このことを確認する上で重要となるのは、自然科学的な研究以外には、文献的史料です。
実際に、明代末の17世紀前半にかなり後半な地域を捉える大飢饉があったことが史料からも確認されます。いくつかの断片的な記載を以下に記しておきます。
雲南(1601年と1610年)
雲南は四季を通じて気候温暖で、例年は冬でも雪が降らない土地といわれていましたが、17世紀に入り夏(6月)や晩秋(9月)にも大雪が降ったとされています。
『雲南通志』「明神宗万暦二十九年(1601年)九月、雲南大雨雪」
『雲南通志』「明神宗万暦三十八年(1610年)四月壬寅、貴州暴雪、形如土砖、居民片瓦無存者」
『明史記載』「夏六月、雲南臨安大風甚寒、民多有凍死死者、取り雀亦多凍死。」
四川も北方に大八山があるため、北方の寒気流が流れ込んでくることはなく、冬でも温暖な場所と言われています。しかし、史料は、1623年に夏に大雪が降ったことを語っています。
『四川通志』「明熹宗天启三年(1623年)夏五月,四川天降大雪,積数尺,樹枝草茎尽折。」
(以上、http://tieba.baidu.com/p/161656490 より。)
陝西(せんせい)では、明代末の大農民反乱のきっかけとなった1628年の旱魃があり、この頃から大水、大雪、霜、雹、蝗の害、飢饉が深刻となり、疫病がはやり、その中で多数の人々が死亡し、あるいは課税を逃れて逃散し、あるいは飢饉の中で食人さえ行なったことが史料に記されています。
・「死者枕藉、臭気薫天」
・「死亡逃散十分已去其六七」
河南省では、崇禎三年から3年連続で大旱がありました。
・「野無青草、十室九空」
・「黄埃赤地、郷郷凡断人煙、白骨青燐、夜夜常聞鬼哭」
こうした旱魃は、清代になっても続きました。
・「水旱南北同災、直省飢饉開報、・・・大兵、大旱、大水、開集一時。」
・「百姓流亡、十居六七」
(以上、王育民『中国人口史』、江蘇人民出版社、1996年 より。)
(以上、王育民『中国人口史』、江蘇人民出版社、1996年 より。)
日本でも17世紀前半には、寛永の大飢饉が生じています。特に東北地方(青森)から中部地方(岐阜など)にかけての地域で大飢饉が発生しました。
中国の国号の「大明」は太陽のことを示すといわれていますが、実際には気温の低下とともに大明帝国は滅びたと考えられます。
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