2013年12月3日火曜日

ローマ法王の市場原理主義批判(福音の喜び、Evangelii Gaudium) 2


 次に57〜60。(とりあえず、直訳です。)
奉仕せず支配する金融システムにノー
57 このような態度の背後には、倫理の否認と神の否認とが潜んでいる。倫理はある種の軽蔑的嘲笑をもって見られるようになってきた。倫理はお金と力を相対的なものとするため、非生産的なもの、人間的すぎるものと見られている。それは人格の操作や変造を非難するので、脅威であると感じられている。実際、倫理は市場の範疇外にその答えを求める神につながる。市場の範疇が絶対化されるとき、神は人類に完全な自己実現とあらゆる形の隷属状態からの解放を求めるため、制御不能、管理不能で、危険なものとさえ見なされる。倫理、イデオロギー的でない倫理によって安定とより暖かみのある社会秩序をもたらすことが可能となるだろう。このことを考慮しながら、私は、私は金融専門家と政治的指導者が古代の賢人の一人の言葉を熟慮するように求める。「自分の富を貧者と分ち合わない​ことは、彼らから盗むことであり、彼らの生活を奪うことである。私たちが持つのは私たち自身の財物ではなく、彼らのものである。」
58 このような倫理的配慮に対して開かれた金融改革は、政治指導者の側におけるアプローチの積極的な変化を必要とする。私は、もちろんそれぞれの場合の細部を無視はしないが、決然と、将来を見据えて、この課題に直面することを勧める。お金は奉仕しなければならないのであり、支配してはならない。法王は金持ちであれ貧しい人であれすべての人を愛するが、富者が貧者を助け、敬い、引き上げなければならないことをキリストの名においてすべての人に思い出させる義務がある。私はあなたがたに寛大な連帯を、また人類を優遇する倫理的なアプローチに経済学や金融を戻すことを勧める。
暴力を生む不平等にノー
59 今日多くの場所で、私たちは、より高い安全保証を求める声を聞く。しかし、社会における、また人々の間の排除と不平等が逆転するまでは、暴力をなくしてゆくことは不可能だろう。貧者やより貧しい人々は暴力のために非難されるが、平等な機会がなければ、様々な形の侵略や紛争が拡大するための肥沃な土壌が生み出され、それは結局激増する。社会が(地域的、国民的、またはグローバルかどうかにかかわらず)その一部の人々を周辺部に残そうとしているときには、法執行機関や監視システムに費やされるどんな政治的プログラムも資源も、いつまでも平穏を保証することはできない。そうならない理由は、単に不平等がシステムから排除された者から激しい反応を引き起こすからではなく、社会経済システムがその根底において不正だからである。善良さが広がる傾向を持つのと同じように、不正である悪の容認は、悪影響を広め、どんな政治的および社会的システムをも(それがどんなに堅固に見えようとも)静かに蝕む。もしすべての行為が結果を生むというならば、社会構造に埋め込まれた悪も崩壊と死の可能性を常に秘めている。不正な社会構造に結晶化された悪は、より良い未来への希望の基礎となることはできない。持続可能で平和的な発展のための条件がまだ十分に明確にされておらず、実現されてもいないので、私たちはいわゆる「歴史の終わり」からは遠いところにいる。
 60 今日の経済のメカニズムは法外な消費を促進しているが、不平等と結びついた奔放な消費主義が社会構造に二重に損害を与えていることを証明していることは明白である。不平等は、最終的には武力に訴えても解決できず、将来も解決できない暴力を生み出す。近年、私たちは武器や暴力が解決案を提供するというよりは新しい、より深刻な対立を生み出すことを知っているが、それは安全保証の強化を要求している人々に誤った希望を提供するのに奉仕しているに過ぎない。その混乱を理由として貧者と貧しい国を非難して単に自己満足している人もいる。そのような人々は、不当な一般化にふけりながら、解決策は貧者を鎮静化し、飼いならし無害にさせる「教育」にあると主張する。その指導者の政治的イデオロギーが何であれ、多くの国で見られる(政府、企業および教育機関における)広範かつ深く根ざした汚職に照らしてみると、これらすべてが周辺の人々をもっと腹立たせることになる。

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