2017年6月30日金曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 4

 安倍氏の経済政策が広義の供給側の立場に立った新自由主義政策だということは、彼の「世界で一番企業が活躍しやすい国」という発言に端的に表されている。
 
 企業が活躍しやすいというのは、社会的負担が小さく、生産費が小さく、様々な規制から自由だという状態を意味するであろう。もっと具体的に言うと、これは、法人税率が低く、社会保障費負担率が小さく、人件費=賃金が抑制されており、また諸種の規制が撤廃されている状態を示す。
 実際、後で詳しく見るように、これらの諸策はことごとく実現されている。第一に、法人税が大幅に減税された。しかも、一方では、これは安倍政権による消費増税(5%→8%)による景気低迷から抜け出すための「景気刺激策」という宣伝つきで実施されている。他方では、これは輸入インフレによる物価上昇の中で、実質賃金が低下するという状況の中で、政府と企業者団体(経団連)が談合し、大企業が貨幣賃金率を引きあげる代わりに、政府からの見返りとして、実施されたものである。なお、もちろん輸入物価の上昇は、金融緩和による円安効果によるものであることは、否定しえない。
 ちなみに、この談合による貨幣賃金の引き上げは、NHKなど安倍政権の息のかかったメディア(NHKには安倍友の籾井が会長としていた)によって大々的に宣伝されるにいたったが、実際には、その貨幣賃金引上率も物価上昇率にはとどかず、したがって実質賃金は低下している。
 第二に、ここに見られるように、安倍政権でも、貨幣賃金、特に実質賃金の着実な上昇が生じたわけではない。ただ選挙目当てのジェスチャーが見られたにすぎない。
 第三に、規制撤廃である。もちろん、既存の規制の中には、場合によっては、現状に適合しなくなった古いものがあり、その場合には、変更が必要となるものもあるだろう。しかし、ほとんどの規制は、本来、何らかの理由で求められて成立したものである。その存在理由がなくなっていないものがほとんどである。
 それにもかかわらず、企業、特に大企業や金融業界がそれを求めるのは、権益・利権のためであることが多い。金融業界が金融規制の撤廃(金融自由化、ビッグバン)を求めたのは、それが彼らの純利得を獲得する領域を広げるからである。これについても、詳しくは後で説明しなければならないが、ここでは以上にとどめておこう。
 ここでは、規制撤廃が特定のグループの利権を理由としていることの好事例として、国家戦略特区、とりわけ森友学園問題、加計学園問題をあげておこう。
 これが現在一大問題となっているのは、それが安倍氏およびその側近の人々の利権と密接に結びついていることが明らかになってきたからである。安倍氏と籠池氏、安倍氏と加計学園の関係者に加えて、竹中平蔵氏というおなじみの名前が浮上している。
 2008年に出版された著書『プレデター国家』の中で、アメリカの著名な経済学者、ジェームス・ガルブレイス氏は、プレデター(predator、捕食者)が人々から大規模な金銭的捕食をしていることを明らかにしている。したがって、ガルブレイス氏は、すでに1980年代の「新自由主義」政策の理念はとうに死滅していて、現在は、保守派たちも国家に寄生しているという事実を明らかにしているわけであるが、ただしその際、現在の保守派は、決してお題目として新自由主義を放棄しているわけではないことも明らかにしている。
 要するに二枚舌である。現在の保守政府は、一方で新自由主義政策(というより、大企業の露骨な利権を擁護する政策)を標榜しつつ、他方ではそれらが「プレデター」として活動しやすくする方策を採用し、政治家自身(安倍氏、その周辺)も露骨に政治を私物化している。
 要するに、1980年代の相対的には理念的な「自由主義」政策の部分も合わせ持っていた新自由主義とはかなり異なり、現在の新自由主義は、市場原理主義の理念が失敗・死滅したのちの新自由主義であり、事実上、市場において巨大な力を持つ組織(金融業者、大企業、CEOなど)にとっての有利な政策を実現するための一連の方策に他ならない。
 現在の富と所得の格差は、こうした事態の結果であり、反映である。このことをよく理解できない人(経済学者)の中には、安倍氏の経済政策を「ケインズ政策」の一種として捉えようとする人も出てくる始末である。たしかに、安倍氏の「異次元の金融緩和」が金融緩和(→貨幣ストックの増加)を通じてインフレを惹起し、景気を刺激するという本末転倒(因果関係の逆転)を目的としたものではなく、国債に日銀購入による巨大財政赤字政策という「ケインズ政策」と結びつけようとする見方がないわけではない。しかし、これも詳しい検討は後に譲らざるをえないが、無際限・無限定の財政赤字、政府債務の増加は、本来ケインズ政策とは無縁である。ケインズの政策提言は財政政策と無関係ではないが、本来は国民経済全体、特に企業、金融および労働者家計の均衡のとれた発展のための提案である。

 さて、欧米(特に英仏米など)では、特に若者を中心にこのカラクリを理解する人々が増えてきている。これらの地域で、例えば暴動(英国)、ウォール街を占拠せよ運動(米国)、大統領候補者選挙における社会主義運動の支持(米国のバーニーサンダース旋風)、イギリス労働党(左派)の躍進(若者の支持)、フランスの大統領選挙(第一回)などは、それを端的に示している。

 さて、以上に述べたことは、事態全体を捉えるための概略図であり、詳細についてはさらに紹介しなければならない。


2017年6月24日土曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 3

 さて、新自由主義政策と安倍氏の経済政策との関係であるが、それらが同じであると断定できるかどうかは別として、両者がきわめて親和的な関係にあることは否定できないとういのが結論である。なぜか?

 ここでふたたび新自由主義」の発想(idea)に戻らなければならないが、それが市場原理主義とともに広義における「供給側の経済学」(サプライサイドの経済学)に立脚している点を指摘しなければならないだろう。
 そもそも新古典派の経済学自体が「供給側の経済学」としての性質を濃厚に帯びているのだが、この発想は、供給側、あるいは端的に言って企業側の置かれている環境・条件を改善すれば、経済は好調になり、高成長を実現できると教える。なぜ、そう言えるのか?
 かつてレーガン大統領は、次のように考え説明した。
 もし企業(および富裕者と付け加える)の置かれている環境を改善するならば、例えばその生産に要する費用、特に人件費=賃金を抑制したり、法人税・社会保障費負担などを軽減すれば、企業(および富裕者)の純所得が増え、貯蓄が増え、したがって(設備)投資が増える。この投資の拡大は企業(供給側)の生産能力の成長をもたらし、したがって経済のより高い成長率が実現されるであろう、と。
 この論理は一見すると非のうちようがないように見えるかも知れないが、しかし、その論理は、事実上、破綻している。なぜか?
 たしかに賃金抑制や企業・富裕者減税などは、供給者(企業所得やその企業所得からの分配を受ける利潤所得者=富裕者)の純所得は増加するであろう。
 しかし、この増えた所得が貯蓄され、最終的に(設備)投資に向けられると確実に言うことはできない。貯蓄(資金の供給量)が増えれば、(設備)投資(資金の需要量)が増えるというのは、まさに供給側の発想であるが、これはいわゆる「セー法則」を前提として初めて成立するロジックである。
 「セー法則」とは、19世紀のフランスの経済学者 Baptiste Say にちなんだ名称であるが、「法則」でも何でもなく、ただ「供給はそれ自らの需要を創り出す」という命題に与えられた名称にすぎない。
 もしこれが「実現された需要は、実現された供給に等しい」という真理(!)を意味する語句として用いられるだけならば、特に異論はない。しかし、この語句はしばしば「企業の生産能力は、それに対応する需要量(=購入量)を生み出す」という意味で用いられる。そして、この後者は明らかに誤りである。
 もし企業の生産能力が常にそれに等しい需要量を生み出すならば、1930年代の大不況も生じなかったであろう。そもそもどんな不況も(また失業も)生じないであろう。なぜならば、企業がその生産能力を高めれるに応じて、それに対する需要が生まれるからである。そこでは財やサービスの市場における実現の問題は(部分的、例外的な現象として以外には)生じない。
 
 上の論理のどこが間違っているのであろうか? それはすでにマルサス、マルクス、ヴェブレン、カレツキ、ケインズなどが明確に指摘した通りである。
 簡単に言えば、最も本来的には、(設備)投資需要は、財・サービスに対する需要量がその適正な生産能力に近づくにつれて、(限界に達する前に)企業者が設備投資によって供給能力を高めておかなければならないと判断することによって生まれる。逆に言うと、工場・プラント・機械設備等の設計者は、予測される需要量をあるマージンで超えるように設計することを、経営者から要請されている。
 このことは、本来的には、(設備)投資が財やサービスに対する需要によって決定されることを示している。たしかに、ケインズは、その他に企業者の持つ「アニマル・スピリット」の役割について言及している。不況感が漂っていても、また将来の需要に対する若干の不安・不確実性があろうと、企業者は設備投資を行うかもしれない。しかし、それも程度の問題である。企業者は、将来の需要拡大を期待して(予測して)投資を行うことはまったく現実的な事態である。
 
 以上のことから、次のことが導かれる。もし企業がもっぱら賃金圧縮を行い、また法人税や所得税の減税による純可処分所得の増加をはかるならば、それは当面企業所得および企業からの利潤所得の二次的配分にあずかる富裕者の純所得を増やすであろうが、社会全体の需要を冷やす効果を持つことが予測されることである。
 
 もちろん、現実の経済社会は、多数の要因が複雑にからみあっているという意味で複雑であり、また原因が結果を生み、その結果がまた別の事象の原因となるという意味で累積的な因果関係の成立する複雑系であり、そのため単純な算術的計算によって事態を正確に描くことはできない。

 しかし、簡単な算術計算による第一次的接近でも、上述のことから描かれる事態が生じることは否定できないだろう。それは、<供給側の改善→貯蓄の増加→投資の増加→経済成長>という因果関係とはまったく別の帰結をもたらす。
 むしろ、期待される(予期される)のは、次の経過である。

 総需要の停滞→設備投資の停滞→抑制された経済成長
  付随減少:企業所得の増加、賃金の抑制→富と所得の格差拡大

 さて、まわり道をしたが、アベノミクスが新自由主義のわなからまったく抜け出せていないだけでなく、むしろ新自由主義政策そのものをめざしていたことはこれで理解されただろう。(ただし、安倍氏の政策の特徴は、小泉構造改革とは若干異なっており、そこに国家主義の色彩が漂っている。これについては、後でゆっくり検討することとする。)
 それは安倍政権による次のような施策からうかがうことができる。
  規制緩和(国家戦略特区など)
  TPPの推進
  大企業に対する法人税の大幅減税/消費税増税(税制のフラット化)
  他(略)
 

2017年6月21日水曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 2

 アベノミクスと新自由主義はどのように関係しているだろうか。

 その前に、そもそも新自由主義(ネオリベラル)政策とは、何か?
 普通、「ネオ」(新)を関した語は、かつて存在した事象が様相を若干異にしつつふたたび登場する場合に用いられる用語であり、例えば「ネオ・ナチ」、「新古典派」などの言葉に見られる。
 したがって新自由主義がかつて存在した自由主義と共通性を有することは言うまでもない。それは一言でいえば、市場原理主義または市場優先主義に他ならない。つまり、それは、人々の経済活動は、自由市場(free market)に委ねておけば、効率性、安定性、均衡などが達成するという思考原理、およびそれにもとづく一連の政策と言い換えることができる。
 こうした思考法の原形が18世紀および19世紀の経済学の中に存在したことは否定できない。とりわけ、アダム・スミスやD・リカードゥ、J・S・ミルのような一級の経済学者は別として、彼らの通俗化を試みた(普通には名前も知られていない)一連の経済学者たち、英語でvulgarizers(「通俗化する人」の意味)の中にそうした学者がたくさんいた。
 しかし、それが抽象的な原理にまで高められたのは、19世紀末のことであった。
 財市場、金融市場、労働市場における需要と供給の関係によって均衡価格と量が同時に決定されるという思考法が、すなわち 新古典派の economics (物理学 physicsをまねて作成された新造語)が成立するとともに、それは体系化され、次いで大学の経済学部で教えられるようになった。
 だが、それは決して現実の経済社会の実相を反映するものではなく、現実には存在しない智恵のある人々頭の中の「仮想空間」の中でしか、当てはまらない代物である。そこで、T・ヴェブレン、J・M・ケインズ、P・スラッファ、M・カレツキなどの一流の経済学者は、この現実離れした経済学に代わる政治経済学(political economy)の構築に尽力したしだいである。

 すでに以前のブログで説明したので、ここでは最小限の説明にとどめなければならないが、新古典派の思考は、例えば労働市場の説明において完全に破綻している。それは、一方で、労働供給(雇われて労働する側)の右上がりの曲線を想定しており、他方で、労働需要(労働者を雇う側)の右下がりの曲線を想定している。つまり、労働者は、賃金率が高いほど長時間働くことを欲し、賃金率が低いほど低時間しか働きたがらない。これは、財市場における供給と需要の関係と平行的な関係である。(価格が高いほど、多くを供給することを欲し、逆は逆。)
 しかし、これほど現実離れした理論はない。この非現実性は、アメリカでもイギリスでも日本でも厳しく批判されてきた。例えば、労働者は、賃金率が低いほど、一定の生活水準を維持するために長時間働くことを欲する(実際は、働かなければならない)。
 それに、新古典派の説明では、労働者は賃金率に応じて自分の労働時間を決定できるかのような制度的背景が前提とされているが、これも現実離れした想定である。これを読んでいる人の中に自分の会社では、自分で自分の労働時間を決めることができますという人がいたら、是非知らせて欲しい。
 ともかく、ケインズなどは、こうした理論の非現実性=虚構性を厳しく追及してきた。だから、新古典派の経済学者にとってケインズは憎むべき敵であり、それゆえにケインズ殺しを行ってきた。「ケインズは死んだ」という警句は何度も繰り返されてきたが、それはケインズが決して死んでいないことを意味している。

 さて、こうした理論も、それに支えられた政策も1930年代の大不況の中でひとたびは死に絶えたかに見えた。しかし、1970年代のハイ・インフレーションの中で、ケインズ批判の大合唱が起こり、1980年代初頭の米国において政策(レーガノミクス)として採用されるに至る。
 詳しくは述べないが、こうした新自由主義による市場原理主義の復活の背景には、①1970年代における混乱があるが、それだけではなく、②大企業や金融業の利益(利権や権益)が市場原理主義によって保護されるという側面や、③学者や政治家の中には、純真にもその思想を信じる人々がいたという面も否定することはできない。

 しかし、新自由主義政策によって実現された市場原理主義の強化が、その後の経済に与えた影響は深刻であった。そのようなものとしては、失業率の上昇(それはもはや政策によって克服されるべき対象ではなく、高賃金のなせる業として放置されるべきとされるようになった)、賃金の停滞、金融上の純利得の拡大(これは「株主価値」の賞賛の中で生じた)、富と所得における格差の拡大、金融危機、富裕者・大企業の大幅減税(税制のフラット化)と財政危機などをあげることができる。

 近年の英米における暴動、抗議運動、左派の躍進などの政治的変化は、もちろん一部はこうした現実に対する反発から生じたものであり、変化の兆しがないわけではないが、今でも新自由主義の政策が完全に放棄されたわけではない。

 それでは、わが国のいわゆる「アベノミクス」においては、事態はどうなっているだろうか? 安倍氏の経済政策は、多くの国民にとって福祉を増進させるような政策に転じてきただろうか?
 
 もちろん、答はノーといわざるを得ない。
 具体的に少し詳しく検討しておこう。

安倍氏の経済政策の経済的帰結 1

 安倍首相の経済政策、俗に「アベノミクス」と呼ばれているような経済政策がいかなるものであり、どのような経済的帰結をもたらしたかについては、このブログでもすでに難解も言及しており、また言うまでもなく、巷の書店には、それについて書かれた様々な本が並べられている。
 その上に何も語る必要はないのではないかと考える人もいるかもしれないが、以下では何度かにわたって、いくつかのことを記してみたい。

 いうまでもなく、その「3本の矢」のうち、最も力を込めて積極的に宣伝されたのが「異次元の金融緩和」であった。この金融緩和がそれ自体としては、経済成長をもたらす上で何らの力も持たないことは、すでに何度も触れているが、ここでもまずその点を確認しておきたい。1930年代の大不況に際して米国の連邦準備制度理事会もこの金融緩和策を試みたが、失敗に終わったことは、必ずしもよく知られている事実とは言えないかもしれないが、少なくとも専門家の間では周知の事柄である。そのような事例は、19世紀末の金融崩壊後の日本、21世紀初頭の金融崩壊後の欧米諸国でも事欠かない。一方、好調な経済をタイトな金融政策によって(簡単に言えば高金利政策によって)くじくことはいとも簡単である。その具体例は、1980年代に米国のRBのヴォルカー議長の下で実験された高金利政策(レーガノミクスの本質的な一部)である。このとき、米国は不調のどん底に落ち込み、そこでそれまで14パーセントに達していたインフレ率はスローダウンしたが、失業率は10パーセントを超える水準にまではねあがった。
 要するに金融政策には、「非対称性」と呼ばれる性質があり、経済を悪化させることは(その気になりさえすれば、という条件つきで)簡単だが、悪化した経済を好転させることは容易ではない。場合によっては不可能である。

 そもそも、およそ経済成長を促進するための経済政策(仮にそれが正しいと前提して)を立案する者、またはそのような経済政策を調査・研究する者にとっては、何故、どのようにして従来の経済が不調または不況、停滞などの状態に陥ったのか、その理由や事情を明らかにし、それに対応することが求められる。
 しかし、アベノミクスにはそうしたことは一切ない。安倍氏にその能力がないことは明らかであるように見えるが、そもそもそうした意図もないのであろう。彼が狙っていたのは、経済自体というよりもむしろ政治・国際関係における「第4の矢」という毒矢であったと考えられるからである。実際、安倍氏が政権についてから実施してきた政治的な毒矢は列挙にいとまないほどである。念のため、いくつかあげておこう。

 1)TPP
  選挙前には反対、嘘をつかないといいながら、選挙が終わると、積極的に推進
 2)特定機密法
 安保法制(違憲のいわゆる「戦争法」であり、これにより自衛隊は米軍などと共同して外国と戦争することが可能になった。また「集団的自衛権」にもとづき軍事同盟に加わることも可能となってしまった。安倍氏は中国等を仮想敵としており、諸外国に対する先制攻撃も否定していない。)
  3)原発の再稼働・輸出政策
      危険きわまりなく、高費用を国民・外国人に押しつける政策の持続  
 4)共謀罪(何をしたら罪になり、罰せられるか不明。罪刑法定主義に反する)
 カジノ法(平安時代以降、禁止されてきた賭博を公認)
 5)安倍友学園問題(森友学園、加計学園、他)
  国家戦略特区という利権、その私物化 
  政府による文書隠蔽
  処罰をちらつかせる文科省
  警察による国策捜査の始動
  告発した人に対する人格攻撃
    警察を使った内偵も行っていたことが判明
 6)五輪利権、地元下関利権など
 7)国会審議のひどさ
  頻発する問題発言、答弁不能・迷言
 8)教育勅語の復活策動
  「自由と権利」の蹂躙と軍事をねらいとした義務の押しつけ
  国民を天皇の「臣民」(subjects)とする復古政策
 9)総じて政治の私物化
  この経済的意味については、後の説明する予定  

 まだ他にもあるが、連日のように出てくる様々な問題は、もはやこの内閣が尋常な存在ではないことを示している。

 アベノミクスとは、こうした「毒矢」を放つために、まずは有権者の関心と票を買うための宣伝であったことを、まず確認しておきたい。
 その上で、安倍氏の経済政策のもう少し詳しい検討に移ろう。
 その際の最大の論点は、新自由主義(ネオリベラル)政策の問題であう。

(続く)
 

2017年6月19日月曜日

中国・韓国・北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と本当に戦争するつもりですか?

 もう今年の話ではありませんが、私の知り合いがテレビ・ニュース等を見ながら、中国・韓国・北朝鮮を非難し、日本の軍事拡大を支持するようなことを話していました。

 そこで私は次のようなことを言ったことを思い出します。
 「あなたは、中国や北朝鮮と戦争するつもりですか?」
 「日本企業は中国などに進出して市場=販路を広げてきました。中国などと関係をたてば日本の経済社会はどうなると思いますか?」
 「かりに中国などと日本が戦争をするとして、あなたが兵士として戦争に行くつもりですか? それとも子や孫が?」
 「中国は、19世紀までは、世界一の人口大国、経済大国でした。それが20世紀に開発途上国となり、いままた経済大国として復活してきています。それが特に近年衰退過程にある日本の多くの国民にとっては苦々しいのかもしれませんが、そうだからといって戦争はありえないでしょう。」
 「中国とは、外交によって様々な問題を解決する必要があります。」
 「安倍政治は、中国や韓国、北朝鮮を敵視し、日本のナショナリズムや愛国主義を煽り、それによって日本を軍事・警察国家に仕立てあげようとしていますが、そのような策略にのってはいけません。」
 
 特に「あなたは本気で中国と戦争するつもりですか」というのが効いたようで、ちょっと考え始めました。

 今一つ北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のミサイル問題ですが、もちろん、これがゆゆしい事態であることは言うまでもありません。
 しかし、北朝鮮の金ジョンウン氏もまったくの馬鹿ではないでしょう。彼のねらいは、日本を軍事攻撃することではまったくありません。そんなことをすれば、北朝鮮の命運が尽きることは彼もよく承知しています。彼のねらいはあくまで米国であり、米国から北朝鮮の存続を保証するという言質を取ることにあります。だから中国からの説得にも耳を貸さないようにしています。ただし、トランプの米国がどのような態度を取るかは分かりません。対北朝鮮融和派の文大統領の対応も同様です。
 はっきりしているのは、安倍晋三首相であり、彼は北朝鮮がミサイルを打ち上げるたびに大喜びして、電車をとめてみたり、メデイアなどを動員して危険を煽り、軍事拡大路線に油を注ぐ了解を国民から得る絶好の機会と考えています。トランプ(カールビンソンなど)と一緒に北朝鮮を挑発したり、様々なことを試みています。私のゆきつけの床屋などは本気にして、もし市内の米軍(海軍基地)にミサイルが撃ち込まれたらどうしようなどと心配していました。もちろん、私が背景を説明し、そのようなことはないから安心しないさいと言ったことは言うまでもありません。
 
 北朝鮮の脅威を必要以上に深刻に考えている人にとっては、次のことも冷静に考えることも必要ではないでしょうか。
 北朝鮮の名目GDP2兆円ほどですが、実質は3000億円ほどでしょうか。私の住む横須賀市(人口30万人)の財政規模(市のGDPよりはるかに少ない!)の約三倍ほどにあたります。
 

ヴェブレン翻訳 あと少しで終了


 ついにT・ヴェブレンの『不在所有権と営利企業 アメリカのケース』の翻訳も残り2章(ch.12 The larger use of credit, ch.13 The secular trend)を残すのみとなった。

 ところで、第13章の表題にある secular には、私の持っている英語辞典では「世俗の」という意味しか載っていないが、経済学では「長期的な」という意味でもしばしば用いられる。
 この単語の語源はラテン語にあるらしい。そこで手元のラテン語辞典をひいてみると、たしかに secular の元となった saeculumには「長期」の意味もあることがわかった。
 
 とりあえず、最後の2章を例によって翻訳ソフトにかけ、ワードに保存したが、もちろん翻訳ソフトの翻訳文は、ちんぷんかんぷん(it is all Greek to me)。それでも、翻訳文をうっかりしてとばしてしまうことは防ぐことができ、また多少とも時間の節約にはなる。そのため翻訳の専門家も利用しているらしい。

 頭痛とたたかいながらの作業であり、一日のうち長時間はできないため、また月末に北海道・東北旅行をする予定のため、あと一月ほどはかかる予定だが、それが終わったら、一章ずつ、内容の要約文を作成しながら、日本語の文章として readable になるようにブラッシュ・アップする予定でいる。
 今のところ、粗訳の文章は「よどんだ運河」のようなものだが、最終的には「さらさら流れる小川」のような文章にしたいところ。
 私のこれまで読んだ文章(英、独、露、日)の中でも最も難解な文章であり、また当時のこまごました出来事、人名、会社名、商品名なども出てくるので、どこまで調べられるか、不安は不安である。


2017年6月13日火曜日

偉大なるヴェブレン 

 ヴェブレンの大著『不在所有権と営利企業 アメリカのケース』の粗訳がようやく四分の三ほど終了した。まだまだ先は長い。
 
 ところで、ヴェブレンは、旧制度派の祖としてよく知られており、いわゆるアングロサクソン系の理論経済学というより社会学者としての側面が強調されることが多い。
 しかし、ヴェブレンには、その後に続くスラッファ、ケインズやカレツキなどの超ビッグな経済学者の発想を先取りする事柄が多く含まれていることが明らかになってきた。
 その一例として「収穫逓増」「費用低減」。ちなみに、もちろんこれは新古典派の非現実的、仮想的想定にまったく反する。
 ここでは、とりあえず一節のみ紹介したい。 

 「ある一定の、変動するが有効な限度まで、産出量の増加は大量生産の方法によって一単位あたりの逓減する費用で生産されるかもしれないことは経済学者にはよく知られている。この収益逓増または費用逓減の法則は、大規模機械産業一般におけるとまったく同様に、大規模な広告における顧客の生産にも当てはまる。」(307ページ)

ここで「経済学者によく知られている」という節に注意してもらいたい。アダム・スミス(『諸国民の富』1776年)をはじめとする多くの経済学者は。「収穫逓増」の事実をよく知っていた。アダム・スミスが特に経済発展の途上にある国にとって外国貿易の利益を説明したことは、その点と関係している。つまり、増加する輸出需要によって生産量が拡大すると、規模に関する収穫逓増によって、費用が逓減し、その国の産業はより有利な状態になる。経済発展の途上にある国を特に強調するのは、そのような国は、国内市場が狭く、生産量が制限されているからに他ならない。
 
 だが、もちろん、ヴェブレンも忘れずに指摘しているように、すべてのケースで「収穫逓増」が当てはまるわけではない。一部の産業、特に農業のような土地に制約されている産業では、普通に見られる条件下では、「収穫逓減」が成立する。これがリカードゥなどの経済学者にとっては、地代発生の理由を説明する条件であった。とはいえ、これは大量生産を特徴とする近現代の機械制生産には当てはまらない。それにもかかわらず、新古典派経済学は、その理論的要請から、非現実的な収穫逓減を一般化し、彼らの仮想的理論を組み立ててきたのである。

 

2017年6月11日日曜日

安倍・菅・金田 お歴々の迷言集のブログを読む

 以前、ブッシュ(米大統領)迷言集がアメリカ合衆国で人気だったが、日本でも同じように安倍(首相)、菅(官房長官)の迷言を集め紹介しているブログがあることに気づいた。
 最近は、共謀罪法案をめぐる国会の論戦における金田法務大臣のお馬鹿答弁も広く話題になっており、各地で国会論戦を再現する劇にしたてて「上演」しているところも多数あると聞く。
 そういえば、横須賀市・汐入町で行われた横須賀・三浦市民連合の講演会にきてくれた野党の国会議員が最後の挨拶中に、国会での金田法務大臣の答弁のあまりのお馬鹿さぶりを思い出してしまったのか、つい笑ってしまうほどであった。
 これだけ有権者の笑いを誘ってしまうお馬鹿答弁が出てくる内閣もめずらしい、というより明治時代以降の議会史ではじめてのことではないだろうか。
 とりあえず、次の三つを紹介する。

菅(官房長官)迷言集
 代表的な迷言は、<まったく憲法違反ではないという著名な憲法学者が多数いる>という趣旨の発言をし、誰かと問われたとき、出てきたのが3名ほどの三流御用学者の名前だけ。「著名」の意味が違うようだ。また3名が多数とは。
http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/52250431.html

安倍(首相)迷言集
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/111.html

金田法務大臣
 何といっても、迷言の極みは、「私の頭脳の問題で対応できない。」というものだろう。しかし、笑って済ますことのできない深刻な問題である。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-7229.html

2017年6月10日土曜日

加計学園問題 安倍政権を退陣させ、安倍政治をやめさせる意思表示しませんか?

 ヴェブレンの大著(『近時における不在所有権と営利企業 アメリカの場合』)の日本語訳の作業と私の体調(主に頭痛)のために、ブログの更新をなかなか行えない。
 ブログに載せたいことは山ほどあり、その主なものは次の通り。
  安倍氏の経済政策の経済的帰結
    要するにアベノミクスの失敗、危険性のこと
  アベノミクスの第4の矢(毒矢)
    3つの矢はこの毒矢を実現するために有権者を騙す矢
    国家戦略特区 その一例:森友学園・加計学園問題
  日本列島の人口史・日本の人口問題
    過去(古代)から近時までの歴史
    現在の状態と問題
  
 これらは時間を見て少しずつ行うことにして、今日は加計学園問題に関する東京新聞の記事を整理したので、それ(エクセル)を載せるだけにしておく。
 加計学園問題は、安倍氏またはその周辺(内閣府)が文科省に圧力をかけて獣医学部の新設を認めさせたという点だけでも大問題だが、それ以上に、その後の政府の対応、つまり前川喜平・前事務次官の人格攻撃をしたり、文科省内の当該問題に関する文書を隠滅したりする、その恐ろしさもある。またそれに荷担して記事を書く読売新聞社も不気味だ。また公安をつかって前川氏の調査をさせていた勢力=国家権力があったということも明らかになった。
 それに安倍首相べったりのジャーナリスト(と言えるかどうか怪しいが)の「順強姦罪」の方は政治的圧力をかけてなかったことにする。「順」というのは、酒を飲ませたり、薬を飲ませたりして、相手が抵抗できないようにしておいて行う行為だから、もっと質が悪い。
 そろそろ有権者の皆様も、安倍政治を終わらせために、意思表示をしたらどうでしょうか? 

 今日はこれくらいにして・・・ではまた。