それでは、東アジア、特に中国についてははどうでしょうか?
東アジア史は私のまったくの専門外ですが、素人ながらに少しばかり調べたことを記してみたいと思います。
まず歴史的な気温変化が問題ですが、とりあえずNOAAのデータから中国(西部と東部、北京)に関するデータ(5図)をあげておきます。
NOAAのサイト上の Shi, Shihua, Ge, Yang のデータより作成。
北京の黒線は、11カ年移動平均値による。 ftp://ftp.ncdc.noaa.gov/pub/data/pa/
はっきりとはわかりませんが、これらの上図から推測すると、14世紀から17世紀にかけて気温が大きく低下した時期が中国でもあったと考えられます。
この時期は中国では明から清初の時期ににあたりますが、この頃に寒冷化が中国社会に大きな影響を与えたことを示唆するような歴史的事象は認められるでしょうか?
私が読んだ限りでは、中国史(明史、清史)の研究書には、それを明示的に示すものはありませんでした。しかし、人口史と政治史の研究書の中にきわめて注目される指摘をいくつか発見することができました。
まず人口史から。周知の通り、元朝のあとに成立した大明国では、1381年、洪武帝が全国で戸口調査を行い「黄冊」という戸籍簿を作成しました。この時、実施された制度が里甲制度です。一般人民を構成するすべての「民戸」はこの戸籍に登録され、各県の下に里が置かれました。一里は110戸からなり、そのうち10戸は里長を交代で行う戸、残りの100戸は各々10戸ずつの甲に分けられるという制度です。もちろん、この黄冊にもとづいて賦役と租税が里・甲・民戸に割り当てられました。なお、兵役に従事する軍戸については、県とは別に「衛」が設けられていました。各衛の定員は兵士5600人であり、それは5つの千戸所(定員1120人)に分けられ、さらに各千戸所は10の百戸所(定員112人。うち下士官12人、兵士100人)に分けられました。
さて、明国ではこのようにして戸と人口が把握されましたが、それはどのように変化したでしょうか?
実はこれがかなりややこしい。
まず戸籍簿に登録された人口については、数値に疑問の余地はなく、次図に示すように16世紀後半から17世紀の中葉にかけて人口はかなり減少しています。(王育民『中国人口史』、江蘇人民出版社、1996年のデータより作成。)
なお、明の光宗帯泰昌元年(1620年)の調査(明憙宗実録巻四)では、合計で984万戸、5166万人が数えられましたが、その31年後の1651年(清世祖順治八年)の調査(清実録世祖巻六十一)では人口は1063万人へと5分の1に激減しています。しかし、この減少の少なくとも一部は、明と清の人口調査の方法の相違によって説明されます。つまり明朝ではすべての人口(男女とも)が調査対象となりましたが、清朝では、「丁」(15〜60歳の男性)だけを人口調査の対象とするように変えましたので、明朝のデータと直接接続することはできません。そこで、1651年以降については、丁と人口の比率を推計し、調整した数値を点線で示しています。
しかし、この点を考慮しても、人口統計から見る限り、なお明末・清初には注目するべき異変(減少)が生じていたことは間違いありません。
ただし、この結論を導くためには、もう一つ述べておかなければならない点があります。それは戸籍簿に記載された人口が当時の民戸およびその全人口を捉えているか否かという点です。これに関連して、これまで多くの研究者は、明・清朝の一般人口だけでなく、官僚たちも国税の支払を出来るだけ少なくするために、戸口と人口を過小に評価していると考えてきました。
さて、明国ではこのようにして戸と人口が把握されましたが、それはどのように変化したでしょうか?
実はこれがかなりややこしい。
まず戸籍簿に登録された人口については、数値に疑問の余地はなく、次図に示すように16世紀後半から17世紀の中葉にかけて人口はかなり減少しています。(王育民『中国人口史』、江蘇人民出版社、1996年のデータより作成。)
なお、明の光宗帯泰昌元年(1620年)の調査(明憙宗実録巻四)では、合計で984万戸、5166万人が数えられましたが、その31年後の1651年(清世祖順治八年)の調査(清実録世祖巻六十一)では人口は1063万人へと5分の1に激減しています。しかし、この減少の少なくとも一部は、明と清の人口調査の方法の相違によって説明されます。つまり明朝ではすべての人口(男女とも)が調査対象となりましたが、清朝では、「丁」(15〜60歳の男性)だけを人口調査の対象とするように変えましたので、明朝のデータと直接接続することはできません。そこで、1651年以降については、丁と人口の比率を推計し、調整した数値を点線で示しています。
しかし、この点を考慮しても、人口統計から見る限り、なお明末・清初には注目するべき異変(減少)が生じていたことは間違いありません。
ただし、この結論を導くためには、もう一つ述べておかなければならない点があります。それは戸籍簿に記載された人口が当時の民戸およびその全人口を捉えているか否かという点です。これに関連して、これまで多くの研究者は、明・清朝の一般人口だけでなく、官僚たちも国税の支払を出来るだけ少なくするために、戸口と人口を過小に評価していると考えてきました。
では、人口はどれほど過小評価もされていたのでしょうか。Kent G. Deng によれば、この点で欧米の研究者はあまりに極端な数字の操作を行ってきたと言えるようです。有名なAngus Maddisonの人口推計でも、明代末に1億5千万人から1億2500万人ほどの水準と推計されています。しかし、このような数値が如何なる根拠によって導き出されたのでしょうか。これについて、K.G. Deng は根拠のない数字の操作(manupilation)に過ぎないと結論づけており、私も以下で示すような点からも、そのような意見に賛成です。またそのような数字の操作を行った研究者の中には、明末・清初に人口が低下せずにずっと増加しつづけたと主張するものもいるようですが、それもかなりあやしいと考えられます。
Fact or Fiction? Re-examination of Chinese Premodern Population Statistics, Department of Economic History of London School of Economics, Working Paper, July, 2003.より。
Fact or Fiction? Re-examination of Chinese Premodern Population Statistics, Department of Economic History of London School of Economics, Working Paper, July, 2003.より。
さて、中国の人口が明末・清初に減少したこと、人口が回復しはじめたのは清朝のある時期からのことであることは、次の研究から明らかになるように思います。
一つは、佐藤文俊氏の『明末農民反乱の研究』(研文出版、1985年)、もう一つは王育民氏の『中国人口史』(江蘇人民出版社、1996年)に示されている「史実」(史料に記載されている事象)です。要約すると次のようになるでしょうか。
・明末(17世紀前半)に中国で大規模な農民反乱が生じ、その中で結局明朝が打ち倒され、清朝が起こりますが、その農民反乱は、飢饉、飢餓、人々の「逃亡」、「土賊」、「流賊」、「流冦」といった言葉に示される変動・事象から生じました。また反乱は、李自成や袁時中のように、華北(甲が以北)で土賊として蜂起し、ついで黄河を南に渡河して「流冦」となりました。
・しばしば研究書は、農民が逃亡によって戸籍簿から逃れる理由として重い賦役と納税を逃れるためとしています。また戦乱も逃亡の理由としてあげられています。しかし、当時の史料は、里甲から逃亡した戸の負担分が(連帯責任のため)残された戸に重くのしかかり、結局は、次々に残された人々が里甲から逃亡せざるを得なくなっているという事情を記載しています。したがって苛斂誅求の他にも理由を求めなければなりません。
・私が読んだ研究書からは、飢饉が寒冷化によるものであるという記載は得られませんでしたが、16〜17世紀に飢饉が頻発したことは疑いないように考えられます。特に1628年(その後、1640年頃)に華北の陝西で生じた大飢饉は、1644年における明朝の滅亡の直接の原因となった出来事と言うことが出来ます。この頃から明国を揺るがす大反乱が生じ、反乱軍はやがて山西省、河北省、河南省、陝西省、四川省、安徽省、湖北省におよぶ大勢力となりました。
そして、その中から李自成が頭角をあらわし、結局、1644年に明朝を滅ぼします。
ちなみに、この時、満州族が中国を支配することになったのは、山海関において清軍に対する防衛にあたっていた呉三桂が満州人と反乱軍の間で孤立したため、満州人に同盟を申し込み、反乱軍を鎮圧したためであり、清朝にとっては中国の支配権が突然ふところに転がりこんできたかたちだったようです(岡田英弘『中国文明の歴史』、講談社現代新書、2004年)。
このように見てくると、寒冷化が中国社会に大きな影響を与えたという「仮説」はかなり有力なように見えてきます。
ただし、もちろんこれですべてが明らかにされたというわけではありません。
そのためには、飢饉、流民、逃亡、反乱などがはたして気候に関連していたのか、綿密な史料的検討が必要になるでしょう。私には、『中国人口史』などで紹介されている史料のいくつかが重要なように思われますが、それについては次回に回します。
一つは、佐藤文俊氏の『明末農民反乱の研究』(研文出版、1985年)、もう一つは王育民氏の『中国人口史』(江蘇人民出版社、1996年)に示されている「史実」(史料に記載されている事象)です。要約すると次のようになるでしょうか。
・明末(17世紀前半)に中国で大規模な農民反乱が生じ、その中で結局明朝が打ち倒され、清朝が起こりますが、その農民反乱は、飢饉、飢餓、人々の「逃亡」、「土賊」、「流賊」、「流冦」といった言葉に示される変動・事象から生じました。また反乱は、李自成や袁時中のように、華北(甲が以北)で土賊として蜂起し、ついで黄河を南に渡河して「流冦」となりました。
・しばしば研究書は、農民が逃亡によって戸籍簿から逃れる理由として重い賦役と納税を逃れるためとしています。また戦乱も逃亡の理由としてあげられています。しかし、当時の史料は、里甲から逃亡した戸の負担分が(連帯責任のため)残された戸に重くのしかかり、結局は、次々に残された人々が里甲から逃亡せざるを得なくなっているという事情を記載しています。したがって苛斂誅求の他にも理由を求めなければなりません。
・私が読んだ研究書からは、飢饉が寒冷化によるものであるという記載は得られませんでしたが、16〜17世紀に飢饉が頻発したことは疑いないように考えられます。特に1628年(その後、1640年頃)に華北の陝西で生じた大飢饉は、1644年における明朝の滅亡の直接の原因となった出来事と言うことが出来ます。この頃から明国を揺るがす大反乱が生じ、反乱軍はやがて山西省、河北省、河南省、陝西省、四川省、安徽省、湖北省におよぶ大勢力となりました。
そして、その中から李自成が頭角をあらわし、結局、1644年に明朝を滅ぼします。
ちなみに、この時、満州族が中国を支配することになったのは、山海関において清軍に対する防衛にあたっていた呉三桂が満州人と反乱軍の間で孤立したため、満州人に同盟を申し込み、反乱軍を鎮圧したためであり、清朝にとっては中国の支配権が突然ふところに転がりこんできたかたちだったようです(岡田英弘『中国文明の歴史』、講談社現代新書、2004年)。
このように見てくると、寒冷化が中国社会に大きな影響を与えたという「仮説」はかなり有力なように見えてきます。
ただし、もちろんこれですべてが明らかにされたというわけではありません。
そのためには、飢饉、流民、逃亡、反乱などがはたして気候に関連していたのか、綿密な史料的検討が必要になるでしょう。私には、『中国人口史』などで紹介されている史料のいくつかが重要なように思われますが、それについては次回に回します。
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