2019年3月26日火曜日

ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』 序文

 2年ほど前から、アメリカの制度学派経済学の創設者、T・ヴェブレンの『帝政ドイツと産業革命』の日本語訳をすすめており、昨秋になって漸く粗訳ともいうべきものができた。
  ご存じの人も多いかも知れないが、ヴェブレンの文章はなかなか難解である。

 難解な文章といえば、私は、20年ほど前に4人の共訳でマックス・ヴェーバーの「ロシアの外見的立憲制への移行」論文の翻訳にたずさわっことがあり、それは名古屋大学出版会から『M・ウェーバー ロシア革命論Ⅱ』(1999年)として出版されているが、この翻訳にも結構てこずり、4人の共同作業であったにもかかわらず、企画から出版まで10年を要した。ヴェーバーの文章が息の長く屈折した文章だっただけでなく、実際に帝政ロシアに生じた出来事に精通していないと正確に訳出できないような部分が多々あり、結局、ヴェーバーが利用したロシア語文献のほとんどすべてに眼を通すという作業をしなければならなかった。文献には、著書以外に雑誌論文、新聞記事、統計、法令などがあり、いま思い出してもかなりの時間と費用がかかり、それだけ自分自身の研究を犠牲にしなければならなかった。ともあれ、ヴェーバーが一年ほどで書いた論文(長大だが、「論文」である)をその10倍の時間をかけたことになる。
 しかし、4人が年に一度は集まり、議論を交わしたことが、訳文の作成に大いに役立ったことは間違いない。

 ヴェブレンの文章を理解するのは、このヴェーバーの場合とは若干異なる難しさを伴っているように感じる。一応訳出してみたものの、なかなか readable な日本語にはならない。中には、例えばある箇所の imputation というたった一語の単語の例のように、それが何を意味しているか、何回も異なる辞書を引き、前後の段落を読みかえしてみても、適切な訳語が見つからないという場合もある。
 もちろん、例えば people の語のように、「人々」「人民」「国民」「民族」など様々に訳すことのできる単語もあるが、これは大きな難問ではない。
 翻訳は普通にできて当たり前、誤訳や不適訳があれば、きびしく指摘される。別に別宮さんに特別に取りあげてもらわなくても、そうである。何のためにやるのかと聞かれれば、社会科学のためにというしかない。

 とりとめもない話しになるが、かつて名古屋付近のある私大で教えていたときのこと、学生の書いた卒業論文を読んでいて、比較的流麗な文章の中に意味不明の文が混じっていることに気づき、当該学生が研究室に来たとき、問いただしたことがある。その学生も意味を説明することはできず、しかし、人(専門の研究者)の本を写してはいないと主張する。私が本当のことを言いなさいと優しく言うと、しぶしぶ某書の写しであることを認めた。
 たまたま、私はその本の原著を持っていたので、確認すると明らかに誤訳であり、原文ではきちんと意味が取れる。
 忖度するに、欧文を日本語に翻訳する作業はかなりの集中力を必要とするため、一日に一定量以上の作業をすると、注意力が散漫になり、自分自身がきちんと理解しているかどうかにかかわらず、仕事を先にすすめようとしてしまうということはよくあることである。これが少なくとも誤訳・不適訳の原因の一つであろう。



 ともあれ、粗訳終了から半年近くたっても、文章の推敲は遅々として進まない。
 しかし、幸運なことにというべきか、ある大学の紀要に最初の部分の抄訳(6章までの翻訳)があることがわかった。先人の翻訳があるということがとても役に立つということが身にしみて感じられる。もちろん、大いに学ばせていただいた。そして拙訳の多くの問題点を知ることができたように思う。
 しかし、たとえ誤訳とか不適訳とかいわなくても、翻訳する人の好みや傾向がそこに現れることがあり、それが当方のものとかなり異なる場合もある。この場合もそうである。

  以下、少々考えるところがあり、序文からはじめて少しずつ紹介してゆくことにする。もちろん、訳文はまだ未完成であるが、せめて一週間につき一章くらいは作業をすすめてゆくように、自分自身のリズムをつけるためでもあり、またいわばある種の強制力を働かせるためである。 特段誰かに読んでもらいたいわけではない。
  
  ということで、以下に、ヴェブレンが1915年に発表した『帝政ドイツと産業革命』(1915年)の試訳を少しずつ載せてゆく予定である。
 1915年といえば、第一次世界大戦が始まった翌年であり、その一方の当事者がドイツ帝国であったことは言うまでもない。
 ヴェブレンは、そのドイツとドイツ国民がいかにして近代的な産業技術と科学を樹立しえたのか、科学的・客観的に説明しようと試みた。ちなみに、ヴェブレンはまた日本についても同様の関心を持っていたが、そのことは既にこのブログでも紹介している。
 



     T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年)


序文
 
ここでは、ドイツ帝国の事例とそれが近代文明に占める位置を検討するが、このような戦時らしからぬ研究をこの時節に提供することについて、いくらか釈明をしなければならないように思われる。本論文は、現在の戦争が始まる前に企てられたものである。ただし、その後に続いた出来事の様相とが疑いなく研究のいくつかの点で議論のむかう特定の方向に影響を与えている。それゆえ、本研究は、論議されてきた国際紛争の特徴とも、また交戦国の力の比較やどちらかが成功するかという可能性にもかかわりない。その目的は、一方のドイツの事例と、他方の英語圏の諸国民との比較と相互関係というあまり論争的でないものであり、近代における文化的な発展の二つのはっきりしており、またいくぶん多様な線として考察される。研究をすすめるための土台は、いずれの場合も結果を具象化してきた経済的な、主に産業的な状態の与える環境である。
本研究は、ドイツの産業的発展と高い効率性を、顕示的な運命とか、神のネポティズム、国民的な天賦の才などといった議論に頼らずに、自然的原理によって説明することをめざしている。それはこれまでになされた近代経済史におけるこの話――記述または賞賛とは異なる――の説明の最初の試みであると考える。ただし、もしゾンバルト教授の『一九世紀のドイツ国民経済』がそのようにみなされないならば、としておく。この時期についてのゾンバルト教授の研究を別とすると、多くの学問的で巨匠的な研究が何らかの見地から事実の進展を示してきたとはいえ、この帝政時代とその産業的事情の発展の理論的な研究としては何の成果も現われなかったと考えられる。
  ここでは、もちろん、政治的にせよ経済的にせよ、この時期の歴史についての情報(知識)を与えるつもりはない。また議論のための資料として利用された歴史的な情報(知識)は普通のよく知られたありふれた類の、あるいはすべての読者が利用できる標準的な冊子からとったものである。そのため、必要と思われる特別な機会には、論述する点に関連する引用と言及を行なったとはいえ、出典と諸大家の包括的な引用のようなことはしないでおいた。ここでの議論は、慣習的に書かれてきたように、歴史の流れに沿っており、難解な資料や詳細な精密さには偏らない。
たしかに英語の読者にとって、古い秩序に関する章は一部難解な情報(知識)にもとづくように見えるかもしれない。このトピック(話題)にかかわる議論は、古アイスランド語で残されている古い文献のかなり徹底した直接的な知識に加えて、バルト地域の考古学のある程度の知識を前提している。それは出典の引用が大いに読者の助けとなるような事ではない。文書史料の詳細な目録およびテキストの一節も、この領域の博識なる専門家の手中でさえどんな有用な目的にも役立たないように思われる。というのは、この資料をここで用いる目的が当該文献の全体のかなり長く、全面的な知識を十分に持っていることによってしか役立たないようなものだからである。ゲルマン民族の、また彼らに先行する先祖のより早い時期の文化が、これらの考古学的、文献的な古代遺物の中にそのように現われており、かつ近代に特有の特徴を示すための対照条件として、またそれらの事例の先祖帰りのどんな潮流であれ必ず向かうことになるこれらの諸民族の文化的な出発点を示すものとして、利用される。
英語圏社会の事例にタイトル・ページの表題が正当化できないほどの大きい注意が払われているように見えるかもしれない。ここでもまた、現在のドイツの産業上の状況がイングランドの状況から派生したものであり、また大英帝国でなされたような産業技術の過去の発展の帰結であるという事実はもちろんのこと、比較の尺度が必要となるためにそう決めることとした。そのために英国社会の過去の産業発展とその帰結になんらかの考慮が必然的に払われることとなったのである。
19153


第一章 序説 人種と民族

民族学の事情に精通していない人々の間では、ヨーロッパのいくつもの国民を別々の人種のように語るのが通例となっている。公文書や慎重な歴史家でさえこの観念の混乱を免れてはいない。これらの用語のそれぞれにどのような区別があるのかを文脈から理解しようとするのはしばしば困難であるとはいえ、この口語的用法では「人種」が「国民」や「民族」の同意語と正確に考えられているわけではない。それらは大雑把に、また暗示的に使われており、疑いなく大抵の目的にとっては、議論に妥協や混乱をもたらさしていないようである。そのため、それらの口語的な用法に必然的につきまとうような一定幅の誤差を許すこととし、たとえ口語的な曖昧さがあろうとも、これらの用語を便利と思っている人を満足させる以上にもっと正しい定義やもっと明確な用法を考えることはせずに、それらを使われている通りに理解するのが理にかなっているように思われる。
しかし、これらの用語、そしてそれらの実質的な同義語として役立っている他の用語法には一般的に曖昧さがつきまとっており、そうした用語を用いる議論の多くにある一貫した混乱をもたらすような意味の相違がある。「人種」は、他のどんなことを示すと見なされようとも、常に、特定の集団中の遺伝的な特徴の共通性を意味する。それは遺伝的な特徴がその集団の構成員となっているすべての個人にとって本質的に同じことを意味する。「人種」は生物学上の概念であり、それが適用されるところではどこでも特定の型を所有し、またその特定の集団の全構成員に特有のこの型を特徴づける特質を伝える先祖にその集団全体が由来していることを意味する。例えば「国民」または「民族」といった他の用語は、一般的に「人種」と交換可能なものとして用いられているが、それらが当てはめられる集団のそうした生物学的な同一性(連帯)を必ずしも意味しない。とはいえ、それらの用語を使う人々の心の中では、共通の出自という観念が疑いなくゆるく存在している。
こうした用語の口語的用法では、これらのいくつかの民族または人種と主張されているものを区別することがまったく無批判的には国境線にもとづくことを許されないときに常に頼りにされる識別のしるしとなるのは言語共同体である。そこで、ある型の言語に慣れていることが人種の由来の伝統的なしるしの務めを果たすことになる。ある習慣の(事実上の)同一性が遺伝的な能力の同一性を意味するものとみなされる。そして、この問題を論じる多くの歴史家と著述家は、多様な慣習スキームを識別的に比較する以外に本質的な事についての根拠がない場合には、気質、知能および体格といった遺伝的な特徴にかかわる広い範囲の一般論を導いた。もちろん、一つの民族を他の民族から区別するこのような慣習の相違は、充分に重大な事かもしれないが、それらの範囲と影響は、結局、まったく別の性格のものであり、人種の型の相違というよりは文化的な成長の中にまったく別の位置と関連とを有するものである。
例えば言語が例証するように、いかなる社会でも、その中で有効となっている制度スキームは、習慣の性質を持ち、必然的に不安定であり、またなかなか変化しないとしても、時がたつにつれて必ず抑えようもなく変化する。一方、どんな人種の種族型も安定的であり、その型を特徴づける精神的および身体的な天賦の才という遺伝的な特徴は、人種の一生涯にわたり不変で損なわることのない生物学的遺産のはずである。習慣と遺伝という二つの観念間の細心の区別が人間行動の全研究の知識(認識)のはじまりであり、この二つの混同は歴史学、政治学および経済学の問題における最近の流行りの著作の論争的な魂(小さな非難の応酬)に多くに責任を負っている。また、もちろん、議論に伴うショービニズム(排外主義的愛国主義)の負荷が大きいほど、その組織的な大失敗の結果も大きく全面的なものとなった。
もしドイツの事例の研究が人間諸制度、その本性と原因の研究に影響を及ぼす理論的な一般化の目的に役立つならば、その事例の安定的で永続的な性格の諸要因と、変動的な諸要因を区別することが必要であり、それと同時にどんな要因がドイツ人の事例に特有なのか、また他のどんな要因がドイツ人の事例と必然的に比較されることになる隣人達に特有なのかを考慮することが必要である。これらの二つの特徴がかなり一致することも時に生じる。人種の遺伝という安定的な特徴の点で、ドイツ人は隣接する民族と、知覚できるほどに、または一貫して異なるということはない。一方、最近までドイツ人がさらされてきた環境の点だけでなく、過去の習慣化の性格の点でも、つまり、彼らの文化的スキームでも、ドイツ人の事例は少なくともある程度特異である。この国の住民がヨーロッパ全体の住民と異なっているのは、受け入れられた思考習慣――慣習――の事象にあり、また最近彼らの習慣スキームをさらに形成した諸条件にある。
これらの問題を取り扱ってきた歴史家と著述家の間で広まっているこの点に関する混乱や無知を見ると、若干の冗漫を犠牲にしても、ドイツ人の人種的な様相に影響を及ぼしているある有名な事実を復唱することが必要に思われる。ドイツ人全体を全体として考えた場合、人種の問題に関係する限りでは、これらの事実について議論は決着している。ヨーロッパ人種問題の研究者たちは、「祖国」(ドイツ)の領域内でさえ、人種的な要素の地方的な置換、移動および浸透という難問をいまだに取り上げており、また疑いなく将来も長らく取り上げるであろう。しかし、ここでの目的にとっては、これらの難解な細部の問題に頼ることはほとんど必要ない。かりにもっと詳細ならば便利かもしれないとしても、すでに確実な意見の一致が達せられてきた事例の一般的な特徴を越えてまで、現在用いるのに必要とされることは何もない
私たちが、歴史的、論争的および愛国的な著作の中で、一般的に使われているような(ドイツ人という)名称を説明句やさしさわりのない語句なしに利用できるのは、言語の境界線がほぼドイツ領の政治的国境と一致すると考えるようにシフトすることができる限りにおいてである。そこで、その名称を帝国および帝国のドイツ語を話す人々――ドイツ民族――として示すものとして受け取り、またそのときどんな相違点をも見落とせば、例えばユダヤ人またはドイツ化したポーランド人およびデンマーク人のようなドイツ住民に浸透した要素をまったく含めた後でさえ、そのように指定された総体が別の人種として語られることはない。ドイツ人とは、ヨーロッパの非ドイツ人に対立するものとしても、それ自身の内部にあるものとしても別の人種ではない。これらの両方の点で、この住民の事例は、ヨーロッパの他の諸国民の事例と本質的に異ならない。これらの事実はよく知られている。
隣国の人々と同様に、ドイツ人も完全に、また普遍的にハイブリッド(雑種)である。そしてドイツ人を構成する雑種混合は、ヨーロッパ住民全体の構成に入る同じ人種的要素から構成されている。その雑種的な特徴は、おそらく、もっと南に位置している諸国の場合におけるよりも顕著である。しかし、ドイツ人と彼らの南の隣人との間のような雑種化の度合いの差は重大なものではない。他方、ドイツ人の場合は、この点で事実上、すぐ東と西に横たわる諸国民の場合と同じである。
  より詳しい考察のためには、補足ノートの一、二八一ページ以下を参照。
 
 人種の点では、南ドイツの住民は、北フランスやベルギー隣接部の人口と本質的に同じである。また同じ点で、北ドイツの住民は、西方のオランダとデンマークの住民と、また東方の西部ロシアの住民と本質的に構成を同じくする。また「祖国」(ドイツ)全体を取ると、その住民は、人種についてブリテン島の住民と本質的に同じである。この混交した住民の広範囲にわたる帯状地域内における細部の地域的バリエーションは、疑いなく知覚できるが、結局、どの国でもほとんど同じ性格のものであり、どれ一つをとっても、東部、西部および中央部ともに同じ結果に帰着する。全体的にみると、つまり言い換えると、イングランド人、オランダ人、ドイツ人および大ロシアのスラブ人の間に大きな人種の相違はない。
 国民的な優秀さと卓越性に関して一般に行われている解説では、純血種のドイツ人種、ゲルマン人種またはアングロ・サクソン人種が存在するものとして語られるとき、やがてその文脈は、それを謳う者の観念の中にあるものが――もし確実な生物学的範疇があるとすれば――長頭金髪(ドリコ・ブロンド)人であるという見方に入り込む。ところが、いまや、人種の純粋性という不都合な主張にとって不運なことに、この特別な人種の種族はそれと結びついている二つの他の人種(短頭ブルネット人と長頭ブルネット人)の種族のどれよりも混交せずにみいださることが少ないということが生じる。実際、近似的にせよ、他の人種的な要素を含まずに純血種の金髪人からなる、大なり小なりの、広まりのある社会はないことをまったく確実に確認することができる。
 私たちはさらに確実に先に進み、血統の点で混交していない金髪系統に属する個人がヨーロッパの住民中に見いだされることは決してないと主要な問題にすることができるだろう。また純血種の金髪人がかつてヨーロッパのどこかに存在したと信じる合理的な可能性も、利用できる証拠もない。また、確実性の程度は少し小さいかもしれないが、他の主要なヨーロッパ人種の純血種の実例について、同様の主張をしてもよい。
人種的な特徴の多様性は、これらの諸国民のそれぞれの内部できわめて容易に見て取れる。ドイツの場合には、こうした多様性は北と南の間でよく言及されている。また全体をなすと考えられているこれらの諸国民相互を差異を作り出す相違は、制度上の種類のもの――遺伝によって相続できない獲得された特徴の相違、本質的には習慣化の相違――である。しかしながら、この側面については、ある民族性と別の民族性との乖離は大きいことがあるかもしれず、普通は組織的な性質のものである。そのため、人種型の乖離がないと言ってもよいもしれないのに、文化型の相違がかなり大きいこともありうる。
これらの諸国民の雑種的構成はさらにもう一つの関連で彼らの性格に影響を与え、それはおそらく同じ度合いではないとしても、文化の成長に対する重要な結果をもたらし、同時にほぼ同じようにヨーロッパのすべての諸民族の運命に影響を与えている。これらの諸民族の雑種的構成の結果、これらの個々のメンバーは、生得の能力と素質の点で、どんな純血種の人々の場合に当てはまるよりも多様性に富んでいる。そのため、これらの民族はそれぞれ、交配されなかったならば、そうなったであろうよりもずっと大きい性格の多様性を示している。身体的な側面では、機械的な方法で計測され、比較されうるような特徴の点で、それぞれの民族の内部におけるこの相違の大きい範囲と複雑さは――身長、色、体重と解剖学上の大きさで――十分に明白となっている。しかし、それはまた人類計測学的な統計にあまりなじまない(精神的および知的な)特徴を疑いなく構成しており、また同時にそれらの特徴を有する民族の運命にとってより大きい結果をもたらすのである。どんな文明体系の基礎ともなり、またその生活史および一連の変更を生じさせる土台となる素材を提供するのはこれらの心理的な特徴――精神的および知的な傾向、能力、素質、感受性――である。人々がその能力の範囲を越えたり、範囲外にある文化体系を創出することができないのは、もちろん、いわずもがなの事である。また同様に、多くの多様な能力を賦与されている住民を持つ国民が、そのために、その一生涯に起こる緊急の必要に対応するのに適しており、どんな求めにもより迅速に応答することができることも当然のことである。より大きく、より完全な、より多様な、そしてより十分に均衡のとれた文化体系は、まずまずの環境下では、単一の特定型にきわめて忠実に育つ諸個人から構成される社会よりも、このような(多様な)人々の中に見いだされるだろう。

  雑種の遺伝を支配すると考えられているメンデルの法則の下では、二つ(あるいは三つ)の異なった型の種を交配した子孫は、その双方(または三方)の祖先に含まれる二倍(または三倍)の範囲の決定要素、すなわち「要因」の間で可能となる実現可能な組合せとほぼ同数の変異によって変化しうることになることは明白である。すなわち、ある型の純血種は、子の個体(zygote)の成長の間に、その型の構成に含まれるいくつかの決定子に対するストレスの変化に応じて、その型の狭い範囲内で変化するのに対して、他方では、交配した個体が変化するのは、そのような成長中のストレスの相違の結果(先天的に獲得された性質の変異と呼ばれるもの)によるだけではなく、遺伝した性質の変異と呼ばれるものであり、その双方(または三方)の先祖の二倍(または三倍)の側に由来し、――型の構成に含まれる決定子の一つの――数のほぼ二乗(または三乗)に達する様々な性質の多数の組み合わせによって変化すると想定されている――ただし、実現可能ではないような組み合わせ(これは二つまたは三つの親の型が多様なほど多数となる)組み合わせを除外し、また子世代がきわめて広範囲の変異を見通すほど十分に多数であると常に考えての話である。そのような場合の極限の変異は、どのような方向であれ、どちらの親型の極限的な範囲をも越えるかもしれない。それは一つの側に由来するある決定子がその群(tissues)の集団に影響を与える別の側の決定子によって強められるか抑制される(おそらく後者の方が多いだろう)ことがありうるという事実による。

このような雑種の住民はまた、もちろん、その特有の欠点を持つことになる。気質と性質の多様化は、その能力と素質の多様化と同じく広範に及ぶことになる。そして一つの側面における達成の多様な波及効果をもたらす不安定さは、他面でいらだちと異論、理想と念願を多大に産み出しやすい。よかれあしかれ、それが西洋の諸民族の先天的な構成であり、また思い出すに、それが西洋文明の歴史であった。
また一方で、この点で、これら西欧諸国民は、生来の賦与の範囲と雑多な特徴の点で、今日もかつての新石器時代のままであるということも念頭においてよいだろう。多様性の範囲は、諸国民それぞれにおいても全体でも、どんな純血種の種族内にあった場合よりもきわめて広い。しかし、今日これらの国々に居住する雑種世代間では、それは、かつてその初期の時代にこの西欧文化を担った同じく雑種の諸世代ほどには広くなっておらず、またどのような知覚できる程度にも異なっていない。この広範囲の遺産は、結局のところ、新石器時代の遺産である。そして、後の時代の西洋諸民族の文化体系がどんなに多様であり、生き生きと多様なように思われるとしても、その流れは、結局のところ、その新石器時代の源より高くなることはない。この文明を構築し、先に進めた住民は、結局のところ、その性質の欠点を授けられており、新石器時代の性質を持っているのである。

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