2017年2月10日金曜日
日本・ドイツ・イタリア・スペイン・韓国などの激しい人口減少: なぜか?
本ブログでも、ずっと前に合計特殊出生率(fertility)、つまり平均して一人の女性が一生の間に出生する子供の数が2またはそれに近い水準を維持している地域・国(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、スカンジナビア諸国、ロシアなど)と、それよりもかなり低く、例えば1.3またはそれに近い地域・国(ドイツ、イタリア、スペイン、東欧諸国、日本、韓国など)に分化していることを、紹介した。
もちろん、次のことは多くの人が知っていることであるが、歴史的に見ると、近現代にほとんどの地域・国で人口転換が生じたか、または生じつつあり、それによって多産多死から多産少死を経て少産少死にいたる転換が生じ、この過程でいったん人口が急激に増加する時期を経て安定する時期に至る。
しかし、この人口転換を経た地域や国で、合計特殊出生率が2を維持していれば、長期にわたって人口は維持されるが、もし1.3~1.5の水準が今後とも長期にわたって続けば、人口が、そして労働年齢人口が急速に減少していくことは確実である。たしかこのままでは2000年後の日本の人口が50人になるいう推計もあるらしい。
では、どうしてこうした合計特殊出生率の低下(少子化)が生じたのであろうか?
日本の合計特殊出生率は、第一次ベビーブーム(1947年~49年)までは4を超えていたが(多産少死)、その後、急速に低下し、1960年代前半には2を割り込み、その後、第二次ベビーブーム(1971年~1974年)に2.16に上昇したものの、それ以降は一貫した低下過程に入っている。2005年からは人口減少が始まっている。
問題は、このような国際的に見ても顕著な合計特殊出生率の低下がなぜ生じ、継続しているのか、という点にある。
なるほど論者によっては、合計特殊出生率が低下しても何ら問題ではないという人もおり、その議論にも一理ないではない。また子をもうける/もうけないは人の生き方にかかっており、「選択の自由」と密接にかかわっている。しかし、高齢者人口に比して労働年齢人口があまりに急激に縮小すれば正常な経済社会の維持・運営に支障をきたすことも否定できないだろう。
そもそも合計特殊出生率の低下はどのような原因によるものなのであろうか?
出生は、結婚する人の数と結婚した人の子どもの数の2要因によって決まるが、一連の調査の示すところでは、このうち1970年代に始まる「晩婚化」、さらには「非婚化」が生じてきているようである。若い時代に結婚の機会を逃すと、結婚の機会をつかむことが難しいことも分かっている。社会学的調査を待たなくても、私の周囲の人々を観察していれば、そのことはよく理解できる。また多くの人もそれを実感しているだろう。
では、こうした晩婚化や非婚化を促すものはなんであろうか? それには、経済発展を遂げた地域・国に一般的に見られる要因、一言をもってすれば、経済発展が女性の自立を促進するという事柄をあげることができる。もちろん、それは否定するべきことではない。
だが、問題は、そのような一般的な要因ではなく、結婚することを妨げたり、子どもを持ちたくても持てないという社会的要因(障害)があるのではないかと疑われることにある。
石水嘉夫氏(下記文献)は、それを次のように整理しており、きわめて説得的なので、ここでもそれにしたがって、紹介しておこう。
1.1990年代にバブルが崩壊し、長い平成不況にはいったときは、1970年代生まれの第二次ベビーブーマー世代が学校を卒業し、就職する時期に重なっていたが、厳しい若年失業問題が生じ、パート、アルバイト、派遣労働などの不安定就業が若年層に広まった。
(これは、私が勤務していた大学でも、卒業をひかえた四年生が厳しい就活を行っていたことからも理解できる。)
2.長時間労働による仕事と生活のバランスの崩れ。
(これには、結婚後のとも働き夫婦の勤務地が離れているという問題も含まれよう。)
3.育児・教育に対する不安、社会的インフラの欠如・不足
(夫婦の親に依存するケースが多いが、誰もがいつも依存できるわけではない。)
また1995年に日経連が「新時代の「日本的経営」」なるものを発表し、日本型雇用システムの見直しを掲げたことも大きな影響を与えたと思われる。それは正規以外の雇用形態を積極的に活用し、企業にとって効率のよい雇用形態を採用することを提言した。しかし、これが若者の職業的自立を困難にした。
また1997年以降、実際に、非正規雇用の活用と、正規雇用の賃金抑制(安易な業績・成果主義賃金の導入によって)日本における貨幣賃金が引き下げられてきた。しかし、ケインズが示した通り、「合成の誤謬」が作用した。つまり、個別企業にとってどんなに効率がよくても、社会全体では、国民大衆の総所得が減少し、消費需要は抑制される。その結果、多くの企業は景気の悪化に苦しむことになった。
そして、例によって景気が悪化すると「重商主義」の思想が頭をもたげる。国内需要が望めなければ、外需=輸出拡大をというわけである。そこで、円安待望論が国民的な議論となる。だが、もし為替相場が一定ならば、輸出拡大のためには生産費、つまり人件費=賃金を引き下げる必要がある。
より一般的に表現すると、グローバル化の環境の中で、企業の生産条件を改善するために「構造改革」が必要であり、労働市場のさらなる柔軟化が必要であるという主張が叫ばれた。しかし、それはいっそうの長時間労働、低賃金をもたらし、若者の労働条件を悪化させ、人口減少を促すさらなる原因となった。
まったくその通りだと、私は考える。また思うに、人や社会は、困難に陥ったとき、必ずしもそこから抜け出すためのよい思想を実施に移すとは限らない。むしろ反対に困難を増幅する方向にむかって進むこともしばしばである。
新古典派経済学の本質的な思想、つまり<生産側(企業)の条件を改善さえすれば、経済はうまくゆく。なぜならば供給はそれみずからの需要を生み出すからである>という思想は、もちろん最新のものではない。それは19世紀に生まれた、きわめて古めかしい骨董品である。
だからケインズが次ぎように述べたとき、かれは正しかったといわなければならない。「早晩、良くも悪しくも、危険になるのは、既得権益ではなく、思想である」、と。われわれはこの思想の呪縛からいつ逃れられるのであろうか?
文献)石水嘉夫『ポスト構造改革の経済思想』、新評論、2009年4月10日。
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