2015年2月22日日曜日

ふたたび経済学入門 あわせて主流派(新古典派)の経済学は何故科学ではなかったか

 経済学は、人間の経済行動を明らかにする学問分野ですが、従来の経済学、特に主流派の新古典派経済学には致命的な欠陥があります。このことを抜きにして経済学の入門もありえないと考え、いくつかの事柄を書こうと思います。
 来年度、私の所属する大学の経済学部で、現代政治経済学を久しぶりに講じるので、そのためのメモという意味もあります。

 さて、経済学は経済行動を研究対象としますが、その際、人間の行動の中の一部分(一側面)を取り出して「経済行動」というだけであり、もちろん純粋な経済行動と言うものはありません。したがって以下で経済行動について述べることは、人間の行動全体について当てはまることが多いはずです。

 1)人間行動の縁起性について
    〜新古典派の前提の非現実性(現実離れ)を廃す〜

 最初に述べたいのは次の点です。
 人間の行動は、諸個人を実体と見る態度からは正しく把握できません。
 諸個人を実体と見るとは、個人個人が相互に何らの関係性ももたず、それ自体として様々な判断を行う主体であると考えるということです。難しい哲学的な問答みたいになってきましたが、それほど難しいことを言おうとしているわけではありません。
 例えば経済学部で教えられるミクロ経済学の初歩、需要供給による価格決定の理論を例に取りましょう。そこでは、右下がりの需要曲線の根拠として、「限界効用の逓減」が説かれます。この限界効用の考えこそ、諸個人を<個人個人が相互に何らの関係性ももたず、それ自体として様々な判断を行う主体>の典型です。
 そこでは、ある(代表的な)個人は、例えばリンゴを前にして、最初のリンゴ1個に対して、10の効用を感じ、次の1個に対して9の効用を、さらに次の効用に対して8の効用を・・・という判断を行うと想定されています。そこには、他者の判断・評価が介入する余地はありません。(他者の判断・評価が入ると同時に、事態は複雑系となり、単純な理論は成立しません。これについては、後に詳しく説明します。)その他に、個人が効用を、10、9、8などというように定量化できる(数値化できる)かどうかという大問題がありますが、これもここでは後で論じることにします。

 しかし、私たちは本当に他者から切り離された存在として、それ自身としてリンゴに対して効用を判断しているのでしょうか? またそもそも私たちはリンゴに対して効用だけを感じるのでしょうか? もしそうならば、私たちは人間というよりは効用を測定し(感じ)実現するマシーン(血の通わない・どこか気味の悪い・冷たい存在)ということになるでしょう。

 実際にはそうではありません。これについて、私は仏教で言われる「縁起」ということを考えればよいかと思います。「縁起」という言葉は、現在の日本では手垢にまみれてしまい、本来の意味とはまったく異なる意味で使われています。「縁起がよい」「縁起が悪い」というような用法です。しかし、縁起というのは、本来は例外なくすべての世界事象が相互に関係しているという思想であり、英語では dependent-rising と訳されています。
 例えば私という存在は、私を中心に数えきれないほどの連鎖を通じて様々な世界事象と結びついています。また私以外の個々の人々もそうです。その連鎖は、無限に複雑であり、そのすべてを把握することは不可能です。
 私たちは、その中から私たちの周囲の、私たちにとって主観的に意味のあると思われることを選択し、認識対象としているにすぎません。

 偉大な哲学者、経済学者、宗教者はすべてそのことを理解していました。
 例えば、「金融脆弱性」を明らかにしたミンスキーは、特定の経済理論がある事象に注目し、それを明らかにするレンズの役割を果たすと同時に、様々な事象を覆い隠す役割を演じてしまうことに言及しています。
 仏教にも、日本における禅宗(曹洞宗)の創始者道元の『正法眼藏』の「有時」(うじ)のように深い認識を示した例があります。
 「尽地に万象百草あり。一草一象おのおの尽地にあることを参学すべし。かくの如くの往来は、修行の発足なり。到恁麽の田地のとき、すなわち一草一象なり。会象不会象なり。会草不会草なり。」
 これは時間論とも関係しますので、後にふたたび言及することになるでしょう。

 さて、もし新古典派の述べるように、諸個人の行動が他の何ものにも影響を受けずに、それ自身として決断され、実施に移されるということが正しい(現実の事態である)ならば、マクロ経済学は不要となるでしょう。何故ならば、その場合には、マクロとは諸個人の経済行動の集計であり、それ以外ではないからです。そこで本質的には、マクロをまじめに学問的な研究対象として研究する必要はなく、諸個人の経済行動を説明するミクロ経済学こそが本質的・不可欠の分野ということになります。
 しかし、実際にはそうではありません。むしろミクロ(諸個人の経済行動)がマクロ(社会全体の動き)によって大きく影響を受けています。そのことを明らかにしたのが、J・M・ケインズでした。より正確にいえば、ケインズは「縁起」(dependent-rising)の哲学を理解しており、様々な事象が相互に関係しているがゆえに、単純系の経済が成立しないことを理解していたと考えることができます。それこそが社会、世界の実相だからです。
 
 今日の話しをまとめておきます。
 ・世界事象は、相互に関係しており、それ自体では(孤立しては)存在しない。
 ・新古典派経済学は、その点で現実離れしており、そもそも科学たりえない。
   (故宇沢氏などの表現では、「原子論的個人」という非現実的な想定。)
 ・世界事象の相互関係は意識的に取り上げなければ、研究対象とならない。