2015年11月27日金曜日

インフレの理論とデフレの理論 2

 インフレーションという現象が費用=所得と関係しており、また所得分配をめぐる紛争に関係しているならば、デフレーション(デフレ)のほうはどうであろうか?
 もちろん、デフレも所得分配をめぐる紛争に関係していることを示す事実(facts)および証拠(evidence)は存在する。ただし、インフレが所得を増やそうとする各経済主体の行動に直接関係しており、比較的簡単に説明しやすいのに対して、デフレの場合は若干複雑である。
 ここでは簡単のために外国を捨象した閉鎖経済(closed economy)を仮定する。また以下の説明は素描であり、さらに詳しい説明が必要となるだろう。
 まず出発点として確認しなければならないのは、価格設定(pricing, price setting)を行なうのが消費を生産・販売する企業であることである。

 この問題を考えるとき出発点となるのは、価格設定に関するこれまでの主要な企業調査が示すように、企業は「マークアップ方式という「目の子算」によって価格を設定するか、あるいは同業他社、とりわけプライス・リーダーの役割を果たしている大企業の価格を参考にしているという事実である。このようなプライス・リーダーは、基本的にマークアップ方式により価格設定を行なっている。ここで、マークアップ方式とは、ラフに言えば、所与の生産設備の下で期待される需要量=生産量の下で、どれだけの費用が必要かを大まかに(目の子算的に)計算し、製品単位あたりの費用を計算し、次にそれに共通費や利潤を実現するための一定の比率(マークアップ率)を乗じて価格(単価)を導く方法である。
 ところで、通常、企業はこうして得られた価格を変えることを欲しない。何故ならば、1)もしより多くの利潤シェアーを期待して価格を引き上げたとき、ライバル社(競争相手)が価格を据え置けば、自社製品に対する需要が減少するおそれがある。経済理論では、しばしば価格の弾力性が説かれているが、企業者は、一定の価格引き上げによってどれほどの需要減少があるかをあらかじめ(ex ante)知ることができない。2)他方、価格を引き下げてライバル社から需要を奪おうとしても、ライバル社もまた対抗して価格を引き下げるかもしれない。ライバル社がどのように行動するかも事前に正確に知ることはできないが、いずれによせ、重要な点は、両者とも利潤を減らすこと(共倒れ)に終わる危険性が高いことである。この二つの危惧は、近年(1990年代)では、米国の経済学者 A. S. Blinder を中心とする経済学者の企業調査によっても確認されている。また欧州でも類似の調査が行なわれている。
 ただし、これはあくまでも一般論であり、経済がブームにあるか、あるいはスランプであるとしても、それほどひどくない場合には、企業の価格設定は、近年のようにマイルドな物価上昇(上記の1のケース)を生みやすい。所得分配をめぐる紛争は、所得を増やそうとする直接的手段としての物価引き上げをもたらしやすいのである。しかしながら、1997年以降の日本のような(そしてつい現今の欧米諸国のような)かなり深刻なスランプの場合には、上記の2のケースが生じうる。もっとも、その際には、企業は単純にマークアップ率(利潤のための率)を引き下げることによって販売価格を引き下げるのではなく、賃金圧縮をはかる可能性が高い。
 実際、2000年に日銀が実施した日本企業の価格設定行動に関する調査では、賃金圧縮を前提とした価格引き下げが行なわれたことが明らかにされている。また企業も(日銀の調査報告書も)価格引き下げが決して好ましくないことを認めている。
 ここであえて詳しく説明するまでもなく、1997年頃から目に見える形で始まった賃金圧縮がまずは非正規雇用の拡大という形で実現されたことは様々な統計から明らかである。このことは、日本社会に様々な軋轢をもたらした。
 ともあれ、こうした事実は、「デフレ」がまさに所得分配に関する紛争(コンフリクト)に関係していることを示している。

 だが、こうした個別企業の経済行動が社会全体で期待された結果をもたらすか否かは別の問題である。むしろ、実際には、賃金圧縮は社会全体の賃金所得を圧縮し、その結果、購買力・有効需要が減少する傾向を導く可能性が高い。いわゆる世に言う「賃金デフレ」である。

 最後にもう一言。以上のように「インフレ」と「デフレ」の背後に所得分配の問題が存在するとしたならば、それに影響を与えないような政策には意味がないことになる。「異次元の金融緩和」に効果がないことが明らかになった今、安倍政権(と、その経済顧問)および黒田氏は、企業家団体に直接政治的圧力をかけている。しかし、私には、そのような国家主義的方策が実を結ぶようには到底思えない。

インフレの理論とデフレの理論 1

 その昔、インフレーションが大きな問題だったとき(特に1970年代)には、インフレが何故生じるのかが、経済理論上の大きな論点をなしていた。
 思いつくままに、その当時唱えられた「理論」を並べてみると、
 <デマンド・プル論>
 <コスト・プッシュ論>
 <貨幣数量説>
などがあった。しかし、これらはすべて説明理論として失格である。何故か?

 <デマンド・プル論>
 これは需要側にインフレ発生の原因を求める考え方であり、一見したところ、非のうちようのない理論に思えるかもしれない。が、よく考えると奇妙である。まず需要側という意味を、需要量が供給量より超過しているという意味に取った場合、これは事実に反している。何故ならば、当時、とりわけ1970年代にインフレーションが亢進したときには、需要量が供給量(生産能力)を超えることは決してなかったからである。むしろ1970年代は停滞と景気後退によって特徴づけられていた。言い換えると、設備の稼働率(生産能力の利用率)は、決して需要に応じることができないほどではなかった。
 しかし、需要という意味を<名目需要総額>という意味に取ればどうだろうか? 当時はインフレーションが進行していたのであるから、この<名目需要総額>は確かに増加していた。石油危機の年などには、名目需要総額は年30パーセント以上も増加したことがある。だが、よく考えてみよう。名目需要総額が増加したのは、インフレの結果である。したがってそれはインフレーションの要因を説明したことにはならない。単なるトートロジー(同義反復)にすぎない。インフレが起きたからインフレが起きた!

 <コスト・プッシュ>
 これはコスト(費用)の増加がインフレの原因だというものである。これも一見したところ正しい見方のように思われるかもしれない。事実、個別の企業者の立場から見れば、自社の製品を生産するための費用(機械・設備・原材料などの価格や賃金)が上がったから、自社の製品価格を引き上げなければならない、というの真実である。しかし、これも社会全体から見れば、トートロジーである。A社の製品価格が上がったから、B社の製品価格が上がり、C社の製品価格が上がった、等々。この連鎖は無限に続く。つまりこの「理論」は、費用が上がったから費用が上がったという説明でしかない。

 <貨幣数量説>
 これについては本ブログでも何回も触れたので、省略しよう。ただし、次の点だけは指摘しておきたい。すなわち、現実の経済では、諸物価があり、インフーションの中で、諸物価は一様に上がるのではなく、様々に変化することである。しかるに、貨幣数量説はすべての物価が一様に上がることを想定している。現実離れした想定である。

 これらの「理論」が実際には何も説明しないなら、インフレは説明できない現象なのだろうか? いや、一つだけ真剣に検討するべき理論が存在していた。それは、物価を費用=所得に関係づけた上で、所得分配をめぐる人々の紛争(コンフリクト)がインフレーションの背後にあるという思想である。
 これは経済学の初歩的な知識であるが、モノの生産には費用がかかる。そしてその費用は社会における誰かの所得となる。その費用は一般的には次のように示される。
 A=M+D+W+R   費用=原材料費+減価償却費+賃金+利潤
 社会全体では、原材料費も減価償却費も賃金と利潤に還元されるから、費用は次のように示される。
 Y=W+R         総費用=総所得=賃金+利潤

 この費用=所得は、実際の社会では、経済成長とともに年々増加してきた。また賃金も利潤も増加することが可能であり、多くの場合には増加してきた。しかし、その増加率には自然的なルールがあった(ある)わけではない。そして、そのために紛争(コンフリクト)が生じることは決して稀というわけではなかった(ない)。
 もし出発点(の年)で、100Y=60W+40R であり、その後、Yが120まで増加したと想定しよう。このとき、120Y=72W+48R となれば、すべてが20%ずつ増加したことになる。しかし、必ずそうなるという保障はない。もし企業が賃金を抑制し、利潤として60を得れば、賃金は60のままである。それは労働側の不満を引き起こすであろう。一方、労働側が交渉力を発揮して80の賃金を得れば、企業は40の利潤に甘んじなければならない。
 もちろん別の結果も考えられる。もし(例えば)労働側が80の賃金を得、企業が60の利潤を得ることになれば、その合計140は、名目所得(付加価値)が増加したことを意味する。しかし、この場合、実質的な生産額は120なのであるから、20パーセント弱の物価上昇が必至となる。もちろん、賃金および製品価格を決定するのは、最終的にはそれを生産した企業である。だが、それは一方では名目需要総額を上昇させ、デマンド・プルの様相をもたらし、他方では費用を増加させ、コスト・プッシュの様相をもたらすことになる。
 いずれにせよ、インフレーションの背後には、所得分配をめぐる紛争(コンフリクト)が介在していることになる。この所得分配をめぐる紛争の理論は、例えば米国の経済学者、Sidney Weintraub の説くところであった。彼は、所得分配論なしのインフレーションの理論が無意味であることを明らかにした経済学者として特筆されるべきである。

 ところで現在の私たちにとっては、インフレーションではなく、デフレーションが問題となる。(1997年頃から現在までは日本だけが特殊な「デフレ経済」とされてきたが、金融危機後の米国や欧州もその仲間入りをし始めている。)
 このデフレーションも<所得分配をめぐる紛争(コンフリクト)>によって説明できるだろうか? 
 私は、可能だと考える。というよりも本質的には、所得分配の問題なしにデフレも説明できない。もちろん、インフレもデフレは貨幣的現象である。しかし、現代における人々の所得は貨幣所得であり、そのためにインフレもデフレも貨幣的現象となっていることを理解しなければならない。
 (続く)


2015年11月26日木曜日

安倍黒ノミクスの嘘 輸入されたインフレが有害な理由 

 安倍政権・黒田日銀は、日本が「デフレ脱却」を果たしつつあると主張しているが、それは単純な嘘にすぎない。ここでは、次の2つの点を指摘しておきたい。
 1)そもそもリフレ論が立脚する貨幣数量説(マネタリズム、通貨主義)が単なる「信仰」であり、成立しないことは前に述べた通りである。
 中央銀行(日銀)が市中銀行に貨幣供給(マネタリーベース)を増やしたところで、市中銀行の人々(企業、家計等)に対する貸付が増えるとは限らない。また貸付が増えても物価水準が上がるとは限らない。さらにまた物価水準が上がることと、景気がよくなることはまったく別のことである。
 現実世界の経済をよく説明するポスト・ケインズ派の経済理論が示す通り、物価は、費用に、したがって所得に関係しており、費用=所得の側から説明されなければならない。
 そのことを示す一例をあげよう。例えば1992年の市場移行期のロシアで生じたように、旧ソ連の多くの巨大独占企業がてっとりばやく利潤を増加させようとして、販売価格を引き上げとき、当然ながら一般物価水準が上がり、それに対して(例えば)労働者が賃金率の引き上げを要求した。これは企業間、そして企業と労働者との間の所得分配をめぐる激しい紛争(コンフリクト)をもたらし、ハイパー・インフレーションを導いた。
 現在の欧米におけるもっと温和なインフレでも、理屈は同じである。(各経済主体が自己の所得を増やそうとして)労働生産性の上昇率以上に賃金または利潤を引き上げようとして力を発揮するならば、その結果はインフレとなる。
 そしてインフレーションは、通貨の膨張の原因となる。
 つまり、因果関係はリフレ派の主張とは逆であり、通貨の膨張がインフレーションをもたらすのではなく、インフレーションが通貨の膨張をもたらすのである。1990年代のロシアでも、通貨当局がインフレーションに対応して通貨供給を増やそうとしながら、それと同時にインフレーションを抑えるために通貨供給の増加を抑制しようとしたため、名目GDPに対する通貨量(M/Y)が極端に低下し、インフレの中の通貨不足になったことは周知のところであり、因果関係が<インフレーション→通貨の膨張>だったことを端的に示している。

 2)しかし、これに対して、安倍黒金融政策の中で、物価は上昇したではないかという異論があるかもしれない。確かにその通りである。だが、これについては、次の2点を指摘すれば済むだろう。
 第一に、「異次元の金融緩和」(量的緩和)の実施およびその宣伝は、円売り・ドル買いを通じて、円の切り下げ(円安)を招来した。(ちなみに、この通貨切り下げ競争は、現在、日本にとどまらず、米国、中国、欧州で進行している。)しかし、言うまでもなく、円安は、外貨高を、したがって外国からの輸入品価格の上昇を意味している。日本円のバーゲンセールは、日本製品の価格下落と輸入品の価格上昇を意味することは、経済学の常識、イロハである。
 第二に、このようにして実現された輸入インフレは、はたして日本の景気を好転させるだろうか、疑問である。たしかに輸出企業は輸出量を増やし、円建ての輸出額を増やすことができるだろう。(事実、トヨタなどは収益を増やしているようである。)しかし、それは事柄の一面にすぎない。むしろ結論的に言えば、輸入インフレは景気を悪化させる危険性がきわめて高い。なぜならば、輸入品の物価上昇は、国民の可処分所得を物価上昇分だけ海外に流出させる(漏れさせる)ことによって国内需要を減らすからである。
 それを端的に示すのが、1970年代の2度に渡る石油危機の経済的帰結である。当時、凄まじいインフレーションが進行し、それと同時に景気が著しく悪化した。何故か? 一方では、原油の輸入価格が短期間に数倍に上がり、それがまず生産者物価の上昇を、次いで消費者物価の上昇を結果し、つまりは「輸入インフレ」をもたらした。他方、原油価格の上昇は、その分だけ世界の原油輸入国の可処分所得を産油国に移転させ、つまりその金額だけ消費需要を縮小させ、景気を悪化させた。これが、当時、「スタグフレーション」といわれた現象である。
 イギリスの著名な経済学者、ニコラス・カルドアは、実に世界全体の可処分所得の4パーセントに等しい金額が産油国の銀行口座に流れ、その分だけ「デフレ効果」をもたらしたことを明らかにしている。これは石油危機前に(例えば)2パーセントの成長率を実現していた国民経済をマイナス2パーセントに引き落とす効果を持つものだった。(『世界経済の成長と停滞の原因』)
 もちろん、現在の輸入インフレによるデフレ効果は、これよりは小さい。しかし、それが景気をよくするように作用するのではなく、逆であることは変わらない。

 実際、安倍晋三首相・黒田日銀総裁の「約束」に反して、景気はよくなっていない。名目賃金はわずかに上昇したが、実質賃金率は低下している。もちろん実質賃金率の低下をともなうような「デフレ脱却」はありえない。安倍黒ノミクスはとっくに破綻しており、彼らは現在狼狽していることだろう。彼らが国民に「古い約束」を思い出させないように、次々に実現可能性のない「新しい約束」をしては、「嘘」の情報を垂れ流しているのはそのためである。

2015年11月18日水曜日

諸国民間の金融緩和、通貨安戦争と不和 英国・ガーディアン紙の挿絵は語る

 私が学生だったころには、マネタリズム(貨幣数量説)は、まともな経済学者なら相手にしない「カルト信仰」だった。もちろん、いまでもそれは本質的にはカルトに他ならない。何故か?
 それは、「他の事情が不変ならば」(ceteris paribus, other things being equal)(という呪文のような言葉から始めまり)、物価は貨幣量(貨幣ストック)に比例すると述べる。数式を使えば、次のような式で示される。
 P=MV/Q   P:物価水準、M:貨幣量、V:貨幣の流通速度、Q:生産量

 この式は、「他の事情が不変ならば」というのは、VとQが一定ならば、という意味である、ことを示している。
 また物価は貨幣量に比例するという表現は、物価が従属変数(結果)であり、貨幣量が独立変数(外生的に決まる変数、つまり原因)ということを含意する。

 しかし、人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい、と言いたい。
 まず貨幣量が原因(独立変数)であり、物価が結果(従属変数)だという論理は、どのようにしたら証明されるのだろうか? 彼らは黙して語らない。
 なるほど、最も抽象的な思考実験を頭の中で行い、頭の中で上の数式中のMを変化させれば、それに応じて価格Pは変化するだろう。もっとも頭の空想世界でも、様々な商品があり、それぞれ物価は異なるはずである。そこで、頭の中では、(例えば)貨幣量を2倍に増やすと、A商品の価格x円は2x円になり、B商品の価格y円は2y円になる、・・・などなど一律に上昇することになるのだろう。
 しかし、それは頭の中の世界のことであり、現実世界ではない。

 では、現実世界ではどうなのか? 
 私たちは、現実世界では、諸物価がそれぞれ異なった率で上がったり、下がったりしていることを知っている。何故か? 物価は、当該商品を生産する費用を反映しているからである。そしてその費用は商品ごとに異なった要因によって様々に変動している。しかも、ある人にとっての費用は別の人にとっての所得である。つまり、商品価格は本当は、誰がどれだけの所得を得るのかという問題を離れて論じることができないのである。
 いま一つ、貨幣量の変化について。貨幣ストックは、中央銀行が恣意的に決定できないことは、実は、マネタリストでも知っている。もし知らなかったならば、完全に馬鹿である。中央銀行が直接影響を与えることのできるのは、マネタリーベース(銀行の中央銀行に対する預金+中央銀行券)と言われる部分についてであり、銀行が市中に供給する貨幣量ではない。しかも、銀行が市中に供給する貨幣は、貸付を通じて行なわれる。要するに、貨幣ストックは、人々(企業、政府を含む)が借りなければ増加しない。決してヘリコプターからバラまかれるのではない。
 その貨幣に対する需要は、様々な要素(商品取引のための需要、資産への投機需要、その他、手元に置いておく必要など)からなっている。つまり、貨幣ストックは、(中央銀行が勝手に決めることのできる)外生的な独立変数ではなく、内生的変数である。そこで、もちろん貨幣の流通速度は諸要因によっても変化する。さらに、貨幣量が増えても、それは通常の商品の流通のために使われるのではなく、株式や国債、土地などの資産の売買に使われる場合もある。
 
 議論はここまでにして、論より証拠、事実を見てみよう。黒田日銀の涙ぐましい「異次元の金融緩和」政策によって、たしかに安倍・黒田後、マネタリーベースは恐ろしく増えたことは否定できない。しかし、市中銀行の貸付額はといえば、それはわずかしか増えていない。その結果、<貸付額/マネタリーベース>の値は大幅に低下した。
 
 これはあたり前の結果に過ぎない。
 そういえば、ジョン・ガルブレイスは、(1980年頃の米国のFRBのように)中央銀行が高金利政策(金融引締政策)をとって企業の財務状況を悪化させ、景気を悪くすることは可能だが、低金利(金融緩和策)によって景気をよくすることはできないと論じたが、もちろん、これは正しい。つまり、「紐で引っ張ることはできるが、押すことはできない」ということである。この「ひも理論」の発言は、ジョン・ガルブレイスよりずっと以前、1930年代の世界大不況のとき、米国FRBのお偉いさん(議長?)が漏らした言葉のようだ。つまり、<金融緩和策は景気をよくすることができない>というのは、1930年代の金融専門家の経験に裏づけられたものだったのである。
 マネタリズムが「カルト信仰」だということは、昔、私が学生だったころには、よく知られた事柄に属していたのは、理論的に確証されていただけでなく、経験によって裏打ちされていたのである。

 ただし、少し困ったことに、マネタリズムには一つだけ無視できない点がある。それは低金利・金融緩和策が当該国の通貨安(通貨切り下げ)を実現する可能性があるという点である。もしそうならば、各国はそのような金融政策を通じて相互に通貨安戦争をしかけ、輸出を拡大する道(新重商主義)を模索するかもしれない。

 だが、注意しよう。歴史的には、そのような方策こそが世界戦争を引き起こした経済的原因のうち元と重要なものであり、またそれゆえケインズなどの憂慮した事態であった。
 そして、世界は一度はそのことを理解し、そして反省し、比較的まともな資本主義を修正することに成功した。
 だが、それも一時のことであった。
 思えば、今日の事態を招いたのは、1980年代に始まる新自由主義(ネオリベラル政策)・マネタリズムの思想であり、その結果実施されてきた労働の規制撤廃、民営化(私有化)、金融・資本移動の自由化、等々の市場原理主義の政策である。それは賃金、そして消費需要を圧縮し、経済的パフォーマンスを悪化させ、金融危機を引き起こし、今日の事態を招いてきた。

 今日の殺伐とした風景。資産バブルと金融崩壊後の景気後退。そして金融の量的緩和と通貨安戦争。英国紙・ガーディアンの一枚の風刺画は、それをよく示している。
 私たちの眼の前にあるのは、各国通貨のバーゲンセールというおぞましい風景である。
 

 Guardian, January 25, 2015.

2015年11月5日木曜日

費用と所得の関係 常識にして常識にあらず

 多くの人は、普通常識的に、費用と所得とはまったく異なるものと考えている(もののようである)。
 確かにある意味で両者が異なることは事実である。例えば、A氏が1000円の費用をかけてモノを生産し、1500円で売った場合、1500円ー1000円=500円がA氏の所得となり、1000円が費用である。つまり常識的には、費用と所得はまったく別物である。また費用を節約すれば(圧縮すれば)、所得が増えるという関係も正しい。(ただし、これはその他の条件が等しいならばという条件つきである。)

 しかし、視点を変えて、今度は、例えば B 氏が A 氏から1500円でモノを買う場合を見てみる。この場合、B 氏にとっては1500円は費用以外の何物でもない。つまり購入したモノが消費財であれば、生活のための費用であり、別のモノを生産するために買った原材料ならば、生産費の範疇に入ることになる。
 また A 氏に1000円のモノを売った諸氏( C 氏、D 氏など)を見ると、彼らは、そのモノを生産するためにかかった費用(例えば400円)を超える部分(600円)を所得として実現している。またC氏、D氏にモノを売った別の諸氏も同様である。この連鎖はずっと続く。
 こうしたことは、社会全体では、費用は所得に完全に等しいことを意味している。ただし、その際、ある人にとっての所得が別の人にとって費用となることは言うまでもない。

 この事実は次のようなことを意味する。
 社会全体では、費用を節約し圧縮するということは、所得を圧縮することを意味する。「蜂の寓話」ではないが、例えば、皆が節約して珈琲屋でコーヒーを飲まなくなれば(コーヒーの費用をゼロにすれば)、珈琲屋の売上げはゼロになり、店は破産する。他の産業でも同じである。会社が経費(費用!)を節約すれば、その節約分だけ、他の企業が売上げを減らす。
 また政府が土木事業の費用をゼロにし、支出を完全にやめれば、建設会社などはその分の所得を減らし、苦しい経営状態に陥る。同じことは、もちろん教育、ヘルスケア、社会保障(年金)、軍事・警察、一般行政、その他、どのような分野にも当てはまる。
 だから例えば政府が軍事費(武器購入費)を削れば、軍事企業(およびそれらとつながりのある企業)が売上げ・所得を減らし、軍事費を増やせば軍事企業等が売上げと所得を増やすことになる。
 また政府が介護労働者への支払いにあてる費用を削減すれば、介護労働者の所得が低下し、増やせば介護労働者の所得が増加する。前者(所得低下)の場合には、結局、公的負担(費用)の減少分を個人が負担増によって補わなければ、介護事業が成立しなくなるであろう。そこで、個人が費用を負担しなければならなくなり、個人負担が介護事業者・労働者の所得(利潤・賃金)を構成するようになる。
 さらに企業と労働者の関係についていえば、企業が人件費を減らせば減らすほど、労働者が受け取る賃金(所得)は減少してゆく。その究極的な点は、人件費(費用)=賃金(所得)が社会を崩壊させるような水準になること(「ボトムへの競争」)である。
 もちろん、逆も成立し、会社のボスたち(CEOsなど)が高給(高所得)を得ているということ、あるいは企業が株主の巨額の配当(所得)を分配することは、それだけ社会的に巨額の費用がかかることを意味している。しかし、何故か、このことを大きな声で主張する人は誰もいない。通常、聞こえてくるのは、従業員の賃金(人件費)が高いというボスたちの大合唱である。この大合唱は、ある時には(競争が激しく、苦しいという)「泣き」、別の時には(費用が高いから外国へ逃げるという)「脅し」の歌声を伴う。

 事はこのように関連している。個々の経済主体(家計、個人、企業、政府)が費用を節約さえすれば、社会全体でもムダをはぶくことができ、所得を増やすことができるというのは、まったくの嘘である。

 繰り返すと、個々の経済主体にとっては、<所得=付加価値=売上高ー費用>が成立し、費用イコール所得ではない。しかしながら、社会全体では、費用イコール所得である。
 ただし、言うまでもなく、この等式は、所得分配のことについては何も語っていない。所得分配は、政府の働き・機能を除けば、市場に委ねられている。そして、むきだしの「自由市場」では、力のある者(従業員に対する企業、中小企業に対する大企業など)がより多くの所得を実現するという明確な傾向がある。1980年代以降の米英を中心とする新自由主義政策の中で、「対抗力」(countervailing power)が奪われ、所得格差が拡大してきたのは決して偶然ではない。
 
 以上のことは、現実を直視する経済学にとってはABCだが、ケインズも嘆いたように、必ずしも社会的常識となっていない。ともあれ、私たちは経済事象を一面的にではなく、総合的に見なければ、正確に理解したことにならないことは確かである。

2015年11月4日水曜日

T・ヴェブレン『企業の理論』 現代における私有財産の観念の「詭弁」について

 前回述べたようにヴェブレンは、現代アメリカの法意識の中で、「私有財産」、「金銭契約の自由」(自由市場)を自然法と見る観念・法意識が時代に即応していないと主張したが、さらに第8章の政治を扱っている部分では、もっと告発調に、そのような私有財産の観念が「似而非(えせ)」、「詭弁」であると述べる。
 さらにヴェブレンは、現代の政治が企業政治であること、それが戦争と密接に関連する傾向を持つことを論じるが、この部分はとりあえず措いておき、以下に政治と私有財産の関係を論じた一節をあげておく。(訳文は、勁草書房出版の小原敬士訳を参照したが、大幅に変更してある。)


第8章 「法と政治における営利原則」の一節


 企業政治の第二の制度的支柱、すなわち私有財産は、同じように過去の規律の生き残りであり、またおそらくより小さい程度であろうが、同じように最近の文化状況の規律とは無縁である。私的所有の原理は、それが現在の一般的な精神の中にゆきわたっている形態では、上段で指摘したように、手工業と零細商業の時代に由来する。それはあまり古くなく、またあまり引き続いた血筋のものではないので、愛国主義的連帯感の感覚に比べてあまり確実でない文化的遺産であるようにも思われる。その原理は、財産の所有権が人間の福祉の物質的基礎であると言い、またこの財産所有の自然的権利は、個人の生命、そして特に国民の生命が神聖であるのと同じように、神聖であると言う。マナー制度下で恊働作業が、また手工業制度下で共同の規則が教え込む生命と思考の習慣は、明らかに経済的利害の連帯性の観念に大きく貢献した。そして、この習慣は、そのような観念に、もっと後の資本主義の時代になって明らかな利害の不一致に直面しても存続することを可能とするような、高度の一貫性を与えたのである。この現在の企業体制のもとでは、企業利潤が個人の富の基礎となっており、また共同取得という(似而非の)観念がマナー制度的な共同作業の観念の位置を占めている。初期近代の手工業の規律下で形づくられたような所有権の制度的精神では、財産を生産した労働者に財産の所有権が与えられる。この形而上学的見解は、用語の弁証法的な逆転によって、財産の取得をもって富の生産を意味するものと解釈することにより、後の競争的企業の状況に適合させられている。そこで、企業者は、彼が取得するあらゆる富の推定上の生産者とみなされる。この詭弁の力によって、どんな人による財産の取得も、その所有者にとっての手段であるばかりでなく、共通の善(福祉)に役立つ活動として価値あるものと考えられる。抜け目なく取引することや、自分自身の手の仕事によって生産した以上の財を蓄積することができないことは、好機を見逃すばかりでなく、義務をなおざりにすることとして、困ったことだという感情で見られる。もちろん、金銭的な良心は、普通、各人が手元にある富全体の均等な部分以上を取得するべきだと公然と主張するドンキホーテ的な極端にまで行き着かない。しかし、他の事情が等しいならば、富全体のより大きな分け前を自分自身の所有にふりむける人が最も公共の善(福祉)に役立つものと感じられている。彼がそれを弁護する資格を獲得すれば、彼はその推定上の生産者となる。
 所有権についての自然権的基礎は、この偽推理によって不可侵のものとして保護される。そして社会の中の企業者は少なくとも財産に対する資格を獲得するだけ、富全体を増大せしめるものである、と庶民に感じさせることができる。また成功した企業者は、少なくともそれと同じように、自己の、全体の富や社会全体の物質的福祉に対する関係はそのようなものであると思いこむ。そこで、企業政策によってその利得の増進をはかる企業者も、その企業利潤を保障するための手段(労働)を提供する人民も、ともに賢明な企業の目的———金銭的な事柄に熟達している者の手中への富の蓄積———のために、誠心誠意、力を合わせて働くのである。



2015年11月3日火曜日

アメリカ人の「自由市場」とは何か? ヴェブレン『企業の理論』の説明

 ヨーロッパの多くの人から見ても、アメリカ人、そしてかなりの程度までイギリス人(イングランド人)が相当な変り種であることは、よく知られている。経済の世界では、それはアメリカ人が原理的な「自由市場」論者であり、所有権と「契約の自由」を神聖にして譲り渡すことのできない「自然権」と考えるといった法的・政治的な態度によく示されている。
 例えば、アメリカは、先進国で唯一、労働・労働市場に関する ILO の多くの条約を批准していない。15歳未満の児童労働の禁止を定めた ILO の規約は批准されていない。またその他の「契約の自由」に抵触する規約にいまだに批准されていないものがある。
 こうした態度・観念はいったい何に由来するのだろうか?
 これについて、『有閑階級の理論』で有名なT・ヴェブレンは、『営利企業の理論』(1904年)で、次の二つの歴史的事情をあげている。
 その一つは、17世紀、つまりイングランドで王党派と議会派の間で内戦が生じた時代に、所有権をめぐる新旧の対立がクライマックスを迎えたとき、ジョン・ロック流の所有権の基礎づけが勝利を収め、その伝統がアメリカ北東部(つまり大西洋西岸)の植民者によって受け継がれたことである。ここでジョン・ロックの思想とは、封建制的・絶対主義的思想に対して、しかし当時まだ「手工業」と零細営業が支配的であったという経済状態を反映して、所有権を「自己労働」によって基礎づけた思想である。その後、18世紀〜19世紀に産業革命によって事態は大きく変化し、機械制工場が生まれ、多数の労働者を雇用する企業者経済が生まれたが、法制度においては、ジョン・ロックの思想から生まれた自然権としての所有権と契約の自由の不可侵性はびくともしなかった。事実、例えば18世紀、19世紀のイングランドにおける労働法の根本にあったのは、個別の人々(個人)による契約の自由を厳守するという思想であり、それは労働契約に労働組合が関与することを厳禁し、違反者は(つまり労働組合を結成し、団体交渉を行なった者、あるいは行なおうと相談=「共謀」した者)は投獄されることとされていた(団結禁止法、主従法)。(この状態に対する批判は、19世紀後半に盛んになった。マルクスの『資本論』、ウェッブ夫妻のフェビアン協会の設立、労働党の成立などがそれを示す。)
 もう一つの事情は、アメリカの北東部に入植した人々が、17世紀のイングランドには存在していた因習的な法と制度を持ち込まなかったことである。当初、ジョン・ロックによって自己労働を根拠として公正に設定された自然権としての所有権に由来する契約の自由、とりわけ金銭契約の自由の観念は、米国では、独自の展開をとげ、やがて自然権として憲法にまで持ち込まれた。それは米国民のいわば法的な「常識」となり、神聖にして譲り渡すことのできないものとしてまつりあげられるにいたった。
 
 しかしながら、これはアメリカにおける事態の一つの側面であり、別の側面がある。そして、これもヴェブレンの示すところである。
 つまり「法的には」(de jure)、金銭契約の自由は侵すべからざる自然権であり、したがって裁判所、とりわけ上級の裁判所が判決に際して、それを最高度に斟酌してきたとしても、「事実上は」(de facto)には必ずしもそうではなかった。何故ならば、金銭契約の自由は「事実上」様々な社会的な不都合をもたらしうるからであり、また実際もたらしたからである。このことは具体例をあげるまでもないであろうが、労使関係の領域ではとりわけそうである。というのは、自由な契約が無力な労働者大衆に大きな不利益を意味したからである。そこで産業上(労使関係上)の自由の問題については、法と事実とのギャップが生じることはしばしばであり、そのようなギャップは特に労働者大衆とその雇主あるいは所有者の間の紛争に関する裁判所の判決に現れることがたびたびあった。裁判所、とりわけ上級裁判所は、金銭契約の自由を損なうとして労働側に不利な(所有者・経営者に有利な)判決を与え、国民の多くのから不信の眼で見られることとなった。(裁判所は、金権主義であり、コーポラティズムであり、腐敗している、等々。)
 なお、ヴェブレンが『企業の理論』を書いた30年ほど後のことであるが、ローズベルト大統領がニューディルを実施するために様々な法律を議会で通過させたが、それらが最高裁判所で「違憲」判決を受けたことはよく知られている。もっとも違憲判決があっても、同じ目的の別の法律を制定すればニューディール政策を行なうことは可能であったが、ともかく、これは1930年代の米国の最高裁判所が「金銭契約の自由」についてどのような観念をもっていたかを示すためのよい一例である。
 
 以上の事態はまた、興味深い事実を示している。それはアメリカ人が「ダブルスタンダード」の上に立っているということである。アメリカの普通の人々にとって常識的・法的には「金銭契約の自由」(自由市場、選択、競争)は因習的な自然権のように思われる。しかし、事実上、近現代の経済状況はそれを許さず、大幅に修正することを求める。
 実際、アメリカ政府は、しばしば米国経済が「自由市場」にもとづく経済であることを主張し、外国にも「自由市場」を求める。しかし、その実態はと言えば、(例えばGDPの40〜60%に相当する金額が政府の管理するところ(教育、社会保障、軍事、ヘルスケアなお)であることが示すように)自由市場はとうに放棄されている。政府が介入しても自由な市場が存在していると感じているほど、政府の介入は普通になっているのである。まさにジェームス・ガルブレイスが主張するように、「保守派」(共和党)でさえ実際は自由市場を放棄しており、プレデターたち(金融、企業のCEOs、他)は国家を餌食にしている。


2015年11月1日日曜日

所有権の経済学理論 ヴェブレン『営利企業の理論』第4章「営利原則」

 所有権または私的所有権は、経済学的にはどのように基礎づけられるか? 今日、多くの経済学者は、この大問題を迂回するのが普通であり、真面目に取り上げないが、言うまでもなく歴史上は最大の問題であったし、現在もそうである。
 この問題は、マルクスにとどまらず、ヴェブレンもケインズも論じている。ここでは、あまり触れられることのないヴェブレンの『営利企業の理論』(邦訳は『企業の理論』、小原敬士訳、勁草書房)の第4章「営利原則」を見ておこう。(若干訳を変える。)

 (ヨーロッパ)中世には、所有権は次のように捉えられていた(とヴェブレンは言う)。それは「慣習上の権威」がおおよその根拠であり、権利、権能、特権などはここに由来していた。所有権は上位者(優位者)と下位者(劣位者)に分化しており、優位者は習慣によって守られた武勇によって力を保持し、権利の委譲によって劣位者の権利の主張に根拠を与える。両者の関係は、「人的関係」(personal relation)であり、また身分、権威、服従の関係だった。権利の委譲の関係は、より上の優位者を通じて最高の優位者に達し、さらに神にさかのぼるものと考えられた。神が人間の権利と義務の源泉をなしたのは、至高の存在としての神の職務であった。このような秩序における所有権は管理権であった。
 しかし、このような中世的概念は、まず最初ルネサンス期のイタリアで崩壊しはじめ、近代的概念に席を譲るようになった。しかし、「現代の自然権の概念の基礎となっているような観念が最初に形づくられ、十分な表現に達したのは、英語国民(アングロサクソン民族)においてであった。」それは、「中世期の身分と武勇の制度とは異なって、手工業や貿易の近代的な経済的要因によって与えられる。」「権利や真理の新しい格率が古いものを押しのける。」
 そして、新旧の思考習慣の交代、新旧の格率の闘争は、政治学説上の究極因に関する対抗的な諸概念の間の闘争として現れ、「このような代替の過程は1688年の革命(内戦)の中で劇的なクライマックスを迎えた。」もちろん、(以前示したように)ジョン・ロックが「自己労働」にもとづいて所有権を正当化したことは言うまでもない。「まず最初、労働が所有財産権を与えた」のである。一方、フィルマーは、「委譲」に関する中世期的な格率の最後の有力な代弁者だった。」「労働が富の原初的な源泉であり、所有権の基礎であるということは、事物の自然的秩序の原則となった。」
 さて、ジョン・ロックが自己労働によって所有権を基礎づけたのは、17世紀の手工業や手職の時代である。しかし、それは18世紀の標準化を通じて、大きな役割を果たした。要するに、「その世紀(18世紀は)は、信用取引きの安全と便宜とともに、契約の自由を与え、それによって企業の競争的秩序が最終的に確率されたのである。」
 だが、もちろん、19世紀に最終的に確立した企業を主体とする資本主義経済秩序は、17世紀にジョン・ロックが見ていた秩序(自己労働にもとづく所有権)とは明らかに異質な経済秩序である。

 そうであればこそ、新たに成立した企業者経済の秩序は、さっそく批判されることになった。マルクス『資本論』による「領有法則の転回」(自己労働の否定と資本家的領有=資本による搾取)という批判的認識が生まれ、また20世紀には、「前工業社会における労働の果実を所有する権利と、ロックフェラー氏やウェストミンスター公が労働力を所有し何千人もの他の人々の生活条件をコントロールする権利とを同一視するような驚くべき混同」に対して、しかも未曾有の大量失業を前にして、ケインズもまた批判的知見を加えなければならなかったのである。(「デモクラシーと効率」1939年の対談)
 もちろん、ジョン・ロックが擁護したような「自己労働にもとづく私的所有」は、「金融市場に参加し、人を雇用し、解雇し、あるいは自分の思い通りの賃金を支払う権利という意味での所有権」とは決して混同できないものである。またビッグ・ビジネス=巨大企業という組織を前にして、個人個人が自由な市場で取り引を行なうといった原子論的個人からなる自由市場の理論が成立すると考えるのは、はなはだしい時代錯誤である。

 それでは、19世紀に成立し現在まで続いている「営利企業」とはどのようなものであろうか? それはどのような行動様式をとり、それは経済社会全体にとってどのような帰結をもたらすのか? 言うまでもなく、それこそが『企業の理論』全体の主題であり、現代の経済学がその解明を義務づけられている課題である。
 (続く)
 

「共生」(symbiosis)関係と歴史的妥協 労使関係の歴史的概観

 「共生」という言葉(term)がしばしば使われる。この言葉は二つの起源を持つように思われる。(ただし、共通する点も多いように思われる。)
 第一は、「共に生きる」という表現に示されるように、共生は、人々が平和的に恊働しつつ生きるという倫理的な意味合いをもって語られる。これは例えば明治・大正時代の浄土宗の僧侶、椎尾弁匡の「事事無碍の法界縁起」という仏教思想にもとづく「ともいき」の思想・運動に通じる。縁起というのは、すべての事象は、それ自体として他の事象から独立して存在する実体(すなわち自性、self-ness)ではありえず、むしろ相互に依存しあって生起している(dependent-rising)(したがってものごとの境界は相互に溶け合っている)という意味のようである。この相互依存性の思想は、現代の経済学、現実世界を理解する上でも重要であろう。現在でも主流派の伝統的経済学(新古典派)は、社会(他人)と無関係に自己の「効用」の極大化を行動原理とするという原子論的個人主義の思想に立脚しており、この非現実的人間観から抜け出すことができないでいる。しかし、仏教の認識論は、すでに以前からそれを超越していたといえよう。
 第二に、生物学の「共生」(symbiosis)であり、これも語源的には、共(sym)+生(biosis)である。しかし、生物学でいう共生は、上記の共生とは少し異なり、異なった種類の生物が生命を維持してゆく上で、本質的に、何らかの関係を持つことを前提としているという意味合いを持つようである。それは相互に利益を与え合う「共利共生」のこともありうるが、一方が他方から利益を受けるだけの「片利共生」のこともありうる。ここでは紹介できないが、もっと多様な相互関係がありそうである。だが、おしなべて言えば、生物学上の共生は、異なった種類の生物相互の「妥協」(compromise)を前提とするようである。ラテン語の元々の意味では、妥協とは「相互約束」。これは、結局、自分が理想とし、他人に要求する高い要求水準を、相手の存在を考慮し(相手も自分に高い要求水準を要求するのであるから)、引き下げることを意味する。この種の共生は、現実の経済社会でも頻繁に見られることである。
 現実の経済社会では、妥協は常に見られた。例えば、人々を雇用する企業者は、労働者が勤勉に長時間の低賃金労働を提供することを求めるか、少なくともそれに大きな利益を感じる。しかし、雇われる側の利益と要求はその正反対(短時間労働、高労働条件)である。もしそれぞれがお互いの利益を思う存分主張すれば、紛争は果てしなく続き、終わることがない。企業者と労働者の「共生」は、常に何らかの「妥協」点を見いだす。
 ただし、この妥協は歴史的に常に同じというわけではなかった。そこには、両者の力関係の変化があり、そうした力(forces)に影響を与える歴史的諸条件があったからである。
 きわめてラフに描くと、マルクス・ヴェブレン・ケインズ、および戦後の経済学者の描いた当該事象の妥協の歴史的な変遷は次のようになるだろう。
 17世紀。今日の意味での、企業者経営は十全には発展していなかった。存在したのは、広範な独立職人の手工業、手職である。そこで、例えばジョン・ロックは、私有財産権を<自己労働の産み出した果実(生産物)を正当に自分のものとする権利(私有権)>という思想によって正当化した。彼はまた政治的自由と私有財産との強い関係を発見し唱導した。これはその後の社会思想、そして社会自体のありかたに大きく影響した。
 18世紀。しかし、産業革命の前夜から初期にかけて、歴史上、はじめて賃金を支払われて他人(企業者)のために働く労働者が広範に出現する。これは、ジョン・ロックの思想が前提としたのとは異なる事態である。これに対して18世紀の法律家たちは「有害にも既得権と莫大な財産との神聖化に捻じ曲げた」(ケインズ)。この時代の(イングランドの)労働法は、団結禁止法(コモンロー)と少しのちの主従法(制定法)であり、それは<個人契約かつ自由であるべき>とされた労働市場(だけではないが)に対する団体(労働組合、企業者団体)の介入を禁止し、違反には厳罰(禁固3ヶ月)をもって望んだ。しかし、それが実際には主人(経営者)の大きな力の前に労働側の無力を意味したことは、アダム・スミス『諸国民の富』(1776年)が示す通りである。
 19世紀。この状態に対する本格的な批判は、マルクスによって行なわれた。彼は、私有財産制度がジョン・ロックの時代のものとは本質的に異なっており、自己労働にもとづく所有から<資本家的領有>(企業者による巨額の利潤取得)へと転回している事実を発見し、批判した。マルクスの批判は、この領有の転回によって圧倒的多数の人々(労働者)が個人の自由を失っていることの告発だった。(今日、このマルクス本来の意図は忘れ去られており、あたかもマルクスがソ連型の国家社会主義の創設者であるように語られている。)しかし、19世紀には企業の巨大化(独占化)はいっそう進み、賃金の抑制・圧縮と利潤シェアーの拡大は持続した。(これについては、経済史家の明らかにした様々な所得分配データを参照することができる。)
 20世紀。31年戦争(第一次世界大戦〜第二次世界大戦)ののち、事情は大きく変化した。戦争のインパクト、社会主義理念の高揚、マルクスによる批判、そしてケインズによる資本主義の修正提案などの影響下に、「歴史的妥協」(フォーディズム)が成立し、労働保護立法(最低賃金や失業保険などの社会保障、団体交渉権の承認、解雇規制など)も手伝って、歴史上はじめて労働生産性に応じて実質賃金が増加する体制が実現した。これは個々の企業者にとっては、経営上苦々しい出来事だったかもしれないが、社会全体では人々の可処分所得・購買力・消費支出を増やし、経済を成長軌道に載せる上では、大きくb貢献した。これが戦後の「黄金時代」の背景にあった制度である。
 しかしながら、事態はふたたび変化する。1980年代の英米で生じたサッチャー・レーガンの「マネタリズム」(通貨主義)・「新自由主義」の「構造改革」は、ふたたび労働側の力を削ぐ結果をもたらした。すなわち労働側に「対抗力」(countervailing power)をもたらしていた前提条件は、全面的には崩壊したわけではないとしても、大きく後退する。それは再び賃金抑制の傾向をもたらし、反対に利潤(CEOs、株主の配当、金融)を優遇する政策をもたらした。だが、それはこれまでに金融崩壊、所得・資産(富)の格差拡大、貧困の拡大をもたらしてきた。
 かつてケインズ(「デモクラシーと効率」1939年)は、「19世紀の自由放任国家から脱して自由社会主義の時代に入ってゆく」べきことを主張した。それは「個人(選択、信仰、精神、表現、事業、財産の自由)を尊重し、・・・社会的経済的正義を実現するために組織された共同体として私たちが行動できるシステム」である。繰り返すと、私たちの住む現代は、ジョン・ロックの社会(自己労働にもとづく所有)ではなく、巨大企業が貨幣賃金を支払って諸個人を雇用する「企業者経済」である。いちいち名指ししないが、現代の経済学者には、このことを忘れたり、あるいは意図的に粉飾することに腐心する経済学者がいた。私たちが一挙にすべてを解決する魔法のようなユートピアを構築することができないかぎり、どのような「共生」関係、「妥協」を受容するのか、これが大きい課題であり続けている。 

2015年10月31日土曜日

現在と将来 ケインズの「不確実性」と現存の状態を持続させる慣性力


 当然のことであるが、私たちは常に現在の時点で行動する。経済行動についても同様である。未来はまだ来ておらず、過ぎ去った過去は取り戻せない。
 しかし、よく考えると、現在の瞬間瞬間における私たちの行動は、一方では、人々が過去になした行動の経験とその帰結を調査することによって得られた情報・知識に依存しており、他方では、将来に関する何らかの知識に依存している(はずである)。
 例えば企業が設備投資に関する決定を行ない、次いで実行する場合には、あるいは労働者を雇用する決定を行い、次いで実行する場合には、これまで出来事についての情報を、それがどれほど不完全であろうとも、獲得し、分析し、また将来に対する一定の期待にもとづいて、自分たちの経営行動を実行に移すはずである。過去および将来の知識なしに、経営行動を決定することは自殺行為に他ならない。
 しかし、私たちは、過去の経験を正確に調査し、それを将来のためのガイド(案内役)として役立てているかというと、大いに疑問である。
 ケインズもまたそのように考えた。たしかに将来については、まず一つには確率論的に把握する可能性の高い事象がないわけではないかもしれない。しかし、すべてが確率論的に把握できるわけではなく、むしろほとんどの事象は、「単に私たちは知らないだけである」。多くの事象については、「何らかの計算可能な確率を打ち立てる科学的基礎がない」。例えば一週間後のN市の天気が晴曇雨のうちいずれとなるかは、気象庁の天気予報によりある程度まで確率的に把握できるとしても、例えば2年後、あるいは5年後、10年後の天気については、私たちは単に知らないだけである。10年後の株価、私たちの所得、電化製品の価格、利子率、寿命、失業率、中東(イラク、シリア、イランなど)の情勢を知っている人はいない。またそれを確率論的に取り扱うことに意味があるとも思えない。つまり私たちの将来についての知識は、多くの場合、あるいはほとんどの場合と言ってよいかもしれないが、まったく「不確実」(uncertain)である。
 しかし、それでも私たちは、「合理的経済人」として面子を保つべく行動する(ことを余儀なくされる)。
 それはどのようにしてだろうか?
 ケインズは、そのための多くの技術(テクニック)があり、そのうち重要なものが以下にあげた三つであるという。
 1)現在の状態を将来のガイドとする。つまり、現在の状態が続く、あるいは将来も変化しないと想定する。
 2)現在の状態が将来の展望を正しく反映したものと考え、受け入れる。
 3)よりよく情報を得ている自分以外の世界の判断に、したがって現在の多数派、または平均の見解に従う。

 さて、このケインズの思想については、様々なことを指摘できるように思われるが、ここでは次の点を指摘するにとどめておこう。
 1)ケインズのこの思想は、現代の行動経済学者の考えを先取りしたものであると言えよう。これは、私たちが過去の経験を正しく調査し、また将来に対する確実、正確な知識をもって行動するのではなく、現在の時点における人々の社会的行動におおきく制約されていることを意味する。
 2)これはまた、社会全体がある状態に陥ったとき、それを持続する大きい力が作用するため、将来に関する別の展望にもとづいてそれを変えることがかなり困難であることを示す。
 例えば賃金率を変えること、とりわけ労働生産性に応じて引き上げることは、社会全体にとって購買力と消費支出・需要を増やすことによって個別企業にとっても決して悪い話しではないとしても、きわめて困難となる。上記の1)2)3)が「合理的経済人」としての現在の判断・行動を正当化しているからである。
 この慣性力を帰るには、果たして何が必要となるだろうか? 

 
(ケインズ、1937年論文)
 私たちは、そのような環境の中で、合理的な経済人としての私たちの面子を保つように行動することがどのようにして出来るのだろうか? 私たちはその目的のために多くの技術を考案してきており、そのうち最も重要なものは次の三つである。
 (一)私たちは、過去の経験の客観的な検討によって過去の経験がこれまで将来のガイド〔案内役〕であったことを示すよりも、現在が将来についてのはるかに役に立つガイドであると想定する。言い換えれば、私たちは私たちの何も知らない現実の性格について将来の変化の展望をおおかた無視するのである。
 (二)私たちは、価格の現在の状態および現存する産出物の性格に表現されているような見方の現存の状態が将来の展望の正しい集計にもとづいており、そのため私たちは何か新しいことや適切なことが視野に入って来ないか、入って来るまでは、それをそのようなものとして受け入れることができると、想定している。
 (三)私たちの個人的判断に価値がないことを知りつつ、私たちは、おそらくよりよく情報を得ている自分以外の世界の判断をよりどころとする。つまり、私たちは、多数派または平均の行動に従おうと努力する。各人が他人を模倣しようとしている諸個人からなる社会の心理学は、私たちが厳密に「伝統的」判断と呼ぶことのできるものに帰着する。

賃金圧縮が続く日本経済 欧米諸国から見たら異常な事態は何故続くのか?

 すでに多くの論者が明解に示しているように、欧米諸国から見て、近年の日本経済が異常な(あるいは特徴的な)状態にあることは、説明するまでもないかもしれない。このブログでも何回か取り上げたが、日本に特徴的な事態とは、名目賃金がほとんどまったく増えないという事実にある。これは日本全体の賃金総額についても、従業員一人あたりの賃金率(一年間または一時間あたりの賃金額)についてもあてはまる。

 これが日本の特徴であり、欧米では必ずしもそうではないことは、例えば米国の例を見るだけでも納得できるだろう。
 そこで次に米国の BEA (経済分析局)のデータから作成した図を2つほどあげておく。

 まず図1は、従業員一人あたりの名目賃金率 w(年間賃金/年)と労働生産性 y(従業員一人あたりの実質国民生産)を示す。
 図から名目賃金率(貨幣賃金率)が概ね労働生産性の成長率より早いペースで上昇していることがわかる。(ちなみに、日本では、労働生産性が成長しても、名目賃金率は上昇していない。それどころか21世紀に入っても趨勢的に低下してきた。)
 しかし、労働生産性以上に名目賃金が上昇したら、企業の利潤が圧縮されることになるのではないだろうか? もし企業が販売価格を据え置けば、その通りである。しかし、企業は価格を引き上げることによって、利潤圧縮を防ぐことができる。そして、図2が示すように、米国企業はその通りに行動してきた。(ただし、ここでは企業価格ではなく、消費者物価指数の変化率をあげている。)
 もちろん、消費者物価が上がれば、その分だけ、実質賃金には抑制効果が働く。したがって実質賃金率の成長率は、図1に示したものより少し低くなることは言うまでもない。(ただし、それでも実質賃金は労働生産性の上昇とともに上昇する。)

 このことから何がわかるだろうか? ここでは次の2点だけ指摘しておく。
 ・物価は、利潤シェアーが一定ならば、労働生産性を超えた名目賃金の上昇によって生じる。日米の経済パフォーマンスが異なるのは、まさにこの点に関係する。すなわち、近年の米国では、名目賃金が労働生産性より上昇しており、実質賃金も上昇してきた。これに対して日本では労働生産性の上昇があっても、ずっと賃金抑制が行なわれてきた。それは賃金デフレを生じるほどの抑制であった。
 ・「異次元の金融緩和」政策が依拠しているマネタリズム(貨幣数量説)は、すでに1980年代に米英の両国で実験され、破綻した。それは失敗だったことは良識的な経済学者なら十分理解している。中央銀行のマネタリーベースを増やしても、それが(国内的要因による)物価上昇を引き起こすことも、まして景気を刺激することもない。
 物価はたしかに「貨幣的現象」であるが、それは現代の「企業者経済」「営利企業体制」では賃金が貨幣的現象であることと関係している。
 日本企業が1995年『新時代の「日本的経営」』(日経連)で表明した態度を変更する以外に方法はない。プラグマティズムに立つアメリカ企業は、とうの昔にそのことを学習してきた。


 図1 米国における名目賃金率と労働生産性の成長率


 図2 消費者物価指数と(名目賃金・労働生産性の成長率の差)

 出典)USA, Bureau of Economic Analysis のデータより作成。
 注)p と (w-y) (成長率)が一致せず、前者が高いのは、米国でも少しづつ利潤シェアー  が高まっていることを示している。しかし、賃金圧縮の程度は日本ほどではない。
  

2015年10月30日金曜日

ケインズの「乗数」 なぜ式 m=I/Y で示されるのか?

 1937年論文は、ケインズがなぜ(設備)投資 I を独立変数的に取り扱い、「乗数」を式(m = I/Y)で示したのかを、説得的に説明している。
 もし私たちが将来の変化について確実かつ正確に知っており、かつ投資 I が将来期待される消費支出 C に比例的に行なわれるならば(I=kC。したがってまた産出額=総所得に対しても比例的に行なわれるならば 、I = mY)、不均衡(失業など)を拡大するような経済の変動は生じがたいだろう(つまり、乗数 m=一定)。
 しかし、 投資が単に消費支出の変化に対応するのではなく、消費支出以外の不確実な諸要因によって大きく左右されるならば、乗数自体が大きく変動し、それにともなって経済の均衡・安定にも大きな変化が生じることとなる。このような不確実な要因による投資量と乗数の変動という事実こそがケインズの真意だった。
 ケインズの乗数は、単純にある特定期間における産出高=所得額(Y)と投資との、あるいは消費支出(C)と投資との関係である。もし投資支出が増え、その結果、機械生産が増え、生産能力が上昇すれば、それと同時に乗数が上昇し、それは最終的には不均衡(企業者にとって生産に引き合う消費財の量を大幅に超える消費財の生産能力の増加)をもたらす蓋然性が高い。また逆に、もし投資支出が減り、その結果、機械生産が減少し、生産能力の成長が抑制されれば、それと同時に乗数が低下し、それは最終的には不均衡の縮小(需要、すなわち企業者にとって生産に引き合う消費財の量が消費財の生産能力に接近すること)をもたらすであろう(もちろん例えば1930年代のように、消費支出が減少すれケースは別である)。これが現実の 経済社会の姿である。

 このことはまた、この乗数の理論が波及論的に理解され、俗に乗数「効果」と呼ばれるようになったものとは異質であることを示している。ケインズは、いったい何時まで続くのか分からず、最終的には投資に応じた消費需要を必ず産み出すような「波及効果」を(少なくとも1936年以降は)棄却している。均衡論的・波及的乗数理論の理解がケインズの真意ではない所以である。

2015年10月29日木曜日

ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 3

 ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 3

 要約
 産出高全体の需要と供給、資本財と消費財の産出高


                   三
 伝統的理論と私との次の相違点は、産出高全体の需要と供給の理論を作り出す必要はないという伝統的理論の明らかな確信に関係している。すぐ上で述べた理由で生じる投資の変動は、産出高全体に対する需要に、したがって産出高と雇用の規模になんらかの影響を及ぼすだろうか? 伝統的理論は、この質問にどのように答えることができるだろうか? 私の考えでは、それはまったく答えることができず、この問題に一つの思想を与えることがなかった。有効需要、すなわち産出高全体に対する需要の理論は、百年以上もの間ずっとまったく無視されてきたのである。
 この問題に対する私自身の答えは、新しい考察を内包している。私は、有効需要が二つの要素ーー上で説明したように決定される投資支出と消費支出ーーからなるという。さて、消費支出の量を支配するのは何だろうか? それは主に所得水準に依存する。人々の支出性向(と私が呼ぶもの)は所得分配、彼らの将来に対する態度、そしてーーおそらくより小さい程度にであるがーー利子率のような多くの要因に影響されている。しかし、主として、通常の心理的法則は、総所得が増加するときには、消費支出もまた、それよりいくらか小さい程度に、増加するというものであるように思われる。これはきわめて明白な結論である。それは単純に言えば、所得の増加がある比率で、つまり支出と貯蓄の間で分割され、また私たちの所得が増加するとき、これが私たちに前より少なく支出させるか、あるいはより少なく貯蓄させるかさせる効果を持つだろうということはほとんどありそうにない、ということに相当する。この心理法則は、私自身の思想の発展において最も重要なものであり、私の考えでは、私の著書で主張されたような有効需要の理論にとって絶対的に基本的なものである。しかし、いまのところ、わずかな批評家またはコメンテーターがそれに特別の注意を払っただけである。
 このきわめて明白な原理から導かれるのは、一つの重要な、だがよく知られていない結論である。所得は、一部は企業者が投資のために生産することによって、また一部は企業者が消費のために生産することによって増加する。消費される量は、このようにして生まれた所得の量に依存する。そこで、企業者にとって生産に引き合う消費財の量は、企業者が生産する投資財の量に依存する。もし、例えば、公衆に彼らの所得の一〇分の九を消費財に支出する習慣があるならば、次のようになる。すなわち、もし企業者が彼らの生産している投資財の費用の九倍以上の費用で消費財を生産するならば、彼らの産出高のある部分はその生産費をカバーする価格では売ることが出来ない。というのは、市場における消費財は、公衆の総所得の一〇分の九以上の費用を持つことになり、それゆえ消費財に対する需要(これは定義上一〇分の九にすぎない)を超過するであろう、からである。かくして企業者は、自分たちの消費財産出高を、彼らの現在の投資財産出高の九倍をもはや超えない量に縮小するまで損失をこうむるだろう。
 定式化は、もちろん、この例解のようにそれほど単純ではない。公衆が消費しようと選択する所得の比率は、一定ではなく、ほとんどの一般的な場合には、他の要因もまた関係している。しかし、いつも、生産に引き合う消費財の産出高を投資財の産出高に関係させる多少ともこのような種類の定式は存在する。そこで私は自著で「乗数」という名前の下にこれに注意をうながした。消費の増加がそれ自体としてこのさらなる投資を刺激しやすいという事実は、ただこの議論を強化するものである。
 企業者にとって利益のある消費財の産出水準が、この種の定式によって投資財の産出に関係づけられるべきであるということは、単純で明白な性格の想定に依拠している。その結論は私にはまったく議論の余地がないように見える。だが、そこから導かれる帰結は、よく知られていないと同時に、きわめて大きい重要性を持つ可能性がある。
 この理論は次のように言うことによって要約できる。すなわち、公衆の心理を所与とすると、産出高と雇用全体の水準は投資の量に依存する、というものである。私がこのように表現するのは、これが総産出高の依存する唯一の要因だからではなく、突然の広範な変動に最もさらされているあの要因〔投資〕を直近原因(causa causans)と見なすことは複合システムでは通常のことだからである。もっと包括的に言うと、総産出高は貯蓄性向に、貨幣量に影響を及ぼすような通貨当局の政策に、資本資産の将来のイールドに関係する信任の状態に、支出性向に、そして貨幣賃金の水準に影響する社会的要因に、依存する。しかし、これらのいくつかの要因の中で、最も不確かなのは、投資率を決定する諸要因である。というのも、私たちがきわめてわずかしか知らない将来についての私たちの見方の影響を受けるのがそれら〔投資率を決定する諸要因〕だからである。
 したがって、私の提供するこの理論は、産出と雇用が何故そのように変動しやすいかという理論である。それはこうした変動を避け、着実な最適水準に産出を維持する方法に関する既成の治療法を提供するものではない。しかし、それは、当然のことながら、どんな所与の環境でも、雇用が何故今の状態にあるのかを説明するのであるから、雇用の理論である。当然ながら、私は、予測に関心があるだけではなく、治療にも関心がある。また私の著書の多くのページが後者にささげられている。しかし、私は、治療のための自分の提案が、明白ながら、完全にはしあがっておらず、予測とは異なった地平にあると考えている。私の提案は最終的なものというわけではない。それらはあらゆる種類の特別な想定に委ねられており、必然的に時代の特別な条件に関係づけられている。しかし、伝統的な理論から離れることについての私の主要な理由は、これよりははるかに深いところにある。それらは高度に一般的に性格のものであり、最終的なものというわけではない。
 そこで、私は伝統的な理論から離れた主要な根拠を次のように要約する。
 (一)正統派の理論は、私たちが実際に持っているのとはまったく異なった将来の知識を持っていると想定している。この誤った合理化は、ベンサム派の計算可能性の線に沿うものである。計算可能な将来という仮定は、行動の必要のために私たちが採用することを余儀なくされる行動原則の誤った解釈を導き、また完全な疑い、未決定、希望および恐れといった隠された要因の過小評価に導く。その結果は、誤った利子率の理論だった。ローンを持つことと資産を持つことの選択の利益を等しくする必要性は、利子率が資本の限界効率に等しくなることを要求するとうのは、その通りである。しかし、これはどのような水準で平等性が有効となるかを私たちに教えることはない。正統派の理論は、資本の限界効率がペースを設定するものであるとみなす。しかし、資本の限界効率は、資本資産の価格に依存する。またこの価格が新規投資率を決定するのであるから、それは、均衡においては、ただ所得水準の一つの与えられた水準とのみ一致するだけである。かくして、資本の限界効率は、貨幣所得水準が与えられなければ、未決定である。貨幣所得水準が変動可能なシステムでは、正統派理論は、解を与えるために必要なものを欠いた一つの等式である。疑いなく、正統派システムがこの矛盾を発見できなかった理由は、それがいつも秘密裡に、所得が所与である、すなわちあらゆる利用可能な資源の雇用に対応する水準にある、と想定していたためである。換言すれば、それは秘密裏に、貨幣政策とは利子率を完全雇用と両立できる水準に維持するための政策であると想定していたのである。したがって、それは雇用が変動しやすい一般的なケースを取り扱うことができない。かくして、資本の限界効率が利子率を決定するという主張に代えて、(そのケースの完全な陳述ではないとしても)資本の限界効率を決定するのは利子率であるというほうがより真実である。
 (二)正統派理論は、産出高全体の供給と需要の理論に対する必要性を無視しなかったならば、いままでに上記の欠陥を発見していただろう。私は、多くの現代経済学者が実際には供給がそれ自らの需要を作り出すというセイ法則を承認しているかどうかを疑わしく思う。しかし、彼らは密かにそれを想定していることに気づかなかった。かくして乗数の根底にある心理法則は注目されなかった。企業者にとって生産に引き合う消費財の量は、企業者にとって生産に引き合う投資財の量の関数であることは観察されてこなかった。私の想像では、その説明は、どの個人も自分の所得の全体を消費に使うか、それとも直接または間接に新規に生産された資本財を買うのに使うという暗黙の想定の中に発見されるはずである。しかし、ここでも繰り返すが、より古い経済学者は明示的にこれを信じていたのに、多くの同時代の経済学者が実際にそれを信じたどうか、私には疑わしく思われる。彼らはその帰結に気づかずに、これらの古い思想を投げ捨ててしまったのである。
                ジョン・メイナード・ケインズ
                   ケンブリッジ、キングス・コレッジ