2019年4月9日火曜日

地方の疲弊 減税すれば企業はやって来るか?

 地方が疲弊している。
 それを実感するのは、例えば私の郷里(新潟県糸魚川市)の村里を訪ねるときである。
 私の生まれた大字(江戸時代の「村」)は、子供の時には90戸ほどの世帯を擁し、人口も400人以上はいただろう。自分の小中学の同級生も10人ほどいたように記憶している。
 ところが、現在、人の住む家は30数軒になり、その多くは高齢者の単身世帯と聞く。また同字内にある小学校に通う子供(1~6年生)は一人もいない。それでも、同字内に住む私の先輩は、他になり手がいないということで、PTAの会長をしているらしい。
  人口減少とともに農協の購買部も店を閉じ、ますます生活しづらくなっているようであろう。

 こうした理由の一つが人口統計学的なものであることは言うまでもない。
 少子化がそれであるが、誤って理解されているむきもあるので、少し正確に言う。
 郷里における合計特殊出生率(fertility)、つまり女性が生涯に平均して生む子供の数が 2 より低いのは間違いないが、決して全国平均を下回っているわけではない。むしろ東京や神奈川県、千葉県、埼玉県に比べればかなり高いほうである。東京や神奈川県の出生率の極端な低さは、この分野の専門家の間では常識である。
 問題は、むしろ生まれた子供の多くが地元で高い費用をかけて教育され、高校を卒業すると、都会(郷里の場合、関東が多い)に流出することにある。私もその一人であり、1969年に高校を卒業し、大学に入学するために関東に流出した。その後、大学院を修了後、福岡し、名古屋市、新潟市の大学で教鞭をとったが、働き居住するために郷里に戻ったことはない。
  ちなみに、現在、郷里ではそもそも若者の数が少ないのだから、関東に流出する若者の数もきわめて少なくなっている。
 とすると、東京や神奈川が近い将来どのような人口問題に直面するかも、はっきりしている。簡単に言えば、周辺からの若者の流入がなくなり、かつ内部での「人口の再生産」(何とも味気ない言葉だが、これが学術用語というものか)もままならない。

 さて、前置きが長くなった。
 身内のことで気が引けるが、義兄のことを書く。彼は郷里から流出せずに市役所に勤務し、退職してからは家庭菜園や養蜂に従事している。 なかなか愛郷心が強く、地方経済の活性化のことも考えているようである。ある時、自分の思いを文章にしたものを私宛で送ってきてくれた。
  その中に、企業を誘致するために、企業減税を行うべきという趣旨の一節が含まれていた。もちろん、税金を下げれば、企業が喜んで(かどうかはわからないが)、郷里に来てくれ、雇用が生まれ、次の世代が郷里にとどまることになるという論理であろう。
 ここに批判するべき点はないように思える。
 しかし、ここではあえてこの点を取りあげてみたいと思う。(ここでは義兄の愛郷心に疑義をはさむわけではない。念のため。)

 さて、企業は減税すれば、郷里に進出するだろうか? そして若者はその企業に就職し、人口減少に歯止めはかかるだろうか?

  残念ながらことはそれほど簡単ではない。
  まず考えなければならないのは、企業はある地域に進出するとき、何を求めて進出するかである。もちろん、利潤(儲け)が生じることを期待してである。その際、生じた利潤のうち税金としてとられる部分が少ないことを企業は望むであろう。もし私が企業者であっても、間違いなくそうである。
 しかし、最も本質的で根本的な問題はその前にある。そもそも利潤(儲け)が生じるかどうかである。そして利潤が生じるには、生産しようとする財やサービスが一定の価格で売れ(市場)、その売上げが原価を超えることが必要である。もし利潤が十分に生じるという期待があれば、企業は税金が減税されるか否かにかかわらず、進出するであろう。私が企業者なら間違いなく進出する。そして、その利潤から法人税がどれほど引かれる大きい関心事ではあるが、むしろ副次的な問題である。

  ここで私は何故義兄がまず減税のことを思いついたかということを問題としたい。
 かつてケインズも指摘したことだが、どんな既製の経済学の影響も受けていないと考えている人も何らかの「思想」(idea)にとらわれているのが常である。これがここでも当てはまるだろう。財界(経団連)や保守政権のたれ流す宣伝(ときには泣き事、ときには脅し)がいつの間にか影響を与えたとしか考えられない。
 この「宣伝」がいかに欺瞞に充ちていないが、強い影響を人々に与えているかは、いつか機会を見つけて論じることにするが、きちんとした経済学の訓練を受けていないひとには無批判にうけいれやすいものと見える。

 さて、若干横道にそれたが、郷里における経済的プレイヤーは企業だけではない。そこで将来働くことになる人々のことを考えなければならない。
 簡単に書こう。企業が十分な利潤をえるためには、費用、特に人件費(従業員に支払う賃金)の条件を考えなければならない。企業としては費用は小さいほうがよいであろう。しかし、より小さい費用はより低い賃金を意味する。そして、議論を簡単にするために労働条件を賃金に限定すると、より低い賃金は若い世代を地元に引きとどめて力を減じる。それが流出をとどめるためには、一定以上の水準を必要とするだろう。またより低い賃金は、地域社会全体でみると、より低い総所得、したがってより低い購買力、不十分な有効需要を結果するということも、ついでながらつけ加える必要がある。おそらく地域に進出することになる企業は生産する財やサービスを外部に販売することになるだろうという市場条件も考える必要があるだろう。

  以上を要するに、本当に考えなければならないのは、人々の生活、つまり郷里で働くことを決意させる働きがいであり、生活環境であり、市場条件であり、所得である。

  経済学、とりわけ財界や保守政権がよりどころとしている新古典派の市場優先主義経済学(数学を駆使する仮想空間の経済学)が人々の日々の生活のことを考える学問から遠ざかるようになってから久しい。しかし、いままさにこうした経済学は現実によってしっぺ返しを受けているのではないだろうか?