2020年2月2日日曜日

労働価値説とは何だったのか? 観念論的形而上学化と経験科学

 大学の経済学部に入学してしばらくしたときのことを今でも思い出す。
 それなりに経済学に関心を持っていた私は、マルクスの『資本論』(岩波文庫本)を読んでみた。周知のように、それは「資本主義的生産様式の社会における富は巨大な商品集積として現われ、個々の商品は富の原基的形態として現れる」という文章から始まり、「商品の分析」に入り、いわゆる労働価値説に進んで行く。

 ところで、労働価値説とは何か? 正直にいって、今でもあまりよく理解しているとは言えないが、ごく大雑把に言えば、資本論では、交換される二つの素材を異にする商品の交換価値は、同質・同量でなければならないとされ、結局、それ(実体)は抽象的人間労働でなければならないとされ、さらに等しい労働量が交換されるという結論に至る。

 ここで、少し後知恵的なことも交えて、当時の私の当惑を記すと、次のようになる。
1)例えば1000円の本と1000円のセーターには、等しい労働量が投下されている(結晶化または対象化されている)ということになるが、それはどのような経験的事実によって確認されたり、保証されるのであろうか?
2) あるいは、本当に等しい価格のものには、等しい労働量が対象化されているのであろうか? 例えば1000円の本にも1000円のセーターにも一時間分の労働が対象化されているのだろうか?
3)それとも、現実はそうはなっていないことは明らかに見えるが、この理論は現実の姿(Sein)を示すというより、むしろ「そうあるべき」(shall, sollen)だということなのであろうか?

 もちろん、18歳以上となれば、それほど子供ではないので、現実には等しい労働量が交換されているなどということは経験的にみて私には信じられなかった。
 しかし、マルクスは、一つには、複雑労働と単純労働が異なっており、前者は後者の何倍かの労働に値すると言っており、また二つめには、個々人の能力が相違していることを前提として「社会的な平均」に言及している。

 しかし、これは、根本的な疑問を持っている人にとって効果的な回答であるようには決してみえない。というのは、マルクス自身が言っているように、現実の商品をどんなに観察しても、そこには生産に要した労働時間などなにも表示されていないからである。
 商品が対象化された労働量に応じて交換、あるいは貨幣を介して売買されることを説得するには、それなりのメカニズムの説明が必要であろう。
 
 実際、資本論が出版されたのち、マルクスの知人であったある医師は、マルクスに宛てた手紙で、資本論は、労働価値説を前提して書かれているが、決して労働価値説を説明してはない、と書き送った。そして、これに対するマルクスの返信は、もし社会全体が労働をやめたならば、その社会は一週間と持たないだろう。というのは、すべての生産物は労働によって生産されるのであるから。あるいは労働は富の唯一の主体的要因である。
 もちろん、このことは自体はまったく疑うことのできない事実であり、数式が好きな人なら、若干単純化して、次のように書き示すかもしれない。
  Q=α*L   Q:産出量、 α:労働の生産性、 L:労働時間(労働量)

 しかし、これは交換される二つの商品に対象化された労働量が等しいという主張とはまったく異なるレベルの主張である。

 そこで、異なった素材の価格の等しい商品には等しい労働量が対象化されているという意味での労働価値説は、当為(Sollen)を説く道徳または観念論的形而上学として放棄するべきであるという見解が、広い意味でマルクス経済学の立場に立つ人の中にも出てくることになる(カレツキなど)。ただし、マルクスの意義はそれでなくなるわけではない。
 
 一つには、上式(Q=α*L)という意味での労働の意義は、決してなくなっていない。またもう一つ、私には、かなりルーズな意味になるかもしれないが、労働量が価格形成に大きい影響を与えていることは間違いないように思える。しかも、それには経験科学上の裏付けが可能である。

 シェークスピアが語るように、人は(夜見る)夢と夢の間に囲まれて生きている存在である。一日は24時間であり、その時々の社会の習慣、条件などによって人が生活のために労働する時間は一定の幅に制限されている。例えば週40時間、35時間など。そしてこの時間の労働によって人は生活のための特定の所得(主に賃金)を得る。言うまでもなく、この所得は、基本的な厚生要素として商品の生産費の中に入る。その他に生産費に入るのは、企業者(経営者や株主)の得る純利得、不労所得である。
 この不労所得が生じるという理由から、アダム・スミスは、現代では商業社会以前の古い社会に見られたような労働価値説が(厳格、正確に?)成立しなくなると結論した。しかし、かりにそうだとしても、等しい時間働けば、等しい所得が得られたような社会のありかたがそれによって根本的に瓦解してしまったわけではない。人々が労働によって暮らせるようにという古い原理はいまでも生き延びている。この原理は、人々がこの世に生きている限り、成立する原理である。それは新古典派の形而上学的・観念論的・非現実的な「効用理論」とはまったく異質なものである。この効用理論たるや、人が主観的に感じる効用だけを論じていて、人が如何にして労働するのか、生活するのかをまったく視野の外に追いやっている。しかも、その効用たるは、経験的に測定することも、計算することもできない代物である。

 さて、アダム・スミスが現代では利得が生まれたために、古い労働価値説が成立しないとした、その利得であるが、これこそが実は大問題である。
 先ほどの Q=α*L の示すことと、労働による所得の原理との二つを組み合わせると、どのような帰結になるのか? これこそが重要である。
 観念論的・形而上学的な労働価値説に安住した人々は、経験論的な地平から逃避し、マルクスの信用を地におとしめたように思えるが、私には、経験論的な地平に立って理論を再構築する必要があるように思えてならない。
 先ほどの参議院選挙で、ある野党の候補は、「8時間働けば、普通に暮らせる社会」を作ろうと呼びかけて闘ったが、これは、経済学の価値論の世界の言葉に訳せば、8時間労働によって(なるべく平等な)所得分配を実現する、また高利得を廃するという事にほかなならないだろう。そして、それは(なるべく)等しい労働量(労働時間)の交換を実現する経済社会ということに他ならない。(結果的に、何故そうなるのかの説明はごく簡単であり、省略するが、できれば後日行いたい。)
 経済学はモラル・サイエンスである。それは、等しい労働量が交換されていない不等価交換社会の不正義を廃絶した上に、より公正な、自由な、豊かな社会が実現できることを示すことも可能である。ただし、経済学の限界もある。それを実現するのは、実際にこの世界に住み働いている人々の政治的な声である。

 

ヴェブレン 推敲三回目 ようやく日本語らしくなってきたか?

 調べて見たところ、私の同郷人だった猪俣津南雄(いのまた・つなお)もヴェブレンの著書(邦訳名『特権階級論』を訳している。その訳者序文に、次のようにしるされている。
 「氏の文体、措辞、行論の姿がまた極めて特異なもので、"Veblenian phraseology"(ヴェブレン流の言い廻し)などという言葉が、成句があるほどである。その一種独自のユーモアとアイロニーに富む氏の文章を、邦語に翻訳して、いくらかでも原文の面影をしのばせ得るものにするのは、極端にむづかしい。云々」

 ちなみに、某首相は、「云々」を国会で得意げに「でんでん」と読み上げたそうだが、それはともかく、私にとっては「原文の面影」どころか、よく理解できないところがあって、困ってしまっている始末である。ともかく、横のものを縦に直すには直したが、しばらく時間をおいて読み直してみると、よく分からない箇所が相当箇所に見られる。これは誤訳、不適訳の類いであることは間違いなく、その他の脱落、てにをはの間違い、理由不明のミスなど、不備もかなりある。

 ヴェーバーの翻訳のときもそうだったが、段落(パラグラフ)ごとに筆者の主張の要点をまとめながら、自分の頭を整理してゆくのがよいのではないかと考え、段落ごとの「小見出し」をつけながら、推敲している。この小見出し(多ざっぱな要約)をつける方式は、アダム・スミスの『諸国民の富』(英語版)にも採用されており、漫然と通読するよりはかなり有効なように思われる。だいたい一章に数十の段落があり、全8章+注記があるので、500段落くらいはありそうだが、これまでに6章までに進んだので、今月中には終えたい。

 訳文をつくるという作業は、手工業的な手仕事であり、少しずつ piecemeal に感性に向かうしかなさそうである。例えば、"Live and let live” なる成句の訳もそうである。これは、各人が自分の思い思いに活きるという意味であることは間違いないが、おそらく「(相互)不干渉」と訳すのが最適ではないかと思うようになった。これと同じような様子は、anarchy, quasi-anarchy という言葉で表現されており、通常、「無政府主義」「無政府状態」と訳されている。ある研究者は、「無秩序」と訳しているが、私には適訳には思えない。というのは、王朝国家以前の古代社会にも社会・共同体は存在し、なしがしかの「秩序」はあったからである。そしてその「秩序」(思考習慣、制度)が相互に干渉せずに活きるというものであった。したがってアナーキーは、通常の辞書の訳語通りに「無政府状態」などとやくすのが適切なように思う。effective も有効的か効果的か迷う場合があり、場合によってはどちらでもよいのかもしれないが、結局は個人の感じ方によるとしか言いようがないのかもしれない。予断、先入観と訳せる preconception も適切な日本語
の言い廻しがなかなか見つからない言葉である。この含意は、すべての地域、国、階層などの人々(個人個人)には、その環境の中で育つときに埋め込まれたバイアス(bias、偏りや傾向)があり、したがって感じ方も、反応・対応も異なる、ということにある。それを先入観と訳すと非難めいた響きがつきまとう。非難めいた響きのない言葉がないということは現在の語彙の貧困のせいなのであろう。もちろん、バイアス(bias)という言葉もそうである。ヴェブレンの語彙では、ある意味で、すべての人が「偏見」をもっていることになるが、「偏見」という言葉の非難めいた語感は抜き去りがたい。

 

2019年11月12日火曜日

『帝政ドイツと産業革命』第六章 ドイツの産業革命 

 やっと第六章に到達した。
 繰り返すことになるが、これで訳文の検討、推敲は終了というわけではない。また、これも繰り返すことになるが、翻訳にあたっては、ある大学紀要に掲載されている「翻訳」を参照させてもらった。前訳があるということはとても有難いことと、つくづく思う次第である。一つには、横のものを縦に直しただけではリーダブルな日本語にならないヴェブレンの難解な文書を少しでもこなれたものにするのに大いに役立つ。第二に、そもそも原文の言わんとしていることが、よく理解できなかったり、私の訳文が「誤訳」ではないだろうかと不安になったときに、比較対照するものがあることが大いに役立った。とりわけ、この六章は、難解な箇所が多く、この文章は一体何を意味しているのかと考え続ける回数が多かった。そのような時は、原文(英文)、拙訳案、紀要訳の三つを机の上に置いて一文に一時間以上も考え込むことがあった。
 言うまでもないことかもしれないが、今対象としているような難解な文章を翻訳しようとするような場合には、訳者の好み(趣味、嗜好)というものも訳文に大きく影響してくる。したがって二つの訳文が異なっているからと言って、少なくともどちらかが誤訳だと断定できないことも言うまでもないだろう。
 しかし、この章に限っても、そして上記のことを勘案しても、紀要訳には誤訳あるいは不適訳といわざるを得ない部分がかなり多いといわざるを得ないように思われる。一つ一つ指摘するべきかもしれないが、後日時間を見つけることができたら、論じることにしたい。ただ、私は誤訳摘発で有名な別宮氏ほどに厳しい態度で臨んではいない、つもりである。あくまで明白に誤訳であり、そのため意味が通じなくなっている箇所だけを念頭に置いて、このように書いている、という点だけは言っておきたい。




T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』


第六章 ドイツの産業革命
 
新しい産業的な時代が始まる時期――おそらく一九世紀の第二・四半期に――ドイツの政治家たちが追求した経済政策は、いまだに官房学的な類のものであった。このことは、たとえばアダム・スミスを追従した様々なドイツ人によって伝統ある官房主義集団からの少数の一時的な逸脱がここかしで見られたとしても、プロイセンおよびオーストリアなどを含むドイツ諸邦全体に言い得ることである。絶対主義的かつ軍国主義的なドイツ諸公国の政治構造と伝統の結果、事実上、官房主義的政策以外の何事も受け入れられることはなかったのである(46)。経済情況は産業と商業の新時代に入り、それゆえ祖国(Fatherland)の政治家は新しい商工業体制が提示しなければならなかったことを最大限に活用する方向にむかって経済政策に着手した。この新たな活動においては、国政の理想は以前と変わらなかったが、その考慮されるべき新しい方法と手段は、国家の王朝的目的のために国民の資源を最大限に活用するという古来の官房主義的な目的から逸れることなく、追求されるべき政策の概略を不可避的に変更しないわけにはいかない。
新時代の経済史はプロイセン国家およびプロイセン化された帝国の経済政策史として書かれるべきであろう。そのような歴史は、たとえ(それがかかわる)商工業現象の政治的利用および政治的関連を一瞬たりとも見失わないとしても、帝政ドイツの政治史にはならないだろう。それは、偉大な商工業国民――彼らの商工業に対する関心は、商工業以外の目的、社会の物質的福祉を超えたところにある目的、そして実際にいかなる点でも社会の富を超えたところにある目的を巡る利害関係を規制的に統御することにある――の物質的運命の記述となるであろう。このことは――少なくともそう考えられるのであるが――社会の物質的福祉にとって不利益となる経済政策を追求することを必ずしも意味するものではない――。実際、それが、社会の物質的利害はその隠された目的として国家の成功をもたらすような政策によって最もよく保護されるというこれらの政治家たちの信念の一部をなしている。しかし、そのような物質的利益は、国家的な利用に最もよく役立つように、最もよく役立つような事象や制約をもたらしつつ、達成されることになるに違ない。ここでは、もちろん、そのような歴史を試みるつもりはなく、ただこの時代の歴史を定めた特別な環境を想起し、こうした特殊な環境が結果にどのように影響したのかを示すつもりである。
平時であれ戦時であれ、すなわち商売上の提言であれ、国際政治上の提言であれ、近代的な技術は、ドイツ諸領邦風の極小国家の存在を、ナポレオン一世の争乱後の状態のような極小国家の存在さえ、容認しない。この技術、そして近代的な産業技術の様相が存続し運動するために利用している実業界は、非人格的な、世界市民的な性格を持っている。人間的な個性、地方的な特徴および国境線は、近代の商工業生活に係る一切の点で、役立たずというしかない。個人的特権または階級的特権にもとづくか、それとも国民的な分断(隔絶)にもとづくかにかかわらず、境界(circumscription)の抑制的効果はきわめて明白なので、分断が唯一の存在目的となっている・これらドイツ諸領邦の政治家でさえ、産業的および商業的に分断された社会として近代の経済体制の中で生存し、またそれによって生存することの不毛さをしぶしぶ理解するようになった。ドイツ国民の産業から自己の物質的生活手段を得ていた国家は、譲歩し、多くの条件を付けながら、緩慢な手段によって関税同盟に結集して、やがて後に北ドイツ連邦に、そして最終的に帝国に結集した。この動きのよい効果は、効率の上昇、またそれがもたらした物質的な繁栄として、十分によく知られており、かかる問題について語る能力のある多数の著者によって十分に広められ、推奨されてきた。そのようにして実施された最も顕著な改革の一項目は、関税障壁および貿易と通信に対する同様な境界間の障害の撤廃である。
政治家による商工業のこうした推進は、それが以前に強要していた制限の撤去にその本質があったという点で、ほとんど全面的に消極的あるいは許可的な種類のものであった。ずっと後のビスマルクの執政期の貿易と産業における帝国政策についても同様のことがあてはまる。その好結果は障害の除去によるものであると言うことができる。それが暗示する所は、この政策を引き続き追求していれば、たとえば国境線の全面的廃止のように、あらゆる種類の経済的規制に関係してドイツ産業の効率を同様に引き上げるという好結果をもたらしたはずだということである。やがてその後に続いた国境線の維持と重商的な関税政策などヘのさらなる回帰は、産業社会のためではなく、むしろ政治的な手段、国家利益のための手段であった。ドイツ国家の王朝的利益にかかわりなく、ただ社会の物質的繁栄を促進するのであれば、ドイツの企業および産業とドイツ外の企業および産業との間の境界およびすべての差別的待遇の廃止を決定づけたであろうことは疑いない――まさしくこうした配慮が帝国内のこの種の境界と差別的待遇の廃止を決定づけたように――。
純粋に物質的な面からみれば、その利益はドイツ人にとってこのような国内規制の撤廃から得られたのと同類のものであったであろう。そしてこの国境が実際に廃止された(帝国内の)些末な国境より大きい事実であったように、帝国の国境が廃止されていたと想像するならば、そこから得られる利益はおそらくもっと大きかったはずである。しかし、通商の妨害手段としての帝国の国境は、帝国を自給自足的な経済社会に、したがって国際政治戦略の中で利用されなければならない自律的な統一体にするための主要な手段であった。なるほど、単に物質的な繁栄という観点および経済的進歩の速度の観点からすれば、帝国国境のような障壁が維持されなかったほうが国はより豊かになったであろう。しかし、その直接の結果は、当時の消費の大きく不可欠な部分について、ドイツ社会を外国に依存させるような産業の専門化と貿易関係の網の目というものとなったであろう。そのため、帝国は戦時には相対的に脆弱であり、同時に社会と人民はますます戦争を嫌がることになったであろう。換言すれば、そのような政策は、少なくともフリードリヒ大王派の政治家が見ていたような王朝政治の戦略に断じて適うものではない。したがって、この件に関連して実際に追求された政策は、適度な制限と圧力の政策であり、それによって産業効率の自由な発展と自足的な産業社会の発展との妥協が成立したのであり、社会の一切の力を特定の政治的な(軍事的な)目的に向け、ほとんど躊躇せずに他国に対して敵対的な態度をとることが可能となったのである。その発達の新しい局面では、軍事的な理想がより前面に出て来るにつれて、政策は自律的な産業社会を創造することによって国を防御しやすい位置に置くことをより強力に目指すことになった。
産業問題への干渉もしくは規制の主たる方針は、保護関税によるものであった。もちろん、他の関税規制と同じく、これはほとんど全面的に禁止的であった。これとは別に、この領域における政治家の主な指導的な仕事は、概ね軍事戦略をねらった鉄道建設、そしてこれもまた大部分が軍事を目的としていた造船への助成金支給および監督にかかわっていた。しかし、より重大な事実は常に関税である。もし帝国の国境とその税関がなければ新産業時代に結果がどうなったかというのは、もちろん、省察的な質問であり、決して確信をもって答えられるではないけれども、関税が是正しようと努めた不足点を指摘すれば、結局、ドイツの産業状況が陥らぬようにと国家の政策が保護しようとした結果の性質を示すものとして興味を引くかもしれない。
よく知られているように、祖国は近代産業にとって重要な類の天然資源に特に恵まれているとは到底言い難い。鉱物資源に関しては、ドイツは唯一炭酸カリウムという品目で決定的に優位に立つだけである。鉄と石炭の埋蔵は申し分ないが、品質、立地または賦存量の点で決して二級以上のものとは決して言えない。それ以外では、ドイツは近代産業の依存するいずれの天然資源でも二級のものとさえ言えない。森林と漁場はまったく取るに足りないというわけではないが、まったく重要というわけでもない。土壌(農地)は、良質の土壌から劣等な土壌まで様々であるが、産業を他分野から集約的な農業――農作物の自由貿易下で魅力的な事業提案となる以上に集約的な農業――にかなり劇的に強制的に移さない限り、ほぼ全人口を養うにも足りない。輸送設備、港および天然の水路もまた、他の商業国と比較して、不十分と評価される。天然資源として唯一つの大きい資産は、勤勉、健康および知的な人口である。この点では、ドイツは、新時代が始まった時、全体として、フランスを除くいずれの隣国よりも好ましい状態にあり、ベルギー級の小国と同じ状態にあった。
商工業の新時代が国家権力によって国家目的のために規制されなかったと想定できるが、そのような事例では、そのために生じる状況の概略が現実に起きた事と近似的にさえ一致しないであろうということは、かなり確実に推測できる。第一に、というよりは予め認められる事として、産業社会の総効率は、効率性の上昇とその結果としての産出量の増加速度と同じく――神の摂理による調停を考えないとして――、無論、きわめて高くなり、その利益の国民間への分配はおそらくより公平になっていたと言えよう。農業生産、そしておそらく特に肉と乳製品の生産は、相対的により少なくなり、おそらく絶対的にも少なくなっていただろう。他方、これらの品目の輸入は顕著に増加していたであろう。それには産業諸階級の生活必需品の費用(価格)のはっきりした低下と栄養状態の改善が伴い、それは平均寿命のわずかな伸びおよび一人あたりの効率の上昇、それに伴う人口増加率の上昇をもたらすものと思われる。
国内農業生産の縮小のさらなる直接の結果は、食料の海外輸入の増加であろう。それは海運業の成長をもたらし、またおそらくこの輸送業、そしてこれらの輸入品を生産する諸国における農業の拡張と関連して、恐らく、わずかであるが持続的な移住を誘発することになる。このことはすでに北・南の両アメリカ大陸との海外貿易との関連ですでに目に見えるものとなっている。自由貿易政策の下ならば生じるようなそうした海外取引の拡大が与える追加的な刺激を受ければ、このあまり目立たないドイツ人移民は、これら複数の諸国の実質的な植民地化をもたらす結果になったであろうと予想するのが正しいかもしれない。実際にそうなったのだが、ドイツ人の移住は、ブラジル、アルゼンチンおよび合衆国に実質的なドイツ人の植民地を作るのに必要な量と一貫性にほとんど不足しなかったという印象を受けるのである(47)。
自由貿易政策の下でも、ドイツの石炭と鉄は両方とも生産されたであろうが、実際に行われたより小規模になったかもしれない。これらの原材料は現在より大きい割合のものが輸入されたであろう。そして、論理的には、その絶対量は現在の輸入額よりきわめて大きくなったはずである。したがって原材料と半製品を完成品と消費財に仕上げる産業がそれに比例して増大し、その成長には、増加した輸送量を取り扱うのに必要な、国内および海外の輸送システムの拡張とさらなる改善が伴うことになるだろう。ドイツ産業は、おそらく完成財の生産がより進むことになり、したがって現在よりも広範囲で欠くべからざる通商関係に結びつけられることになっただろう。そのような場合であれば、付随的な結果として、それはドイツ人の海外市場への依存がその対極にある取引相手側のドイツ市場への同様の依存を伴うことになるため、ドイツによる平和あるいはドイツとの平和を破棄することをほぼ不可能にしたであろう。その結果生じる一般的財市場の状況は、おそらく最近染料および綿の独米貿易であらわになってきた状況に類似するものとなったであろう。もう一つ別の重要な副次的結果は、過度の陸海軍編成を維持しているのが平和を破る(攻撃する)ことを目論んでいるからではないというもっともらしい根拠がなくなったことであろう。しかしながら、あまりに省察の域をでない性質の補足的考察や二次的な結果が多くなるため、ここでは詳しく列挙することができない。そのいくつかはこの先の議論の中で扱うことにする。
新時代に起こった出来事が現実にたどった推移の中で、国境は常に大きい要因であり、様々な関連において主要な決定要因の一つであった。国境が帝政時代の初期段階で問題とされた最も雄弁で最も明白な方法は、この拡大した領土内における相対的な自由――国のかなり広い範囲における通商の事実上の自由――である。その上、ビスマルクの支配の下では、おそらく国民間の関係における絶対的自由貿易とは言えないが、少なくとも些か英国の流儀にならった自由の拡大に向かう顕著な流れが存在した。この政策は、実際にはきわめて顕著というものでは決してなく、この政治家(ビスマルク)が引退すると静かに中断された。そしてより広範囲にわたり、より軍事的な「世界政策」(Weltpolitik)という新精神は、帝国の経済政策を、排除による自立の立場へと引っ張りこみ、それに伴ってドイツ人とその隣国との利害にとどまらず、感情の疎遠性(対立)を助長した。現皇帝の下で追及された貿易政策は、ドイツと他の工業国との敵対関係を増幅する役割を果たし、同じ時期のますます露骨になってゆく軍国主義の果たした役割より決して小さいとはいえない役割を演じるようになった。この貿易政策は際立って重商主義的な類のものであり、一方的な輸出貿易という幻想的な理想を指向するものであった。
この貿易政策は帝国が重要であるという幻影(理想像)によって強化されたが、そこから派生した一つの問題はビスマルクの引退以降のドイツ帝国の植民地政策にあった。植民地の獲得によって、工業原料の大部分が、もしかすると最終的には全部がこれらの属国から引き出されることが期待されてきた。そうすれば帝国は、その工業原料の供給を外国に仰がなくてもよくなり、それと同時にその植民地が完成財の市場の役割を果たすことができるようになるという訳である。その狙いは産業的に独立した帝政国家を樹立することにあった。こうした植民地事業の取引は帝国政策にとってあまり推奨できず、またあまり利益のあがらない章の一つをなしていたのであるが、祖国の王朝政治家たちはこの点についてイングランド人の学んだ教訓――植民地は王朝の領土としては役に立たず、また同時に産業社会および世界商業への参加者として前進することもできないという教訓――を自らのものとすることができなかったのである。その結果、ドイツの植民地は、イングランドの流儀にならってドイツ産業社会の分枝となる代わりに、帝国の属国となったのである。ドイツの経済界がそのような分枝を効果的に生み出した限りでは、それらの分枝はあまり協調的な努力をすることもなく、ドイツの支配に服していない国々の商工業の方法をそっと巧みに取り入れたのである。
上段で述べたことは、帝政時代のドイツ人の物質的な成功が帝政国家の助成によって達成されたのではなく、帝政国家にもかかわらず達成
されたことを意味するように聞こえるかもしれない。そのような見解にも一片の真実があるが、その裏面の評価にも書き留めるべき多くのことがある。帝国政府の経済的関与とのかかわりを綿密に調査するほど、その政策の妨害的性格がますます明白になり、また国の物質的利害関係を規制し、導き、促進しようとするいずれの努力でも、総じてそれが与えたと主張される利益はますます曖昧で捉え難いものとなる。とはいえ、国の物質的福祉(やがて現れるかもしれないと期待されている)に対する帝国の政策のこのより曖昧な関連を指し示すために書き留めるべき、副次的ではあるが重要な経済的利益の実体が存在するのである。
帝政期のドイツ人の経済的達成についての現在広まっている多くの説明では、ドイツ人が一九世紀に産業社会の仲間入りした際の障害が重視されている。この障害が重大なものであったことは疑いなく、これらの出来事の様々な関係によってかなり周知のこととなっているので、ここでその面を繰り返す必要はないだろう。この障害は、乏しい手段(資金)とわずかな経験しか持たずに仕事に就く新規参入者を悩ますいくつかの困難からなっている(48)
そこで克服するべき主要な困難とは、通常、資本の不足であると考えられており、その際、資本とは投資に利用できる資金を意味する用語と理解されている。正確に言うと、ドイツの事例では、そのような資金は不足しているわけではなかったが、さりとて簡単な条件で潤沢に入手できるわけでもなかった。産業的企業への投資の習慣も不足していたが、そのような習慣は簡単に獲得されたように思われる。それと同時に、必要な銀行業の施設も、景気の状況が銀行諸機関の与える信用の利用を頼るべくその拡張を求めるや否や、素早く現れたようである(49)。より大きくしぶとい種類の困難は、産業問題における経験不足や知識不足であり、新たに見つけられた方法と手段の自由な利用を妨げるような習慣と法的諸権利が存在したことである。この種の困難がドイツの事例にはあり、一九世紀の前半に見られた遅れの多くはドイツ人がナポレオン時代から帝国の形成期にかけて徐々に取り除きつつあった法的および習慣的障害によるものだったと考えられる。この同じ期間には、必要な情報も(自分たちの)日常の退屈な経験によるものではなく、英国で生み出されたものを模倣によって習得し集めたものであった。
必要な技術的習熟は容易に得られる種のものであった。チューダー朝期のイングランド人がヨーロッパ大陸から借用によって獲得したその種の技術的技能よりずっと容易であった。この昔のイングランドの事例では、借用し自分のものとしなければならかったのは、そうやって受け継ぐべき理論的知識と産業技術への実践的洞察にとどまらず、雇用される労働者側の個人的な慣化と手の器用さの習得でもあった。それは洞察に限らず多数の個人の長い期間にわたる訓練を必要とする事でもあった。徒弟期間は、周知の通り、五年から七年に及び、労働者(職人)の修業は徒弟修業期間では終了しなかった。手工業体制下で新しい産業技術を導入する際に最も好まれた方法は、修業を終えた職人を輸入するというものであり、戦争中のヨーロッパ大陸の君主たちがイングランド国に与えた大きい貢献の一つは、熟練労働者をイングランドに追放したことである。
一九世紀になってドイツ人は機械技術を借用したが、この機械技術は、それが導入された側の社会の潜在的可能性と注意力にもとづいて創出する需要の点で、上記の事情と異なっている。それは、主に、機械装置を設置するのに必要となるような現実の状態への実践的洞察に裏打ちされた理論的な問題である。熟練した技術者の注意を惹くような理論の技術的応用の詳細な作業を除くと、このようなことすべての中に曖昧、難解あるいは困難な種類のことはほとんどない。機械工業は、それ自体が単純であり、細かい工程に広く応用される特定の広範な原理にもとづいて稼働するので、相対的に少数の専門家による監督と統御に適している。雇用された労働者は通常まったく特別な訓練を受ける必要がない。機械工業が普通に稼働しているとき(機械を)操作する労働者として用いるのに必要となる特別な訓練は、手工業体制下と同等な有能な労働者を作るのに必要な訓練よりはるかに少ない。特定の機械的職業に関係する特別な工程にいくらか、相対的にわずかな特別な習熟とならんで、一般的な情報と手の器用さが、機械産業にきわめて順応した労働力をこうして作るのに必要となるすべてである(50)
ドイツの達成の性格と規模、およびその進歩の速度を評価するためには、この近代的な産業技術の様相の中で彼らが借用したものの性質を認識する必要がある。この機械技術の前提と論理は、それ自体として、決してひどく難しいといった性質のものではない。その修得は本質的にかなり簡単なことである。そのすべてが、その基礎的原理においては、深遠な、または信仰上の洞察も、鋭い知恵と悪賢さの広がりも、信仰や詩的な幻想の達成も、想像力や禁欲的な熟慮のひろまりも必要としない。実際、それは人類の最もありふれた達成であり、またその前提と論理は最も貧弱な直感的な理解力にとってさえ明白である。その多く、全体にとっての土台と出発点をなすような多くのことは、普通人の周囲にあるごく平凡な無生物とのあらゆる日常的な関係の中で普通人にとっては、不可避的および不可欠に、馴染み深いものである。その出発点および範囲と方法は「事実の問題」という一句に要約される。
イングランドの技術者とその同類の者たちは、産業革命を準備し、さらにその結果を技術と物質諸科学にもたらしたのであるが、その画期的な知的達成は、彼らが物質の性質と作用を洞察する新しい方法を得たことにあるというよりも、以前から知られていた多くのことを、環境の力によって、忘れることができたことにある。彼らは、自分たちの見る物事が擬人観的な特質と性格を持っていると解釈する習慣的性向が衰退したため、これらの物事をあるがままに解釈することができるようになったのである。諸環境が――その主なるものは王朝的企ての衰退につづく人格的支配の衰退であったように見えるが――物質的な現象を神秘的、呪術的、擬人的、霊的な用語で解釈するという過去から継承した根深い習慣を弱めたのである。ブリテン島では、このように物質的事実間に霊的な力や結びつきを見る習慣が大陸より早く、またより大きく衰微していた。そのためブリテン島の住民のうち好奇心の強い者は、形而上学的に思弁せず、あるいはそのような思弁のあとをわずかに残すだけで、これらの外的現象を不明瞭な事実として額面通りに受け取り、現象とその運動を(相対的に)素朴な知覚認識として解釈する単調な(無味乾燥な)習慣に――大陸の隣人たりより速やかに――入り込んだ。
それゆえ、機械技術の前提と論理の構成要素は、異質で見慣れぬ種類の思考習慣という実際には通り抜けできない外皮にしばしばおおわれているかもしれないが、誰の心の中にも存在している(ことになる)。これは、誰でも、あるいはどんな社会でも、ただ自己の思考(cogitations)にさからわなければ、自分の内なる意識から機械産業の実用的技術をただちに進化させる支度ができているという意味ではない。その前提と論理的な洞察が与えられている場合にさえ、これらの前提を働かせるためには、広い領域の事実についての経験的知識を蓄えなければならない。そしてこれはただ大きく長い経験と実地練習という代価を払ってしか得られないものである。というのは、この知識の細目は、あらゆる経験的な情報、特に物理的な情報という「不透明な(とらえどころのない)」性質を持つからであり、また知覚という狭い経路を通じてしか手に入れることができないからである。相いれない超現実的な先入観から解放されたときでさえ、またその限りで、試行錯誤を通じてその物質的な内容を、ゆっくりと段階を踏みつつ、修得する必要性がいまだに残っている。そしてドイツ人が相応の持ち分(役割)を引き継ぐ前に数世代の英国人を従事せしめたものこそ、工学のための素材を作り上げる不透明な事実を見つけ出すという・このゆっくりした過程であった。こうした物質的知識の最初の獲得は必然的に試行錯誤を伴うゆっくりした作業であるが、それは確実かつ明確な形で維持し伝えることができるため、それを移転(借用)によって修得するのは骨の折れることでも不確実なことでもない。
こうしたことから結論されるのは、この技術の実際の構成要素がひとたび明らかにされれば、それを消化するのに大きい困難を経験する必要も、長い時間を費やす必要もない、ということである。機械産業の装置と過程を知的に使用するのに必要となる情報は、所与の条件下でのある物質的対象の物理的行動に関する事実に即した情報の総体ほど深遠(難解)なことではない。もとより、その詳細は、全てを語るならば、かなり膨大かつ複雑である。また誰も、そのシステム全体の作用にかかわる全範囲の情報を修得するのを望まないかもしれない。しかし、結局のところ、システムというものは現存する知識を最も事実に即して組織化したものである。したがってそのシステムはそれが提供する機械器具と工程に適した条件を持つ社会によってきわめて容易に引き継がれる。
ドイツ人は、天賦の才能によって必要な種類と程度の知性を賦与されており、この点で、この近代的産業技術の様相を作り出した英国社会や他の社会と同じ土台の上に立っていた。同時に彼らは、その知識階級にあっては、技術を機敏に修得するのに必要なあらゆる理知的習慣を持っており、また労働者階級にあっては、十分によく訓練された熟練労働者の一勢力を有していた。したがって、ドイツ人が新産業の進歩を達成し得た速度は、その環境が新産業の利用をどれほど速く、またどこまで認めたかという問題にすぎなかった。したがってそ、その導入と拡大の速度は、概ね、経営と産業の裁量権を持っていた人々の進取の気性の問題であり、それは金銭的誘因の問題、そしてこの新しい産業の提示する好機を彼らがどう見通すかという問題となる。
これらの点で、ドイツ社会は特別によい位置に置かれていた。これらの新規事業から利益を受ける位置にいた階級は、昔の体制下の類似の産業的企業に対する相対的に低い収益に伝統的に慣れており、そのため(新たに)与えられた(より高い)報酬率はより大きい収益に慣れた営利社会よりいっそう強く彼らに強く訴えた。利用できる天然資源は、あまり使われずにいたので、相対的に少ない費用で手に入れることができた。有能な労働者の調達はきわめて安価な賃金で行なうことができた。そして最後に、とは言え最も劣るというわけでは決してないが、商工業が以前の伝統的な状態と決別していたため、ドイツの企業は、同時期のどの英語諸国の停滞している企業より因習的な制限や手元の旧式化した装置および組織に妨害されることがなかった。ドイツの利点を示す目録中の最後の項目は、同時代のイングランド商工業の苔むした情況と対比すれば十分に明らかであり、すでに前段で示した通りである。それはアメリカ社会についてはさほど明白でなくて、恐らくさほどあてはまらず、問題にさえならないかもしれない――アメリカ社会は、周辺の英語諸国の先頭に立っているのである――。どれ程であれ愛国的感情に曇らされた見解を持つアメリカ人は、もちろん、彼らの誇りにしている営利企業の精神にもとづいてそのような中傷を否認するであろうが、上述のような主張を認めるためには、それに関係する事実を冷静に眺めるのがよいだろう。 
新時代に自由裁量的な経営権を持つようになったドイツ産業の総帥たちは、まことに幸運にも、「しっかり掴み取り、分け合い、沈黙する」という規則に沿って営まれる投機的不動産と政治的汚職の小売取引にもとづく田舎町の訓練校から入学を許可されなかった。彼らは、あぶく銭の分配に与ろうとする保守主義者としてうまくやる選択的試験ではなく、産業企業を積極的に遂行するのに適した選択的試験に合格してやって来たのである。同時に、この国は主に――実際、無視できるほどの地方的な例外しかなかった――産業プラントを設立するための時代遅れの土地や方法に縛られていなかった。すなわち、自由裁量権を行使した人々は、産業を追求のための立地のただ機械的な便宜だけを考えて選択する自由を持っていたのである。事態を暗くする老朽化した装置も、時代遅れの取引関係もなかったため、彼らは知られている最良の装置と数年または数十年前に最良だった装置との妥協に満足せず、むしろ最良かつ最高の効率の新しい産業過程を自由に引き継ぐことができた。また例えば新規事業の資金調達のときも、その目的が金融的入れ替えによって無償で何かを得ることというよりも、市場で販売できる財とサービスを生産するための装備と運転資本に必要な金銭的手段を見いだすことであったため、その道はかなり簡素であり、販売できる社債を作り出そうとする無一文の会社発起人が取る困難で迂遠な方法に頼ることも事実上必要なかった。フランスの百万長者が登場していた時代に、会社発起人がドイツ社会に登場していなかったというのではないが、やっぱり産業から保守的な策略を弄する戦略家へと資金を移転させようと企てられた巧妙な金融のためにドイツの口座から清算される資金の浪費や消失は相対的に小さいままである。
営利の領域にいるこれらのドイツ人冒険家は、金融の将帥というより産業の将帥であり、ドイツ社会の小銭を抜け目なく奪い取ろうと待ち構えるというよりは、産業的な眼識と能力を求めて自由に仲間と職員を選んでいた。そして選び出す母体となる人々、仕事の能力を持ち、街角政治に浸りに行くのではなく、十分な教育的資格を持ち、新しい産業的展望に関心を抱いている人々――そのような人々に不足はなかった。というのも、ドイツ社会は、伝統的に潔白な職業に喜んで雇われようとする教育を受けた人々を十分に供給されていたからである。
もっと劇的な形の浪費に恰好な手段がなかったため、学問は、ながらく、費やす時間とエネルギーを持つ若者の主要な拠りどころだった。それに――通常の肉体労働もそうだったが――、通常の商業的職業が慣習上いくぶん紳士的な尊厳を持つとされていたこと、また公務、牧師および大学教授という尊厳ある職業にはもうそれ以上生存できないほどに人が群れていたことも理由である。こうした学問を受けた若者の供給は、そのように彼らに開かれていた新しい水路に容易に流れ込み、ここに相対的に儲かり、有用なことが明らかであり、不評でないことが明らかな仕事の機会が提供された。こうした産業の領域への若者の流入がひとたび始まるや否や、直ちにその正当性が明らかになった。それは新しい職業に就き成功した人々にある程度の金銭的確証を与えたのであり、その人気はそれを流行させるのにおのずと役立った。これらの産業の責任ある職員と部隊は、田舎の店やいんちき弁護士の法律事務所ではなく学校を通じてやって来た人々であり、近代産業の効率的遂行にとって不可欠な範囲の理論的および技術的知識を正しく評価する能力を欠いていなかった。またそのため、ほぼ同じ頃のアメリカ人が金融戦略家の支配下に引き込まれたように、ドイツの産業社会も確実に、そして抵抗する術もなく、技術専門家の支配下に引き込まれた。
  これらの副官(下級将校)たちは、いくつかの新規産業企業の自由裁量権を持つ頭領たちと同様に、比較的質素な生活様式と比較的つましい所得に慣れていたが、その理由は、ドイツ社会全体が伝統的に一貫して貧しい環境と倹約的な気分にあったからである。したがって経営者の報酬および一般的な役得として粗収入から差し引かれる金額は、古い産業社会で一般的に行われていた金額と比較して、または繁栄期に祖国の実践となった金額と比較しても小さかった。
また例えば利用可能な労働力の供給について言えば、身体的にも知的にも多量かつ良質であり、その上、権威に従順になる用意があるという利点を持っており、貧しく質素な生活水準によくならされていた――安く、能力があり、豊富だったのである――。この労働力の供給はまた、どんな感じられる程度にも、あの生まれつき非効率な種類の「極貧」住民――イングランドの工業都市で、機械過程の体制下での競争的な営利企業の支配する最初の百年の結果として、大きく膨張した――貧弱で、貧血ぎみで、痩せこけており、皮肉に成長した住民からなっていたのではない。
このこともまた最初の頃からはいくつかの点で目に見えて変化した。しかし、生活水準は英語圏諸国の水準に及ぶぬまでも向上し、それと同時に労働者は、ある程度気難しく不満を訴える様になった。ただし、これら他の国々における資本家=雇主をいらいらさせ、その利得を狭めるほど手に負えない様にというわけではない。
労働者階級の伝統は、また中産階級の伝統もそうであるが、過去のドイツでは、女性の手作業における有用な雇用を幾分促進してきたが、この利用の慣行はいまだによく維持されている。ただし、やはりここでも、少なくとも手労働の職業からの、特に野外手労働からの女性の慣習的に評判の高い免除または排除という同じく一般的な姿勢に流れている徴候がある。この損失原因からドイツ社会はまだ多くの損害を受けていない。例えばドイツ女性は、野外の労働を続けており、まだ考えられている身体的能力の大きい低下の影響をこうむっていない。また彼女らは怠惰による病気をそれに対応して増加した程度には病んではいないように見える。もちろん、これらすべてが富裕な女性にあてはまらないことは述べる必要もおそらくあるまい。彼女らは、最善の待遇が必要となるほどに、(因習的に)虚弱に近い状態にあるように見える。
この産業時代の初発から、またその後の単純な推移の大方を通じて、責任を持つ人々と労働者の総体の両者とも、あらゆる種類の産業的な事業、特におそらく技術的な事業に生き生きとした関心を抱いたように見える。自分の仕事に対するこのような素朴な態度の一つの帰結は、スポーツ、秘密結社、扇情的な新聞、酩酊、政治運動、宗教的衝突などのように不満を組織的に外に転じる差し迫った必要性が彼らはなかったということである。また相対的に倦怠感が欠如しているという同じ原因から、あのより成熟した社会――そこでは産業的事業と技術情報は、人々が長期にわたって熟知し、因習的な嫌悪物となっていたために、つまらない趣味のものとなっていた――のように長期休暇や折々の休日の必要性もなかった。また同じ理由で、仕事が人々の好奇心に訴える力や職人的熟練を開花させる魅力をまったく失っていないうちは、労働時間は、有益なことに、長くなりえた。人々の日常的な仕事が好奇心を保ち、その結果、興味を抱いて注意力を保つ限り、人々の機嫌をとり、精神的な不調をもたらさないようにするために、日常的利益に無関係な気晴らしや浪費などはそれほど必要ない。また情報に対する食欲がなくなり、また機械技術と呼ばれる応用科学の類のように人々の好奇心に直接に訴える事象に関する思索がなくなるのは、ほぼ流行によるものであり、それゆえ模倣によって広め、また何らかの満足のいく代わりの利益を導入することによって生み出す必要がある。しかし、そのすべてに時間がかかる
しかし、問題の性質上、代用品は最終的に発見されるであろう。商業化された産業によって存続するどんな社会も、正当性の厳かな規則にかかわる一切において、必然的に価格体系という至上の管轄権の下に入る。宗教的または軍事的な階層体系にとって有利な部分的、一時的な例外が生じるかもしれないが、そのような例外は部分的なものにすぎず、また一時的に終わる傾向があると同時に、ここで問題となっている点で価格体系の裁定を否認するものではない。そして、その価格体系は、こうした職人魂への感情的中毒のように明白に有益な経済的な性質を持った関心や習慣的な気分が金銭的理念に従っている社会では長く名声を保つことができないことを、まったく疑う余地なく、裁定する。というのは、そのような関心や気分は顕示的浪費という明快な原則を否認するためである。問題はただどれほど早くそうなるか、またその原則に不快な適当な代用品がどれほど早く発見され、弁護可能な形に仕上げられるかということにすぎない。通常、頼りになるのは、何らかのスポーツ――すなわち職人魂の感覚が即座にその無用さに吐き気を催さないようにしておくように「何事かを行っている」というそれらしい外観を生み出すと同時に高価で無用な何らかの形の浪費――である。
前段で述べたように、イングランドでは、スポーツへの耽溺が、主に代行的に行われるのであるが、慢性的な習慣となっており、イングランドの日常生活に通じていないドイツ人にとってかなり信じ難い程に社会に浸透している。この耽溺は、今やかつてのどの時期より明らかに普遍的制度となっているとはいえ、機械産業の到来前の時期に由来している。それは、漸次的にのみ現在の程度と遍在性にまで成長してきたのであるが、時間と生計費の不毛な支出を伴うという点でも、また産業目的にとって無用というよりむしろ有害な事で人々の心を習慣的に満たすという点でも、英国の産業効率の深刻な衰退要因となってから久しい。しかしながら、それは無用でありながら、かなり名声をはくしていると同時に、十分もっともらしい達成を示して、最上流階級の是認を得ている。ドイツ人もまた、至上の価格体系下の短い経験を通じて、試験的に、また高圧的にスポーツマンの儀式の輪に割り込んできたが、彼らは自分たちの身に浸み込んだ吝嗇生活(節倹)の中でここでも、金銭的文明の諸国民中の上流階層と肩を並べることを望み得るより先に多くのことを克服しなければならない。
少なくとも現在の段階では、すなわちドイツ人が後継者となった段階では、近代的な産業技術の状態は、実業的方法による経営か実業家による経営と緊密に結びついている。 このことが意味するのは、この技術体系を引き継ぐどんな社会であれ、やがてすぐに、産業体系が営利的利害によって継承され、実業家の金銭的利得のみを目的として運営されるということである。その営利的運営は出発点では少なくとも産業的事業に奉仕しているようにうえるのだが、その不可避的な結果はその関係の逆転である。そのため産業は営利のための手段となり、最終的には金融戦略の急務に奉仕する偶発的な手段として実践的運営の中に姿を現すようになる。
この金融戦略は戦略家たちにとって取得できる最大の純利得を得ることに向けられるが、それは社会の物質的富または生産効率に最大の純増を付け加えるような経営と一致するかもしれず、一致しないかもしれない。ドイツの発展の初期の諸段階では、実務家の利得と販売される生産物の産出との関係はかなり単純で直接的だった――ただし、ここでも考慮しなければならない例外はある――。しかし、時間が経ち、状況が英語圏諸国(そこでは産業企業に金融を与える業務が別の独立した取引部門になった)で広まっているより成熟した段階に入るにつれて、その関連は直接的で一貫したものではなくなり、きわめてく縁遠くまったく疑わしいものとなる。そのような場合には、自分たちの資金的富――貨幣単位で計算されるような富――を保全しようとする金融企業の保守的運営のために産業の衰退や停止が容易に生じ、それは社会の物質的富――重量で計算されるような富――の生産を停止したり、縮小する効果をともない、したがって時が経つにつれて社会が日に日に貧しくなることになる。この種のことが帝政ドイツで経験されたことは言うまでもないが、それは産業の営利的な運営に必然的な随伴することである。しかし、特に初期の段階を通じて、ドイツが近代的産業体制を採用しているときには、その種の経験はあまり重大なものではなかった。というのは、実務家は産業装備の増大する必要に応じ、運営するのに忙しく、利得が販売される産出物の増加から来ることを探し求めていたからである。
この方向に向かう特定の影響力を持っていたのは、ドイツの産業的事業の続行を可能にした広い利潤マージン、すなわち一方の販売市場における公正価格と、他方の低費用と供給不足との間に生じるマージン(利幅)であった。それが発展の初期段階における状況であり、その程度は、ドイツが費用と価格の点でその通商上の競争相手に広まっている条件に接近するにつれて絶えず減少し続けた。マージンは小さく不安定になり、不審と継起変動を受けやすくなった。というのは、部分的には販売市場が競争相手の侵入するところとなったためであり、また部分的には製造費と販売費が増加したためであり、また部分的には金融費用が増加したためである。
産業生産物の市場の衰退の要素のうちの一つは、装備の増加の割に国内需要が落ち込んだことであった。これはまったく明らかなことに、産業人口のための新しい住居や生活器具といった付属物を含めて、新規の生産施設の必需品の絶対的規模の落ち込みではなかった。この需要は絶対額では減少していないが、初期および後期のドイツ産業の総産出高に比べると相対的に、この国内市場部門が縮小を被ったことを示すことは難しいことではないだろう。
外国市場の有効な拡大が生産能力の成長と歩調を合う程のものでなかったことも本当の事である。これは周知の事実であり、ドイツの政治家からも、また種々な通商委員会からも、しきりに注目されている。それは、ビスマルク政権の後半に採用され、彼の後継者によってより決然と推進された植民地政策を擁護して主張された動機の一つである。そのような植民地計画がそのような目的のために真剣に策定されたことは、事実を知った者には誰であれ奇妙に思われるかもしれない。しかし、市場の追求がこの植民地政策の主要な推進要因の一つだったというこれらの人々の厳粛な陳述に幾らかの信認を与えずにいることもできない。次のように考えるのが適当であろう。すなわち、愚かにみせる資格が自分にあると信じないで、そのような愚行を主張するような人は、とりわけプロシア=帝国政治家のような厳粛な自己満足に陥っている人々の中には、いないであろう、と。
ドイツ産業の成長とともに成長してきたいっそう本質的にして同時に手に負えない困難は生産費の上昇である。それは新時代が緒についてからまもなくして小規模に始まり、それ以来ずっと累積的に拡大してきた――情況のさらなる展開の中で同じ要因が作用し続ける限り、それは必然的にいっそう増大するに違いない。ある小さい部分だが、ここで問題としている生産費用の増加は、資源の物理的消耗あるいは物理的老朽化の結果というより資本化(設備投資の増大)の結果である範囲内で、人為的な性質のものである。しかし、それでもなお、この資本化が産業的新規企業の資金調達を行うために欠かせない条件の一部になるという点で、費用増は効果的である。 他のどこでもそうだが、ドイツでも、天然資源も、立地条件という差別的利点、そして法的免除、助成金および関税による独占という差別的利益も、これらの有益な資産から引き出される見込み利得にもとづいてある程度まで資本化されてきた(投資対象とされてきた)。そしてそれらはそのように資本化されるため事業評価の基礎とされたのであり、それゆえまた信用拡張の基礎とされ、さらに規準収益率のもととなる資産の中で重要な地位を占めるようになった。これは、この種の資産が法人企業の資本化に引き入れられ、そのため粗収益から支払わなければならない固定費の基礎になったような事例にとりわけ当てはまる。このように社会内部の差別的利益を資本化する過程は、それに伴って固定費を増やしながら、徐々に累積的に進行した。それは、特に信用と法人企業の資本化が大規模に利用されるところでは、産業の営利的経営の不可避的な結果、というより付随物であり、それは時間が経ち、資本主義体制が発達するとともに必然的に成長する。
また同時に、それが産業体制の成長に固有のものであるため不可避的に、こうした立地等々のもたらす差別的利益は、老朽化によっていくらか減価し始めるため、資本化過程で己に帰されたような高い稼得能力の値をもはや有してはいない。それによっての、これらの事項が負担する固定費、つまり特定の営利事業体がこれらの資産の所有するために負担する固定費と、それらの資産の所有による稼得との好ましからざる食い違いが生じる。
前段で述べたように、この老朽化は、必ずしも物理的劣化という性質を持つものではなく、改良された技術的装置に置き換える必要さえない。しかし、全産業体制が規模の変化、生産の中心地と経路の移動、輸送と販売方法、その他の関連する産業体制の変化、標準的な労働条件または労働力需要の季節的変化等々――これらは大部分が関係する営利事業体の統御不能で修復不能な事象である――によって、老朽化した技術装備の利用を不要とするまでに成長したという事実から生じるにすぎない。実現された資本化と満足な収益力とのこうした食い違いの諸原因にはそれぞれの結果が伴い、それらの結果は営利を考慮して運営されるどんな産業社会でも成長、変化および再調整の付随物として不可避的に現われる。そして時が経つにつれて、それらは概して量的に拡大する。そのためドイツ産業社会は、近代的産業企業のかかる付随物を適度に分かち合うのに加えて、明らかにそれらを原因とし、それらに付随するその種の付随物をもっと多く持つのである。
種類は異なるが、ほぼ同じ全般的結果をもたらすさらなる困難が、もっと近くにあり、もっと利用可能な天然資源から引き出すことのできる原材料の供給力を越えた産業の成長から生じる。ますます遠くなるか、ますます難しくなる供給源に頼らなければならなくなるのである。これは、この頼りの綱が国境内にある資源か国境外にある資源かにかかわらず、費用を上昇させるように作用する。この原材料一単位あたりの費用の増加は、より利用の難しい資源に頼ることを必要にするその種のいっそう大規模な産業のもたらす生産経済の拡大によって少なくとも十分に相殺される傾向があると言うことができ、またそのように推定することをためらう必要もない。それでも、産業体制の規模と範囲の拡大は、その効率性の値がどれほどの高くなろうと、上記の推論をこうむるという事実に変わりはない。実際、これは帝国の政治家が、論理を奇妙にねじり、植民地の獲得によって修復することができると信じるように自身を説得していた予見されていた困難の一つであったのである!
体制の成長に本来的なものであり、また打破することのできないこれらの欠点のどれよりもはるかに深刻だったのは、生活水準の上昇――おそらくもっと正確には、支出水準の上昇というべきであろう――による生産費の上昇であった。これは、それが労働者階級働の維持費の増大の問題である限りにおいて、「労働争議」から切り離せない産業の妨害と停滞と並んで、不満と苛立ちという負担をもたらす。この点でも、ドイツの産業時代には不利な点があった。その問題は、初期における費用を超える販売価格のマージンからのわずかな減少に始まり、三〇ないし四〇年間にきわめて少しずつ大きくなってゆき、いささか手に負えないような問題になるに至った。
他のどこでもそうだが、ドイツでも、支出水準の上昇のために増大する労働者の不満は、――貴族的または独裁的な体制の形をとる慣習的または合法的特権によるか、それとも財産を所有する人々の行使する所有権によるかを問わず――所有階級と特権階級に賦与された無責任な権限の行使に対する不満のような臣民階級の不満と部分的に融合した。この融合が決して完全だったことはなく、同時にどんな具体的な事例であれその二者を区別することがいつも可能だったわけではない。この苦境は、全ての発展した商業国の産業経営を悩ましており、当局は、譲歩および救済策と抑圧的手段(飴と鞭)の両方を用いてきわめて効果的に対処してきた。そのため、ドイツ産業社会は、このしいた原因から生じる騒動、妨害および苛立ちを考えれば当然と思われるよりも小さい苦しみを経験しただけですますことができた。それでも、政治家および当該公共団体の一切の厳しい運営にもかかわらず、労働者階級の要求は、近頃では、資本化への「最低生存利益」の支払を可能にする利幅を脅かし、ドイツの営利事業にとって脅威となるほどの程の不都合な水準にまで拡大してきたことが明らかとなっている。また同時にそれは、実現できる利幅がこの手段によって最終的に小さくなりすぎ、政治的および軍事的な国家体制を保持することができなくなるという不測の事態を展望させるという点で、国家当局にとっても困った問題である。
この最後に関連して言えば、生活水準の上昇は際立って困った政治問題をもたらす。例えば、産業収益の配分を増加させるよう求める労働者には、不忠義の感情や罰などなく、そのため最高の恩寵を求め、成功するという理性的希望をもって彼らに愛国的心を訴えることなど不可能である。その種の忠誠心を維持するためには、むしろ国家は彼らの求める要求において誠実かつ確実に彼らの味方であると確信させる必要がある。一方、資本家=雇主にそのような訴えを行っても、少なくとも同じほど無益である。というのは、これらの人々は主要な機会(自己の利益を得る機会)の見込みによって動かされているからであり――さもなければ彼らは資本家・雇主とはいえないだろう――、また――最終的に圧力を逃れ、自分の事業をどこか他の場所に移すという選択肢を除くと――同じく選択の余地を残さない信用拡大、社債および固定費という蜘蛛の巣にからまっているからである。これらの関連のいずれでも、そのような不測の事態が近頃になって遠い先の出来事とは限らないように見えてきたが、その情況はまだ頂点に達したと言うことはできない。しかし、このすべてのことが帝国とプロイセンの政治家によって取り扱われてきたのであるから、またそれが究極的には他の誰の関心事でもなく彼らの関心事をなしているのであるから、もっと後で、これらの問題に関する国家政策を検討するときに、この問題の探究に戻るのが最もよかろう。
しかし、生活水準の上昇は、金持ちと裕福者にも自分で働く人々にも影響を与える。そして前者の必要は後者の必要より切迫しているわけではない――仮に後者の必要が物理的な生存最小限を超えた水準にあるとしても――。いずれにせよ、その生活水準は例外なく主に「まともな生活」とも呼ばれる立派な支出の水準であり、またそのようなまともな生活水準に達しないときに受ける傷は精神的な性質のものである――「まとも」という精神的な必要が、困苦という衝撃を後者(労働者)に投げ返し、かつ基本的な身体上の生存必要物にかかわる現実的な習慣的欠乏に苦しんでいることを明らかにするほどの肉体的快適さを犠牲にしては、満たされない限りにおいて――。しかしながら、これが通常の事実であり、こういったことは、生じている限り、困窮の被害者によって本当の(bona fide)の肉体的困窮と感じられ、そのため理性や感情に訴えることによって正すことも修正することもできるものではまったくない。
貧困者の間でも、また金持ちと裕福者の間でも、まともな支出の標準的規模は強制されたものとなるであろう。またここでは詳細に論じられない理由で(53)、そのように標準化されていて、どんな階級や社会でもまともさの主な構成要素として受け入れられる支出額は、大雑把に言うと、その階級や社会の習慣的所得が顕示的浪費の形で維持できる額によって決定される。それは「事情が許す限りの額(大きい利潤)」という原則のもう一つの応用である。しかしながら、そのような顕示的浪費のための慣習的な金額が慣習的な所得の支え得る金額に調節するのは、習慣化の働きであるため、時間と若干のいくらかの入念な苦心を必要とする。しかし、まともな支出は、そのようにいつもの日常の習慣に織り込まれるや否や、そしてその限りで、必需品の目録の中に座を占め、好ましく欠いてはならないものとなる。この点で、ドイツ社会は、強制的な吝嗇の時代から伝わった倹約の伝統を持っているため、これまでのところはただわずかな進歩をなしたにすぎない。彼らの中で最も費用のかかる者が十分に浪費的でなかったというのではなく、世間並みの人々が浪費家社会の中で一生の経験を積むという利益を受けてきた相続財産を持つ紳士の特徴となっているあの控えめな能率で大きい財産を消費するようにほとんどなっていないのである。最良の種類のイングランド紳士は、伝統的言って等しい地位にあるドイツ紳士の費用の七倍を全部で費やすであろうと、恐らくいまだに言うことができる。それに、ドイツ人は、金持ちも富裕者も、かなり予想される通り、よく、また速くたるみを取っている(合理化している)。彼らは人種的にはイングランドの仲間とまったく同じなので、その機会と適当な時間を与えられさえすれば、この文化的発展の特徴の点でも後れを取ることはないであろうということを銘記しておくべきである。
ここでも時間と生存手段のまともな浪費を非難するつもりがないことは言うまでもない。それは価格制度の必要な付随物の一つである。また、それは帝政ドイツがまだもっと成熟した産業国に追いついていない点の一つである。しかしドイツ社会はこの方向に向かってきわめて効果的に動いているので、もし事故が起きないとするならば――これはまさに現局面の大きい疑問点である――、産業的産出と現在の消費との自由に使える利潤幅はすぐに消えると期待されるかもしれない。こうした経路によって生じる消失を妨げることになる事情とは、財産をある種の実業家から別の実業家に永続的に移すことであり、また産業技術の持続的な成長を通じて産業の生産性を持続的に拡大することであろう。
(46)その世代(一九世紀中葉)のドイツの愛国的経済学者たち、そして彼らの見解を反映する著述家たちは、自分たちの提案する政策について語るとき、官房学より「国民経済」という表現の方を好んでいる。当時の経済学者を自称する者は、どんな公平な意味でも、主な関心を理論的研究より政策形成に置いていたことが特に注目に値しよう。イングランドの(古典派)理論家の提示する経済学体系に対する彼らの異議は、主にイングランドの古典派の公式の提示する実践的指針が国民的な力を建設する方向には実際に役立たず、特別の関連を持っていないという理由にもとづいており、これに関連して「国民的」という言葉は、国防と攻撃および用心深く国境を防衛するために組織された王朝国家を暗に示している。
一八世紀の典型的な官房学者が一九世紀の「国民主義者」、すなわち歴史学派の経済学者と相違する点は、原則と目的の違いというよりは、国家の経済的基盤と課題にかかわった後代の理論家によって考察された必要な広範な方法と手段の違いである。商工業の状態は、昔から顕著に変化してきており、国家の物質的力に最も貢献する経済政策ならば、必然的に、かつて充分と思われたものより広範囲のものとなっただろう。単なる財政的な開発手法では、もはや大規模な取引関係と資本化された産業体制を持つ社会を最大限に役立てるには十分ではなかった。とはいえ、国家の物質的な利害が一九世紀のドイツ経済学の中でに第一の位置を保持し続けること、またイングランド人に見られなかったことであるが、その体系的な解説の中で財政に関する考察に重みと重要性が与えられているのは確かである。財政学はドイツ人の経済理論の最強の線であり続けたのであり、それは国家の利害が最高位にあるという命題に一律に沿っている。イングランド人、特に古典派については逆のことが成り立つ。
(47)言うまでもなく、そのようなドイツの植民地には――もしそれらの植民地が、ひょっとして、自分たちの発展を助成してきた国民政権から離脱し、帝国の植民地として自発的な合併に向かう程の規模の君主権に対する忠誠に達し、それを保持するのでもない限り――あったとしても、わずかな王朝的価値しかないだろう。帝国に対する忠誠心の金銭的費用がすさまじく高く、しかもその金銭的利益がかなり疑わしい以上、そのような結果はほとんど考えられないだろう。また国外に定住するドイツ臣民がドイツの旗でなく、他国の――他国であればどこであろうと、と言いたくなるかもしれない――国旗のもとに進んで避難所を求めることから見ても、帝政国家の圧政下に喜んで身をささげるといったことはまったく考えられない。
(48)ゾンバルト教授(『一九世紀のドイツ国民経済』第二巻)のようなきわめて有能な観察者さえ、事態の同じ状態の与える利点をかなり無視して、この側面を観察し、詳述する。それはまったく通常の見解であり、またゲルマン主義のスポークスマンの側におけるある種の自己満足および「人種的な」評価に限らず、ドイツの偉業に対する(疑いなくふさわしい)称賛の豊かな根拠となっている。例えば、W・H・ドーソン『近代ドイツの進化』を参照。これは帝国の外交に就いている高名な人々によって(称賛なしで、したがってまた無条件に承認されることなく)かなり広範に書写されてきたという栄誉を担っている。また例えば、E・D・ハワード『ドイツの近年の産業的進歩の原因と範囲』を参照。ドイツ近代経済の時代についてのあらゆる研究の中で、上に引用したゾンバルトの研究がこの時期の研究者にとって最も有益なものであることは言うまでもない。
(49)十全な銀行業および類似の金融事業体の設置が当然のことと考えられる呼び物の一つであることを示すには、商業的または産業的な時期の歴史的研究のどれでも十分であろう。それらは世間の注目を浴び、またきわめて慎重に詳しく扱い、そこで特に貿易統計に感動している人々の注意を引き続けており、産業発展の主要因として高く評価されるようになる。
(50)普通の労働者が機械産業で引き受ける極度に機械的、単調、そして愚かしい部分の性質については、通常、多くのことがとげとげしい調子で言われてきた。これらの酷評はしばしば話し手側のある程度の無知を反映しており、その酷評が誇張され、寛容できる限界に度々近づくことは言うまでもないが、誇張をすべて正当に考慮しても、上段で主張したように手工業と機械産業がこの点で非常に大きく相違しているという事実はまだ残っている。
(51)『製作本能論』、第二、三、五および七章を参照。
(52)補注四の三三二ページを参照。
(53)『有閑階級の理論』、第二―第五章参照。

2019年10月30日水曜日

帝政ドイツと産業革命 第四章 イングランドの事例


 続いてヴェブレンの『帝政ドイツと産業革命』の第四章「イングランドの事例」の訳文をかかげる。
 ドイツとイングランド(またはより広くブリテン島)は、どのように違うか、これを比較史的に概観するのが、第四章におけるヴェブレンの主題であるが、彼は、両者には本質的な相違はなく、ただ両者が近代化の経験をスタートしたときの時代(時機)と期間(時間の長さ)の相違だとする。両者とも、隣人たちから借用(borrowing)を行い、それに自分たちの目的にあわせて改善してきた。しかし、イングランドは、近代のより早い時代に、かつ長い時間をかけてゆっくりとそれを行い、ドイツはずっと遅れて、つまりすでにイングランドが覇権を確立してから、しかも短期間でそれを行わなければならなかった。イングランドが孤立した島国であり、ドイツと異なって、相対的に平和な状態(他国と交戦していない状態)にあったことも相違を生み出すかなり大きい事情であったとされる。
 こうした差異が両者のどのような差異をもたらしたか、その詳細は本文で詳しく議論されている。 




T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年)
 


第四章 イングランドの事例

このように明示的に提示すると、一つの技術体制は、その技術を出来合いのものとして、その技術を元々生み出し、かつ生活様式の付随的な他の変化と関連づけながら累積的に成熟させてきた社会でその技術が既に生み出していた効果と異なったものとして、受け継いだ社会に対して経済的価値と文化的投射を持つ、という見解にまとめられるが、そのように整然とした一般論として述べると、この命題は聞き慣れず、またおそらく疑わしくみえるかもしれない。しかし、よって立つ前提として公に認めるかどうかはともかくとして、その命題は確かな常識としての地位を固めて久しい。そのような借用の事例が歴史家や文化人類学の研究者の中で注目される場合には、このようにあまりなじみのない産業的手法と手段の体制を受け継いだ民族は、「粗野」、「未熟」、「均衡を欠く」、「粗雑」、「非純血種」などと特徴づけられるのが普通である。これに反して、かかる社会のスポークスマンは、「若々しい」、「たくましい」、「質実」、「血気盛り」と語る傾向がある。いずれにせよ、その意味は、差別的な感情を別とすると、次の通りである。すなわち、そのような民族は、一方では、かかる技術効率の進歩に必然的にかかわるものとして実現されるべきであり、またいつか必ず生まれるあの非物質的な文化要素、産業事象ではないことにかかわる思考習慣を獲得しなかったということであり、他方では、新たに発見された物質的効率を身につけた民族は、その同じ技術を久しく使用してきた諸民族の中でしだいにその技術を使いづらいものにした無益で抑制的な習慣や流儀を受け入れなかったということである。どちらの見解にも異議を唱える必要はない。習慣化の現象、したがって習慣の成長の現象として見れば、鏡に写る両面である。それらは同一の見解の二つの側面である。またドイツの事例とイングランドの事例の相違、またその他のヨーロッパの産業的に先進的な民族の事例との相違はこうした性質のものである。ドイツ民族は、この技術が生まれながらに所属する近代的産業文化の恩寵を受け継がずに近代技術を受け取った。しかし、彼らがこの技術体系をその性質の欠点を抜いて受け継いだことを指摘することも少なくとも同様に肝要である。
その点で、ドイツの事例では、英語諸国民の持ったような規模の経験と文化的な熟成がない。換言すれば、ドイツ人が西洋の物質文明の流れの片岸に立ったときに何が欠けていたかは、この技術的成長の時期全体のイングランド国民の事例と対比すると最もよくわかる。この二つの国民の人種的起源は同じであり、彼らの文化上の先人は古代を通じて同じであり、異教時代の後期にさかのぼる。両者の経験は、中世にさえ、はっきりと異なる文化的な帰結をもたらすほどに異なっていない。相違が顕著になり始めたのは封建制時代の末期からであり、技術的状況が英国の産業体系を最近までドイツの産業体系から区別してきたあの近代的性格を帯びたのは、イングランドの編年誌が教えるように、近代が始まってからのことである。したがって英国の文化的パターンが他の点でもドイツのパターンからはっきりと分化してきたのも近代である。
あらゆる注意深い歴史研究で注目を引くような細部の相違は、もちろん、きわめて早くから現れる。そして、一般的な類の文化的発展に関係する限り、これらの初期の相違は、これら二国民の間の情況の後代の相違とまったく同じ種類のものなのであるからか、ここで当然想起されるべきだろう。民族移動の時期以来、ブリテン諸島への侵入者は、いま「祖国」(ドイツ領)となっている土地に侵入した同族の運命を左右した環境と異なった性格の環境にさらされてきた。ブリテンに侵入した異教徒はローマ化されたキリスト教徒の住民を目の前にした。それは、彼らが征服した民族、またまず政府組織を設置して支配しようとした民族は、ローマの平和および教会司祭の支配下に従順と整然とした(秩序ある)生活をすでに学んだ民族だったことを意味する。一方、ドイツに定住した野蛮人は、もっと扱いにくく、おそらく経済的により価値の低い住民を見いだしたように見える。同時にドイツ領の野蛮人の様々な集団は、相互により絶え間なく争い続ける一方で、ローマ帝国およびその後継者とずっと敵対的に接触し続けていた。そのためアングロ・サクソン期のブリテンはまったくの騒乱状態にあったにもかかわらず、流血と負傷、暴行、奴隷制と迫害という状態が暗黒時代を通じてドイツの生活体系を形成していたのと対照的に、終局的にはブリテン島の情況は比較的平穏だった。それでもこの二国は同じ封建時代を経験したのであり、二つの異なった線の文化的発達をその後にたどったと言うことができる程に生活様式の方法を全般的に深く変えることはなかった。
中世から近代への移行にあたって、イングランド諸民族は、西ドイツと南ドイツを含む西欧および中欧の他の地域と比較して文化的に遅れていた。その時期が一五世紀末か、それとももっと前の時期から始まるのか、その如何にかかわらず、また産業と物質文明の点で比較するのか、それとも知的達成と生活様式という非物質的な条件についてするのかにかかわらず、そうである。しかし、それに続く百年間にイングランド社会は長足の進歩を遂げ、その百年間が終わるまでにヨーロッパ大陸の隣人たちと(この点は疑わしいかもしれないが)肩を並べるほどになっていた。この英国の進歩は絶対的であるとともに相対的なものであり、ブリテン島における加速的な進歩と大陸の領土の多くにおける進歩速度の停滞の両方によるものであるが、ただしその停滞は大陸では一六世紀末頃より一七世紀によりはっきりしている。大陸の競争相手諸国の事態と再び比較すると、相対的にイングランド社会はこの時期に政治的、軍事的および宗教的な混乱による休止を経験するが、この休止は減速(mitigation)であり、完全に停止した(surcease)わけではない。それは、古典的時代の新しい商業、産業、および学問の進展と、とりわけその進展がもたらした生活の保証の増加の進展と疑いなく大いに関係している。またそれと同時に、それがブリテンの平和の最初期の時代のこととして注目に値する――この平和はそれ以来時としてもちろん危険にさられながらも結局のところかなり一貫して続いてきたのであり、この点にこの島にもたらされた生活条件と大陸に広まっていた生活条件との差異が示されているのである。そのため、条件付きであるが、近代を通じて平和の技術がより大きい注意を求めてきたのである。同じ時期に戦争の技術と王朝政治・宗教の技術が大陸諸国民の主要な注意を求めてきたと、同じ程度の確信をもって言うことができるかどうかは疑問であるが、いずれにせよ、この点での対照は見逃すにはあまりに明瞭であり、またその性格は人間関係および人間の目的を支配する諸制度および先入観の異なった成長に有効でなかったとするにはあまりに深すぎる。

いま検討している目的にとっては、近代英国社会は、いくつかの点に照らすと、二つの局面または段階に分けるのが最善かもしれない。初期の局面は一六世紀初頭のある時期から一七世紀のある時点まで続き、一方、後者はおおよそ一七世紀後半に始まり、現在まで続く。前者の段階は言うまでもなくエリザベス時代に最盛期を迎えた。ただし、その文化的な帰結は後の時期に十分に実現される。後者の最高潮は、慣習的にそう呼ばれている産業革命によって刻印され、主に一九世紀の英国文化にその刻印を残している。
英国近代をそのように細分する理由も指標も、主に技術的または産業上の性質やそれに関連するものである。これらの二つの時期のうち初期は、イングランドが産業技術を借用し、同化した最高潮の時であり、したがってある意味でドイツの帝政時代に対応する。後者の時期は、特別な意味でイングランドの生活における創造的な時代として特筆され、機械産業によって特徴づけられ、また支配されている現在の技術体系を生み出した時期である。そしてドイツ人のこれまでの生活史にはこれに対応する時期はない。したがってイングランド社会の生活史には含まれるが、ドイツ人の国民的天分を作り出した経験を欠如させるおよそ三百年ないし四百年の時期があるように見える。
この命題は、このような無限定な形のままでは、誇張に行きつきことは疑いないだろう。必要な修正を行うことが明らかに効果的であるが、それらを公式的な言説にまとめるのは決して簡単ではない。殊に、時間であれ、他のどんな次元であれ、定量的に記述できる修正を導入するのも難しいだろう。またここで問題としている点――二つの社会の先だつ対照的な経験と、それに続く対照的な習慣的傾向――に関する限り、イングランド人がしだいに近代化される体制の下で生活の訓練を受けてきたのに対して、ドイツ人は古めかしい種類のより多くの、かつより厳格な経験を集めてきたことを想起しても、両者の差異が減じることはない。
ここでもまた、ありうる誤解を避けるためには、二つの対称的な民族がそれぞれ受けてきた経験と、したがってまた、その結果生じた習慣化の対照に注意を向けるとき、差別的な比較を意図してはないことに注意することが必要と思われる。ある特別な目的のために評価する場合を除くと、ある因襲的に承認された長所や便宜にもとづいて、一方が他方より良いとか悪いということにはならない。明白にするように努めるべき全要点は「相違がある」ということにすぎない。もちろん先進工業国で通用しているような近代西欧文化の見地から見ると、この差異は比較される二者のうちドイツ側の精神的発達が抑制されているとみなされるべきだろう。もちろん退化や遺伝的欠陥といったものではなく、中世から最も隔たっている諸民族に見られるように、近時の文明人の理想、目的および精神(animus)と折り合わない習慣的性向があるというだけである。それは本質的な意味における人間的性質の特徴ではなしに、ただ習慣と伝統という第二の天性にすぎない。そのように中世的な心の本拠地保から遠ざかることは、それを見る者の好意の持ち様に応じて前進とも後退とも評価されることになる。したがってそれは好みの問題となるのであり、この点について議論の余地はない。
この時期のイングランド史を大きく温情的な見地から取り扱った近代の著述家たちは、エリザベス朝のイングランドを自己完結的な文化的時期と見なしがちであり、この時期をそれ自体の歴史の範囲内に含まれる生命力から成長してきたと考える。またそのような意見が、新しい学問の開拓、当時の軍事的および商業的な企て、およびその文献の迅速で確実な進歩に関する限り、英国の達成の実り豊かな季節についての有力な意見であることは疑いない――もしこれらの実りある成果とその成果がそれを創造した豊かなエネルギー支出に直接にもとづいていたことだけに注意を払うならば――。しかし、エリザベス朝のイングランドはたまたまついでに起こった挿話的な出来事ではない。ドイツの帝政時代と同じく、エリザベス女王時代は新しい情況、社会の運命と努力を左右した物質的な力の情況の新しい態勢から成長し、またその態勢を実現したのである。またそれに対応するドイツの事例のように、この新しい経済力の態勢の大部分は、概ね外国からもたらされた産業技術を新たに取得した結果である。
厳密な意味におけるエリザベス朝時代につながる初期チューダー期は、イングランドの産業を大陸の近隣諸国と肩をならべるための運動を始めた。それはエリザベスの統治の大部分を通じて続けられた。この運動は主に工程、装置、労働者および手法を借用することにかかわり、またこれらすべての事物をブリテン島の社会の必要と利用に巧妙にあてはめることにかかわっていた。そのように借用するとき、イングランド人にはどんな借用者でも受け取ることのできる利点があった。彼らはよいと認められるものを取り入れ、それを生み出した国では借用した要素に付きまとっていた因習的な制限を抜いて取り入れたのである。こうした因習的な要素とは、手工業体制に特有な要素であり、それとともにその体制につきもののギルドおよび勅許の規制、決まった利用法、経路と手法の零細取引である。新しい前進の中の小さからざるものは、イングランド人がオランダ人から学んだ造船業と航海術である。
産業体制の新しい出発――新しい出発という用語よりは改善と革新という用語の方がよく表現できるが――の副次的だが直接的な効果は、産業力の利用している新しい態勢の中で可能となった資源が(事実上)発見されたらことであり、またこれらの新資源が自由に利用に向けられたことにある。以前に行われていたものとは対照的に新しく広範な機会が提供され、またこれらの機会は、そこでいつでも企業を刺激するものとして態勢の中に演じ入れられることになり、繁栄の累積的蓄積をもたらした。手元の富は有益な利用のための新しい機会を刺激して有用性を増し、また産業的支配権を手中にした人々は様々な機会を予見したのであり、それらの機会を自分自身が信頼してこそ、その新しい見通し自体の鼓舞する冒険的企業を実現することが可能となったのである。
それは商業と産業の周期的繁栄――累積的に増加する信認、投機の進行、浮揚の高まり、拡張、インフレーション(膨張)、つまり何であれ不況の反意語として選ばれる用語の時期――のどんな研究者にもなじみの物語であり、この特別な繁栄期の主要な特徴はこの時期が新しい効率性の獲得から成長したものであるという点にあり、この新効率の獲得は、手中にある産業的資源が新しい産業体制の下でより多く利用されることにより産業的価値の増加を実現するという付随的な発見によって援助されながら事実上新しい技術的資源の発見につながったことによるものである。それともに、このような諸力の実際の発見がかなりの時間にわたって漸次的に進んだため、その推進力の上昇を最初にとらえた世代の生存中にこの繁栄と企業の時代を刺激の枯渇による停滞が急襲することはなかったというもう一つの特徴もあげられる。
この点で、帝政ドイツの事例は類似現象を示しているものの、ドイツ人が新しい産業体制を獲得する規模と歩調の成長も、また近代的商業と産業企業のより速やかな歩調も、彼らの経験を短縮しており、それはイングランド人の場合には百年以上もとらえた出発点から頂点までのゆるやかな運動を一世代に圧縮するほどであった。そくどのこの大きい相違は、手工業体制とその零細商業と比較されるような機械技術の異なった特徴から生じる。
ドイツの事例と比較してこのイングランド期の事業を引き立たせるもう一つのきわだった特徴がある。ドイツの新経済体制については、その開花が本質的には小さく一時的な混乱を取り除きながら、キリスト教世界全体の諸国民の平和と産業企業の発展の半世紀間に生じたため、ドイツの企業はすでに先に進んでいた他の産業諸国と競争しながら道を歩まなければならなかった。これに対して、エリザベス朝のイングランドは、キリスト教世界の他の地域がついでやがて破壊的な戦争にまきこまれ、産業の不振と経済の崩壊の長引いた時代に陥ったために、企業経営については特別に有利な状態にあった。そしてイングランドの産業社会にとって幸運なことに、それは彼らの産業上および商業上の競争相手の中でも最も有能な相手に特に厳しくふりかかった。それに続いて大陸では長期にわたる国家形成の時期があり、それはブリテン島という部分的な例外を除けば、キリスト教のヨーロッパを際限のない戦争と政治的陰謀に巻きこみ、南ドイツの営利企業の大崩壊の時代をもたらし、その破滅的崩壊のうちに終わった。大陸キリスト教世界のこうした漸次的な、ほとんど中断されなかった経済的衰退は、イングランド人に商工業に漸次的に持続する(progressively susutained)差別的な利益を与えたので、国内で醸成されたあらゆる騒動にもかかわらず、ブリテン島の住民は、一六世紀の特殊な環境が手中にもたらしていた主導的状態を保持したのである。またそこであまり重要いでない抑制――いくつかは大きい絶対的規模の抑制――にもかかわらず、エリザベス時代にはじまった繁栄はそれに続く二百年にわたって緊張度を減じて進み、また一八世紀の産業革命がもたらした新時代につながったと言うことができよう。
このありきたりな物質的成功の時期の大半は、そのイングランド人の名誉というより近隣の大陸人の不名誉のせいであると認めるべきだろう。イングランド人の大きい利点は孤立のために簡単に防御することができたことであり、そのため彼らが相対的な平和状態に置かれていたことにある。また大陸諸国の王朝的野心と愛国的および宗教的情熱は、それら諸国に極度の経済的混乱と産業的衰退をもたらし、かくしてイングランド人を前代未聞の逸すべからざる機会をいかがわしくも(doubtfully)有効に思うままに利用できる状態にしておいた。経済的利害と技術進歩の点で、エリザベス時代からナポレオン一世時代までの期間は、大陸のキリスト教世界の諸民族にとって、「蝗害年」(蝗の食べし年月)という表題のもとに置いてもよいかもしれない。イングランド人にとっては、同じ時期の中葉半分は慣性による緩慢な進歩によって占められている。
しかし、イングランド人がそのように大陸キリスト教世界の技術的知識を取得し、また妨げられずに利用することを許された期間は、帝政ドイツの対応する配分時間を六倍ほど超えており、そのため利用と新体系に移行するために強いられた速度は穏やかだっただろう。そのため物質的な生活様式における習慣化の新体系は、他の点における社会の思考習慣を修正するという帰結をしあげるのによりふさわしい機会を持つことになっただろう。生活体系の中にそのように取り込まれた技術的諸制度は、この新しい経済状態にそのように中毒した人々にそのための訓練を押しつけ、他の事柄についても、その産業体制に本来そなわている気分に調和するように人々の思考を変えることになるであろう。
イングランド人が借用し更なる帰結へと発展させた体制は手工業と小商業の体制であり、この産業体制にとって本来的または正常な気分は、自助と機会の平等を指し示す気分であった(23)。この体制に具現化される産業的職業および利害と規制の体系の一切の浸透している訓練は、穏やかだが大規模かつ着実な推進力をもって、ゆっくりと作用し、イングランド人の中に民主主義的な権利と不干渉、自助と自律の精神を生み出してきた。それは一六八八年の革命で政治的に頂点に達し、それに続き自然権という形而上学にもとづくコモンロー体系の発展を通じて感情(世論)の向かう方向を指し示し続けた。
それゆえに手工業と自助という近代初期の体制に向かうイングランド人の動きの結果は、就中、専制の解体および独裁的な権威筋による強権的監視の崩壊だった。新しい産業体制に続いて、またそれによって経済における裁量権と主導権の再分配が生まれ、強まると、古来の不服従の精神が社会事象の中に再び現れ、個人の物質的関心と主導権とを政策の前面に押し出し、「臣民」を「市民」に変え、国家を公共的平和の管理と私的利害関係者間の公正さ(equity)の規制のための役所にして「無害な廃絶」の状態に戻すところまでほとんど進んだ。古い王朝体制の印から遠ざかるこうした流れがすべて成就したわけでは決してない。――イングランドの自然権の増殖は、先史時代の型に沿う規制された無政府状態の体制になるほど熟したわけでは決してないとはいえ、その方向に向かう危険な脱線がときおり現れてきた。近代的な産業と商業の大規模で複雑な組織も、国際的不和の不断に現れる影も、そのような事態を許さなかったのである。

これらのすべてには時間を要した。この産業的および商業的体制の訓練が人々の習慣を改め、新体系の運営条件に合うように法的および道徳的観念を徐々に調整しなおすという効果をもたらすためには時間が必要だった。この再調整は、法令の条項および当局の規制を新しい産業と商業の要請に適合させ、その新しい要求に適合するように市民的および政治的な関係を規格化するしっかりした努力によって、部分的には慎重に行なわれたことは確かである。これらの努力はほとんど成功しなかった。それらは、大部分が、新体制の訓練によって浸透した思考習慣によってではなく、以前の体制から受け継いだ先入観にもとづいて生じた。また新たな経済状況を標準化し、規制しようとする当局のこうした初期の努力も、それ相応の実際的価値を持つこともなく、恒常的影響を持つこともなかった。
新しい訓練の心理的沈殿物と呼ぶことのできる事の形をとって新しい情況からやがて成長してきたような後代の法規的施策や行政的施策については、もっと(肯定的に)語ることがある。また道徳的、法的または知的な関心に関する見込みの変更にはもっと大きく本質的な価値を与えることができる。それらはこれらの類のその当時の慣習とその当時の価値評価の基準およびカノン――例えば宗教、芸術、特に文学、哲学、科学および礼儀と忠誠のカノン――の中で効力を発したのであり、必ずしも法令の形式または他の権威ある形式に取り入れらなかった。
このような成長には時間がかかる。それは習慣化の問題であり、また受け入れられた思考習慣を徐々に置き換える問題である。この部類の価値評価および行為の信条は一世代では獲得したり、捨てることができるものではない。たしかに精力的で慎重な当局による管理がそれらを獲得したり、捨てる習慣化過程をかなり加速するかもしれないことは確かであるとはいえ、突然法令によって押しつけられるものではない。しかし、最も配慮に富んだ当局の監視といえども、自由な諸制度または今問題としている時期のイングランドの発達を特徴づけるような自由思想と呼ばれうるものの成長を促進するには、相対的に無能である。これらのものは、不服従と進取の精神という古代の精神が回復力によって生み出されるものであり、強制的な指示によって養成されるものではない。
ここで、この近代的な労働および自助の体制の長期間の訓練の下で、何が宗教的信仰とその基礎にある神学的観念に生じたことを明確に述べることは必要なく、それよりも退屈なことであろう。その結果は、――新しい出発の分岐点にあった高い権威が欠けていたため――あらゆる程度の敬虔的な信頼性(authencity)に及んでおり、また反逆的、自律的で騒々しい異説のツギハギ細工は、敬虔な礼儀に対する洗練された好みを持つ者ならば、進んで頼みにできるようなものではない。哲学はせいぜい神学の侍女であったため、宗教の後退に続いて哲学の後退が起こるべくして起こった。そのため近代の特徴的なイングランド哲学の作品は、概して懐疑的な性質のものとなり、自助と人間による利用のために実利主義の原理に大きく依存しており、その道徳的前提と規範には物質主義的思考ではなく、功利主義的および実利主義的な思考が強くしみ込んでいる。
忠誠心も同様により低い地位へと縮小した。近代の英国臣民が国家に、また時折にせよ統治者と王朝に忠実でなかったというわけではない。しかし、現在の君主や王室に対する英国臣民の忠誠が自己の物質的利害に対するかかる忠誠のもたらす利益に左右されていたことは、ブリテン島内でも、また植民地のうち重要なものにおいても――例えばアメリカ合衆国を形成した一三州でも――痛々しくも再三再四明白となった。何のための忠誠心か、と問題を提起するような忠誠心には、封建的な理念、繁栄する王朝国家の土台を常になしていた熱狂的な自己犠牲というあの精神がまったく欠けている。英国人の忠誠はまったく「好天時の忠誠心」という汚名を着せられるわけではないが、王朝政治の立場から見ると、その部類のよい取引物件とはいえない。それはあまりに不服従の気質を帯びている。ここでも、イングランドの事例はこの点でドイツ帝国の事例と異なっている。
王朝に対する忠誠心、または国家にさえ対する忠誠心の点でさえ、イングランド人とドイツ人の間にあるようなこの気質の相違は、主にイングランド側における忠誠心の不足であるように見える。イングランド人は、自己犠牲および王朝政治ならびに君臨者家系とその貴族官僚層の増進に対する献身の点に欠けている。ドイツ国民の素朴な愛国的連帯とは対照的に、イングランド人の忠誠は自己利害の気質を持つ忠誠でなく、和らげられた不服従と呼ばれてさえよいかもしれない。しかし、それは種類の相違というより程度の相違である。インいnグランド人は、ドイツ人が保持してきたか、あるいは強化さえしたもの――国家の至上権と統治者の権威に対する敬意に常習的に身をゆだねるようなこと――をこの数世紀の間に失ったように見える。イングランド人の習慣的な態度と気質には献身が少ない。たしかにイングランド人の習慣的な気分にはいまだにこの高潔な誠実さのかなり役立つ残滓が残されている。しかし、それはある意味で見落とされて残されてきたように見え、また残されているものさえ自己利益という付け足し(afterthought)によって強いられる忍耐の限度内にある。
ドイツ人と比較してイングランド人が王朝的団結心と服従を欠いていることは、複数の要因によって発展が分岐したことから生じている。中世から近代への移行時、分岐が始まったとき、イングランド人はこの点で大陸の同胞よりあまり恵まれていなかった。中世的精神はイングランドでもさほど発展せず、ドイツ領における発展のほうが特に過酷で軍事的秩序のものだった。新たに分離してから、王朝的理想に対する忠誠と統治者の要求に対する服従は、イングランドではそこに広まっていた比較的平和な状況のため基盤を失った。一方、ドイツでは、概して、この心の習慣はすべて、支配者個人に対する忠誠心のより粗野でより野蛮な形を失うのではなくて、むしろ増加したが、それはこれらの諸国民が服従していた小規模で私的な軍事的企ての中で行われた持続的かつ精力的な訓練による(24)――とりわけ北部ではそうであり、ここでは政情が不安定なために、人格的な支配と従属的忠誠が(家臣の)武勇による保有権の因習化(強化)にさほど浸食されなかったのである――。
しかし、 近代のイングランド文化の最も顕著な特性は、また同時に近代全体を通じて一九世紀中葉に至るまでのイングランドとドイツの体系の最も特有な相違点は、つまるところイングランド人が物質的な現実に没頭したことである。英語の「現実」は、 この用語を使う人が意図的にそれをより広く押し広げて考えないときには常に、またその限りで、物質性を意味する。近代の英語諸国民の手中で、積極的な意図によってではなく無視によって、その概念の含意はこのように狭められてきた。イングランド人の精神構造におけるこの物質主義的な傾向は、「機械論的概念」――これはこの思考習慣のより正確な定義を分析的に与えようと試みる機会を持った人々が呼んできた概念である――において最高潮に達する。機械論的な概念と機械論的な見解は、もちろん、目に見える技術の性質および関連を持つものである。それは近代を通じて徐々に高まり、その最高点は歴史的現在にやっと達成された――もしこの運動の最高点がもう達されており、私たちの眼に最高点と映るものがこの傾向のもう達成された最も進んだ点であるためにそう見えるのではないと言ってよいならば――。この近代の数世紀を通じて、この方向に向かう流れが極めて一貫して進行したので、もっと後の段階に到達した点から見ると、機械論的概念が近代生活の規律の目指してきた到達点のように見えるのである。
  価値評価の唯物論基礎、および現象を取り扱うとき機械的論理への依拠に向かう近代の知的生活のこの傾向のすべてに、ドイツ諸国民はどんな感知できる程度にも関与しておらず、またそれに参加したとか、はっきりと貢献したということはまったくない。この広い否定(不関与)の一つの例外が近代の前半全体の南ドイツ諸国民に相応にあてはまることは疑いないが、この例外はそれがまさにあてはまる時期にさえ次第に力を減じてゆくのである。またそれが決して到達しなかった今後の最高点という観点からではなく、ただそれ自体を見ると、そのように評価されることはほとんどないだろう。この近代初期――例えば大雑把に一六世紀、またはおそらく一七世紀――の段階を別にすると、ドイツ諸国民の知的な趨勢は、明確にという程にではないとしても、唯物論的な精神(animus)からかなり遠く離れていた。総じて祖国の内に限定しても、これらの世紀を通じて日常生活の訓練は、全体的にみて、非物質主義的な性質と関係を習慣的に注意が最も向けられる側面に置き、差別的な正統性、威厳、カースト、階級、先例および序列といった価値評価にゆきつくような人格的な性格のものであった。それは町の集会、開放的市場および公道の秩序ではなく、むしろ異常な程に宮廷、野営、官僚制および警察の秩序だった――その傾向は機械工場と大工業からもっと取り除かれなかった。そのような秩序のもたらす知的傾向と体系的な思考原理は、機械論的な概念と併存することなく、むしろ理想主義的、精神的、先験的と言われる高次の思考習慣と軌を一にする。それらは非物質的で隠れた――知覚の現実性を越える概念の助けを得て確実性と決然性を追求するという意味で、先験的な――範疇の下に一般化し包摂することに帰着する。
この近代初期の形成期を通じて、キリスト教世界の知的生活を形づくったる習慣化について、イングランド人とドイツ人に純然たる対称性があるというわけではない。両者はともにキリスト教世界の文化的領域内におり、また少なくとも主要には、中世の文化的関心とは対称的な近代の時間内にいる。しかし、この二者はキリスト教世界の知的生活に関する限り、また特に近代的な諸制度が当時形成されたことについて語るべきことの多いあの文化的要素に関する限り、この文化複合体中の二つの極端な状態(または極)をなしている。すでに述べる機会があったように、その差異は程度の相違であり、両者の生活に入るいくつかの要因のどれかに当たる異なる圧力の相違である。しかし、研究の重点を両者の同一性ではなく相違に置く限り、そのような差異を対照的に取り扱うのが最も便宜的であろう。
そこで、ほとんど一時的で表面的な効果しかない余計な要因を除くと、また近代の初期を除くと、ドイツ国民の知的生活は、上で特徴づけたように祖国の生活秩序が与える方向をとってきた。物質諸科学または機械的な種類の技術的知識には相対的に小さい注意しか払われず、相対的にきわめて小さい効果があげられただけである――これらの分野で達成されたイングランド(そしてフランス)の成果が一九世紀初頭の頃に、借用した進歩を通じて最終的に根付く時点まで――。
ドイツの省察と研究は、手元にある知識の秘められた先験的な体系化に、そして精神の領域、すなわち人格的力と精神的一致という合理的な関係――支配と服従の体制、権威によって強要された伝統的価値観への秩序ある従属に彩られた合理化――における現実の探求に習慣的に注意を向けたという点で、深遠な性格と呼ばれてきたものを帯びた。その頂点がロマン主義学派のドイツ形而上学であることは言うまでもない。それは実際の因果関係ではなく論理的な適合性にもとづいており、また先験的な人格性を否認する(over-ruling)準汎神論的支配において頂点に達している。ドイツの思索は、論理的範疇と道徳的要請の(手直しされた)汎神論的体系で頂点に達する。一方、これに対応するイングランドの運動は、ここで問題となっている点にかかわる限り、事実の不明瞭で非人格的な事柄の無神論的かつ非道徳的な体系に強く傾いている。ドイツの習慣の下で登場したような人間精神のこの仕事は、「より気高い」、「より深遠」なものとして語られる――そのような区別が不公正であり、好みと見解の問題であるため、ここで論じることのできない論点をなしている。
それでも、ほかの場所や時代に広まっていたものと区別されるような近代キリスト教世界の諸民族の知的生活の特徴的傾向は、機械的な概念に表される精神である。これはあまり近代キリスト教世界の栄誉とはならないかもしれないが、この点でのみ近代キリスト教世界の文化がそれより前に存在した周知の文明社会を超えたという事実は残る。この精神がその実際的な効果、事実との調和によってのみ近代的な知的生活におけるそのような支配的な地位についたことも注目される。また機械論的概念が近代的な思考論理における支配的地位を与えられたのが主に英語諸国民の手の中のことであったことも注目されるべきである。したがってそれは近代が始まったとき以来、イングランド社会が従ってきた習慣化の経路の結果であると言うことができる。その観念は明かに技術的秩序のものであり、この事実は、その技術の普及している近代文化を、そのような命題が他のいかなる知られている文明に当てはまるより明確かつ直接的に、産業技術の様相を本質的核心としている文明の特徴とするものである。しかし、その技術上の半券は、産業革命期に先立つ近代の産業体制の中にではなく、産業革命以降に広まったような近代後期の産業技術の様相の中に見出される(25)

技術的慣習と科学的研究の予見のこのような相関が実際の明白な因果の連鎖だけでなく、近代の知的生活を貫いている様子は、すでに当面の目的のために別の場所で充分に概観しておいたので、そのすべてをここで繰り返しても何の益もないであろう。そこで言及した議論では、西欧文化全般の一段階として実際の事実の全般的進展を示しているが、この発展をヨーロッパの他の部分と異なった英語諸国民の所産としたあの環境に特に触れることはない。したがって、ほかならぬブリテン島にこの発展をもたらし、ブリテン島における発展の様相に影響を与えたイングランドの事例の特殊環境についてもっと語らなければならない。
主要で決定的な環境、この事例に関する他の環境の主因(causa causans)は、ブリテン島が島だということである。イングランド社会のこの島国的な位置のために、封建制はイングランドでは十分に確立しなかったか、あるいは成熟に至らなかった。「王朝国家」はそれほど強制的および熟練した方法で維持されたわけでなく、またヨーロッパ大陸ほど続くこともなく、いつまでも残ることもなかった。というのは、それは繰り返し生じた外国の戦争のもたらす必然的な挑発と機会とがあまりなかったからである。近代的体制に移行するとき、手工業体制をはじめとして産業情況が後進的な状態にあり、その手工業体制はブリテン島では歴史が浅かったため、特にそのギルド規制の点でヨーロッパ大陸ほどの精巧さには決して達しなかった。政治的、市民的および産業的な組織はより緩やかに織り込まれる性格を持っていたため(26)、敏速に変化する余地と個人の主導性のためにより自由な余地を提供した。不服従と個人的な自己主張が近代に大陸よりもブリテン島でより容易に、また少ない刺激でも生じたことは、当局側からのかかる譲歩が常習的だったことと共に、よく知られている。後になっても、この島国的な情況は同じ意味で社会の利害関係に影響を与え続けた。主要な事実は、相対的に平和な生活様式にあり、そのため人格的支配の漸次的は弱体化し、官僚的監視は衰退してゆき、それにともない利害と関心が軍事的愛国心および王朝的政策から離れて、戦争と政治に代わって平和術に向かい、また産業と貿易に熱中してゆく流れが生じた。
このように一般人の日常的思索を引きつけた産業は、その当時の他の土地と同じように、イングランドでも手工業的性格の産業であったことは言うまでもない。しかし、他のより高次の、より理想的な論理のカノンと一般化の範疇がなかったため――相対的に少なかったか、その重圧がわずかだったため――、通常のイングランド人は、――ちなみに彼らは他の民族と同様に大抵平凡だったが――習慣的に心に植え付けられていた範疇に助けられて、またその日常の職業から教わっていた論理を使って、自分の好奇心を惹くどんなものについても熟考した。これらの範疇は、手工業体制の下で自助によってやってゆくという日常的な手順によって強化されており、職人魂の範疇であったのである。また同じ身近な経験の力によって習慣的に自分の身につけていた論理は産業過程の論理であり、小商業のギブ・アンド・テイク(相互依存)の論理だった。非物質的な威厳と目に見えない壮麗さという因習を識別し順応するための相応の訓練を欠いていたため、彼は大陸の同胞の装飾品の一つであり続けた相違が感じられないところでは、あの抵抗しがたい差別感の多くを失っていた。彼は、平凡な数世代が経つうちに、唯物主義的な思考習慣に陥ったが、その唯物主義は、自己の生活習慣にかかわる産業的活動から、また家計の関心の中心点にある財から形成されたものであり、また同様に「市場の駆け引き」の中で熱狂するようになった重量と価格の細心の数字から形成されたものである。これらの諸問題を、この種の問題を、彼は理解することができた。そしてその論理は、途切れのない教義化によって、自己の関心の内に含まれる一切のものに通用する論理だった。そして、もし物質的データまたは少なくとも重量のような感覚的に表現できるデータや価格評価に役立ちうる様相を表さないものでなければ、この関心の内に入ってくるものはほとんどなかった。
そのような精神状態にあっては、人は一連の出来事を知覚できるデータの連鎖とみなすのであり、その中では、遠く離れている作用を認める余地(place and force)はなく、また重量という知覚可能な用語を使った公式化に耐えない「十分な理由」を探し求めることは無益となる。実際、そのような集団内では、十分な理由という無形の根拠にもとづく議論は賭け事ほどの説得力もない――賭け事は少なくともその領域の標準的単位による統計的な公式化を受け入れる余地がある。しかし、職人の論理は、その仕事で使われる材料に手で触れ、形を変えるという確かな知覚できる根拠にもとづいて行われる。有形的な効果を知覚可能に「生み出す」原因は、ごくありふれた唯物主義者の形而上内にあるものである。やがて新時代の科学者が彼らの好奇心を引き、彼らに知識の体系化のための枠組みを見いだすように求め始める現象を見るのは、こうした手工業を背景にしてのことであり、また商業会計統計を照らす無味乾燥な光のためである。そこで、科学的研究がイングランド社会ではじまるとき、それは有効な諸原因を探し、これらの諸原因を職人芸的な職人精神を持続的に示す形で見いだすのである。
これがイングランド人の新しい、他からの刺激を受けなかった発見だというのではない。類似のことはそれ以前のあらゆる知識の体系化に認められる。しかし、――例えばスコラ学派および後代の(ドイツ)神秘主義者(27)および近代初期の錬金術師たち(28)の体系化のような――神学、形而上学、呪術等々の個人的根拠にさかのぼるより高尚またはより観念的な体系にあっては、この職人的な有効原因という原理(思考習慣)は、議論全体に浸透しているが、不明瞭かつ大部分が公言されずに存在している。またイングランド人の主催する新時代がこの点で優先権を得ているというのでもない。これらの最近の物理的原因の探究者は、どこにも支援を求め、多くの場所に支援を見いだす。というのはその原理自体がその人種の最古の、強固な形而上学的な習慣の一つであるからである。普通のイングランド人が主催するこの新時代には、職人的な因果律のこの形而上学的な公準が研究の前景に姿を現しているというにすぎず、この公準は、軽視のためいっそう高い原理が不履行になっていることによって学問領域の終局的な体系化の唯一の自足的範疇として存立するままに残されているにすぎない。イタリア人は、つまり手工業と個人的主導性が彼らの中に物質主義的な研究習慣を育んでいた当時の、また教会による迫害と党派間の戦争がイタリア社会をふたたび正統信仰および忠誠という薄暗い宗教的な光に連れもどす前のイタリア人は、同様な素朴な探求に出かけ、同じ市場で売れる主要産物を持ち帰った。またこれと似たような情況のために自分たちの社会にとって無益な好奇心という同様な傾向が生まれていた時代のフランス人、オランダ人および南ドイツ人もそうである。いまやイングランド人の順番がやって来たとき、彼らは他の場所で既になされていたことを――またいまだになされていたことを――利用した。やがてイングランド社会が主導権を握ることになるが、それは諸般の環境が決めたことである。
やがて手工的技術が自らの特有の方法の限界を超え、自身の特有に職人的な思考習慣の結びつきを緩め始めると、感じられない程度に、新しい再出発が開始されたというより、始まった。一八世紀初頭頃になると、大規模で包括的な物理的過程、「省力装置」と機械的な原動力を含むような技術的手段への依存がある種の工学を技術体系に導入するような比重を帯び始める。次にやがてこの新しい種類の接近が産業技術の状態における本質的な要素として産業効率の問題に導入されはじめる。この新しい要因は、――あるいはむしろ、その技術体系の形成、あるいはその体系が生み出し、かつそれに従うべき知的態度の形成に向かうと考えさせる重みをいまや帯び始める古い要因というべきか――ともかく、この新しい要因は、船積み規模の拡大と機械的精巧化に関係しながら登場し、それと同時に体系化された計算可能な航海術、高速道(および水路)と乗物の改良が生じ、それに続いてより機械的に体系化された形への通信・運輸の方法と手段の転化が生じ、また水車・風車・その他の原動機、家畜飼育の改善に合理的かつ意図的に注意を払う農業過程の拡張と体系的な決定が行われる。
しかしながら、本来の手工業のより素朴な精神には異質なこの要素の産業体系への浸透が産業技術の状態に目に見えて影響を与え、また新しい内容の効率性原理というべきものが古いものに代わるほどの重みに達し、そのために「機械技術」がもはや職人精神とまったく同義ではなくなるのは一九世紀もかなり進んでからである(29)。しかし、技術体系を形成した思考習慣の首位の座は、一九世紀の第3四半期の頃に、職人精神から工学(エンジニアリング)に移ったと言ってよいだろう――少なくとももっと後の同様な発展からうかがわれる観点から事態を眺めると、そのように見える。単に当時の情況から判断し、また機械産業の後代の変化に影響されずに、この命題に同意する人がいるかどうかは疑わしい(30)。この時代が産業革命と命名されたのは後知恵によるものであり、その場合にも、産業革命は手工業の手作業を「容易にし、短縮する」ための方法と手段の体系として「労働節約装置」という用語で伝統的に評価されてきた。しかし、そこに生じた事態を見るとわかるように、この産業革命の技術的な特徴は、故意にでない限り、見誤られようがない。その効率は専門的な職人芸の効率ではなく、機械的要因にかかわる過程の効率である。
とはいえ初発には、あるいはもっと適切に言うならば、機械産業の時代の初発段階では、新しい手段の設計者と考案者が仕事にとりかかるときに持っていた先入観は、明白に手工業的な種類のものであった。初期の機械設計にあっては、彼らの意識的な目的は職人的な手作業を機械装置によって拡大された規模、範囲および速度で再生産することにあった。もちろん、これは造船、航海、道路工学あるいは牛の飼育のような領域には当てはまらないだろう。しかし、今やこれらの領域は、後になってみると(ex post facto)見られたようにより広範な機械技術体系の中に位置を占め、また機械論的概念の支配領域に入っていると見られているが、その一方で、当時は機械時代の技術の応用とは理解されていなかった。技術は、最初、また長らく単独で、そのようなものとして、また新旧の事態の相違点をなすものとして称賛されており、より狭い意味で機械として語られた装置だった――これらの新しい発明品の設計は、最初、職人的な予見によって現実のものとなったのであり、その発明者と設計者はこれらの擬人化された産業過程概念を振り払い、これらの過程が駆逐した手作業の論理ではなく実際に働いている機械論的な要因と過程の論理によって、機械的諸問題を解くようになったが、それはただ漸次的かつ感じられない程度にだった。
通常のように、習慣化には時間を要した。また機械論的概念の論理が機械過程の具体的細部に携わっていた人々の思考習慣の中に安全な居場所を確保しえないうちに、機械過程の世界に決定的にふみだした世代が去り行くことも明らかに必然的であった。その時々の知識体を体系化するために依拠する科学の規準と範疇は、日常生活の規律から遠く離れたところで生まれたものであり、技術者の予見よりも遅れて変質を被ることになる。しかし、この日常の習慣が最終結果をもたらすほどに十分長く、十分に一貫して自己の性格を保持するとのみ仮定すれば、その変質は同じ日常の習慣から生まれたものであるから、必然的にそれらにも及ぶだろう。そこで産業革命に続く一世代か二世代の科学的な仕事をなした人々は、いまだに一包みの原材料を取り扱い・一片の細工物を作り上げる典型的な職人から抽出した物のように見える効率的な諸原因というタームで自己の体系化を考え続けることがわかるだろう。またあの初期世代の科学者の理論的思索の中にある因果連鎖を支配する自然法則という抑えきれない枠組みには、古いギルド規約のなにげない提議をこえるものがある(31)
しかし、このように近代的産業技術の効率上の精神的な核を構成するこの機械論的概念はまたゆっくりと、不可逆的に、そして責任を問われることもなく、その論理を知識の領域全体に取り込んできた。もちろんそれが最初に、また最も明白に生じたのは物質科学の領域であるが、やがてもっと高度な事について省察する研究心を持つ人々の間でも生じた。機械論的概念は、機械技術が手工業を駆逐し、儀式の順守と強制的規則から関心をそらしたのとまったく同じ規模で、かつ同じほど全般的に、科学的理論の論理において神学校と紋章学校の予見の地位を奪ったのである。もちろん、後者の動きは、前者の運動に続いて起こり、またそれに左右されており、それゆえに同じように動くとしてもかなりの程度の遅れを示すことになるという留保を常に付しておく。
このイングランドの事例の分析全体の中では、産業技術の状態が唯物主義的および機械論的な関係における包括的な習慣化の方向に妨げられずに向かったと勝手ながら想定した。また旧体制の特権階級という権威主義的な因習に対する服従が残ることはなく、かつ人物を考慮せずに、それが自助と機械論的論理というかなり普遍的な精神をもたらしたとも想定した。もちろん、それは明らかに事実ではない。しかし、同じ歴史的時期にドイツ人に生じたことと対照すると、このようなことは、結局、特徴的に英国的な文化のより目立つ特徴であり、また実際すべての先進工業国の文明の目立つ特徴だった。だが、これらすべての社会では、またおそらく少なからず英国の事例では、少なくとも機械技術の到来に先行しており、かつ機械技術やその種の所産ではない慣習体系のきわめて大きい遺制が過去から受け継がれていた。教会と国家と貴族は、いまだに効果的に力を保持している。しかし、古くからの慣例によって、歴史がいまだにこれらの古代から注ぎ移された範疇のもたらした用語で書かれており、その結果におけるそれらの役割が広く知られていて、それらを思い出したり、参照するなど一切の必要事が与えられているのであるから、ここでは近代の英国生活におけるこれらの要因の働きをよく見る必要はない。それらが文化的な潮流の中で果たした役割は主に地味なものだった。
他方、一部は技術的性格を持つ直接の結果によって、大部分はこの新しい体制の産業効率に左右される慣習として、この新しい産業体制自体から広範な使用、因習、既得権、権利および礼儀の規準が成長してくるのであり、それは新しい産業技術の様相の一部ではないが、結局はそれから、またはそれを作り出す社会によるその利用から分離することは簡単ではない。これらの因習や規準には、産業体制の働きを妨げるか、その純効率を引き下げる効果がある。
イングランドの事例でも、ヨーロッパの他の地域と同様に、所有権は太古から法と習慣によって承認されてきた。そしてこれらの権利は、イングランドではヨーロッパの他の多くの地域より、国家による上級使用権の簒奪によって弱められなかった。また手工業体制の時代にあっても、また機械産業が登場してからはなおさらであるが、産業は金銭的土台の上に金銭的な利得のために続けられた。しかし、産業効率の上昇、取引および市場関係の規模の拡大とともに、「小商業」の形で始まり、手工業に侍女として奉仕した金銭的企業は、時が経つにつれて産業体制の主人、産業設備の所有者、そして――もしかすると――自己の金銭的目的のために産業の操業を指図する十全な自由裁量権を持つ・社会の技術効率の唯一の受益者となった。そのため近代に入って社会が獲得した技術的知識と技能とは、所有権によって、それらを統御している経営者の金銭的利得に主として奉仕し、ただ副次的に住民の福祉に貢献するにすぎない。もちろん、法的および慣習的に所有者に帰属する自由裁量権の規模がより十全であり保証されている点を除けば、またイングランド社会の相対的に大きく長期にわたった産業効率を除けば、このような状態はイングランドの事例に特有というわけではない。産業効率は、他のどの地域よりイングランドで補足的な結果がより大きく成長するための時間と視野を与えたのである。
私的利得のために営まれたイングランドの産業体制のこうした補足的な結果は二つの項目に分かれる。それは、産業(生産)に影響を与えるものと、生産物の消費に影響を与えるものである。前者は競争原理に属し、後者は顕示的消費――生活水準とも呼ばれるもの――に属する。三番目の要因となる習慣の惰性は、これら二者の両方に影響を与え、ごく普通にはそれらを強化すると同時に、――特に産業的な方法と手段における積極性を妨げ、革新を遅らせる形で――産業体制の効率に重大な影響を及ぼす。これらのいくつかの方向のすべてに何かしら体系的な成長のようなものがあり、それは実際の機会によって左右されるが、また結果が熟すためには時間を必要とするだけでなく、問題となる実践を停止する緊急の必要が生じる場合に、その停止を進めるためにも時間を要する。
経営管理の産業的な影響、あるいは産業体制に対する「有機的」影響と呼ぶほうがよいかもしれないことは、その生産効率にとってすべて有害というわけではない。ただし、それらの十分な発展のために時間と習慣化を要するそれらのほとんどすべてがそのような性質を持つわけではない。こうしたことは一般的によく知られている。実際、それらはごく普通に知られている事柄である。しかし、それらはまた太古からの所有権および価格制度ときわめて堅く結ばれているので、――おそらく正しく――経済状況の本性の内に存在する当然のこととして受け入れられている。市場競争に従って相反する目的のために組織的に働くことはほとんど言うまでもないことであり、各競争者の目的は利益を自分に向けることであり、それはおそらく付随的には社会の物質的福祉に役立つことであろう。所与の、だがしばしばありうる環境の下では、この情況は、それを統御する経営者の金銭的利得が社会の物質的福祉にとって有害な設備――例えば粗悪品のように混ぜ物と代用のまがい物の使用、有害な特効薬や飲物の生産・販売、危険で非衛生な住居、道路、乗り物および家庭用器具、産業における危険な機械と有毒な成分および工程の使用、等々のようなもの――から最もよく得られるように転じる。これらのいかがわしい利得手段はいつの間にかより完全に、産業的および商業的体系に浸透し取り入れられることになる。これらの事柄に多くの才能が使われ、多くの事務的な産業がこうした「乱用」――しばしばそう呼ばれている――の維持と寛大な監督に権益を持つようになる。
 重要さの点でなくとも、広く知られている状態の点で次に来るのは、頻繁な怠惰の季節、市場が求める装備と労働力の失業または半失業(不使用)である。これらの困難は、産業社会とその市場関係の大きい複合的体系――この体系の中では、終局的には機械技術の支配下で産業過程が専門化し細分されるために、またいくつかの産業が価格タームの利得を私するために営まれるというより直接的かつ決定的な事実のために、様々な部分と行為者のきわめて大規模な相互関係が広まっている――が成長することによって増加する。この種の失業は常に価格を考慮するためのものである。同様に価格を、また価格タームの利得を競争的に配慮することから、雇主の利害は労働者の利害と一致ないことになる。この利害の相反は言葉巧みに否定されてきており、こうした弁舌がいくらか信用されていることは言うまでもない。しかしながら、本当の経過は広く知られている。一方では、労働者には彼らの行う労働の効率には心底からの利害を持たず、むしろその代価として価格タームで得られるもの(貨幣賃金)に利害を有している。他方、雇主は、労働者の福祉への、または持続的な効率への人道主義的な――まったく二義的と言われる――利害をなにも持っていない。そのため、一方では、禁止的な労働組合規則、ストライキ、ロックアウト、その他の同様な産業過程を乱すものが、他方では、しばしば超過労働、賃金不払いおよび劣悪な労働条件、等々の形で、不当な範囲と方向を取る人的産業資源の搾取が続くことになる。特にイングランドの場合には、これらの「乱用」は広く知られている通り極端に実施され、また同じく広く知られているように、その完全な展開に時間をとったため、それらを是正するためには時間と努力が必要となるだろう。例えば、たくさんある中から一例として、また雇用労働者雇用におけるこの競争原理の作用をただ単に冷静に示すためには、次のことを認めれば充分であろう。すなわち、イングランドでは、新産業体制の最初の百余年間に、労働、賃金および家計の状態が「救恤的」労働者のかなりの人口を生み出し、彼らの衰弱を「第三世代または第四世代に至るまで」の子孫に伝え、彼らをいかなる有効利用にも適することを疑わしい状態にしておくのに十分に身体を害されたままに放置しておくような性質を競い合ってもたらしたのである(32)
営利経営という競争制度と結びついているのは販売術の中にある近代企業である。販売術の拡大は、産業における営利経営の拡大と関連しながら進行する。実際、近代後期の発展では、また営利的な土台上にあるほとんどの産業的事業のように市場に大規模に入ってくるような種類の企業では、販売術はしばしばと特定の営利事業体の費やす努力と資金の半分か、半分を超えて入ってくる。広告および広く知名度をあげるための類似の冒険をはじめとする販売術の費用は、しばしば消費者にとって商品価格の半分をかなり超え、ときには七五パーセント、九〇パーセント、または百パーセント近くにさえ達する。(特定の営利事業体の内部における機能の適正な専門化を許すような規模で、かつ十分な手段を用いて営まれるという意味で)より大きく、より複合的に、より十分に資本化されると、総支出の一部は全体的に販売術に入る。要するに、経営の情況がより成熟して近代的になるほど、総支出の割合はより大きくなるのである。
販売術に要する支出は、社会全体の物質的福祉への貢献度の面から評価すると、ほぼ純粋な浪費である。それがほぼ純粋な浪費にどれほど近いか推測するのは危険かもしれないが、一般的に有益な目的に役立つ販売術のための控除はいずれにせよわずかなものであろう。それにもかかわらず、競争的販売術および他の競争的経営の戦略的手段は営利的な産業経営の本質をなしており、――そのための成熟の時間を所与とすると――条件が許す限り、それらの増加は限界にまで至る。条件が許す限りというのは、終局的には、どれほどの人およびどれほどの資金投下が、生産的産業に使われた人々と装備のための生存最小限と当該産業の総産出量とのマージン(差額)にもとづく賃金と利潤の「現行」率と呼ばれる点で支持されるかという問題である。装備の資本化価値と雇用された労働者にとっての現行の賃金にもとづく利潤率を所与とすると、何であれ残余部分を吸収する販売術として存在するのは、調整のために必要な時間でしかありえない。しかし、必要な調整には時間がかかる。また技術体系、したがって物質的装備は絶えず変化しており、市場化できる産出物のための市場として役立つべき人口と分配も変化しているので、販売術の企業と投資がまあまあの範囲内で条件の許す限り限界に近づくことができるのは相対的に古い工業国に限られている。そして、そこでさえ、連合王国のように高度に商業化された社会でさえ、販売術の企業が今や疑いなく機械技術の範囲内に暮らしている他の、産業的にもっと新しいいずれの国よりそれにきわめて近づいたとはいえ、まだ決してこの限界にまでは達していない。後発的なドイツの事例との対照は十分に明らかである。
「老朽化(経年)による減価」は近代の会社会計のかなり重要な項目であり、また産業生産設備にかかわらなければならない実業家にとって苛立ちと困惑の種である。その第一の最も素朴な形は便利な器具や工程が競争によってもっと便利なものに替えられることに見られる。そのような減価についての議論は、しばしば減耗の分析におけるこの点より先に進まないが、ただし、より関心を引き、また困惑的で悲惨な事例はその点を越えたところにあり、それは機械発明の細々としたことより広い射程距離を持つ原因に由来するものである。ある営利事業体が同じ産業で競争する隣人に対立しながら享受している差別的利益を変えるような技術革新による細々した減耗は、普通、産業全体または社会全体の効率や福祉に有害な影響を及ぼさない。減価はただ競争によるものであり、また他の事業体に対立する一事業体の金銭的利得の減少という効果を生むだけである。社会全体または特定分野の産業は、革新によって効率を高める。同じことは「全般的な」減耗と呼ぶことのできる場合にはあてはまらない。それは産業社会の成長による(あるいはまた衰退による)か、それともなされる仕事ないしは雇ったり雇われたりする人口分布の変化のもたらす環境変化によるものかもしれない(33)。この種の減耗は、成長の問題であり、産業技術の状態がいくらかでも感じられる程度の変化を常に遂げている社会ではどこでも進行しており、技術的な様相の成長が長く続くほど、いっそうそのような減価は避けがたくなる。
イングランドの産業体制のように、改良、拡大、革新および専門化の経路をたどってきた産業体制は、過去に一度ならず、複数の事情に関連して、その当時は適正な規模の器具と工程表および時間調整と言われていたものに係らなければならなかった。一部はそれ自体の成長によって、また規模を拡大し生産やサービスの速度を上げるように意図した技術革新によって、産業とビジネスに受け入れられた相互関係も既存の装備も時代遅れとなる。そして、それにもかかわらず、従来からの体制が持続して働くことに特別の関心をいだき、ともかく技術的なことにあまり詳しくない保守的な実業家の社会にとっては、健全な事業案として承認されるような治療法を見いだすことは決して容易なことではない。問題となっている老朽化が、競争相手の事業体に対立しているこれらの実業家の一人または一団に顕著な差別的利益をもたらさない限り、論理的に言って、治療法は追及されないことになる。細々した革新による適切な治療法はいつも実施できるわけではない。実際、この種のより重要な局面では、新品目の装備がすでに古い装備を支配している仕様に必ず順応することを求められるという点で、それは事実上不可能である。
例えば英国の鉄道が、他国の鉄道のように、狭すぎるゲージ(軌道)で建設されていることはよく知られていたが、この「老朽化による減価」の項目がしばらく前から知られていたのに、それは最も天才的な省察の中でさえ治癒できる欠陥と考えられていなかった。同じことに関連して、アメリカの観察者、また最近のドイツの観察者は英国の物財運輸に使われている、馬鹿げたほど小さく、短い車両に強い印象を受けてきた。アメリカやドイツの鉄道輸送がどんなものにも役立つ前の当時は、それで十分だったが、今日の必要性に直面するようになると、せいぜいお遊びという雰囲気を持つことになる。それにもかかわらず治療法は単純な良識の問題ではない。この鉄道制度の中で最も古く、最も完全な制度上のターミナル設備、軌道、側線設備、そして貨物輸送を取り扱うすべての方法と手段がすべて短い車両に合わせられる。そこで、やはりここでも、機関はもちろん、鉄道の路盤とレールも、それらが初めて操業されたときケアするように求められたような輸送をケアするのに十分なように建設されており、後の必要性に応じて少しずつ調整するのは容易なことではない。社会全体とその物質的利益の見地から見ると、利益をあげながら時代遅れの装備と組織を取り除く――口語の表現では「廃棄する」――べきであり、また後の装備に入れ替えるべきことはおそらく間違いない。しかし、それはこれらの問題を必然的に決定する経営者の裁量にまかされており、支配的な経営者の競争的な金銭的利害に照らしてみると、この命題全体が異なった意義を持っている。
この英国の鉄道制度とその細々した欠陥という事例は、たとえ老朽化がほとんど、おそらく多くの面でそれほど明白でも重大な問題でもないとしても、ずっと英国の産業装備と組織全体に典型的であり続ける。町、道路、工場、港湾、住居は、今や産業技術のかなり時代遅れの状態となっている事情の求めに応じるために過去に建設されたものであり、それらは全体的にも個別的にでも、これらの器具が設置されたときの産業技術の状態から産業技術が変化した程度に応じて「不適当、無能、不適切」となっている(34)。それらは変化する要求にそれなりに応じるために、改善され、「仕上げられ」、改造されてきたのである。
しかし、これに関係して言うと、こうした改良、改造および修理という仕事の主要な意義は、この仕事がかかる老朽化による全般的な減価を克服することに致命的にも消極的で無能だということを明らかにしていることである(35)。これら一切のことは、英国人が技術規則に対して罪を犯してきたということではない。それはそれらが先導者の立場にたつ羽目になり、(後進に)道を示してきたことに対するツケを払っているにすぎない。同時にこの先導者の立場が痛みと罰しかもたらさなかったと想像してもならない。この英国産業情況の欠陥は、主に英国人が彼らの過去の達成という抑制的な死せる手がなかったならばなしているかもしれない達成物と比較すれば、また最近では新来のドイツ人がイングランドの技術的知識を使ってなしていることと比較すれば、明らかになる。現実の姿としては、手元の機械装置の形でも、人々に浸み込んで利用可能となっている技術的知識の形でも、物質的および非物質的な蓄積された装備はつまるところきわめて高い価値を持っているのである。とはいえ、実際には、ドイツ人の事例は、まったく第一次的な重要性を持つものが現存「生産財」の蓄積ではなく、むしろ後者、すなわち非物資的な装備であることを明らかにしている。これらの「生産財」は労働の他には費用がかからない。非物質的な技術的技能の装備は長年の経験を要する。
もちろん、このことが現在蓄積された資本として語られているもの、すなわち産業経営に投資された資金という富に当てはまることを意図してはいない。それは社会全般にとってさほど重要ではない。この意味での資本、企業資本の総計は、物質的および非物質的な産業設備の利用にもとづく差別的権利の疑似的総計という以外の意味をほとんど持たない。そして記録に示される資本に計上された富の総計が(会計士の最後の頼みであるが)これらの「簿価」が要求すると考えられる物的項目の時価総額をかなり大きく超えることは、他の発達した商業国だけでなく、英国にとっても当てはまることは疑いないだろう。それは経営を遂行するに際して信用と会社組織を大規模に利用するどんな国でも必然的に現実となる。
機械産業の規律は、単にその直接的な影響範囲に限っても、ある程度の非人格性という性格を持っており、人格的な統治の安定や拡張の助けにならないことは明らかである。それは、上司という人格の任意の要求に対する従属ではなく、むしろ非人格的で、またその意味で平等な機械過程の広まりを適正に認めることを教え込む。労働者集団と、その労働が労働者に結びつける技術的な要素に関係する限りで、近代的な産業方式への中毒によって生じる精神的習慣が市民的関係における個人主義的な傾向に、また権威主義的政府のいらだちに有利に作用することになる。そして概してそれがかなり最近まで近代的な産業生活によって実施されてきた訓練の正味の結果であったように思われる。しかし、産業の営利的な統御が広く有効となり、また産業的職業の組織と管理の主要な要因になるや否や、人格的な裁量が再び目立って実際のものとなる。所有権の権威が金銭的圧力によって強化され、産業と投資の規模が大きく成長するにつれてより包括的で不可避的となる強制的性格を帯びる。近年の大規模な条件の下では、この所有の権限は、責任を問われることのない圧制という無情な冷淡さを持っているが、きわめて無情な専制をも和らげるような温和な特徴をまったく持っていない。それが強要する従属は、ビジネスの統御体系がより包括的になり、またより厳格に確定するにつれて、ますます不本意な不忠に向かう不機嫌で非熱狂的な性格のものである。そこで、イングランドの事例では、二つの階級、労働者と彼らの所有者との疎遠性は、産業体系の遂行に関する一切においてほぼ完全となっている。とはいえ、その帰結は、結局、一種の服従の規律であり、また階級内部の協調的行動と団結の規律である。そして協調的行動および利害と信念とを同じくする社会というこの規律は、その分だけ人々が大衆統制を受けやすい状態にしておき、また国家権力を支持し、当局の営みが奉仕している利害関係者を強化するために集団に投げ込まれるような状態にしておく。イングランドでは、国民的連帯の感覚および普通人にとって物質的な価値を持たない国内政策の支持は、この二、三十年間、以前より目に見えてよい修復状態にある――以前は、株式会社型の営利会社および労働者の組織は規律を国民感情の形成に向け始めたばかりだったのである――。
このイングランドの事例から測ると、ある経済状況の規律の生み出す思考習慣は実際の体制の最善の働きに、あるいはこの体制を利用して生計を得ている社会の最善の物質的利益に必ずしも結びつかないように見える。換言すれば、ある方法と手段の体系、ある生活体系の作用から生じる行動の原理および規範は、必ずその体系の効率や住民の繁栄に貢献するようなものではない。習慣化の性質について少しでも考えればすぐにわかるように、それらはすべて偶然の一致にすぎない。その間、どんな産業技術の状態の下でも、例えば生活の教え込む規律(思考習慣)はこの所与の産業技術の状態の提供する生活条件といくらか相反するというきわめて合理的な推定が、何らかの偶然から、現代には、かなり成り立つ――ただし、技術的な性質を持つような思考習慣を除くが、それは産業技術自体の一部なのである――。
 この命題の明白な例外は、問題となっている技術的体系、そして他の生活様式を支配している、それに付随する体系が淘汰的な試験――この人口が特定のタイプの人間として生存していた生活史の初期段階にこれらの文化的条件の下で繁栄するという淘汰的な試験――によって当該人口に適していることが証明された地域に見られるだろう。バルト海・北海地域の他の民族と同様に、英国人についても、それは近代的生活のもたらした習慣(原理、諸制度)の成長が――その潮流が新石器時代の北欧に広まっていた文化体系の復興に向かっていることを除くと――どうやら逆の性格のものであることを意味するだろう。また全体的に、それはその方向から分かれるほど逆に見えるであろう。

今やいささか時代遅れとなった予見、権益および産業装備とならんで、生産体制を支配する習慣が成長する一方で、産業と経営を支配する因習と同程度に安定して厳密な慣例、規範および偏見とならんで消費習慣の成長も同様に進行していた。 経済学者が通常学術用語を用いて取り扱うように、これらの消費習慣はまとめて生活水準の項目に分類してよいだろう――ただし、技術的な用法では、その用語はその語源的な意義が人に期待させるような物質的福祉の標準を示すものではない――。それはむしろ消費がどんな根拠にもとづいて計測されようとも、消費水準を意味するものであり、通常、消費者の物理的福祉には関係しないか、少なくとも人々の意図する関係を持たない品目を含むことになる。貧富にかかわらず、どの階級にとっても生活水準に含まれるものの大きい割合、おそらく大部分は顕示的浪費(36)という理論的範疇に入り、それは生存だけでなく時間と労力の消費をも含んでいる。
道徳がなくても許されるが、教育がないのは許されない、というのは、よく知られた一つの警句の知恵である。儀礼作法の規準は、伝統に一致しており、メディア人とペルシャ人の法のようなものである――彼らは情状酌に服さず、それを認めなかった――。簡素で厳格な法典の場合にしばしば生じたように、違反に対する刑罰は法からの追放であり、この措置は犯罪人の追求と根絶とをあらゆるよい出自の者(gens de bien)に課せられる責任として含むことも含まないこともある。
通常の場合、社会内部の隣人にふさわしい礼儀作法を普通に実施する場合には、その結果として生じる追放の予定行動は社会階層化に帰着する。その際、諸個人は、育ちの点で同様な習慣を持つ人々、およびその時の支出水準の点で似たような習慣を持つ人々との接触および協働のために生じる「同類という意識」によって、また彼らがもはや帰属してない人々の金銭的水準から排除されて、自分の新しい居場所に落ち着く。その一般的な結果は階級間の怒りと羨望の、そして個人と個人の対抗と誹謗の横行を超えて深刻なものとはならない。この時間と資産の消費にかかわる慣習の、またそれに付随する行儀作法と育ちという細部の差異が大きく一貫しており、また文化的に異なる社会の間を走っている場合、その結果は二者が相互に疎遠な関係となりに、それはちょっとした挑発で殺人行為にまで高まり、国民と国民の敵対行為に捌け口を求めるかもしれない。通常、愛国的憎悪が宿るのは、このように伝統が侵されたり、不快感を与えるという感情的な土壌の上である。最も有能な王朝政治家と商業的愛国心を持つ最も抜け目のない戦略家といえども、そのような「文化」の相違から生ずる似非道徳的な敵意がなければ、文明人に国際的殺戮状態をもたらすことなどできない。
今や、こうした慣習――時間と財貨の消費において、またそのような消費という儀式に当然含まれている振る舞いと儀式の点で、礼儀にかない称賛に値すると理解されている点にかかわる慣習――の成長が近代イングランド社会に、また英語諸社会全般にも、この点で大陸諸国民の同時代の結果と顕著に異なる結果を、とりわけドイツ諸国民の中で練り上げられてきたものと異なる結果をもたらすようになる。ドイツ諸国民は、他の多くのことと同様に、物質文明のより古い局面が教え込んできた伝統的美徳の多くをこの点に特に維持してきたのであり、ここから和解不可能となった「文化」の差異が生じる。
しかし、ここでもっと直接に関心を引くのは、英国社会の純産業効率の上にこの消費の慣習が成長するという関連である。きわめてよく知られているように、生活水準は、総じて大陸諸国全体より連合王国で、特にイングランドで高かった。そして、この水準が近代を通じて、またより顕著には産業革命以降も時々中断しながら上昇してきたことは言うまでもない。その時々の生活の必要条件のこうした進歩は全ての階級と状態に影響を与えたが、より高次の金銭的水準に相対的に最大の影響を与えてきた。そして、これらの因習的必要性の点で上流階級の手本が下層階級の習慣の成長を大きく導くにつれて、富裕者の(金銭的に)正しく正直な生活という規範が社会全般の富にとって広範な意義を持つようになる。
最初、イングランドが合理化し、あの近代的産業情況を創造した孤立的な経済政策コースを取り始めたとき、イングランドの信望の金銭的規模は大陸の水準よりいくぶん低かった。意気揚々と威張って歩いたエリザベス時代にもイングランドの流行の旗手たちは大陸モデルを追っていた。また実に、高級・壮麗という大陸的標準に最も接近していた人々さえ当時は柔弱な浪費家としてけなされたほど距離を隔てて、大陸モデルに従っていたのである(37)。彼らが専門用語の意味における浪費家であったというのは、訂正・修正することのできない命題である。それが自然状態の経済に占める彼らの位置と習慣であった。また彼らが「神の与え給うた生活状態」をきわめて効率的に満たしたことは紳士として賞賛に値する。国民的文化の集合という観点から見ると、紳士というのは美徳の一項目であり、その価値は完成した職人芸と洗練された味覚規準に適合することにある。紳士が浪費的な存在であることは事実の本質をなしている。模範的または主要な紳士が特定の文化の中で顕示的浪費の型としてどれほど浪費的に引き上げられるかは、当時の生産と分配の体系がどれほどの大きい割合を顕示的浪費的な消費に費やすかという問題である。
いずれにせよ完全な紳士(および完全な女性紳士)の発展には時間がかかる。制度として、完全な紳士(または女性紳士)は、使用される原材料を最も経済的に利用することしか許さないという批判的感情を背景にしながら、顕示的浪費の原理(思考習慣)の全面的な監視を受けつつ完成される待遇、区別、洗練された嗜好という複合的な事象である。これに関連して、この経済的規準は、紳士の顕示的浪費が偶然や漏れによってではなく、誰か他の人の物質的福祉に、または金銭的利得に断じて貢献してはならないことを求める。これらの卓越性という印にもとづいて判断すると、それは紳士(または女性紳士)というイングランドにおける金銭的文化の主要産物が人間の欠点がもたらすも同然のことであることが、異論なく認められよう。産出量もほぼ期待されるほどに大きい。実際、また当然ながら、それは事情が許す限り大きいが、その訳はイングランド社会がキリスト教世界の領域内で金銭的文化の達した最高かつ最大の成熟にゆっくりと、釣り合いよく成長してきたからである。他の英語諸国民もよくやっているが、遺産に入りこむのが遅すぎたため、処理可能な幅の財貨とエネルギーを物質的に役立つ余りを残さずにどう処理するべきかというこの難問を解決できていない。多くの他のことと同じく、彼らの努力は、この構成におけるイングランドの主導権から受け継いだ制度を保守し、その効率を高めることに向けられるのがせいぜいである。
エリザベス期の若い世界(juventus mundi)の大いなる鋭気がイングランド人に経済的覇権の道をスタートさせるとすぐに、イングランドの富裕な人々の高支出は大陸の批評家たちの注意を引きつけ始めた。イングランド人は旅行――金のかかる習慣――に走り、そしてそれ以来ずっと、彼らが極めて浪費的な支出を行なうことはイングランド人旅行者に対する定評的な批判となってきた(38)。この大陸の批判者による批判は、通常、羨望の調子を帯びることになるが、ただし、その最も突出している点はこの英国人の支出請求書の不経済的な――上記したように、これらの問題に適用される経済的規準の下における不経済的な――特徴の指摘にある。今日のイングランド人は、その紳士の数でも、その単位あたりの費用でも共にキリスト教世界をリードしていることは疑いない。この費用は生産の余剰から支出され、その分だけ純余剰を減らしている。英国紳士階級の現在の純費用の総計を示す数字は、所得表からいくぶん差し引くことができるかもしれない。課税所得は、合法的に免除されなくなる限度まで顕示的純浪費の項目に確実に含めることができる。――この見積りから生じうるどんな誤差も、少なくとも他の源泉、例えば鉄道と気船乗客輸送、ホテル、様々な行楽地の営業費などから引き出される同類の浪費的支出項目によって相殺されるだろう。
スポーツは、この徐々に成熟している英国の顕示的消費の浪費体系のきわめて大きい源泉であった。さらにスポーツは、それ以外にはなんらかの有用な目的から簡単にはそらせないエネルギーの失礼を失わずに非難されることのない捌け口を与えるという利点を持っている。スポーツは、規模の上で、またそれを連合王国で育成するのに必要な環境のために、人気のある趣を長期間、持続的に訓練するための費用なくしては、日々の生活体系に取り入れることできない。それは不愛想な措置によってなされないのである。いかなる成人男性の市民であれ自ら進んで英国式の凝った無用物、例えば射撃や競馬、ないしはポロや登山のような空しい離れ業、または大試合のための遠征に熱中することなど、まったく想像力の及ばないところである。この子供じみた見せかけ(make-believe)のひと勝負への熱狂的傾倒を意味する良識を消すことは一世代では達成されえない。それには伝統が与えうるあらゆる正統性を得ることが必要となり、したがって次世代の教育を幼少期に始め、教育体制全体にわたって追及しなくてはならない。もし人々の感情がゆっくりした習慣化によって同じ傾向へと徐々に転じることがなければ、それが人々の感情によって許容されることもないだろう(39)。だが、習慣化が作用してきたため、社会全体がこれらのことを許容しただけでなく、この過剰な愚行が時の経過とともに文明生活の正義、善および必需品であるというイングランド人の観念に組みこまれてしまった(40)。これらのすべて、そして同様なことは、説教の言説にとってはよい材料となるかもしれないが、この点に関して、その価値評価はここでは問わないこととする。今目的としているのは、これらの深く浸み込んだ浪費的な使用の、英国社会の純産業効率に対する関連、この浪費的使用が生み出す幸運を得た産業技術のこうした近代的な状態の、社会全体に対する純有益性の関連である。

このすべてが、また同様なことが、説教にとってよい資料かもしれないが、それに関係するその価値はここでは問題としない。本稿の目的となるのは、これらの染みついた浪費的使用の英国社会の純産業効率、彼らが幸運にももたらした産業技術のこの近代的状態の利用の、社会全体への効率性に対する関連である。
さらに説明を続けると、――スポーツの項目を単独の分離された項目としてはっきりと孤立した状態に放置しないように――、豊かな英国人に慣用によって義務となっている住居と家庭内設備の面における浪費的消費について一言語ってもよいだろう。巨額の富を持つ紳士は、複数の居所、住居、またはその他にどんな用語であれ一人の表向きの居住者がそのわずか一部しか利用できないような建造物を意味するものを持つべきである。町と田舎でどれほどの住居が特定の金銭的格付けの特定の紳士に必要であるかをはっきりと述べることはもとよりできない。一般的に言えば、そのような紳士は、表向きにさえ、自分が便利に利用することができる以上を、また維持することのできる限り多くの大住宅を持つべきであると言うことができるだけである。この制度の目に見える経済的効果は、各々の(上流階級)世帯のための一団の奉公人と世話係を有用な雇用から遠ざけると同時に、普通人が各世帯に属している土地(これはできる限り広くあるべきだが)を利用できないようにすることにある――すなわち、この(紳士の)実践はブリテン島の純利用可能な地面をそれだけ減らすのに役立っているのである――。
この社会の上流身分の人々の義務的となっている奉公人の使用と儀式習慣をもっと詳しく述べる必要はない。この点を補強するのに十分なことがきわめてよく知られている。すなわち、多くのことが習慣から因習的必要という範疇に入っており、またそのため総生産能力と純利用可能余剰との乖離幅が大きく狭められている。またかりにこの社会は競争状況の必要性から利用可能な力を最大に利用することを求められているとしても、またはその時には、有効な効率をその社会の理論的な効率にまで高めることは時間、圧力および困惑の問題となるだろうという点についても同様である(41)
この、因習的に承認された浪費者の手中で行われる因習的に標準化されている浪費は、すでにそれ自体として十分に大きい障害であるが、また間接的に、人々の嗜好と模倣による同様の習慣の普及に及ぼした方向の点で、もっと大きい結果をもたらすことも疑いない。上段で指摘したように、イングランド社会全体の生活水準は大陸諸国より高く、概して近代を通じて上昇した。この水準の上昇は、一部が物理的な快適さの水準の上昇である。それがまったくそのような性格のものであるということを意味する言葉で、そのことは屡々話される。だが、すぐ上で言及した、犬を飼う慈善事業といった類の挿話は疑念を生みやすいが、その経済的価値を評価するために英国労働者階級の取るに足らないおしゃれと野暮ったい遊興を詳しく調べるのは無作法にして煩わしい作業となろう。
しかしながら、社会全体の産業効率にかかわる英国と大陸の習慣の対比を示すために、疑問の余地のない趣味についてある事実を引いてもよいだろう。例えばイングランドの女性たちが野外労働をするのは、不道徳と言わぬまでも、不適当ということになった。一方、大陸諸国では、またおそらく特にドイツの諸地方では、女性たちはそのような道徳的な制限を受けずに野外で働いている。それは身体的な苦難という問題ではない。野外労働は室内労働より見た目ほどに煩わしくなく、また疑いなく健全である。北欧の住民は遺伝的に他のどんな住民にも劣らず屋外的な民族であり、おそらく他の多くの民族よりそうであろう。また女性は男性と同じようにこの遺伝の影響を受けている。屋外労働から女性を「免除」するために様々な議論が提案されている。これらの議論は、詳しい吟味に耐えるのに適合している限り、因習的妥当性を考慮した結果であることがわかる。それらは一切の有用労働からの富裕な女性たちのあの免除(これがイングランドの社会的規範の主要疾患の一つ、また顕示的浪費の原理の主要な適例の一つをなしているのであるが)を衝動的に模倣する性質のものであるように見える。これらの評判のよい免除の経済的価値は、利用可能な産業力を直接減らすという点でも、またその支配下に入る住民の部分の活力を引き下げることによって間接的に効率を下げるという点でも、相当なものである。その難しさはこの社会の産業効率に起因している。この産業効率は、浪費する余裕があるほど十分に高かったか、あるいは少なくもこれらの免除が最初に定着したかの上流の準有閑階級の中ではそうだったのである。階級差と階級的免除が主に金銭的土台の上に実現される社会では、浪費的な因習は低位にある金銭的階級が上流階級の習慣を負けまいと模倣することによって住民全体にかなり簡単に広まる。そのためこの種の免除は、裕福者内部の簡単な差別の手段となり、やがて立派な生計の必要なしるしとして貧困者の間でも広まることになる。
かくしてまた財の消費でも、かつては余剰の問題であった体面の問題として多くが求められるようになり、そしてこれらの品位物、例えば衣服や日常用品などは、身体的な快適さにとって必要な物というより生活必需品となり、生活水準に含まれることとなった。大陸よりも連合王国の労働者階級の間で、また過去のいかなる時代のブリテン島よりも現在の労働者階級の間で、この体面を保つための、物理的に余剰であり通常審美的に不愉快な義務的な支出が多い(42)。そこで、ここでもまた、この近代的な産業体制の効率上昇のもたらす目に見えぬ抑圧の増大という最後の説明の通り、なんらかの種類のスポーツへの中毒およびスポーツマン的な関心および価値への没頭は上流階級のレベルから住民全体へと下に広まり、この浪費という範疇は労働者が出会ったり表明する意見にとっての共通の関心の唯一の土台になるまでに至った。人々の消費のために毎日産出される印刷物の半分は、スポーツに供されると言うことができる。スポーツに対する関心の一切の下位区分を含むことを目指す分類であれば、おそらくその割合はもっと高く評価されるだろう。
この至るところに存在するスポーツ中毒とその熱愛に含まれる時間と財産の直接的な浪費は、それだけであればおそらく誰の懸念もかき立てる必要はないだろう。それだけの浪費ならば健全な最小限を少しも超えないかもしれない――ただし、芸術的な浪費や知的な浪費を好む人ならば、この粗暴で残忍な性質の浪費中毒を非難するよう駆り立てられるかもしれない――。しかしながら、ここで、もっと要点をついているのは次の事実である。それは、スポーツマン精神の負けじと張り合う、不愉快な関心を持ってこのように夢中になることは、不可避的に、産業にとって不都合な影響を住民の気質に与え、それらを些細な負けじと張り合う功績の方向に向かわせ、かつ近代的な技術効率の精神的土台をなす現実のかの用意のととのった差別から離れるように、習慣的偏向でもって曲げるという事実である。スポーツマン的な夢中がこのように英国住民に浸透したことは、産業体制の生産物とエネルギーを浪費するというよりは、むしろ産業体制の効率のよって来る源泉を腐敗させるのである。破壊手段としてのその高度の帰結は、それが精力を浪費することにある。ここでもまた、このような浸透している堅固な習慣的適性の発生と確立には時間を要すること、そしてそれを取り除くにも時間、圧力および経験が必要となることを指摘しなければならない。

(23)ヴェルナー・ゾンバルト『近代資本主義』、第一巻、第五章、六章および七章、『ブルジョア』「序論」と第二章を参照。W.J.アシュリー『イングランド経済の歴史と理論』、第二巻、第六章。またこれらの著述家の言及している著者を参照せよ。
(24)「その数世紀は、憎悪、貪欲、勇気および献身という基本的なチュートン的な性質をくっきりと浮彫りにした。」(HO・テイラー『中世の精神』)。
(25)この精密科学における主導性と創造的先導について英語諸国民の優越性を不適切に主張しているように思われかねないが、それは他民族に属し、また他言語に関係する科学者の仕事を見落としているわけではない。これは言語や民族の帰属の問題ではなく、いわんや人種の問題ではない。ここでの議論の要点は、精密科学の、また特に物質的科学のこうした先導が西欧諸国民の産業技術の状態――および同類の制度的概念――と緊密に関係しているということにすぎない。また近代の技術進歩の特徴的な地理的分布が、特に一八世紀末と一九世紀初頭のそれが、他のどこよりもブリテン島において近代科学に起因する機械的傾向のより自由な成長とより完全な成熟をもたらしたにすぎない。同時に、また主に印刷の利用のために、これら西側諸国の文化は、近代全体を通じてコスモポリタン的(世界市民的)な性格を持ってきた。イタリア、オランダ、南ドイツ、さらにスカンジナビアの専門家、とりわけフランス人による科学的な発展の貢献――きわめて重要な貢献――がイングランドのものと比較して過小評価されてはならない。(一八九~一九三ページを参照。)これらの他国人は、たいてい、この領域にもっと早い時期にやって来たが、他方では、より完成された機械的原理の下で生じたより完成された近代化の時期の前進的運動にはわずかな比重を持つにすぎない。
西洋文明の発展の頂点にかかわる多くの他のことと同様に、このすべての点で、フランス社会が大陸諸民族全体に当てはまる全般的な特徴づけの明らかな例外として特出していることは疑いない。フランス人が近代文明の経過全体を通じて覇権的な地位を占め続けたことは、上段で試みた分析を妨げるものではない。その分析は、イングランド人とドイツ人の相違に直接に向けられたものであり、バルト海・北海沿岸の気候地域内の諸民族に共通に行われている文化の極端な型として考察されている。
(26)『製作本能と産業技術の状態』、第四章と第六章を参照。
(27)ジェイコブ・ベーム『万物の署名』を参照。
(28)ロバート・ボイル『懐疑的化学者』を参照。
(29)機械的な方法と手段に依存するようになったために生じた技術体系の新しい要因は、同じ点に関係している諸要因の協調に対して一定の「閾値」の比率や密度を超える場合にのみ、状況全体の中で本質的な貢献要因とみなされることになる。これはどんな事例でも習慣化の複数の要因についても当てはまる。比較的わずかな尺度で存在しているようなものは簡単に無視されうる。その事例は治療法で行われていることに似ており、その場合には「最小服用量」より少ない投薬は効果を持たない――ただし、特定の薬の場合、最小服用量の持続的な反復がやがて累積的な効果をもたらしうるのを除く――。治療法も習慣化がものを言う領域であると言わなければならない。
(30)例えばアダム・スミスは、産業過程の効率をめぐる経済問題にかかわる予見がこの点に関して彼を論理的に有利な点に置いたとのに、問題をそのようには見なかった。
(31)実際、煩をいとわなければ、とりわけ技術的な領域からおそらくまだ最も縁遠く、機械工学の論理にほとんど触れない分野の科学、例えば経済学に携わる科学者の作品の中には、自然法のギルド規制的な観念の復活を見つけ出せるかもしれない。
(32)ここでは「救恤的」という言葉を、そのように「救恤的な」イングランド人世代の形成をもたらした営利的経営を称賛したり非難しようというつもりはなく、技術的な意味で使う。それは、とりわけ、この制度が救恤的な労働人口を生み出すという特徴を持つ長期間の経験をへなかった別の社会の経験と競争的な関係に投げ込まれるとき、産業体制の持続的な効率に関連するような帰結という事実である。どの種の「救恤的」人口や世代も、成長を妨げ、内臓の構成や機能の計測人類学的なバランスを乱し、また気候、公衆衛生、栄養または緊張というこれらの不適当な条件にこのようにさらされている世代内部で生命機能が回復できなくなる限度を越えて衰弱させるほどに、その特定の類型にとって正常だと淘汰的にわかっている生活条件とあまりにも異なっている生活条件の下に置かれてきた人々である。
このような特定の類型からの救恤的な変異は、その条件が続くかぎり、また正常な条件に戻ったのちもかなりの時期または何世代も実際に遺伝することがある。本稿の目的にとって、それは「劣悪な」環境による一時的な類型変化ということになり、前段の一節で語った人種類型の永続性ということには関係しない。
同じく劣悪あるいは不健康な性格の変異は、例えば王室、貴族または世襲的な金持ちのような富裕階級や特権階級に時々みられるような過食、自然(風雨など)からの過度の保護、または過度の官能的耽溺および身体器官の活動不足の方向に向かう生活環境の劣悪または不健康な変種を伴っていることは疑いないだろう。語源学から言えば、この種の過剰による劣悪な変異を「救恤的」と呼ぶことは許されないであろうが、一方、他に技術的な用法によって認められるどんな用語もあるようには見えない。実際、こうした特権階級内の過度の耽溺の結果は、貧困者内の食料不足と過剰労働によって達成される結果とほぼ同じになるのである。この二種の劣悪な変異が通常同じ社会に、一方を生み出しながら通常他方を産出する条件の中にともにみいだされることも注目されよう。例えばイングランドは、近代の技術的進歩のもたらした企業と産業、平和と繁栄の時代の副産物として双方を備えるに至ったのである。
(33)五港(シンク・ポート)は、産業体制の成長と人口分布の変化によるそのような「全面的な」減価の歴史的実例を与えている。一方、イングランドのローマ道は、産業技術の状態の衰退または没落のために同様な減耗がどのように生じるかを示している。
(34)製鉄業のようなまったく基礎的で、特殊に英国的な業種にあってさえ、最近、他国の観察者――例えばドイツ、スウェーデンあるいはアメリカの観察者――は、無能に矮小な溶鉱炉、時代遅れの原材料搬送器具および労働と燃料を浪費する時代遅れの装置を真剣に、皮肉まじりに非難する機会を持った。
(35)営利的な産業のこうした状態との興味深い対照は英国海軍に見られる。そこでは、人員と戦略の体系的な組織化と統制のより重要な部分はもちろん、ほとんどどの項目の装備も過去十年内に時代遅れとなった。この海軍の体制を現在の技術的な基準からみて満足な効果にまで引き上げるためになされた努力には、多くの妥協と多くの急場しのぎがあり、その結果、堪え忍ぶべき遅延の程度は、結局、英国産業の事業体の中で十分に通用する程度と比べてまったくひどいものである。社会の産業効率が第一の意義を持っており、海軍の体制は副次的に重要性であるか、それ以下の意義しかもたないが、産業の業務は競争的な営利企業の動機にもとづいて遂行されるのである。
(36)近代的生活におけるこの原理とその位置のより詳細な説明については、特に『有閑階級の理論』第二章から第七章、第一二章を見よ。
(37)例えばエリザベス朝イングランドについてのハリソンの記述を参照せよ。そこでは、イタリアの異国情緒の極致を追い求めるようとしているあのイングランドの紳士気取りの子弟について多くの辛辣なことが語られている。
(38)最近、彼らの後を追っているアメリカ人によって追い抜かれて影が薄くなっている。
(39)グレアム・ウォラス『偉大な社会』、おそらく特に第三章と第五章を参照するのが。
(40)例えば、ドイツとの戦争によって生じた英国の生活の混乱の中で、犬の飼い主が陸軍に徴兵されたため、それらの犬の世話をし、また飼い主の復帰に備えて犬を衰弱させないように保護するための連合が形成された。ごく冷静な性格を持つ英国の新聞でさ、犬を養うというこの必要な仕事をどうすすめるのが最善かということについて、最も英国式に冷静な助言と警告を印刷してきた。兵士たちのスポーツ装備を適正に維持すべしというこの扇動のすべてが実際に一包みの滑稽な戯言なのではないという印象を避けることはできない。むしろ、それは習慣が常識に対して支配権を行使するようになることを例解するものである。
(41)この浪費的な支出が浪費家によって浪費とみなされることがないのはもちろんであり、金融戦略家によるこれらの経路への富の組織的な流用も世間の人々の理解ではそのようにみなされていない。この点に関する通俗人の経済理論と呼ぶことのできるものは、次の意見によく見られる。この意見は、正確に報じられているかもしれず、そうでないかもしれないが、それでも真実をついている。
「私たちの現実社会の基礎はお金(貨幣)に依存していて、富を達成するのは労働者だけです。」モーガン嬢はつづけて言う。
「例えばカーネギー家とフリック家の例をあげましょう。 彼らは巨大な富を持っており、それは膨大な労働者によって蓄積されました。働く人たちは財界だけでなく、社会の運命をも左右します・・・。社会とその様々な部分は生存するために貨幣支出に依存します。毎年何千という商人たちに雇用を与える娯楽や社会的機能に費やすために必要な貨幣を持っているのは誰でしょうか? それはお金持ちです。実業界は、労働する人々を構成する何千人もの人々によって流通する貨幣で一分でも生きることができるでしょうか? 決してそうではありません。実業界は「上流社会」の費やす何千ドルものお金によって生かされているのです。これは統計学者がよく調査するべき題目です。」
(42)例えばアダム・スミスは次のように語る。彼の時代には、スコットランドの労働者階級は、この靴という手段によって自分たちの名声を守る必要性を感じていなかったのであるが、イングランドの労働者階級の間では必要な支出品目として生活水準に含まれていた、と。この説明は、それが典型的な事例であり、また現在でもブリテン島と大陸との間で同じ程度に対照が成り立っているという点で正しい。ただし、特定品目の靴は、――――アダム・スミスの時代以降の変化であるが――近代的技術がたまたま靴を物理的な必要物にしたという点で、まことしやかな異論の余地がある。
金属、ガラス、レンガ、陶器、石、コンクリートの舗道および同様な耐火性物質は、近代生活の中ではどこにも存在するため、無防備な人間の足は不利を被るという事実がある。ちなみに、その結果として足を固く、重く保護する必要性は、この産業技術の様相がその粗効率から不可避的に控除しなければならない組織的な不利益の典型的な一例である。