2015年10月31日土曜日

現在と将来 ケインズの「不確実性」と現存の状態を持続させる慣性力


 当然のことであるが、私たちは常に現在の時点で行動する。経済行動についても同様である。未来はまだ来ておらず、過ぎ去った過去は取り戻せない。
 しかし、よく考えると、現在の瞬間瞬間における私たちの行動は、一方では、人々が過去になした行動の経験とその帰結を調査することによって得られた情報・知識に依存しており、他方では、将来に関する何らかの知識に依存している(はずである)。
 例えば企業が設備投資に関する決定を行ない、次いで実行する場合には、あるいは労働者を雇用する決定を行い、次いで実行する場合には、これまで出来事についての情報を、それがどれほど不完全であろうとも、獲得し、分析し、また将来に対する一定の期待にもとづいて、自分たちの経営行動を実行に移すはずである。過去および将来の知識なしに、経営行動を決定することは自殺行為に他ならない。
 しかし、私たちは、過去の経験を正確に調査し、それを将来のためのガイド(案内役)として役立てているかというと、大いに疑問である。
 ケインズもまたそのように考えた。たしかに将来については、まず一つには確率論的に把握する可能性の高い事象がないわけではないかもしれない。しかし、すべてが確率論的に把握できるわけではなく、むしろほとんどの事象は、「単に私たちは知らないだけである」。多くの事象については、「何らかの計算可能な確率を打ち立てる科学的基礎がない」。例えば一週間後のN市の天気が晴曇雨のうちいずれとなるかは、気象庁の天気予報によりある程度まで確率的に把握できるとしても、例えば2年後、あるいは5年後、10年後の天気については、私たちは単に知らないだけである。10年後の株価、私たちの所得、電化製品の価格、利子率、寿命、失業率、中東(イラク、シリア、イランなど)の情勢を知っている人はいない。またそれを確率論的に取り扱うことに意味があるとも思えない。つまり私たちの将来についての知識は、多くの場合、あるいはほとんどの場合と言ってよいかもしれないが、まったく「不確実」(uncertain)である。
 しかし、それでも私たちは、「合理的経済人」として面子を保つべく行動する(ことを余儀なくされる)。
 それはどのようにしてだろうか?
 ケインズは、そのための多くの技術(テクニック)があり、そのうち重要なものが以下にあげた三つであるという。
 1)現在の状態を将来のガイドとする。つまり、現在の状態が続く、あるいは将来も変化しないと想定する。
 2)現在の状態が将来の展望を正しく反映したものと考え、受け入れる。
 3)よりよく情報を得ている自分以外の世界の判断に、したがって現在の多数派、または平均の見解に従う。

 さて、このケインズの思想については、様々なことを指摘できるように思われるが、ここでは次の点を指摘するにとどめておこう。
 1)ケインズのこの思想は、現代の行動経済学者の考えを先取りしたものであると言えよう。これは、私たちが過去の経験を正しく調査し、また将来に対する確実、正確な知識をもって行動するのではなく、現在の時点における人々の社会的行動におおきく制約されていることを意味する。
 2)これはまた、社会全体がある状態に陥ったとき、それを持続する大きい力が作用するため、将来に関する別の展望にもとづいてそれを変えることがかなり困難であることを示す。
 例えば賃金率を変えること、とりわけ労働生産性に応じて引き上げることは、社会全体にとって購買力と消費支出・需要を増やすことによって個別企業にとっても決して悪い話しではないとしても、きわめて困難となる。上記の1)2)3)が「合理的経済人」としての現在の判断・行動を正当化しているからである。
 この慣性力を帰るには、果たして何が必要となるだろうか? 

 
(ケインズ、1937年論文)
 私たちは、そのような環境の中で、合理的な経済人としての私たちの面子を保つように行動することがどのようにして出来るのだろうか? 私たちはその目的のために多くの技術を考案してきており、そのうち最も重要なものは次の三つである。
 (一)私たちは、過去の経験の客観的な検討によって過去の経験がこれまで将来のガイド〔案内役〕であったことを示すよりも、現在が将来についてのはるかに役に立つガイドであると想定する。言い換えれば、私たちは私たちの何も知らない現実の性格について将来の変化の展望をおおかた無視するのである。
 (二)私たちは、価格の現在の状態および現存する産出物の性格に表現されているような見方の現存の状態が将来の展望の正しい集計にもとづいており、そのため私たちは何か新しいことや適切なことが視野に入って来ないか、入って来るまでは、それをそのようなものとして受け入れることができると、想定している。
 (三)私たちの個人的判断に価値がないことを知りつつ、私たちは、おそらくよりよく情報を得ている自分以外の世界の判断をよりどころとする。つまり、私たちは、多数派または平均の行動に従おうと努力する。各人が他人を模倣しようとしている諸個人からなる社会の心理学は、私たちが厳密に「伝統的」判断と呼ぶことのできるものに帰着する。

賃金圧縮が続く日本経済 欧米諸国から見たら異常な事態は何故続くのか?

 すでに多くの論者が明解に示しているように、欧米諸国から見て、近年の日本経済が異常な(あるいは特徴的な)状態にあることは、説明するまでもないかもしれない。このブログでも何回か取り上げたが、日本に特徴的な事態とは、名目賃金がほとんどまったく増えないという事実にある。これは日本全体の賃金総額についても、従業員一人あたりの賃金率(一年間または一時間あたりの賃金額)についてもあてはまる。

 これが日本の特徴であり、欧米では必ずしもそうではないことは、例えば米国の例を見るだけでも納得できるだろう。
 そこで次に米国の BEA (経済分析局)のデータから作成した図を2つほどあげておく。

 まず図1は、従業員一人あたりの名目賃金率 w(年間賃金/年)と労働生産性 y(従業員一人あたりの実質国民生産)を示す。
 図から名目賃金率(貨幣賃金率)が概ね労働生産性の成長率より早いペースで上昇していることがわかる。(ちなみに、日本では、労働生産性が成長しても、名目賃金率は上昇していない。それどころか21世紀に入っても趨勢的に低下してきた。)
 しかし、労働生産性以上に名目賃金が上昇したら、企業の利潤が圧縮されることになるのではないだろうか? もし企業が販売価格を据え置けば、その通りである。しかし、企業は価格を引き上げることによって、利潤圧縮を防ぐことができる。そして、図2が示すように、米国企業はその通りに行動してきた。(ただし、ここでは企業価格ではなく、消費者物価指数の変化率をあげている。)
 もちろん、消費者物価が上がれば、その分だけ、実質賃金には抑制効果が働く。したがって実質賃金率の成長率は、図1に示したものより少し低くなることは言うまでもない。(ただし、それでも実質賃金は労働生産性の上昇とともに上昇する。)

 このことから何がわかるだろうか? ここでは次の2点だけ指摘しておく。
 ・物価は、利潤シェアーが一定ならば、労働生産性を超えた名目賃金の上昇によって生じる。日米の経済パフォーマンスが異なるのは、まさにこの点に関係する。すなわち、近年の米国では、名目賃金が労働生産性より上昇しており、実質賃金も上昇してきた。これに対して日本では労働生産性の上昇があっても、ずっと賃金抑制が行なわれてきた。それは賃金デフレを生じるほどの抑制であった。
 ・「異次元の金融緩和」政策が依拠しているマネタリズム(貨幣数量説)は、すでに1980年代に米英の両国で実験され、破綻した。それは失敗だったことは良識的な経済学者なら十分理解している。中央銀行のマネタリーベースを増やしても、それが(国内的要因による)物価上昇を引き起こすことも、まして景気を刺激することもない。
 物価はたしかに「貨幣的現象」であるが、それは現代の「企業者経済」「営利企業体制」では賃金が貨幣的現象であることと関係している。
 日本企業が1995年『新時代の「日本的経営」』(日経連)で表明した態度を変更する以外に方法はない。プラグマティズムに立つアメリカ企業は、とうの昔にそのことを学習してきた。


 図1 米国における名目賃金率と労働生産性の成長率


 図2 消費者物価指数と(名目賃金・労働生産性の成長率の差)

 出典)USA, Bureau of Economic Analysis のデータより作成。
 注)p と (w-y) (成長率)が一致せず、前者が高いのは、米国でも少しづつ利潤シェアー  が高まっていることを示している。しかし、賃金圧縮の程度は日本ほどではない。
  

2015年10月30日金曜日

ケインズの「乗数」 なぜ式 m=I/Y で示されるのか?

 1937年論文は、ケインズがなぜ(設備)投資 I を独立変数的に取り扱い、「乗数」を式(m = I/Y)で示したのかを、説得的に説明している。
 もし私たちが将来の変化について確実かつ正確に知っており、かつ投資 I が将来期待される消費支出 C に比例的に行なわれるならば(I=kC。したがってまた産出額=総所得に対しても比例的に行なわれるならば 、I = mY)、不均衡(失業など)を拡大するような経済の変動は生じがたいだろう(つまり、乗数 m=一定)。
 しかし、 投資が単に消費支出の変化に対応するのではなく、消費支出以外の不確実な諸要因によって大きく左右されるならば、乗数自体が大きく変動し、それにともなって経済の均衡・安定にも大きな変化が生じることとなる。このような不確実な要因による投資量と乗数の変動という事実こそがケインズの真意だった。
 ケインズの乗数は、単純にある特定期間における産出高=所得額(Y)と投資との、あるいは消費支出(C)と投資との関係である。もし投資支出が増え、その結果、機械生産が増え、生産能力が上昇すれば、それと同時に乗数が上昇し、それは最終的には不均衡(企業者にとって生産に引き合う消費財の量を大幅に超える消費財の生産能力の増加)をもたらす蓋然性が高い。また逆に、もし投資支出が減り、その結果、機械生産が減少し、生産能力の成長が抑制されれば、それと同時に乗数が低下し、それは最終的には不均衡の縮小(需要、すなわち企業者にとって生産に引き合う消費財の量が消費財の生産能力に接近すること)をもたらすであろう(もちろん例えば1930年代のように、消費支出が減少すれケースは別である)。これが現実の 経済社会の姿である。

 このことはまた、この乗数の理論が波及論的に理解され、俗に乗数「効果」と呼ばれるようになったものとは異質であることを示している。ケインズは、いったい何時まで続くのか分からず、最終的には投資に応じた消費需要を必ず産み出すような「波及効果」を(少なくとも1936年以降は)棄却している。均衡論的・波及的乗数理論の理解がケインズの真意ではない所以である。

2015年10月29日木曜日

ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 3

 ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 3

 要約
 産出高全体の需要と供給、資本財と消費財の産出高


                   三
 伝統的理論と私との次の相違点は、産出高全体の需要と供給の理論を作り出す必要はないという伝統的理論の明らかな確信に関係している。すぐ上で述べた理由で生じる投資の変動は、産出高全体に対する需要に、したがって産出高と雇用の規模になんらかの影響を及ぼすだろうか? 伝統的理論は、この質問にどのように答えることができるだろうか? 私の考えでは、それはまったく答えることができず、この問題に一つの思想を与えることがなかった。有効需要、すなわち産出高全体に対する需要の理論は、百年以上もの間ずっとまったく無視されてきたのである。
 この問題に対する私自身の答えは、新しい考察を内包している。私は、有効需要が二つの要素ーー上で説明したように決定される投資支出と消費支出ーーからなるという。さて、消費支出の量を支配するのは何だろうか? それは主に所得水準に依存する。人々の支出性向(と私が呼ぶもの)は所得分配、彼らの将来に対する態度、そしてーーおそらくより小さい程度にであるがーー利子率のような多くの要因に影響されている。しかし、主として、通常の心理的法則は、総所得が増加するときには、消費支出もまた、それよりいくらか小さい程度に、増加するというものであるように思われる。これはきわめて明白な結論である。それは単純に言えば、所得の増加がある比率で、つまり支出と貯蓄の間で分割され、また私たちの所得が増加するとき、これが私たちに前より少なく支出させるか、あるいはより少なく貯蓄させるかさせる効果を持つだろうということはほとんどありそうにない、ということに相当する。この心理法則は、私自身の思想の発展において最も重要なものであり、私の考えでは、私の著書で主張されたような有効需要の理論にとって絶対的に基本的なものである。しかし、いまのところ、わずかな批評家またはコメンテーターがそれに特別の注意を払っただけである。
 このきわめて明白な原理から導かれるのは、一つの重要な、だがよく知られていない結論である。所得は、一部は企業者が投資のために生産することによって、また一部は企業者が消費のために生産することによって増加する。消費される量は、このようにして生まれた所得の量に依存する。そこで、企業者にとって生産に引き合う消費財の量は、企業者が生産する投資財の量に依存する。もし、例えば、公衆に彼らの所得の一〇分の九を消費財に支出する習慣があるならば、次のようになる。すなわち、もし企業者が彼らの生産している投資財の費用の九倍以上の費用で消費財を生産するならば、彼らの産出高のある部分はその生産費をカバーする価格では売ることが出来ない。というのは、市場における消費財は、公衆の総所得の一〇分の九以上の費用を持つことになり、それゆえ消費財に対する需要(これは定義上一〇分の九にすぎない)を超過するであろう、からである。かくして企業者は、自分たちの消費財産出高を、彼らの現在の投資財産出高の九倍をもはや超えない量に縮小するまで損失をこうむるだろう。
 定式化は、もちろん、この例解のようにそれほど単純ではない。公衆が消費しようと選択する所得の比率は、一定ではなく、ほとんどの一般的な場合には、他の要因もまた関係している。しかし、いつも、生産に引き合う消費財の産出高を投資財の産出高に関係させる多少ともこのような種類の定式は存在する。そこで私は自著で「乗数」という名前の下にこれに注意をうながした。消費の増加がそれ自体としてこのさらなる投資を刺激しやすいという事実は、ただこの議論を強化するものである。
 企業者にとって利益のある消費財の産出水準が、この種の定式によって投資財の産出に関係づけられるべきであるということは、単純で明白な性格の想定に依拠している。その結論は私にはまったく議論の余地がないように見える。だが、そこから導かれる帰結は、よく知られていないと同時に、きわめて大きい重要性を持つ可能性がある。
 この理論は次のように言うことによって要約できる。すなわち、公衆の心理を所与とすると、産出高と雇用全体の水準は投資の量に依存する、というものである。私がこのように表現するのは、これが総産出高の依存する唯一の要因だからではなく、突然の広範な変動に最もさらされているあの要因〔投資〕を直近原因(causa causans)と見なすことは複合システムでは通常のことだからである。もっと包括的に言うと、総産出高は貯蓄性向に、貨幣量に影響を及ぼすような通貨当局の政策に、資本資産の将来のイールドに関係する信任の状態に、支出性向に、そして貨幣賃金の水準に影響する社会的要因に、依存する。しかし、これらのいくつかの要因の中で、最も不確かなのは、投資率を決定する諸要因である。というのも、私たちがきわめてわずかしか知らない将来についての私たちの見方の影響を受けるのがそれら〔投資率を決定する諸要因〕だからである。
 したがって、私の提供するこの理論は、産出と雇用が何故そのように変動しやすいかという理論である。それはこうした変動を避け、着実な最適水準に産出を維持する方法に関する既成の治療法を提供するものではない。しかし、それは、当然のことながら、どんな所与の環境でも、雇用が何故今の状態にあるのかを説明するのであるから、雇用の理論である。当然ながら、私は、予測に関心があるだけではなく、治療にも関心がある。また私の著書の多くのページが後者にささげられている。しかし、私は、治療のための自分の提案が、明白ながら、完全にはしあがっておらず、予測とは異なった地平にあると考えている。私の提案は最終的なものというわけではない。それらはあらゆる種類の特別な想定に委ねられており、必然的に時代の特別な条件に関係づけられている。しかし、伝統的な理論から離れることについての私の主要な理由は、これよりははるかに深いところにある。それらは高度に一般的に性格のものであり、最終的なものというわけではない。
 そこで、私は伝統的な理論から離れた主要な根拠を次のように要約する。
 (一)正統派の理論は、私たちが実際に持っているのとはまったく異なった将来の知識を持っていると想定している。この誤った合理化は、ベンサム派の計算可能性の線に沿うものである。計算可能な将来という仮定は、行動の必要のために私たちが採用することを余儀なくされる行動原則の誤った解釈を導き、また完全な疑い、未決定、希望および恐れといった隠された要因の過小評価に導く。その結果は、誤った利子率の理論だった。ローンを持つことと資産を持つことの選択の利益を等しくする必要性は、利子率が資本の限界効率に等しくなることを要求するとうのは、その通りである。しかし、これはどのような水準で平等性が有効となるかを私たちに教えることはない。正統派の理論は、資本の限界効率がペースを設定するものであるとみなす。しかし、資本の限界効率は、資本資産の価格に依存する。またこの価格が新規投資率を決定するのであるから、それは、均衡においては、ただ所得水準の一つの与えられた水準とのみ一致するだけである。かくして、資本の限界効率は、貨幣所得水準が与えられなければ、未決定である。貨幣所得水準が変動可能なシステムでは、正統派理論は、解を与えるために必要なものを欠いた一つの等式である。疑いなく、正統派システムがこの矛盾を発見できなかった理由は、それがいつも秘密裡に、所得が所与である、すなわちあらゆる利用可能な資源の雇用に対応する水準にある、と想定していたためである。換言すれば、それは秘密裏に、貨幣政策とは利子率を完全雇用と両立できる水準に維持するための政策であると想定していたのである。したがって、それは雇用が変動しやすい一般的なケースを取り扱うことができない。かくして、資本の限界効率が利子率を決定するという主張に代えて、(そのケースの完全な陳述ではないとしても)資本の限界効率を決定するのは利子率であるというほうがより真実である。
 (二)正統派理論は、産出高全体の供給と需要の理論に対する必要性を無視しなかったならば、いままでに上記の欠陥を発見していただろう。私は、多くの現代経済学者が実際には供給がそれ自らの需要を作り出すというセイ法則を承認しているかどうかを疑わしく思う。しかし、彼らは密かにそれを想定していることに気づかなかった。かくして乗数の根底にある心理法則は注目されなかった。企業者にとって生産に引き合う消費財の量は、企業者にとって生産に引き合う投資財の量の関数であることは観察されてこなかった。私の想像では、その説明は、どの個人も自分の所得の全体を消費に使うか、それとも直接または間接に新規に生産された資本財を買うのに使うという暗黙の想定の中に発見されるはずである。しかし、ここでも繰り返すが、より古い経済学者は明示的にこれを信じていたのに、多くの同時代の経済学者が実際にそれを信じたどうか、私には疑わしく思われる。彼らはその帰結に気づかずに、これらの古い思想を投げ捨ててしまったのである。
                ジョン・メイナード・ケインズ
                   ケンブリッジ、キングス・コレッジ



ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 2

 ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 2

 要約
 著者(ケインズ)が先行理論と異なるいくつかの明確な点、利子論の再説、投資の不確実性と変動

                  二 
 リカード派の分析が私たちの長期均衡と呼ぶものにかかわっていたことは一般的に認められている。マーシャルの貢献は、主に、これに限界原理と代替原理を接ぎ木し、それとともに長期均衡の一つの立場を別の立場に移すいくつかの議論を行なったことにある。しかし、彼はリカードゥと同様に、使用される生産要素の量は所与であり(与えられており)、また問題はそれらが用いられる方法とそれらの相対的な報酬を決定することにあると想定していた。エッジワースとピグー教授、そして後の他の同時代の著述家たちは、生産要素の供給関数の形状の異なった特徴がどのように事態に影響するのか、また独占および不完全競争の状態で何が生じるのか、社会的と個人的利益とはどれほど一致するのか、開放システムやそれに類するシステムにおける交換の特別な条件とは何か、を考察することによって、この理論を潤色し、改善した。しかし、これらのより最近の著述家たちも彼らの先行者たちと同様にまだ、用いられた要素の量が所与であり(与えられており)、他の関連する事実も多少とも確実なものとして知られているシステムを取り扱っていた。これは彼らが、交換が排除されているシステムか、それとも期待の失望が排除されているシステムを取り扱っていたことを意味するものではない。しかし、与えられたどんな時点でも、事実と期待とは明確で計算可能な形で与えられていると想定されていた。またリスクは認識されてはいたが、さほど注意されておらず、正確な保険危険率(危険度の確率)の計算ができると想定されていた。確率の計算(calculus)は、こっそりと言及されてはいたが、不確実性を確実性自体の地位と同じ計算可能な(信頼できる)地位にまで減少できると想定されていた。ちょうどベンサム派の苦痛と快楽、または利益と不利益の計算学におけるように、である。(ベンサム派の哲学は人々が一般的な倫理的行動の上でこれら〔苦痛と快楽、利益と不利益〕によって影響を受けると想定していた。)
 しかしながら、実際には、私たちは、普通、私たちの行為のどんな結果、その最も直接的な結果をもきわめて曖昧にしか知らない。しばしば私たちは行為のより遠い結果にはそれほど関心を持たない。たとえ時間と機会がそれを重んじるとしても、である。しかし、しばしば私たちは、場合によっては、その直接的な結果よりも、それら〔より遠い結果〕に大きな関心を寄せる。さて、このより遠い結果への関心によって影響を受けるすべての人間活動のうちで、最も重要なものが性格上経済的なもの、つまり富となることがありうる。富の蓄積の目的全体は、比較的遠い、またしばしば不特定の遠い日付に、結果または潜在的な結果を産み出すことである。かくして、将来についての私たちの知識が変動し、曖昧であり、不確実であるという事実のために、富は古典派の経済理論の方法にとって特別にふさわしくない主題となる。この理論は、経済的な財が必ずそれらが生産される短い期間内に消費される世界では、きわめてよく当てはまるかもしれない。しかし、私は提起するが、それは不特定に延期された将来のために富の蓄積が重要な要因となっている世界に当てはめられるならば、大幅な修正を必要とする。そして、そのような富の蓄積の演じる比例的役割が大きくなるほど、そのような修正もより本質的となる。
 説明すると、「不確実な」知識という言葉で、私は、不確実として知られていることを単に蓋然的(確率的)であることから単に区別するつもりではない。ルーレット・ゲームはこの意味では不確実性に従っていない。ヴィクトリー〔戦勝〕債の引き出しの展望もそうである〔不確実性に従わない〕。あるいは、繰り返すと、寿命はわずかに不確実であるにすぎない。天候でさえ適度に不確実であるにすぎない。この用語を私が使っている意味は、ヨーロッパの戦争の展望が不確実であるとか、あるいは二十年後の銅価格や利子率が、あるいは新しい発明の退行、あるいは一九七〇年の社会システムにおける私的な富の所有者の地位が不確実であるという意味である。これらの事象については、何らかの計算可能な確率を構成する科学的基礎がない。私たちは単に知らないのである。それにもかかわらず、行動と決定の必要性のために、私たちは実践的な人として最善を尽くして、このやっかいな事実を見過ごし、もし私たちの背後に一連の将来の利益と不利益(それぞれが適当な確率によって掛け合わされ、集計を待っている)についてのよいベンサム的な計算方法があったならば行動するように、まさにそのように行動しなければならない。
 私たちは、そのような環境の中で、合理的な経済人としての私たちの面子を保つように行動することがどのようにして出来るのだろうか? 私たちはその目的のために多くの技術を考案してきており、そのうち最も重要なものは次の三つである。
 (一)私たちは、過去の経験の客観的な検討によって過去の経験がこれまで将来のガイド〔案内役〕であったことを示すよりも、現在が将来についてのはるかに役に立つガイドであると想定する。言い換えれば、私たちは私たちの何も知らない現実の性格について将来の変化の展望をおおかた無視するのである。
 (二)私たちは、価格の現在の状態および現存する産出物の性格に表現されているような見方の現存の状態が将来の展望の正しい集計にもとづいており、そのため私たちは何か新しいことや適切なことが視野に入って来ないか、入って来るまでは、それをそのようなものとして受け入れることができると、想定している。
 (三)私たちの個人的判断に価値がないことを知りつつ、私たちは、おそらくよりよく情報を得ている自分以外の世界の判断をよりどころとする。つまり、私たちは、多数派または平均の行動に従おうと努力する。各人が他人を模倣しようとしている諸個人からなる社会の心理学は、私たちが厳密に「伝統的」判断と呼ぶことのできるものに帰着する。
 さて、これら三つの原理にもとづく将来についての実践的理論は、一定の特徴ある性格を帯びる。とりわけ、きわめて薄弱な基礎にもとづいているので、それは突然の暴力的な変化にさらされる。静謐と不動性、確実性と安全保障の実践が突然崩壊する。新しい恐れと希望が、予告なしに、人間行動をつかまえるだろう。幻滅の力が突然新しい型にはまった価値評価基準をおしつける。よい羽目板を用いた会議室と適切に規制された市場のために作成された、これらすべての丁寧な技術は崩壊しやすい。いつも、漠然としたパニックの恐れと、等しく漠然とした不合理な希望が、実際には和らぐことなく、すぐ表面下に隠れている。
 おそらく読者は、人類の行動に関するこの一般的、哲学的な論考がいま議論している経済理論からやや離れていると感じるだろう。しかし、私はそうは考えない。これは私たちが市場でどのように行動するかであるとしても、私たちが市場でどのように行動するかという研究の中で私たちが考案する理論は、市場の偶像に捧げられるべきではない。私は、古典派の経済理論を、私たちが将来についてほとんど知らないという事実から抽象することによって、現在を取り扱おうとする、こうした美しい、上品なテクニックの一つであるとして、非難する。
 私はあえて言うが、古典派の経済学者にはこれを認める用意があった。しかし、たとえそうでも、私が思うに、彼は自分の抽象化が行なう理論と実践の区別の正しい性格、そして彼が陥りやすい誤謬の性格を見逃してきた。
 これはとりわけ貨幣と利子の取り扱いの場合にそうである。そこで私たちの最初のステップは、貨幣の機能をもっとはっきりと説明することでなければならない。
 よく知られているように、貨幣は二つの基本的な目的に役立つ。貨幣は、計算貨幣として行動することにより交換を促すが、その際、それ自体が実体的な対象物として現れる必要はない。この点で貨幣は重要性または実物的影響を欠いている便宜物である。第二に、貨幣は富の貯蔵である。私たちは、真顔で、そのように聞かされる。しかし、古典派経済学の世界では、何という異常な表現法だろうか! というのは、それが不毛である〔貨幣を保有していても利子を生まない〕ことは富の貯蔵としての貨幣の認められた特徴だからである。一方、実際、他のいずれの形の富の貯蔵もいくらかの利子か利潤を生む。狂気じみた避難所の外にいる誰もが貨幣を富の貯蔵として使うことを欲するのは何故だろうか?
 その理由は、一部は合理的、一部は本能的な根拠により、富の貯蔵として貨幣を保有しようとする私たちの欲求は将来に関する私たち自身の計算と慣習についての私たちの不信の程度のバロメーターだからである。貨幣についてのこの感情は、それ自体が慣習的または本能的であろうとも、いわば私たちの動機づけのより深いレベルで働いている。それは、より強く、より不安定な習慣が弱まった瞬間に暴走する。実際の貨幣の保有が私たちの不安をなだめる。そして、私たちが貨幣と離れるために求めるプレミアムが私たちの不安の程度の尺度である。
 貨幣のこの特徴の意味は、通常、見逃されてきた。そして、それが注目されてきた限りでは、その現象の本質的な性質は誤って記述されてきた。というのは、注目されてきたのは貯蔵されてきた貨幣の量であったからである。そして、それに重要性が付与されてきたのは、それが流通速度に影響を及ぼすことを通じて価格水準に直接の比例的な影響を与えると想像されていたからである。しかし、貯蔵の量が変更されるのは、貨幣の合計量が変えられるか、それとも現在の貨幣所得(私は広く話している)の量が変えられる場合だけである。一方、信任の程度の変動は次のときにまったく異なった影響を及ぼしうる。すなわち、現実に貯蔵されている量ではなく、人々に貯蔵しないように誘うために提供されなければならないプレミアムを変えるときに、である。また貯蔵性向の、または私が呼んだような流動性選好の状態の変化は、主に価格ではなく、利子率に影響する。価格に対するどんな影響も利子率の変化の最終的な帰結としての反響〔影響〕によって産み出される。
 非常に一般的な方法で表現すると、これが私の利子率の理論である。利子率は明らかにーーちょうど算術に関する本がそう語るようにーー貯蔵されている貨幣以外の何らかの形で自分たちの富を保有するように人々を誘うために提供されなければならないプレミアムを計測する。貨幣量、および現在の経営取引のために活動的な流通に求められる貨幣量(これは主に貨幣所得の水準に依存する)が非活動的なバランスのために、つまり貯蔵のためにどれほど利用可能かを決定する。
 さて、議論の次の段階に進もう。富の所有者は、自分の富を貯蔵された貨幣の形で保有しないように誘われても、まだ選択するべき二つの代替案を持つ。彼は、自分の貨幣を現在の貨幣利子率で貸すか、それともある種の資本資産を購入することができる。明らかに均衡においては、これら二つの代替案は、そのいずれへの限界投資家にも等しい利益を提供しなければならない。これは、貨幣貸付価格に対する資本資産の貨幣価格の変化によってもたらされる。資本資産の価格は、それらの将来のイールド〔利回り〕を考慮し、また疑いと不確実性、利益に関係する忠告、無関係の忠告、ファッション、習慣、およびあなたが投資家の心に影響を与えると考える他の事柄といったこれらすべての要素を考慮し、それらがある種類の投資と別の種類の投資との間でさまよっている限界的投資家に等しい明白な利益を提供するまで、動く。
 これは、次に、貨幣量と貯蔵性向によって定まるような利子率の最初の影響、つまり資本資産価格に対する影響である。もちろん、これは利子率がこれらの価格に対する唯一の変動的影響であるという意味ではない。資本資産の将来のイールドに関する諸見解はそれ自体が鋭い変動にさらされているが、それはまさにすでに述べた理由、すなわち、かれらが依拠する知識の基礎の薄弱さのためである。それらの価格を定めるのは、利子率と結びついて受け入れられるこれらの諸見解である。
 さて第三ステージについて。資本資産は、総じて、新たに生産されることができる。それらが生産される規模は、もちろん、それらの生産費とそれらが市場で実現すると期待される価格との関係に依存している。かくして、もしそれらの将来のイールドについての見解と結びついて受け入れられる利子率の水準が資本資産の価格を引き上げるならば、現在の投資量(これは新たに生産される資本資産の産出金額を意味する)は増加するだろう。他方、もしこれらの影響が資本資産の価格を引き下げるならば、現在の投資の量は減少するだろう。
 このようにして決まる投資量が時間とともに大きく変動することは驚くにあたらない。というのは、それは将来に関する二組の判断によるからであり、そのいずれも十分な、または保証された基礎の上ーー貯蔵性向および資本資産の将来のイールドの上ーーには置かれていないからである。またこれらの要因の一つの変動が他の要因の変動を相殺する傾向があると推測するいかなる理由も存在しない。将来のイールドについてより悲観的な見方が受け入れられるときには、貯蔵性向の低下があるはずだという理由もない。実際、一つの要因を悪化させる諸条件には、概して、他の要因を悪化させる傾向がある。というのは、将来のイールドについての悲観的な見方をもたらす同じ環境が貯蔵性向を引き上げやすいからである。システムにおける自己復元の唯一の要素は、もっと後の段階で、また不確実な程度で生じる。もし投資の減少が産出高全体の低下をもたらすならば、これは(複数の理由で)活発な流通のために必要となる貨幣量の減少を結果するかもしれず、それは不活発な流通のためにより大きな貨幣量を解き放ち、それはより低い水準の利子率で貯蔵性向を満足させることになり、それは資本資産の価格を引き上げることになり、それは投資の規模を拡大し、それはある規模で産出高全体の水準を回復させることになるだろう。
 これは議論の第一章を、すなわち(a)個人が所与の所得から貯蓄する性向を決定する理由と、また(b)従来は、通常、資本の限界効率を支配する主要な影響だと推測されていた、生産を援助する技術的能力の物理的条件と、まったく区別される理由で、投資規模が変動しやすいことを、完成させる。
 もし、他方で、将来に対する私たちの知識が計算可能であり、突然の変化にさらされていないならば、流動性選好曲線が安定であり、かつきわめて非弾力的だと想定することは正当化されるかもしれない。この場合、貨幣所得の小さな低下は利子率の大幅な、おそらく産出高と雇用を完全な水準に引き上げるのに十分な低下をもたらしたことであろう。これらの諸条件では、私たちは、利用可能な資源の全体が正常に利用されると推測することができるかもしれない。また正統派理論の求める諸条件は満たされるだろう。

ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 1

 今から78年ほど前に、ケインズは、雑誌 Quarterly Journal of Economics, February, 1937. に,
『雇用、利子および貨幣の一般理論』の解説を掲載しました。英語版の全集には掲載されていますが、日本語訳はまだ出版されていないようです。そこで私の訳を3回にわけて載せておきます。(誤訳、不適切訳があると思いますが、適宜改訂したいと思います。)


 要約
 『一般理論』における以前の論点にかかわる四つの議論に関するコメント


                    一
 一九三六年十一月に刊行された私の『雇用、利子および貨幣の一般理論』に関する四つの寄稿についてクォータリー・ジャーナルの編集者に感謝する。これらの寄稿には批判が含まれており、その多くを私は受け入れ、そこから便益を受けることを望んでいる。タウシッグ教授のコメントに私が同意しないことはない。レオンチェフ氏は、彼が「同次性の公準」と呼ぶものに対する私の態度と、「正統派」理論の態度とを区別する点で正しい、と思う。しかしながら、私は、この公準に矛盾する経験上の豊富な証拠があり、またともかく、それは一般的な負〔の関係〕を証明することを放棄する人よりもむしろそれを証明するために高度に特殊な想定をなす人々に対してであると考えるべきだった。私はまた、利子率を決定する際に貨幣量が果たす役割と関連させたならば、彼の思想はもっと実り多く、またもっと理論的に正しく適用できたのではないかと提案する。というのは、私が思うに、同次性の公準が主に正統派の理論的スキームに入り込むのはこの点だからである。
 ロバートソン氏との私の実際の相違点は、彼も私も〔正統派に対する〕彼の敬信が許す以上にもっと根本的に私たちの先行者と異なるという私の確信から主に生じている。彼の論点の多くに私は同意するが、ただし、何か異なることを言った(またはともかく意味した)いくつかの例を意識しないならば、である。彼が貨幣の流通速度をばかにする人々は乗数理論と多くの点を共有すると考えていたとは驚きである。私は、活動の増加から生まれる貨幣需要の増加が利潤率を引き上げる傾向のある余波を持つという、彼のあげている重要な点(一八〇〜一八三ページ)に完全に同意する。また、実際、これはどうしてブームがそれ自体の破壊の種を内包するかという私の理論における重要な要素である。しかし、これは本質的に利子率の流動性理論の一部であり、「正統派」理論の一部なのではない。私の理論は「貸付可能資金の需要と供給のタームで出来事を常識的に説明することへの反駁ではなく、その代替版」と見なされる(一八三ページ)と彼が述べるところでは、私は、同意する前に、この常識的な説明がどこに見られるのかという点に少なくとも一つの参照を請わなくてはならない。
 四つのコメントのうち最も重要なもの、ヴァイナー教授のコメントが残っている。私の非自発的失業の定義と取り扱いに対する彼の批判について、私は自著のこの部分は特に批判に対して開かれていることに同意する用意がある。すでに私自身が改善する立場にあると感じており、私がそうするときには、特にこの点で私たちの間に何か根本的な相違があるとは思わないので、ヴァイナー教授はもっと満足を感じるだろうと希望する。しかしながら、「貯蔵〔貯蓄〕性向」と題した第二節の場合には、彼の論点に反論する用意がある。ヴァイナー教授は実際に貯蔵された貨幣量というより知られているタームであまりに多くを考えていることを、また貯蔵しない誘因としての利子率に対して私がなそうと努めた強調点を見逃していることを示す文章がある。流動性選好が主に利子率を引き上げることによって働くのは、まさしく貯蔵にとっての容易さが厳しく制限されているからである。私は、「現代の貨幣理論では、貯蓄性向は、貨幣の「速度」を減じるように作用する要因として、ケインズの結果と本質的には実質的に同じ結果を伴って、取り扱われている」ことに同意できない。反対に、それをこのように取り扱おうとしている貨幣理論家はおしなべて間違ったコースにいる。繰り返すと、ヴァイナー教授は、ほとんどの人々は自分たちの貯蓄を彼らが得ることのできる最善の利子率で投資すると指摘し、また私が流動性選好に付した重要性を正しいとすることを統計に求めるとき、貯蔵のために利用可能な現金の狭い制限内で現実の貯蔵への欲求をもたらすために、利子率によって満足しなければならないのは限界的な潜在的貯蔵者であるという点を見逃している。危機の中で生じるように、流動性選好が急激に上がるとき、これ自体は、利子率の急激な上昇、すなわち以前の〔証券〕価格で流動性を得ることができるならば、そうしたいと考えている人々がその思想を合理的にはもはや実践不可能なものであるとして放棄するように説得されるまで続く証券価格の上昇におけるほどには、貯蔵の上昇を示すものではない。というのは、もしそうだとしても、貯蔵可能な現金は以前より少し多いだけだからである。利子率の上昇は、増加した流動性選好を満足させるための貯蔵増加に対する代替手段である。私の議論は、異なったタイプの資産は異なった程度に流動性に対する欲求を満たすという認められた事実によっても影響されない。ある資産の流動性の程度に照応する利子率が生産費以下となる当該資産の市場資本化をもたらすとき、その損害が生まれる。
 私が議論する用意のある他の批判もある。しかし、私は私自身の言語を正当化することが出来るかもしれないが、あまりに詳細に正当化することによって、私の取り扱いが、それにもかかわらず、私の批判者の心に産み出した反応の根底にあるかもしれない本質的なポイントを見逃すように導かれないように配慮したい。私は私の思想の根底にある比較的単純な本質的な思想を具体化した特殊な形態よりも、その思想のほうにもっとこだわりたいと思っており、また私には、後者〔形態〕が論争の現在の段階で結晶化されるべきという欲求はない。もし単純な基礎的思想がよく知られ、受け入れられるものとなることができれば、時間と経験、そして多数の頭脳の恊働がそれらを表現する最善の方法を発見するだろう。そこで、私はジャーナルの編集者が私に許すことのできるような以下のスペースを不毛となるかもしれない詳細な論争にあてるよりも、これらの思想のいくつかを再現することに努めることにあてたいと思う。また、もし私が以前の諸理論から最も明確に離れているように自分自身にとって思われる特定の限られた点に関して言わなければならないことを討論の形で表現するならば、それはある者には、私が論争的な雰囲気を避けようといいながら、まっすぐにそこに飛び込むかのように思われるかもしれないが、私としては最善を尽くすつもりでいる。