれ、強まると、古来の不服従の精神が社会事象の中に再び現れ、個人の物質的関心と主導権とを政策の前面に押し出し、「臣民」を「市民」に変え、国家を公共的平和の管理と私的利害関係者間の公正さ(equity)の規制のための役所にして「無害な廃絶」の状態に戻すところまでほとんど進んだ。古い王朝体制の印から遠ざかるこうした流れがすべて成就したわけでは決してない。――イングランドの自然権の増殖は、先史時代の型に沿う規制された無政府状態の体制になるほど熟したわけでは決してないとはいえ、その方向に向かう危険な脱線がときおり現れてきた。近代的な産業と商業の大規模で複雑な組織も、国際的不和の不断に現れる影も、そのような事態を許さなかったのである。

これらのすべてには時間を要した。この産業的および商業的体制の訓練が人々の習慣を改め、新体系の運営条件に合うように法的および道徳的観念を徐々に調整しなおすという効果をもたらすためには時間が必要だった。この再調整は、法令の条項および当局の規制を新しい産業と商業の要請に適合させ、その新しい要求に適合するように市民的および政治的な関係を規格化するしっかりした努力によって、部分的には慎重に行なわれたことは確かである。これらの努力はほとんど成功しなかった。それらは、大部分が、新体制の訓練によって浸透した思考習慣によってではなく、以前の体制から受け継いだ先入観にもとづいて生じた。また新たな経済状況を標準化し、規制しようとする当局のこうした初期の努力も、それ相応の実際的価値を持つこともなく、恒常的影響を持つこともなかった。
新しい訓練の心理的沈殿物と呼ぶことのできる事の形をとって新しい情況からやがて成長してきたような後代の法規的施策や行政的施策については、もっと(肯定的に)語ることがある。また道徳的、法的または知的な関心に関する見込みの変更にはもっと大きく本質的な価値を与えることができる。それらはこれらの類のその当時の慣習とその当時の価値評価の基準およびカノン――例えば宗教、芸術、特に文学、哲学、科学および礼儀と忠誠のカノン――の中で効力を発したのであり、必ずしも法令の形式または他の権威ある形式に取り入れらなかった。
このような成長には時間がかかる。それは習慣化の問題であり、また受け入れられた思考習慣を徐々に置き換える問題である。この部類の価値評価および行為の信条は一世代では獲得したり、捨てることができるものではない。たしかに精力的で慎重な当局による管理がそれらを獲得したり、捨てる習慣化過程をかなり加速するかもしれないことは確かであるとはいえ、突然法令によって押しつけられるものではない。しかし、最も配慮に富んだ当局の監視といえども、自由な諸制度または今問題としている時期のイングランドの発達を特徴づけるような自由思想と呼ばれうるものの成長を促進するには、相対的に無能である。これらのものは、不服従と進取の精神という古代の精神が回復力によって生み出されるものであり、強制的な指示によって養成されるものではない。
ここで、この近代的な労働および自助の体制の長期間の訓練の下で、何が宗教的信仰とその基礎にある神学的観念に生じたことを明確に述べることは必要なく、それよりも退屈なことであろう。その結果は、――新しい出発の分岐点にあった高い権威が欠けていたため――あらゆる程度の敬虔的な信頼性(authencity)に及んでおり、また反逆的、自律的で騒々しい異説のツギハギ細工は、敬虔な礼儀に対する洗練された好みを持つ者ならば、進んで頼みにできるようなものではない。哲学はせいぜい神学の侍女であったため、宗教の後退に続いて哲学の後退が起こるべくして起こった。そのため近代の特徴的なイングランド哲学の作品は、概して懐疑的な性質のものとなり、自助と人間による利用のために実利主義の原理に大きく依存しており、その道徳的前提と規範には物質主義的思考ではなく、功利主義的および実利主義的な思考が強くしみ込んでいる。
忠誠心も同様により低い地位へと縮小した。近代の英国臣民が国家に、また時折にせよ統治者と王朝に忠実でなかったというわけではない。しかし、現在の君主や王室に対する英国臣民の忠誠が自己の物質的利害に対するかかる忠誠のもたらす利益に左右されていたことは、ブリテン島内でも、また植民地のうち重要なものにおいても――例えばアメリカ合衆国を形成した一三州でも――痛々しくも再三再四明白となった。何のための忠誠心か、と問題を提起するような忠誠心には、封建的な理念、繁栄する王朝国家の土台を常になしていた熱狂的な自己犠牲というあの精神がまったく欠けている。英国人の忠誠はまったく「好天時の忠誠心」という汚名を着せられるわけではないが、王朝政治の立場から見ると、その部類のよい取引物件とはいえない。それはあまりに不服従の気質を帯びている。ここでも、イングランドの事例はこの点でドイツ帝国の事例と異なっている。
王朝に対する忠誠心、または国家にさえ対する忠誠心の点でさえ、イングランド人とドイツ人の間にあるようなこの気質の相違は、主にイングランド側における忠誠心の不足であるように見える。イングランド人は、自己犠牲および王朝政治ならびに君臨者家系とその貴族官僚層の増進に対する献身の点に欠けている。ドイツ国民の素朴な愛国的連帯とは対照的に、イングランド人の忠誠は自己利害の気質を持つ忠誠でなく、和らげられた不服従と呼ばれてさえよいかもしれない。しかし、それは種類の相違というより程度の相違である。インいnグランド人は、ドイツ人が保持してきたか、あるいは強化さえしたもの――国家の至上権と統治者の権威に対する敬意に常習的に身をゆだねるようなこと――をこの数世紀の間に失ったように見える。イングランド人の習慣的な態度と気質には献身が少ない。たしかにイングランド人の習慣的な気分にはいまだにこの高潔な誠実さのかなり役立つ残滓が残されている。しかし、それはある意味で見落とされて残されてきたように見え、また残されているものさえ自己利益という付け足し(afterthought)によって強いられる忍耐の限度内にある。
ドイツ人と比較してイングランド人が王朝的団結心と服従を欠いていることは、複数の要因によって発展が分岐したことから生じている。中世から近代への移行時、分岐が始まったとき、イングランド人はこの点で大陸の同胞よりあまり恵まれていなかった。中世的精神はイングランドでもさほど発展せず、ドイツ領における発展のほうが特に過酷で軍事的秩序のものだった。新たに分離してから、王朝的理想に対する忠誠と統治者の要求に対する服従は、イングランドではそこに広まっていた比較的平和な状況のため基盤を失った。一方、ドイツでは、概して、この心の習慣はすべて、支配者個人に対する忠誠心のより粗野でより野蛮な形を失うのではなくて、むしろ増加したが、それはこれらの諸国民が服従していた小規模で私的な軍事的企ての中で行われた持続的かつ精力的な訓練による(24)――とりわけ北部ではそうであり、ここでは政情が不安定なために、人格的な支配と従属的忠誠が(家臣の)武勇による保有権の因習化(強化)にさほど浸食されなかったのである――。
しかし、 近代のイングランド文化の最も顕著な特性は、また同時に近代全体を通じて一九世紀中葉に至るまでのイングランドとドイツの体系の最も特有な相違点は、つまるところイングランド人が物質的な現実に没頭したことである。英語の「現実」は、 この用語を使う人が意図的にそれをより広く押し広げて考えないときには常に、またその限りで、物質性を意味する。近代の英語諸国民の手中で、積極的な意図によってではなく無視によって、その概念の含意はこのように狭められてきた。イングランド人の精神構造におけるこの物質主義的な傾向は、「機械論的概念」――これはこの思考習慣のより正確な定義を分析的に与えようと試みる機会を持った人々が呼んできた概念である――において最高潮に達する。機械論的な概念と機械論的な見解は、もちろん、目に見える技術の性質および関連を持つものである。それは近代を通じて徐々に高まり、その最高点は歴史的現在にやっと達成された――もしこの運動の最高点がもう達されており、私たちの眼に最高点と映るものがこの傾向のもう達成された最も進んだ点であるためにそう見えるのではないと言ってよいならば――。この近代の数世紀を通じて、この方向に向かう流れが極めて一貫して進行したので、もっと後の段階に到達した点から見ると、機械論的概念が近代生活の規律の目指してきた到達点のように見えるのである。
  価値評価の唯物論基礎、および現象を取り扱うとき機械的論理への依拠に向かう近代の知的生活のこの傾向のすべてに、ドイツ諸国民はどんな感知できる程度にも関与しておらず、またそれに参加したとか、はっきりと貢献したということはまったくない。この広い否定(不関与)の一つの例外が近代の前半全体の南ドイツ諸国民に相応にあてはまることは疑いないが、この例外はそれがまさにあてはまる時期にさえ次第に力を減じてゆくのである。またそれが決して到達しなかった今後の最高点という観点からではなく、ただそれ自体を見ると、そのように評価されることはほとんどないだろう。この近代初期――例えば大雑把に一六世紀、またはおそらく一七世紀――の段階を別にすると、ドイツ諸国民の知的な趨勢は、明確にという程にではないとしても、唯物論的な精神(animus)からかなり遠く離れていた。総じて祖国の内に限定しても、これらの世紀を通じて日常生活の訓練は、全体的にみて、非物質主義的な性質と関係を習慣的に注意が最も向けられる側面に置き、差別的な正統性、威厳、カースト、階級、先例および序列といった価値評価にゆきつくような人格的な性格のものであった。それは町の集会、開放的市場および公道の秩序ではなく、むしろ異常な程に宮廷、野営、官僚制および警察の秩序だった――その傾向は機械工場と大工業からもっと取り除かれなかった。そのような秩序のもたらす知的傾向と体系的な思考原理は、機械論的な概念と併存することなく、むしろ理想主義的、精神的、先験的と言われる高次の思考習慣と軌を一にする。それらは非物質的で隠れた――知覚の現実性を越える概念の助けを得て確実性と決然性を追求するという意味で、先験的な――範疇の下に一般化し包摂することに帰着する。
この近代初期の形成期を通じて、キリスト教世界の知的生活を形づくったる習慣化について、イングランド人とドイツ人に純然たる対称性があるというわけではない。両者はともにキリスト教世界の文化的領域内におり、また少なくとも主要には、中世の文化的関心とは対称的な近代の時間内にいる。しかし、この二者はキリスト教世界の知的生活に関する限り、また特に近代的な諸制度が当時形成されたことについて語るべきことの多いあの文化的要素に関する限り、この文化複合体中の二つの極端な状態(または極)をなしている。すでに述べる機会があったように、その差異は程度の相違であり、両者の生活に入るいくつかの要因のどれかに当たる異なる圧力の相違である。しかし、研究の重点を両者の同一性ではなく相違に置く限り、そのような差異を対照的に取り扱うのが最も便宜的であろう。
そこで、ほとんど一時的で表面的な効果しかない余計な要因を除くと、また近代の初期を除くと、ドイツ国民の知的生活は、上で特徴づけたように祖国の生活秩序が与える方向をとってきた。物質諸科学または機械的な種類の技術的知識には相対的に小さい注意しか払われず、相対的にきわめて小さい効果があげられただけである――これらの分野で達成されたイングランド(そしてフランス)の成果が一九世紀初頭の頃に、借用した進歩を通じて最終的に根付く時点まで――。
ドイツの省察と研究は、手元にある知識の秘められた先験的な体系化に、そして精神の領域、すなわち人格的力と精神的一致という合理的な関係――支配と服従の体制、権威によって強要された伝統的価値観への秩序ある従属に彩られた合理化――における現実の探求に習慣的に注意を向けたという点で、深遠な性格と呼ばれてきたものを帯びた。その頂点がロマン主義学派のドイツ形而上学であることは言うまでもない。それは実際の因果関係ではなく論理的な適合性にもとづいており、また先験的な人格性を否認する(over-ruling)準汎神論的支配において頂点に達している。ドイツの思索は、論理的範疇と道徳的要請の(手直しされた)汎神論的体系で頂点に達する。一方、これに対応するイングランドの運動は、ここで問題となっている点にかかわる限り、事実の不明瞭で非人格的な事柄の無神論的かつ非道徳的な体系に強く傾いている。ドイツの習慣の下で登場したような人間精神のこの仕事は、「より気高い」、「より深遠」なものとして語られる――そのような区別が不公正であり、好みと見解の問題であるため、ここで論じることのできない論点をなしている。
それでも、ほかの場所や時代に広まっていたものと区別されるような近代キリスト教世界の諸民族の知的生活の特徴的傾向は、機械的な概念に表される精神である。これはあまり近代キリスト教世界の栄誉とはならないかもしれないが、この点でのみ近代キリスト教世界の文化がそれより前に存在した周知の文明社会を超えたという事実は残る。この精神がその実際的な効果、事実との調和によってのみ近代的な知的生活におけるそのような支配的な地位についたことも注目される。また機械論的概念が近代的な思考論理における支配的地位を与えられたのが主に英語諸国民の手の中のことであったことも注目されるべきである。したがってそれは近代が始まったとき以来、イングランド社会が従ってきた習慣化の経路の結果であると言うことができる。その観念は明かに技術的秩序のものであり、この事実は、その技術の普及している近代文化を、そのような命題が他のいかなる知られている文明に当てはまるより明確かつ直接的に、産業技術の様相を本質的核心としている文明の特徴とするものである。しかし、その技術上の半券は、産業革命期に先立つ近代の産業体制の中にではなく、産業革命以降に広まったような近代後期の産業技術の様相の中に見出される(25)。

技術的慣習と科学的研究の予見のこのような相関が実際の明白な因果の連鎖だけでなく、近代の知的生活を貫いている様子は、すでに当面の目的のために別の場所で充分に概観しておいたので、そのすべてをここで繰り返しても何の益もないであろう。そこで言及した議論では、西欧文化全般の一段階として実際の事実の全般的進展を示しているが、この発展をヨーロッパの他の部分と異なった英語諸国民の所産としたあの環境に特に触れることはない。したがって、ほかならぬブリテン島にこの発展をもたらし、ブリテン島における発展の様相に影響を与えたイングランドの事例の特殊環境についてもっと語らなければならない。
主要で決定的な環境、この事例に関する他の環境の主因(causa causans)は、ブリテン島が島だということである。イングランド社会のこの島国的な位置のために、封建制はイングランドでは十分に確立しなかったか、あるいは成熟に至らなかった。「王朝国家」はそれほど強制的および熟練した方法で維持されたわけでなく、またヨーロッパ大陸ほど続くこともなく、いつまでも残ることもなかった。というのは、それは繰り返し生じた外国の戦争のもたらす必然的な挑発と機会とがあまりなかったからである。近代的体制に移行するとき、手工業体制をはじめとして産業情況が後進的な状態にあり、その手工業体制はブリテン島では歴史が浅かったため、特にそのギルド規制の点でヨーロッパ大陸ほどの精巧さには決して達しなかった。政治的、市民的および産業的な組織はより緩やかに織り込まれる性格を持っていたため(26)、敏速に変化する余地と個人の主導性のためにより自由な余地を提供した。不服従と個人的な自己主張が近代に大陸よりもブリテン島でより容易に、また少ない刺激でも生じたことは、当局側からのかかる譲歩が常習的だったことと共に、よく知られている。後になっても、この島国的な情況は同じ意味で社会の利害関係に影響を与え続けた。主要な事実は、相対的に平和な生活様式にあり、そのため人格的支配の漸次的は弱体化し、官僚的監視は衰退してゆき、それにともない利害と関心が軍事的愛国心および王朝的政策から離れて、戦争と政治に代わって平和術に向かい、また産業と貿易に熱中してゆく流れが生じた。
このように一般人の日常的思索を引きつけた産業は、その当時の他の土地と同じように、イングランドでも手工業的性格の産業であったことは言うまでもない。しかし、他のより高次の、より理想的な論理のカノンと一般化の範疇がなかったため――相対的に少なかったか、その重圧がわずかだったため――、通常のイングランド人は、――ちなみに彼らは他の民族と同様に大抵平凡だったが――習慣的に心に植え付けられていた範疇に助けられて、またその日常の職業から教わっていた論理を使って、自分の好奇心を惹くどんなものについても熟考した。これらの範疇は、手工業体制の下で自助によってやってゆくという日常的な手順によって強化されており、職人魂の範疇であったのである。また同じ身近な経験の力によって習慣的に自分の身につけていた論理は産業過程の論理であり、小商業のギブ・アンド・テイク(相互依存)の論理だった。非物質的な威厳と目に見えない壮麗さという因習を識別し順応するための相応の訓練を欠いていたため、彼は大陸の同胞の装飾品の一つであり続けた相違が感じられないところでは、あの抵抗しがたい差別感の多くを失っていた。彼は、平凡な数世代が経つうちに、唯物主義的な思考習慣に陥ったが、その唯物主義は、自己の生活習慣にかかわる産業的活動から、また家計の関心の中心点にある財から形成されたものであり、また同様に「市場の駆け引き」の中で熱狂するようになった重量と価格の細心の数字から形成されたものである。これらの諸問題を、この種の問題を、彼は理解することができた。そしてその論理は、途切れのない教義化によって、自己の関心の内に含まれる一切のものに通用する論理だった。そして、もし物質的データまたは少なくとも重量のような感覚的に表現できるデータや価格評価に役立ちうる様相を表さないものでなければ、この関心の内に入ってくるものはほとんどなかった。
そのような精神状態にあっては、人は一連の出来事を知覚できるデータの連鎖とみなすのであり、その中では、遠く離れている作用を認める余地(place and force)はなく、また重量という知覚可能な用語を使った公式化に耐えない「十分な理由」を探し求めることは無益となる。実際、そのような集団内では、十分な理由という無形の根拠にもとづく議論は賭け事ほどの説得力もない――賭け事は少なくともその領域の標準的単位による統計的な公式化を受け入れる余地がある。しかし、職人の論理は、その仕事で使われる材料に手で触れ、形を変えるという確かな知覚できる根拠にもとづいて行われる。有形的な効果を知覚可能に「生み出す」原因は、ごくありふれた唯物主義者の形而上内にあるものである。やがて新時代の科学者が彼らの好奇心を引き、彼らに知識の体系化のための枠組みを見いだすように求め始める現象を見るのは、こうした手工業を背景にしてのことであり、また商業会計統計を照らす無味乾燥な光のためである。そこで、科学的研究がイングランド社会ではじまるとき、それは有効な諸原因を探し、これらの諸原因を職人芸的な職人精神を持続的に示す形で見いだすのである。
これがイングランド人の新しい、他からの刺激を受けなかった発見だというのではない。類似のことはそれ以前のあらゆる知識の体系化に認められる。しかし、――例えばスコラ学派および後代の(ドイツ)神秘主義者(27)および近代初期の錬金術師たち(28)の体系化のような――神学、形而上学、呪術等々の個人的根拠にさかのぼるより高尚またはより観念的な体系にあっては、この職人的な有効原因という原理(思考習慣)は、議論全体に浸透しているが、不明瞭かつ大部分が公言されずに存在している。またイングランド人の主催する新時代がこの点で優先権を得ているというのでもない。これらの最近の物理的原因の探究者は、どこにも支援を求め、多くの場所に支援を見いだす。というのはその原理自体がその人種の最古の、強固な形而上学的な習慣の一つであるからである。普通のイングランド人が主催するこの新時代には、職人的な因果律のこの形而上学的な公準が研究の前景に姿を現しているというにすぎず、この公準は、軽視のためいっそう高い原理が不履行になっていることによって学問領域の終局的な体系化の唯一の自足的範疇として存立するままに残されているにすぎない。イタリア人は、つまり手工業と個人的主導性が彼らの中に物質主義的な研究習慣を育んでいた当時の、また教会による迫害と党派間の戦争がイタリア社会をふたたび正統信仰および忠誠という薄暗い宗教的な光に連れもどす前のイタリア人は、同様な素朴な探求に出かけ、同じ市場で売れる主要産物を持ち帰った。またこれと似たような情況のために自分たちの社会にとって無益な好奇心という同様な傾向が生まれていた時代のフランス人、オランダ人および南ドイツ人もそうである。いまやイングランド人の順番がやって来たとき、彼らは他の場所で既になされていたことを――またいまだになされていたことを――利用した。やがてイングランド社会が主導権を握ることになるが、それは諸般の環境が決めたことである。
やがて手工的技術が自らの特有の方法の限界を超え、自身の特有に職人的な思考習慣の結びつきを緩め始めると、感じられない程度に、新しい再出発が開始されたというより、始まった。一八世紀初頭頃になると、大規模で包括的な物理的過程、「省力装置」と機械的な原動力を含むような技術的手段への依存がある種の工学を技術体系に導入するような比重を帯び始める。次にやがてこの新しい種類の接近が産業技術の状態における本質的な要素として産業効率の問題に導入されはじめる。この新しい要因は、――あるいはむしろ、その技術体系の形成、あるいはその体系が生み出し、かつそれに従うべき知的態度の形成に向かうと考えさせる重みをいまや帯び始める古い要因というべきか――ともかく、この新しい要因は、船積み規模の拡大と機械的精巧化に関係しながら登場し、それと同時に体系化された計算可能な航海術、高速道(および水路)と乗物の改良が生じ、それに続いてより機械的に体系化された形への通信・運輸の方法と手段の転化が生じ、また水車・風車・その他の原動機、家畜飼育の改善に合理的かつ意図的に注意を払う農業過程の拡張と体系的な決定が行われる。
しかしながら、本来の手工業のより素朴な精神には異質なこの要素の産業体系への浸透が産業技術の状態に目に見えて影響を与え、また新しい内容の効率性原理というべきものが古いものに代わるほどの重みに達し、そのために「機械技術」がもはや職人精神とまったく同義ではなくなるのは一九世紀もかなり進んでからである(29)。しかし、技術体系を形成した思考習慣の首位の座は、一九世紀の第3四半期の頃に、職人精神から工学(エンジニアリング)に移ったと言ってよいだろう――少なくとももっと後の同様な発展からうかがわれる観点から事態を眺めると、そのように見える。単に当時の情況から判断し、また機械産業の後代の変化に影響されずに、この命題に同意する人がいるかどうかは疑わしい(30)。この時代が産業革命と命名されたのは後知恵によるものであり、その場合にも、産業革命は手工業の手作業を「容易にし、短縮する」ための方法と手段の体系として「労働節約装置」という用語で伝統的に評価されてきた。しかし、そこに生じた事態を見るとわかるように、この産業革命の技術的な特徴は、故意にでない限り、見誤られようがない。その効率は専門的な職人芸の効率ではなく、機械的要因にかかわる過程の効率である。
とはいえ初発には、あるいはもっと適切に言うならば、機械産業の時代の初発段階では、新しい手段の設計者と考案者が仕事にとりかかるときに持っていた先入観は、明白に手工業的な種類のものであった。初期の機械設計にあっては、彼らの意識的な目的は職人的な手作業を機械装置によって拡大された規模、範囲および速度で再生産することにあった。もちろん、これは造船、航海、道路工学あるいは牛の飼育のような領域には当てはまらないだろう。しかし、今やこれらの領域は、後になってみると(ex post facto)見られたようにより広範な機械技術体系の中に位置を占め、また機械論的概念の支配領域に入っていると見られているが、その一方で、当時は機械時代の技術の応用とは理解されていなかった。技術は、最初、また長らく単独で、そのようなものとして、また新旧の事態の相違点をなすものとして称賛されており、より狭い意味で機械として語られた装置だった――これらの新しい発明品の設計は、最初、職人的な予見によって現実のものとなったのであり、その発明者と設計者はこれらの擬人化された産業過程概念を振り払い、これらの過程が駆逐した手作業の論理ではなく実際に働いている機械論的な要因と過程の論理によって、機械的諸問題を解くようになったが、それはただ漸次的かつ感じられない程度にだった。
通常のように、習慣化には時間を要した。また機械論的概念の論理が機械過程の具体的細部に携わっていた人々の思考習慣の中に安全な居場所を確保しえないうちに、機械過程の世界に決定的にふみだした世代が去り行くことも明らかに必然的であった。その時々の知識体を体系化するために依拠する科学の規準と範疇は、日常生活の規律から遠く離れたところで生まれたものであり、技術者の予見よりも遅れて変質を被ることになる。しかし、この日常の習慣が最終結果をもたらすほどに十分長く、十分に一貫して自己の性格を保持するとのみ仮定すれば、その変質は同じ日常の習慣から生まれたものであるから、必然的にそれらにも及ぶだろう。そこで産業革命に続く一世代か二世代の科学的な仕事をなした人々は、いまだに一包みの原材料を取り扱い・一片の細工物を作り上げる典型的な職人から抽出した物のように見える効率的な諸原因というタームで自己の体系化を考え続けることがわかるだろう。またあの初期世代の科学者の理論的思索の中にある因果連鎖を支配する自然法則という抑えきれない枠組みには、古いギルド規約のなにげない提議をこえるものがある(31)。
しかし、このように近代的産業技術の効率上の精神的な核を構成するこの機械論的概念はまたゆっくりと、不可逆的に、そして責任を問われることもなく、その論理を知識の領域全体に取り込んできた。もちろんそれが最初に、また最も明白に生じたのは物質科学の領域であるが、やがてもっと高度な事について省察する研究心を持つ人々の間でも生じた。機械論的概念は、機械技術が手工業を駆逐し、儀式の順守と強制的規則から関心をそらしたのとまったく同じ規模で、かつ同じほど全般的に、科学的理論の論理において神学校と紋章学校の予見の地位を奪ったのである。もちろん、後者の動きは、前者の運動に続いて起こり、またそれに左右されており、それゆえに同じように動くとしてもかなりの程度の遅れを示すことになるという留保を常に付しておく。
このイングランドの事例の分析全体の中では、産業技術の状態が唯物主義的および機械論的な関係における包括的な習慣化の方向に妨げられずに向かったと勝手ながら想定した。また旧体制の特権階級という権威主義的な因習に対する服従が残ることはなく、かつ人物を考慮せずに、それが自助と機械論的論理というかなり普遍的な精神をもたらしたとも想定した。もちろん、それは明らかに事実ではない。しかし、同じ歴史的時期にドイツ人に生じたことと対照すると、このようなことは、結局、特徴的に英国的な文化のより目立つ特徴であり、また実際すべての先進工業国の文明の目立つ特徴だった。だが、これらすべての社会では、またおそらく少なからず英国の事例では、少なくとも機械技術の到来に先行しており、かつ機械技術やその種の所産ではない慣習体系のきわめて大きい遺制が過去から受け継がれていた。教会と国家と貴族は、いまだに効果的に力を保持している。しかし、古くからの慣例によって、歴史がいまだにこれらの古代から注ぎ移された範疇のもたらした用語で書かれており、その結果におけるそれらの役割が広く知られていて、それらを思い出したり、参照するなど一切の必要事が与えられているのであるから、ここでは近代の英国生活におけるこれらの要因の働きをよく見る必要はない。それらが文化的な潮流の中で果たした役割は主に地味なものだった。
他方、一部は技術的性格を持つ直接の結果によって、大部分はこの新しい体制の産業効率に左右される慣習として、この新しい産業体制自体から広範な使用、因習、既得権、権利および礼儀の規準が成長してくるのであり、それは新しい産業技術の様相の一部ではないが、結局はそれから、またはそれを作り出す社会によるその利用から分離することは簡単ではない。これらの因習や規準には、産業体制の働きを妨げるか、その純効率を引き下げる効果がある。
イングランドの事例でも、ヨーロッパの他の地域と同様に、所有権は太古から法と習慣によって承認されてきた。そしてこれらの権利は、イングランドではヨーロッパの他の多くの地域より、国家による上級使用権の簒奪によって弱められなかった。また手工業体制の時代にあっても、また機械産業が登場してからはなおさらであるが、産業は金銭的土台の上に金銭的な利得のために続けられた。しかし、産業効率の上昇、取引および市場関係の規模の拡大とともに、「小商業」の形で始まり、手工業に侍女として奉仕した金銭的企業は、時が経つにつれて産業体制の主人、産業設備の所有者、そして――もしかすると――自己の金銭的目的のために産業の操業を指図する十全な自由裁量権を持つ・社会の技術効率の唯一の受益者となった。そのため近代に入って社会が獲得した技術的知識と技能とは、所有権によって、それらを統御している経営者の金銭的利得に主として奉仕し、ただ副次的に住民の福祉に貢献するにすぎない。もちろん、法的および慣習的に所有者に帰属する自由裁量権の規模がより十全であり保証されている点を除けば、またイングランド社会の相対的に大きく長期にわたった産業効率を除けば、このような状態はイングランドの事例に特有というわけではない。産業効率は、他のどの地域よりイングランドで補足的な結果がより大きく成長するための時間と視野を与えたのである。
私的利得のために営まれたイングランドの産業体制のこうした補足的な結果は二つの項目に分かれる。それは、産業(生産)に影響を与えるものと、生産物の消費に影響を与えるものである。前者は競争原理に属し、後者は顕示的消費――生活水準とも呼ばれるもの――に属する。三番目の要因となる習慣の惰性は、これら二者の両方に影響を与え、ごく普通にはそれらを強化すると同時に、――特に産業的な方法と手段における積極性を妨げ、革新を遅らせる形で――産業体制の効率に重大な影響を及ぼす。これらのいくつかの方向のすべてに何かしら体系的な成長のようなものがあり、それは実際の機会によって左右されるが、また結果が熟すためには時間を必要とするだけでなく、問題となる実践を停止する緊急の必要が生じる場合に、その停止を進めるためにも時間を要する。
経営管理の産業的な影響、あるいは産業体制に対する「有機的」影響と呼ぶほうがよいかもしれないことは、その生産効率にとってすべて有害というわけではない。ただし、それらの十分な発展のために時間と習慣化を要するそれらのほとんどすべてがそのような性質を持つわけではない。こうしたことは一般的によく知られている。実際、それらはごく普通に知られている事柄である。しかし、それらはまた太古からの所有権および価格制度ときわめて堅く結ばれているので、――おそらく正しく――経済状況の本性の内に存在する当然のこととして受け入れられている。市場競争に従って相反する目的のために組織的に働くことはほとんど言うまでもないことであり、各競争者の目的は利益を自分に向けることであり、それはおそらく付随的には社会の物質的福祉に役立つことであろう。所与の、だがしばしばありうる環境の下では、この情況は、それを統御する経営者の金銭的利得が社会の物質的福祉にとって有害な設備――例えば粗悪品のように混ぜ物と代用のまがい物の使用、有害な特効薬や飲物の生産・販売、危険で非衛生な住居、道路、乗り物および家庭用器具、産業における危険な機械と有毒な成分および工程の使用、等々のようなもの――から最もよく得られるように転じる。これらのいかがわしい利得手段はいつの間にかより完全に、産業的および商業的体系に浸透し取り入れられることになる。これらの事柄に多くの才能が使われ、多くの事務的な産業がこうした「乱用」――しばしばそう呼ばれている――の維持と寛大な監督に権益を持つようになる。
 重要さの点でなくとも、広く知られている状態の点で次に来るのは、頻繁な怠惰の季節、市場が求める装備と労働力の失業または半失業(不使用)である。これらの困難は、産業社会とその市場関係の大きい複合的体系――この体系の中では、終局的には機械技術の支配下で産業過程が専門化し細分されるために、またいくつかの産業が価格タームの利得を私するために営まれるというより直接的かつ決定的な事実のために、様々な部分と行為者のきわめて大規模な相互関係が広まっている――が成長することによって増加する。この種の失業は常に価格を考慮するためのものである。同様に価格を、また価格タームの利得を競争的に配慮することから、雇主の利害は労働者の利害と一致ないことになる。この利害の相反は言葉巧みに否定されてきており、こうした弁舌がいくらか信用されていることは言うまでもない。しかしながら、本当の経過は広く知られている。一方では、労働者には彼らの行う労働の効率には心底からの利害を持たず、むしろその代価として価格タームで得られるもの(貨幣賃金)に利害を有している。他方、雇主は、労働者の福祉への、または持続的な効率への人道主義的な――まったく二義的と言われる――利害をなにも持っていない。そのため、一方では、禁止的な労働組合規則、ストライキ、ロックアウト、その他の同様な産業過程を乱すものが、他方では、しばしば超過労働、賃金不払いおよび劣悪な労働条件、等々の形で、不当な範囲と方向を取る人的産業資源の搾取が続くことになる。特にイングランドの場合には、これらの「乱用」は広く知られている通り極端に実施され、また同じく広く知られているように、その完全な展開に時間をとったため、それらを是正するためには時間と努力が必要となるだろう。例えば、たくさんある中から一例として、また雇用労働者雇用におけるこの競争原理の作用をただ単に冷静に示すためには、次のことを認めれば充分であろう。すなわち、イングランドでは、新産業体制の最初の百余年間に、労働、賃金および家計の状態が「救恤的」労働者のかなりの人口を生み出し、彼らの衰弱を「第三世代または第四世代に至るまで」の子孫に伝え、彼らをいかなる有効利用にも適することを疑わしい状態にしておくのに十分に身体を害されたままに放置しておくような性質を競い合ってもたらしたのである(32)。
営利経営という競争制度と結びついているのは販売術の中にある近代企業である。販売術の拡大は、産業における営利経営の拡大と関連しながら進行する。実際、近代後期の発展では、また営利的な土台上にあるほとんどの産業的事業のように市場に大規模に入ってくるような種類の企業では、販売術はしばしばと特定の営利事業体の費やす努力と資金の半分か、半分を超えて入ってくる。広告および広く知名度をあげるための類似の冒険をはじめとする販売術の費用は、しばしば消費者にとって商品価格の半分をかなり超え、ときには七五パーセント、九〇パーセント、または百パーセント近くにさえ達する。(特定の営利事業体の内部における機能の適正な専門化を許すような規模で、かつ十分な手段を用いて営まれるという意味で)より大きく、より複合的に、より十分に資本化されると、総支出の一部は全体的に販売術に入る。要するに、経営の情況がより成熟して近代的になるほど、総支出の割合はより大きくなるのである。
販売術に要する支出は、社会全体の物質的福祉への貢献度の面から評価すると、ほぼ純粋な浪費である。それがほぼ純粋な浪費にどれほど近いか推測するのは危険かもしれないが、一般的に有益な目的に役立つ販売術のための控除はいずれにせよわずかなものであろう。それにもかかわらず、競争的販売術および他の競争的経営の戦略的手段は営利的な産業経営の本質をなしており、――そのための成熟の時間を所与とすると――条件が許す限り、それらの増加は限界にまで至る。条件が許す限りというのは、終局的には、どれほどの人およびどれほどの資金投下が、生産的産業に使われた人々と装備のための生存最小限と当該産業の総産出量とのマージン(差額)にもとづく賃金と利潤の「現行」率と呼ばれる点で支持されるかという問題である。装備の資本化価値と雇用された労働者にとっての現行の賃金にもとづく利潤率を所与とすると、何であれ残余部分を吸収する販売術として存在するのは、調整のために必要な時間でしかありえない。しかし、必要な調整には時間がかかる。また技術体系、したがって物質的装備は絶えず変化しており、市場化できる産出物のための市場として役立つべき人口と分配も変化しているので、販売術の企業と投資がまあまあの範囲内で条件の許す限り限界に近づくことができるのは相対的に古い工業国に限られている。そして、そこでさえ、連合王国のように高度に商業化された社会でさえ、販売術の企業が今や疑いなく機械技術の範囲内に暮らしている他の、産業的にもっと新しいいずれの国よりそれにきわめて近づいたとはいえ、まだ決してこの限界にまでは達していない。後発的なドイツの事例との対照は十分に明らかである。
「老朽化(経年)による減価」は近代の会社会計のかなり重要な項目であり、また産業生産設備にかかわらなければならない実業家にとって苛立ちと困惑の種である。その第一の最も素朴な形は便利な器具や工程が競争によってもっと便利なものに替えられることに見られる。そのような減価についての議論は、しばしば減耗の分析におけるこの点より先に進まないが、ただし、より関心を引き、また困惑的で悲惨な事例はその点を越えたところにあり、それは機械発明の細々としたことより広い射程距離を持つ原因に由来するものである。ある営利事業体が同じ産業で競争する隣人に対立しながら享受している差別的利益を変えるような技術革新による細々した減耗は、普通、産業全体または社会全体の効率や福祉に有害な影響を及ぼさない。減価はただ競争によるものであり、また他の事業体に対立する一事業体の金銭的利得の減少という効果を生むだけである。社会全体または特定分野の産業は、革新によって効率を高める。同じことは「全般的な」減耗と呼ぶことのできる場合にはあてはまらない。それは産業社会の成長による(あるいはまた衰退による)か、それともなされる仕事ないしは雇ったり雇われたりする人口分布の変化のもたらす環境変化によるものかもしれない(33)。この種の減耗は、成長の問題であり、産業技術の状態がいくらかでも感じられる程度の変化を常に遂げている社会ではどこでも進行しており、技術的な様相の成長が長く続くほど、いっそうそのような減価は避けがたくなる。
イングランドの産業体制のように、改良、拡大、革新および専門化の経路をたどってきた産業体制は、過去に一度ならず、複数の事情に関連して、その当時は適正な規模の器具と工程表および時間調整と言われていたものに係らなければならなかった。一部はそれ自体の成長によって、また規模を拡大し生産やサービスの速度を上げるように意図した技術革新によって、産業とビジネスに受け入れられた相互関係も既存の装備も時代遅れとなる。そして、それにもかかわらず、従来からの体制が持続して働くことに特別の関心をいだき、ともかく技術的なことにあまり詳しくない保守的な実業家の社会にとっては、健全な事業案として承認されるような治療法を見いだすことは決して容易なことではない。問題となっている老朽化が、競争相手の事業体に対立しているこれらの実業家の一人または一団に顕著な差別的利益をもたらさない限り、論理的に言って、治療法は追及されないことになる。細々した革新による適切な治療法はいつも実施できるわけではない。実際、この種のより重要な局面では、新品目の装備がすでに古い装備を支配している仕様に必ず順応することを求められるという点で、それは事実上不可能である。
例えば英国の鉄道が、他国の鉄道のように、狭すぎるゲージ(軌道)で建設されていることはよく知られていたが、この「老朽化による減価」の項目がしばらく前から知られていたのに、それは最も天才的な省察の中でさえ治癒できる欠陥と考えられていなかった。同じことに関連して、アメリカの観察者、また最近のドイツの観察者は英国の物財運輸に使われている、馬鹿げたほど小さく、短い車両に強い印象を受けてきた。アメリカやドイツの鉄道輸送がどんなものにも役立つ前の当時は、それで十分だったが、今日の必要性に直面するようになると、せいぜいお遊びという雰囲気を持つことになる。それにもかかわらず治療法は単純な良識の問題ではない。この鉄道制度の中で最も古く、最も完全な制度上のターミナル設備、軌道、側線設備、そして貨物輸送を取り扱うすべての方法と手段がすべて短い車両に合わせられる。そこで、やはりここでも、機関はもちろん、鉄道の路盤とレールも、それらが初めて操業されたときケアするように求められたような輸送をケアするのに十分なように建設されており、後の必要性に応じて少しずつ調整するのは容易なことではない。社会全体とその物質的利益の見地から見ると、利益をあげながら時代遅れの装備と組織を取り除く――口語の表現では「廃棄する」――べきであり、また後の装備に入れ替えるべきことはおそらく間違いない。しかし、それはこれらの問題を必然的に決定する経営者の裁量にまかされており、支配的な経営者の競争的な金銭的利害に照らしてみると、この命題全体が異なった意義を持っている。
この英国の鉄道制度とその細々した欠陥という事例は、たとえ老朽化がほとんど、おそらく多くの面でそれほど明白でも重大な問題でもないとしても、ずっと英国の産業装備と組織全体に典型的であり続ける。町、道路、工場、港湾、住居は、今や産業技術のかなり時代遅れの状態となっている事情の求めに応じるために過去に建設されたものであり、それらは全体的にも個別的にでも、これらの器具が設置されたときの産業技術の状態から産業技術が変化した程度に応じて「不適当、無能、不適切」となっている(34)。それらは変化する要求にそれなりに応じるために、改善され、「仕上げられ」、改造されてきたのである。
しかし、これに関係して言うと、こうした改良、改造および修理という仕事の主要な意義は、この仕事がかかる老朽化による全般的な減価を克服することに致命的にも消極的で無能だということを明らかにしていることである(35)。これら一切のことは、英国人が技術規則に対して罪を犯してきたということではない。それはそれらが先導者の立場にたつ羽目になり、(後進に)道を示してきたことに対するツケを払っているにすぎない。同時にこの先導者の立場が痛みと罰しかもたらさなかったと想像してもならない。この英国産業情況の欠陥は、主に英国人が彼らの過去の達成という抑制的な死せる手がなかったならばなしているかもしれない達成物と比較すれば、また最近では新来のドイツ人がイングランドの技術的知識を使ってなしていることと比較すれば、明らかになる。現実の姿としては、手元の機械装置の形でも、人々に浸み込んで利用可能となっている技術的知識の形でも、物質的および非物質的な蓄積された装備はつまるところきわめて高い価値を持っているのである。とはいえ、実際には、ドイツ人の事例は、まったく第一次的な重要性を持つものが現存「生産財」の蓄積ではなく、むしろ後者、すなわち非物資的な装備であることを明らかにしている。これらの「生産財」は労働の他には費用がかからない。非物質的な技術的技能の装備は長年の経験を要する。
もちろん、このことが現在蓄積された資本として語られているもの、すなわち産業経営に投資された資金という富に当てはまることを意図してはいない。それは社会全般にとってさほど重要ではない。この意味での資本、企業資本の総計は、物質的および非物質的な産業設備の利用にもとづく差別的権利の疑似的総計という以外の意味をほとんど持たない。そして記録に示される資本に計上された富の総計が(会計士の最後の頼みであるが)これらの「簿価」が要求すると考えられる物的項目の時価総額をかなり大きく超えることは、他の発達した商業国だけでなく、英国にとっても当てはまることは疑いないだろう。それは経営を遂行するに際して信用と会社組織を大規模に利用するどんな国でも必然的に現実となる。
機械産業の規律は、単にその直接的な影響範囲に限っても、ある程度の非人格性という性格を持っており、人格的な統治の安定や拡張の助けにならないことは明らかである。それは、上司という人格の任意の要求に対する従属ではなく、むしろ非人格的で、またその意味で平等な機械過程の広まりを適正に認めることを教え込む。労働者集団と、その労働が労働者に結びつける技術的な要素に関係する限りで、近代的な産業方式への中毒によって生じる精神的習慣が市民的関係における個人主義的な傾向に、また権威主義的政府のいらだちに有利に作用することになる。そして概してそれがかなり最近まで近代的な産業生活によって実施されてきた訓練の正味の結果であったように思われる。しかし、産業の営利的な統御が広く有効となり、また産業的職業の組織と管理の主要な要因になるや否や、人格的な裁量が再び目立って実際のものとなる。所有権の権威が金銭的圧力によって強化され、産業と投資の規模が大きく成長するにつれてより包括的で不可避的となる強制的性格を帯びる。近年の大規模な条件の下では、この所有の権限は、責任を問われることのない圧制という無情な冷淡さを持っているが、きわめて無情な専制をも和らげるような温和な特徴をまったく持っていない。それが強要する従属は、ビジネスの統御体系がより包括的になり、またより厳格に確定するにつれて、ますます不本意な不忠に向かう不機嫌で非熱狂的な性格のものである。そこで、イングランドの事例では、二つの階級、労働者と彼らの所有者との疎遠性は、産業体系の遂行に関する一切においてほぼ完全となっている。とはいえ、その帰結は、結局、一種の服従の規律であり、また階級内部の協調的行動と団結の規律である。そして協調的行動および利害と信念とを同じくする社会というこの規律は、その分だけ人々が大衆統制を受けやすい状態にしておき、また国家権力を支持し、当局の営みが奉仕している利害関係者を強化するために集団に投げ込まれるような状態にしておく。イングランドでは、国民的連帯の感覚および普通人にとって物質的な価値を持たない国内政策の支持は、この二、三十年間、以前より目に見えてよい修復状態にある――以前は、株式会社型の営利会社および労働者の組織は規律を国民感情の形成に向け始めたばかりだったのである――。
このイングランドの事例から測ると、ある経済状況の規律の生み出す思考習慣は実際の体制の最善の働きに、あるいはこの体制を利用して生計を得ている社会の最善の物質的利益に必ずしも結びつかないように見える。換言すれば、ある方法と手段の体系、ある生活体系の作用から生じる行動の原理および規範は、必ずその体系の効率や住民の繁栄に貢献するようなものではない。習慣化の性質について少しでも考えればすぐにわかるように、それらはすべて偶然の一致にすぎない。その間、どんな産業技術の状態の下でも、例えば生活の教え込む規律(思考習慣)はこの所与の産業技術の状態の提供する生活条件といくらか相反するというきわめて合理的な推定が、何らかの偶然から、現代には、かなり成り立つ――ただし、技術的な性質を持つような思考習慣を除くが、それは産業技術自体の一部なのである――。
 この命題の明白な例外は、問題となっている技術的体系、そして他の生活様式を支配している、それに付随する体系が淘汰的な試験――この人口が特定のタイプの人間として生存していた生活史の初期段階にこれらの文化的条件の下で繁栄するという淘汰的な試験――によって当該人口に適していることが証明された地域に見られるだろう。バルト海・北海地域の他の民族と同様に、英国人についても、それは近代的生活のもたらした習慣(原理、諸制度)の成長が――その潮流が新石器時代の北欧に広まっていた文化体系の復興に向かっていることを除くと――どうやら逆の性格のものであることを意味するだろう。また全体的に、それはその方向から分かれるほど逆に見えるであろう。

今やいささか時代遅れとなった予見、権益および産業装備とならんで、生産体制を支配する習慣が成長する一方で、産業と経営を支配する因習と同程度に安定して厳密な慣例、規範および偏見とならんで消費習慣の成長も同様に進行していた。 経済学者が通常学術用語を用いて取り扱うように、これらの消費習慣はまとめて生活水準の項目に分類してよいだろう――ただし、技術的な用法では、その用語はその語源的な意義が人に期待させるような物質的福祉の標準を示すものではない――。それはむしろ消費がどんな根拠にもとづいて計測されようとも、消費水準を意味するものであり、通常、消費者の物理的福祉には関係しないか、少なくとも人々の意図する関係を持たない品目を含むことになる。貧富にかかわらず、どの階級にとっても生活水準に含まれるものの大きい割合、おそらく大部分は顕示的浪費(36)という理論的範疇に入り、それは生存だけでなく時間と労力の消費をも含んでいる。
道徳がなくても許されるが、教育がないのは許されない、というのは、よく知られた一つの警句の知恵である。儀礼作法の規準は、伝統に一致しており、メディア人とペルシャ人の法のようなものである――彼らは情状酌に服さず、それを認めなかった――。簡素で厳格な法典の場合にしばしば生じたように、違反に対する刑罰は法からの追放であり、この措置は犯罪人の追求と根絶とをあらゆるよい出自の者(gens de bien)に課せられる責任として含むことも含まないこともある。
通常の場合、社会内部の隣人にふさわしい礼儀作法を普通に実施する場合には、その結果として生じる追放の予定行動は社会階層化に帰着する。その際、諸個人は、育ちの点で同様な習慣を持つ人々、およびその時の支出水準の点で似たような習慣を持つ人々との接触および協働のために生じる「同類という意識」によって、また彼らがもはや帰属してない人々の金銭的水準から排除されて、自分の新しい居場所に落ち着く。その一般的な結果は階級間の怒りと羨望の、そして個人と個人の対抗と誹謗の横行を超えて深刻なものとはならない。この時間と資産の消費にかかわる慣習の、またそれに付随する行儀作法と育ちという細部の差異が大きく一貫しており、また文化的に異なる社会の間を走っている場合、その結果は二者が相互に疎遠な関係となりに、それはちょっとした挑発で殺人行為にまで高まり、国民と国民の敵対行為に捌け口を求めるかもしれない。通常、愛国的憎悪が宿るのは、このように伝統が侵されたり、不快感を与えるという感情的な土壌の上である。最も有能な王朝政治家と商業的愛国心を持つ最も抜け目のない戦略家といえども、そのような「文化」の相違から生ずる似非道徳的な敵意がなければ、文明人に国際的殺戮状態をもたらすことなどできない。
今や、こうした慣習――時間と財貨の消費において、またそのような消費という儀式に当然含まれている振る舞いと儀式の点で、礼儀にかない称賛に値すると理解されている点にかかわる慣習――の成長が近代イングランド社会に、また英語諸社会全般にも、この点で大陸諸国民の同時代の結果と顕著に異なる結果を、とりわけドイツ諸国民の中で練り上げられてきたものと異なる結果をもたらすようになる。ドイツ諸国民は、他の多くのことと同様に、物質文明のより古い局面が教え込んできた伝統的美徳の多くをこの点に特に維持してきたのであり、ここから和解不可能となった「文化」の差異が生じる。
しかし、ここでもっと直接に関心を引くのは、英国社会の純産業効率の上にこの消費の慣習が成長するという関連である。きわめてよく知られているように、生活水準は、総じて大陸諸国全体より連合王国で、特にイングランドで高かった。そして、この水準が近代を通じて、またより顕著には産業革命以降も時々中断しながら上昇してきたことは言うまでもない。その時々の生活の必要条件のこうした進歩は全ての階級と状態に影響を与えたが、より高次の金銭的水準に相対的に最大の影響を与えてきた。そして、これらの因習的必要性の点で上流階級の手本が下層階級の習慣の成長を大きく導くにつれて、富裕者の(金銭的に)正しく正直な生活という規範が社会全般の富にとって広範な意義を持つようになる。
最初、イングランドが合理化し、あの近代的産業情況を創造した孤立的な経済政策コースを取り始めたとき、イングランドの信望の金銭的規模は大陸の水準よりいくぶん低かった。意気揚々と威張って歩いたエリザベス時代にもイングランドの流行の旗手たちは大陸モデルを追っていた。また実に、高級・壮麗という大陸的標準に最も接近していた人々さえ当時は柔弱な浪費家としてけなされたほど距離を隔てて、大陸モデルに従っていたのである(37)。彼らが専門用語の意味における浪費家であったというのは、訂正・修正することのできない命題である。それが自然状態の経済に占める彼らの位置と習慣であった。また彼らが「神の与え給うた生活状態」をきわめて効率的に満たしたことは紳士として賞賛に値する。国民的文化の集合という観点から見ると、紳士というのは美徳の一項目であり、その価値は完成した職人芸と洗練された味覚規準に適合することにある。紳士が浪費的な存在であることは事実の本質をなしている。模範的または主要な紳士が特定の文化の中で顕示的浪費の型としてどれほど浪費的に引き上げられるかは、当時の生産と分配の体系がどれほどの大きい割合を顕示的浪費的な消費に費やすかという問題である。
いずれにせよ完全な紳士(および完全な女性紳士)の発展には時間がかかる。制度として、完全な紳士(または女性紳士)は、使用される原材料を最も経済的に利用することしか許さないという批判的感情を背景にしながら、顕示的浪費の原理(思考習慣)の全面的な監視を受けつつ完成される待遇、区別、洗練された嗜好という複合的な事象である。これに関連して、この経済的規準は、紳士の顕示的浪費が偶然や漏れによってではなく、誰か他の人の物質的福祉に、または金銭的利得に断じて貢献してはならないことを求める。これらの卓越性という印にもとづいて判断すると、それは紳士(または女性紳士)というイングランドにおける金銭的文化の主要産物が人間の欠点がもたらすも同然のことであることが、異論なく認められよう。産出量もほぼ期待されるほどに大きい。実際、また当然ながら、それは事情が許す限り大きいが、その訳はイングランド社会がキリスト教世界の領域内で金銭的文化の達した最高かつ最大の成熟にゆっくりと、釣り合いよく成長してきたからである。他の英語諸国民もよくやっているが、遺産に入りこむのが遅すぎたため、処理可能な幅の財貨とエネルギーを物質的に役立つ余りを残さずにどう処理するべきかというこの難問を解決できていない。多くの他のことと同じく、彼らの努力は、この構成におけるイングランドの主導権から受け継いだ制度を保守し、その効率を高めることに向けられるのがせいぜいである。
エリザベス期の若い世界(juventus mundi)の大いなる鋭気がイングランド人に経済的覇権の道をスタートさせるとすぐに、イングランドの富裕な人々の高支出は大陸の批評家たちの注意を引きつけ始めた。イングランド人は旅行――金のかかる習慣――に走り、そしてそれ以来ずっと、彼らが極めて浪費的な支出を行なうことはイングランド人旅行者に対する定評的な批判となってきた(38)。この大陸の批判者による批判は、通常、羨望の調子を帯びることになるが、ただし、その最も突出している点はこの英国人の支出請求書の不経済的な――上記したように、これらの問題に適用される経済的規準の下における不経済的な――特徴の指摘にある。今日のイングランド人は、その紳士の数でも、その単位あたりの費用でも共にキリスト教世界をリードしていることは疑いない。この費用は生産の余剰から支出され、その分だけ純余剰を減らしている。英国紳士階級の現在の純費用の総計を示す数字は、所得表からいくぶん差し引くことができるかもしれない。課税所得は、合法的に免除されなくなる限度まで顕示的純浪費の項目に確実に含めることができる。――この見積りから生じうるどんな誤差も、少なくとも他の源泉、例えば鉄道と気船乗客輸送、ホテル、様々な行楽地の営業費などから引き出される同類の浪費的支出項目によって相殺されるだろう。
スポーツは、この徐々に成熟している英国の顕示的消費の浪費体系のきわめて大きい源泉であった。さらにスポーツは、それ以外にはなんらかの有用な目的から簡単にはそらせないエネルギーの失礼を失わずに非難されることのない捌け口を与えるという利点を持っている。スポーツは、規模の上で、またそれを連合王国で育成するのに必要な環境のために、人気のある趣を長期間、持続的に訓練するための費用なくしては、日々の生活体系に取り入れることできない。それは不愛想な措置によってなされないのである。いかなる成人男性の市民であれ自ら進んで英国式の凝った無用物、例えば射撃や競馬、ないしはポロや登山のような空しい離れ業、または大試合のための遠征に熱中することなど、まったく想像力の及ばないところである。この子供じみた見せかけ(make-believe)のひと勝負への熱狂的傾倒を意味する良識を消すことは一世代では達成されえない。それには伝統が与えうるあらゆる正統性を得ることが必要となり、したがって次世代の教育を幼少期に始め、教育体制全体にわたって追及しなくてはならない。もし人々の感情がゆっくりした習慣化によって同じ傾向へと徐々に転じることがなければ、それが人々の感情によって許容されることもないだろう(39)。だが、習慣化が作用してきたため、社会全体がこれらのことを許容しただけでなく、この過剰な愚行が時の経過とともに文明生活の正義、善および必需品であるというイングランド人の観念に組みこまれてしまった(40)。これらのすべて、そして同様なことは、説教の言説にとってはよい材料となるかもしれないが、この点に関して、その価値評価はここでは問わないこととする。今目的としているのは、これらの深く浸み込んだ浪費的な使用の、英国社会の純産業効率に対する関連、この浪費的使用が生み出す幸運を得た産業技術のこうした近代的な状態の、社会全体に対する純有益性の関連である。

このすべてが、また同様なことが、説教にとってよい資料かもしれないが、それに関係するその価値はここでは問題としない。本稿の目的となるのは、これらの染みついた浪費的使用の英国社会の純産業効率、彼らが幸運にももたらした産業技術のこの近代的状態の利用の、社会全体への効率性に対する関連である。
さらに説明を続けると、――スポーツの項目を単独の分離された項目としてはっきりと孤立した状態に放置しないように――、豊かな英国人に慣用によって義務となっている住居と家庭内設備の面における浪費的消費について一言語ってもよいだろう。巨額の富を持つ紳士は、複数の居所、住居、またはその他にどんな用語であれ一人の表向きの居住者がそのわずか一部しか利用できないような建造物を意味するものを持つべきである。町と田舎でどれほどの住居が特定の金銭的格付けの特定の紳士に必要であるかをはっきりと述べることはもとよりできない。一般的に言えば、そのような紳士は、表向きにさえ、自分が便利に利用することができる以上を、また維持することのできる限り多くの大住宅を持つべきであると言うことができるだけである。この制度の目に見える経済的効果は、各々の(上流階級)世帯のための一団の奉公人と世話係を有用な雇用から遠ざけると同時に、普通人が各世帯に属している土地(これはできる限り広くあるべきだが)を利用できないようにすることにある――すなわち、この(紳士の)実践はブリテン島の純利用可能な地面をそれだけ減らすのに役立っているのである――。
この社会の上流身分の人々の義務的となっている奉公人の使用と儀式習慣をもっと詳しく述べる必要はない。この点を補強するのに十分なことがきわめてよく知られている。すなわち、多くのことが習慣から因習的必要という範疇に入っており、またそのため総生産能力と純利用可能余剰との乖離幅が大きく狭められている。またかりにこの社会は競争状況の必要性から利用可能な力を最大に利用することを求められているとしても、またはその時には、有効な効率をその社会の理論的な効率にまで高めることは時間、圧力および困惑の問題となるだろうという点についても同様である(41)。
この、因習的に承認された浪費者の手中で行われる因習的に標準化されている浪費は、すでにそれ自体として十分に大きい障害であるが、また間接的に、人々の嗜好と模倣による同様の習慣の普及に及ぼした方向の点で、もっと大きい結果をもたらすことも疑いない。上段で指摘したように、イングランド社会全体の生活水準は大陸諸国より高く、概して近代を通じて上昇した。この水準の上昇は、一部が物理的な快適さの水準の上昇である。それがまったくそのような性格のものであるということを意味する言葉で、そのことは屡々話される。だが、すぐ上で言及した、犬を飼う慈善事業といった類の挿話は疑念を生みやすいが、その経済的価値を評価するために英国労働者階級の取るに足らないおしゃれと野暮ったい遊興を詳しく調べるのは無作法にして煩わしい作業となろう。
しかしながら、社会全体の産業効率にかかわる英国と大陸の習慣の対比を示すために、疑問の余地のない趣味についてある事実を引いてもよいだろう。例えばイングランドの女性たちが野外労働をするのは、不道徳と言わぬまでも、不適当ということになった。一方、大陸諸国では、またおそらく特にドイツの諸地方では、女性たちはそのような道徳的な制限を受けずに野外で働いている。それは身体的な苦難という問題ではない。野外労働は室内労働より見た目ほどに煩わしくなく、また疑いなく健全である。北欧の住民は遺伝的に他のどんな住民にも劣らず屋外的な民族であり、おそらく他の多くの民族よりそうであろう。また女性は男性と同じようにこの遺伝の影響を受けている。屋外労働から女性を「免除」するために様々な議論が提案されている。これらの議論は、詳しい吟味に耐えるのに適合している限り、因習的妥当性を考慮した結果であることがわかる。それらは一切の有用労働からの富裕な女性たちのあの免除(これがイングランドの社会的規範の主要疾患の一つ、また顕示的浪費の原理の主要な適例の一つをなしているのであるが)を衝動的に模倣する性質のものであるように見える。これらの評判のよい免除の経済的価値は、利用可能な産業力を直接減らすという点でも、またその支配下に入る住民の部分の活力を引き下げることによって間接的に効率を下げるという点でも、相当なものである。その難しさはこの社会の産業効率に起因している。この産業効率は、浪費する余裕があるほど十分に高かったか、あるいは少なくもこれらの免除が最初に定着したかの上流の準有閑階級の中ではそうだったのである。階級差と階級的免除が主に金銭的土台の上に実現される社会では、浪費的な因習は低位にある金銭的階級が上流階級の習慣を負けまいと模倣することによって住民全体にかなり簡単に広まる。そのためこの種の免除は、裕福者内部の簡単な差別の手段となり、やがて立派な生計の必要なしるしとして貧困者の間でも広まることになる。
かくしてまた財の消費でも、かつては余剰の問題であった体面の問題として多くが求められるようになり、そしてこれらの品位物、例えば衣服や日常用品などは、身体的な快適さにとって必要な物というより生活必需品となり、生活水準に含まれることとなった。大陸よりも連合王国の労働者階級の間で、また過去のいかなる時代のブリテン島よりも現在の労働者階級の間で、この体面を保つための、物理的に余剰であり通常審美的に不愉快な義務的な支出が多い(42)。そこで、ここでもまた、この近代的な産業体制の効率上昇のもたらす目に見えぬ抑圧の増大という最後の説明の通り、なんらかの種類のスポーツへの中毒およびスポーツマン的な関心および価値への没頭は上流階級のレベルから住民全体へと下に広まり、この浪費という範疇は労働者が出会ったり表明する意見にとっての共通の関心の唯一の土台になるまでに至った。人々の消費のために毎日産出される印刷物の半分は、スポーツに供されると言うことができる。スポーツに対する関心の一切の下位区分を含むことを目指す分類であれば、おそらくその割合はもっと高く評価されるだろう。
この至るところに存在するスポーツ中毒とその熱愛に含まれる時間と財産の直接的な浪費は、それだけであればおそらく誰の懸念もかき立てる必要はないだろう。それだけの浪費ならば健全な最小限を少しも超えないかもしれない――ただし、芸術的な浪費や知的な浪費を好む人ならば、この粗暴で残忍な性質の浪費中毒を非難するよう駆り立てられるかもしれない――。しかしながら、ここで、もっと要点をついているのは次の事実である。それは、スポーツマン精神の負けじと張り合う、不愉快な関心を持ってこのように夢中になることは、不可避的に、産業にとって不都合な影響を住民の気質に与え、それらを些細な負けじと張り合う功績の方向に向かわせ、かつ近代的な技術効率の精神的土台をなす現実のかの用意のととのった差別から離れるように、習慣的偏向でもって曲げるという事実である。スポーツマン的な夢中がこのように英国住民に浸透したことは、産業体制の生産物とエネルギーを浪費するというよりは、むしろ産業体制の効率のよって来る源泉を腐敗させるのである。破壊手段としてのその高度の帰結は、それが精力を浪費することにある。ここでもまた、このような浸透している堅固な習慣的適性の発生と確立には時間を要すること、そしてそれを取り除くにも時間、圧力および経験が必要となることを指摘しなければならない。

注
(23)ヴェルナー・ゾンバルト『近代資本主義』、第一巻、第五章、六章および七章、『ブルジョア』「序論」と第二章を参照。W.J.アシュリー『イングランド経済の歴史と理論』、第二巻、第六章。またこれらの著述家の言及している著者を参照せよ。
(24)「その数世紀は、憎悪、貪欲、勇気および献身という基本的なチュートン的な性質をくっきりと浮彫りにした。」(H・O・テイラー『中世の精神』)。
(25)この精密科学における主導性と創造的先導について英語諸国民の優越性を不適切に主張しているように思われかねないが、それは他民族に属し、また他言語に関係する科学者の仕事を見落としているわけではない。これは言語や民族の帰属の問題ではなく、いわんや人種の問題ではない。ここでの議論の要点は、精密科学の、また特に物質的科学のこうした先導が西欧諸国民の産業技術の状態――および同類の制度的概念――と緊密に関係しているということにすぎない。また近代の技術進歩の特徴的な地理的分布が、特に一八世紀末と一九世紀初頭のそれが、他のどこよりもブリテン島において近代科学に起因する機械的傾向のより自由な成長とより完全な成熟をもたらしたにすぎない。同時に、また主に印刷の利用のために、これら西側諸国の文化は、近代全体を通じてコスモポリタン的(世界市民的)な性格を持ってきた。イタリア、オランダ、南ドイツ、さらにスカンジナビアの専門家、とりわけフランス人による科学的な発展の貢献――きわめて重要な貢献――がイングランドのものと比較して過小評価されてはならない。(一八九~一九三ページを参照。)これらの他国人は、たいてい、この領域にもっと早い時期にやって来たが、他方では、より完成された機械的原理の下で生じたより完成された近代化の時期の前進的運動にはわずかな比重を持つにすぎない。
西洋文明の発展の頂点にかかわる多くの他のことと同様に、このすべての点で、フランス社会が大陸諸民族全体に当てはまる全般的な特徴づけの明らかな例外として特出していることは疑いない。フランス人が近代文明の経過全体を通じて覇権的な地位を占め続けたことは、上段で試みた分析を妨げるものではない。その分析は、イングランド人とドイツ人の相違に直接に向けられたものであり、バルト海・北海沿岸の気候地域内の諸民族に共通に行われている文化の極端な型として考察されている。
(26)『製作本能と産業技術の状態』、第四章と第六章を参照。
(27)ジェイコブ・ベーム『万物の署名』を参照。
(28)ロバート・ボイル『懐疑的化学者』を参照。
(29)機械的な方法と手段に依存するようになったために生じた技術体系の新しい要因は、同じ点に関係している諸要因の協調に対して一定の「閾値」の比率や密度を超える場合にのみ、状況全体の中で本質的な貢献要因とみなされることになる。これはどんな事例でも習慣化の複数の要因についても当てはまる。比較的わずかな尺度で存在しているようなものは簡単に無視されうる。その事例は治療法で行われていることに似ており、その場合には「最小服用量」より少ない投薬は効果を持たない――ただし、特定の薬の場合、最小服用量の持続的な反復がやがて累積的な効果をもたらしうるのを除く――。治療法も習慣化がものを言う領域であると言わなければならない。
(30)例えばアダム・スミスは、産業過程の効率をめぐる経済問題にかかわる予見がこの点に関して彼を論理的に有利な点に置いたとのに、問題をそのようには見なかった。
(31)実際、煩をいとわなければ、とりわけ技術的な領域からおそらくまだ最も縁遠く、機械工学の論理にほとんど触れない分野の科学、例えば経済学に携わる科学者の作品の中には、自然法のギルド規制的な観念の復活を見つけ出せるかもしれない。
(32)ここでは「救恤的」という言葉を、そのように「救恤的な」イングランド人世代の形成をもたらした営利的経営を称賛したり非難しようというつもりはなく、技術的な意味で使う。それは、とりわけ、この制度が救恤的な労働人口を生み出すという特徴を持つ長期間の経験をへなかった別の社会の経験と競争的な関係に投げ込まれるとき、産業体制の持続的な効率に関連するような帰結という事実である。どの種の「救恤的」人口や世代も、成長を妨げ、内臓の構成や機能の計測人類学的なバランスを乱し、また気候、公衆衛生、栄養または緊張というこれらの不適当な条件にこのようにさらされている世代内部で生命機能が回復できなくなる限度を越えて衰弱させるほどに、その特定の類型にとって正常だと淘汰的にわかっている生活条件とあまりにも異なっている生活条件の下に置かれてきた人々である。
このような特定の類型からの救恤的な変異は、その条件が続くかぎり、また正常な条件に戻ったのちもかなりの時期または何世代も実際に遺伝することがある。本稿の目的にとって、それは「劣悪な」環境による一時的な類型変化ということになり、前段の一節で語った人種類型の永続性ということには関係しない。
同じく劣悪あるいは不健康な性格の変異は、例えば王室、貴族または世襲的な金持ちのような富裕階級や特権階級に時々みられるような過食、自然(風雨など)からの過度の保護、または過度の官能的耽溺および身体器官の活動不足の方向に向かう生活環境の劣悪または不健康な変種を伴っていることは疑いないだろう。語源学から言えば、この種の過剰による劣悪な変異を「救恤的」と呼ぶことは許されないであろうが、一方、他に技術的な用法によって認められるどんな用語もあるようには見えない。実際、こうした特権階級内の過度の耽溺の結果は、貧困者内の食料不足と過剰労働によって達成される結果とほぼ同じになるのである。この二種の劣悪な変異が通常同じ社会に、一方を生み出しながら通常他方を産出する条件の中にともにみいだされることも注目されよう。例えばイングランドは、近代の技術的進歩のもたらした企業と産業、平和と繁栄の時代の副産物として双方を備えるに至ったのである。
(33)五港(シンク・ポート)は、産業体制の成長と人口分布の変化によるそのような「全面的な」減価の歴史的実例を与えている。一方、イングランドのローマ道は、産業技術の状態の衰退または没落のために同様な減耗がどのように生じるかを示している。
(34)製鉄業のようなまったく基礎的で、特殊に英国的な業種にあってさえ、最近、他国の観察者――例えばドイツ、スウェーデンあるいはアメリカの観察者――は、無能に矮小な溶鉱炉、時代遅れの原材料搬送器具および労働と燃料を浪費する時代遅れの装置を真剣に、皮肉まじりに非難する機会を持った。
(35)営利的な産業のこうした状態との興味深い対照は英国海軍に見られる。そこでは、人員と戦略の体系的な組織化と統制のより重要な部分はもちろん、ほとんどどの項目の装備も過去十年内に時代遅れとなった。この海軍の体制を現在の技術的な基準からみて満足な効果にまで引き上げるためになされた努力には、多くの妥協と多くの急場しのぎがあり、その結果、堪え忍ぶべき遅延の程度は、結局、英国産業の事業体の中で十分に通用する程度と比べてまったくひどいものである。社会の産業効率が第一の意義を持っており、海軍の体制は副次的に重要性であるか、それ以下の意義しかもたないが、産業の業務は競争的な営利企業の動機にもとづいて遂行されるのである。
(36)近代的生活におけるこの原理とその位置のより詳細な説明については、特に『有閑階級の理論』第二章から第七章、第一二章を見よ。
(37)例えばエリザベス朝イングランドについてのハリソンの記述を参照せよ。そこでは、イタリアの異国情緒の極致を追い求めるようとしているあのイングランドの紳士気取りの子弟について多くの辛辣なことが語られている。
(38)最近、彼らの後を追っているアメリカ人によって追い抜かれて影が薄くなっている。
(39)グレアム・ウォラス『偉大な社会』、おそらく特に第三章と第五章を参照するのが。
(40)例えば、ドイツとの戦争によって生じた英国の生活の混乱の中で、犬の飼い主が陸軍に徴兵されたため、それらの犬の世話をし、また飼い主の復帰に備えて犬を衰弱させないように保護するための連合が形成された。ごく冷静な性格を持つ英国の新聞でさ、犬を養うというこの必要な仕事をどうすすめるのが最善かということについて、最も英国式に冷静な助言と警告を印刷してきた。兵士たちのスポーツ装備を適正に維持すべしというこの扇動のすべてが実際に一包みの滑稽な戯言なのではないという印象を避けることはできない。むしろ、それは習慣が常識に対して支配権を行使するようになることを例解するものである。
(41)この浪費的な支出が浪費家によって浪費とみなされることがないのはもちろんであり、金融戦略家によるこれらの経路への富の組織的な流用も世間の人々の理解ではそのようにみなされていない。この点に関する通俗人の経済理論と呼ぶことのできるものは、次の意見によく見られる。この意見は、正確に報じられているかもしれず、そうでないかもしれないが、それでも真実をついている。
「私たちの現実社会の基礎はお金(貨幣)に依存していて、富を達成するのは労働者だけです。」モーガン嬢はつづけて言う。
「例えばカーネギー家とフリック家の例をあげましょう。 彼らは巨大な富を持っており、それは膨大な労働者によって蓄積されました。働く人たちは財界だけでなく、社会の運命をも左右します・・・。社会とその様々な部分は生存するために貨幣支出に依存します。毎年何千という商人たちに雇用を与える娯楽や社会的機能に費やすために必要な貨幣を持っているのは誰でしょうか? それはお金持ちです。実業界は、労働する人々を構成する何千人もの人々によって流通する貨幣で一分でも生きることができるでしょうか? 決してそうではありません。実業界は「上流社会」の費やす何千ドルものお金によって生かされているのです。これは統計学者がよく調査するべき題目です。」
(42)例えばアダム・スミスは次のように語る。彼の時代には、スコットランドの労働者階級は、この靴という手段によって自分たちの名声を守る必要性を感じていなかったのであるが、イングランドの労働者階級の間では必要な支出品目として生活水準に含まれていた、と。この説明は、それが典型的な事例であり、また現在でもブリテン島と大陸との間で同じ程度に対照が成り立っているという点で正しい。ただし、特定品目の靴は、――――アダム・スミスの時代以降の変化であるが――近代的技術がたまたま靴を物理的な必要物にしたという点で、まことしやかな異論の余地がある。
金属、ガラス、レンガ、陶器、石、コンクリートの舗道および同様な耐火性物質は、近代生活の中ではどこにも存在するため、無防備な人間の足は不利を被るという事実がある。ちなみに、その結果として足を固く、重く保護する必要性は、この産業技術の様相がその粗効率から不可避的に控除しなければならない組織的な不利益の典型的な一例である。

帝政ドイツと産業革命 第三章 王朝国家


前回のアップデートからかなり時間が経ってしまったが、ヴェブレンの『帝政ドイツと産業革命』の第三章(翻訳案)を掲載する。
いつものことだが、なかなか日本語に翻訳するのが難しい英文の文章が並べられ、中には英語の単語の意味は明確なのに、文脈の中でどのような含意を持たせられているのががよく理解できない節もある。そのような節にひっかかると、一箇所で何時間も考えなければならなくなる。例えば、somewhat of a chance, much of the time という句は、除いても意味は通じるが、一体何を表現したいのだろうか、まだ完全に自信をもって日本語に訳したとは言えない状況だが、とりあえず仮訳ということで先に進むことにした。そうでもしないとずっと先に進めない箇所がいくつもある。
 文章の意味を一つずつ確認し、また段落全体の位置づけを一つずつ確認しながら、少しずつ先に進むのは、かなり集中力と忍耐力のいる作業であり、70歳を目前に控えた身にはかなり苦しい。
 また一般論として言うと、世の翻訳には、誤訳や不適訳がつきまとっており、また趣味(taste)の問題もあり、もっと趣味のよい訳し方もあると思う。自分が読んで意味をとれないような訳文は誤訳か不適訳に違いないはずであるが、訳者はもとの原文(英文)を知っているので、リーダブルではない日本語でもかろうじて意味を理解できるという場合もあるかもしれない。
ともかく、様々な問題があることを自認しながら、第三章を以下に掲げることにする。


T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年)

第三章 王朝国家

バルト海沿岸地域の古い居住地なのか、それともその外部の祖国と語られるようになったあの征服と移住の地なのかにかかわらず、先史時代の異教信仰から後期近代にかけての時代を通じてゲルマン諸民族にふりかかったこと、こうしたことはすべて本研究にかかわらない。またあの古めかしい文化状態の下で生き繁栄していたこれらの人々の遺伝的な人種的素質がどのようなものであるかを言及して示すのに役立つ場合を除けば、古い先史時代のこれら諸民族の特別な運命もこの関連で関心をひくことはない。これらの諸民族がそのように生き繁栄していたことは、その古い文化とそれにもとづいていた産業技術の状態が彼らの気質的な特徴に適合していたことを証するものである。この異教的な古代の特徴的な文化の成立に示されるような遺伝型の人間的性格がこれに関連して興味を引くが、というのも、それが現今の技術の提供する条件の下でこれらの諸民族が今日も生計を得るのに役立っているのと同じ人間的性質であるためである。
したがって概説的な要約する段落があってもよいだろう。概して、バルト海・北海沿岸の気候地域内に住んでいるこれらすべての北欧諸民族は、言語や国籍を問わず、一つの人種的特徴を持っている。これらの諸民族はすべて混成的な起源を有し、三つほど(またはそれ以上)の人種的種族から形成される雑種の住民であり、また散発的に投げ入れられた少数者を含んでいる。この人口構成は、いくつかの人種構成要素が雑種的な混合体に入っている相対的な割合からみて、西から東に向かってわずかに変化しており、また北から南に向かって体系的に変化している。ただし、現下の目的にとって、この特徴づけがバルト海と北海の気候地域の内部にしか当てはまらないという留保は常に必要である。したがって、これらの諸国の住民には雑種的集団に特有の広範な個人的多様性がしある。この広い多様性は、その民族に新しい環境および異質な環境にさえ容易に適応できる能力を与えるほどになっているが、しかし、この多様性さえ、結局、ある一定の広さの、選択的に決められた線内にとどまっており、これらの諸民族全体に共通する・一定の・柔軟ではあるが厳然たる人間的性質の全般的な傾向や原型が長期的に有効に成立すること(assertion)を否定するものではない――この型の人間的性質の根底的な特徴は、バルト諸民族が生き延びるのに成功した民族の生活史の初期に生み出した古い文明に示されるのと同じものである。先史のこの時代は、かなり安定した環境下で、明確に淘汰的な効果らしきものを実現するのに、またそこで彼らが何に適しており、何が彼らに適しているかを試すのに十分に長い間持続したこの住民の経験中の唯一の時期だった。この古い文化は、そこで淘汰というテストによって北欧人に生得的なものであると言えるが、その技術的な側面では、典型的に新石器文化の特徴を持っており、それ以外の特定の名称を与えられるべきではない。一方、その国内的、社会的、および市民的な諸制度の点では、それは、強制的統御の公的規定を欠いており、寛大な隣人監視の実践によって機能させるのに十分なほど小さな規模に限られていたという意味で、因習化されたアナーキー(無政府主義)と呼んでもよいだろう。利用できる証拠が示す限り、このような性格づけは宗教的儀式、そしておそらく基本的な宗教的な観念にも当てはまる。この異教的文化の政体が多くの出来事の後に最終的に崩壊したとき、その地位はヨーロッパの周辺諸国に定住したあの好戦的で海賊的な移民の間で封建制度へと発展した掠奪的な組織に受け継がれた。一方、バルト・スカンジナビア諸国の故地に残された住民の間では、それはやがて封建制を模倣して建設された似たり寄ったりの特徴を持つ強制的な統治体制によって置き替えられた。
これらの諸民族が雑種的派生物だという点に、またこの人口の人種的構成が新石器時代におけるバルト海・北海沿岸部の最初の定住以来決して大きくは変化しなかったという事実に、ここでは特に注意を払ってきた。ただし、――その到来が新石器時代のことだとしても――短頭・黒髪種族の交雑・混交が生じたのは最初の定住後のことかもしれないという保留を付しておこう。こうした人種的構成の状態からすると、この気候地域内の異なった民族間には、またはこれらの民族のどれか一つを構成する異なった社会階級間には、本質的には遺伝的な相違がないという帰結が生じる。
それらの雑種的な構成はまた、技術的な事象でも、また市民的および社会的諸制度のスキームや宗教的および知性的な観念の流布の点でも、あらゆる生活技術における幅広い適応性と並んで、外部から斬新な思想を受容するためのきわめて大きい能力を与える。同時にその同じ雑種の個人的な多様性は、受容された習慣の特定のスキームや制度が永続的な安定性を達成しないように妨げるように作用する。そのような人々の中では、どんな知識、信仰、利用法または統御のシステムも、技術的な変化や異質な文化との接触から生じうる新しい事態の衝撃を受けて、それらを変容させるのではなくむしろ破壊してしまうことになる程の不動性と硬直性を達成することはありえない。その結果、その下に構成されるすべての個人またはほぼすべての個人の気質的性向に――それ相応の寛容幅を伴うとしても――きちんと納まることになる慣習と確信のスキームは生み出されえない。それゆえ、このような性格を持つ人口の中では、習慣、知識および信仰の包括的なスキームは、事実上、必然的にある程度に暫定的となる。それは必然的に、その規則の下に生活する全住民の画一的で全面的な自然発生的合意にもとづくというよりは、関係する諸個人の多数派による承認(部分的には譲歩的な承認)にもとづくことになる。この有効な多数派がそのような標準的なスキームに与える承認も必然的に、かなりの程度に、自由なイニシアティブというよりはむしろ同意による承認である。
そうした事情であるということは、歴史時代にキリスト教世界の諸民族の上を通り過ぎた革命的な変化のどれ一つをとっても明白である。例えば、封建制が成長し、また後世に王朝国家が発達し、それに続いて立憲的土台に移行したときも、そのような変化が生じたのである。またキリスト教信仰が漸次的に受け入れられ、それに続いてその教会支配が成長して、それに伴って宗教的異端という多くの冒険が生じ、またそれらの種々の結果が生じたときもそうである。
この後者の範疇、つまり北欧人の中の宗教的儀式の冒険は、そのような気質の可変性や、またそれに続く知識と信仰の継起的なシステムの台頭、支配および衰微の作用について入手できる最も適切な説明になるかもしれない。もちろん、このこと自体は論争的な激しさに満ち、また摩擦熱を帯びた生活様式の一分野である。とはいえ、本論を加熱せずに説明用の材料としてそれに頼ることを認めるのは、本研究にかかわる主要な関心からはまったくそれている。
険しい道をたどり不名誉な結果をもたらしたあの献身的な企てはもちろん、信仰の領域における成功に満ちた出発においても、超自然的なものにかかわる思考習慣の新しい、または従前とは異なったスキームがいつでも特定の少数の個人の好みとして登場したことが見て取られよう。推測するに、これらの個人は、これらの問題について以前に受け入れられた見解に適合しないような、肉体的ないし精神的な訓練、またはむしろ両方の訓練によって、この新しい思考様式に適合的な心理状態に陥ったのであろう。超自然的事象の領域におけるそのような先駆者が例外的な、または誤りに満ちた個人、特別な能力を賦与された人格であり、おそらく病理学的な異常行動にさえ冒されているか、それとも呪術的または超自然的な影響の下にあったことは、通常、その改宗者以外の何人も認めるところであろう。すなわち、いずれにせよ彼らは普通の人種型の中の不規則な変種であり、その特異な気質的傾向がある特別な訓練や例外的な体験によって強められていたために、その当時正しいものとして受け入れられていた思考習慣に合わないのである。その結果生じる種類の信仰は、ついでやがて、その当時の情況の課す訓練がこの新しい潮流の宗教的観念に一致するような方向に相当数の人の思考習慣を傾けるようなものとなる場合に、より広く承認されるようになる。そして、もしこの新種の信仰が当時の日常的習慣化の趨勢とかなり一致するほどに幸運であるならば、その改宗者の一団はやがて全般的な信頼を獲得し、正統派の信仰へと拡大するほどに恐るべき人気ある宗教運動へと成長してゆくことになる。「万人によって、あらゆるところで信じられるものは、信じられるべきである」(Quid ad ominibus, quid ubique creditor,credendum est)。かくして多くの人々、恐らくどんなに挑発されても自分の羊毛から同じ毛織物を紡ぎ出せなかったと思われる人々が、新しい宗教的観念に同調することになる。そして次にその変種はその発生源となった元の信仰母体に取って代わるようにさえなるかもしれない。
ここでもまた、もし新しい信仰がまったく幸運にも世俗的事象の体系にきちんと一致するならば、その体系はその時々の必要によって形作られているのだから、この新しい信仰は唯一の真の信仰になるかもしれず、またそこですべての人に等しく義務的となるかもしれない。このことは、特に、もし同時にその遵守を実施する手段を所有したり見つけ出すことのできる支配階級の目的に合致しているならば、生じやすい。この最後の命題は逆も真となりうる。もし新しい信仰に体現された精神がその時々の日常的経験の訓練によって効果的に支えられるならば、その宗教的傾向に深く染められた人々は、人々の歓呼のうちに責任ある権能を持つ地位にたやすく投げ上げられ、そこで彼ら自身の利益の促進を、その利益を支える自分たちの敬虔な信念と結びつけ、それを自明で不寛容な不可謬性という成熟した段階へ育て上げるようになる。
慣習全体の事象にかかわる習慣的理想と信念の発生と成長の中で、あるいはどんな関連においてであれ、出来事の流れは、これらの宗教的真理の発端と普及を取り巻く環境と本質的に異なった性質のものではない。全国民の生活の顔を変えるような変化も始まりは小さい。つまり、さかのぼることのできる最初の過程は、普通、小規模な特色ある人間集団の側の何らかの公然たる行為から始まっている。これらの人々は、つぎにやがて運動が成功したとわかった場合には、洞察力と指導力を持っていると認められるであろう。かりに運動が承認とそれに続く効果を得ることができないならば、その宣伝のスポークスマンはそのとき、おそらく不健全な精神を持つ空想的な企画者だったということになるだろう。そのような事象の流れを比喩的に記述すれば、新しい精神状態の徴候は、まず先天的な性癖および例外的な露出度のために特別にそれに感染しやすいある一人の個人の態度に明確に現れるであろう。同じような感受性がそれ以外の住民の中で優勢となっている限り、また習慣化の環境が新しい観念に有利である限り、それはつぎにやがて多数の増加してゆく人々の思考習慣の中に定着するであろう――とりわけ、雑種的な遺伝の気まぐれによってその受容に特に適した気質を持つ変異者として生まれた人々の中で、または生活規律が例外的な厳しさでそうした方向に向けさせる人々の中では、そうである――。かりに新しい観念が権威筋または人々の擁護を標榜する立場にある人々の支持を得るようになれば、その趨勢は模倣によって、またおそらく強制的な遵守によって大いに支えられることになり、またそこで比較的短期間に当然の事、常識的な事になるだろう。しかし、そのような雑種人口の中では、新しい観念の浸透と確立にあれほど資するところのあった気質的多様性の広まりが同時にその持続をそれ相応に不安定にすることになるという留保を常に忘れてはならない。
この点は、近代諸国民の中で時折好戦的な思想が台頭したり没落したりすることによって説明されるかもしれない。ただし、その点を最もよく説明するのは、これらの思想の衰微ではなく、むしろ発生と支配ではある。そのような思想の、またそれらの外面的な表現というべき愛国主義的な憎悪の退潮は、(平和)宣伝と適切な訓育による攻撃的な教化というよりもむしろ等閑視を通じた旧情復帰の結果であるように見える。平和と親善のもとは、論争的な(平和)宣伝、「平和を維持する」ための精力的な戦争準備以外の何物かによってもたらされたようには見えない。
これらの近代国家には常にかなりの好戦的な精神が存在している。必然的にそうであるが、それはそれらの政府体制が必然的に強制的な性格を持っており、それらの支配階級が王朝的野心に動かされているからである。この点では、共和国はこの規則に対する大きい例外をなさないほど効果的に、無批判的に、王朝国家を模倣している。歴史的伝統と先例はそのように流れている。そのため常に紛争の危険性がある。しかし、特別な誘引がなければ、一般の住民は、他にも関心事があるため、戦いのために戦うといった生得的な気質を持っていないので、簡単に等閑視して平和的な思考習慣に入りこみ、そのため間関係については――国際関係についてさえ――親善とまではいかないにせよ平和的なものと考える習慣になっているのである。
しかしながら、気質的に常軌をいっした諸個人、また特別な階級へと伝統的に訓練されているか、それとも特別な階級的利害に傾く傾向のある諸個人は、容易に好戦的な企ての利点を直ちに見てとり、国民的な憎悪の伝統を維持しようとすることになる。愛国心、掠奪および特権が共通の論点となる。こうした性質の途方もない先天的な偏見を持つ個人が同時に残忍な誇大妄想の成長に有利に働く環境にさらけだされ、自己の特異な性向を支えるような無責任な権威筋と規範的特権の立場にたまたま置かれるようなところでは、その好みが簡単に人気をはくし、流行となり、適当に維持され巧妙に管理されれば、あらゆるところで習慣的に承認されるようになり、その結果、一般大衆を熱狂的に好戦的な気分に陥らせる。特に王朝的戦略に流れる歴史的伝統を持ち、強制、大権および忠誠の類に依存する日常的な制度体系を持つ国民の場合には、そうした結果となりやすい。

ドイツが、独自とは言わないまでも華麗なる成長の非凡な事例として一般的認識のうちに座を占めるようになったのはようやく一八七〇年の新しい出発以来のことにすぎない。もちろん、それが力を開花する歴史は、いまも生きている人々の記憶内にあるこの短い期間にとどまるものではない。しかし、ドイツ国民の生活史が近代ヨーロッパにおける出来事のありふれた進展からかくも顕著に分岐することになるための力を与えた新しい出発は、結局、この時代から遠くにさかのぼるものではない。ドイツ史のこの時代が始まる正確な時期を探求する者は誰であれ、先にあげた年よりも前のどの点に決める場合でも困難を覚えることになる。そしてその日付より前に国力の開花として生じたことは、それ以降に生じたこととの関連でのみ重要な意義を持っている。
この歴史的時期にドイツ人が顕著に達成したことは、統計の語ることに従う限り、人口の増加、産業効率の上昇、そして軍事力の拡大である。おそらくスポークスマンの見解では、もっと大きい重要性をもつもっと大きい成長が他にも主張されており、ここでは、こうした物質的な領域の外部におけるドイツ人の達成を割り引いたり、矮小化したりするつもりはない。しかし、これらの他の点における進歩の規模は、ある程度まで評価と意見の問題であり、その程度に応じて自己満足あるいは軽視の感情の影響を受けるかもしれないが、一方、上段で評価した物質面の増加には反論の余地がない。しかし、これらの物理的に計測できる優越性というしるしによって判断すると、ドイツ人のこの近代の開始点にあたる歴史的時期は、普仏戦争のいくぶん前としなければならないだろう。上述の三つの関連のいずれにあっても、すでにその日付の前に発展はかなり進行していた。しかしながら、その時期の始まりは一九世紀の第二・四半期におさまると言うのが妥当だろう。そして、国民が力を展開するための諸要因の中の主たる動因が他の二つの関連のどれでもなく産業効率の上昇にあったと言ってもよいだろう。そうした効率の上昇は人口の増加によってもたらされたことは疑いないが、主導権は、これら二つのもののうち、後者ではなく前者にあったことも疑いない。産業の進歩と人口との相互関係の中では、前者が優位であった。同じことは、もちろん、軍事力の強化についてもあてはまる。
また疑いなく、成長と効率の諸原因の中で大きい位置を占めるのは、賢明な政府の政策と巧妙な行政であると信じられているが、この政府の政策の評価については、自説が大きくものを言い、このような問題に関する自説は、賛成にせよ反対にせよ、どちらかにかたよりやすい。軍事力の展開は、明確に政府の政策の結果であり、また疑いなく産業の進歩を推進するべくそのような政策が追求されてきた(1-16)。後者に関連して提起される問いは、政府――またはドイツの概念を使うと「国家」――の真摯な意図と努力に関するものではなく、ただこれらのよき意図と努力がどの程度まで有効だったかに関するものである。またこの主題については意見が一致していないので、この命題は前提から外しておくのが最善であろう。
よく知られているように、ドイツ統一のための実践的運動は、ドイツ帝国が最終的に形成されたことで成功裏に終わったが、その始まりと初期の成功はドイツ諸邦の経済的必要性のためであった――あるいは国土は小さな領邦に分かれていたが、それらの小さい領邦の政府によって生み出された人工的な悪弊という重荷によって惹起された――と言ってもよいかもしれない。かくして実践的な方策としては、それはこれらの領邦の分断的政策が築いてきた障害のいくつかを除去するように企てられた関税同盟の形成から始まる。そして帝国内の経済政策のこうした同盟と統一性はいまだにその強さの主要な源泉の一つであり、特に国内関税規制の撤廃はそうである。
それゆえ、近代ヨーロッパの産業発展に対するドイツの位置と関係とは、必然的に、この近代におけるドイツ人の富と達成を研究するための出発点となるだろう。そこで、この主題については、近代産業で使用するために利用できる天然資源は、隣国で見いだされるものと種類も範囲も同じものである。少なくとも隣国のうち最も恵まれた国と比べると、この国の資源が品質的に少し等級が劣り、また量的にわずかに不足していることを除くと、ドイツ諸国を北欧全体から区別するものは本質的に何もない。そのうえ、生得的な性向と素質の点で、ドイツの住民は、事実上その隣人たちとまったく同じである。遺伝的資質――人種的な特徴――については、それは周辺諸国民の住民と同じ民族である。――いっそう特にオランダ人、ベルギー人、そしてイングランド人と同一である。その雑種的な系統のために、ドイツ人はこれらの他の国民と同じように、広範囲の技術的な知識を獲得し、利用するための大きい能力を賦与されている。また、これらの他の国民に生命を与えている同じ職人的技量の遺伝的傾向によって、彼らは隣人たちと同じく産業と節約に勤勉に、かつ思慮深く熱中している。この関連において、主にドイツ人を他の諸国民から、またいっそう特にイングランド人から区別するものは、ドイツ人がこの産業制度にとって新参者だということである。またドイツの事例の差別的な特徴は、主に彼らがいまだに見習い期間中であるというこの事実に由来するものである。

ドイツ人の生活史における今の時代が始まったとき、つまり一九世紀の第二・四半期に、ドイツは、西側の隣人、とりわけイングランド人と比較して、はるかに遅れていた。もちろん、これは歴史の常識である。必要ならば適度に斟酌し限定して受け取ってもらってもよいかもしれないが、ある決定的な、または少なくとも本質的な点でドイツが、特に英語諸国民の占める位置から見て時代錯誤の状態にあったという主要な事実は変わらない。
当時のドイツ文化が優れていた分野でその長所を見下す必要はなく、またそれを過小評価しようと試みても無益であろう。ドイツ文化は人類の遺産におけるあまりに大きい事実であるから、言葉による暴力(批判)に真剣に悩むことはない。しかしながら、ドイツに特有な文明が卓越していた――実にドイツが勝ち誇っていた――あの天才的な領域は、ヨーロッパで当時形成されつつあった体系下の生活にとっての適合性に大きく向かっていると評価される効率性の水準にはなかった。それはそれにとって代わったものよりもっとましだったかもしれず、あるいはもっと悪かったかもしれないが、いずれにせよ稼働中の体系の明確な一部をなしていなかった。この後に証明するように、その体系の達成にドイツ国民の集積された知恵のなした貢献は取るに足らないものにすぎない。
ドイツは、産業技術およびその政治制度において遅れており、また制度体系中のこれらの基本的な働きと密接な相互関係を持つか、それともその圧倒的な影響下に入っているような市民的および家族的な生活体系の特徴の点でも遅れていた。これは、表面的な慣行の特徴および無用に装飾的な文化の要素を除けば、当時のドイツ国民と英国国民の事例との顕著な相違である。産業の点では、ドイツはいまだに手工業の段階にあり、制度的な障害物と些事の細心の標準化という意味合いで述べられるすべてのものを伴っていた。イングランド社会をその当時に立っていた地点にもたらしていた進度歩によって計測すると、 ドイツの産業制度は、二世紀半か三世紀ほど遅れており、エリザベス女王時代のどこかにあった。その政治制度はいっそう古めかしかった。そして社会関係を細部にまで支配する慣習は、この経済的および政治的状況が必然的に育てあげるような性格のものであった。
このように描かれる性格づけは、均衡のとれた包括的な機能システムとしての産業組織に当てはまる。それは西ヨーロッパのより近代的な産業社会とのドイツの不可避的な接触のために様々な異質の細々したことがこの古めかしい制度に導入されていたという事実を見落とすものではない。しかし、外来の要素が古めかしい体系の枠組みを本格的に乱し始めたのは一九世紀後半になってからだった。
政治的にもまったく同じことがあてはまる。ただし、この領域の国境を越えて入り込んだ近代思想はより少なかったし、またそうした近代思想は政体組織に等しく確実な惑乱のための拠点を持っていなかった点を除いておこう。ドイツは、いまだに一貫して「領邦国家」――ゲルマン諸民族の中においてのみ最上の成熟に到達し、そして祖国内で目覚ましい粘り強さをもってその地位を保持していた特別に小さく特別に無責任な専制国家――のパターン上に組織されていた。
領邦国家、あるいは呼び方を変えると、洗練されていないその模造品は、北欧諸国でも知られていなかったわけではないが、他の北欧諸国民の中では少し前に古めかしくなって消えてしまった。そのため北欧諸国、つまり地理的な必要性から小さくなるように設計されたように見える諸国さえ、ドイツで統合(supersession)の問題が(効力のない)思弁的関心を引き付け始めた頃までには、この古い流儀の国家政策と政治的統御を捨て去っていたように見える。領域国家とは実際には領域的な統合体であり、その住民は用益権として特定の君主に属する財産と考えられている。この観念は明らかに封建制に由来するものであり、それを実現可能な形の政治組織にする心的習慣は主人個人に対する人格的な従属という封建的な習慣である。そのような政治的従属にあっては、人格的忠誠が主要な美徳、その継続に先行する主要な条件である。一方、不従順は致命的な悪徳であり、そのような強制的システムとは相容れない。
そのような国家における政治的な利害関係の観点から見れば、自己犠牲の精神は弁護論的な婉曲表現では「義務」と言われ、他方、不従順は「法廷侮辱」と呼ばれる。前者は持続的で一貫した抑圧によってもたらされた心の習慣であり、また領域国家のような隷従的な政治組織の基礎となる。後者は、もし自由なふるまいが許されるならば、いま祖国となっている地で野蛮人の侵入が強制的な支配を確立する前の先史時代にゲルマン社会の憲法をなしていたように見える無政府主義的な自律性を結果するだろう。後者はこれらの諸民族の自然的な性向に一致するように思われる。しかし、前者は一五世紀に由来する強制という専横的な訓練に服従する精神にしっかりと根をおろしている。これらの人々の中にある「義務」の精神は、明らかに、生得的な性向という意味の「天性」ではないが、それは長期にわたる一貫した経験によって誘発された根深い伝統的な態度として、祖国の諸民族の「第二の天性」となっている。
近代的な文明人に通用している用語でこれらのことについて語るときには、「義務」というこの隷従的または屈従的な態度を非難するように見えることを避けるのはほぼ不可能である。この困難は特に英語を使用する人を悩ますだろう。――利用できる語句の帯びている軽蔑的な調子の縁取りは、たとえばドイツでは、それほどやっかいではないが、そこでさえ、日常的な語彙は多大の能弁をもって近代的な愛国心のこうした諸要素を賞賛するのではなく、盲従と無責任な支配を非難するのに与するのである――。そのことは、疑いなく、近代西欧における制度的発展の潮流によるものであり、この潮流は全体としてどうやら一貫して王朝的専制政治の威力をしだいに緩める方向に向けられてきた。この変化はおそらくそれほど無政府主義的な(すなわち非隷従的な)精神の成長を創造したり、開始したというよりは、それを許容しながらかくまったのであり、かくしてこれらの諸民族の生来の無政府主義的な傾向が、あらゆる遺伝的性向の特徴となる取り消せない回復力によって、大きく再生することを可能にしたのである(2-17)。

近代ヨーロッパの自由な、または広まった制度の歴史的成長のどんな調査も、そのかなり大雑把な調査でさえ、こうした成長が実現したのは、当局が自由裁量権と権力とを賦与されており、機会があればいつでも成長を打破しようと考えなかったからというわけではなく、それを条件づける環境が当局に十分にそれを打破することができるようにしなかったからであると、あらゆる関係者を満足させるはずである。また近代諸民族の間における思想の緊密で容易な伝達によって、無政府主義的な傾向は、教育と隣人的な交流の手段により、より維持されてきた領邦国家の臣民たちにさえ感染するに至った。その結果、そこでさえ、専横の陰で、現在の語彙は自由制度と主人を持たない人にとって弱みを示している。
それゆえ、こうした言語の状態のために、祖国の国民の中に生き残っている自己犠牲という習慣についてのいかなる議論もほとんど不可避的に非難の色を帯びざるを得ないが、ここではかくもドイツ文化とドイツの達成の基礎にあるこの隷従の精神を称賛したり、責めるつもりはない。それはこの国の近代の創出をもたらしたにより大きい要因の一つであり、またこの時代とその「システム」は、この封建制の生命がその結果にいかなる強さや弱さを提供したかにかかわらず重要である。

さて、忠誠と従属というこの生き残っている封建的な魂は、――おそらく社会の経済効率の奉仕するべき政治的目的を別として、経済システムにとっても力の源泉であったように――明らかにこれまでドイツ国家にとって力の源泉となっていた。このことは、他のあらゆる関連における人々のそうした気質の究極的長所についての疑問、あるいは国家目的にとっての秘められた価値についての疑問とはまったく切り離して認識され考察するべきである。本研究にかかわるあらゆることについて、大抵の英語諸国民の心には疑いなくそう見えるかもしれないが、次のように見えるかもしれず、また見えないかもしれない。つまり、プロイセンの行政能力システムが依拠しているこの従属的活発さの精神は自由人としての人間的尊厳に値しないこと、それは臣民の精神であって市民の精神ではないこと、王朝に役立つ点を除くと、それは欠点であり怠慢であること、また結局文明生活の要求はそのような中世主義の時代錯誤的な残存物に耐えることができず、その習慣はいいずれ消え去るであろうこと、である。今日眼に見える限りでは、それが王朝国家に役立つということさえ一時的な価値しか持たないこともありうるかもしれない。しかし、それらがこれまで明らかにドイツ国家にとっての、またおそらく経済的主体としてのドイツ国民全体にとっての強さの源泉であったという事実を崩すことはない。

一九世紀第2四半期にドイツでは事態の再調整と再生という複雑な動きが始まった。少なくとも表面的には、この動きは主に経済的な性質のものであり、それを実際の活動へと直接に刺激したのは、通商と君侯財政の必要性だった。これらの実践的な手段とならんで、多くの学究的な種類の優れた思索ならびに国家的理念についての多くの啓発的な広まった説明と論議が進み、この知的、精神的な騒ぎは実際にとられた諸方策と、また国民的政策の一般的な趨勢と多少なりとも関係していたであろう。この精神的な騒ぎがこの時期に進行していた実際の変化の原因または帰結であるとして評価されるかどうかを述べることは簡単ではないが、これら両者の根拠にもとづいて位置づけることは妥当に思われる。
その当時の歴史家、特に愛国的な歴史家の間で流行したのは、一九世紀の中葉を通じてドイツ史を形成するこうした物質的または非物質的な諸力の複雑な動きを、この人種の溢れんばかりの国民的才能によって始められたドイツ精神の運動であると解釈することだった。それは伝統というものであるが、その伝統はロマン主義時代に由来している。だが、そこからはより実際的な性格を持った伝統が出て来ることができるとは思えない。
そのような歴史上の運動についての現実的な見解は、必然的にその当時の思考習慣を形成するに一役買ったかもしれない要因に注目するものであり、ここでは――現在流行しているような、運命の顕示、国民的才能、神の摂理の導き、等々のような、どんな神秘的な作用も考えなければ――分析が確実に頼れるのは二種類の派生物しかない。もちろん、それらの神秘的な作用を過小評価するように求めるつもりはないが、あれやこれやのそうしたものが隠れた原因だと認めるとしても、隠れていることがそれらの性質だということを、そしてそれゆえに、これらの隠れていると考えられる主要な動因の働きによって発現する有形の作用は、隠れている原因に頼らずとも十分に作用するに違いないことを、思い出すべきである。隠れた原因は呪術的な効能によってしか効力を発揮できない。それらの出来事の流れに対する関係は、因果関係の効力ではなく、神秘的または呪術的な効能という性質のものである。そして、これらの科学研究の問題における近代の唯物主義的偏見の下では、出来事の説明が求められる因果関係の連鎖は、有形の事実しか頼らず、「データ」の性質を持つ事象の上に動機づけと結果にかかわるあらゆる要素において完全でなければならない。効能あらたかな導きを求めるロマン主義と比べると、能率的な因果関係をより好む近代的な先入観にとっては、実際の事実以外のものによって論理的目的を打ち立てるいかなる試みもまったく無効である。それは天才的な豊饒な仕事であるかもしれず、また演劇術や説教上の言説としてなら価値があるかもしれないが、科学的研究の家では、そのような命題、そのような用語を用いた一般論は金管楽器の響きやシンバルの音でしかない。
上述した再調整と復興という複合的な動きの中で、人々の思考習慣を形成するように明確に働く二種類の流れがある。それは受け入れられている習慣の体系および産業技術の新しい状態である。そして、再調整に向かうのが後者であるのを見ることは難しいことではない。また受け入れられている習慣の体系の監視下で必ず再調整がなされるのを見ることもそれほど難しいことではない。後者は産業技術の新しい様相によって強制されるこの新領域の習慣化の中で修正される。しかし、習慣に生じる変化は、他所と同じくここでも生じ、もはや時代遅れとなった慣習を明白に容認しようとしない事態の影響を受けて、ゆっくりした譲歩の形で行われる
ここで問題としている複合的な動きは、新しい技術的状態の要求に合わせるために生活様式を再調整する動きであり、またそれを新しい技術的な条件下で働きうるようにするために君主の受容されている政策体系を再生する動きである。それゆえ、その結果生じる変化は、新しい技術的進歩に主導されて、またそれを自身の目的に合わせて利用する当局側の便宜的譲歩と抜け目ない努力によって生まれる。その際の意識的・指導的管理は、政府組織の手中にあり、また新しい産業技術の状態の強制する拡大した規模における事業を行うことができ、かつ新しい産業体制がかくして自分の自由に使えるようにした諸力を十分に行使できるようにする領邦国家の復興を目指している。
技術的改善が君主の軍事力増強に直接に貢献する限り、何百年間も、これらの改善を利用するために多くのことがなされ、また地方的統御と財政的管理の拡張のついでに通信手段および交通の改善の形で多くのことがなされてきた。しかし、近代的な産業体系は、それ自体としては、また外部の本質的に異質の要因としての側面を除くと、ドイツ人に深くかかわっておらず、特に一九世紀にドイツ復興の中心的位置を獲得したあのプロイセン領についてはそうである。しかし、 ドイツの産業状態は所詮近代的というよりもむしろ中世的であり、それゆえ、その産業技術の状態はいまだに全体的にみると古い体制を維持するのに好都合であり続けた。この古い体制が王朝支配者および特権階級の利益と伝統的理念にしっかりと育まれていたのであるからには、殊にそうであった。
近代化に先立つドイツ文化の成長には技術的な側面からの副次的な影響があり、これは近代の展開の中で生じたことを理解するどんな試みでも特筆するべきことである。印刷術とそれに続く印刷物の利用は、その技術進歩が初めてなされたときから常にずっとドイツ人の間では馴染みのことであった。その初発から一九世紀に入るまで、印刷工の技術は手工業的な過程であり、ドイツではよく発展していた。しかし、印刷物を利用する習慣の制度的な帰結、その習慣の影響は、だからといって手工業的な秩序のものであるとはかぎらない。印刷物の自由な利用は、思想の自由交通を意味し、したがって消費者の直接的な個人的交際範囲を越えて流行している思想との接触に消費者をさらすことになる。
印刷物の習慣的な消費は、機械産業の引き起こす生活様式の広範な標準化への習慣化とまったく同じ規模の訓練上の影響をもたらすが、印刷物の利用がかく引き起す影響は、それに慣れ親しんでいる階級の人々を超えて拡大することはあまりないことは言うまでもない。すなわち、読み書きできない人々、そしてとにかく印刷物をほとんど利用しない諸階級はそれほど、あるいは広範に攪乱されることはないだろう――印刷文献の氾濫と呼べるものは、多大な帰結をもたらすものではない――たしかに印刷物が読み書きできない人々の間に思想を拡散させることは、常に相応のものになることは否定できないのではあるが――。一方、事物を標準化する機械産業の体制下では、生活の教え込みの価値のほうが読み書きできない人におそらくもっと直接的かつ親密に影響し、また読書を習慣とする階級にかかわるのとほとんど同じほど包括的に影響する。
これに直接関連して、印刷物という媒体によるだけでは、あるいは他の、全般的な影響をもたらす本質的により厳格で断固たる習慣化の要素なくしては、事の性質上、既成秩序の深く、大規模な革命的騒乱がやり遂げられないということは、一般的に妥当する命題であるとしても、銘記するべきである。例えば、ドイツの事例では、一部の読書人口は、ヨーロッパ全体の知的運動と長らく接触し、また実際、折々、その当時の思想形成に大きくかかわってきたとはいえ、この部分はきわめて小さい階級をなすにすぎず、住民大衆とはきわめてわずかしか接触しておらず、またそのような「学術的」な保有権の上に――すなわち、自分自身の機械的事実の経験によって補強することなくきわめて一律に――知的な確信を保持していたので、最上の意図を持ってはいても、一般大衆に新しい秩序に関する自分自身の思想を浸透させたり、古い秩序の保有権ならびに利用権を持つ公職者を攪乱することがかなわなかったのである。
同時に印刷物は、他の点では生活様式の日常的な要求と一致する思考習慣の普及、同化および標準化のためのかなり効率的な媒体である。そこでまた、本を読む習慣は、一九世紀にドイツ社会に浸透したあの機械技術にとってほとんど欠かせない援軍であり、その当時(一九世紀中葉)には後のどの時代よりもそうならなかったことは無論であるが、その結果の成否に大きくかかわるほどにはそうである。さて、読み書き能力は、より高い「学習」能力の点でも、また印刷物をすらすら読むというより素朴な形の能力の点でも、新時代が到来した時のドイツ人にとっては比較的ありふれたことだった。そして民衆を教育する手段を改善し、拡張する運動がすでに充分に実現できる状態にあったので、この点の欠陥は治療を要することがわかるとすぐに克服されたのである。学識ある人々を過剰にかかえる頭でっかちだということは、ドイツ社会に対する決まり文句の悪口の一つだった。この点について探しは一九世紀後半から終わり、学識ある階級が有用であることがわかり、また科学に堪能な人々に対する需要が十分に追いついてきた。その間、この学問の性格、あるいはその方向ともいうべきものはいくらか変化したが、 その変化は全体としては何らかの技術的または商業的な価値を持つ知識諸領域に向かう顕著な移行の中で生じたものである(20)。
ドイツにおける近代産業の進歩と近代化された王朝国家との論理的な関係について述べれば、この国家の創設者たち、フリードリヒ大王からヴィルヘルム二世までのホーエンツォレルン王朝の政策が領域を拡大し、国家の能力を改善するために利用できるありとあらゆる技術的な改善を利用してきたと考えられるだろう。あるいは他方では、戦争技術上のより大規模で、より高価な装備と戦略はいうまでもなく、産業と商業の規模の拡大を強化するための技術進歩も王朝国家を新しく拡大された方式にもとづく再組織化に駆り立て、行政機構のいっそうの細分化と収入源のより細かく厳しい統制をもたらしたと考えることができるよう(21)。
どちらの見解も等しく正しいように見える。この事例を取り扱うドイツの研究者たちは、普通、前者を採用し、後者の見解がどれほど有効かは無視しがちである。ドイツの分裂主義の最高潮にあった小さな領邦国家が、その政治術がはっきり成立していなかったため、一九世紀のヨーロッパに広まっていたような条件下では生き延びる可能性を持っていなかったことは明白であろう。この分裂主義の圏内にある王朝政治家たちは、洞察力かそれとも特別な必要性と不確実な手段のいずれかによって新時代のより大きく、機械的により効率のよい装置を利用するように導かれ、自分たちの保守的隣人に対して差別的利点を享受することになること、そして最終的に政治的手腕の領域で隣人たちに取って代わり、やがてそれを継承することになるのも等しく明らかである――王朝国家は必然的に競争的または強欲な性格のものであり、手中にできるどんな手段をも自由に使うことができるのである――。それは何らかの方針にもとづく統治をおこなっている人々の競争的策略を通じて実現される淘汰的生存の一事例である。
産業技術の状態が市民的および政治的な戦略の物理的な範囲を拡張して大規模な国民的組織を明確に実施できるようにするに至ったとき、自給自足的な諸小公国という古い秩序は存続不可能となった。この変化はドイツの領土には西欧の中では最後に到達し、またかくも遅い時期まで国民生活の再編成に成功することがなかったので、この遅滞は、歴史家があらゆる説明を提供したにもかかわらず、驚くべき出来事だった。しかし、この遅滞に続いてひとたび再編成がなされると、その規模もまた、歴史家が神の摂理の側における縁故主義的偏愛という魔術的効力や、この事例(ドイツ人)にのみあてはまるという人種的な特徴を持ちださずには、説明することができないほどのものであり、彼らを途方に暮れたままにしておくほどのものだった。
政策の決定権と行政機構の統御権を手にした王朝政治家側の賢明な管理によって、ドイツ社会の物質的な効率の急速な上昇――これは近代的な産業技術状態の導入によるものであった――は、西欧の他のところでは達成されない程に成功裏に国家的利用に充てられてきた。そのため、実質的にドイツ社会のホーエンツォレルン国家に対して、百年前のドイツの諸領邦における財政事情の財政主義的行政のやり方にまったく従って、王朝的目的のために管理される王朝国家、準荘園的な王室御料地や領域に対するのとほぼ同じ関係に立っている。王朝的目的と王朝的行政に対するドイツ社会のこうした従属は、大局的には好戦的な侵略政策によって、また細部では官僚制的監視と臣民の私生活への絶えざる干渉の制度によって保全されてきた。
そのような王朝的な利用権と統制権の体系には、人々の感情という忠実な支柱の他には確固たる基盤がないことは言うまでもない。またそのような人々の感情の状態が絶えざる習慣化、この目的に賢明に、かつたゆみなく奉げられる訓練によってしか維持されないことも言うまでもない。とりわけ、これを目的とする習慣化の行程は、もしそれが近代的生活――ここでは機械産業が広範な非生命的要因と機械的過程を前にして人格的な力と大権の不要性とを絶えず強めており、また各人が自分の主人であることをいたるところにある価格制度の作用が絶えず教えているのである――の(王朝の精神的支柱を)堀り崩す訓練にさらされている臣民の人格的な忠誠を維持せんとするならば、首尾一貫し、かつ不動のものでなければならない。プロイセン支配下では、このすべてが配慮され、比類なき徹底性と効果をもたらしてきたことは周知のところである(21)。ドイツ国民の国家への従順な忠誠を緊密に保ってきた要因のうち主要なものは、もちろん成功をおさめた戦争であり、それは戦争準備と好戦的な傲慢さと野心を教化するという訓練による効果によって補強されてきた。これらの事柄に慎重に払われてきた注意も周知の事実である。そのようなわけで、実際、それはこの制度のスポークスマンがそれを当然のことと考えるようになり、またかくしてそれをつい見逃してしまうほどである。戦争の体験は好戦的な心理状態を生み出す。また戦争の遂行は、自分の指揮官と恣意的な命令に従う訓練の実行であり、熱狂的な従属および権威に対する盲従の精神を生む。
戦時に軍事組織となるものは平時には奉仕的組織である。そのシステムは同じであり、それがうまく働くのに求められる人々の精神もどちらの場合でも同じである。いずれにせよ、戦時であれ平時であれ、恣意的な権威と無条件の忠誠の習慣が徹底的に染みこみ、従属が臣民の情熱的な念願となったときに、また臣民の自由の理想が命令に従うことを許容するほどの自動化にまで忠誠の習慣が到達するところでのみ、それは最高の効率性に達する。それは神のすべての命令を遂行することが至高の義務となるといった類の信仰者の自由を神学者が解釈する流儀にいくらか似ている。ここに示した意味の「義務」が「自由」とともにドイツ精神の熱望する目標をなしていると説明する通俗的な追従者の言によるならば、そのような愛国的感情の理想的な成長は、ドイツの場合、許容できるほど近いところまで、達せられたらしい。もちろん「義務」は、下位者の服従だけでなく、上位者の側の恣意的な指令の実行を含むが、そのような恣意的な権威はより上位の権威へのしかるべき服従によってのみ実現され、ついで王朝の長にさかのぼるに至る。しかし、この王朝の長は、神の恩寵によって彼個人に授けられた委託された権威しか実行しないらしい。
ここでは「家産制国家」より「王朝国家」という語句を好んで用いるが、その理由は、この二つの概念に本質的な相違があるからではなく、むしろ帝政時代に活動しているようなドイツ国家に対する後代のドイツ人スポークスマンが前者の用語を嫌悪しているように見えるからである。彼らは、それを代議制と議会形態を僅かに含む憲法を採択して復興したような国家に対照させて、帝政に先立つ時代の領邦国家に適用しようと望んでいる。しかしながら、「王朝」という名称はいまだに適用可能である。また実質的に憲法による復興はドイツ国家を家産君主制という範疇の外に出しはしなかった。帝国憲法から生じた相違は、大部分が形式上の相違であり、行政機構の相違である。それは皇帝の有効な権力、権利と行動の自由をあまり制限していない。その上、それはいまだにプロイセン国王の権力、あるいはプロイセンの継続のために授けられた宗主権という王朝的要求を制限していない。その憲法の下でさえ、それは議会の議決権ではなく、国王の宗主権にもとづく政府である。換言すれば、それは憲法によって緩和された絶対主義政府であり、君主制で緩和された議会による議決権の政府ではない。
分裂主義から帝国への移行には、一六八八の革命によって連合王国で始まった変化に比べられるような革命的な運動は起きなかった。もしそうした民主主義的憲法への移行がドイツ国家に襲いかかるとしても、その動きは将来のことであろう。帝国憲法とともに導入さた変化は、実際に効力があった限りでは、新しい国民的司法権が機能するために求められた規模の拡大によって必要とされたものであり、領土と資源・人口・貿易と産業の統御と利用のために必要となるような議会的組織および地域的組織に対する代議制的な司法権をごく僅かに伴ったにすぎない――これらの組織は小領邦国家に特徴的なより素朴な官僚制の効力範囲を超えていたのである。帝政時代の経済政策は、近代の経済事情の規模と複雑さが要求するような譲歩的な修正を受けているが、いまだに「官房学的」政策であり続けている。たしかに、ビスマルク政権下には、一九世紀後半の大半を通じてあらゆるヨーロッパの政治家の努力に無意識のうちに偏向を与えているあの「自由主義的な」予断の方向に向う傾向が感じられる。しかし、この傾向は、貿易、植民地および萌芽的な責任内閣制というビスマルクの政策に現れているが、彼の手では決して決定的なものにはならなかった。またそれは帝国の宗主権の完全な請求権(revendication)を目指した後代の皇帝たちの努力をはっきりと妨害するまでには至らなかった。帝国憲法下では最高の権威は議会にではなく、君主にあった。ただし、これは帝国政府よりプロシア政府についていっそう制限なしに当てはまる。しかし、これらの点で、ドイツは帝政時代にしだいにプロイセン化され、他方、プロイセンは、他の北欧と中欧の諸国を少なくとも限定的で暫定的な条件であれ保っている類の民主主義的自治に向かって行かなかった。
帝政ドイツは、国民政策または行政統御の目的と方法の点で、フリードリヒ大王下の型からはっきりと隔たっておらず、またその政治家の予断は、あの悪逆な国家形成期の王朝寄生者の間で流行していた予断とまったく違っていない。相違点は主に政治と行政の機構にかかわるものであり、主に近代の産業と商業の結果をかつて初期の実践家にとってよさそうに見えた目的を説明するために使おうとする努力に見られるような特徴を帯びている。
そうではあっても、この機会に非難しようというわけではない。少なくともここではそのような含みはまったくない。このような主張を十分に証明するようなものはまだ見えていないとはいえ、それはおそらく不運な事態なのであろう。ここでそれを特記するのは、それが西欧文化内部における諸制度の発展の一段階と考えられる帝政ドイツの事例の主要な一要因だからである。

以前に実現可能だった規模を超える規模でドイツにおける王朝国家の復興に導いたこの近代的な産業技術の状態、この技術進歩はドイツで生まれたものではなかったが、英語諸国民から、そのうちでも主に、そして結局はほとんど全面的にイングランドから、直接に、または間接的に借用したものである。上段で主張したことは、技術以外の点における英国の習慣はドイツ社会によって同時には引き継がれなかったということである。その結果は、それはイングランド人の作り上げた近代的な産業技術の状態の働きを示すものであるとはいえ、この近代的な産業技術の状態の成長に付随して英語諸国民の中で成長してきた一連の特有の制度と信念を欠如させているという点で、ドイツはイングランドと対比して変則とされるものを提供することになったことにある。ドイツは、近代技術の発展におけるイングランドの経験の成果を、近代的な産業体制が到来する前にイングランドに普及していたのとほぼ等しい他の生活様式の状態と結びつける。そのため、ドイツ人は、イングランド人の技術的な遺産を、それを達成する際の経験によってイングランド社会に誘発された思考習慣や習慣にかかわる代価を支払わずに、受け継ぐことができた。近代技術はドイツに既製品として始まったのであり、それを始め、その発展をたどることを決めた経験を持つ諸民族の中では漸次的に発展し、持続的に利用して生まれてきた文化的な帰結を伴わずに、到来したのでえる。
 この点でドイツ人の位置はまったく独自というわけではない。ある程度まで、他の西欧諸国にも同じ一般的な命題が当てはまるだろう。しかし、それは同じ幅ではどこにも当てはまらない。ドイツの事例は、この技術の習熟の急速さ、完全さおよび規模についても、この習得の時点における文化内容の古めかしさについても西欧諸国民中に先例がない。
これに関連して、工芸技術を国内の成長によって発展させるより、それを借用する利点について先の章で述べたことを想起してもらいたい。
そのような借用された技術的要素は、ある社会から別の社会への移転の中で、その発展と利用の間にそれにまとわりついて成長してきた他の付随的な文化的要素を持ち越すことはない。新しい必要品は、それらを使用する上で想定的か因習的な関連しか持たないものはすべてはぎ取られた状態で到来する。より低水準の文化の上では、ある技術的装置の使用としっかり結びついた因習的または想定的な強要物(exactions)というこの付属物は、主に呪術的または宗教的な儀式の性質を持つだろう。しかしもっと高い水準の文化では、ここで問題としている階級の場合、それらは習慣に、またある程度まで法に埋め込まれているが、例えばかなり高い生活水準の要求のような、しばしば義務的性格の宗教的儀式に近づく因習となりやすい。

注
(16)例えば、W・H・ドーソン『近代ドイツの進化』第三章を参照。またもっと全般的には、フォン・ジューベル『ドイツ帝国の建設』第一巻。またゾンバルト『十九世紀におけるドイツ国民経済』第二巻を参照せよ。
(17)すでに前段で示したように、ドイツの伝説や他の民話は、近隣社会の自治というこの古めかしい小規模な体系がいまだにドイツ民族の精神にいまだに保持している堅固な砦手の証明となる。これらの民話は、王朝的な領邦国家の強制的支配の下で服従と疑いなく忠誠心に縛り付けられていた何世代もの非識字者の平凡な夢想家を通じて伝えられてきたその日暮らしの有名な伝説の中にひっそりと生きてきた。しかし、それらが表現している理想は、いまだに、異教時代が終わるはるか前から、これらの諸民族の経験の地平、あるいは彼らの現実の物語の地平の中にさえ入って来なかった準無政府主義的な隣人的生活の理想である。こうした民話の状態は、教会、十字架、司祭および修道士が完全にとけ込んだ雰囲気で現れる宗教的信仰(キリスト教)に関連するあらゆる点で、これらの物語がほぼ完全な修正を受けてきたという事実から判断して、ますます注目に値する。これらの「信仰対象」と呼ぶことのできるものは、中世のもの、または近代的なパターンのものでさえある。これに対して、社会的および政治的な生活および機構はいまだに典型的にキリスト教以前のありかたにならって理想化されている。この古風な型の素朴な民話の保存は下層民の仕事だった。これに対応する支配階級の伝説的な民話は、これも当時の現実と比べてみると古風であるとはいえ、別の、かつより後の時代の精神のものであり、その理想的な創造物の点では当代的というよりも中世的な体系に傾いている。
 (18)一八四八年の騒動はこの点で事態がどう推移したかを示すのに役立つかもしれない。ここでは知識ある少数派の啓蒙的な思想と衝動が肉体的苦痛という耐えがたい諸条件のために立腹した非識字者と手を握り、一時的に成功したような外観が生まれ、結局は誤解による両党派が不服従により有罪と宜告されるという最終結果になる。
同様に、例えばロシアのような古めかしい国家における政治的な古代遺物の守護者たちの小心翼々たる警戒は、特に過度に現代的な思想を提供する醜悪な文献の流通に関しては、ゆきすぎ(supererogation)とみなされるべきである。あらゆる努力にもかかわらず、印刷物の形で入ってくる思想の普及が印刷物の読者を超えて及ぶことはほとんどない。そして、ここでも、これらのうち読んだものによって深刻に乱される者はほんの一部にすぎない。そして読者は幸いにも大衆のうち取るに足りない割合でしかない。このようにして産業の日常的な慣習の土台を踏まずに入ってくる外来の思考方法は、知識の木の上枝に羽毛のねぐらを作る鳥を羽ばたかせるかもしれないが、すべての騒動は支配階級にとって利用する価値のある民衆の頭上を超えて行きすぎるであろう。民衆の思考習慣は日常の習慣によって作られるのであり、システムの習慣が深刻に乱されないと仮定するならば、彼らは同じ心理状態のままにあることになり、そのためどの鵞鳥番の娘もいまだに彼らを満足して羽毟り小屋に連れてゆくことができるのである。他方、新しい産業システムへの変更は、これまでと違った傾向の日常的習慣をおしつけ、簡単にあやまちを育てかねない。しかし、ドイツの事例を実地教育として判断すると、無責任的統治制度の致命的な乱れに対してより賢く備えるならば、それは明らかに新しい産業秩序の同化を容易にし、効率と肉体的快適さの画期的な前進をもたらし、次いでよく考えられた甘言を用いて強制を抑えるほどに広く読書の習慣を生み出すことだろう。
宗教的な関心の現状(status quo)維持をねらった読み書きできない人々の育成と有害な文献の除去とはこれとはまったく別の事柄かもしれない。この場合にはばむべき混乱は、いくぶん表面的な種類のこと――その時々の迷信の色調配合の変化――であり、異教の教義は技術的な類の矛盾がなくてさえ災いを与えるかもしれないと考えられる。
(19)例えば読み書きできないことがロシア社会(または諸社会)の近代的産業体系の上に現状を再編するのに深刻な、おそらくは決定的な障害をなすという命題について合意を得ることは、あえて主張したり強調する必要もない。またドイツ人や英語諸国民の中で読み書き能力の割合と範囲が高いことが彼らの優れた産業効率の多くを説明することにも疑問を差し挟む余地はない。手工業と家内産業という旧体制の下では、読み書きできないことはもしあったとしても比較的小さな欠陥だった。
(20)古い体制下におけるドイツの学問の熱心な(supererogatory)性格が広く理論的に推定する問題をつきつけるような大規模な技術が欠けていることと結びついていることは疑いない。社会生活が階級にそって組織されていること、また思弁的な価値と信頼性、出生と先例による社会生活の標準化もまた、思弁的な理論構成と、「事実の事象」よりも本質的な、すなわち形而上的な被造物と性質の知識に対する関心とを優遇する傾向に貢献してきただろう。それらの(知識)階級は(有用または儲かる職業に就くことを認めない因習的な礼儀の標準を持ち)、彼らの偏在する貧困のために、スポーツと標準的となっていた浪費の生活にいつも――少なくとも上流階級のゆるみを取り上げるような規模で、かつ気前よく――入ることができなかった。学問は、このきわめて多数の、またきわめて貧しい紳士階級の手の届く範囲にある形の浪費であり、彼らの手元でより多くの注目を集め、また例えばイングランドまたはフランスにおけるよりも上品な性格のしるしとしてより確信的に評価されるようになった。しかし、利益をもたらすか、または利益をもたらすかもしれない、あるいは生計の必要や世俗的な産業の方法と手段に密接に関連する諸問題にかかわる学問は、とりわけ産業が世俗的な肉体労働の性質を典型的に持っており、肉体労働が紳士にとって因習的にタブーとなっている社会である限り、上品ではありえなかった。
(21)典型的にはフリードリヒ大王の追求したようなプロイセンのこの経済政策のおそらく最も簡潔で、なおかつ最も解明的な報告は、シュモラー教授の報告であろう。『重商主義体系』(『経済学の古典』に再版された翻訳、アシュリー編)。
(22)それは少なくとも同等の説得力をもって日本の事例にも当てはまり、実に日本の事例は、これに関連して、きわめて印象的にドイツの事例に類似している。『人種の発展誌』、一九一五年七月の「日本の機会」を参照。