2013年12月13日金曜日

社会科学の裸の王様・経済学 11 時間のない不思議な仮想空間

 主流派のミクロ経済学に関する教科書を読んでいると、奇妙な事柄に頻繁に出会います。私は経済学部に入学した直後にすぐ、そうした奇妙な事柄に遭遇してしまい、大いなる違和感を感じました。ジョウン・ロビンソン氏は、「経済学者に騙されないようにするために経済学を始めた」と言っていますが、大げさに言えば私もそうです。
 どこがおかしいのでしょうか? 
 本ブログでは、これまでもおかしな事柄を取り上げてきましたが、ここでは「代替」と時間について検討することにします。
 代替というのは、例えば「労働」と「資本」とが一定の比率で取り替え可能だというようなことです。既にここでまともな人ならば、「労働」のほうはともかくとして、「資本」という言葉で教科書が何を表現しようとしているのか、戸惑います。
 <資本というのは、資金(お金・貨幣)のことだろうか? いや、労働と取り替え可能というのだから、ここで述べているのは物的な実物資本のことに違いない。すると、機械・道具や設備(資本装備、固定資本ストック)のことだろうか? いやそれだけではなく、原材料・エネルギーも含まれているようだ。しかし、それらは資本だろうか?> 
 現実的に考えると、こんなところでしょうか。しかしまだまだ疑問は続きます。
 <ところで、代替というのは、生産に投入される労働量(資本量)を減らしても資本量(労働量)を増やせば、同じ結果(産出量)が得られるということのようだ。しかし、そんなことは本当にありうるのだろうか? 例えば自家用車を生産するとき、労働量を増やしても、機械や原材料(鉄板など)を減らすことはできるのだろうか? わずかな代替率はあるとしても、労働量と資本量の比率は、その時に支配的な技術的な条件によっておおよそ決まっているのではないだろうか? また資本といっても生産物の内容によって資本装備の具体的内容も決まるのが現実の姿だが、教科書では、資本は質的に一様で量的にのみ異なるとされている。資本ではないけれど、風邪薬を飲んでも腹痛に効果がないのと同じように、資本も融通無碍に変化しえる量ではないのではないか? それにもしそうだとしたらそれはどんな単位で計測されるのだろうか?>
 
 ここまで考えて、さらにここで教科書には時間がないことにも気づきます。
 <普通(現代の若者なら、基本、でしょうか)、ものが変化するときは、現実の時間の中で変化するというのが物理学でも勉強した基礎だけど、ここには時間がないようだ。それでよいのだろうか? 変化が非常に短期の時間経過とともに生じ、前提条件があまり変化しないならば、許されるのかもしれない。でも、資本(実物)を労働で代替する場合、いったん行った投資(資金)を回収しなければならないけど、現実の経済では無傷ではできないよね。例えば10億円で1台の機械を購入したあと、投資の半額だけとりやめて5億円だけ回収し、5億円分の労働で代替しようとしても、そもそも無理。なぜならば機械を分割することもできないし、時間ももとに戻せないから。(後で知ったけど、これを埋没費用というらしい。)>

 さて、このように教科書の「理論」(といえるような代物ではありませんが)では、資本も労働もそれぞれ質的に同一で(!?)で量的にのみ異なる(!?)と仮定されています。また時間は可逆的であり、そこで埋没費用など無視できると仮定されています。しかし教科書はそうでも、現実はそうではありません。したがって、教科書に書かれていることを現実に当てはめることがそもそも無理だということは明白です。教科書を書いたひとは、その内容は現実に存在しない仮想空間にしかあてはまらないと認めるべきです。しかし、彼らは現実の世界をその仮想空間の中に無理矢理押し込めようと試みるという愚をおかします。正しいのは理論であり、現実ではない、というかのように。ゲーテのファウスト博士も真っ青になることでしょう。何故かって? ファウストは次のように言います。

 「理論は灰色(blau)であり、生き生きとしている(lebendig)のは現実なのだよ。」

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