2013年11月17日日曜日

日本の原風景 私の実感的「葦原中国」論

 『現代思想』の12月臨時増刊号に三浦祐之氏の論考「出雲と出雲神話」が載せられていて、そのテーマの一つは「葦原中国」(あしはらのなかつくに)となっている。
 その道の専門家の間ではよく知られているようだが、記紀の世界で大国主命が天孫族に国を譲ったとき(といっても、実際は武力で奪われたのであるが)、その譲られた国の名前が「葦原中国」とされている。
 三浦氏の論考は、その国名は奪われた大国主命の命名によるものではなく、奪った側(高天原の天孫族)によって名づけられたものだと主張する。おそらくその通りであろう。氏が述べるように、古い時代の日本は国号を持っておらず、自分たちの国を単に国と呼ぶか、自分たちという意味で「わ」(我)と言っていたと考えられる。ところが、中国(漢)と外交関係を持ったとき、中国側から「倭」(わ)・「倭国」という字を当てられ、そう書かれてしまった。その後、「倭」ではまずいと考えたヤマト王権が日本という国号を用いた、といったところである。
 それと同様に、記紀の中でも、大国主命の側が自分たちの国の特別な名前で呼ぶことはなく、征服する側が「葦原中国」と呼んだと考えられる。
 ところで、その「葦原中国」であるが、「中国」は、どうも高天原(上)と根の国(下)との中間にある国というほどの意味であり、決して世界の中心にある国(中華)という意味ではないらしい。
 葦原の方はどうか? もちろん葦(アシ)の生え茂る原というほどの意味であることは間違いないだろう。
 私には、この「葦原」ほどぴったりする言葉はないように思われる。多くの古代史研究者は、おそらく都会育ちであり、あまり「葦原」を実感できないのではないかと考えるので、田舎育ちで葦という植物を肌で知っている立場から、若干、説明してみたい。
 生物学的には、葦は「イネ科ヨシ属」の植物に分類されている。元々の名称は「アシ」だったが、「悪し」に通じるので「ヨシ」(良し)と呼ばれるようになったという。イネ科ということからも分かるように、湿地帯を好んで生息している。
 ただし、葦(またはヨシ)は、湿地帯を好むといっても、あまり水深の深いところには群生しない。同じ湿地帯でも水深の深いところには、マコモという同じイネ科の植物(マコモ属)が群生することが多い。また、それよりももっと水辺の、一番の水際に生えるのが「ガマ」(蒲)と呼ばれる植物である。因幡の白ウサギの説話では、ワニに丸裸にされたウサギが大国主命に教えられて蒲の穂にくるまって傷を癒すが、蒲の花粉(蒲黄)は漢方薬の一つである。新潟県には古代から蒲原郡と呼ばれる郡があったが、新潟平野は「潟」と呼ばれる湿地帯・沼地に覆われていたので、文字通り蒲原だったのであろう。出雲平野も昔は相当な湿地帯・潟の土地だったはずである。
 ちなみに、ヨシやマコモに似ている植物に茅やススキがあるが、それらは湿地ではなく、もっと乾燥している土地に生える。湿地帯の中の小高い所(島、シマ)にススキが群生する所以である。
 
 さて、縄文時代が終わり、弥生時代が始まって、われわれの祖先が山間地から平地に移って来たとき、その平地のほとんどは河川沿いの湿地帯であり、そこで葦(ヨシ)に覆われていたに違いない。
 葦(ヨシ)は、背丈が2メートルを超す植物であり、その繁殖力は尋常ではない。人々が水田開墾を始めたとき、湿地の排水に苦慮したことは言うまでもないが、葦を取り除くことに多大の労力を要したことも容易に推測される。いや、ひとたび開墾して美田にしたあとも油断すると、葦は勢いを取り戻すことがあった。
 私の母は、田圃の周辺に葦が繁殖することを嘆き、よく「ヨシ」どころではなく「悪し」だといっていた。
 実は、私も嘆いている。というのは、両親が高齢となり耕作を放棄した土地を相続したが、排水のことを考えずにそのまま放置していた。もちろん、その結果、かっての美田はあっという間に「葦原」に戻ってしまった。何年か前に夏にその葦を刈り取ろうとしたことがあった。かつて水田だった葦原に桜の木を植えて桜の名所にしようと考えて苗木を植えたが、夏になったら桜の苗木が背の高い葦の原に埋没してしまい、どこに植えたのかも分からなくなってしまったためである。そこで、新しい釜を購入し、葦の刈り取りにいどんだ。しかし、私自身の日頃の運動不足もあったとはいえ、それよりも、葦が密に生え、背丈も高く、茎が堅かったために、2、3時間でわずかな面積を刈り取っただけで疲れてしまいダウン。しかも新調した鎌の歯はぼろぼろになってしまった。
 そういえば、魏志倭人伝に、次のような記載があった。
 「又一海を渡ること千余里、末盧国に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。」
 この草は間違いなく葦だったと密かに思う次第である。

 それはともかく、葦原を水田に変えるには、冬期の作業に頼るしかなかったであろう。また湿地を乾燥させるか、逆に(一時的にせよ)葦が生息できないほどの水深にするしかない。当時の人々が葦原をどのようにして水田に変えたのか、もちろん、その方法を私は知らない。
 ともあれ、縄文時代から弥生時代はもちろんのこと、奈良・平安時代になっても、日本の平地の多くは茂盛する葦の原だったことは間違いないと考えるしだいである。現在、田舎のほとんどの土地は田畑になっている。しかし、それは奈良・平安・鎌倉・室町・江戸時代における開墾の所産である。日本の原風景、それは葦、マコモ、蒲などの繁茂する原だったであろう。


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