2019年7月27日土曜日

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 「経験」と「歴史」はどう違うか?
 
 その前に、歴史はおろか、経験にさえ学ぼうとしない人もいるかもしれないと思うと、ともかく学ぼうとするのはよほどましということになるかもしれないと思う。

 さて、夏目漱石の「創作家の態度」というエッセイは、漱石としてはめずらしく一種哲学的な趣のあるエッセイだが、ちょっと読んだところでは、その辺にある哲学書の解説というよりは、自分の脳で考えたものらしい。ただ、その中で最初の部分に「ジェームスと云う人」に言及しており、その人の「吾人の意識するところの現象は皆選択を経たものだと云う事」を紹介している。後の方になると、かなり難しい議論を展開しているが、これなどは最初の導入部だけあってずいぶんと分かり易い。
 「経験」というのは、皆、個人個人の生涯(life-history)の限度中で得られた体験であることは言うまでもないが、それだけでなく、何らかの「選択を経たもの」であるという制限・制約を受けていることになり、歴史に比べていっそう狭くるしいものであることはわかる。しかも、個々人にこうした選択をさせる脳(意識)の働きは、漱石が別の処で論じている「模倣」、つまり社会学でいうところの「社会化」、広い意味での「教育」によって条件づけられており、当該個人を育ててきた社会(国、地域、一族、家族など)の「バイアス」(ある傾向への偏り)、「先入観」(preconception)、「思考習慣」--これはソースティン・ヴェブレンの用語から借用している--の働きに関与していると言えるだろうから、国籍や地域性によって異なるということもできよう。
 またこれとはことなった方向から考えることもできるように思う。
 「柳の下にドジョウはいない」ということわざがあるが、これは、ある人がある時にたまたま柳の木の下を流れる流れにドジョウを見つけ、獲ることが出来たとしても、柳の下を流れる川で常にドジョウを捕まえることができるわけではないことを示したものである。言うまでもなく、仏教の有難い御経をひもとかなくても、すべての現象・事象は相互依存的に生成する(dependent-rising)という縁起が成り立つことは、ちょっと哲学的な思考をすることができる人には自明の理である。ある時に川にドジョウがいたのは、そのための他の諸条件が整っていたからに他ならない。私が子供の頃は、春まだ田圃の耕作が始まる前だったか、刈り取りが終わった後だったかよく覚えていないが、シャベルで田圃の土をかくとドジョウがうようよといたものだが、いまはいない。強力な殺虫剤、多分今では使用されていないホリドールという強烈な薬品によって絶滅したからであろう。そういえば、昔は田圃のあちこちにいたタニシ(貝)もいない。ただ、源氏ホタルのエサになる「ビンドジ」という巻貝は郷里の家の後ろの池とも側溝とも言えない処に細々と生息しており、そのために我が旧家は貴重な源氏ホタルの発生地となっている。

 つい話しがそれてしまうが、経験とはどのようなものかを説明、いや自分で納得するために考えながら書きつらねているため、ついそうなってしまう。
 さて、以上の「経験」と対比すると、おそらく歴史とはそうした個人個人の選択を経た経験を越えるものということになろう。でなければ、この文章にとって都合が悪い。
 それはむしろいくつかの層からなる人々(社会)の経験を脱構築する(deconstruct)ものでなければならない。それは少なくとも、様々な人を特定の方向に偏らせる諸要因を自覚化させるものでなければならず、したがってある選択をもたらした意識上の諸要因を明らかにするものでなければならない。
  またそれは別の観点から言うと、相互依存的な世界をそのようなものとして見直し、その相互依存関係、あるいは因果関係の実相にせまるものでなければならない。

  さて、自分は何故このようなどうでもよさそうなことにこれほどにこだわっているのか?
 それは、私のちょっとした経済学上のこだわり(発見というほどのものではない。というのはすでに多くの人が指摘しているようにも思うためである)に解決の糸口を見つけることができるかもしれないと考えるためである。その発見というのは、経済が例えば「オランダ病」や「イギリス病」、そして現今の「日本病」などの病に罹った場合、 人々は合理的に行動し、その病から脱出する手段を簡単に見つけることができるのではなく、むしろ反対に悪化する方向の行動(経済的行動にとどまらず、政治的選択を含める)を取ることが往々にしてありうるということに他ならない。
 さすがに、ケインズは、『一般理論』の本論で、彼の基礎理論を展開し終えたのち、最後の部分でこれに取り組んでいるように見える。彼の見解は「思想」と「与えられた利害関係」(idea and vested interest)というものである。ただし、この両者は別々のものであるかのように捉えられているかもしれないが、分かちがたく相互に密接に関連していると捉えるのがよいように思う。また彼が本論中で指摘した「合成の誤謬」という論理的誤謬も両者の関連を歴史の中で具体的に把握するためには、論理的な環として重要なことであるように思われる。しかし、従来の経済研究の中では、この側面を深めることはあまり追求されてこなかったように思う。
 
 ともあれ、いわゆる経済学研究が政策科学として成立するためには、こうした制度派的な視角からの分析が必須であるように思う。

2019年7月23日火曜日

漱石もマルクス『資本論』を読み、金権腐敗の輩に筆誅を加えていた 私も見習わねば・・・

 1997年に財界(大企業)が雇用戦略を転換し、労働条件の改悪、賃金抑制を実施しはじめたことは、経済学をやっている人ならほぼ誰でも知っている。実際、賃金率は名目・実質ともに低下しはじめた。それがデフレ不況(本質的には賃金デフレ)の開始である。当時、比較的ましだった日銀は、それに警鐘をならした。賃金低下→購買力低下→有効需要不足→不況→デフレ圧力→賃金低下のスパイラルを懸念したからである。
 本来なら政府も「そんな馬鹿なことをしてはならない」と諭すべきところだった。ところが、橋本、小泉「構造改革」(リストラ)は、諭すどころか、推進さえした。
 そして、多くの有権者が「構造改革」というキャッチコピーに踊らされた。マイナス思考の構造改革を批判する私などがむしろ守旧派と非難される始末だった。しかしである、1906、7年頃になるとさすがに雰囲気が変化しはじめてきた。賃金低下、非正規雇用の増加に疑問を持つ人が増え始めたのである。以前は私の言うことに聞く耳をもたなかった人が「佐藤さんの言うことが分かってきました」という人も現れてきた。その間、実に10年もかかっている。そしてその間に非正規雇用は増え、賃金水準は低下し、出生率は低下しつづけ、ブラック化する企業が増えた。
 今また「アベノミクス」なるキャッチコピーに踊らされている人がいる。たしかに小泉「構造改革」と異なっているところがある。それは盛んにデフレ克服、「物価上昇」を叫んでいるところだ。しかし、人々(特に零細業者や労働者)の名目所得(賃金、年金)の引き上げが先行する物価上昇(例えば名目所得が年に2パーセント上昇し、その結果1パーセント物価が上昇するなど)ならともかく、金融操作でまず物価を2パーセント引き上げるなど、愚の骨頂だ。人々の所得が増えないままに物価が上がったら、実質所得が減り、そして人々はますます節約するばかりである。
 私が元持っていた新潟市のある社会人経済教室では、年金生活者の一人がそのことに激怒さえしていた。
 アベノミクスは実際には「アホノミクス」であり、「アベコベノミクス」である。それが日本の社会経済に活気をもたらすことは原理的に言ってありえない。というのは、それは、人々、特に日本の80パーセントを占める個人業者、中小零細企業で働く人々、年金生活者の労働条件と生活をよくする方策ではないからである。それは以前として下請け企業や労働者をt犠牲にして大企業に内部資金をせっせとと蓄えさえ、その内部資金を守るための官制の株価を維持する政策にすぎないからである。
 現在の安倍政治は、金権政治(plutocracy)であり、一部の財界(グローバルな巨大企業)の利益をはかるものにすぎない。それを支える政治屋はいつもは金満家のご機嫌をうかがいながら、選挙のときだけは有権者に愛想わらいを浮かべる。その証拠に、消費増税は財界のご意向であり、内外金融利害の圧力によるものであり、それによってのみ大企業や富裕者の減税の穴埋めができているという「事実」がある。ただし、これが「事実」だということは、ここでは詳しく展開しません、よ。

 ここまで書いてきたとき、ふと明治・大正時代に同じようなことを述べた文学者がいたことに気づきました。
 夏目漱石です。彼もまた「金権腐敗」の輩が多い、世が激しい格差社会だということに激怒し、ペンをもって「筆誅」を加えんとしていたわけです。実は、漱石は、経済社会のことについては、相当の知識をもっており、また様々な社会経済事象を考え抜く力を持っていました。これについては、近く新しい記事を書いて、紹介したいものです。
  私などはもちろん文才は漱石の足元にも及ばず、漱石の思考力にひれ伏すしかありませんが、せめて「筆誅」を加えんとする志だけは漱石にまけないようにするつもりです。



2019年7月22日月曜日

安倍政治の転落のはじまり

参院選挙が終わった。

 自民党が議席を減らし、改憲勢力が3分の2を割り、ひとまずはほっとしたが、これは安倍政治の転落の始まりとなることは間違いない。
 まず消費増税はかなり長期の消費不況をもたらすだろう。東京オリンピックが終わったあと、いっそうの深刻な状況が訪れる可能性が高い。
 三党合意(社会保障の充実のための消費増税)を反故にして、年金やその他の社会保障費を削減してきたため、多くの人に犠牲が転嫁されている。これも景気悪化に寄与する。
 安倍晋三の大企業優遇政策(法人税減税)の穴埋めに消費税が使われており、また米国からの数兆円に達する武器の爆買など、深刻な財政問題も浮上する。
 マイナス金利を伴う日銀の異常な金融緩和策によって、ほとんどの銀行は金利収入の道を失い、危機的な状況に陥っている。利潤を取るために、従業員(銀行員)に無理なノルマを課し、社会的に許されない営業活動に手を出している。
 年金財源や日銀マネーを使った株価の官制相場もいつ崩壊するかわからない。
 円安誘導はドル高・輸入品物価高をもたらし、実質賃金や支給年金額の実質的低下を招いてきた。一時は「お友だち」の経団連(要は大企業)が賃金を引きあげるふりをしてきたが、以上のような将来不安から、大企業が従業員の労働条件を悪化させ、賃金を抑制して貯めてきた内部留保(利益剰余金)をひたすら大切に守ろうとしてきた。しかし、株価が低下し、虎の子のマネー資産が減価すれば、一種のパニックが生じることになるであろう。
 
 それでも、いままで安倍政権がもってきたのは、「偽ぞう・捏ぞう・安倍晋ぞう」と揶揄される欺瞞政治、マスメディアに対する圧力(政権の広報機関化)などであり、多くの人を「マインド・コントロール」状態に置いてきたからである。しかし、日本のマスメディアの不透明性(政府からの圧力による)は、国連の批判を浴びるにいたっている。また中国、韓国、北朝鮮に対する日本人の不信感を増幅し、ナショナリズムを煽動してきたことが一定の「成果」をあげたためであろう。これは神がかりの異常な政治家が自己の真の姿を糊塗するためにしばしば使う手である。しかし、それもいつまで通用するかはわからない。
 
 安倍政治が終わるときには、景気後退が引き金になり、スパイラル的に様々な問題が露呈される可能性がきわめて高くなる。事物は相互に複雑に依存しているからである。そのときに、多くの人々はそれまで隠蔽されていた「アベノミクス」(アホノミクス、アベコベノミクス)の正体をいやでも知らされることになるであろう。

 もちろんそれには犠牲が伴うであろう。しかし、それはアベノミクスなる異常な政策が6年もの間、実施されてきたことの報いである。


2019年7月19日金曜日

 神奈川県参院選

 立憲野党の2議席(立民・牧山、共産・あさか由香)獲得を願って、
 2人目・あさか由香候補への投票で実現を という横浜駅西口の集会







 おそらく初めてのことと思いますが、
  無党派の前川喜平さん(前文科省事務次官)
  政治学者の山口二郎さん(法政大学)
  れいわ新選組の山本太郎さん
 この3人が横浜駅西口に応援に来てくれました。
 無党派、他党派の人が応援に来てくれたのは、歴史的な出来事ではないでしょうか?

 前川さん
  日本社会・経済、民主憲法を破壊する安倍政治をやめさせる。
  安倍政権の9条改憲(自衛隊の加憲)は恐ろしい。すでに安保法制という違憲立法を制定し、それを合憲化するだけです。アメリカの「有志連合」として海外に自衛官が派遣される。そして「非常事態」、これで憲法は停止されます!!
  あさか由香さんの当選で立憲野党の2議席を実現しよう。
  「偽ぞう・捏ぞう・安倍晋ぞう」をやめさせる。

 山本太郎さん
  日本社会・経済・憲法を破壊してきた安倍政治を終わらせる。
  中小零細企業やそこで働く人々を長時間働かせ、絞り取り、大企業に貢いできた自公政権をおわらせなければならない。人々の所得が増えないから、消費も停滞し、企業は設備投資をしない。日本が衰退する政策を自公政権がすすめてきた。
 消費税をゆくゆくは廃止する。
 庶民が普通に心配なく働ける社会を作ることが求められている。
  「一枚目の投票用紙には、あさか由香。」
  「二枚目には山本太郎と、もし嫌いなら日本共産党と。」


 会場は熱気に溢れていました。
 私も日本を破壊してきた小泉構造改革、それを引き継いでいる安倍政治、国民・勤労者を絞り取り、巨大企業にひき渡す政策に終止符をうち、明日に希望を持てる社会を実現してほしいと思います。 そのためには有権者一人一人の投票が必要です。

 「消費増税、しょうがない」などと諦めるのはやめましょう。
  帰り道、松沢候補(維新)の旗に「何でもかんでも反対に野党」という文句が書いてありましたが、意味不明です。
 ことごとく国民を疲弊させる反国民的・売国的政策をやっているのは、自公とその補完政党=維新です。彼らこそ進歩的な政策を邪魔している守旧派です。
 いまや、日本は「普通に働けば暮らせる社会」をがスローガンとなるような国に落ちこぼれてしまいました。20年以上も、庶民を絞れるだけ絞って、景気を悪化させながら、そこから生まれた利潤を大企業(中小零細企業も犠牲者です)にまわしてきました。
 景気が悪いから、大企業は設備もしません。
  それにしても「普通の生活」が多数者の望みとなるとは、日本もずいぶん落ちぶれたものです。しかし、そう言わざるをえないほどになりました。
 私は偏狭な党派心からこのブログを書いたことは一度もありませんし、いまもそうです。8時間働いたら普通に生活できる社会、まずは、このつつましやかな希望を実現して欲しい政治家を国会に送りたいと思います。
 
 あさか由香さん、それに前川喜平さん、山口二郎さん、山本太郎さんのスピーチ内容は、これまで私がブログで述べてきたこととほとんど同じです。
  私があさか由香さんを支持こそすれ、反対する理由はありません。
 一方、安倍政治(偽ぞう・捏ぞう・安倍晋ぞう)は本当にイヤです。
 安倍晋三が嫌いという人は私の周りにも、自民党に投票してきた人の中にもいます。しかし、もし自民党・公明党に投票したら、それは安倍政権を支持したことになります。
  

2019年7月17日水曜日

坂口安吾「坂口人生相談 その6 暗き哉 東洋よ」

 以前たまたたま読んだ坂口安吾の「安吾新日本地理」シリーズが面白くて、しばしば安吾のエッセイを読むようになったが、「安吾人生相談」に「その6 暗き哉 東洋よ」と題した文章がある。

 この文章は、ある高齢の女性の自殺とそれをめぐる夫たち(高名な学者とその弟子達)--「王様とそれをかこむ神がかりの徒」と坂口は言う--の対応を扱ったものだが、それはともかく、安吾は最後に次のようにつづる。

 人間の倫理は「己が罪」というところから始まったし、そうでなければならんもんだが、東洋の学問は王サマの弁護のために論理が始まったようなものだから、分からんのは仕方がないが、
 ああ、暗い哉。東洋よ。暗夜いずこへ行くか。
 オレは同行したくないよ。

 マスコミではほとんど報道もされないが、昨今も高齢者の自殺があいついでいるらしい。耳にしたくないような痛ましい死に方をした高齢の女性もいる。その時にどのような思いだっただろうか。
 
 ああ、暗い哉。東洋よ。暗夜いずこへ行くか。
 オレは同行したくないよ。

 もちろこの東洋には日本も入っている。
 そして、これは私の昨今の気持ちを表現するものでもある。

権益と思想 ヴェブレン・ケインズ・ガルブレイス

 自然科学・社会科学を問わず、偉大な科学者には、徹底して事物を観察し、考え抜く力がある。これは言わずもがなかもしれない。が、それだけではなく、普通の人があえて疑問としないことを問うという能力を備えているように思う。そもそも問うことなしに、観察も考察もないだろうから、これは当然のことかもしれないが、必ずしも明確に意識されていないかもしれない。
 問いには、はじめて接する事柄に対する疑問もあろうが、多くの場合、世界事象はすでにわれわれの前に現出していたものである。つまりは、当たり前のことであり、多くの場合は問うに値しないようなもの--常識--である。例えば太陽が東に上り、西に沈むことは常識であり、日々の生活にその理由・事情を明らかにすることは必ずしも必要ない。もしそのような常識事を明らかにすることが必要な事情が生じたとするならば、よほどの事態あるいは変化が生じたということななるであろう。
 結論的に言えば、問いには「脱構築」(deconstruction)が前提となっているように思う。 日常的に私たちの前に現出している事態と、その把握方法、つまり常識を問いなおすことが「問い」である以上、このことは同義反復といってもよいほどのものであろう。
 
 ケインズは、『貨幣・利子および雇用の一般理論』(1936年)で、いわゆる「有効需要」の理論とそれにもとづく貨幣・利子・雇用の理論を構築したが、そのためには、彼を育てた常識的な理論(新古典派理論)との格闘を必要とした。ケインズの場合、新古典派の中から生まれた自己批判として『一般理論』を構築したのであるから、その格闘の程度は、例えばマルクス経済学--つまりあらかじめ脱構築を果たしていた経済学--から出発したカレツキに比べて、はるかに激しかったはずである。私などは、カレツキが比較的簡単に彼の有効需要理論を展開しえたのに、何故、ケインズがまわりくどい説明をしているかが理解不能とも言えるほどである。

 そのケインズであるが、『一般理論』の最後の諸章で、何故人々は間違った政策--というのは不況時に不況を深刻化させるような政策ー-を実施しようとするのかを論じている。私にとっては、理論本体よりもこちらの方がより興味深く感じるが、一般的には必ずしもそうではないかもしれない。ともあれ、この問いに対して、ケインズは「権益」と「思想」(vested interest and idea)という回答を与えている。この権益と思想という用語であるが、「権益」も「思想」も適訳ではないように思う。特に vested interest というのは、各人がそれそれの状況の中で賦与された利害や利害関係のことだから、「権益」はあまりふさわしくない。例えば、私事になるが、私は数年前まである大学に勤務しており、給与所得を得ていたが、したがってその当時の私の vested interest は、深くその事(大学をとりまく状況など)にかかわっている。それを「権益」というのは、少々オーバーである。誰でも必ず何らかの意味で、関連で権益を持つ。だが、これについては後で詳しく検討することにする。

 しかし、人々が現実の経済活動とどのように係わっており、またその中でどのような意識の傾向(bias*, preconceptionなど)を持つにいたるか、を深く問うたのは、ケインズよりもっと先の人、アメリカの経済学者、ソースティン・ヴェブレンである。このヴェブレンの経済学は、弟子のガルブレイスに受け継がれている。後にガルブレイスはケインズの理論に大きな影響を受けたが、ヴェブレンの問いを確実に引き継いでいた。

 そして、現在、私が最も関心を持つに至ったのが、この「権益」と「思想」であり、また両者の関連であり、かつ後者が持つ傾向・特徴(bias*, preconception)がどのようにして形成されるか、という問題群である。

 *bias という言葉であるが、日本語で「偏見」とも訳される。しかし、ヴェブレンのbias には非難めいた響きはない。それぞれの社会がその特性に応じて特定の「かたより」 「傾向」を持つというにすぎない。それは個々人にとっては彼が生まれついた社会から与えられた先入観(preconception)でもある。 

 といったところであるが、ヴェブレンの著作は、目下、翻訳中であり、その一部はすでに本ブログでも公開したが、簡単な解説も順次公開したい。
 

参院選に寄せて 自公(+維新)に投票してはならない理由

参院選・神奈川11区
  4人区ですが、当選の確率の高い立憲野党の候補は、牧山ふみえ さん(立民)、あさかゆか さん(共産)の2人です。国民民主党の候補も立候補していますが、あの小池希望事件のことがあり、また何故か神奈川県・国民民主党は「市民連合」の呼びかけに応じてきませんでしたので、旧民主党・民進党支持者の投票をあまり期待できないでしょう。
 
 19日12時から、前川喜平さん(前文科省事務次官、安倍・加計不正事件を告発した人)、そして山口二郎(政治学者)が「あさかゆか」さんの応援にかけつけてくれるようです。
 
  19日12時から
  横浜駅西口高島屋前
 
  是非、あさかさんの当選を実現し、半数以上を立憲野党で実現して欲しいものと思います。
 もし仮に自公(+維新)が3分の2以上をとったならば、国民にとっては悪夢ともいうべき事態が待ち受けることになるでしょう。つまり、
 1,軍事大国化
 現在でも、安倍首相は一方では外国の脅威を煽り、他方では米国(トランプ)のいいなりに、兵器を爆買し、何兆円も浪費しています。これほど反国民的(あえてネトウヨの言葉を使えば「反日」的なことがあるでしょうか?
 戦争になれば、死ぬのは自衛官であり、国民です。したがって政治家の使命は、外交を通じて世界全体の軍縮に努力することです。このことを20世紀の歴史は大きな教訓として教えています。
 2,消費増税と景気の悪化
 8%から10%への消費増税は、かりに国全体の課税対象額が350兆円として7兆円ほどの可処分所得を国民から奪うことになるでしょう。
 もちろん、国が社会保障などの国民の生活をよくするために使用するならば、景気の悪化はそれほど懸念されないかもしれません。
 しかし、あの改竄・隠蔽・ 虚偽の安倍政権です。8%への増税の時もそうでした。しかも、報道されているように、安倍政権は7兆円の年金減額を計画しています。
 さらに、安倍政権は、消費増税の裏でこっそりと、巨大企業の法人税減税を実施してきました。前回の消費増税もその穴埋めのために使われています。
 3,九条改憲
 安倍首相は、九条に「自衛隊」を付けくわえ、違憲論に終止符を打つと言っています。またそれによって何も変わらないと言っています。
 しかし、これも虚偽です。
 まず「自衛隊」というような軍事組織名を明記している憲法が外国にもあるでしょうか? 他の省庁名でも書かれていません。もし書き込めば、それは憲法の性質上、権力が 国民を様々な目的(徴用など)のために使役できるようになります。国民は、それを拒否することができなくなります。恐ろしいことです。
 二番目に、安倍政権は、成立するや、「解釈改憲」を行い、集団的自衛権の行使を容認してきました。2015年には安保法制も強行成立させ、着々と軍事国家化をすすめています。もし改憲が行われれば、これまでの「専守防衛」はかなぐり捨てられ、自衛官が日本の関与しない 戦争のために派遣されることもありえます。
 それはこれまで戦争に派遣されることがなく、災害救助を行う組織だからと、安心して自衛隊に入隊していた人を不安にさせています。
 私の住んでいる市には防衛大学校がありますが、すぐ近くの元自衛官の人が私にこっそりと「いま防衛大学校では大変らしいよ」と教えてくれました。
 また先日の市民連合の主催した集会には、現職の自衛官の人も参加して、改憲に反対する意思を示してくれました。

 4,アベノミクス(金融緩和政策、成長戦略)
  これについては、これまでもたびたび言及してきたので、詳しくは述べません。
 ただ、それが様々な弊害をもたらしており、例えて言えば、一度麻薬を使った人がそこから抜け出せないような状態になっているとだけ、言っておきます。
 具体的には、次の通りです。
 成長戦略なるものは、ほとんどが「世界一企業が自由にできる」という目標のために実施されており、それは企業のブラック化を推し進めるものでしかありません。
 また、金融緩和は、円安・ドル高をもたらし、輸入品価格の上昇を結果しました。たしかに物価は上がったのです。しかし、それが景気の好循環をもたらしたでしょうか? 
 逆です。所得が増えないのに物価が上がるため、庶民は財布の紐を固くしめました。そのため、消費増税とあいまって、景気は悪化。実質賃金も低下しました。
 そこで、安倍政権がやったことは、改竄です。賃金統計の改竄、GDPの根拠なき底上げ。ここに至ってはもはや末期的です。
 もう一つつけ加えましょう。ゼロ金利、はてはマイナス金利の影響で、金融機関(銀行)は、金利収入を大幅に減らし、三菱MUJなどを例外として、危機的な状況に陥ってきました。例え金融緩和で日銀が市中銀行にお金(ベースマネー)を供給しても、企業が不景気の中で(また450兆円ほどに達した豊富な内部資金をもっている状態で)設備投資のために銀行から借金することはありません。
 そこで銀行は、利潤をとるために、預金者に保険商品や投資信託を薦めます。銀行員はノルマをこなすために、多少なりとも社会的には許されないようなことをやらざるを得ないような状態に追い込まれます。そして、結局、最終的には庶民が泣くことになります。
  まだまだ書かなければならないことはたくさんありますが、そろそろ、この辺で筆を置きます。

 健全な社会を作るためには、子供・現役世代・高齢者のそれぞれが元気にならなければなりません。構造改革という99%の人を抑制する縮み思考(マイナス思考)の政策から抜け出し、積極的・進歩的な政策に転じなければなりません。 

 あなたはこれでも自公(+維新)に投票しますか?