2013年1月27日日曜日

安倍のミックスを経済学する その6

 それでは、経済の実相はどうなのでしょうか?
 ここでは、2つのことに言及してから、安倍のミックスを評価に移る事にします。
 1 ゼロ成長でも、雇用(労働需要)は低下する。
 現実の経済では、Y=C+I という式を理解しなければなりません。ここで Y は GDP であり、C は消費支出、I は投資支出です。例えばある年の GDP が500兆円の国で消費支出が400兆円、投資が100兆円とします。また景気が悪く、翌年も GDP、消費支出、投資支出が前年と同じとします。このようなゼロ成長でも問題はないではないかという人がいますが、それは大きな誤りです。
 というのは、確かに生産量は同じですが、労働生産性が成長し、そのために雇用(労働需要)が減少するからです。
 上の例では、粗投資から減価償却費を差し引いた純投資がプラスならば、生産財(投資財)が生産され、資本ストックは増加します。また資本ストックの量が増えるだけでなく、技術水準も成長するでしょう。しかし、そうすると同じ生産量をより効率的に生産できるわけですから、雇用量=労働需要は低下します。小泉政権時の構造改革のように国際競争力をつけるためにといってリストラをすればなおさらです。失業率は上昇し、人々は不安から貯蓄を増やそうとして、消費を削減する可能性が高くなります。それは景気を悪化させます。

 2 貨幣賃金の引き下げは消費を減らし、「合成の誤謬」をもたらす
 このような時に個別企業にとっては、貨幣賃金を削減し、生産費を引き下げるという選択は非常に合理的な選択となるように考えられます。しかし、それは社会全体では、「合成の誤謬」をもたらします。つまり社会全体の購買力と有効需要(賃金からの消費支出)を縮小させ、ひいては投資需要(したがって生産財の生産)を縮小させます。
 ちなみに、現実の経済社会では、人々は経済学者と違って「実質所得」ではなく、名目(貨幣)所得の世界で生きています。たとえ物価水準が低下するデフレーションが生じていても、貨幣賃金の低下は人々に不安を与え、有効需要の低下を導くのです。

 結論します。現在、政策にとって一番必要なことは、2%のインフレーション・ターゲンットの政策を行なうことでも、企業の競争力jをつけるために供給側の経済政策を行なうことでもありません。むしろ労働者が安心して消費することができるための、制度的な安定化装置を建設することです。社会的なセーフティ・ネットを張ることも必要ですし、低賃金非正規雇用を拡大しないようにすること、企業が安易に貨幣賃金の低下をしないようにすること、社会保障の整備などが必要です。まさに民主党が主張していた「社会保障の一体改革」を行なうことです。ただし、急いで付け加えておきますが、民主党は「一体改革」を行なったわけではありません。むしろそうせずに、消費税だけ引き上げたのです。それが多くの人々を失望させ、選挙の結果をもたらしたことはあまりにも明らかです。
 私も多くの場所で、多くの人々から失望感を聞きました。
 しかし、安倍のミックスも、そうなる危険性に満ちています。それは社会を安定化する政策をかかげずに、むしろ反対のことを、すなわち2%のインフレーションをターゲットにすることによる消費強制、いつの日かふたたび(財政危機はともかく)財政構造改革を引き起こしかねない財政支出の拡大、政府をブラック企業化するような施策、競争力の名を借りたリストラと雇用不安の拡大の要素を含んでいるからです。
 以上のことを政治家が、そして何より人々が理解しない限り、日本の再生はないでしょう。そして、再生がなければ、政府によって養われて生きるしかない人々が増え、他の人に役立つ生き方をしようとする人々は減ります。私は、人間は社会的動物であり、本来、人に役立ちたいと思っていると考えます。しかし、これまでのような政策を続けている限り、人は自分のことで精一杯になり、逆説的に人の世話にならなければならなくなることが必至になります。このことは歴史から得るべき教訓です。


安倍のミックスを経済学する その5

<新古典派の雇用理論>
 昔、アメリカ経済学会長を勤めたこともある経済学者のガルブレイス(J.K.Galbraith)は、私の尊敬する人の一人ですが、次のようなことを言ったことがあります。

 新古典派経済学の教えは、富者はお金が少なすぎるので働かず、貧者はお金が多いから働かないという2つの命題に要約できる。

 これは職人技ともいうべき新古典派の思想の要約です。
 実際、新古典派の労働市場論では、実質賃金が均衡水準より高いと企業の労働需要が労働者による労働供給より小さくなり、その差(労働供給ー労働需要)が「自発的失業」を生み出すと主張します。
 またフリードマンの「自然失業率」の「理論」は、政府の労働保護や労働組合の介入という市場外の要因のために実質賃金が均衡水準より高くなるために各国・地域にはその労働市場構造に特有な「自然失業率」が成立し、しかもその失業率以下に現実の失業率を引き下げようとしても無駄であると主張します。
 さらに、この「理論」は「インフレーションを加速しない失業率」(NAIRU)の主張にまで進化します。つまり、現実の失業率が自然失業率以下に下がると、貨幣賃金が上昇し、インフレーションが生じ、その上、インフレーションが加速すると主張します。しかも、インフレーションを抑制するために、一定の高い失業率が必要だと主張するにまで至るのです。
 
 おそらく、もし政治家がこのような主張を有権者の前で行なったら、その政治家は投票してもらえないでしょう。しかし、(注意してください)現在の保守政党の政治家は皆ほぼ例外なくこのようなトンデモ経済学を正しいと考えているのです。事実、OECDの統計には、各国のNAIRUの数字が示されています。
 ただし、彼らはそれをストレートに主張したら票を失うので、オブラートに包んで話します。ある時は、現代の企業は国際競争のために賃金を下げないと苦しい、と泣き言を言い、ある時は、激しい国際競争が行なわれているから賃金を下げないと企業が海外に逃げますよ、といって脅しをかけるのが常です。(ちなみに、アダム・スミスは『国富論』(1776年)で当時の企業経営者(親方、主人、masters)も労働者の賃金を引き下げることに腐心していたことを記述していますが、いつでも多くの企業者は低賃金で労働者を働かせたいようです。)

 しかし、本当に貨幣賃金を引き上げたら、景気が悪化して、雇用は縮小するのでしょうか? このことを確認するために、もう一度現実の経済を観察し、その現実を理解するための正しい経済学を構築する必要があります。 

 *私は、労働条件や働きがい、働きやすさを指標とする企業ランキングを発表し、ブラック企業を追放する条件をつくることを提案したいと思っています。また経営者が社会的に責任を果たしているかサーベイランスするべきだと思いますが、これについては後に詳しく述べたいと思います。

安倍のミックスを経済学する その4

 ここで理論、というよりちょっと理屈っぽい話に移ります。
 安倍のミックスを喧伝する人々(エコノミストたち)が滅多に触れないことがあります。それは労働者の貨幣賃金と企業の利潤のことです。しかし、これは非常に重要であり、その理解なしに経済を正確に把握することはできません。
 ある年の国民全体の生産額と所得 Y は、賃金 W と利潤 R の合計です(Y=W+R)。
 また国民全体の生産量(産出量)を Q で示します。したがって、抽象的には価格 P は次の式で示されます。
  P=Y/Q=(W+R)/Q     (1)
 これはいつでも、どこでも成立する恒等式です。この式をじっと見てください。すると、物価水準が上がる時には、生産量の成長率を超えて所得が増えることが分かります。次にその所得は賃金と利潤からなるわけですから、物価水準が上昇するときは、賃金か利潤の少なくとも一方は上昇することを意味しています。この式では、何が原因で何が結果なのでしょうか? 価格が上昇するから賃金または利潤が増加するのでしょうか? それとも賃金または利潤が上昇するから、価格が上昇するのでしょうか? もちろん、上式は様々に変形することができ、次のようにもなります。
  W=PQーR           (2)
  R=PQーW           (3)
上式は賃金は、産出額から利潤を差し引いたものに等しいことを示します。これは当然です。ですから、生産量を増やしても、価格を引き上げても、利潤を減らしても賃金は増えます。あるいは下の式が示すように、生産量を増やしても、価格を引き上げても、賃金を減らしても利潤は増えます。いずれにせよ、価格が所得分配と密接に関係していることを示しています。
 「安倍のミックス」では、どちら上昇すると考えているのでしょうか? まだ私はテレビ等でこれに言及する人を(知人でもある、慶応大学の金子勝氏を除いて)見たことがありません。
 これがどちらでもよいと考える人は、まだ現実の経済問題をよく理解していない可能性があります。というのは、長期の出来事は個々の短期の出来事の集計ですから、物価が上昇するとき短期で何が生じるかが長期を左右することになるのです。
 さしあたり、所得分配はどうでもよいから、インフレーションが生じ、その結果、生産および所得が増加するのであるから、その時に所得分配に何が生じるかを考えればよいというのは、現実を無視した形式的な思考様式です。
 
 ここに示したように、現実世界の経済学を構築するためには、価格、所得分配、経済成長が全体としてどのような調整を経て変化するのかを理解しなければなりません。
 ここで、2つの志向を持った経済学が登場します。
 一つは、反労働者的・親供給側の傾向を持つ新古典派の理論であり、もう一つは、親労働者的・親需要側の傾向を持つポスト・ケインズ派・制度派の理論です。前者の経済学は、供給側を支持するために明示的に親企業的な要素を持ちます。これに対して後者の経済学は必ずしも反企業的という要素を持つというわけではありませんが、「合成の誤謬」の理論を通じて企業が反社会的な行動を取る危険性があることを強く示唆します。
 前者の理論は、「労働市場(均衡)論」、「物価版のフィリプス曲線」、自然失業率の理論、NAIRU(インフレーションを加速しない失業率)、供給側の経済学などの系論からなりますが、これについては本ブログでも言及したことがあるので、参考にしてください。
 また後者の理論は、「有効需要の原理」、「需要と供給の累積的な因果関係」、「賃金の2つの側面」(企業者にとっては費用、労働者にとっては所得)、「合成の誤謬」の系論などからなります。
 そこで次に、前者がいかに致命的な欠陥を持つか、また経済の実相を理解するために後者の理論が不可欠であるかを説明します。

安倍のミックスを経済学する その3

 3番目の点に移ります。
 物価水準の変化(インフレーションやデフレーション)と経済(雇用、景気、所得分配など)は実際には、どのような関係にあるのか?
 この点も経済学の歴史の中で長らく議論されてきた問題なので、いくつかの論点があります。ここでは、さしあたり、次のような論点をとりあげることにします。

 1 物価水準の変化と景気・雇用の現実の歴史統計上の関係
 2 物価水準の変化と賃金との関係を説明する理論
 3 物価水準の変化と景気、雇用の関係を説明する理論

 ここでは、以上のうち、さしあたり1を説明します。この理解なくして、抽象理論だけで現在の状況を説明することが不可能だからです。
 比較的高齢者の人はご記憶にあると思いますが、戦後の世界では、OECD諸国全体では1970年代まで、日本では1980年代まで、インフレーションが生じ、同時に景気がよいという状態が続きました。インフレーションは特に1960年代末〜1970年代に亢進しました。しかし、その後に状況が変化し、インフレーションが抑制される(ディスインフレーション、または1997年以降の日本のようなデフレーション)とともに、成長率が低下してきました。(だからといって、すぐにインフレーションが成長率を高めると即断しないでください。)
 このような長期にわたる変動は、どのように説明されるのでしょうか? 
 現在、最も説得的な説明は、フランス起源のレギュラシオン派によるフォーディズム(Fordism)の理論モデルです。これは簡単に言えば、1950年代〜1970年代初頭の「資本主義の黄金時代」には、フォーディズムという成長体制が成立していたが、1970年代に終焉し、1980年代に別の成長体制に席を譲ったという把握です。
 Fordismとは何か? それは次の2つの側面を持つ資本蓄積体制とそれに応じた経済の調整様式です。
 1 大量生産方式(主に「同一単純労働の反復」にもとづく大量生産様式)
 これは自動車生産などで一般的であるが、可能か限りで他の産業でも採用された。またこれは作業を単純化するため、機械化を容易にし、それを通じて労働の生産性を飛躍的に高める。
 2 労働生産性に応じた貨幣賃金の上昇(労働生産性インデックス賃金)
 労働生産性に応じた貨幣賃金の上昇を許容することは、従来の敵対的な労使関係を協調的な労使関係に変えたが、それにとどまらず労働者の購買力を拡大し、社会全体の総需要を拡大することによって景気を刺激し、成長率を高めるという効果を有した。また最初フォード社が貨幣賃金を引き上げたとき、同者は欠勤、労働意欲の減退などの問題を解決するための費用を大幅に縮減することができた。

 つまり、Fordismは、経済成長のための好循環を生み出したのであり、それに加えて、協調的な労使関係(社会制度)を生み出しのです。また黄金時代には、成長率が労働生産性の成長率を超えていたため、雇用(労働需要)が拡大して失業率が低下し、完全雇用に近い状態が生み出されたことも見逃せません。
 ところで、この完全雇用はしばしが貨幣賃金を労働生産性の上昇率以上に押し上げるための制度的要因となりました。1970年代にインフレーションが亢進した一つの要因は、その点にあったと考えられます。
 しかし、1970年代にインフレーションが亢進したもう理由としては、少なくとも次の2つを考えなければなりません。
 1 Fordism の限界
 一つは、Fordism が限界に近づき、成長率が低下してきたことです。これは国内の所得分配をめぐる対立(賃金と利潤をめぐる紛争)を促しました。つまり、労働生産性があまり上昇しなくなる中で、労働生産性の上昇を超える貨幣賃金の引き上げは利潤圧縮をもたらし、労働生産性の上昇を超える利潤の引き上げは賃金圧縮をもたらししたのです。
 2 国際的な資源(第一次産品)価格
 所得分配をめぐる対立は国と国との間でも生じていました。
 1973年と1979年の2度にわたる石油危機を記憶している人は多いでしょう。その背景には、資源価格が(工業製品価格に対して相対的に)低下してきたという開発途上国にとって苦い事実がありました。石油の場合について言えば、セブン・シスターズ(国際石油メジャー7社)が産油国の石油採掘権と(秘密カルテルを通じて)価格設定権を支配し、産油国から低価格で買いたたき、輸入国で高く売ることによって莫大な所得・利益を得ていたのですが、このことは産油国がわずかな所得しか得られなかったことを意味します。 
 要するに、石油危機はこうした状態にあった産油国の反乱でした。
 そして、これらの出来事によって、Fordism は1970年代に終焉を迎え、1980年代以降、資本主義経済はまったく別の時代に入りますった。新しい時代の特徴は、貨幣賃金を抑制することによってインフレーションを抑制し(ディスインフレーションと賃金圧縮)、利潤を拡大することにありました。成りもの入りで登場したレーガン(米国)とサッチャー(英国)のネオリベラル政策も(また遅れて実施された日本の小泉首相の構造改革も)それを後押ししました。
 しかしながら、賃金を圧縮することは、労働者の所得を、したがって貨幣賃金からの消費支出=需要を抑制することを意味します。1980年代のOECD諸国の経済が景気拡張期にもあまり景気がよいという実感を人々に与えない理由は、一つにはそのことが大きく影響しているのです。
 実際、このことを実証するデータには事欠きません。例えば米国の議会予算局の資料によれば、米国の99%の人の所得はこの30年間にほとんど増えていませんが、上位1%の富裕階層の所得は3.75倍に増加しています。
 そしてそれに代わって登場したのが、金融主導型の成長体制です。1980年頃から所得が増加しないという状況の中で、庶民が消費を拡大することのできる唯一の方法は金融機関からの借金でした。実際、2007年の金融バブル崩壊までに米国の家計の借金は家計所得の一年分と同じにまで急増していました。言うまでもなく、このような借金を可能にした金融の仕組みこそ住宅バブル・金融資産バブルの組み合わせに他なりません。日本もその罠に入り込み、「失われた20年」を経験することになったことに注意しましょう。

 以上のような歴史的変遷を理解せずに、新古典派の現実離れした抽象理論をこねりまわしても、何の役にも立ちません。しかし、現在の新古典派の現実離れした理論を批判することなしには現実を正しく把握できません。そこで、次にこのやりがいのない作業を行ないつつ、1980年代から何が生じたのかをさらに説明することにします。

安倍のミックスを経済学する その2

 2番目の論点に移ります。つまり、中央銀行は貨幣量を裁量的に(外生的に)決めることができるか否か、という問題です。
 この点について、貨幣数量説論者はそれが可能だと考えていることは既に(その1で)説明しました。しかし、①仮に中央銀行が市中銀行に対する貨幣供給量(マネタリーベース。日銀当座預金と発行日銀券)を増やすことができるとしても、それと、②市中銀行が企業等に貸し付ける金額(M2などの貨幣ストック)を増やすこととは、直接連動していまん。そこで、貨幣数量説論者(岩田規久男、高橋洋一氏など)はどうしてそうだと考えているのかが、大きな疑問となります。
 人の頭も中をのぞいてみることができないので、想像するしかない点もありますが、大きく言えば、彼らは以下のような論理を持っていると言えるでしょう。(ちなみに、バーナンキFRB議長やマネタリストの大家、フリードマンも貨幣数量説論者であり、彼らの意見も参考にします。)

 1 ヘリコプター・マネー論
 まさかと思うかもしれませんが、かつてフリードマンもバーナンキもヘリコプターマネー論を展開しました。つまり、中央銀行がヘリコプターで中央銀行券をバラまくというものです。
 これならば、確かに中央銀行券が大量に社会に持ち込まれることになるでしょう。
 しかし、制度的にはそれは不可能事、あり得ない事です。何故かって? 中央銀行も銀行であり、貸出によってしか貨幣を供給することはできないからです。人々に中央銀行券をバラまくというのは、与えるということでしょうか、それとも返済や利払いを求めない貸付(つまり不良債権となる貸付)を与えるということでしょうか? いずれにせよ、余りに馬鹿げています。もし馬鹿げていないというのであれば、実際にやってみて欲しいものです。それにはもちろん法律も変えなければなりませんが、もしそのようなことを現実にやったら、日本は世界中から馬鹿にされるでしょう。(しかし、それが経済学の論文では許され、ノーベル記念スエーデン国立銀行賞を与えられるのですから、あきれたものです。)

 2 期待(インフレ期待など)
 さすがにまずいと思ったのでしょうか。最近の貨幣数量説論者は「期待」(expectation)を持ち出すことにしたようです。つまり、中央銀行が市中銀行に大量の通貨を供給し、マネタリーベースを増やすと、(例えば)2パーセントのインフレーションが生じると期待した人々(企業、個人と家計)が市中銀行からの貸出を求めるようになるという論理です。インフレーションを期待すると何故貨幣需要が増えると彼らは説明するのか? 最近の流行は、インフレーションが貨幣の減価をもたらし、それが消費需要の拡大をもたらし、さらに企業の投資需要をもたらすので、通貨に対する需要(つまり市中銀行の企業に対する貸出)が増えるというもののようです。
 これは人々が「合理的な期待」を持つことを前提とする議論です。ただし、合理的期待といっても、彼らの論理にとって都合のよい期待であり、本当に人々がそのような期待を持つことはありえませんない。彼らの経済学は、「風が吹けば、桶屋が儲かる」式のトンデモ経済学に他なりません。あるいは、戦時中の「竹槍精神主義」のようなものです。中央銀行がやる気を示せば、国民もそれを感じて景気回復とインフレーションを実現できると信じるようになる。ところが、日銀にやる気がないから、そうならない。白川が悪い。こんなところでしょうか。

 3 M2/マネタリーベース
 ヘリコプター・マネーも精神主義も客観的・科学的な経済学というイメージにとって都合が悪いと考える人は、もうちょっとスマートな姿勢を示そうとします。つまり、M2(市中銀行の人々への貸出=貨幣供給)とマネタリーベース(中央銀行の市中銀行への貸出)の比率が安定しているので、後者を増やせば、前者も増えるという論理を使うのです。しかし、まだ経済学を学び始めたばかりの善良な経済学部の新入生ならそれに騙されるかもしれませんが、教師の中には私のような現実世界の経済学を教える者もいるので、それが成立しないことをいつかは知ることになります。

 要約します。貨幣供給は内生的に決まります。そこで、現実世界の経済学は、それが現実の経済(による複雑な調整)の中でどのように決まるのかを、示さなければなりません。また現実の世界では、貨幣は中立的でもなく、外生的に決まるのではもないこと、言い換えれば貨幣の非中立性と内生性を理解することが重要となります。

ブラッック企業となった日本政府

 ハッシュ・ハッシュ・ゲームという遊びがヨーロッパにあるのをご存知でしょうか? これは一方の手でボールを与えながら、他方で奪うというもののようですが、日本の政府が行なってきた(いる?)のも、そのようなものです。一方で、雇用を増やすためといいながら、各種の補助金を出しながら、他方では雇用を奪うような施策を実施する。
 私も各種の(地方の)審議会に学識経験者として出席したことがあり、(末端の)行政の人が一所懸命にやっていることは否定しません。問題は、もっと上の、中央のレベルの話です。
 言うまでもなく、現代の企業家経済(資本主義経済)では、雇用(労働需要)は基本的に民間企業の生産によって生まれます。生産量が増えれば、雇用は増えます。また労働生産性が高ければ(つまり、一人あたりの生産できる量が大きければ)、同じ生産量でもよりすくない労働力で生産を行なうことができるでしょう。
 この簡単なことが現代の経済を考える基礎となります(突き詰めれば、ケインズの経済学もこの2つの原理から出発しています)。ここでは、簡単のため労働生産性の問題は捨象することにします。
 さて、それでは、雇用を増やすために必要な生産量は、どうしたら増えるのでしょうか? 企業は売れるという期待(見込み)があって初めて生産します。つまり、有効需要(貨幣支払いに裏づけられた需要)の形成が前提です。それでは、有効需要を決めるのは何でしょうか? その最も重要な要因の一つは所得(正確には所得の期待)です。われわれは所得が増えるという期待があれば、消費支出を拡大し、有効需要を高めるのに寄与するでしょう。しかし、1997年以降のように企業が貨幣賃金を引き下げるという状況の下では、不安を感じてしまい、貯蓄を増やそうと考えて消費を削減しようとしてしまいます。
 しかし、企業からすると、人々が消費を削減する結果、販売不振に陥るので生産物の価格を引き下げざるを得ないことになります。そのために生産費をいっそう縮小しようとして貨幣賃金を引き下げたり、低賃金の非正規雇用を拡大しようとする企業も拡大します。従業員をモノとしてしか扱わないブラック企業も増加します。
 一言で言えば、1997年以降に生じてきた事態は賃金デフレーションの悪循環です。それはまたケインズの言う「合成の誤謬」の事態とも言えるでしょう。つまり、個別企業にとって合理的な行動(賃金と価格の引き下げ)が社会全体では間違った結果(有効需要の低下→生産の低下→雇用の縮小)をもたらすのです。
 したがって賃金デフレーションの悪循環を阻止できるのは社会全体のことを考えることのできる政府(公共性)でしかありません。
 ところが、その政府がブラック企業化しているのです。
 第一に、公務員(地方、国家)の給与引き下げ、退職金の減額、生活保護費の引き下げ、官製ワーキング・プアの許容・拡大です。私も、日本の多くの人々が自分たち(民間企業)の労働条件の悪化に直面して恵まれた公務員を批判したくなる気持ちは分かります。しかし、彼らの給与を引き下げれば、それによって有効需要が低下するという直接のマイナス効果が生じます。例えば地方の外食産業は特に不振に陥るでしょう。それに退職金率の引き下げは、労使協約の一方的な破棄であり、まさにブラック企業の行なうことです。その上、政府やそのようなことを行なえば、民間企業もそれに続いて行なうでしょう。現在の状況の中で、民間企業の経営者は公務員の労働条件の悪化を歓迎しているでしょう。なにしろ、次に自分の企業で労働条件を低下さえるための障害がなくなるのですから、これ以上の施策はありません。
 第二に、安倍政権の2パーセントのインフレ・ターゲット(リフレ論)があります。テレビで得々と解説している人(エコノミストという人種)の中には、それだけのインフレーションが生じると、人々は貨幣の減価を恐れて、なるべく早く購入しようとするため、需要が増えて景気がよくなると説明する人がいます。
 いやはや、世も終わりです。インフレーションという圧力をかけて強制的に消費需要を増やそうとは! これが政府やまともな経済学者の言うことでしょうか。
 しかも、本当に需要が増えて、景気がよくなるのでしょうか? もし貨幣賃金が3、4、5パーセントと増えるという期待があれば、そうなる可能性も否定できません。しかし、もしそうならなければ、インフレーションは、人々を百円ショップや不況産業企業(古着屋、激安店など)に追い込むだけでしょう。
 実際、私は寡聞にして、安倍首相からは何故か貨幣賃金を増やすための明るい展望を聞いたことがありません。
 本当は、人々が安心して暮らせるという制度構築をして消費支出の拡大を実現し、その上でGDPの成長に合わせて貨幣賃金を引き上げるという制度構築を約束することが最も重要であるにもかかわらず、です。
 日本政府が、一方で雇用を拡大するふりをしながら、他方でそれを奪っているハッシュ・ハッシュ遊びをやめない限り、日本社会の明るい展望はないと言わなければなりません。

安倍のミックスを経済学する その1

 安倍首相の経済学という意味で「アベノミックス」なるものが喧伝されていますが、きちんとした経済学(political economy)の立ち場から見れば、ごた混ぜの「安倍のミックス」に他なりません。
 ここでは、19世紀以降の経済学と経済分析の歴史を踏まえ、経済学の巨人たちの構築した「現実世界の経済学」の観点から「安倍のミックス」を解剖しながら、日本の経済社会の実相を把握し、「安倍のミックス」に代わる代替案を考えてゆきたいと思います。
 
 最初に2パーセントの「インフレ・ターゲット」をめぐる論点を取り上げます。しかし、これもそれほど簡単ではなく、次のいくつかの議論を理解しなければなりません。
 1 物価(一般物価水準)は貨幣供給によって決まるのか? (貨幣数量説の問題)
 2 中央銀行(日本では日本銀行)は、貨幣供給(M2など)を外生的に決められるか? (貨幣は外生的か内生的か?)
 3 インフレーションと経済成長はどのような関係にあるのか? (貨幣の中立性? それとも物価版のフィリプス曲線?)

 今日は、上記のうち最初の点(貨幣数量説、またはマネタリズム)について触れるにとどめます。
 「安倍のミックス」は、明らかに貨幣数量説に依拠しているように見えます。
 物価水準が貨幣供給(正確には貨幣ストック)によって決まるという見解(仮説)は、貨幣数量説と呼ばれます。ここで注意して欲しいのは、あくまでも貨幣供給が原因で物価水準が結果(貨幣量→物価水準)という見解だということです。それは数式で次のように示されます。
  P=M・V/T  P:物価水準、M:貨幣ストッック、V:貨幣の流通速度、T:産出
これはPT=MV(生産額=流通額)という「恒等式」から導かれます。
 なんだ、正しい式じゃないかと即断しないでください。次の様々な問題があるからです。
 1 恒等式が成立するということと、貨幣量→物価水準という因果関係とはまったく別のことです。両者にある種の相関はあるかもしれませんが、因果関係となると別です。
 2 この因果関係が成立するためには、いくつかの前提条件が必要です。その中で最も重要な点だけを示します。
  a)V=一定(Vがふらふら変動しては、上の因果関係は成立しません)
  b)貨幣の中立性(貨幣量がT、つまり産出量に影響を及ぼさないという前提)
  c)貨幣需要は商品(財とサービス)の取引にもとづく需要だけである。
  d)貨幣の外生性(貨幣は、経済の必要性から「内生的に」生まれるのではなく、中央銀行が裁量的に決定できる)
 実は、この4つはまったく成立しないことが分かっています。
  a) Vは、長期的にも短期的にも変化しています。論より証拠、下の図を見てください。


  b)貨幣の中立性も成立しません。これは特にケインズが『貨幣論』や『一般理論』で明らかにした点です。ケインズは、現代の「企業家経済」(資本主義経済)では、貨幣は単に実体経済をおおうベールのようなもの(貨幣ベール説)ではなく、価格現象だけでなく実体経済(景気、雇用、所得分配など)に深く相互的に関わっていることを見抜きました。
  ところで、貨幣数量説に立つリフレ論者は、インフレーションを起こすと、景気がよくなると言っているわけですから、インフレーションを起こすという点では「貨幣の中立性」に依拠しながら、他方では景気をよくするという点ではそれを否定していることになります。この矛盾に気づいていないのか、あるいは気づいているけど、もともとがミックスだから、どうでもよいのか? この点もあとで詳しく検討します。
  c)貨幣需要(貨幣に対する需要)が商品取引需要だけというのも、現実世界の経済学からは現実離れした理論です。というのは、これもケインズが強調しているように、貨幣需要には資産取引需要も含まれているからです。実際、1980年代後半の資産バブルの時には資産取引需要が急速に拡大し、資産価格の引き上げに貢献しました。
  d) 貨幣の外生性も成立しません。実はこの問題は、19世紀以来の論争の的でした。イギリスでは、銀行学派(banking school)と通貨学派(currency school)が激しい論争を繰り広げましたが、結局、Tookeなどの銀行学派が正しいことが誰の眼にも明らかとなりました。つまり、簡単に言えば、中央銀行は市中銀行に対する貨幣供給を増やすように影響力を行使することは可能かもしれませんが、市中銀行は企業や家計に対する貨幣供給(つまり貸出)を自動的に増やすことはできないということです。その理由は簡単です。企業は投資などの資金需要(上の c) がなければ、銀行から借りようとしないからです。
 ふたたび日本の例を見てみましょう。

 図は、日銀が市中銀行に供給するマネタリーベースと市中銀行が経済に供給するM2の前年比(%)を示します(資料は、日銀の短観、月次)。1999年〜2006年と2008年のリーマン・ショック後、日銀は金融を大幅に緩和し、マネタリーベースを急激に増やしましたが、M2はそれほど増えていません。これまでに日銀は、世界で最も高い水準にまねたリーベースを増やしているのです! しかし、貨幣賃金が低下し、購買力と有効が低下し、企業が投資意欲をなくしている状況で、貨幣需要が生まれるわけがありません。(この貨幣需要の低下と投資の抑制の本当の関係については、後日、詳しく説明することにします。)

 かくして貨幣数量説はまがい物の理論であることが理解いただけたと思います。
 日銀総裁候補の一人(本命ではありませんが)とされていると聞く高橋洋一という人がデタラメの本(新書)を書いています。彼は貨幣数量説が欧米では正しい理論として扱われていると述べています(わずか数行!)が、確かに貨幣数量説を信奉している人もいます。しかし、私が知っているまともで、偉大な経済学者はすべてそれを否定しています。
 ただし、貨幣量と一般物価水準の間には何らかの高い相関が成立している可能性はあります。しかし、そうだとしても因果関係は逆です。

2013年1月16日水曜日

地方公務員の給与削減? 安倍首相、冗談でしょう?

 安倍内閣の麻生氏が地方公務員の給与削減を要請したとか? 国家公務員の7.8パーセント、2年間の削減にならって地方公務員も削減するべきと要請したと報じられています。
 しかし、安倍首相は、景気対策を重視して国債発行を過去最高の52兆円とし、2パーセントのインフレターゲットを設定し、そのために量的緩和を初めとする金融緩和策を行なうと発言しています。
 一方で、景気をよくするといって金融緩和と財政支出をしながら、他方で公務員の給与を削減するというのは、本末転倒の矛盾した行動だということが安倍氏には理解できていないのでしょうか? もしそうだとしたら、とても残念なことなので、それが矛盾していることをここで教えてあげたいと思います。
 一国の経済では、生産と所得は事後的に一致します。そこでそれをYで示します。
 ところが、Yは、分配面から見ると、賃金Wと利潤Rに分かれます。式では、
   Y=W+R
 一方、所得は支出されて、有効需要を構成します。消費支出をC、投資支出をI、政府支出をG、輸出をX、輸入をMとすると、数式では、
   Y=C+I+G+(XーM)
 さて、地方公務員の給与は、特に疲弊した地方では、人々の所得の中でも重要な部分を構成しています。それを削減すれば、Wを削減し、そこでWからの消費支出を削減します。例えば給与を削減された人は、外食をしなくなったり、節約しようとして様々な支出を減らすでしょう。そうすれば、そうした支出に依存していた別の人々の収入も減少し、その結果その人々の支出から生まれる消費も低下します。
 世の中には、不景気になると人気取りの政治家(ポピュリスト)が現れ、大衆の味方をするふりをする人々が現れます。民間の人々が苦労しているのに、公務員はのうのうとしている、といったところでしょうか。
 しかし、公務員の給与を削減すれば、まわりまわって自分たちの所得も減少するという悪循環が生じることは眼に見えています。
 一方で、景気を刺激するとか雇用を拡大するとか言いつつ無駄なお金を出しながら、他方では、景気にとって最も重要で本質的な給与の引き下げをはかるなどもっての他です。
 安倍さん、本当は冗談でしょう?

2013年1月14日月曜日

2%のインフレ? 安倍首相、冗談でしょう?

 何でも安倍首相は2%のインフレーションを目指すそうです。その政策的根拠は、どこにあるのでしょうか? 答えは「現在までデフレ不況が続いたから」だからそうです。
 ということは、デフレ(インフレ)が原因で不況(好況)が結果だから、政府と日銀が政策的にインフレーションを起こせば、それが原動力となって好況という結果がもたらされるという趣旨でしょうか? 寡聞にして、はっきりとそう聞いたわけではありませんが、どうもそのようです。要するに、安倍首相は、①政府および日銀が頑張れば(米国のバーナンキFRB議長のように国民に「インフレ期待」=やる気を示せば)、インフレーションが生じ、②それにつれて景気もよくなるという論理(理論?)を持っているようです。
 しかし、本当にそのような政策学的な論理(政策目標ー結果)が経済学によって根拠づけられるのでしょうか? 確かにそのように言う経済学者(いわゆるリフレ派など)はいます。しかし、残念ながら、そのような理論は成立しません。論より証拠。まず過去の事実を日本の統計から見ておきましょう。
 下図は、1970〜2011年の40年間における日本の消費者物価上昇率(CPI)とGDP成長率の組み合わせをプロットしたものです。この図から物価上昇率が2%ほどの時の成長率がどれほどだったかを見ると、マイナス1%ほどからプラス5%ほどのところに分布しています。しかし、必ず2〜3パーセント以上の成長率というわけではありません。2パーセントというのは最近のデフレの時にも見られた成長率ですから、(安倍首相にとっては)むしろ克服されるべき低成長率というべきでしょう。それにちょっと見れば分かるように、物価上昇率が1パーセント以下だったりマイナス(デフレ)の時にもGDPが4パーセント以上の時もあります。
 仮に両者の間にわずかながら有意の相関関係があるとしても、明白な相関関係があるわけでは決してありません。しかし、もしはっきりした関係がないならば、大変な事態となることも想定できます。もしインフレーションだけ進行して、GDPが成長しなかったらどうなるのでしょうか? それは多くの人々に相当なショックを与えることになります。下図をもう一度みてください。もしそんなことにはならないと言う人がいたら、その人は一体どのような論理にもとづいてそう断言できるのでしょうか?
 次回はこれについて詳しく説明します。

 GDP成長率と消費者物価指数(図は内閣府のデータより筆者作成。)



  

2013年1月6日日曜日

生産と価格形成

 需要と供給による価格形成という新古典派の理論(単純理論)が現実に成立しない以上、われわれはまったく別の方法で価格形成のメカニズムを説明しなければなりません。そのためには、生産と分配のメカニズムを検討する必要があります。

 モノを生産するには、様々な生産要素や生産条件が必要となることは言うまでもありません。例えば米を生産するためには、土地(水田や畑などの耕地)、水利、大気、適度な気候、農道、農機具、種籾、肥料、農薬、労働力などが必要です。これらの要素・条件の中には、自然の恵みによって得られるものもあれば、貨幣(お金)を支払って調達するものもあり、また政府の公共事業によって準備されているものもあります。これらはまた、生産の主体的な要素である労働とその他の自然の恵みに2分することもできるでしょう。ギリシャ・ローマの時代から、自然は富みの母であり、労働は富の父であると言われた所以です。
 しかし、現代の市場経済では、人々は貨幣を支出して得られる生産要素・条件だけを考え、市場の外部の世界を見ない傾向があります。これは人間の経済活動全体を考察する場合には正しい態度とは言えませんが、理解できないわけではありません。というのも、市場の外部世界は、直接モノを生産している人々にとっては、貨幣支出を必要としない要素、あるいは(個別的には)費用のかからない要素だからです。
 私たちも、このことに注意を払った上で、当面、貨幣支出の必要となる要素だけを考えることにします。
 モノを生産するときにかかる費用(貨幣支出)は、まず物的費用と人件費(雇用される人に対する貨幣賃金支払い)に区分されます。また前者は、減価償却費(固定費用)と原材料費等の流動的な費用に二分されます。次に生産されたモノは売却されますが、それによって実現された売上高(収入)から費用を差し引いた部分は、利潤(利益)となります。こうした関係を数式で示せば次にようになります。
  A=(D+M)+W+R
        ただし、A:収入、D:減価償却費、M:原材料費等、W:賃金、R:利潤

 ここで、減価償却費というのは、固定資本ストック(資本装備)の費用の当該期間中における回収分です。例えば100万円の機械を購入したとします。その機械が維持費用を必要とせず10年間稼働することができるとすると、一年間につき平均して10万円を上乗せしなければなりません。(以下、特に断りのない限り、フローの経済計算は1年間を単位として行ないます。)
 ところで、固定資本ストック(資本装備)も原材料等も、それを購入して生産に利用する企業にとっては費用ですが、賃金と利潤については事情が異なります。この部分は、当該企業によって生み出された付加価値であり、それゆえに当該企業の生産によって生まれた所得です。そこでこの部分だけを取り出して、Yで示すことにします。
  Y=W+R
上で示したようにRは、利潤、つまり企業の所得ですが、理論上はともかく、実践上は利潤と減価償却費は同じキャッシュフローであり、区別することは簡単ではありません。そこで利潤に減価償却費Dを加えた値を粗利潤と呼び、所得Yに減価償却費Dを加えた値を粗所得と呼びます。
  Y+D=W+(D+R)
この式は、経済学の出発点となる基本的な式の一つです。
 次に進みます。
 いま当該企業が一年間でQ単位の消費(財またはサービス)を生産・販売し、その売上高(収入)がAに等しく、付加価値がYに等しいとします。このとき、その商品の価格(単価)を p とすると、pQ=A という恒等式が得られます。
  pQ=A=D+M+W+R
  p=A/Q=(D+M+W+R)/Q      (1)

 さて、ここで述べたことは商品価格の形成にとってどのような意味を持つでしょうか?
 ・商品の価格は、所得の大きさYと労働生産性Qに関係している。それは所得に正比例し、労働生産性に反比例します。
 ・もちろん、D+Mも商品価格の構成の中に入ります。しかし、これは別の企業によって生産された商品の付加価値(所得)に相当する部分であり、それも結局は別の企業の所得と等しくなります。そこで価格形成の問題を考えるときには、この部分を捨象することができます。そこで上の式を次のように単純化します。
  p=Y/Q=(W+R)/Q         (2)
 ・そこで次に労働生産性と所得の大きさがどのような要因によって決まるかを考えなければなりません。まず労働生産性ですが、それが労働者の側の諸条件(知識、熟練、肉体的な力)と客観的な労働条件・労働対象・労働手段(原材料、道具、機械、技術、環境など)によって決まることは言うまでもありません。
 所得の大きさはどうでしょうか? これが大問題です。
 上の(2)式は差し当たりは恒等式であり、労働生産性が所与とすると、価格pが所得大きさYの結果であると考えることもでき、また逆に所得が価格の結果であると考えることもできます。あるいはどちらかが原因でどちらかが結果であると考えることは許されないのかも知れません。その場合は、相互規定的な関係ということになります。
 その上、(2)式は、所得が賃金と利潤(付加価値、所得)からなることを示しています。このことは、商品価格が所得分配に関係していることを示すものに他なりません。いま、Rを賃金Wに対する割合θで示されると、R=W・θ ですから、
  W+R=W+W・θ=W(1+θ)
となります。また(2)式は、次のように変形されます。
  p=W(1ーθ)/Q

 繰り返します。この式は恒等式、それも事後的に成立する恒等式ですが、価格形成のメカニズムを考えるときにもっとも重要な式となります。

株価・配当より賃金を上げよ

 年末から年始にかけて株価が上がったといって浮かれているテレビ報道の風潮について一言。
 短期的ではなく、長期的な変動について言えば、株価が配当に依存することは経済学の初歩です。また配当は会社の利潤の中から支払われることも常識です。この当たり前のことから次のことも明々白々となります。
 1 会社の利潤が増えなければ、つまり実体経済が好調にならなければ、株価の持続的上昇は望めません。言い換えれば、現在、安倍政権になって株価がちょっと上昇したからといっても、実体経済が先行き不透明である以上、現在の株価上昇は雰囲気的な、あるいは御祝儀相場的な意味しか持たないということです。
 もちろん、私は今後とも株価が上昇しないと断言しているわけではありません。景気がよくなり、会社の利潤が増え、その利潤の中からより多くの配当が支払われるようになれば、株価はもっと上がるかもしれません。
 2 しかし、本当は、株価が上がることはよいことなのでしょうか? 私はそのことこそが問題だと考えます。そのことを明らかにするためには、1980年代以降の米国の事例を示すのがよいでしょう。
 米国では、1980年代に会社の多数株取得による敵対的買収が横行しました。そしてその時以降、株主価値を重要視する企業統治が増幅され、かつ喧伝されるようになりました。またそれと同時に経営者にストックオプション(自社株購入権)が与えられるようになりました。このストックオプションというのは、一定の価格で自社株を購入する権利を経営者に与えるものです。
 ストックオプションを与えられた経営者は何をしたでしょうか? アメリカの経済学者の研究成果を簡単に要約すれば、すばり不正経理と賃金圧縮(リストア)、それに長期的なビジョンを欠いた短期の「レントシーキング」(rentseeking)です。ここでは以上のうち賃金圧縮だけを見ておきましょう。アメリカの企業経営者がリストラによって如何に賃金を圧縮し、自分たちの経営者報酬や利潤を増やし、利潤の中でも株主に支払う配当を増やすことに専念したかは、一連の統計にはっきりと示されています。すなわち、最近の30年間に米国の実質賃金(時間あたり)は低下してきました。労働者は以前と同じ賃金所得を稼ぐために、長時間労働を余儀なくされました。これと対蹠的に配当は増加し、株価は上昇し、その結果、キャピタルゲインも著しく拡大しました。しかも、その挙げ句のITバブル、住宅・金融資産バブルだったのです。その結果、バブル崩壊後、深刻な金融危機が生じたことは言うまでもありません。
 人々の99%は、株式保有などではなく、賃金所得で暮らしています。
 株価・配当では賃金の着実な上昇をもたらす経済政策を求める、これが多くの人々の利益にかなっていることです。
 本ブログも新政権の評価に際して、ずばり賃金や労働時間などの労働条件が改善されるのか否かをしっかり監視してゆきます。








 





2013年1月4日金曜日

需要と供給による価格決定説の誤謬 2

 前に説明したように、収穫逓減が成立しないという前提を満たす場合(ここでは収穫一定)を考えます。ただし、差し当たり需要曲線は右下がりと仮定しておきます。すると、下に示したような図が描けます。この図は、価格水準はもっぱら供給側の事情によって決まり、供給量は(価格が一定水順に固定されているならば)もっぱら需要側の事情によって決まることを示しています。
 いま需要量がDD曲線で示され、供給量がSSで示されるとします。両者の交点は(p、Q)です。この場合、もし需要側がD'D'曲線のように変化し、需要量がQ’に低下しても、価格pは変化しません。価格が変化するのは、供給側がS’S’のように変化するときだけです。
 実は、この図のほうがはるかに的確に現実の経済社会の動きを説明します。実際、企業は、一度設定した価格をあまり上げ下げしたがりません。また商品の購入者は、価格の変動に対してはまったく無反応ではなく、価格の引き上げに対しては購入量の減少をもって、反対に価格の引き下げに対しては購入量の増加をもって対応します。もちろん、「需要の価格弾力性」は商品ごとに異なっており、またTPO(地域、時期、状況)によって異なっていると考えられます。それが現実に計測されることはめったにありませんが、原理的には計測可能です。
 そこで、現実世界の経済学は、価格が供給側の如何なる事情によって決定されるのか、また価格を所与としたとき、需要は如何なる事情によって決定されるのかを、検討しなければなりません。


 






需要と供給による価格決定説の誤謬

 需要と供給による価格決定説を知らない人はいないと思います。私も高校生の時、政治経済の教科書で知りました。ただし、その時に違和感を覚えたのを鮮明に記憶しています。<なるほど価格が変化すると、需要量や供給量は変わるかもしれないが、そんなもので価格水準が決まるわけがない。もっと生産面における別の諸要因があるだろう>といった感じです。
 大学で初めて経済学を学んでから、この違和感が正しかったと確信するようになりました。宮崎義一先生や岸本重陳先生に教えを受けることができたことを今でもありがたく感じています。
 そもそもSS曲線(供給曲線)にせよDD曲線(需要曲線)にせよ、人間の頭脳が考えだした仮想空間上の概念であり、それを計測した人はただの一人もいません。これが経験科学を自称していながら、経済学が物理学と異なる最も重要な点の一つです。
 それでは、新古典派の理論では、何故供給曲線は右上がりで、需要曲線は右下がりなのか? それは市場均衡理論を導く上で都合がよいからという、ただそれだけの理由からに他なりません。
 もちろん、新古典派の経済学者は自分たちの理論を正当化するために様々な事を言います。私が知っている限りでも、次のような言説があります。
 ・これが成立しないと経済学は物理学のような「科学」になりえない。
 ・これが成立しないと市場経済を存立させる根拠が明らかにならない。
 ・個々の市場(商品)について需要曲線や供給曲線が計測できず、具体的に描けなくても、理論(思想?)自体は成立する。
 ・需要曲線にも供給曲線にも理論的根拠(収穫逓減、限界効用逓増など)がある。 
 
 このうち最初と2番目、3番目については、経験科学の成立要件を自ら否定する言説であるとだけ言っておきます。
 最後の点ですが、それも現在までに行なわれた何回もの企業調査等の調査・研究によって否定されています。ここでは、限界効用(またはその前提となる効用)については、それを計測した人が一人もいないことを指摘するにとどめ、収穫逓減についてのみ触れておきます。
 収穫逓減というのは、企業が産出量を徐々に増やしてゆくとき、投入量が増えてゆきますが、その際、最後の一単位(労働力や原材料など)の投入によって生み出される産出量(限界産出量)がしだいに低下してゆくことを意味しています。これは、逆に言うと、最後の一単位の産出量を生み出すのに必要な限界投入量(限界費用)が増加すること(費用逓増)を意味します。もしこの収穫逓減(費用逓増)の「法則」が成立すれば、確かに供給曲線は右上がりになるといってもよいでしょう。
 しかしながら、新古典派の経済学者にとって残念なことに、1920年代のオックスフォード大学調査、1950年代の米国の調査(Gathlie et al)、1990年代の米国の調査(S.Blinder et al)などきちんとした大規模な企業調査はすべて、収穫逓減を否定し、むしろ収穫一定か収穫逓増が成り立つことを明らかにしています。1950年代の米国の調査時のことですが、ある経営者は、収穫逓減の当否に関する質問を受けたとき、「正気の経済学者」の中にそのような馬鹿げたことを考える人がいることに驚いたといいます。
 賢明な人であれば、収穫逓増が成立することは、ちょっと考えれば分かるはずです。例えば企業がコマーシャルを行なうのは、ちょっとでも販売量=産出量を拡大し、収益を増やそうとするからです。ところが、もし限界費用が増えていくならば、企業はどこかでこれ以上生産・販売すると損失が生まれるという限界点に達するはずです。でも、皆さんの中には、そのような限界点が存在するという話を耳にしたことのある人はいないはずです。企業は、自社製品に対する需要があれば、生産能力の限界点まで生産を行なうでしょう。昨日のテレビ番組(秘密の県民ショー)でも、茄子とキャベツを使った食べものに関するお話がありましたが、企業は生産能力の限界点まで生産するのが普通の姿なのです。
 それはさて、収穫一定や収穫逓増が成立すれば、右上がりの供給曲線の根拠は失われます。ですから、新古典派の経済学者は、これまでの企業調査については黙りを決め込みました。まったく無視するのです。しかし、彼らはまわりの様子をうかがいながら、追求される危険性がないと判断するや、彼らの需要・供給による価格決定論をこっそり持ち出します。そして、追求されるや、黙りを決め込む、・・・。
 ともかく、われわれとしては、現実の経済社会のありかたに即して、収穫一定や収穫逓増を前提に物事を考えることにしましょう。この場合には、需要・供給によって価格と産出量が同時に決定されるという単純な市場均衡論的理論は成立しません。そこでは「複雑系」の理論が求められることになります。次回はこれについて説明することにします。


2013年1月2日水曜日

経済学の呪文 ケテリス・パリブス

 経済学でよく使われる言葉に、「ケテリス・パリブス」(ceteris paribus)というのがあります。これは呪文のように聞こえるかもしれませんが、「その他の条件が不変ならば」(other things being equal)という意味です。例えば次のように使います。

 ケテリス・パリブス、一国で人々(労働者)の貨幣賃金率を引き下げると、雇用が増加し、失業率が低下する。

 この命題が論理学的に大問題を抱えていることは、聡明な人ならすぐに理解できます。確かに一企業または一産業の労働者の貨幣賃金率を引き下げる場合であれば、社会全体における総賃金所得はほとんど変化せず、(貨幣で表示した)総購買力も総需要も変化しないでしょう。そこで賃金率を引き下げることに成功した企業や産業は販売価格を引き下げ、売上高を増やすことができ、雇用を増やすことができるでしょう。つまりケテリス・パリブスという条件を付しても間違っているとは言えません。しかし、一国の全企業、全産業の賃金率引き下げとなると、話は別です。(貨幣で表示した)総賃金所得、総購買力、総需要が間違いなく低下するからです。この場合には、その他の条件が変わるのに、変わらないと宣言してしまうため、「ケテリス・パリブス」を使うのは論理的誤謬に他なりません。
 しかし、経済学者だけでなく、普通の人も気づかずに同じ間違いを犯すことがしばしばです。ある条件を変えたときに別の適当に選んだ条件が不変と仮定すれば、自分の好みの結論を導くことは簡単になるので、いっそう注意が必要となります。
 頭の体操として、次のような場合に、本当は変わるのに変わらないと仮定されているものが何か、また逆に本当は変わらないのに変わると仮定されているものが何か、を考えるのもよいかもしれません。ちなみに2つともかなり怪しい命題です。
 ・日銀が金融緩和策を通じて貨幣供給を増やすと、インフレーションが生じ、景気がよくなる。
 ・(1997年の橋本「財政構造改革」のように)消費税増税をすると、政府の租税収入は必ずその増税分だけ増加する。
 

2013年1月1日火曜日

飯田康之・雨宮処凛『脱貧困の経済学』を読む

 飯田・雨宮『脱貧困の経済学』(ちくま文庫)を読みました。第3章(「経済成長はもういらない」でほんとうにいいのか?)について少し書きます。
    私の以前のブログとホームページでも説明しましたが、私自身は経済成長論者ではありません。しかし、本当の事を言うと、経済成長はもういらないという人に是非とも考えて欲しい重要な点が一つあります。それは同著でも言及されているように、一定の経済成長率(例えば2%)が達成されないと、労働需要が減り、失業者が増えるという「事実」です。
 いま「事実」と書きましたが、それにはきちっとした根拠があります。ケインズやカレツキの問題提起を受け継いでいるポスト・ケインズ派の経済学者にとっては、ごく初歩的な事ですが、企業は売れるという見込み(つまり有効需要の期待)のもとに生産します。そして、その産出物は、消費財と生産財(資本財)に区分されます。これは、マクロ経済学の恒等式、Y=C+I でおなじみです。
 ところが、I (投資)は、単に需要側から見ればよいというわけではありません。投資は、供給側から見ると資本装備の質(内容)と量を変えるという性質を持っています。いま簡単のために質的な変化については考えずに、量的な変化だけを考えることにします。また投資は減価償却費 D を含まない純投資と考えます。あるいは同じことですが、粗投資を I+D で示すことにします。すると期首の固定資本ストック K は、期末には K+I に増加します。もし資本係数 σまたはその逆数の資本効率 λ が一定ならば(実際アメリカの経済学者 E.Domar はそれらが安定的な数字であることを実証しました)、社会全体の生産力は  I/K (資本蓄積率と言います)に等しいペースで拡大することになります。その上、もし企業によるリストラや労働者の技能の向上等のために一人あたりの労働強度が上昇すれば、資本効率も労働の生産性ももっと上昇します。
 つまり経済がまったく成長しなくなったり、停滞しても、社会の生産力は成長し、その効果により労働力が過剰になるのです。そこで、もし一人あたりの労働時間が一定ならば、必ず特定の人が失業者となります。逆に言うと、ゼロ成長や経済停滞の条件下で失業者が増えないようにするためには、働いている人がワークシェアリングしなければなりません。
 2002年から2008年まで日本経済は史上最長の「景気拡張期間」を経験しました。しかし、景気拡張は雇用を拡大する好況を意味するわけではありません。その期間中の平均成長率は1%程度に過ぎませんでした。いまや私の上の説明を理解した人は、それでいいじゃないかと言えないはずです。もちろん「失業は失業した人の責任だ」などとも言えなくなります。
 
 第3章における飯田氏の議論(特に金融政策によってなんとかしようという議論など)には、承服しかねるところもない訳ではありませんが、平均して1%の成長率が雇用の観点からみて低すぎるという部分は、正しい議論といえるでしょう。