2015年6月28日日曜日

ギリシャ危機はユーロ圏全体の危機に他ならない

 1990年代の欧州連合、特に単一通貨(ユーロ)に参加した地域・国の経済危機と高失業は、端的に言って、1993年に批准されたマーストリヒト条約とその後に締結された安定成長協定(SGP)によるものでした。
 それは、ドイツ、オランダ、ベルギーなどのもともと低インフレだった中心国にとっても厳しいものでしたが、相対的にインフレ率の高かった周辺国にとってはさらに厳しい政策を取ることを余儀なくしました。マーストリヒトと成長安定協定の課した収斂基準(財政基準と金融基準)については、前に説明したので、ここでは触れませんが、それらにもとづいてとられた経済政策(緊縮と金融引締め)は、労働者の賃金を抑制し、したがってそれぞれの国全体における賃金所得総額を圧縮し、賃金からの消費支出を停滞させ、かくして結局のところ景気を悪化させ、失業率を高めるという帰結をもたらしました。
 1990年代のヨーロッパ(欧州連合に参加した国々)、特にユーロ圏の失業率が高いことはよく知られた事実となりました。これと対照すると、マーストリヒトの圏外にいた英国、それに米国の失業率がユーロ圏に比べてましに見えるほどになっていたほどです。
 ところが、こともあろうに、OECDは、1994年に「職の研究」で英米の失業率が相対的に低いのは、実質賃金が抑えられており、また所得分配が不平等であるからであるというとんでもない、奇妙な議論を展開しました。それを著した経済学者は、自分たちの議論を「統一理論」と呼び、ヨーロッパ諸国の高失業は、その福祉政策、つまり高い実質賃金と平等な所得分配にあると主張し、失業率を下げるためには、労働市場の柔軟化、つまり最低賃金の抑制、失業保険水準の引き下げ(期間、率とも)、企業が解雇することを容易にすること、労働組合の団体交渉権の削減などを受け入れるべきだと論じました。いやはや何をかいわんやです。
 ともかく、このような苦難の道を経て、21世紀初頭までにユーロは誕生しました。しかし、約束した黄金郷は実現しませんでした。依然としてマーストリヒトと安定成長協定の呪いはつづいていました。緊縮と引き締めの殺伐とした風景は変わりませんでした。
 しかしながら、変わったことが一つだけありました。それは、一方には、中心国ドイツのように新重商主義政策によって(つまり外国への輸出拡大、あるいは外需の拡大によって)景気をよくしようとする志向の強化であり、他方では、多くの周辺国のように、ドイツからの借金によって輸出と消費を拡大しようとする志向の出現です。この2つの志向は、もちろん対称的となっており、一方なくして他方はありえません。ドイツは貸し付け、輸出する。一方、周辺国はドイツから借金し、その借金によって輸入(購入)する、という関係です。しかも、ドイツは輸出を増やすために国際競争力をつけるといって、単位労働費用の圧縮をはかりました(端的に言えば、賃金圧縮です)。他方の周辺国もユーロを受け入れた代償として賃金の抑制を耐えなければならない状態は続きましたが、借金を増やすことは受け入れられました。
 もちろん、このような関係が成立するためにはある条件が必要だったことは言うまでもありません。それは一言でいえば、経済の金融化です。それは具体的には、金融と資本移動の自由化、一連の金融革新、借金を増やしても問題はないという意識(金融的陶酔)の人々への植え付け等々です。
 そもそも金融の領域は不安定・脆弱生を特徴としています。モノの生産・販売の世界では、多少需要が増えても価格はあまり引き上げられません。しかし、資産市場(土地、株式取引など)では、購入者が増えれば資産インフレーション=資産バブルが生じます。そして資産インフレーションが生じれば、キャピタル・ゲイン(資産の売買差益)が生じ、それはいっそう購入者と購入資金を増やします。これは1980年代の日本のバブルを経験した人なら実感的に理解できるはずです。
 しかも、銀行というところは、その気になれば(もちろん規制の範囲内ですが)いくらでも貸付(貨幣供給)を増やすことができます。
 こうしてユーロ圏全体を巻き込むマネーゲームが始まりました。
 しかし、資産バブルはいつか必ず崩壊します。そして、資産デフレーションが生じ、キャピタル・ロス(資産の売買差損)が生まれ、さらに銀行は貸し付けたお金を返してもらえなくなります。いわゆる不良債権が発生します。これは銀行が詐欺まがいの金融(つまり「ポンツィ金融」)を行ったことを意味します。
 このことは、ECBが量的緩和の名の下に、銀行から巨額の不良債権を買い取って救済してあげるという禁じ手を行ったことからも明らかです。
 人々は失業しても救済されませんし、普通の企業は破産してもそのような手厚い保護を受けることはありません(経営者はそれなりに罰せられるかもしれませんが)。ところが、銀行は巨額の公的資金をもって援助されたわけです。もちろん、金融部門で働いていた人々は、資産バブルのときには、ぼろ儲けをしていたはずですが、アメリカでもヨーロッパでも儲けの返却を命じられた人はほとんどいないでしょう。

 ざっとデッサンすると、19世紀末から21世紀初頭にかけてヨーロッパで生じたことはこんなところです。
 ギリシャの問題は決してギリシャだけの問題ではありません。それにカネを貸し付けたドイツの金融機関、特に銀行の問題であり、またそのローンを手にした人々にドイツ製品を売りつけたドイツ企業の問題です。
 よく事情を知らない人が、ギリシャ政府やスペイン政府、ポルトガル政府が巨額の借金を背負い、デフォルト(債務不履行)の危機に陥っているのを見て、これら周辺国の怠惰な人々のために政府が借金したたために財政危機(ソブリン危機)がおきたのだといったりしますが、それは正確ではありません。むしろ政府が借金を拡大しはじめたのは、2007年に米国発の金融危機が進行していることが分かりかけてきたとき、危機を納めるために政府が借金を増やしたときでした。ソブリン危機はそこから生じたのであり、その前に民間部門が巨額の返済不能債務をかかえるようになっていました。
 さて、それでは現在の金融危機がおさまれば、ヨーロッパ経済社会の健全な発展がはじまるでしょうか? 決してそうではありません。そもそも私がここで指摘した根本問題が残っています。つまり、ユーロ圏は、その内部の地域間の経済的にきわめて大きな発展格差にもかかわらず、為替相場による調整を不可能にする単一通貨を導入してしまいました。その際、為替調整の代わりに単一政府が存在して地域間格差の問題、「地方政府」の債務問題を解消することができれば、話は別です。しかし、そのような単一政府は存在しません。IMFもECBもただギリシャに「緊縮」を求めるだけであり、自らの利益に反して救済しようとは決してしません。
 単一政府は成立しておらず、しかし為替調整の可能性は奪われている。これが現実です。
 むかしR・マンデルというアメリカのノーベル経済学賞を受けたひとが「最適通貨圏」の考え方を示しました。このマンデルの言葉を使えば、ユーロ圏は「最適通貨圏」ではないことは今では誰の眼にも明らかとなっています。(ちなみに、マンデル自身もそのように考えているようです。)


何故、安倍政権の下で円安になったか? その結果は?

 安倍政権の下で円安・ドル高が進行しました。
 その理由は何であり、その結果はどんなものでしょうか? 政権の成立から2年以上が経ち、歴史的検証が可能となるデータもかなり蓄積されてきています。

 まず要因・歴史的事情から。
 下の図は、実効為替相場と純輸出・GDP比率(%)を示します。
 普通、為替相場というと、1米ドル=100円(邦貨建て)のような式を頭に思い浮かべる人が多いかもしれませんが、外国といっても米国だけではなく、EU諸国も、韓国も中国などもありますので、円と外国の通貨全部との為替相場を示すときには実効為替相場というものを使います。外国の通貨を全部バスケットに入れて計算した一種の平均値です。これには名目値と実質値があります。名目というのは、為替市場の相場をそのまま平均したものです。しかし、国が異なると物価水準の変動率も異なります。例えばJ国の物価がまったく上昇せず、A国の物価が3パーセント上がったとしましょう。このとき、もし為替相場が一定ならば、実質的にはA国の通貨が3パーセント上昇したのと同じ効果が(国際貿易に)生じると考えることができます。何故ならA国の商品価格が3パーセント上昇したため、J国は以前より3パーセント高い値段で購入しなければならなくなります。これはA国の通貨が3パーセント切り上げられたのと同じ効果をもたらします。要するに実質実効為替相場というのは、内外の物価水準上昇率の差を考慮した実効為替相場です。
 さて、名目為替相場(Nominal EER)は、この20年間、ほぼ80(円安)から100(円高)の間を変動してきました。この間に1995年と2000年、2012年にピークに達し、1997年、2002年、2007年に(そして2015年を無視すると)2014年にボトムに達しています。これに対して実質実効為替相場(Real EER)は、趨勢的にはずっと低下傾向にありますが、上下の変動は名目実効為替相場と連動しています。
 一方、純輸出(輸出ー輸入)のGDPに対する割合(%、右目盛)は、黒い実線で示しておきました。こちらは、1996年に谷、1998年に山、2001年に谷、2004年と2007年に山、2008年谷、2010年山と変動しておきており、2011年からは過去30年にない(マイナスへの)落ち込みを示しています。
 この両者(為替相場と純輸出比率)には相関はあるでしょうか? また、あるとしたら、どのような相関でしょうか?
 あると言えばあると言えるでしょう。例えば純輸出・GDP比率が1パーセント以下に低下すると、その後に(同年と翌年に)実効為替相場が低下する(円安になる)傾向が読み取れます。この傾向は2008年から2009年には観察されませんが、この時はリーマンショックによるアメリカ経済の混乱と輸入大幅削減が生じているときですから、当然でしょう。2011年にも純輸出・GDP比率は低下していますが、2011年は東北をおそった大震災・原発事故の年です。しかし、2013年、2014年にも純輸出・GDP比率の大幅低下は続いています。これで実質為替相場が低下しなければ、どうかしていると言わなければなりません。


出典)BIS(国際決済銀行)の実効為替相場の統計、財務省の国民経済計算統計より筆者が作成。
 注)為替相場(左目盛)は、2010年=100とした指数であり、数値の高い方が円高を示す。純輸出・GDP比(右目盛)の単位はパーセント。

 とはいえ、このように為替相場の変動を貿易だけで説明することは正しくなく、実は、もっと別の要因を見ることが必要になると考えられます。というのは、BISの統計がはっきりと示すように、また為替市場の専門家が明らかにしてきたように、現在では為替市場を支配しているのは、実需取引ではなく、国際資本移動だからです。BISの統計では、ラフにいって実需取引の30倍にあたるマネーが外国為替市場で取引されています。
 そして日本の政府(財務省の担当部署)もこの為替取引に介入していることが知られています。ミスター円こと榊原英資氏や、黒田現日銀総裁もかつて財務省時代には「円売り・ドル買い」を行ったことがあるようです。
 次は、この資本移動と政府介入についていくつかの点を取り上げてみます。

2015年6月23日火曜日

お笑いを一席 ある暗闇の街角。ちょうど・・・

 ある暗闇の街角。
 ちょうど街灯のある下で一人の男が何かを探しているらしく、腰を曲げて探している。
 通りがかりの人が、
  「あなたは何を探しているのですか」と聞くと、
 男は、
  「実は大切なカギを落としたのです。そのカギを探しています」と答える。
 通りがかりの人がさらに、
  「落としたところはこの辺なのですか」と聞くと、
 男は、
  「それはわからないのです」と答える。
 通りがかりの人、
  「では、なぜここで探しているのですか?」
 男、
  「ここが明るいからです。」
 さて、このように答えたのは、経済学者であった。

 この話はわりあい流布していて、例えば都留重人の『経済の常識と非常識』(岩波書店、1987年)にも載っています。

 この話がいわんとしていることはもちろん明らかです。解明するべきある問題(主題、テーマ)があるとき、経済学者はすでに知られている概念やトゥール(だけ)を用いて分析し、説明することが往々にしてあり、しかし、それがポイントをついているかは保証の限りではない。まあ、そんなところでしょうか。

 例えば雇用量(労働需要)の変化は、本当は、リアルタイムの時間の経過とともに労働生産性や産出量がどのように変わるかを説明して始めて理解できるものですが、(新)古典派の労働市場論では、短期(つまり無時間)の空間の中で実質賃金率と労働供給・労働需要(時間)がどのように関係しているかという静学理論を用いて説明がなされています。これなどは、物理学で言えば、静力学でロケットや天体の軌道を計算しようとするようなもので、まったく科学的とはいえません。しかし、経済学では、そのようなことが行われているわけです。つまり、「ここが明るいから探しているのです。」
 もちろん、経済学がいつまでもこんな非科学的なことをしていたら、そのうち多くの人に知られてしまいます。

 ジョーン・ロビンソンが言ったように、「経済学者に騙されないために経済学を研究する」というくらいの精神を持った人がもっと現れることを期待するしかありません。

2015年6月22日月曜日

アベノミックスの真相がマスメディアによって報じられない理由

 今日は少し疲れたので、日刊ゲンダイのサイトを紹介します。

 「アベノミクスで経済が破壊されても真相は報じられない理由」

 基本的には、
  大企業がボロ儲けをしている。
  マスコミがそこからおこぼれを与えられて甘い汁をすっている。
  他にも理由があるかもしれませんが、これが基本的理由でしょう。
 これを英語では、plutocracy(金権支配)というようです。
 マスメディアではなく、誠実に報道しているジャーナリストを支援しましょう。

  http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/15952

2015年6月21日日曜日

何故黒田日銀は誤るのか? インフレやデフレの原因は通貨供給ではなく、・・・

 黒田日銀総裁が誕生するにあたり、次の3つの主張がマスコミに現れました。
 1)現在はデフレ不況である。
 2)インフレは、日銀が通貨供給を増やすことによって可能となる。
 3)適度なインフレは景気をよくする。

 一体どこからこのような奇妙な主張が出てくるのか不思議というしかありませんが、一時は社会全体の「常識」でるかのように広まりました。<景気がわるい。カネ回りが悪い。だから日銀がカネを増やすべきだ>などという床屋談義的な話が床屋で終わらずに、政策になってしまったわけです。

 このうち1)はここではおいておき、2)ですが、せいぜい日銀が直接できることは、金利に影響を与えることと、市中銀行に対する貨幣供給、つまり日銀券と日銀当座預金を内容とするマネタリーベース(MB)を増やすことができるだけです。貨幣供給とは、市中銀行が人々(企業等)に貸し付ける通貨(日銀券または預金通貨)のことであり、これは人々からの貨幣需要があってはじめて生じます。日銀や銀行が強制して人々にお金を貸すことができるわけではありません。いわんや(フリードマンが言ったように)ヘリコプターでまき散らすわけではありません。要するに貨幣供給が増えるとは銀行に対する借金が増えるということです。

 次に3)ですが、どうしてインフレーションが景気をよくすると言えるのでしょうか?逆なら話は分かります。つまり、景気がよくなって、企業が生産が間に合わないほど有効需要が増え、モノ不足(供給不足)になれば、ひょっとすると企業は販売価格を上げるかもしれません。少なくとも価格を上げやすくなるでしょう。
 それに1970年代を経験した人ならよく覚えているでしょうが、石油ショックのときには、すさまじいインフレーションが生じましたが、同時に激しい景気後退が生じました。当時スタグフレーションという言葉がつくられ、これはインフレと停滞(または景気後退)が同時に発生することを意味しました。この同時発生の理由はよく分かっています。つまり、石油という輸入品(原料・燃料)の価格が上がり、生産費用の増加が諸物価を引き上げました。しかしそれと同時にその部分だけ(オイルマネーの流出分だけ)人々の可処分所得が少なくなり、つまり需要が減って景気後退が生じたのです。決してインフレは好景気の原因ではありません。

 もっとこのように言うと、安倍政権発足時には次のような反論がなされました。つまり、インフレーションが生じるという「期待」(経済学では単に予測のこと)が生まれると、人々は貨幣の購買力が減価する前にモノを購入しようとするため、需要が増えて景気がよくなる、という説明です。これは一理あるように見えます。しかし、この主張は次のことを決して明らかにしていません。
 つまり、人々は、政府と日銀が「異次元の金融緩和」をすると言った時、本当にインフレーションが生じるという期待を持ったといえるでしょうか? 決してそうではありません。当時、私は放送大学のある学習センターで社会人のためのクラスを持っていましたが、彼らの質問は「本当にインフレは起きるのでしょうか?」でした。もちろん、これこそ私が彼らに訊ねたかったことです。私の聞きたかったのは、「あなたたちは、インフレが実際に起きると期待(予測)していますか?」という質問であり、またそれに加えて「仮にインフレが生じると考えたとき、貨幣の減価を期待(予測)して、モノの購入量を増やすつもりですか?」という質問でした。そして、実際にそのように質問してみました。それに対してすべての人が困惑してしまい、「多分ほとんど(購入量を)変えることはない」というのがおおかたの答えでした。
 しかも、予期せぬ反応もありました。ある人(すでに退職して年金を受け取っている人)は、インフレを起こすということ自体に対して、「年金額が増えないのに、実質的な目減りではないか」とご立腹の様子です。
 また別の機会にですが、学生ではなく事務の女性から「インフレは本当に起こるのでしょうか?」という質問を受けました。学生以外の人からインフレ予想について聞かれたのが意外でしたが、よく話してみると、「住宅ローンを借りているけれども、(変動)金利が上がるのかどうか、もし上がるようであれば、繰り上げ返済したほうがよいか」という切実な問題を抱えていることが質問の動機でした。
 さて、ここからも推測されますが、私の主張は、次の通りです。①日銀が市中銀行にマネタリーベースの供給量を増やしても、それだけでは貨幣供給量が増えるとは断言できません。②ましてや、インフレが生じるという期待を持つこともできません。(ただし、外国為替相場の変動を通じた輸入物価の上昇は除きますが、この種のインフレは景気にとって有害です。)③いわんや、インフレ期待からモノの購入量=消費量を増やすなどとは、決して断言できません。仮に100歩譲って、そのような期待を持つ人が出てくるとしましょう。しかし、それはどれほどの割合でしょうか。また仮にかなりの割合の人がそのような期待を持ったとしても、彼らは消費を増やすと断言できるでしょうか? むしろ教室でも、インフレ期待が生じても、賃金所得や年金所得が増えないという期待(予測、つまりむしろ不安です)があった場合、人はもっと貯蓄を増やそうとして消費を削るかもしれないという反応もありました。このように、すべての人がインフレ期待を持ち、いっせいに消費を増やすなどということはできないと考えるのが妥当でしょう。
 これに対して、過去の歴史を見ると、インフレーションの時は景気がよかったではないか、という人がいるかもしれません。
 しかし、これも常に当てはまるわけではありません。例えば1923年のドイツです。凄まじいハイパーインフレーションと不況が同時に生じました。また1992年以降のロシアでもハイ・インフレーションと大不況(というより破局)が同時に進行しました。
 もっとも私も概して言うと、インフレ時の好景気という関連・相関をまったく無視するつもりはありません。ただし、そのような相関が成立するとしても、因果関係はまったく逆の場合がほとんどです。つまり、景気がよいときにインフレーションが生じていたという相関があることは事実ですが、その場合も、むしろ好景気が原因で、インフレーションは結果だと理解するべきかもしれません。ただ、それも厳格な法則というわけではありません。
 そもそも何故インフレーションが生じるのでしょうか? あえて一般化すると、インフレは所得分配をめぐる紛争から生じる、とまとめることができるように思います。これはケインズと彼以降の経済学者の結論でもあります。
 現オックスフォード大学の先生の例を借りて、説明します。
 いま簡単のために工業部門と農業部門の2部門から成る経済を考えます。工業部門は労働生産性が毎年かなりのペースで成長する分野であり、逆に農業部門は労働生産性の成長率の低い分野です。(これは勤勉・怠惰とは関係ありません。)さて両者の生産性が毎年2%ずつ開いてゆくとしましょう。この場合、出発点で生産性が同じだとしても、33年ほどで生産性の格差は2倍になります。この時、ceteris paribus(その他の条件が一定であれば)、所得差も出発点の2倍になります。67年では4倍、100年では8倍です。
 このような時、もし農業部門が不要であれば、従事する人がいなくなり、農業は消滅するでしょう。しかし、実際には農業は人々の食料、工業の原材料を供給する重要な分野であり、なくすことはできません。そこで、実際には価格調整が生じました。つまり、工業製品に対する農産物の相対価格が引き上げられ、農業部門に従事する人々の所得があまりに低下しないことになったわけです。
 私は今農業の例をあげましたが、他の分野、特にサービス業でも同じです。
 このことはまた、工業の発展した先進国では、農産物やサービスの料金が高い理由を説明します。例えばエジプトのタクシー料金は、ヨーロッパや米国、日本のタクシー料金に比べてはるかに高い水準にありますが、この差はエジプトのタクシー運転手の労働生産性が低いことに由来するものではありません。生産性はほとんど同じです。料金の差はただただ工業の発展程度によるものです。また工業発展と並行して生じたインフレーションの結果でもあります。
 所得分配をめぐる紛争は、賃金と利潤との関係についても言えますが、事情が複雑になりますので、ここでは省略します。

 さて、実際のインフレーションは、このように部門間や賃金・利潤間の複雑な関係と結びついており、したがって諸商品間の相対価格、実質賃金率/労働生産性の関係などの変化を伴っています。ところが、リフレ論が依拠している貨幣数量説は、それらをまったく説明することができません。それは一律に物価水準が貨幣量に比例するというだけであり、まともな経済学から見ると明らかに欠陥理論です。

 さて、元のテーマに戻ります。近年の日本では、インフレが生じ難く、逆にデフレが生じやすい環境(制度、政策など)が成立していたことを思い出さなければなりません。一言で言えば、それは賃金抑制です。それは、とりわけ1997年以降の景気後退に対処して、日本企業が賃金を圧縮し販売価格を引き下げるという戦略によって景気後退を乗り切ろうと考えたことに由来しています。
 2000年に日銀が実施した日本企業の価格設定行動に関する調査も、そのことを明らかにしています(このことは以前のブログにも書きました)。
 さらに、これに加えて、藻谷氏(『デフレの正体』、『金融緩和の罠』)が述べているように、1997年以降、生産年齢人口が減少し、有効需要全体が縮小してきました。これはケインズやハロッドが指摘したことと関係しており(ジョン・ケインズ「人口減少の若干の経済的帰結」1937年、他)、経済のありかたに大きな影響をもたらします。

 要約すると、黒田日銀総裁は、現代の経済におけるドンキホーテであり、幻の敵と闘っているというしか言いようがありません。

日銀とGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の株式購入

 近年の株価上昇が「官製相場」、つまり日銀とGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)による株式購入によるものであることは、様々なところで指摘されています。
 今日は、日銀とGPIFの統計にもとづいて、両者の株式購入(日銀ETFとGPIFの株式運用)の拡大の様子を示しておきたいと思います。
 日銀の株式購入(ETF)は次の通りです。2年半の間に3兆円ほど増加しています。


 出典)日銀の営業毎旬報告のデータより作成。

 一方、平成24年3月末から今年6月末までの2年とちょっとの間に13兆円ほどの公的年金基金が株式の購入にあてられており、年金基金の総額に対する株式運用の比率も12%弱から20%弱にまで8パーセント・ポイントほど増加しています。実に巨額の資金が投資信託を通じて株式市場に流れたわけです。
 日銀ETFとGPIFの両者を合わせて株式市場に流れ込んだ巨額の資金が株価を押し上げないわけがありません。
 しかし、日銀とGPIFは、今後ともさらに株式市場に巨額の資金を流し込むつもりでしょうか? 言うまでもありませんが、日銀は、その性格上購入資金をいくらでも創り出すことができますが、ETFは本来の中央銀行が行うべき業務ではなく、いわば禁じ手です。一方、GPIFの資金には限りがあります。約130兆円の資金を日銀や市中銀行のように信用操作によって増やすことはできません。それが株式市場により多くの資金を流入させるには、他の方法で運用している資金を引き上げることが必要です。それがどこまで出来るのでしょうか?
 もし外国人投資家が日本の株式を購入すれば、株価は上昇しますが、そのためには彼らが日本の株価上昇の期待(expectation)を持つことが必要となります。しかし、彼らとて日銀やGPIFの動きをじっと監視しているでしょうから、しかも最近の株価上昇が「官製相場」であることを当然知っていますから、そのような期待を持つかどうかは不明です。

  いま日本の政府と黒田日銀は焦燥感を感じているでしょう。
 「異次元の金融緩和」によってマネタリーベースを増やしたが、市中銀行の企業に対する貸付は増えていない。実質賃金は消費増税以降ずっと低下している。確かに大企業はわずかに貨幣賃金を引き上げはしたが、その引き上げ率は物価上昇率より低い。それでも貨幣賃金が上がった大企業はまだよいほうかもしれない。彼らが喧伝した物価上昇は実現したが、それは金融緩和と並行して生じた(また財務省によるドル買いと並行して生じた)円安・ドル高、つまり輸入品の価格上昇によるものであり、それ自体としては(つまり、輸出の拡大効果を除くと)経済にむしろマイナスの影響を与える。(輸入インフレが経済にマイナスの影響を与えることは、1970年代の石油ショックの結果を見れば、よくわかります。)したがって、何としてでも株価だけは上げつづけて「アベノミックス」がうまく行っているという印象は維持したい。集団的自衛権の問題でも、まともな専門家はすべて違憲を表明しており、安倍政権に対する不信感が有権者の間に広まっており、明らかに「潮目」が変わってきた。
 ざっと、こんなところでしょうか。
 さて黒田さん、どうしますか?

  
出典)GPIFのサイト「業績報告書」のデータにもとづき筆者作成。

2015年6月20日土曜日

毎月勤労統計調査にみる賃金の低下

 厚生労働省の「毎月勤労統計調査」(2014年4月と2015年4月、確定値)から実質賃金の増減(従業員5人以上、前年同月比、増減、%)を示しておきます。
 政府・日銀の希望的観測を見事に裏切って、実質賃金は消費増税以降、ずっと低下して来ました。



 出典)厚生労働省、「毎月勤労統計調査」より作成。

 パソコンの動きがよくないので、今日はここまでにとどめておきます。


2015年6月19日金曜日

ユーロ圏における高失業を生み出したゼロ思考/単一思考 (1)

 EU総選挙で、特にユーロ圏の有権者がEUと通貨統合に拒否反応を示したことは、理由なくして生じたことではない。またルペンの率いるフランスの国民戦線(極右政党)などが票を伸ばしたことも偶然ではない(私自身は決して支持しているわけではない。念のため)。フランス社会党までが、これから説明する・国民大衆にとって好ましくない政策にのめり込んでしまったときに、それに反対する人々が取りうる選択肢は限られているからである。ちょうど1932年のドイツの総選挙で(失業政策を放棄した昼ファーディング率いる)SPDに多くの労働者が幻滅したようにである。

 ヨーロッパでは、ユーロという単一通貨を創出することは、バンコールという世界貨幣を創出するという戦後通貨体制に関するケインズ案の精神にそうものだと主張する人々がいある。しかし、それはまったく誤りである。

 そもそもケインズ案は、各国政府が「完全雇用」をめざして、それぞれの国内で完全雇用の達成に必要な有効需要を創出することをめざすために考え出されたものであり、したがって次のことを求めていた。
 1)新重商主義の放棄
 自国内の不況・高失業を輸出(外需)の拡大によって解決しようとする政策、つまり「近隣窮乏化政策」または新重商主義をやめること。
 2)国際収支の均衡の達成
 そのために、特定の国が貿易収支の黒字をターゲットにしたり、その対極に赤字国を生み出すことを許さない。
 3)バンコールと準固定相場制、国際清算同盟、黒字国のペナルティー
 そのためにバンコールという世界貨幣を創出する。しかし、これは(ユーロと異なり)国際的決済のための通貨であり、各国は自国通貨とバンコールを適正な平価でリンクさせる。国際的な清算を行う機関として清算同盟を設置する。また国際収支の不均衡が生じた場合、赤字国は最終的に通貨の切り下げを行うことが期待されるが(つまり準固定相場制)、黒字国もペナルティを課せられる。すなわち、黒字国は、黒字額の相当額を途上国の開発援助に向けなければならない。また国内需要を拡大するための方策(貨幣賃金率の引き上げなど)を実施する義務を負う、などである。

 残念ながら、ユーロの導入のためにEU諸国が採用した方策は、ほとんどすべて(!)、こうした精神に反している。
 1)ドイツによる新重商主義的政策志向
 もちろん、すべての国が新重商主義政策を取りえたわけではないが、これについては、後に説明する。
 2)ユーロという為替調整不能な単一通貨の創出
 ケインズのバンコールと異なり、ユーロは為替調整を不可能とした。しかも、ヨーロッパにはドイツのようなインフレ率の低い中心国もあれば、ギリシャやスペイン、ポルトガルのようなインフレ率の高い周辺国もあるという状態の中においてである。
 3)完全雇用政策の放棄、むしろ失業を創出する政策
 しかも、ケインズ案の精神にあった「完全雇用」は完全に放棄されてしまった。多くの国(特に中心国)は為替相場を固定化するために、緊縮的な財政政策と非常に引締的な金融政策を強要された。言うまでもなく、1993年に批准された「マーストリヒト条約」とその後に批准された「安定成長協定」(SGP)によってである。
 さらに注意しなければならないのは、このような経済政策の中で賃金が強く抑制されたことである。
 ユーロ圏の人々がそれでもそれに耐えたのは、エルドラド(黄金郷)が約束されていたからに他ならない。それはエマニュエル・トッド氏が言うように「ゼロ思考」または「単一思考」としかいえない代物である。しかも、この約束は果たされなかった。また今後も果たされるようには思われない。何故だろうか?
 さらに詳しく見ていこう。

失業の諸見解

 そもそも失業とは何であり、何故生じるのか?
 最も抽象的なレベルでは、一方に労働供給(働きたいと思う人、L)があり、他方に労働需要(企業が雇いたいと思う人の数、N)があり、両者の差 (U =LーN)が失業者である。
 現在では、普通、15歳〜64歳の人が生産年齢人口が考えられているが、もちろん、この人口すべてが労働供給ではない。その中には、就学者、専業主婦、働きたくても働けない病人・ケガ人・障碍者がいる。また現在の統計では、会社を解雇されたのち、就職活動をあきらめた人(discouraged people)も労働供給から除かれている。これらの人々の数は、長期的には、歴史的要因によって大きく変化するが、ラフに言うと、短期的には一定と考えることができる。これが実質賃金率によって大きく変化することがないことは、以前のページで説明してある。
 一方、労働需要は、企業が生産のために雇いたいと考える労働力(人数)であり、これは最も簡単なモデルでは、生産量に比例し、労働生産性に反比例する。つまり、
   N=Y/ρ   雇用量=生産量÷労働生産性
 そこで、簡単のために、労働供給を一定とすると、雇用量が増えれば失業者が減り、雇用量が減れば失業者が増えることは言うまでもない。 

 これらを前提とした上で、雇用と失業を変化させる要因を考えることとするが、現在の経済学では、次の4つの見解があるといえよう。

1)構造的失業論(技術=労働生産性論者)
 この見解では、失業、特に景気循環を通して長期にわたって持続する失業は、構造的失業と呼ばれ、その理由は技術発展、すなわち労働生産性の上昇に求められる。
 この見解は、近年の高失業、失業率の上昇を技術革新、特に近年のITC技術の発展に求めようとする。上の式から見ても、正しいと思えるかもしれない。
 しかし、例えば1980年代前半の急速な失業率の高騰や、その後、1990年代に生じた再度の高失業率を、それぞれの時期に生じた労働生産性の旧上昇に求めることには無理がある。これらの時期は労働生産性の上昇率が相対的に低かった時期であり、むしろ生産性の上昇率が高かったのは1960年代であったが、言うまでもなく、この時期は「資本主義の黄金時代」であり、完全雇用の時代であった。
 もう一言付け加えておこう。もし高い技術進歩が高失業の原因ならば、そろそろこの辺で人々の一人一人の労働時間を減らすという方策、ワークシェアリグを実施したらどうか、というのが私の提案である。
 ところが、このように言うと、必ずとってよいほど、それでは一人一人の賃金所得が減少してしまうではないかという反論がやってくる。でも、そのように言うということは、やはり(少なくとも)失業者の部分については所得=有効需要が不足しているということを意味していることになる。つまり、これは以下の(4)の正しさを示すことになるわけである。

2)マネタリズム
 現在の欧米日の保守政権に影響力を及ぼして来たのは、マネタリズムの思想であり、この見解では、それぞれの国・地域の労働市場の構造(柔軟性や硬直性、労働組合の労働条件に関する交渉力など)によって「自然失業率」なるものが存在すると説く。そして、政府は、どんなに政策的に努力しても、この「自然」失業率よりも低い失業率を実現することができない、と主張する。あるいは、仮に政府が一時的に失業率を「自然」失業率以下に引き下げることができたとしても、政府の財政支出はインフレーションをもたらすだけでなく、結局のところ、再び失業率を「自然」失業率(以上)に戻す、と主張する。
 この教説は、さらに進んで、NAIRU(「失業率を加速しない失業率」の意味)という議論にまで行き着いた。つまり、何らかの政策によって失業率を「自然」失業率より低くしてしまうとインフレーションを起こすだけでなく、加速してしまい収束不能にするので、一定率以上の失業率を維持するべき、というものである。いやはや、凄まじい「理論」が出てきたものである。しかも、驚いてはいけない。これを主張しているのは、OECDに加盟している多くの国の政府であり(!)、また「新しいケインズ派』と呼ばれている人々なのである。ケインズが聞いたら、「私はケインズ派ではない」というだろう。
 一体、どこからこのような「理論」が生まれるのだろうか?
 この理論が次に述べる(3)新古典派の議論の系論の一つであることは、以下の説明から簡単に理解できるだろう。ここでは、何故、政府の活動が失業率を引き下げることができないという結論がどのように導かれたのかを説明し、それが奇妙な議論であることを示すにとどめておこう。
 結局、本質的には、マネタリストの議論は、クラウド・アウト(crowding-out)の主張につきる。すなわち、政府の支出(財と金融の2側面から考えられる)は、民間企業の活動を閉め出してしまう(crowd out)、というものである。例えば、今政府が何かの目的のために(例えばオリンピックでも社会福祉でもよい)のために借金をして10億円を支出すると、それは民間部門の経済活動をちょうど10億円分縮小するとされる。つまり差し引きゼロであり、効果はない、ということになる。
 しかし、何かおかしいと思わないだろうか? もし私(民間人)が借金して10億円を(オリンピックのためでも、福祉の目的のためでもよい)支出すると想定しよう。この場合には、マネタリストは、クラウド・アウトが生じるとはいわない。何故だろうか? 私が政府ではなく、民間人だからである。しかし、市場では、政府の支出したカネと民間人の支出したカネを区別するのだろうか? 
 たしかに、すべての資源(モノ、労働力)がフルに利用されているケースであれば、追加の支出(有効需要)は、市場を圧迫してクラウド・アウトが生じるかもしれない。しかし、今問題としているのは、それとまったく異なり、失業(不完全就業)が生じている時・地域である。(念のため、私はいわゆる波及効果のことは論じていないので注意。)
 マネタリストの議論でさらに奇妙な点は、「自然」失業率やNAIRUの数値がきわめて短い間に著しく変化する点である。そもそも定義上、労働市場の特徴は短期的には変化するはずもないので、自然失業率もNAIRUもほとんど変化しないはずである。もちろん、定義上、長期的には(政府の雇用柔軟化政策によって)労働市場の構造が変化すれば、それらの自然失業率やNAIRUも変化するであろう。しかも、近年の保守政権の下での雇用柔軟化政策によって低下傾向を示すはずである。
 ところがである。アメリカの統計でも、ヨーロッパの統計でも、OECDの統計でも、NAIRUが示されている限り、それらはめまぐるしく(つまり景気変動に応じて)変化している。いうまでもなく、こうした事実は、マネタリズムが破綻していることを如実に示すものである。

3)新古典派の高賃金が高失業の原因という議論
 この議論はケインズ等によって批判済みであり、理論的にも実証的にも成立しないことは、私の以前のブログで書いた通りであり、ここでは省略する。

4)有効需要の不足
 かくして失業を説明する有効な議論は、(1)か、さもなくば(4)有効需要の不足に由来する生産量が不足しているという理論となる。繰り返すが、(1)が成立するのは、もうこれ以上にモノ(財とサービス)の産出が不要とされる場合である。さもなければ、(4)が成立する。
 実際、これによってヨーロッパ、特にユーロ地域の高失業が説明されることを示しておこう。(続く)

何故EU圏、特にユーロ地域は失業率が高いのか?

 1990年代〜21世紀初頭にかけて経済学者に問いかけられた大きな問題があります。それは近年の諸地域、例えばヨーロッパ諸国(EU地域)、とりわけユーロ圏の失業率が高いのは何故かというものです。しばしば、これに関係して米国の失業率が相対的に低い理由は何かという問題も問いかけられていました。実際には、ヨーロッパにも失業率の低い地域があり、また米国でも常に失業率が低かったわけではありません。しかし、<ヨーロッパの高失業vs米国の低失業>という、いわば定型化された質問がしばしば投げかけられていました。

 しかも、1994にOECDのEconomic Outlook に「職の研究」(Job Study)が掲載され、「統一理論」(Unified Theory)なるものが主張されるに至り、この問題は世界中の多くの経済学者の関心をひきました。
 この「職の研究」(統一理論)によれば、ヨーロッパ諸国の高失業は、①高賃金と②所得分配の平等のせいであり、さらに、それをもたらした③政府による労働保護政策や労働市場の硬直性のせいである、とされ、反対に米国の低失業は、雇用の柔軟化と規制撤廃、所得分配の不平等によるとされました。これを一般化すると、人々は高賃金と雇用のどちらも享受することはできず、どちらかを選ばなければならないことになります。

 ちょっと考えると、こうした説明がかなり疑わしいものであることがわかります。そもそもヨーロッパでも米国でも、失業率が上昇しはじめた時期に賃金抑制が進行してきました。統一理論によれば、賃金抑制が行われたのだから失業率は低下したはずです。しかし、そうはなっていません。あるいは失業率が上昇したのだから、実質賃金が上がったはずです。しかし、実際には、失業率が上昇したときに、貨幣賃金が抑制される傾向が強く、その結果、実質賃金も抑制されています。
 それにヨーロッパ諸国の諸地域を詳しく見てみると、失業率の高いのは低賃金の地域であり、失業率の低いのは高賃金の地域であるという強い相関があることが分かっています。
 以上の指摘だけでも、OECDの「職の研究」の説明が誤りであることがすぐに分かりますが、実は、当該論文自体が、<自分たちの見解は統計的に実証されているわけではない>と認めていました。実に奇妙な話です。

 しかし、この奇妙な説は、経済学の発展にとっては多少役にたったかもしれません。というのは、多くの経済学者が雇用の理論的・実証的研究を行い、OECDの「統一理論」なるものの誤りを明らかにしたからです。

 しかしながら、「職の研究」が高失業の原因を正しく説明していないことが明らかであっても、それだけでは不十分です。何故、ヨーロッパ諸国、特にユーロ地域は高失業になったのでしょうか? 近年の研究成果を踏まえて、もう少し詳しく検討しておきたいと思います。


金融化 金融の支配する経済

 英国のエリザベス女王が2008年11月5日、つまりあのリーマン・ショックが起きたあと、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスを訪問したとき、「そんなに大きな出来事なら、どうして誰も気づかなかったの?」と質問したというのは有名な話しです。

 それに対してどのような回答があったかは知りませんが、確かなことは女王の質問は精確ではなく、気づいている経済学者はかなり多くいたというのが事実です。
 もちろん、主流派の経済学者の多くは、そのような危機(金融崩壊)が生じないと思っていたのですから、質問が主流派に向けられたと考えれば、質問は成立します。

 さて、気づいていたのは、例えば英国では、Susan Strange 氏(『カジノ資本主義』の著者)をはじめとする非主流派(マルクス派、ポスト・ケインズ派)の決して少なくない経済学者、米国ではガルブレイスや、ハイマン・ミンスキーの伝統を受け継いで「金融脆弱性」を研究していたLevy Economics Institute of Bard Collegeのスタッフ諸氏、クルーグマン等でしょうか。

 金融がきわめて脆弱な(不安定な)領域であることは、かなり早い時期からよく知られていました。金融が脆弱な(不安定な)理由は、それ自体に内在しています。
 一つは、銀行が無から貨幣(お金)を創り出すことができるという特性に由来しています。
 お金とは何かというのは、古くからの哲学的な難問でしたが、ここでは簡単に、さしあたり①交換手段・支払手段、②度量単位、③富の蓄蔵手段としての3機能を備えているものを貨幣(お金)と考えておきます。
 このように定義された貨幣は、現在では、①正貨(金貨など)、②中央銀行券(現金、紙幣)、③預金通貨の3種類しかありません(少額のコイン=補助貨幣を除きます)。しかも、このうち①正貨は、1930年代にほぼ消滅しました。

 さて、よく銀行は人々から受け入れた預金を人々に貸し付けると理解されていますが、これは誤りです。銀行が一方で預金を集め、他方で貸し付けていることは事実ですが、預金を貸し付けているわけではありません。
 銀行は、人々の預金口座に貸付額を記帳することによって貸し付けることが可能です。1億円なら1億円と記帳するだけです(現在ではパソコン端末で処理するのみ)。また貸付を受けた人は、その預金を利用して支払を行うことができます。難しい話しではありません。多くの人々は、給与の受け取りを預金通貨を使って行っており、電気料やガス代を口座振替で行っています。
 それでは、銀行は何故預金を集めるのでしょうか? 一つの最も大きな理由は、現金準備に備えるためです。預金者は、その預金が自分の預金によるものであれ、貸付によるものであれ、現金(銀行券)を引き出すことができます。銀行はその準備をしておかなければなりません。銀行は、理論上、準備さえしておくことができれば、不良債権がどんなにたまっても(節度を失って)営業を続けることができます。
 もちろん、それでは困るので、現実には様々な規制(BIS規制など)がしかれます。
 ともあれ、銀行は規制の範囲内で貸付という形で巨額の貨幣を創出することができます。
 つぎに取り上げなければならないのは、貨幣需要です。銀行は、貨幣を供給するわけですが、貨幣に対する需要があってはじめて供給することができます。したがって銀行も、いわんや中央銀行も「外生的に」(ある目的から裁量的に)貨幣供給を行うことはできません。貨幣は「内生的」であり、経済の内部から生じる貨幣需要に応じて生まれます。
 それでは、その貨幣需要とは何でしょうか?
 第一に、そもそも貨幣がなければ、市場取引は不可能ですから、現代の経済社会では、本源的な貨幣需要があると考えなければなりません。モノを買う時、労働者を雇うとき、貸借のとき、などのための需要です。
 第二に、設備投資のための需要です。現在の経済では、企業は内部資金(減価償却費、内部留保)、株式の新規発行の他に、銀行からの借入によって投資資金を調達することが行われています。意外と知られていないかもしれませんが、特に大企業では、このうち内部資金が設備投資資金のほとんどを占めています。
 第三に、貨幣に対する投機需要です。土地や株式、その他の有価証券などを購入するための貨幣需要が投機需要です。最近では、金融機関が「投機」という言葉を避けるために投資という言葉がよく使われますが、新規発行株式を購入する場合ならともかく、インカムゲイン(配当)やキャピタルゲイン(資産の売買差益)を得るために金融資産を購入するのを「投資」と呼ぶべきではありません。

 ここで第二の投資需要と、第三の投機需要を比較考量してみます。
 投資需要を決定するのは何かというと、これまでも説明してきたように、基本的には将来における有効需要の期待です。もし消費財であれ生産財であれ、売上げが伸びると期待されれば、企業は生産能力を拡大するために設備投資を実施します。
 ここで注意点を一つ。それは1920年代〜1930年代のオックスフォード調査以来知られているように、銀行借入額が金利の変化に対して敏感ではないことです。その理由はいくつかありますが、一つは上記の事情(投資資金のほとんどが内部資金から)によると考えられます。また景気循環の中で、景気後退期に金利を下げても借入が増えず、逆に好況時は金利が上がっても借入が増えるということもあるでしょう。これは低金利(高金利)が借入額を増やす(減らす)という傾向を帳消しにします。
 次に投機需要ですが、こちらは金利に敏感に反応します。しかも、普通の財やサービスと異なって、金融資産の価格は需要供給関係の変動に応じて著しく変化するという傾向を特徴としています。
 最近の株価の上昇を見てもそうですが、政府が年金基金を株式市場に投入するや、株価が急激に上昇したことがその一例です。さらに、資産市場では期待がもっと資産価格の変動性を激しいものにします。われわれの例を続けると、日本政府・日銀の金融政策を見た外国人「投資家」が株価の上昇を期待すると、彼らは日本株を購入し、それがさらに株価を押し上げるといったことが生じます。
 ここに金融脆弱性の原因の一端があります。つまり、資産市場では「バンドワゴン効果」や「自己実現的期待」といったことが成立しやすく、多くの人々が株価が上昇すると期待すると、資産購入の動きが拡大され、資産価格を押し上げます。すると、それは巨額のキャピタル・ゲインをもたらし、資産インフレーションのスパイラルを生むことになります。
 さらにこれに金利の作用が加わります。もし資産インフレーションが進行しだすと、それはキャピタル・ゲインを含めた期待利子率を引き上げるでしょう。例えば10億円で購入した株式が一年で20%上がると期待されるならば、期待利子率は20%+配当率になります。このとき、銀行の貸し出し金利が低いならば、銀行ローンを用いない手はないでしょう。
 ここで、21世紀初頭のECB(欧州中央銀行)の金融政策を確認しておきます。19世紀末以来、ECBは、(財とサービスの)物価だけを判断基準として金利を決定してきました。その判断基準は、物価上昇率を2%以下に抑えるが、できるだけ2%に近い値に誘導するというものです。ずいぶん乱暴な話しです。各国の失業率が高かろうが低かろうが、とにかく物価だけで金利を決めるというのですから。
 さて、21世紀初頭の米国ITバブルの崩壊による金融危機の影響はヨーロッパにまで及び、ECBは物価上昇率が基準値以下になったのを見て、金利を引き下げました。それに対して実体経済が反応したでしょうか? そうではありません。反応したのは、資産市場です。住宅価格が上昇し、住宅市場にマネーを供給する分野が拡大し、株式市場が拡大し、負債の拡大によって消費ブームが実現しました。

 私はちょっと先走りすぎたかもしれません。というのは、もちろん、ヨーロッパやアメリカの金融危機は単に中央銀行の低金利政策によってもたらされたものではないからです。それを説明するには、別の側面に触れる必要があります。しかし、ここで強調したいのは、金融が資産市場に大量のマネーを供給するとき、それがバブル=資産インフレーションを引き起こし、ついでそれがピーク(ミンスキー・モメント)に達した時に、金融崩壊が生じる、という事実です。
 バブルが崩壊したのち、資産デフレーションが生じ、キャピタル・ロスが生まれ、資産を売り逃げしようとする流れの中で資産デフレのスパイラルが生じることは、日本人も身をもって知ったことです。もちろん、その中で銀行が巨額の不良債権を抱えるにいたることは言うまでもありません。
 
 さて、それでは、戦後、1970年代まで比較的なりをひそめていた金融危機が1980年代から再頻発するようになったのは何故でしょうか? 
 答えはある意味では簡単です。一つは、戦後、金融脆弱性が発現しないように様々な規制がなされていたのに対して、1970年代以降、特に1980年代から20世紀末にかけて規制が撤廃されたことであり、もう一つは、金融化が進展し、金融の支配する経済(finance-led economy)が成立したことです。
 それを説明するには、米国では1980年代のレーガン時代にまで、ヨーロッパでも1980年代のサッチャー時代にまで、そしてEU (EC) とユーロ圏の成立史にまでさかのぼる必要があります。EUとユーロは決してヨーロッパの人々にエルドラド(黄金郷)をもたらしたわけではないことを知らなければなりません。

何故TPPに反対するべきか? 賃金主導型の成長のために

 ほとんどの経済が「賃金主導型」(wage-led type)となっていることは、今日、少なくとも専門家の間では、よく知られています。が、一般的には知られていないかもしれません。
 賃金主導型というのは、労働生産性の上昇に応じて賃金率を引き上げる方が経済発展にとって有利だという意味です。それはまた、労働生産性の上昇があっても賃金を抑制すると、経済的な沈滞や高失業を招くということを意味しています。
 このような意見は、いまや国民の「常識」ともなってしまった見解(思想、教義、信条)に反するかもしれません。というのは、高賃金(高負担)が企業の流出を招き、雇用と職の喪失を招いているという言説が流布されてきているからです。

 しかし、それは誤りです。ちょっと検討してみましょう。
 第一に、理論的に。賃金率の抑制(引き下げ)は、ただちに雇用の拡大を伴わない限り(そして実際には伴わない)、社会全体の賃金所得を抑制(縮小)します。それはもちろん、賃金からの消費支出を抑制(縮小)します。もっとも、利潤が拡大すれば、それを補うことができるではないかという反論があるかもしれません。しかし、利潤からの消費支出はかなり限られています(消費性向が低い、と言います)。これに対して貯蓄が増え、そのため投資も増えるという再反論があるかもしれません。しかし、これも成立しません。というのは、投資は消費需要が拡大しているときに、企業が招来も消費が拡大すると期待して、生産能力を拡大するために行うものです。また、消費が停滞しているときに投資を行うと過剰投資・過剰生産・固定の拡大を招き、企業業績が悪化する危険性が大きくなります。

 第二に、しかも、これは私の単なる想像ではありません。1990年代末から日本経済が経験してきた事柄そのものに他なりません。貨幣賃金の抑制、史上最大の企業利潤の実現、しかし消費の低迷、投資の低迷と技術の低迷、企業(ただし巨大企業のみ)の巨額の内部留保、しかし国内投資の低迷と海外への流出(高賃金ではなく、投資機会の不足による!)、等々。
 それに、もし高賃金が企業の流出の理由であり、高負担国には資本が流入しないという法則があるならば、例えばドイツに米国企業が進出することはないはず。しかし、ドイツは世界最大の直接投資受け入れ国です。
 何故でしょうか? それはドイツが高賃金・高負担・高率課税でも、企業が利潤をあげることができてきたからです。もちろん、企業は利潤から租税を支払うのを嫌うでしょう。もし仮に私が経営者でも、ある時はグローバル競争のため苦しいと泣き、ある時は高負担だと逃げますよと脅すでしょう。泣きと脅しを同時に行えばばれますが、別々に行うと受け入れてくれます。(ちょっと言葉は悪いのですが、養老氏の「馬鹿の壁」というものでしょうか。人は壁をつくってしまい、人の意見を聞かなくなってしまうことがあります。それをケインズは「思想」(idea)という言葉で説明しました。)

 このように、多くの賃金主導型ですが、もしかすると米国だけは、利潤主導型になっている可能性があります。その理由は、米国があまりに自由化・規制撤廃を実現しすぎて、利潤の変化に敏感になっているからだという可能性があります。
 もしそうだとすると、それは米国の99%にとっては不幸なことです。
 また他の国にとっては、それは米国のようになってはいけない(少なくとも99%にとっては)という教訓ともなります。

 TPPが人々の富と所得を増やすという言説にまどわされてはなりません。
 人々と言っても、せいぜい1%、または0.1%の人々にすぎないのですから。もしあなたが確実に 0.1%の上位所得者・資産家なら話しはまったく別ですが・・・。

賃金主導型の成長を擁護する

 マルク・ラヴォア(Marc Lavoie1)の編著になる『賃金主導の成長』(2013年)が ILO (国際労働機構)の支援を得て、出版されています。また今年、トニー・サールウォール(A, Thirlwall)の『ケインズ派とカルドア派の経済学』、パルグレイブ社から出版されています。

 マルク・ラヴォアは、カナダの経済学者で、著名なポスト・ケインズ派の理論家。サールウォールもイギリス生まれの著名なポスト・ケインズ派の経済学者です。ここにポスト・ケインズ派というのは、ケインズの研究・問題提起を真面目に受け止め、それをさらに発展させた経済学を志向する人々の総称であり、出発点は、1930年代のイギリス、ケインズを中心に経済学研究をすすめてていた一群の人々(ケインズ・サーカス)にあるといっても間違いではないでしょう。具体的には、ハロッド、ジョウン・ロビンソン、カルドア、カレツキなどのそうそうたる経済学者ですが、その後、イギリスだけでなく、他のヨーロッパ諸国や、大西洋を渡って米国やカナダ、中南米にも、また日本にもその共鳴者が現れます。米国では、制度派・オーストリアン派の影響を受けていたジョン・ガルブレイスもケインズの強い影響を受けるようになりました。さらにフランスのレギュラシオン学派も、ケインズ派、ポスト・ケインズ派から多くの要素を取り入れています。
 これらの人々に共通しているビジョンは、資本主義経済(企業者経済、貨幣的生産経済)では、完全雇用が必ず実現されるという保証はなく、むしろ逆であるというものです。したがって、非自発的失業をなくし、完全雇用を実現するためには、政策的努力(つまり資本主義の修正)が必要となるという結論が導かれます。
 ちなみに、米国を中心にしげ「ニュー・ケインジアン」なる学派があり、一見すると、ケインズの思想を受け継いでいるかのように思われるかもしれませんが、それは誤りです。彼らはケインズ派どころか、ケインズの基本的な主張に反したことを主張している「反ケインズ派」ですが、これについては後に触れます。

 さて、賃金主導とは何でしょうか?
 このことを知るには、経済学の歴史を少しさかのぼる必要があります。
 実はケインズが『一般理論』(1936年)で展開した理論は、それまでの(新)古典派といわれる人たちの雇用理論(労働市場論)を根本的に批判し、新しい理論を準備するためのものでした。
 ケインズが直接批判の対象としたのは、ピグー(Pigou)という人のあらわした『雇用の理論』(1930年)ですが、このピグーの本は、簡単に要約すると、高い実質賃金(または実質賃金の上昇)が失業を拡大する、と主張するものでした。ケインズは、このピグーの結論を支える2つの公準があると指摘していました。
 2つの公準のうち一つは、実質賃金が高いほど労働供給(労働者が働きたいと考える時間)が多く、実質賃金が低いほど労働供給が少ないという傾向があるというものですが、これが成立しないことは、ちょっと考えれば誰でもわかります。もし賃金率が低いのに、わずかな時間しか働かなければ、所得はものすごく少なくなるでしょう。普通は逆です。一定の所得を得るためには、より長い時間は働く必要があります。また賃金率が上がれば、人はより短い労働時間で以前と同じ所得を実現することができます。(これは、アメリカのダグラス大佐『賃金の理論』(1936年)で実証されています。)
 それによく考えると、労働供給は、ほとんど長期の歴史的・社会的・文化的条件によって決まっています。例えば今年22歳になって働き始める人は、22年前に生まれているのです。現在の賃金率が高いから22年前にさかのぼって生まれたわけではありません。ま昔はた多くの人が15歳には働いていましたが、現在の日本では20歳で働いている人の方がはるかに少ないことは誰でも知っています。
 そこで、ラフに言うと、短期には労働供給は一定と考えてもよいでしょう。いずれにせよ、ピグーの公準の一つは崩れました。

 もう一つの公準はどうでしょうか? これは労働需要(企業による雇用量=時間)実質賃金率の増加関数だというものです。つまり、企業は、賃金率が低ければ多く雇い、賃金率が上がれば雇用量を減らすという関係です。
 これは何だか正しそうな気がするかもしれません。実際、個々の企業にとっては、低賃金は費用を抑えることを可能とするわけですから、その点に関する限り魅力的で、実行してみたいという思いに駆られるかもしれません。しかし、それは企業家の願望であって、本当にそうかは、じっくり検討する必要があります。

 実は、ケインズは不覚にもこの公準を認めてしまいました。しかし、それでもケインズは、この公準が短期の公準(つまり時間のない静態的世界で当てはまる公準)にすぎず、現実の動態的な世界には当てはまらないと考えていました。
 簡単に言えば、現実の経済(貨幣的生産経済)では、人々が意識しているのは実質額ではなく、貨幣額(賃金の場合には貨幣賃金率)です。もしピグーの言うように、失業率を下げるためにと称して、社会全体・企業全体(個別企業を問題としているのではなく、社会全体を問題としていることに注意!)が貨幣賃金を下げた場合、実質賃金は低下するでしょうか? もちろん、頭の中の思考実験で<もし物価水準が同じならば>という仮定をおけば、そうなりますが、これはトートロジーであり、現実とは関係ありません。実際には、もし貨幣賃金の引き下げが、諸物価の低下をもたらすならば、実質賃金は、①変わらない、②下がる、③上がる、の3つの可能性があります。
 さて、19世紀から1930年代にかけて現実はどうだったでしょうか? が、これについては、いつか詳しく論じます。

 ケインズにとってもっと問題だったのは、現実の動態的な世界では、雇用量は直接に実質賃金率に関係しているのではなく、生産量に関係しているという事実です。簡単な例で説明しましょう。いま、ある会社がある期間に製品1000単位を生産しようとしています。また、その期間に一人あたりの生産能力(労働生産性)が100単位/人だとします。この場合、必要な労働力は10人(=1000単位÷100単位/人)となることは子供でも分かります。
 また生産量は、その生産物に対する有効需要(貨幣のうらづけのある需要)によって決まります。もちろん、企業は需要を予測して生産に踏み切るかもしれませんが、売れ行き不振で在庫が増えれば、生産を縮小します。つまり、最終的には、企業は有効需要に王位て生産することに疑いはありません。
 それでは、貨幣賃金率を引き下げた場合、この実質有効需要(生産量)は本当に増えるのでしょうか?
 これに対して「増加する」と答える人は、どのような根拠をもってそのように言えるのでしょうか? ケインズは、このように答える人に対してまず論理的な誤りを指摘します。
 もし貨幣賃金率が引き下げられたとき、ceteris paribus(その他の条件が等しいならば)、つまり社会全体の貨幣表示の総有効需要(金額)が不変という仮定を置くならば、確かに雇用は増えるかもしれません。それは貨幣賃金率の引き下げと雇用量の拡大が瞬時に行われることを意味しており、wN=w’N’ (N’>N、w’>w)となります。もちろん、その際、新しい雇用量に応じた生産量(実質有効需要)が即座に生まれるということも前提=仮定されていることになります。
 しかし、これは特定の仮定を置いたから成立するトードロジーに他なりません。あらかじめ結果が成り立つという仮定の上で結果を導いているだけですから、成り立つのは当たり前です。これを同義反復(tautology)と言い、ケインズは冷笑したわけです。
 リアルタイムの中で経済諸活動が営まれている現実の世界では、貨幣賃金率の引き下げが決して実質有効需要(生産量)を増やすことはない、むしろこれがケインズの推論であり、実証することに成功した事実でした。

 しかも、後日談ですが、ケインズが不覚にも認めた公準自体が誤りであることが、次々に明らかになりました。
 先ず1930年代以降に実施されたオックスフォード経済調査が「規模(労働)に関する収穫逓減」の法則を否定し、短期においても、実質賃金率が雇用量の減少関数だと主張する根拠が失われました。この事実は、その後米国で行われた調査(1950年代のアイトマンとガスリー、1990年代のアラン・ブラインダー他の調査)でも確認されています。
 さらにケインズの『一般理論』の刊行後、彼の教え子・弟子だったターシス、他、それにケインズとは独立に有効需要の原理にもとづく経済学を樹立していたカレツキなどが、貨幣賃金率と実質賃金率の関係について、『一般理論』の想定には反するけれども、むしろケインズの主張にとっては有利な(あるいはピグーの主張にとっては不利な)発見を行います。現在のポスト・ケインズ派は、こうした事実を前提としています、
 
 さて、長々とした説明になりましたが、結論を言うと、経済は貨幣賃金を引き上げた方が活性化するように出来ている(つまり賃金主導)というのが、経済社会の実相だということです。(もちろん、労働生産性の上昇率をはるかに超えるような極端な引き上げは別です。念のため。)
 しばしば世間では、失業(つまり雇用の不足)を労働者の高賃金のせいにし、賃金を抑制するために、雇用の柔軟化(最低賃金の引き下げや廃止、失業保険制度の廃止や縮小、労働組合の団体交渉権の縮小、解雇規制の撤廃など)を求める保守的な政治家で一杯ですが、そうした主張には根拠がなく、逆に悲惨な結果を招くだけで終わってしまう、というのが実相です。実際、近年、多くの国で賃金が抑制され、かつ高失業となっています。

 マルク・ラヴォアやサールウォールの著書もこうした見解を批判し、ケインズ以降の正しい経済学にもとづいて事態を説明し、適正な政策提言を行うために書かれています。同書は、雇用柔軟化の政策と賃金抑制が消費需要を抑制し、またそのため生産能力を拡大するための投資需要を抑制し、その結果、雇用の縮小と高失業、技術の停滞をもたらしていることを説得的に論じています。
 次にその内容をかいつまんで紹介することにします。