私にとって、フランスは非常に興味をひく国の一つです。まず1789年にはじまるフランス革命のスローガン「自由、平等、博愛」(liberte, egalite, et fraternite)が気になります。これに対して1640年代のイギリスの内戦は、責任内閣制にもとづく議会制政治をもたらし、「自由」を実現したということができますが、そこには「平等」がありません。近代イギリス経済史の上でも、近代性が強調されながら、17〜19世紀に土地の所有権は、ジェントリー(gentry)、つまり本来的には封建制時代の封建領主(諸侯、騎士)に由来する階層または彼らから土地の領有権・所有権を買い取った富裕な商人たちに帰します。農夫たち(farmers)は、例え村落内では農業労働者(奉公人、小屋住みに由来する階層)を雇う富裕層であるとしても、借地権者(tenants)に他なりません。
ただし、イングランドは、一子相続制の国だという通説に対して、実際上は均分相続が行われていたとする異説がないわけではありません。ジョアン・サースク(J. Thirsk)などがその一人であり、外見上兄の単独相続であっても、弟の独立時に兄が財産の一部を分け与えるので、実際上は分割相続が行われる場合があったと主張されています。しかし、そうだとすると、イングランドやスコットランドにおける多数の奉公人と小屋住みの形成は、その場合にどのように説明されるのか疑問が残ることになります。
これに対してフランスでは家族史の上でも「自由」と「平等」が大きな主題となっています。そもそもフランス革命中にジャコバン派は、封建的特権を無償で廃止するというかなり急進的・平等主義的な変革を行いました。トッド氏は、フランスの政治史上の自由・平等と家族史上の自由・平等の一致は決して偶然ではないと言いますが、私も密かにその意見に賛成です。
さて、フランスの家族史の研究者は、フランスが3つの地域に大別されるという点で一致を見ているようです。法制史家のジャン・イヴェールやそれに依拠して相続および家族のありかたを整理した社会史家のエマニュエル・ル=ロワ=ラデュリも基本的に3つの類型を区別しています。1983年に出版された『家の歴史社会学』(新評論)にラデュリの論文が掲載されており、二宮宏之氏による整理が掲載されていますし、また安岡重明氏の論文(「日欧の家産単独相続に関する覚書」*)もそれに触れていますので、詳しくはそちらに譲りたいと思いますが、それらを参考にして簡単に要約すれば、次のようになるかと思います。
*http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00008269&elmid=Body&lfname=007000470001.pdf
なお、この論文には、相続慣行の分布図がつけられており、各相続類型の地理的な分布を知るのに役立ちます。
A 一子優先型(地域的には南部のオック語の地域からその北部周辺部にかけて)
ここでは子供の中の一人(主に長男)に優先継承権(preciput)が認められており、親は遺言によって特定の子供を優位に置くことができる。
B 均分相続型(西部のノルマンディー、ブルターニュ地方など)
ノルマンディーのように、男子間の均分相続とされて女子が排除される場合もあるが、多くの場合には男女を区別しない均分相続を特徴とする。相続以前に婚資などの形で財産の贈与を受けていた場合、相続の際、その分をいったん遺産に「持ち戻す」(raporter)ことを強制される。
C 中間的解決(オルレアン、パリ盆池など)
AとBの「中間的解決」の型。この型の原型においては、生前贈与を受けた者は相続から排除され、他の者の間で均分相続が実施された。しかし、16世紀以降に新しい型が行われるようになり、生前に贈与を受けた者も、その分を持ち戻すことによって相続に参加することを許される。いわゆる中間的解決であり、選択許容型である。
D この他にノルマンディーのコオ地方に完全な長子相続型が存在したが、この型はフランスでは例外的であった。
問題は、こうした相続慣習の類型がどのような家族類型に関係しており、またどのような経済事情と結びついていたかにあります。
まず、A(一子優先型)が出来るだけ家族(経営)の分割を避け、永続的家族財産を守ろうとする家族戦略と関連していたことは明らかです。しかし、この相続戦略の問題点が、特に人口が急速に増加している時期に、多数のプロレタリア(土地なし)を生み出すことにあります。このことはすでにイングランドやドイツの場合に関連して触れました。
では、西部のB(均分相続型)の場合はどうでしょうか?
前回、帝政ロシア・ソビエト初期の共同体家族における均分相続の問題を簡単に見ておきましたが、同様なことがフランスでも生じていたのでしょうか?
イヴェールとラデュリの明らかにしたところによれば、フランス西部における事情はかなり異質です。そこでは次の2点が強調されています。
1 人々は、家族の「土地の細分化の危険性」に対しては無関心であり、それよりは夫婦それぞれの家系(系族、lineage)の価値を優先させる。その定式は、「父親の財産は父方の家系の人々に、母親の財産は母方の家系の人々に」であり、この規則は厳格に適用される。18世紀のある法学者は、こうした西部の土地制度を評して、「父方と母方の親族は、共同相続人ではない。彼らは共通のものを何一つ持たない。そして、父方の親族よりも、むしろ土地の領主が母方の親族の遺産を相続する」という。
つまり、こういうことです。ある夫婦について、夫は父方および母方それぞれの系族の財産を相続し、妻も父方および母方のそれぞれの財産を相続し、それらの財産はそれぞれ子供たち(息子と娘)に伝えられてゆく。しかし、もし相続するべき子供がいない場合には、財産はさかのぼって各系族の人々に相続されるか、(それができない場合には)領主や徴税請負人に与えられる、と。
2 そこで、家族関係の核心をなす夫婦の統一に関しても無関心とされる。「夫婦二人は、異なる家系から出て、やがて死すべき存在として一時的に結合しているに過ぎない(!)」という。
ところで、それにしても、近代に人口が増加したとき、「土地の細分化の危険性」は現実のものとならなかったのでしょうか?
たしかにフランスについては、「分割地農民」(農地を細分化された(parcelliser)農民)が経済史の教科書にも出てきます。しかし、フランスの当該地域(西部のブルターニュやアンジュ地方など)では、そもそも農地の主要部分が自作農(fermiers)の保有する土地であると考えることが正しくないのかもしれません。
というのは、確かにA(一子優先型相続)の地域は、自作農が優勢な地域でしたが、それに対してBの支配的な西部は、小作制と大規模経営の支配的な地域でもあったからです。つまり、西部では村落家族は、かなりの程度に土地を持たない・プロレタリア化されていたため、生産手段としての土地=永続的家族財産を維持することに関心を持たずにいることが出来たと考えられます。この点は、フランス革命時の土地革命におけるこの地方の対応を検討することからもうかがえます。
C 中間的解決の地域(オルレアン、パリ盆池)
上に上げた2つの体系に対して、中間的解決の体系は、少し複雑です。
第一に、「法の最も古い成層」で優越しているのは父と母の意志(つまり遺言)でした。それは保有地を細分化しないようにという配慮とも関係していたことは間違いありません。そのために適用された慣習法の条項は、次のようなものでした。つまり、両親は家を離れて他所で結婚する子供(息子、娘)にいくぶんかの贈与を与え、これらの「独立した子供たち」を遺産相続者から排除しましたが、一方、家に(未婚のまま)とどまって老齢期の両親の面倒をみる子供(息子、娘とも)に対しては、「単純な平等」(均分相続)を保証しました。
この体系は、平均的に二人を少し超える子供が結婚可能な年齢に達するという古い形の人口誌にはよく適合していたと考えることができます。つまり、生き残った二人の子供のうちの一人(主に男子)は両親と同居し、そして時が至れば(つまり家長が亡くなれば)遺産の相続をするように定められていました。また、もう一人の子供(多くの場合、娘)は、適当な時に婚資(という名の贈与)を与えて排除すればよい、というわけです。
しかし、このオルレアン=パリ型の慣習法は、ルネサンス期から(14世紀以降)変化してゆきます。13〜15世紀以来、パリとアミアンの慣習法は、家を離れる子供たちのために緩和策をとっていたが、その一つは、子供たちの婚姻契約書の中に贈与の取消し(rappel)という特別条項を入れた場合、両親が死亡し相続が行われるときに、贈与を取り消した上で、遺産の分け前を要求することができるというものでした。ただし、当時、書面による契約のもとに結婚できるような農民は希だったに違いありません。
1510年頃、パリ周辺で新しい慣行が樹立されました。この新たな慣行は、選択と持戻しという2つの言葉で要約されます。またそれは、「何人も受贈者であり、相続人であることはできない」という規定に示されます。つまり、ひとたび贈与を受けて家を離れた人も相続のときにかつての贈与を取り消し、贈与分を持ち戻すことによって相続に参加できることになりました。贈与を取り消すことなく相続に参加しないか、贈与を取り消して相続に参加できるか、そのいずれかを選択することができるというのが新しい慣習法の精神です。(ちなみに、フランスでもローマ法=制定法の世界は、南部に限られており、中央部から北部にかけては慣習法が大きな力を持っていました。)
こうしてパリ盆池周辺では、16世紀以降、より柔軟で寛容な法の下で、農民保有地の細分化をもはや阻止できないようになってきます。そして、そこでは、帝政ロシアの場合のように権威主義的な複合大家族、または共同体家族(父母の下で結婚した兄弟が同居するようなタイプの家族)ではなく、小さな核家族がますます支配的になってゆきます。
夫婦と未婚の子供たちからなる核家族と平等な相続。これはフランス民法典に示されるきわめて近代的な家族制度ということができます。
しかし、それは工業化以前の伝統的社会の中でどのようにして可能となったのでしょうか? またそれはロシアや中国のような国が抱えこむことになった「土地不足」「農村過剰人口」の問題をもたらすことはなかったのでしょうか?
この問題を説く鍵の一つは、パリ盆池が近代に多数の農業労働者をかかえる大経営の地域となっていたことにあります。そもそもパリ盆池は、自営農の地域ではなく、プロレタリア化した村落住民の地域となっていました。
多様な家族類型を持つフランス。この多様性は、フランス革命時の土地革命に際しても現れてきます。
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