2014年2月15日土曜日

ユーロ圏の危機 8 貨幣的ユートピアとマネタリズムの作用

 ユーロ圏の債務危機、あるいはユーロ自体の存続の危機は、1990年前後からヨーロッパ諸国が追求してきた「貨幣的ユートピア」とそれを支えたマネタリズムに由来します。そのことを以下に示したいと思います。議論に際しては、欧米のいくつかの論文(Levy Economics Institute, Working Paper, The Journal of Post Keynesian Economics, The Cambridge Journal of Economics などに掲載)に依拠しているところが多々ありますが、それらの紹介は後に回します。
 トッド氏(E. Todd, 1999)が冷静に観察していたように、ヨーロッパでは多くの国の指導者たちがあたかもレミング(ネズミ)のように1990年前後から単一(ユーロ)通貨圏の創設の方向にいっせいに疾駆しはじめました。それらの国では(日本でも?)、それに疑問を呈することは変人であるかように見られていたと言ってもよいでしょう。イタリアでは「オリーブの木」(旧イタリア共産党)でさえその流れに合流しました。もちろん、イギリスのようにそれに対して冷ややかな態度をとっていた国もありましたが、・・・。しかし、貨幣的ユートピアはいま風前のともしびといってよい状態にあります。その理由は、・・・

 最初に述べたように、単一通貨圏の創設前には、参加国の社会経済状態は多様であり、インフレ率、金利、国際収支、産業構造、貯蓄性向などなど、どれをとって見ても大きく異なっていました。ところが、貨幣的ユートピアは、まずは表面上に過ぎないにせよ、そうした状況を一変させます。


   出典)Ameco on line database. (以下、特に断りのない限り同様。)

 上図は、消費者物価指数(1999年=100)の推移を示しますが、ここからいくつかのことが読み取れます。
 ・中心国(ここではドイツのみを示した)では、最も物価が安定しており、インフレ率が低い。ただし、前に言及したように、1990年〜1993年には東西ドイツ統一直後の好況時にインフレ率が上昇し、これに対してブンデスバンクが過剰に対応し、ヨーロッパ全体の景気後退をもたらしたことも指摘した通りである。
 ・一方、トレンドを見ると、1990年代の後半にインフレ率がしだいに低下していたことが読み取れる。
 ・しかし、全期間を通じて、フランス、イタリア、ポルトガル、スペイン、ギリシャのインフレ率はドイツを超えている。このようにインフレ率は一つの率に収束したわけではない。
 


 ところが、そうした差異にもかかわらず、通貨統合とともに金利政策は一元化され、1999年以降(ギリシャは2001年以降)短期金利(名目)のスプレッド(金利差)はなくなっています(上図)。もちろん、実質短期金利のスプレッドは存在しましたが、それは当然ながら物価水準を反映するものとなっていました。
 また長期金利(名目、実質)のスプレッドも大幅に縮小しました。これは、一部は統一的な金融政策が行われることによりますが、一部は、しばしば主張されるように、ユーロの導入までは存在した為替リスクがなくなったことによります。


 しかも、ここで次の点が注目されます。それは、1997年以降、中心国ドイツより、むしろフランスや周辺国(ギリシャ、スペイン、ポルトガル、イタリアなど)の実質長期金利が低下していることです(上図)。
 これは奇妙な事態といわなければなりません。が、(下図に示すように)名目長期金利のスプレッドがきわめて小さくなっているのですから、物価上昇率(インフレ率)の差によってもたらされたことは間違いありません。
  

 要約しましょう。きわめて注目されることに、単一通貨の導入の前後から、ユーロ圏では次の2つの傾向が明確になっていました。
 ・中心国(ドイツなど)では、以前同様、相対的に物価が安定しており、インフレ率は低かった。それに対して周辺国では、リフレ傾向が見られたとはいえ、相対的にインフレ率は高い水準にあった。こうした中心と周辺の対比は、ずっと以前から見られたものであり、それは基本的には、単位労働費用の相対的な動きによって説明される。後で示すように、単位労働費用はドイツでは抑制され続けており、逆に周辺国では相対的に上昇していたのである。(フランスは中間的に位置にいたが、ここではフランス問題は省略する。)
 したがって、ユーロ圏では、参加国相互間の「名目」為替相場に変化はなかったということはできますが、「実質」為替相場は大きく変化していたということになります。(下図参照。)ドイツ・ユーロ(このような名称はないと思いますが、あえて使います)が減価し、ドイツの輸出業者の「競争力」が増していることがこの図から明らかになります。一方、「周辺国・ユーロ」は増価し、輸出競争力を下げています。
 

 注)Euro15全体に対する「実質実効為替相場」を示します。

 ・一方、金利(長期、実質)は急速に低下しつつあり、特に周辺国でそうした低下は劇的であった。
 
 単一通貨圏が形成され、為替調整がなくなった世界でこのようなことが生じた場合に、どのような事態が想定されるでしょうか? もちろん次のようなことです。
 ・中心国(ドイツ、オランダ、ベルギー、オーストリアなど)から周辺国(かつてPIIGSと呼ばれた地域)への輸出の拡大。これは貿易収支の大きな不均衡をもたらす可能性がある。
 ・中心国から周辺国への国際資本フロー。金利の低下は、周辺国側の資金需要を拡大すると同時に、中心国側から周辺国への資金供給意欲を拡大する。その理由は、為替リスクの消失の条件下で、長期金利(名目)が相対的に高いことにある。これは中心国の債権国化と周辺国の債務国化を予測させる。

 実際、この予想は実現しました。1999年〜2006年という短期間に中心国と周辺国の実体経済に大きな変化など生じていないにもかかわらず、また両地域間の所得格差など縮小していないのに、貿易取引と国際資本フローは拡大しました。

 さて、こうした事態は、周辺国側の貿易収支の大幅赤字および債務国化という帰結を伴っていました。もちろん、経済学部の学生たちが国際(開放)マクロ経済学で学ぶように、理論上、貿易収支赤字(経常収支赤字)は資本収支の黒字を意味します。貿易収支赤字の国は、その額(例えば1000単位)を資本輸入によって埋め合わせなければなりません。
          XーM=SーI <0
 この式は恒等式であると理解されており、おそらく「均衡においては」または「事後的には」そうでしょう。しかし、この式はまた国際均衡が成立するためには、そうあらねばならないということを意味します。だから、実際には、1997年の東アジアや1998年のロシアのように、経常収支の赤字を抱えている国が資本逃避に見舞われるや、通貨価値の劇的な低下や金融危機を起こすことになります。
 ただし、ユーロ圏の場合、東アジアやロシアの場合と異なって、何しろ統一通貨なのですから、通貨安という形の通貨調整は生じません。しかし、債務危機が生じ、統一通貨圏を破壊する力を持つということはありえます。
 不均衡の拡大はいつの日か維持できなくなります。ユーロ危機は起こるべくして起きたということができます。要するに人々は、貨幣的ユーロピアの甘い夢を見ていたに過ぎません。
 
 しかし、少し先走りしたかもしれません。ユーロ危機について述べる前に、1999年〜2006年にこうした大きな不均衡が何故ユーロ圏で生じたのかをもう少し詳しく検討しなければならないように思います。そして、そのためにはEU全体で生じた資産バブルに触れる必要があります。

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