2012年12月25日火曜日

最近十数年間の賃金と失業率

 1994年から2011年までの失業率(年平均値)と貨幣賃金率の対前年比をプロットすると、下図のようなグラフが描けます。ここから何が読み取れるでしょうか?


 一つは、この間に人々の受け取る賃金所得(貨幣賃金または名目賃金)が低下した年がきわめて多かったという事実です。このことは前にも述べました。賃金が上昇したのは5年だけで、そのうち3年は限りなくゼロに近い数字です。これに対して低下したのは11年であり、そこからゼロ%に近い2年を引いても9年です。
 もう一つ読み取れるのは、賃金上昇率と失業率との間にはっきりと負の相関が見られることです。つまり、貨幣賃金率が上がっている年には失業率が低下しており、逆に貨幣賃金率が低下している年には失業率が上昇しています。
 これはある意味では当然のことです。景気が悪化すれば賃金も下がり、失業率も上がる(逆は逆)のは常識中の常識です。
  ところが、新古典派の理論は、まったく正反対のことを言うのですから、驚きです。彼らは、それを図で説明するために、まず実質賃金率を縦軸に、雇用量を横軸に取り、次いで右下がりの労働需要曲線と右上がりの労働供給曲線を描きます。こうすると両者は一点で交わりますが、その点(雇用量N、賃金率w)を均衡点と呼びます。そこで彼らはおもむろに宣言します。これは市場均衡点であり、すべての市場参加者(企業者も労働者も)が満足する点である。しかるに(と彼らは続けます)政府が労働保護政策を実施したり、労働組合が労働市場に介入するので、実質賃金が均衡点より高くなってしまう。そして、その結果、労働供給が労働需要より多くなり、失業(時間)が生じてしまう。失業を減らすためには、実質賃金が下がるようにすること、つまり政府が労働保護をやめ、労働組合も活動をやめることが必要である、と。
 こうした言説、つまり失業を減らすためには実質賃金を引き下げることが必要だと言う言説は、大学でも「労働経済学」で教えられているのですが、それが実に奇妙な珍説愚説の類いであることは、ケインズを含め多くの経済学者によって明らかにされてきました。その幾つかのポイントを紹介します。
 ・実は、右上がりの労働供給曲線は、負の限界効用の逓増の仮定に依拠しています。つまり、労働者が一時間ずつ労働時間を増やしてゆくと、負(マイナス)の効用が増えてゆきますが、その増え方(負の限界効用)が増えてゆくということです。
 しかし、私は寡聞にして、負の限界効用を測定することに成功した人が一人でもいるという話を聞いたことはありません。また労働供給曲線はすべての人が満足している点の集合とされていますが、信じるに足りません。さらに人々は自由に労働時間を選択できるということになっています。しかし、それが絵空事であることは言うまでもありません。さらに極めつけは、失業が労働時間で測定されていることです。しかし、そんなことがありえないことは(多分)中学生でも知っていることです。
 実は、新古典派の理論が描く失業というのは、すべての人が雇用されていて何時間か働いていることを前提し、さらに各々の労働者が(例えば)あと1時間働きたいと思っているのに、労働時間に対する需要が不足しているため(企業者が望まないため)働けないといった事態を指しています。(これは彼らの説明から論理必然的にそうなります。)しかし、そのようなことは仮想の世界のおとぎ話でしかありません。  
 ・新古典派の労働市場論は、「短期」の理論です。短期というと聞こえがいいかもしれませんが、無時間ということです。時間のない世界の話です。ですから、私が下図のようなグラフを示しても、これは短期の理論ではなく、時間の経過に沿った動態だというかもしれません。
 しかし、もしそのような反論があれば、私としては次のように言いたいと思います。「あなたは、自分の理論をどのように実証するのですか」。昔、カール・ポパーというドイツの哲学者は、科学が形而上学でなく経験科学といいうるためには、反証可能性の実在が必須だといいました。実際には、新古典派の労働市場論は、このポパーの反証可能性をそもそも欠いた主張(思想、教義)に過ぎません。もし反証可能性があるというなら、現実の、時間経過とともに変化する、動態的な経済に即して、どのように実証および反証することができるのか、是非とも聞きたいところです。しかし、新古典派の理論家たちは、この理論について深く追求されたくないようであり、私はついぞ耳にしたことも、文字で読んだこともありません。

2 件のコメント:

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  2. 実質賃金が下がれば雇用が増えるというのは当然ながら右下がりの曲線において成り立つことです。つまり、労働需要曲線の話であって労働供給曲線は関係ありません。需要曲線はある値段に対して何個欲しいと思うかを表した計画表ですから、ブランド品のようなものでない限りは安い方が多く欲しいという右下がりの形状が自然です。

    さらに労働が時間単位ではなくゼロかイチか的であるという指摘は古くジョルゲンソンが言っており、理論実証の両面から分析されつくしたと言っていいほどの蓄積のある話題です。そして、労働が不可分なことはどのような分析を行う時に問題となり、そしてどのような分析の時には大した意識をせず可分とみなしても結論が変わらないのかについても蓄積があります。今さら騒ぎ立てる話ではありません。

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