1990年代〜21世紀初頭にかけて経済学者に問いかけられた大きな問題があります。それは近年の諸地域、例えばヨーロッパ諸国(EU地域)、とりわけユーロ圏の失業率が高いのは何故かというものです。しばしば、これに関係して米国の失業率が相対的に低い理由は何かという問題も問いかけられていました。実際には、ヨーロッパにも失業率の低い地域があり、また米国でも常に失業率が低かったわけではありません。しかし、<ヨーロッパの高失業vs米国の低失業>という、いわば定型化された質問がしばしば投げかけられていました。
しかも、1994にOECDのEconomic Outlook に「職の研究」(Job Study)が掲載され、「統一理論」(Unified Theory)なるものが主張されるに至り、この問題は世界中の多くの経済学者の関心をひきました。
この「職の研究」(統一理論)によれば、ヨーロッパ諸国の高失業は、①高賃金と②所得分配の平等のせいであり、さらに、それをもたらした③政府による労働保護政策や労働市場の硬直性のせいである、とされ、反対に米国の低失業は、雇用の柔軟化と規制撤廃、所得分配の不平等によるとされました。これを一般化すると、人々は高賃金と雇用のどちらも享受することはできず、どちらかを選ばなければならないことになります。
ちょっと考えると、こうした説明がかなり疑わしいものであることがわかります。そもそもヨーロッパでも米国でも、失業率が上昇しはじめた時期に賃金抑制が進行してきました。統一理論によれば、賃金抑制が行われたのだから失業率は低下したはずです。しかし、そうはなっていません。あるいは失業率が上昇したのだから、実質賃金が上がったはずです。しかし、実際には、失業率が上昇したときに、貨幣賃金が抑制される傾向が強く、その結果、実質賃金も抑制されています。
それにヨーロッパ諸国の諸地域を詳しく見てみると、失業率の高いのは低賃金の地域であり、失業率の低いのは高賃金の地域であるという強い相関があることが分かっています。
以上の指摘だけでも、OECDの「職の研究」の説明が誤りであることがすぐに分かりますが、実は、当該論文自体が、<自分たちの見解は統計的に実証されているわけではない>と認めていました。実に奇妙な話です。
しかし、この奇妙な説は、経済学の発展にとっては多少役にたったかもしれません。というのは、多くの経済学者が雇用の理論的・実証的研究を行い、OECDの「統一理論」なるものの誤りを明らかにしたからです。
しかしながら、「職の研究」が高失業の原因を正しく説明していないことが明らかであっても、それだけでは不十分です。何故、ヨーロッパ諸国、特にユーロ地域は高失業になったのでしょうか? 近年の研究成果を踏まえて、もう少し詳しく検討しておきたいと思います。
2015年6月19日金曜日
金融化 金融の支配する経済
英国のエリザベス女王が2008年11月5日、つまりあのリーマン・ショックが起きたあと、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスを訪問したとき、「そんなに大きな出来事なら、どうして誰も気づかなかったの?」と質問したというのは有名な話しです。
それに対してどのような回答があったかは知りませんが、確かなことは女王の質問は精確ではなく、気づいている経済学者はかなり多くいたというのが事実です。
もちろん、主流派の経済学者の多くは、そのような危機(金融崩壊)が生じないと思っていたのですから、質問が主流派に向けられたと考えれば、質問は成立します。
さて、気づいていたのは、例えば英国では、Susan Strange 氏(『カジノ資本主義』の著者)をはじめとする非主流派(マルクス派、ポスト・ケインズ派)の決して少なくない経済学者、米国ではガルブレイスや、ハイマン・ミンスキーの伝統を受け継いで「金融脆弱性」を研究していたLevy Economics Institute of Bard Collegeのスタッフ諸氏、クルーグマン等でしょうか。
金融がきわめて脆弱な(不安定な)領域であることは、かなり早い時期からよく知られていました。金融が脆弱な(不安定な)理由は、それ自体に内在しています。
一つは、銀行が無から貨幣(お金)を創り出すことができるという特性に由来しています。
お金とは何かというのは、古くからの哲学的な難問でしたが、ここでは簡単に、さしあたり①交換手段・支払手段、②度量単位、③富の蓄蔵手段としての3機能を備えているものを貨幣(お金)と考えておきます。
このように定義された貨幣は、現在では、①正貨(金貨など)、②中央銀行券(現金、紙幣)、③預金通貨の3種類しかありません(少額のコイン=補助貨幣を除きます)。しかも、このうち①正貨は、1930年代にほぼ消滅しました。
さて、よく銀行は人々から受け入れた預金を人々に貸し付けると理解されていますが、これは誤りです。銀行が一方で預金を集め、他方で貸し付けていることは事実ですが、預金を貸し付けているわけではありません。
銀行は、人々の預金口座に貸付額を記帳することによって貸し付けることが可能です。1億円なら1億円と記帳するだけです(現在ではパソコン端末で処理するのみ)。また貸付を受けた人は、その預金を利用して支払を行うことができます。難しい話しではありません。多くの人々は、給与の受け取りを預金通貨を使って行っており、電気料やガス代を口座振替で行っています。
それでは、銀行は何故預金を集めるのでしょうか? 一つの最も大きな理由は、現金準備に備えるためです。預金者は、その預金が自分の預金によるものであれ、貸付によるものであれ、現金(銀行券)を引き出すことができます。銀行はその準備をしておかなければなりません。銀行は、理論上、準備さえしておくことができれば、不良債権がどんなにたまっても(節度を失って)営業を続けることができます。
もちろん、それでは困るので、現実には様々な規制(BIS規制など)がしかれます。
ともあれ、銀行は規制の範囲内で貸付という形で巨額の貨幣を創出することができます。
つぎに取り上げなければならないのは、貨幣需要です。銀行は、貨幣を供給するわけですが、貨幣に対する需要があってはじめて供給することができます。したがって銀行も、いわんや中央銀行も「外生的に」(ある目的から裁量的に)貨幣供給を行うことはできません。貨幣は「内生的」であり、経済の内部から生じる貨幣需要に応じて生まれます。
それでは、その貨幣需要とは何でしょうか?
第一に、そもそも貨幣がなければ、市場取引は不可能ですから、現代の経済社会では、本源的な貨幣需要があると考えなければなりません。モノを買う時、労働者を雇うとき、貸借のとき、などのための需要です。
第二に、設備投資のための需要です。現在の経済では、企業は内部資金(減価償却費、内部留保)、株式の新規発行の他に、銀行からの借入によって投資資金を調達することが行われています。意外と知られていないかもしれませんが、特に大企業では、このうち内部資金が設備投資資金のほとんどを占めています。
第三に、貨幣に対する投機需要です。土地や株式、その他の有価証券などを購入するための貨幣需要が投機需要です。最近では、金融機関が「投機」という言葉を避けるために投資という言葉がよく使われますが、新規発行株式を購入する場合ならともかく、インカムゲイン(配当)やキャピタルゲイン(資産の売買差益)を得るために金融資産を購入するのを「投資」と呼ぶべきではありません。
ここで第二の投資需要と、第三の投機需要を比較考量してみます。
投資需要を決定するのは何かというと、これまでも説明してきたように、基本的には将来における有効需要の期待です。もし消費財であれ生産財であれ、売上げが伸びると期待されれば、企業は生産能力を拡大するために設備投資を実施します。
ここで注意点を一つ。それは1920年代〜1930年代のオックスフォード調査以来知られているように、銀行借入額が金利の変化に対して敏感ではないことです。その理由はいくつかありますが、一つは上記の事情(投資資金のほとんどが内部資金から)によると考えられます。また景気循環の中で、景気後退期に金利を下げても借入が増えず、逆に好況時は金利が上がっても借入が増えるということもあるでしょう。これは低金利(高金利)が借入額を増やす(減らす)という傾向を帳消しにします。
次に投機需要ですが、こちらは金利に敏感に反応します。しかも、普通の財やサービスと異なって、金融資産の価格は需要供給関係の変動に応じて著しく変化するという傾向を特徴としています。
最近の株価の上昇を見てもそうですが、政府が年金基金を株式市場に投入するや、株価が急激に上昇したことがその一例です。さらに、資産市場では期待がもっと資産価格の変動性を激しいものにします。われわれの例を続けると、日本政府・日銀の金融政策を見た外国人「投資家」が株価の上昇を期待すると、彼らは日本株を購入し、それがさらに株価を押し上げるといったことが生じます。
ここに金融脆弱性の原因の一端があります。つまり、資産市場では「バンドワゴン効果」や「自己実現的期待」といったことが成立しやすく、多くの人々が株価が上昇すると期待すると、資産購入の動きが拡大され、資産価格を押し上げます。すると、それは巨額のキャピタル・ゲインをもたらし、資産インフレーションのスパイラルを生むことになります。
さらにこれに金利の作用が加わります。もし資産インフレーションが進行しだすと、それはキャピタル・ゲインを含めた期待利子率を引き上げるでしょう。例えば10億円で購入した株式が一年で20%上がると期待されるならば、期待利子率は20%+配当率になります。このとき、銀行の貸し出し金利が低いならば、銀行ローンを用いない手はないでしょう。
ここで、21世紀初頭のECB(欧州中央銀行)の金融政策を確認しておきます。19世紀末以来、ECBは、(財とサービスの)物価だけを判断基準として金利を決定してきました。その判断基準は、物価上昇率を2%以下に抑えるが、できるだけ2%に近い値に誘導するというものです。ずいぶん乱暴な話しです。各国の失業率が高かろうが低かろうが、とにかく物価だけで金利を決めるというのですから。
さて、21世紀初頭の米国ITバブルの崩壊による金融危機の影響はヨーロッパにまで及び、ECBは物価上昇率が基準値以下になったのを見て、金利を引き下げました。それに対して実体経済が反応したでしょうか? そうではありません。反応したのは、資産市場です。住宅価格が上昇し、住宅市場にマネーを供給する分野が拡大し、株式市場が拡大し、負債の拡大によって消費ブームが実現しました。
私はちょっと先走りすぎたかもしれません。というのは、もちろん、ヨーロッパやアメリカの金融危機は単に中央銀行の低金利政策によってもたらされたものではないからです。それを説明するには、別の側面に触れる必要があります。しかし、ここで強調したいのは、金融が資産市場に大量のマネーを供給するとき、それがバブル=資産インフレーションを引き起こし、ついでそれがピーク(ミンスキー・モメント)に達した時に、金融崩壊が生じる、という事実です。
バブルが崩壊したのち、資産デフレーションが生じ、キャピタル・ロスが生まれ、資産を売り逃げしようとする流れの中で資産デフレのスパイラルが生じることは、日本人も身をもって知ったことです。もちろん、その中で銀行が巨額の不良債権を抱えるにいたることは言うまでもありません。
さて、それでは、戦後、1970年代まで比較的なりをひそめていた金融危機が1980年代から再頻発するようになったのは何故でしょうか?
答えはある意味では簡単です。一つは、戦後、金融脆弱性が発現しないように様々な規制がなされていたのに対して、1970年代以降、特に1980年代から20世紀末にかけて規制が撤廃されたことであり、もう一つは、金融化が進展し、金融の支配する経済(finance-led economy)が成立したことです。
それを説明するには、米国では1980年代のレーガン時代にまで、ヨーロッパでも1980年代のサッチャー時代にまで、そしてEU (EC) とユーロ圏の成立史にまでさかのぼる必要があります。EUとユーロは決してヨーロッパの人々にエルドラド(黄金郷)をもたらしたわけではないことを知らなければなりません。
何故TPPに反対するべきか? 賃金主導型の成長のために
ほとんどの経済が「賃金主導型」(wage-led type)となっていることは、今日、少なくとも専門家の間では、よく知られています。が、一般的には知られていないかもしれません。
賃金主導型というのは、労働生産性の上昇に応じて賃金率を引き上げる方が経済発展にとって有利だという意味です。それはまた、労働生産性の上昇があっても賃金を抑制すると、経済的な沈滞や高失業を招くということを意味しています。
このような意見は、いまや国民の「常識」ともなってしまった見解(思想、教義、信条)に反するかもしれません。というのは、高賃金(高負担)が企業の流出を招き、雇用と職の喪失を招いているという言説が流布されてきているからです。
しかし、それは誤りです。ちょっと検討してみましょう。
第一に、理論的に。賃金率の抑制(引き下げ)は、ただちに雇用の拡大を伴わない限り(そして実際には伴わない)、社会全体の賃金所得を抑制(縮小)します。それはもちろん、賃金からの消費支出を抑制(縮小)します。もっとも、利潤が拡大すれば、それを補うことができるではないかという反論があるかもしれません。しかし、利潤からの消費支出はかなり限られています(消費性向が低い、と言います)。これに対して貯蓄が増え、そのため投資も増えるという再反論があるかもしれません。しかし、これも成立しません。というのは、投資は消費需要が拡大しているときに、企業が招来も消費が拡大すると期待して、生産能力を拡大するために行うものです。また、消費が停滞しているときに投資を行うと過剰投資・過剰生産・固定の拡大を招き、企業業績が悪化する危険性が大きくなります。
第二に、しかも、これは私の単なる想像ではありません。1990年代末から日本経済が経験してきた事柄そのものに他なりません。貨幣賃金の抑制、史上最大の企業利潤の実現、しかし消費の低迷、投資の低迷と技術の低迷、企業(ただし巨大企業のみ)の巨額の内部留保、しかし国内投資の低迷と海外への流出(高賃金ではなく、投資機会の不足による!)、等々。
それに、もし高賃金が企業の流出の理由であり、高負担国には資本が流入しないという法則があるならば、例えばドイツに米国企業が進出することはないはず。しかし、ドイツは世界最大の直接投資受け入れ国です。
何故でしょうか? それはドイツが高賃金・高負担・高率課税でも、企業が利潤をあげることができてきたからです。もちろん、企業は利潤から租税を支払うのを嫌うでしょう。もし仮に私が経営者でも、ある時はグローバル競争のため苦しいと泣き、ある時は高負担だと逃げますよと脅すでしょう。泣きと脅しを同時に行えばばれますが、別々に行うと受け入れてくれます。(ちょっと言葉は悪いのですが、養老氏の「馬鹿の壁」というものでしょうか。人は壁をつくってしまい、人の意見を聞かなくなってしまうことがあります。それをケインズは「思想」(idea)という言葉で説明しました。)
このように、多くの賃金主導型ですが、もしかすると米国だけは、利潤主導型になっている可能性があります。その理由は、米国があまりに自由化・規制撤廃を実現しすぎて、利潤の変化に敏感になっているからだという可能性があります。
もしそうだとすると、それは米国の99%にとっては不幸なことです。
また他の国にとっては、それは米国のようになってはいけない(少なくとも99%にとっては)という教訓ともなります。
TPPが人々の富と所得を増やすという言説にまどわされてはなりません。
人々と言っても、せいぜい1%、または0.1%の人々にすぎないのですから。もしあなたが確実に 0.1%の上位所得者・資産家なら話しはまったく別ですが・・・。
賃金主導型というのは、労働生産性の上昇に応じて賃金率を引き上げる方が経済発展にとって有利だという意味です。それはまた、労働生産性の上昇があっても賃金を抑制すると、経済的な沈滞や高失業を招くということを意味しています。
このような意見は、いまや国民の「常識」ともなってしまった見解(思想、教義、信条)に反するかもしれません。というのは、高賃金(高負担)が企業の流出を招き、雇用と職の喪失を招いているという言説が流布されてきているからです。
しかし、それは誤りです。ちょっと検討してみましょう。
第一に、理論的に。賃金率の抑制(引き下げ)は、ただちに雇用の拡大を伴わない限り(そして実際には伴わない)、社会全体の賃金所得を抑制(縮小)します。それはもちろん、賃金からの消費支出を抑制(縮小)します。もっとも、利潤が拡大すれば、それを補うことができるではないかという反論があるかもしれません。しかし、利潤からの消費支出はかなり限られています(消費性向が低い、と言います)。これに対して貯蓄が増え、そのため投資も増えるという再反論があるかもしれません。しかし、これも成立しません。というのは、投資は消費需要が拡大しているときに、企業が招来も消費が拡大すると期待して、生産能力を拡大するために行うものです。また、消費が停滞しているときに投資を行うと過剰投資・過剰生産・固定の拡大を招き、企業業績が悪化する危険性が大きくなります。
第二に、しかも、これは私の単なる想像ではありません。1990年代末から日本経済が経験してきた事柄そのものに他なりません。貨幣賃金の抑制、史上最大の企業利潤の実現、しかし消費の低迷、投資の低迷と技術の低迷、企業(ただし巨大企業のみ)の巨額の内部留保、しかし国内投資の低迷と海外への流出(高賃金ではなく、投資機会の不足による!)、等々。
それに、もし高賃金が企業の流出の理由であり、高負担国には資本が流入しないという法則があるならば、例えばドイツに米国企業が進出することはないはず。しかし、ドイツは世界最大の直接投資受け入れ国です。
何故でしょうか? それはドイツが高賃金・高負担・高率課税でも、企業が利潤をあげることができてきたからです。もちろん、企業は利潤から租税を支払うのを嫌うでしょう。もし仮に私が経営者でも、ある時はグローバル競争のため苦しいと泣き、ある時は高負担だと逃げますよと脅すでしょう。泣きと脅しを同時に行えばばれますが、別々に行うと受け入れてくれます。(ちょっと言葉は悪いのですが、養老氏の「馬鹿の壁」というものでしょうか。人は壁をつくってしまい、人の意見を聞かなくなってしまうことがあります。それをケインズは「思想」(idea)という言葉で説明しました。)
このように、多くの賃金主導型ですが、もしかすると米国だけは、利潤主導型になっている可能性があります。その理由は、米国があまりに自由化・規制撤廃を実現しすぎて、利潤の変化に敏感になっているからだという可能性があります。
もしそうだとすると、それは米国の99%にとっては不幸なことです。
また他の国にとっては、それは米国のようになってはいけない(少なくとも99%にとっては)という教訓ともなります。
TPPが人々の富と所得を増やすという言説にまどわされてはなりません。
人々と言っても、せいぜい1%、または0.1%の人々にすぎないのですから。もしあなたが確実に 0.1%の上位所得者・資産家なら話しはまったく別ですが・・・。
賃金主導型の成長を擁護する
マルク・ラヴォア(Marc Lavoie1)の編著になる『賃金主導の成長』(2013年)が ILO (国際労働機構)の支援を得て、出版されています。また今年、トニー・サールウォール(A, Thirlwall)の『ケインズ派とカルドア派の経済学』、パルグレイブ社から出版されています。
マルク・ラヴォアは、カナダの経済学者で、著名なポスト・ケインズ派の理論家。サールウォールもイギリス生まれの著名なポスト・ケインズ派の経済学者です。ここにポスト・ケインズ派というのは、ケインズの研究・問題提起を真面目に受け止め、それをさらに発展させた経済学を志向する人々の総称であり、出発点は、1930年代のイギリス、ケインズを中心に経済学研究をすすめてていた一群の人々(ケインズ・サーカス)にあるといっても間違いではないでしょう。具体的には、ハロッド、ジョウン・ロビンソン、カルドア、カレツキなどのそうそうたる経済学者ですが、その後、イギリスだけでなく、他のヨーロッパ諸国や、大西洋を渡って米国やカナダ、中南米にも、また日本にもその共鳴者が現れます。米国では、制度派・オーストリアン派の影響を受けていたジョン・ガルブレイスもケインズの強い影響を受けるようになりました。さらにフランスのレギュラシオン学派も、ケインズ派、ポスト・ケインズ派から多くの要素を取り入れています。
これらの人々に共通しているビジョンは、資本主義経済(企業者経済、貨幣的生産経済)では、完全雇用が必ず実現されるという保証はなく、むしろ逆であるというものです。したがって、非自発的失業をなくし、完全雇用を実現するためには、政策的努力(つまり資本主義の修正)が必要となるという結論が導かれます。
ちなみに、米国を中心にしげ「ニュー・ケインジアン」なる学派があり、一見すると、ケインズの思想を受け継いでいるかのように思われるかもしれませんが、それは誤りです。彼らはケインズ派どころか、ケインズの基本的な主張に反したことを主張している「反ケインズ派」ですが、これについては後に触れます。
さて、賃金主導とは何でしょうか?
このことを知るには、経済学の歴史を少しさかのぼる必要があります。
実はケインズが『一般理論』(1936年)で展開した理論は、それまでの(新)古典派といわれる人たちの雇用理論(労働市場論)を根本的に批判し、新しい理論を準備するためのものでした。
ケインズが直接批判の対象としたのは、ピグー(Pigou)という人のあらわした『雇用の理論』(1930年)ですが、このピグーの本は、簡単に要約すると、高い実質賃金(または実質賃金の上昇)が失業を拡大する、と主張するものでした。ケインズは、このピグーの結論を支える2つの公準があると指摘していました。
2つの公準のうち一つは、実質賃金が高いほど労働供給(労働者が働きたいと考える時間)が多く、実質賃金が低いほど労働供給が少ないという傾向があるというものですが、これが成立しないことは、ちょっと考えれば誰でもわかります。もし賃金率が低いのに、わずかな時間しか働かなければ、所得はものすごく少なくなるでしょう。普通は逆です。一定の所得を得るためには、より長い時間は働く必要があります。また賃金率が上がれば、人はより短い労働時間で以前と同じ所得を実現することができます。(これは、アメリカのダグラス大佐『賃金の理論』(1936年)で実証されています。)
それによく考えると、労働供給は、ほとんど長期の歴史的・社会的・文化的条件によって決まっています。例えば今年22歳になって働き始める人は、22年前に生まれているのです。現在の賃金率が高いから22年前にさかのぼって生まれたわけではありません。ま昔はた多くの人が15歳には働いていましたが、現在の日本では20歳で働いている人の方がはるかに少ないことは誰でも知っています。
そこで、ラフに言うと、短期には労働供給は一定と考えてもよいでしょう。いずれにせよ、ピグーの公準の一つは崩れました。
もう一つの公準はどうでしょうか? これは労働需要(企業による雇用量=時間)実質賃金率の増加関数だというものです。つまり、企業は、賃金率が低ければ多く雇い、賃金率が上がれば雇用量を減らすという関係です。
これは何だか正しそうな気がするかもしれません。実際、個々の企業にとっては、低賃金は費用を抑えることを可能とするわけですから、その点に関する限り魅力的で、実行してみたいという思いに駆られるかもしれません。しかし、それは企業家の願望であって、本当にそうかは、じっくり検討する必要があります。
実は、ケインズは不覚にもこの公準を認めてしまいました。しかし、それでもケインズは、この公準が短期の公準(つまり時間のない静態的世界で当てはまる公準)にすぎず、現実の動態的な世界には当てはまらないと考えていました。
簡単に言えば、現実の経済(貨幣的生産経済)では、人々が意識しているのは実質額ではなく、貨幣額(賃金の場合には貨幣賃金率)です。もしピグーの言うように、失業率を下げるためにと称して、社会全体・企業全体(個別企業を問題としているのではなく、社会全体を問題としていることに注意!)が貨幣賃金を下げた場合、実質賃金は低下するでしょうか? もちろん、頭の中の思考実験で<もし物価水準が同じならば>という仮定をおけば、そうなりますが、これはトートロジーであり、現実とは関係ありません。実際には、もし貨幣賃金の引き下げが、諸物価の低下をもたらすならば、実質賃金は、①変わらない、②下がる、③上がる、の3つの可能性があります。
さて、19世紀から1930年代にかけて現実はどうだったでしょうか? が、これについては、いつか詳しく論じます。
ケインズにとってもっと問題だったのは、現実の動態的な世界では、雇用量は直接に実質賃金率に関係しているのではなく、生産量に関係しているという事実です。簡単な例で説明しましょう。いま、ある会社がある期間に製品1000単位を生産しようとしています。また、その期間に一人あたりの生産能力(労働生産性)が100単位/人だとします。この場合、必要な労働力は10人(=1000単位÷100単位/人)となることは子供でも分かります。
また生産量は、その生産物に対する有効需要(貨幣のうらづけのある需要)によって決まります。もちろん、企業は需要を予測して生産に踏み切るかもしれませんが、売れ行き不振で在庫が増えれば、生産を縮小します。つまり、最終的には、企業は有効需要に王位て生産することに疑いはありません。
それでは、貨幣賃金率を引き下げた場合、この実質有効需要(生産量)は本当に増えるのでしょうか?
これに対して「増加する」と答える人は、どのような根拠をもってそのように言えるのでしょうか? ケインズは、このように答える人に対してまず論理的な誤りを指摘します。
もし貨幣賃金率が引き下げられたとき、ceteris paribus(その他の条件が等しいならば)、つまり社会全体の貨幣表示の総有効需要(金額)が不変という仮定を置くならば、確かに雇用は増えるかもしれません。それは貨幣賃金率の引き下げと雇用量の拡大が瞬時に行われることを意味しており、wN=w’N’ (N’>N、w’>w)となります。もちろん、その際、新しい雇用量に応じた生産量(実質有効需要)が即座に生まれるということも前提=仮定されていることになります。
しかし、これは特定の仮定を置いたから成立するトードロジーに他なりません。あらかじめ結果が成り立つという仮定の上で結果を導いているだけですから、成り立つのは当たり前です。これを同義反復(tautology)と言い、ケインズは冷笑したわけです。
リアルタイムの中で経済諸活動が営まれている現実の世界では、貨幣賃金率の引き下げが決して実質有効需要(生産量)を増やすことはない、むしろこれがケインズの推論であり、実証することに成功した事実でした。
しかも、後日談ですが、ケインズが不覚にも認めた公準自体が誤りであることが、次々に明らかになりました。
先ず1930年代以降に実施されたオックスフォード経済調査が「規模(労働)に関する収穫逓減」の法則を否定し、短期においても、実質賃金率が雇用量の減少関数だと主張する根拠が失われました。この事実は、その後米国で行われた調査(1950年代のアイトマンとガスリー、1990年代のアラン・ブラインダー他の調査)でも確認されています。
さらにケインズの『一般理論』の刊行後、彼の教え子・弟子だったターシス、他、それにケインズとは独立に有効需要の原理にもとづく経済学を樹立していたカレツキなどが、貨幣賃金率と実質賃金率の関係について、『一般理論』の想定には反するけれども、むしろケインズの主張にとっては有利な(あるいはピグーの主張にとっては不利な)発見を行います。現在のポスト・ケインズ派は、こうした事実を前提としています、
さて、長々とした説明になりましたが、結論を言うと、経済は貨幣賃金を引き上げた方が活性化するように出来ている(つまり賃金主導)というのが、経済社会の実相だということです。(もちろん、労働生産性の上昇率をはるかに超えるような極端な引き上げは別です。念のため。)
しばしば世間では、失業(つまり雇用の不足)を労働者の高賃金のせいにし、賃金を抑制するために、雇用の柔軟化(最低賃金の引き下げや廃止、失業保険制度の廃止や縮小、労働組合の団体交渉権の縮小、解雇規制の撤廃など)を求める保守的な政治家で一杯ですが、そうした主張には根拠がなく、逆に悲惨な結果を招くだけで終わってしまう、というのが実相です。実際、近年、多くの国で賃金が抑制され、かつ高失業となっています。
マルク・ラヴォアやサールウォールの著書もこうした見解を批判し、ケインズ以降の正しい経済学にもとづいて事態を説明し、適正な政策提言を行うために書かれています。同書は、雇用柔軟化の政策と賃金抑制が消費需要を抑制し、またそのため生産能力を拡大するための投資需要を抑制し、その結果、雇用の縮小と高失業、技術の停滞をもたらしていることを説得的に論じています。
次にその内容をかいつまんで紹介することにします。
マルク・ラヴォアは、カナダの経済学者で、著名なポスト・ケインズ派の理論家。サールウォールもイギリス生まれの著名なポスト・ケインズ派の経済学者です。ここにポスト・ケインズ派というのは、ケインズの研究・問題提起を真面目に受け止め、それをさらに発展させた経済学を志向する人々の総称であり、出発点は、1930年代のイギリス、ケインズを中心に経済学研究をすすめてていた一群の人々(ケインズ・サーカス)にあるといっても間違いではないでしょう。具体的には、ハロッド、ジョウン・ロビンソン、カルドア、カレツキなどのそうそうたる経済学者ですが、その後、イギリスだけでなく、他のヨーロッパ諸国や、大西洋を渡って米国やカナダ、中南米にも、また日本にもその共鳴者が現れます。米国では、制度派・オーストリアン派の影響を受けていたジョン・ガルブレイスもケインズの強い影響を受けるようになりました。さらにフランスのレギュラシオン学派も、ケインズ派、ポスト・ケインズ派から多くの要素を取り入れています。
これらの人々に共通しているビジョンは、資本主義経済(企業者経済、貨幣的生産経済)では、完全雇用が必ず実現されるという保証はなく、むしろ逆であるというものです。したがって、非自発的失業をなくし、完全雇用を実現するためには、政策的努力(つまり資本主義の修正)が必要となるという結論が導かれます。
ちなみに、米国を中心にしげ「ニュー・ケインジアン」なる学派があり、一見すると、ケインズの思想を受け継いでいるかのように思われるかもしれませんが、それは誤りです。彼らはケインズ派どころか、ケインズの基本的な主張に反したことを主張している「反ケインズ派」ですが、これについては後に触れます。
さて、賃金主導とは何でしょうか?
このことを知るには、経済学の歴史を少しさかのぼる必要があります。
実はケインズが『一般理論』(1936年)で展開した理論は、それまでの(新)古典派といわれる人たちの雇用理論(労働市場論)を根本的に批判し、新しい理論を準備するためのものでした。
ケインズが直接批判の対象としたのは、ピグー(Pigou)という人のあらわした『雇用の理論』(1930年)ですが、このピグーの本は、簡単に要約すると、高い実質賃金(または実質賃金の上昇)が失業を拡大する、と主張するものでした。ケインズは、このピグーの結論を支える2つの公準があると指摘していました。
2つの公準のうち一つは、実質賃金が高いほど労働供給(労働者が働きたいと考える時間)が多く、実質賃金が低いほど労働供給が少ないという傾向があるというものですが、これが成立しないことは、ちょっと考えれば誰でもわかります。もし賃金率が低いのに、わずかな時間しか働かなければ、所得はものすごく少なくなるでしょう。普通は逆です。一定の所得を得るためには、より長い時間は働く必要があります。また賃金率が上がれば、人はより短い労働時間で以前と同じ所得を実現することができます。(これは、アメリカのダグラス大佐『賃金の理論』(1936年)で実証されています。)
それによく考えると、労働供給は、ほとんど長期の歴史的・社会的・文化的条件によって決まっています。例えば今年22歳になって働き始める人は、22年前に生まれているのです。現在の賃金率が高いから22年前にさかのぼって生まれたわけではありません。ま昔はた多くの人が15歳には働いていましたが、現在の日本では20歳で働いている人の方がはるかに少ないことは誰でも知っています。
そこで、ラフに言うと、短期には労働供給は一定と考えてもよいでしょう。いずれにせよ、ピグーの公準の一つは崩れました。
もう一つの公準はどうでしょうか? これは労働需要(企業による雇用量=時間)実質賃金率の増加関数だというものです。つまり、企業は、賃金率が低ければ多く雇い、賃金率が上がれば雇用量を減らすという関係です。
これは何だか正しそうな気がするかもしれません。実際、個々の企業にとっては、低賃金は費用を抑えることを可能とするわけですから、その点に関する限り魅力的で、実行してみたいという思いに駆られるかもしれません。しかし、それは企業家の願望であって、本当にそうかは、じっくり検討する必要があります。
実は、ケインズは不覚にもこの公準を認めてしまいました。しかし、それでもケインズは、この公準が短期の公準(つまり時間のない静態的世界で当てはまる公準)にすぎず、現実の動態的な世界には当てはまらないと考えていました。
簡単に言えば、現実の経済(貨幣的生産経済)では、人々が意識しているのは実質額ではなく、貨幣額(賃金の場合には貨幣賃金率)です。もしピグーの言うように、失業率を下げるためにと称して、社会全体・企業全体(個別企業を問題としているのではなく、社会全体を問題としていることに注意!)が貨幣賃金を下げた場合、実質賃金は低下するでしょうか? もちろん、頭の中の思考実験で<もし物価水準が同じならば>という仮定をおけば、そうなりますが、これはトートロジーであり、現実とは関係ありません。実際には、もし貨幣賃金の引き下げが、諸物価の低下をもたらすならば、実質賃金は、①変わらない、②下がる、③上がる、の3つの可能性があります。
さて、19世紀から1930年代にかけて現実はどうだったでしょうか? が、これについては、いつか詳しく論じます。
ケインズにとってもっと問題だったのは、現実の動態的な世界では、雇用量は直接に実質賃金率に関係しているのではなく、生産量に関係しているという事実です。簡単な例で説明しましょう。いま、ある会社がある期間に製品1000単位を生産しようとしています。また、その期間に一人あたりの生産能力(労働生産性)が100単位/人だとします。この場合、必要な労働力は10人(=1000単位÷100単位/人)となることは子供でも分かります。
また生産量は、その生産物に対する有効需要(貨幣のうらづけのある需要)によって決まります。もちろん、企業は需要を予測して生産に踏み切るかもしれませんが、売れ行き不振で在庫が増えれば、生産を縮小します。つまり、最終的には、企業は有効需要に王位て生産することに疑いはありません。
それでは、貨幣賃金率を引き下げた場合、この実質有効需要(生産量)は本当に増えるのでしょうか?
これに対して「増加する」と答える人は、どのような根拠をもってそのように言えるのでしょうか? ケインズは、このように答える人に対してまず論理的な誤りを指摘します。
もし貨幣賃金率が引き下げられたとき、ceteris paribus(その他の条件が等しいならば)、つまり社会全体の貨幣表示の総有効需要(金額)が不変という仮定を置くならば、確かに雇用は増えるかもしれません。それは貨幣賃金率の引き下げと雇用量の拡大が瞬時に行われることを意味しており、wN=w’N’ (N’>N、w’>w)となります。もちろん、その際、新しい雇用量に応じた生産量(実質有効需要)が即座に生まれるということも前提=仮定されていることになります。
しかし、これは特定の仮定を置いたから成立するトードロジーに他なりません。あらかじめ結果が成り立つという仮定の上で結果を導いているだけですから、成り立つのは当たり前です。これを同義反復(tautology)と言い、ケインズは冷笑したわけです。
リアルタイムの中で経済諸活動が営まれている現実の世界では、貨幣賃金率の引き下げが決して実質有効需要(生産量)を増やすことはない、むしろこれがケインズの推論であり、実証することに成功した事実でした。
しかも、後日談ですが、ケインズが不覚にも認めた公準自体が誤りであることが、次々に明らかになりました。
先ず1930年代以降に実施されたオックスフォード経済調査が「規模(労働)に関する収穫逓減」の法則を否定し、短期においても、実質賃金率が雇用量の減少関数だと主張する根拠が失われました。この事実は、その後米国で行われた調査(1950年代のアイトマンとガスリー、1990年代のアラン・ブラインダー他の調査)でも確認されています。
さらにケインズの『一般理論』の刊行後、彼の教え子・弟子だったターシス、他、それにケインズとは独立に有効需要の原理にもとづく経済学を樹立していたカレツキなどが、貨幣賃金率と実質賃金率の関係について、『一般理論』の想定には反するけれども、むしろケインズの主張にとっては有利な(あるいはピグーの主張にとっては不利な)発見を行います。現在のポスト・ケインズ派は、こうした事実を前提としています、
さて、長々とした説明になりましたが、結論を言うと、経済は貨幣賃金を引き上げた方が活性化するように出来ている(つまり賃金主導)というのが、経済社会の実相だということです。(もちろん、労働生産性の上昇率をはるかに超えるような極端な引き上げは別です。念のため。)
しばしば世間では、失業(つまり雇用の不足)を労働者の高賃金のせいにし、賃金を抑制するために、雇用の柔軟化(最低賃金の引き下げや廃止、失業保険制度の廃止や縮小、労働組合の団体交渉権の縮小、解雇規制の撤廃など)を求める保守的な政治家で一杯ですが、そうした主張には根拠がなく、逆に悲惨な結果を招くだけで終わってしまう、というのが実相です。実際、近年、多くの国で賃金が抑制され、かつ高失業となっています。
マルク・ラヴォアやサールウォールの著書もこうした見解を批判し、ケインズ以降の正しい経済学にもとづいて事態を説明し、適正な政策提言を行うために書かれています。同書は、雇用柔軟化の政策と賃金抑制が消費需要を抑制し、またそのため生産能力を拡大するための投資需要を抑制し、その結果、雇用の縮小と高失業、技術の停滞をもたらしていることを説得的に論じています。
次にその内容をかいつまんで紹介することにします。
2015年5月23日土曜日
バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』(In praise of idleness)
現代の経済では、(設備)投資によって技術が発展し、労働生産性が上昇します。したがって人々が前と同じ時間働けばモノがより沢山生産されるようになり、そこで人がより沢山消費しなければ、生産しても売れないという過剰生産(または過小消費)になります。それは一部の人々が過剰となり失業するという事態を招きますが、これは言うまでもなく不況というべき事態に他なりません。
では、どうしたらよいでしょうか? これに対するイギリスの高名な哲学者、バートランド・ラッセルの回答は簡潔明瞭で、一人一人が働く時間を減らせばよいというものです。つまり彼は(昨日のポール・ラファルグと同じく)「怠惰」(idleness)を賞賛したのです。
この単純な、しかし高遠な真理を理解しない人が経済学者の中にも多数います。
そして、そういった人たちは、失業の原因を「高い実質賃金」に求めたり、彼らが「高い実質賃金」の原因と考える政府の労働保護政策(最低賃金制度、失業保険制度、解雇規制、団体交渉権の容認など)を非難し、労働市場の柔軟化を推進しようとします。
もっと真面目で有能な経済学者、例えばマルクスやケインズ、カレツキ、カルドア、ガルブレイスなどは、もちろん雇用量(労働需要)が生産量の増加関数であり、労働生産性の減少関数であることを理解していました。
簡単に数式で示すと次の通りです。
N’=Y’ーλ’ 労働需要の増加率=生産の増加率ー労働生産性の増加率
これは次のように書き換えることもできます。
Y’=N’+λ’
これらの式の意味は、例えばGDPが2%成長するとき、労働生産性が1.5%成長するならば、0.5%が雇用量(必要とされる労働時間)の成長に当てられる、といったようなことです。
この場合、例えば人口(より正確には人々の総労働時間)が1%増えているような経済では、失業者は増えるでしょう。しかし、それでも、(簡単のため単純化すると)各人が自分の労働時間を1%ずつ減らすことができれば(ワークシェアリグすれば)、失業者が増えることはありません。
もちろん完全にさぼろうというわけではありません。労働生産性の成長に応じて少しずつレジャー(自由時間)を増やしていくのであり、すばらしいことではありませんか!
もし資本主義体制が労働生産性の上昇に応じて、働く人々の賃金所得を増やしたり、レジャーを増やしてゆくことに成功するならば、その時こそ、資本主義体制は人間の顔をした素晴らしい体制であるとして堂々と自己主張できるはずです。
ところが、上に示したように、実際にはどうもそうしたことを快く思わない人々がかなりいて、失業の原因を高賃金に求めたり、そうした高賃金をもたらしているのが政府の労働保護政策による労働市場の硬直性であるといって、雇用の柔軟化の名の下に、労働条件の低下を求めるわけです。
実際のところは、どうなのでしょうか? 賃金は雇用にどのように関係しているのでしょうか? 近年のOECD諸国の経済実態に即して少し紹介しておきたいと思います。が、その際も、上式が雇用と失業の問題を考える際の基本的な式であることを頭に入れておき、忘れないように願います。
では、どうしたらよいでしょうか? これに対するイギリスの高名な哲学者、バートランド・ラッセルの回答は簡潔明瞭で、一人一人が働く時間を減らせばよいというものです。つまり彼は(昨日のポール・ラファルグと同じく)「怠惰」(idleness)を賞賛したのです。
この単純な、しかし高遠な真理を理解しない人が経済学者の中にも多数います。
そして、そういった人たちは、失業の原因を「高い実質賃金」に求めたり、彼らが「高い実質賃金」の原因と考える政府の労働保護政策(最低賃金制度、失業保険制度、解雇規制、団体交渉権の容認など)を非難し、労働市場の柔軟化を推進しようとします。
もっと真面目で有能な経済学者、例えばマルクスやケインズ、カレツキ、カルドア、ガルブレイスなどは、もちろん雇用量(労働需要)が生産量の増加関数であり、労働生産性の減少関数であることを理解していました。
簡単に数式で示すと次の通りです。
N’=Y’ーλ’ 労働需要の増加率=生産の増加率ー労働生産性の増加率
これは次のように書き換えることもできます。
Y’=N’+λ’
これらの式の意味は、例えばGDPが2%成長するとき、労働生産性が1.5%成長するならば、0.5%が雇用量(必要とされる労働時間)の成長に当てられる、といったようなことです。
この場合、例えば人口(より正確には人々の総労働時間)が1%増えているような経済では、失業者は増えるでしょう。しかし、それでも、(簡単のため単純化すると)各人が自分の労働時間を1%ずつ減らすことができれば(ワークシェアリグすれば)、失業者が増えることはありません。
もちろん完全にさぼろうというわけではありません。労働生産性の成長に応じて少しずつレジャー(自由時間)を増やしていくのであり、すばらしいことではありませんか!
もし資本主義体制が労働生産性の上昇に応じて、働く人々の賃金所得を増やしたり、レジャーを増やしてゆくことに成功するならば、その時こそ、資本主義体制は人間の顔をした素晴らしい体制であるとして堂々と自己主張できるはずです。
ところが、上に示したように、実際にはどうもそうしたことを快く思わない人々がかなりいて、失業の原因を高賃金に求めたり、そうした高賃金をもたらしているのが政府の労働保護政策による労働市場の硬直性であるといって、雇用の柔軟化の名の下に、労働条件の低下を求めるわけです。
実際のところは、どうなのでしょうか? 賃金は雇用にどのように関係しているのでしょうか? 近年のOECD諸国の経済実態に即して少し紹介しておきたいと思います。が、その際も、上式が雇用と失業の問題を考える際の基本的な式であることを頭に入れておき、忘れないように願います。
2015年5月21日木曜日
万国の労働者よ、競争せよ!?
今から20年ほど前に英国・ロンドンのハーゲート墓地にマルクスの墓を見にいったことがあります。
入口に中年の女性がいて料金を受け取り、かつ案内をしていましたが、別のある人から事前に言われていた通りでした。彼女は私のめあてがマルクスの墓であることを見抜き、「マルクス? この道をずっと行きなさい。途中左に曲がることがあっても、決して右に曲がってはいけません。」と注意してくれました。(この意味はお分かりと思いますが、・・・。)
さて、墓には「万国の労働者よ、団結せよ!」(Workers of All Countries, Unite!)というスローガンが書かれていましたが、今私が思うのは、そのスローガンがいまやグローバル化の進展とともに、「万国の労働者よ、競争せよ!」(Workers of All Countries, Compete!)となっていることです。
実際、グローバルなメガ競争の条件下で生き延びるには、低賃金・長時間労働を耐え忍びなさい、さもなければ失業しますよ、というトレードオフの主張がマスコミを通じて宣伝され、人々の常識になった感があります。
しかも、私が驚くのは、どう考えても将来は企業に雇われて働く労働者(従業員)となるであろうと推測される学生の中にも、(明らかに自分の利益に反するにもかかわらず)それに積極的に同調する人がいるようだということです。が、その点は置いておきましょう。
問題は、現在のような生産年齢人口が減少しつつあり、したがって社会全体の総需要=総生産が停滞しているような状況の中では、競争の激化が多くの働くサラリーマン諸氏にとって苦しい状況を生み出すという点にあります。
ちょっと考えてみてください。人口も増加したけれど、それ以上に総需要が急速に拡大していたようなかつての黄金時代であれば、一人一人のセールスマンは販売量を拡大することができたでしょう。しかし、総需要が増えない現在では、一人が売上げを増やせば、他の誰かの売上げがかならず低下します。それは花札のように合計点がゼロになるゼロサムゲームのようなものです。
このような状況では、勝者の出現とともに必ず敗者が出ます。多くの人が激しいストレスを感じて、脱落すること必至です。企業内の労働生産性も当然低下します。また社会は心身ともに病んだ人々で一杯になるでしょう。犯罪者も増えるかもしれません。
このような時に精神論をぶってもむだです。ヤマト魂と竹槍で近代装備の米軍に勝てないように、原理上無理なのですから、どうしようもありません。
ではどうしたらよいでしょうか?
総需要を増やせばよいかもしれませんが、人々にとって不要なものを無理して生産して売っても、人々が豊かになるわけではありません。
しばしば国内で売れないならば、外国への輸出を拡大すればよいという主張をする人がいますが、よくよく考えてみましょう。われわれは自分たちで消費もしない(つまり自分の豊かさに関係ない)モノを何が楽しくて自分たちの苦役によって外国人のために生産しなければならないのでしょうか? それとも今買いたいものはないけれど、将来のためにお金は貯めておきたいということでしょうか? これは苦役によってお金を貯めることを意味しますが、私の意見では、苦役によって心身を消耗させ、結局、医療費にお金を使うことになるよりは、楽しく自由な時間を過ごした方がいいように思います。
もっといいのは、ワークシェアリングによって一人あたりの労働時間を短くすることですが、それは労働者の競争ではなく、団結によってしか実現されないだろうと考えられます。というのは、利潤の増加を目的とする企業はそのようなことを認めたくないでしょうからです。
実は現代の最大の問題は、こうした企業の利己的な行動原理にあると考えられます。実に企業はしばしば生産能力を拡大するために必要以上に設備投資をすることがありますが、その結果、固定費が増加して以前より販売量を増やさないと利潤を増やせなくなったり、費用の増加を人件費のカットでまかなったりするためにリストラするという行動に走ったりします。もちろん、黒田さんがどんなに異次元の金融緩和をしても事態はかわりません。問題は貨幣供給(日銀当座預金)の不足にあるのではないのですから。
私はここで社会主義を実現しようと提案するわけでは決してありませんが、「万国の労働者よ、団結せよ!」が社会全体の共生を実現する上で、実に素晴らしいスローガンであったと思わずにはいられません。
入口に中年の女性がいて料金を受け取り、かつ案内をしていましたが、別のある人から事前に言われていた通りでした。彼女は私のめあてがマルクスの墓であることを見抜き、「マルクス? この道をずっと行きなさい。途中左に曲がることがあっても、決して右に曲がってはいけません。」と注意してくれました。(この意味はお分かりと思いますが、・・・。)
さて、墓には「万国の労働者よ、団結せよ!」(Workers of All Countries, Unite!)というスローガンが書かれていましたが、今私が思うのは、そのスローガンがいまやグローバル化の進展とともに、「万国の労働者よ、競争せよ!」(Workers of All Countries, Compete!)となっていることです。
実際、グローバルなメガ競争の条件下で生き延びるには、低賃金・長時間労働を耐え忍びなさい、さもなければ失業しますよ、というトレードオフの主張がマスコミを通じて宣伝され、人々の常識になった感があります。
しかも、私が驚くのは、どう考えても将来は企業に雇われて働く労働者(従業員)となるであろうと推測される学生の中にも、(明らかに自分の利益に反するにもかかわらず)それに積極的に同調する人がいるようだということです。が、その点は置いておきましょう。
問題は、現在のような生産年齢人口が減少しつつあり、したがって社会全体の総需要=総生産が停滞しているような状況の中では、競争の激化が多くの働くサラリーマン諸氏にとって苦しい状況を生み出すという点にあります。
ちょっと考えてみてください。人口も増加したけれど、それ以上に総需要が急速に拡大していたようなかつての黄金時代であれば、一人一人のセールスマンは販売量を拡大することができたでしょう。しかし、総需要が増えない現在では、一人が売上げを増やせば、他の誰かの売上げがかならず低下します。それは花札のように合計点がゼロになるゼロサムゲームのようなものです。
このような状況では、勝者の出現とともに必ず敗者が出ます。多くの人が激しいストレスを感じて、脱落すること必至です。企業内の労働生産性も当然低下します。また社会は心身ともに病んだ人々で一杯になるでしょう。犯罪者も増えるかもしれません。
このような時に精神論をぶってもむだです。ヤマト魂と竹槍で近代装備の米軍に勝てないように、原理上無理なのですから、どうしようもありません。
ではどうしたらよいでしょうか?
総需要を増やせばよいかもしれませんが、人々にとって不要なものを無理して生産して売っても、人々が豊かになるわけではありません。
しばしば国内で売れないならば、外国への輸出を拡大すればよいという主張をする人がいますが、よくよく考えてみましょう。われわれは自分たちで消費もしない(つまり自分の豊かさに関係ない)モノを何が楽しくて自分たちの苦役によって外国人のために生産しなければならないのでしょうか? それとも今買いたいものはないけれど、将来のためにお金は貯めておきたいということでしょうか? これは苦役によってお金を貯めることを意味しますが、私の意見では、苦役によって心身を消耗させ、結局、医療費にお金を使うことになるよりは、楽しく自由な時間を過ごした方がいいように思います。
もっといいのは、ワークシェアリングによって一人あたりの労働時間を短くすることですが、それは労働者の競争ではなく、団結によってしか実現されないだろうと考えられます。というのは、利潤の増加を目的とする企業はそのようなことを認めたくないでしょうからです。
実は現代の最大の問題は、こうした企業の利己的な行動原理にあると考えられます。実に企業はしばしば生産能力を拡大するために必要以上に設備投資をすることがありますが、その結果、固定費が増加して以前より販売量を増やさないと利潤を増やせなくなったり、費用の増加を人件費のカットでまかなったりするためにリストラするという行動に走ったりします。もちろん、黒田さんがどんなに異次元の金融緩和をしても事態はかわりません。問題は貨幣供給(日銀当座預金)の不足にあるのではないのですから。
私はここで社会主義を実現しようと提案するわけでは決してありませんが、「万国の労働者よ、団結せよ!」が社会全体の共生を実現する上で、実に素晴らしいスローガンであったと思わずにはいられません。
怠ける権利 または労働(苦役)からの解放
有名なマルクスの娘婿、ポール・ラファルグの著書に『怠ける権利』(Le Droit a la Paresse)という本(パンフレット)があります。
これを見て、道学者はなんとふざけたことをと言うかもしれません。いや、道学者でなくても、多くの人もそう思うかもしれません。
しかし、私は決してそうは思いません。むしろ、その通りとさえ考えます。
また歴史上多くの著名な経済学者もそのように考えてきました。ただ「怠ける権利」という言葉を使う代わりに、別の言葉を用いているにすぎません。
マルクスなら「労働からの解放」(Befreihung von Arbeit)といったでしょう。彼の時代には多くの「労働貧民」(これは私の言葉ではなく、当時の用語です)が長時間労働を強いられていました。一日、16時間労働が普通だった時代です。そんなとき、苦役からの解放は(実際に苦役をしている人にとって)いかに人間的な要求だったでしょうか。労働時間の縮小は、当時の上流の非勤労階級にとっては経済社会を破壊するような、とんでもない要求だったでしょうが、多数の庶民にとっては切実な要求だったに違いありません。(もっともそれは実現不可能な事柄としてあきらめられていたでしょうが。)
さて、それから百数十年がたち、長期経済統計の示すところでは、労働生産性が数十倍になりました。これは、文字通りにとれば、一時間あたりの労働によって作りだされる生産物の量が数十倍になったことを意味します。そこで、もしわれわれが19世紀の生活水準に満足するならば、われわれは19世紀の数十分の一の時間だけ働けばよいことになります。もとより、そうは言っても、一方では19世紀の生活水準に満足できないでしょうし、また労働生産性が数十倍に増えたという統計をそのまま真に受けることができないことも言うまでもありません。(竹中という経済学者は、そのことを信じており、われわれの生活水準が労働生産性の上昇分による実質所得増加分上がったと述べていますが、それは事実ではありません。というのは、簡単に言えば、19世紀と現在では生産物の内容・構成が異なるからです。)
しかし、この点を割り引いて考えてみても、現在の労働時間はせいぜい19世紀の半分になったにすぎないことは府におちません。もちろん、かなり短くなったのだからよいではないかと主張する人がいるかもしれませんが、それは労働=勤労を神聖視・労働絶対化の見解に他なりません。
このことに対して違和感を表明した著名な経済学者はたくさんいます。古くはジョン・スチュアート・ミルがそうであり、J.M.ケインズがそうでり、またJ.K.ガルブレイスもそうでした。
なぜわれわれの住んでいる現代経済(資本主義経済体制)では、豊かさが実現されたといわれながら、人々は労働(苦役)からの解放ではなく、より多くの富(財とサービス)を生産するために駆り出されるのでしょうか? ひとびとは、労働生産性が上昇したとき、ワークシェアリング(一人あたりの労働時間の縮小)による完全雇用の実現をめずすのではなく、特定の人々を失業させ、その上、彼らを道徳的に非難するのでしょうか? これが彼らの解明すべき一つの大問題でした。
19世紀の経済学者はまた労働の解放を語るときに、「労働における解放」、つまり労働が楽しい人間的な活動となることを夢見ました。しかし、現在でも多くの人にとって労働は苦役(toil and trouble)であり続けています。その最たるものは、ブラック企業によって酷使されている若者でしょう。私は、個人的に現代の企業社会の中で激しいストレス(精神的抑圧)を毎日感じ、そこから解放されたいと願っている人々を沢山知っています。
現代の経済学者の中には、このような問題を提起すること自体を非難し、人々をより低賃金で長時間はたからせるべきと考える(主張する)人々が沢山います。J.K.ガルブレイスが皮肉ったように、新古典派の労働市場論はその典型的な「理論」です。(「新古典派の主張は次の2点に要約できる。豊かな人は所得が少なすぎるために働かず、貧しい人は所得が多すぎるために働かない。」)
この文章を読む人は、私のことをジョン・レノンの歌のような夢想家(dreamer)と考えるかもしれません。たしかに、現代の体制を前提とする限り、そうかもしれません。しかし、19世紀以来の偉大な経済学者たちが考えた労働の解放(労働からの解放、労働における解放)の理想と、豊かになったといわれている現代になお根強い成長主義・生産主義・労働強迫症の見解のうち、どちらが人間的のか、経済学を学人はよく考えてみるべきではないでしょうか?
これを見て、道学者はなんとふざけたことをと言うかもしれません。いや、道学者でなくても、多くの人もそう思うかもしれません。
しかし、私は決してそうは思いません。むしろ、その通りとさえ考えます。
また歴史上多くの著名な経済学者もそのように考えてきました。ただ「怠ける権利」という言葉を使う代わりに、別の言葉を用いているにすぎません。
マルクスなら「労働からの解放」(Befreihung von Arbeit)といったでしょう。彼の時代には多くの「労働貧民」(これは私の言葉ではなく、当時の用語です)が長時間労働を強いられていました。一日、16時間労働が普通だった時代です。そんなとき、苦役からの解放は(実際に苦役をしている人にとって)いかに人間的な要求だったでしょうか。労働時間の縮小は、当時の上流の非勤労階級にとっては経済社会を破壊するような、とんでもない要求だったでしょうが、多数の庶民にとっては切実な要求だったに違いありません。(もっともそれは実現不可能な事柄としてあきらめられていたでしょうが。)
さて、それから百数十年がたち、長期経済統計の示すところでは、労働生産性が数十倍になりました。これは、文字通りにとれば、一時間あたりの労働によって作りだされる生産物の量が数十倍になったことを意味します。そこで、もしわれわれが19世紀の生活水準に満足するならば、われわれは19世紀の数十分の一の時間だけ働けばよいことになります。もとより、そうは言っても、一方では19世紀の生活水準に満足できないでしょうし、また労働生産性が数十倍に増えたという統計をそのまま真に受けることができないことも言うまでもありません。(竹中という経済学者は、そのことを信じており、われわれの生活水準が労働生産性の上昇分による実質所得増加分上がったと述べていますが、それは事実ではありません。というのは、簡単に言えば、19世紀と現在では生産物の内容・構成が異なるからです。)
しかし、この点を割り引いて考えてみても、現在の労働時間はせいぜい19世紀の半分になったにすぎないことは府におちません。もちろん、かなり短くなったのだからよいではないかと主張する人がいるかもしれませんが、それは労働=勤労を神聖視・労働絶対化の見解に他なりません。
このことに対して違和感を表明した著名な経済学者はたくさんいます。古くはジョン・スチュアート・ミルがそうであり、J.M.ケインズがそうでり、またJ.K.ガルブレイスもそうでした。
なぜわれわれの住んでいる現代経済(資本主義経済体制)では、豊かさが実現されたといわれながら、人々は労働(苦役)からの解放ではなく、より多くの富(財とサービス)を生産するために駆り出されるのでしょうか? ひとびとは、労働生産性が上昇したとき、ワークシェアリング(一人あたりの労働時間の縮小)による完全雇用の実現をめずすのではなく、特定の人々を失業させ、その上、彼らを道徳的に非難するのでしょうか? これが彼らの解明すべき一つの大問題でした。
19世紀の経済学者はまた労働の解放を語るときに、「労働における解放」、つまり労働が楽しい人間的な活動となることを夢見ました。しかし、現在でも多くの人にとって労働は苦役(toil and trouble)であり続けています。その最たるものは、ブラック企業によって酷使されている若者でしょう。私は、個人的に現代の企業社会の中で激しいストレス(精神的抑圧)を毎日感じ、そこから解放されたいと願っている人々を沢山知っています。
現代の経済学者の中には、このような問題を提起すること自体を非難し、人々をより低賃金で長時間はたからせるべきと考える(主張する)人々が沢山います。J.K.ガルブレイスが皮肉ったように、新古典派の労働市場論はその典型的な「理論」です。(「新古典派の主張は次の2点に要約できる。豊かな人は所得が少なすぎるために働かず、貧しい人は所得が多すぎるために働かない。」)
この文章を読む人は、私のことをジョン・レノンの歌のような夢想家(dreamer)と考えるかもしれません。たしかに、現代の体制を前提とする限り、そうかもしれません。しかし、19世紀以来の偉大な経済学者たちが考えた労働の解放(労働からの解放、労働における解放)の理想と、豊かになったといわれている現代になお根強い成長主義・生産主義・労働強迫症の見解のうち、どちらが人間的のか、経済学を学人はよく考えてみるべきではないでしょうか?
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