2013年10月11日金曜日

トンデモ経済学 その4 ケインジアンよ、お前もか!?

 しかし、おかしいのはマネタリストのフリードマンだけではありません。
 自然失業率の思想は、なんとアメリカ・ケインジアン(新古典派総合、ニュー・ケインジアン)によって受容されました。そもそもケインズから見れば、彼らの経済学の90%はケインズ経済学とは似て非なる非現実的な想定の上に立つ新古典派の経済学(市場均衡経済学)に他なりませんでしたが、それでもこれは驚きです。
 
4 新古典派・マネタリストの「自然失業率」の思想は、アメリカ・ケインジアンによって「インフレーションを加速しない失業率」(NAIRU)の思想にまで「進化」を遂げます。
 NAIRU は、Non-Acceralationing Inflation Rate of Unemployment の省略形です。この思想は、読んで字の如し、です。それはフリードマンの思想を受け継いでいます。つまり、低失業のもとでは労働者の交渉力が強くなり、必ず貨幣賃金率が大幅に引き上げられ、物価上昇をもたらすだけでなく、インフレを加速するから(理由)、インフレの加速を避けるためには、一定以上の失業率はやむを得ない、または一定以上の失業率を実現するべきである(!!)という「思想」です。
 この思想は思想(信念、教義)であり、現実に正しいという保証はありません。またそれを政治家などが正直に人々(国民)に告白すれば、選挙で票を失うので、密かに流通させているのが現実です。
 しかし、それが広く流通していることは、例えば OECD などの統計(i-Libraryなど)に載せられていることからも明らかです。
 しかし、それがデタラメなことは、ちょっと考えれば、すぐに分かります。例えば1970年代以降、米国の労働者の平均的な労働生産性は2倍以上に上昇しました。したがって、最初に述べたように、実質賃金率が2倍に増えてもおかしくはありません。ところが、R・ポーリン氏などが明らかにしたように、米国の労働者の平均実質賃金率は最近40年間に7%も低下しているのです。ここからみても賃金は断じてインフレの原因ではないことは明らかです。
 しかし、OECDの NAIRU 統計は、依然としてかなり高い数値を示しています。しかも、現実の失業率より高いことも低いこともあります。しかも、どんな理由からか不明ですが、上下に変動しています。一体どのように計算しているのでしょうか? 知ろうとしても、その計算方法は公表されていません。 
 もちろん、真の経済社会の実相を知っている人は、そんな数値が空想的産物であることを知っていて、そんな統計など見向きもしないでしょう。私のように批判する目的がある場合は別ですが、・・・。

 私は、多くの人に、多くの国の政府がかなり前から「完全雇用」政策を放棄し、それどころか高い失業率が好ましいという思想に捉えられていることをきちんと知って欲しいと思っています。
 (続く)

トンデモ経済学 その3 フリードマン氏の理論のアホらしさ

 フリードマンの自然失業率(NRU)とは何か?
 それは本質的に新古典派の労働市場論から来ている。
 新古典派の労働市場論とは、大学の労働経済学でよく教えられている「マーシャリアン・クロス」の労働市場版である。
 それは、まず縦軸に実質賃金率、横軸に労働量をとり、次に右下がりの労働需要曲線と右上がりの労働供給曲線を書き、その交点を均衡点と考える、あの図である。
 交点(w/p、N)は、実質賃金率がw/pのとき、労働需要量=労働供給量=Nだということを示す。この時、失業は存在しない。なぜならば、失業=労働供給ー労働需要 であり、この場合には NーN=0 だからである。
 しかし、現実にはいつも失業が存在している。これはどのように説明されるのか?
 新古典派の労働市場論は、政府の労働保護立法や、労働組合の存在のために、実質沈吟率が均衡水準より高いからだと説く。この時、労働供給量(時間)が労働需要量(時間)を超過し、その差が失業(ただし、理論上、自発的失業であり、その量は時間で示される)である。
 そもそも、現実の世界では、失業は<時間>ではなく、<人>で示されるという点からしても、また失業の多くは<非自発的失業>だという点でも、上の理論はきわめて怪しいのであるが、この点は以前のブログでも示してあるので、先に進もう。
 フリードマンの自然失業率は、ここに紹介した新古典派の労働市場論を前提にして展開されている。つまり、現実の労働市場が政府の労働保護政策や労働組合などの制度的構造を持っているのに対応して、実質賃金率が均衡水準を一定度だけ超え、それに応じて失業率が定まる。それがフリードマンの自然失業率である。
 
 ここまで述べれば、賢明な読者は奇妙な点に気づくはずである。
 彼は、一方で、フィリプス曲線に関して、物価上昇=インフレを労働者の責任にするために、失業率が低いときに貨幣賃金率が大幅に上昇すると主張する。ところが、自然失業率の理論では、実質賃金率が高いときに失業率が高まると主張している。もちろん、貨幣賃金と実質賃金は異なる。しかし、上の理論を精査すれば分かるように、例えば物価水準が一定ならば、実質賃金の上下は貨幣賃金の上下と関係しており、両者は密接な関係にある。ケインズが『一般理論』で、新古典はどのようにしたら実質賃金を変えることができると考えているのかと揶揄した通りである。
 一方では、低失業と高賃金(→インフレ)の関係を語り、他方では、高失業と高賃金の関係を語る。この矛盾に彼ら自身は気づいていないのであろうか?
 もちろん、彼らの意識の中では整合的なのであろう。インフレであれ、高失業であれ、何であれ、とにかく労働者に責任がある! 
 (さらに続く)

トンデモ経済学 その2 経済学の進化、それとも退化?

 前回述べたことをまとめると、インフレーションは、失業率が低いときに労働生産性の上昇率を超えて貨幣賃金が引き上げられるから生じるのであり、要するに労働者の責任であるという見解だということにになります。
 低失業率→貨幣賃金の大幅引き上げ→インフレ
 この結論を覚えておきましょう。

3 ところが、「物価版フィリプス曲線」はさらに改変させられることになります。
 改変を行ったのは、フリードマン(Milton Friedman)という経済学者です。
 彼は、短期的には「物価版フィリプス曲線」が成り立つとしながらも、長期的には(つまり半年とか1年を超える期間では)成立せず、「物価版フィリプス曲線」は、垂直になると主張しました。つまり、ある一定の失業率のところで垂直になるというわけです。
 ここで問題は、(1)本当に「長期の物価版フィリプス曲線」が垂直になるのか、(2)それはどのようなことを意味するのか、ということになります。
 (1) フリードマンが上記のことを主張したのは、1970年代のことです。そして、1970年代には、一見するとフリードマンの主張が正しいように見えました。
 その理由は、1960年代末から1970年代にかけてインフレーションの波が米国経済を襲ったからです。まず1960年代末から1970年代初頭には、米ドルの事実上の価値低下(減価)がありました。そのことは金の価格低下によく示されています。米国は、戦後準固定相場ドル本位制ともいうべきレジームの下で、金1オンス=35ドルの平価(parity)で金とドルとの交換に応じていました。しかし、いわゆるドル危機の中でドルの金価格の上昇、またドルの価値低下が生じました。それは輸入財の価格上昇をもたらしました。そしてとうとう1971年8月15日に金とドルとの交換は停止されました。それはドルの公式の減価を招きます。さらに1973年の第4次中東戦争、1979年のイラク革命と連動して石油価格の数倍にも及ぶ激しいインフレーション(輸入インフレ)が生じました。この時、失業率も上昇しました。かくして1970年にはスタグフレーション(インフレ+高失業率の同時発生)と呼ばれる現象が生じたことになりました。
 これが従来の「物価版フィリプス曲線」の形状をさらに変えることになったのは言うまでもありません。きわめてラフに言えば、失業率がどの点にあろうと、物価水準は徐々に高くなっていったのです。
 しかし、ここで、フィリプス氏が本来の「フィリプス曲線」を描いたとき、慎重に戦乱時を除いていたことを思い出してください。そのような時期はフィリプス氏にとって撹乱要因だったと考えられていたのです。
 ところが、フリードマン氏は、まさにその撹乱時のデータを用いて「垂直な物価版フィリプス曲線」を導きました。
 それだけではありません。彼は次のようなインチキを働きます。

(2)フリードマンは、まず「物価版フィリプス曲線」にもとづいて、物価上昇を低失業率の下における労働者の貨幣賃金の大幅引き上げのせいにします。そして、次に今度は「垂直な物価版フィリプス曲線」を用いて、どんな低失業率も、どんな物価上昇も、一定の失業率に落ち着くと結論します。ここで彼がいう一定の失業率とは、「自然失業率」(NR
U)と名づけるものです。今度は、自然失業率の方から説明しなおしましょう。いま例えば自然失業率が8%だとしましょう。政府が失業率を下げようとして、財政支出などを行い、失業率を(例えば5%に)引き下げることに成功したとします。しかし、フリードマンは、彼の「理論」を使って、結局(つまり半年後などの長期には)物価が上昇し、失業率も元(自然失業率)の8%に戻っているはずだ、と言う訳です。
 要するに、フリードマンは、かなり怪しい根拠にもとづいて、失業率が本質的に「自然失業率」から離れることができないという結論を導いたのです。
 それでは「自然失業率」とは何であり、それはどのように決まるのでしょうか? これは一大問題となりますが、まさにその説明が理論的矛盾を露呈することになります。この人、またはそれを信じた人は馬鹿じゃないの、と思わずにはいない論理の登場です。
 (以下、続く)

2013年10月10日木曜日

トンデモ経済学 その1 馬鹿と天才は紙一重

 経済学者、特にノーベル経済学賞(正確にはノーベル記念スウェーデン銀行賞)を与えられるような経済学者は、難しい(どれほど難しいのか私にはわかりませんが)数学を駆使して理論を組み立てるのですから、きっと頭がよいはずです。
 しかし、彼らが現実の経済社会を説明する段になると、<馬鹿じゃないの>と思うことがしばしばあります。今日はその一例を紹介することにします。

1 出発点として「フィリプス曲線」から始めます。
 フィリプス曲線というのは、縦軸に貨幣賃金の上昇率をとり、横軸に失業率をとったときに描かれる曲線(関数関係)です。(下図参照)
 このような図を描くためには、貨幣賃金率と失業率に関するデータが必要ですが、イギルやフランス、ドイツ、米国については、1950年頃までに様々な人(統計家)の努力によってそれらのデータが集められてきました。イギリスのデータは、1861年から利用可能となっています。これらの時系列データを用いると、例えば18xx年に(失業率、賃金上昇率)が(5.8%、2.3%)、グラフ上のその点をプロットできます。何十年間ものデータにもとづいて点をプロットしたのが、下図です。
 ちなみに、戦乱など異常な年のデータは賃金率と失業率の関係を見るのに不都合なため、フィリプス氏は取り除いています。(この点を覚えておいてください。)
 彼は、このプロット図から「フィリプス曲線」と呼ばれるような非線形の関係があることを結論しました。簡単に言えば、失業率の低いときには賃金上昇率は高く、失業率の高いときには賃金上昇率は低い、という関係です。
 これは特に驚くようなことではありません。失業率の低いときは景気のよいときであり、賃金(所得)がより高くなっても不思議ではないはずです。もちろん、逆の場合もです。フィリプス自身は、景気の善し悪しによる、労働に対する需要と労働の供給の関係の変化によってそうした関連が生じると説明しています。

2 ところが、フィリプス氏が思いもしなかったと思われる展開が待ち受けていました。
 場所もヨーロッパではなく、アメリカ合衆国に移ります。
 当時「アメリカ・ケインジアン」は、物価水準の変動の理由に関する理論的説明で悩んでいました。そこに、この「フィリプス曲線」が現れたのです。彼らはそれに飛びつきました。ただし、賃金変化と失業率ではなくて、物価変動と失業率の関係を示す理論として改変することを通じてです。しばしば経済理論は、大西洋を渡ると変質するといわれていますが、今回もそうです。こうして「物価版フィリプス曲線」が生まれました。この新版では、縦軸を計るのは賃金率の変化率ではなく、物価の変動率です。
 賃金と物価を置き換えてはいけないのか、と質問がでるかもしれませんが、もちろん簡単には許されません。というのは、もし賃金上昇が必ず物価上昇を招くということが実証されるならば、賃金と物価を自由自在に交換してもよいでしょう。しかし、そうではありません。その理由は簡単な数式で説明されます。物価は次のような式で示されます。

 p=(m+w+r)/ρ      
 (ただし、m、w、r は、単位時間あたりの生産に際して必要な物的費用(原材料費、減価償却費など)、賃金、利潤であり、ρは労働生産性)

 このように物価変動は、物的費用や利潤の変動によっても生じるはずですが、いまは簡単のために一定としておきましょう。賃金が上がっても、それ相応に労働生産性が上がれば、物価は上昇しません。
 たしかに、もし賃金が労働生産性以上に上昇すれば、それが物価上昇(インフレーション)の原因となります。しかし、インフレは賃金の過度の引き上げだけが原因というわけではありまえん。上式をよく見ればわかるように、インフレは利潤の労働生産性と比べて不相応な引き上げによっても生じます。これは1990年代のソヴェイト後のロシアで見られたものです。このような場合にも、物価上昇が生じると、実質賃金が低下するので、普通、労働者は貨幣賃金(名目賃金)の引き上げを要求します。その結果、貨幣賃金率が労働生産性の上昇率を超えて引き上げられるといった事も生じます。しかし、それは賃金率の引き上げが原因というわけではありません。
 その上、m の上昇、特に外国から輸入された原材料や機械の価格の引き上げが物価上昇を引き起こすこともあります。これは、例えば第四次中東戦争(1973年)、イラン革命(1979年)と関連している「石油危機」が物価上昇を亢進させることもあります。(フィリプスが戦乱の年を慎重に避けた理由がこれです。)さらに1960年代末から1970年代初頭にかけての時期のようにドルの減価(つまり為替相場の変化)によって価格水準は変化します。
 こんな簡単なことが何故理解できないのでょうか? やはりバカなのでしょうか?
 ともかく、物価上昇率は、貨幣賃金、利潤、労働生産性と密接に関係しています。 そのため「物価版フィリプス曲線」は、「本当のフィリプス曲線」と比べて格段に物価と失業率の相関関係が低下します。ほとんど無相関といってよいほどです。
 話はさらに続きます。(続く)

第二次世界大戦 オリバー・ストーン

 第二次世界大戦は、1939年に始まり、1945年に終わりました。
 この戦争の死者は全世界で数千万人。戦争の直接の影響で死亡した人の数です。人類史上かってない「大量殺戮」が行われた戦争でしたが、敗戦国がイタリア(すぐに)、ドイツ、日本などであり、戦勝国がイギリス、フランス、ソ連、米国などであったこと以外、「実相」は驚くほど知られていません。
 オリバー・ストーンの制作した現代米国史に関する映画は、映像を交えて多くの事実を語っています。特に注目されるのは、次のような点でしょうか? 決してオリバー・ストーンの独創的な見解という訳けではなく、国際関係史の研究者にとってはよく知られている事もたくさんありますが、それだけに一度見ておく価値があります。

1 イギリス、特にチャーチル首相の態度
 大戦は、ナチス・ドイツのソ連侵攻から始まり、初期の段階で、ソ連軍が敗北し後退することはよく知られていますが、その時、連合国側(英・仏・米・ソ連)が一枚岩的な団結を誇っていたわけではありません。
 むしろチャーチル氏は、ナチス・ドイツとソ連が戦争をして共倒れに終わることを願っていました。彼は、最初の段階でナチス・ドイツが勝利し、ソ連が戦線から脱落すると、ドイツの矛先が西部、つまりイギリスに向かうことを恐れ、その限りでソ連を支援する姿勢を示しましたが、決してソ連が勝利することを望んでいたわけではありません。ソ連が優勢になった場合には、ドイツを支援する心づもりさえありました。
 チャーチルは根っからの保守主義者でした。その彼が1925年以降、ずっとケインズによって批判され続けたのは理由なしとはしません。

2 セオドア・ローズベルト
 これに比べると、米国の大統領だったローズベルト氏は、はるかに理想主義的・リベラル(寛容派)だったと言えます。彼は、1932年の大統領選挙で圧倒的な勝利を納めると、有能なブレインを置き、ニューディール政策を実施しますが、戦争終結にあたっても画期的な4項目の提案(自由と諸権利、信仰の自由、欠乏からの自由など)を世界に向けて行います。彼が、植民地主義に反対していたこと、米国において福祉国家への道の第一歩を歩もうとしていたこともよく知られています。また彼は巨大企業がとてつもなく大きな権力を持ち(プルートクラシー=金権主義)、社会を支配することを警戒していました。
 ところが、ローズベルトの提案に対してチャーチル氏は、姑息にも「現在の社会的条件が許す限りで」という限定を無理やり挿入しています。

3 さて、そもそも第二次世界大戦は、何故生じたのでしょうか?
 歴史をさかのぼれば、1929年末の米国発金融恐慌、世界大不況、1932年のドイツ総選挙におけるSPD(ドイツ社会民主党)、特にその指導者だったR・ヒルファディングの失敗と、それを大きな理由の一つとするナチスの台頭・政権掌握・軍備再拡張、スペイン内戦におけるフランコ派への(英米の)事実上の支援など、1930年代にあったことがあることは間違いありませんが、その前に、1919年のパリ・ヴェルサイユ講話条約における巨額の対独賠償金要求もあります。ケインズは、それが将来の災難を招くことを予期し、この自国政府の要求を批判し、辞職して抗議しました。 
 現代の歴史家が明らかにしているように、戦争の根源はそれだけではありません。
 その一つの問題に植民地の問題があります。イギリスは、18世紀以来、巨大な植民地帝国を築いてきました。その領域は、19世紀にさらに拡大してゆきます。
 これに対してドイツ人は、1871年にドイツ帝国にまとめられてゆき、産業革命を達成しつつ工業国として台頭してきます。しかし、1873年から1896年にかけて「大不況」がヨーロッパ諸国を襲います。この大不況に関して、この時期にも実質GDPはそれ相応に増加しているから「不況」ではなかったという人(研究者)がいますが、それは正しくありません。何故ならば、この時期は賃金率(貨幣、実質)とも停滞し、さらに失業率が周期的に著しく高い水準に達しているからです。後の経済学者(Straicheyなど)が指摘したように、賃金率の停滞は総需要の停滞を惹起し、多くの人々を雇用できないような状態にします。このような時に必ず出てくる議論は、(現在でもそうですが)外国市場の拡大というものです。国内需要が制約されているので、輸出を拡大すれば、経済を成長させられるという議論です。
 まさに19世紀末〜20世紀初頭にそのような議論がイギリスでも、ドイツでも現れて来ています。ドイツの方では、ドイツの歴史家ヴェーラー氏の『ドイツ帝国』(未来社)が1890年代におけるヴィルヘルム二世の「新航路政策」への転換を明らかにしています。「敵は海外にあり」と主張し、国内では資本家と労働者の融和を図る政策が実施されました。ビスマルクは罷免され、カプリヴィが新宰相に任命されます。これとまったく同様なことがイギリスでも再現されます。グラッドストーンの「関税同盟構想」などがそれです。
 しかし、イギリスは広大な植民地を保有していましたが、ドイツは決してそうではありません。もちろん、ドイツもアフリカに植民地を有するに至っていましたが、その領土はイギリスに比べられるべくもありません。
 世紀末から始まる植民地帝国主義が第一次世界大戦の最大の要因でした。しかも、それは第一次世界大戦によって最終的に終わったわけではありません。
 アメリカは、ローズベルトの下で、フィリピンという植民地領有を終わらせようとしていました。しかし、イギリス(特にチャーチル氏)は決してそうではありませんでした。チャーチルは、ローズベルトの4項目を受け入れることが出来なかったのです。
 
 しかし、物語はこれで終わりではありません。米国もまた第二次世界大戦の中で誤った選択をすることになります。アメリカ兵への被害を少なくして戦争を終結させるという名目で行った日本への原爆投下もそうですが、1970年代末からのネオリベラル政策への転換もそうです。それは1930年代の大不況と米国がそこからどのように回復したかという教訓を無視するものです。

2013年10月8日火曜日

世界経済史Ⅱ その2 英国の旧平価による金本位制復帰について

 第一次世界大戦が始まる1914年以前の金本位制の時代の金とポンド(£)の交換比率(平価)、ポンドとドルとの交換比率(為替相場)は、次の通りでした。
  平価    金1オンス=3ポンド17ペンス10シリング
  為替相場  1ポンド=4.86ドル
 ところが、戦時中に英国は金本位制を停止し、1925年になってから蔵相チャーチル氏の下でこの旧平価で金本位制に復帰しました。
 この間、英国は戦時中に激しいインフレーションを経験し、戦後不況の中で物価水準が若干低下したとはいえ、1925年の時点でも戦前に比べれば物価はかなり高い水準にありました。これらの事実は何を意味していたでしょうか?
 いま簡単のために、イギリスの物価がすべての商品について2倍に上がっており、米国の物価水準は不変だったとします。またイギリス製の商品1単位が戦前に1ポンドであり、1925年に2ポンドになっていたと想定します。
  戦前には、この商品1単位のドル表示の国際価格は、4.86ドルです。
  しかし、1925年にはその国際価格は、9.72ドルに等しくなります。つまり、現代風に言えば、実質為替相場はポンド高になっているわけです。
 このようにインフレーションにもかかわらず、旧平価で金本位制に復帰したことは、イギリスの国際競争力を弱めることを意味しました。
 あるいは同じことですが、イギリスが戦前と同じ競争力を維持するためには(上の数値例では)、平価を切り下げ、実質為替相場を切り下げる必要があったことを意味します。もし、次のように平価、為替相場を切り下げていたならば、イギリス経済の実力相応の平価・相場になっていたはずです。
  平価    金0.5オンス=3ポンド17ペンス10シリング
  為替相場  1ポンド=2.43ドル
いうまでもなく、この場合、1925年における商品1単位の国際価格は4.86ドルとなり、戦前と等しくなります。
 
 イギリスが旧平価で金本位制に復帰したことは、貿易依存の著しく高いイギリスの輸出を削ぎ、国内にデフレーションをもたらし、その結果、戦後不況から脱出しかかっていたイギリス経済をスランプ状態にしました。要するに貨幣賃金の低下と失業率の上昇が「チャーチル氏の経済政策の経済的帰結」でした。

2013年10月7日月曜日

世界経済史Ⅱ 第2回 両大戦間期の成長と景気循環

(以下は要約。統計類は別の機会に掲げる。)
 1919年にパリのヴェルサイユで結ばれた講話条約をもって第一次世界大戦は終了した。
 この講和条約の中で最も大きな問題となったのが、戦勝国のイギリスやフランスが敗戦国のドイツに求めた賠償金支払の問題であったことは言うまでもない。
 1914年のドイツ帝国軍のロシア帝国に対する侵攻をもって始まった第一次世界大戦が敗戦国のドイツに莫大な物的・人的被害をもたらしたことは言うまでもないが、戦勝国のイギリス、特にフランスの蒙った被害がきわめて大きかったことも間違いない。その上、戦争に参加した国の政府が戦争に費やした費用(戦費)も巨額に上っていた。英仏政府は、それらの費用を借用金によって、特に米国からの債務によってまかなっていた。
 第一次大戦中の1918年の「ドイツ革命」でドイツ帝国は崩壊し、皇帝ヴィルヘルム二世は皇帝の座を退き、外国に逃亡しており、その後、ドイツは「ワイマール共和国」として生まれ変わることになったが、このドイツに対して英仏が巨額の賠償金を求め、結局、ドイツはそれに応じることになった。
 周知のように、この英仏政府の対独賠償金要求に対して厳しい批判を行ったのが、イギリス代表の一人、ケインズであった。彼は、賠償金の要求がヨーロッパおよび世界の将来にきわめて大きな不幸をもたらすことになることを指摘するとともに、そのように巨額の賠償金をドイツが支払うことは不可能であり、ドイツ政府がそれに応じることはないと考えていたが、結局、それを盛り込んだ講和条約が結ばれるや、イギリス政府に辞表をたたきつけるに至った。われわれは、もちろんその後の歴史を通じて、ケインズの危惧が現実のものとなったことを知っている。(『平和の経済的帰結』)
 ドイツの苦境は、まず1923年のハイパー・インフレーションの発生からも知られる。このときのドイツのインフレ率は1兆倍という天文学的倍率に達し、「五千万マルク紙幣」が発行されたことが知られている。もちろん、ドイツの失業率は不況の中で上昇し、社会不安が拡大した。
 失業は、ドイツに限られていたわけではない。戦勝国の英・仏・米でも(アジアの日本でも)、第一次世界大戦の終結後、経済は「戦後不況」の局面に入り、失業率が激しく上昇した。この戦後不況は1923、24年にようやく終息し、経済の回復がはじまるが、イギリスでは、その時に景気を悪化させる政策が採用された。1925年のチャーチル氏(蔵相)による旧平価での金本位制復帰である。それは戦時中に停止されていた金本位制を復活させようとする政策であったが、その際、戦時中のインフレーションによってスターリング・ポンド(£)が大幅に減価していたにもかかわらず、戦前の旧平価で復帰させようとするものであった。
 この時、ケインズはチャーチル氏のこの政策がイギリスを不況に導き、失業率を引き上げるとして批判している(『チャーチル氏の経済政策とその経済的帰結』)。仮にイギリスの物価水準が2倍に上昇していたとしよう。イギリス国内では以前£1だった商品価格が平均して£2となっている。この時以前と同じ平価であれば、金貨で表示したイギリスの商品の価格(国際価格)は二倍になるはずである。これは対外的には、イギリスの輸出を大幅に減少させることになる。あの貿易依存度のきわめて高いイギリスの商品輸出を、である。したがって、もしイギリスが以前と同じ輸出量を確保しようとするならば、その製品価格を引き下げなければならない。これはイギリス国内に激しいデフレをもたらすことを意味する。
 実際、ケインズの批判した通り、1925年から1927年にかけてイギリスは景気後退と失業率の上昇を経験することになった。そして、そのような状況の中でイングランド銀行は、金融緩和政策(低金利政策)を実施することを余儀なくされる。しかし、国内の低金利政策は資本の海外逃避を招く恐れがあり、事実その通りとなった。かくして、1927年、イギリスの当局は、フランスと強調して米国の中央銀行(FRB)に米国当局も金融緩和措置を継続するよう要請することとなった。

 ところで、今日「グローバル化」の進展を経験しているわれわれの問題関心からすると、第一次世界大戦をはさんで国際経済関係がどのように変化したのかという問題がわれわれの関心を引く大きな問題となる。
 近年の研究では、1960年代以降、MNCs(多国籍企業)、国際ポートフォリオ投資、FDI(外国直接投資)の拡大に示される「グローバル化」の現象が顕著となってきたことが明らかにされている。しかし、この第二次世界大戦後のグローバル化に先行して第一次世界体制前に「グローバル化」が見られたことが研究上明らかにされている(Paul Hirst and Grahame Thompson, Globalization in Question, Polity, 2000.など)。しかも、その規模は戦後のグローバル化を超えていた可能性が高い。両大戦間期は、これら2つのグローバル化の間の時期であり、いわば第一次グローバル化の崩壊期であった。
 特に注目されるのは、ヨーロッパにおける二大経済大国、イギリスとドイツが戦争中から戦後にかけてGDPに対する輸出額の割合や資本輸出の割合を減少させていることである。

 すでに1920年代においてヨーロッパ諸国の経済状況は、危機的な様相を示していた。
 これに対して、第一次世界大戦に参加したとはいえ、戦場から離れており、戦争の直接の被害をほとんど受けていない米国は、戦後不況を乗り越えたあと、比較的順調な経済成長の経路に戻ったかに見えた。1919年から1929年の間の米国の平均的成長率(年率)は約3%であり、20年代の中葉以降、失業率も徐々に低下していた。
 しかし、ここでも大きな問題が生じつつあった。それは周知のように1929年の10月に崩壊し、金融恐慌と世界大不況をもたらす原因となった資産バブルの亢進である。
 資産バブルがいつどのような状況の下で生じるのか、その一般的な条件を示すことは難しい。しかし、1920年代後半の米国の資産バブルについては、次の事情をあげることができよう。
 1)長期的に見た米国経済の成長率の低下
 クズネッツ(Simon Kuznets)の作成した長期時系列統計が明らかにしたように、米国の経済成長率は1870年代にピークに達したのち徐々に低下していた。以前は年率5%を超えていた成長率は、1920年代に3%以下になった可能性がある。こうした実体経済の成長率の低下は所得の増加ペースを減速させ、それに代わる所得源、つまりキャピタル・ゲイン(資産の売買差益)に人々の注意を向けさせやすい。これは日本でも1980年代後半に生じたことである。
 2)キャピタル・ゲインの増加をもたらす資金の供給、金融革新、低金利
 商品価格と異なって金融資産の価格は、それに対する需要(貨幣の裏付けを持つ需要)に著しく感応的である。需要の拡大は資産価格を引き上げ、キャピタル・ゲインをもたらす。そしてキャピタル・ゲインの発生は、当該資産に対する需要を拡大する。しかし、資産を実際に買いたいという人が現れ、それに対する需要が実際に生じるためには、それがより高く売れる(つまりそれをもっと高く買う人がいる)ことが前提となる。ここから「あと馬鹿」(the greater fool)理論なるものが生まれたが、この理論の是非は置いておこう。いずれにせよ、人々の心理はバブル発生の重要な要因であることは間違いないが、それを容易にする金融制度の登場、金融革新も要因であることは否定できない。
 ガルブレイス(J.K.Galbraith)が指摘しているように、自己資金ではない証拠金によって株式を購入できるといった制度、レバレッジもバブルを亢進させる制度的与件である。
 さらに1927年に英仏当局が米国の金融当局に要請した金融緩和の持続策も資金需要の拡大とそれに応じた資金供給の拡大に「貢献した」と言えるだろう。
 3)賃金シェアーの低下
 1920年代には、賃金シェアーの低下が見られたことがシュタインドル(Josef Steindl)の『米国資本主義の成熟と停滞』(1950年)によって示されている。
 これは1980年代〜21世紀初頭の米国で繰り返された傾向であるが、それは利潤シェアーの上昇を意味する。この時に利潤の一部をなす株式に対する配当が拡大すれば、それは株価を引き上げる要因となる。また21世紀初頭(2006年以前)の米国では、賃金所得の増加を期待できない大衆が借金によって住宅を取得し、この借金の拡大の連鎖が資産担保証券の上昇をもたらし、それを通じて資産担保社債、レポ取引、そして株式の価格を引き上げたという事実がある。
 1920年代後半にも賃金シェアーの低下と株式価格の上昇が関係していた可能性がきわめて高い。
 しかしながら、1930年代に金融資本主義は、そのグローバルな構造を含めて一挙に崩壊することとなった。しかし、それは経済的危機にとどまらず、きわめて大きな社会的・政治的危機をもたらしたのである。

2013年10月5日土曜日

マルクス その5

 ホランダー(Samuel Hollander)という経済学者がいます。近年(2008年)にケンブリッジ大学出版会から『マルクスの経済学』(The Economics of Karl Marx)という本を出版しました。500ページ以上におよぶ大著です。
 いつか時間をみて、この本のいくつかのトピックスを紹介したいと思いますが、今日は現在でもマルクスが世界で最も注目されている哲学者であることを示し、その後、マルクスが資本主義体制内における福祉改革をどのように考えていたかを示す箇所にとどめたいと思います。

 最近のBBC Radio-4 世論調査(http://www.bbc.co.uk/radio4/)によれば、「英国の最も尊敬すべき哲学者」が次のような結果になっています。

   マルクス          27.93%
   デーヴィッド・ヒューム   12.67      
   ヴィトゲンシュタイン      6.80    
   ニーチェ                                          6.49
   プラトン                                          5.65
   カント                                              5.61
   トマス・アキナス                          4.83
   ソクラテス                                      4.82
   アリストテレス                              4.52
   ポッパー                                          4.20

 イギリスでは、近年、サッチャー政権以降に所得格差が著しく拡大するという状況の中で、明らかにそれに抗議するという意味を持つ「暴動」(Riots)が各地で生じました。また米国では格差の拡大に抗議する運動、つまり1%の階層の大幅な所得増加と99%の人々の所得減・停滞に対する抗議運動(Occupy Wall Street)が生じています。
 マルクスは、ソ連型の国家社会主義体制の責任を問われた形ですが、資本主義経済の「混乱」と「暴走」、つまり「カジノ資本主義」・「マッドマネー」といった金融資本主義のもたらした混乱、「強欲資本主義」や「略奪資本主義」の生成の中で拡大してきた所得格差や低賃金労働の拡大などによって注目され、「復帰」しつつあることは間違いないでしょう。

  さて、次の点ですが、ハイエクとともに市場原理主義(自由資本主義擁護)の代表者として有名なミーゼス(von Mises)は、「マルクスと正統的なマルクス主義の学派」は資本主義体制内における社会改革を初期だけでなく後期にいたってもいっそう「反動的」と見なし、それに反対したと主張しました。マルクスに敵対していたこの人物の、この考え方は広く流布しているように見えます。しかし、本当でしょうか?
 確かに初期のマルクスは、資本家にそのような改革を福祉改革を行う意思はないと捉えていたようです。それには、ひとたび制定された1840年の工場法(婦女子を対象とした10時間労働法)が一時廃止されたりし、実際に改革がほとんど進展しなかったからです。労働法を制定していた当時の議会が民主的な議会ではなく、ごく少数の富裕者(高額納税者)にしか選挙権のない非民主的議会であったことも考えなければなりません。だからこそ議会改革運動(チャーティズム運動)が高揚したのです。また当時の普通の経済学者も述べているように、産業革命以後の経済発展にもかかわらずごく一部の上層労働者の上層労働者だけしか実質賃金の上昇を享受しておらず、大衆の実質賃金はまったく上がらないという状況がありました。19世紀に古典派経済学を「通俗化」した経済学者として有名なフォーセット夫人でさ次のように言っています。「富者はますます富裕になり、一方、産業階級の享受する安楽には進歩が知覚できず、貨幣賃金の増加は概ね賃金財価格の上昇によって打ち消されている。」
 さて、後期に至ってもマルクスは、一方では、競争的資本主義の下で個々の企業家は、Apres moi le delugeという命令(dictum)に従い、社会改革に否定的たらざるを得ないと考えていたことは事実です。「資本は・・・労働者の健康と寿命を考えられない。自由競争は、個々のどの資本家に対しても力を及ぼす外的な強制的法則の形で、資本主義的生産の特有の法則をもたらす」(『資本論』の有名な一節)。
 しかし、実際には、これは話の半分であり、他方では、1860年代〜1880年代にかけてマルクスは社会改革の意義を認めるようになってきました。1850年の「工場法」(これは、児童や女性を長時間働かせる「自由」を奪うとしてそれに反対した多くの企業家の反論をおして制定されたものです)の進歩的意義をマルクスは決して否定していません。「労働者階級のしだいに押し寄せる反乱は、議会に労働時間を強制的に短くし、工場自体に標準的な労働日を課し始めた。」
 つまりミーゼスの批判とは異なり、マルクスは両面をきちんと見ていました。一方で個々の企業家が社会改革に反対する事実を見ていました。19世紀の企業家が児童や婦人を自由に長時間働かせる「自由」(!!)を規制することに反対したように、今日の企業家も、労働者を保護する様々な政策に反対しています。また規制を緩和すると、それにつけいって労働者を劣悪な労働条件で長時間働かせようとする「ブラック企業」も多数出現します。しかし、それに対して労働運動のたかまりの圧力の下で、議会などが産業民主制を拡充するなどの社会改革を押し進めたことをマルクスは高く評価しています。
 ミーゼスは、マルクスが資本主義体制内の社会改革の意義を認めない硬直的な原理主義者だったという印象を作り出しましたが、実際のマルクスは決してそうではなく資本主義体制内における労働者の陶冶や社会改革の意義を認める「修正主義者」(revisionist)だったことは、1860年代から80年代に書かれた多数の論考から判明します。
 マルクスは、1860年代以降のさらなる進歩に言及するようになります。その一例。
 「大工場主たちが辞任し、不可避的なことと和解したのちに、資本の抵抗力はしだいに弱まったが、一方、同時に労働者階級の攻撃力は、この問題に直接関心を持たない社会階級における同盟者の数とともに増加したことが明らかに理解されるだろう。ここから1860年代以降の比較的急速な進歩が生じる。」
 1860年代以降に多くの変化が生じたことは、今日の労働史研究でも明らかにされています。もちろん、今日、多くの先進国でかなりの程度の産業民主制が達成されているのは、こうした変化の結果であることは言うまでもありません。

マルクス その4

 人間は労働しなければ生きてゆけない。これは経験的事実であり、たとえ個々の人間は労働を免れることができても、誰かが労働しなければ、人間社会は成り立ちません。
 しかし、労働時間を短くすることは可能です。また労働をアダム・スミスや他の古典派の人々が捉えたような「労苦」(toil and trouble, or toil and moil)ではなく、楽しい人間の仕事(work)に変えることも、決して不可能ではないはずです。これを実現することがモラルサイエンスとしての経済学の本来の課題のはずです。
 しかし、現実の経済社会では事態がそのような方向に変化するとはとは限りません。むしろ、それを押しとどめようとする力学が働いているのではないでしょうか?
 ケインズが指摘したように(『ケインズの講義 1932ー35年、東洋経済新報者、1992年)、現代の経済は「企業家経済」です。企業家は投資し、人々を労働者として雇用し、利潤を得ようとする経済です。現実の経済社会では、企業家も人間であり、個人としては(例えば家庭では)それぞれ良き夫・父・子でしょう。しかし、優秀な企業家としては、彼/彼女はより多くの利益を実現しなければなりません。そこで、企業家経済では、大きな問題が生じます。それは所得分配、すなわちその企業によって生み出された所得(付加価値)を賃金と利潤の間でどのように分配するべきか、という問題です。
  Y=W+R
もちろん、すでにアダム・スミスが明確に述べたように、企業家(「主人」)は利潤をより多くすることに利益を感じ、労働者(奉公人)は賃金をより多くすることに利益を感じるでしょう。もちろん、利潤はすべてが企業家(古典派の表現では資本家)の狭い意味での個人的な所得として個人的な目的のために支出されるわけではありません。投資は、生産能力を拡張するという機能を通じて、社会全体のために貢献すると言えなくもありません。しかし、投資は資本家の所得を増やすための「回り道」(detours)であるという面も持っています。

 さて、端的に言って、所得(付加価値)を賃金と利潤にどのような比率で配分するか、そのメカニズムはどのようなものでしょうか? 
 私の見た限り、現在の日本の大学の経済学部でそれを明確に説明した教科書は、少なくとも新古典派・主流派のもののなかには見られませんでした。確かに、直接には説明していないが、価格決定論、利潤の極大化理論、その他の理論を通じて間接的には説明しているという声があがってきそうな気もします。しかし、このブログで何度も説明したように(それがケインズの強調点でもありましたが)、主流派の議論は「あいにく経済社会の実相」を説明していないというべきです。

 これに対して、マルクスやカレツキの流れを汲むポスト・ケインズ派は、それに正面から取り組もうとしています。彼らの経済学における貢献はまさにこの点にあると言えるでしょう。
 まずマルクスは、現代の資本主義経済では、労働力という擬制商品が売買されていることを前提に、その価値(価格)がどのように決定されるかを問いました。その要点は、労働力の価値は、その労働力の生産=再生産に必要な費用(つまり労働力を生産・維持するのに必要な消費財の総価値)であるというものです。
 もちろん、企業に雇われる普通の人々が所属する家計の消費する財は、時の経過とともに種類・量ともに変化します。しかし、それらの家計の賃金所得は、ほとんどすべて消費財の購入に当てられるという意味では、マルクスの指摘は間違っていません。(一時的に貯蓄すること(プラスの貯蓄)はありますが、その貯蓄は最終的には取り崩され(つまりマイナスの貯蓄)、最終的には貯蓄はなされません。
 
 しかし、この指摘に満足できる人は多くはないでしょう。それは経済発展・成長にともなう動態的仮定を説明していません。またY=W+Rの式における賃金と利潤のシェアーの変化にも言及しません。
 マルクスは、剰余価値論でこの問題に取り組みます。ただし、労働価値論に固執し、価値=価格を労働タームで取り扱いますので、その説明はちょっと厄介です。しかし、労働タームではなく、普通の価格タームで表現すれば、簡単です。
 企業家は、利潤を増やすためには、⑴賃金シェアー(W/Y)を減らし、利潤シェアー(R/Y)を拡大するか、⑵利潤シェアーの一定のもとでは、生産量を増やすしかない。この自明の真理です。もちろん、賃金シェアーを減らすためには、賃金率一定の下で労働時間を増やす方法や、労働時間一定の下で賃金率を下げる方法などがあり、生産量を増やすには、より多くの労働者を雇用する方法や、一人あたりの労働生産性を引き上げることなどがあります(この場合、賃金率を据え置けば、賃金シェアーは低下します)。

 結局、賃金と利潤の分配関係を決めるのは、企業家と労働者の力関係(労使関係)であり、それに影響を与える制度的与件に他なりません。
 ケインズよりはカレツキの方をより評価する現代のポスト・ケインズ派やレギュラシオン派は、この制度的与件の分析において多くの貢献を行いました。
 マルクスの『資本論』は決して時代遅れの古めかしい経済学ではありません。その証拠に現在雨後の竹の子のように簇生しはじめている「ブラック企業」は、人々に長時間労働と低賃金率、低い賃金シェアーを強要し、(マルクスの言葉を用いれば)剰余価値率を引き上げようとしており、(ポスト・ケインズ派の言葉を用いれば)利潤シェアーを引き上げようとしています。その結果は、利潤の増加、その他であることは言うまでもないでしょう。
 マルクスの提起した問題は、ケインズやポランニーなどの提起した問題とともに、現代経済の大問題として残されています。

マルクス その3

 スコットランド啓蒙の一人、アダム・スミスの『諸国民の富』(1776年)は、マルクス以前に労働価値説を説いた書物である。
 スミス『諸国民の富』の労働価値論は、次のような内容になっている。(社会的)分業の下で、人々は、異なった生産物(商品)を生産し、市場で貨幣を媒介として交換する。しかし、媒介物を捨象すれば、残るのは異なった人の間での異なった商品の交換である。
 仮に人が標準的には10時間の労働を行うと仮定しよう。人々はこの10時間の労働の生産物をお互いに交換する傾向を持つであろう。何故か? もしある人(A)の7時間の労働生産物が別の人(B)の10時間の労働生産物と交換されるような事態(労働時間から見た不当か交換)になった場合、BもAと同一の生産物を生産し、人と交換することを選好するであろう。もちろん、より少ない労働時間で同じ生産物(または貨幣タームでは所得)を得ることができるからである。もちろん、詳しく述べれば、Bは別の商品の生産に移ることによって、Aと同じほどの熟練度を持っていないので、7時間で同じ量・品質の商品を生産できるとは限らない。しかも、重要なことだが、BがAの競争者として参入することによって、結局、その商品の他の商品との交換比率は低下し、前より多くの商品量を提供しなければ別の商品を前と同じ量だけ購入できなくなる。それは交換をより等価交換に近づけるであろう。

 このように労働が唯一の主体的な所得源泉である以上、労働時間は交換比率を決める上で、きわめて重要な要因となっていることは疑いない。現在でも、人々は一定時間を労働に費やしているが、その結果、どれほどの所得が実現されるかに無関心な人はいない。いや、1時間、または1日、1週、1月あたりの所得がどれほどになるかは、ほとんどの人の主要な関心事である。もちろん、現実の労働時間と労働時間とが厳格・正確に交換されることはないであろう。しかし、労働が価値のきわめて重要な要素として意識されていることは、疑いない事実である。

 ところで、アダム・スミスの場合、生産に多くの資本ストック(設備、器具)が必要になり、人々が「主人」(企業家)と「奉公人」(労働者)に分かれる資本主義経済では、以上のような労働時間にもとづく交換はなくなるという。確かに、主人と奉公人との間の関係についてはそうである。事業所で生み出された所得は、利潤と賃金に分かれるが、その配分は上述の原理では説明できない。それは、例えばマルクスが展開したような剰余価値論の課題である。
 ともあれ、労働が唯一の富の主体的要因であり、人々は交換に際して労働時間を重要な要素として考えていることはまったく否定できない事実である。もちろん、最初に述べたように、商品交換に際して等しい労働時間と等しい労働時間とが厳格に交換されているという事実はなく、否定される。しかし、人々がその意識において労働を価値と考えているという事実自体は決して消えてなくなってはいない。

 したがって経済学者にとっては、どれほどの労働時間がどれほどの労働時間と交換されているのか、単位労働時間がどれほどの所得をもたらしているのかは、最も重要な研究・調査対象である。

2013年10月4日金曜日

地球温暖化とグリーンピース

 人為的二酸化炭素による地球温暖化論(以下、「地球温暖化論」と略記する)が正しいのか、誤っているのかは、政治問題化しているとはいえ、あくまで科学的な立場から検討するべきものでしょう。
 私もこれまで最初から固定観念を持たないようにして賛否両論(肯定論、懐疑論など)を客観的に見てきたつもりです。
 しかし、グリーンピースがまとめた論文はいただけません。環境保護団体だから環境保護に熱心であり、二酸化炭素の放出に危惧を抱いていることはよくわかります。二酸化炭素が地球温暖化の犯人にせよ、犯人でないにせよ、限りある天然資源を大切に使うという意味でも、化石燃料のエネルギー源としての燃焼、その他の用途のための使用を減らすべく努力するべきでしょう。
 しかし、グリーンピースの論文は、石油会社やその利益を代弁する政治家だけでなく、地球温暖化について懐疑論の立場に立つ科学者に対しても、あからさまな政治的・科学外的な非難をすることに終止しています。私も環境保護派のつもりですが、科学的態度は維持したいと思っています。グリーンピースの態度には反感さえ覚えます。
 日本では原発推進派が「地球温暖化論」に熱心な傾向があるように思いますが、もし原発推進派が「クリーンエネルギー」を謳って、一生懸命に「地球温暖化論」を擁護してきたことを根拠に、「地球温暖化論」を批判したとしても、自然科学・環境学の上では何の意味もないでしょう。
 

ケインズの「乗数」  誤解と真実

 以前、菅元首相が国会で「乗数効果」とか「消費性向」やらについて質問されて、まごついていたことがありましたが、今回はその「乗数」についてです。

 経済学部で経済学を勉強したことのある人ならば、一度ならず眼にし、耳に聞いたことのある術語のはず。しかし、国会議員の先生方がどの程度まで理解しているのか、疑問もあります。(高所から見下すような書き方で申し訳ないのですが、・・・。)

 ケインズは、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)の一節で、この乗数について論じています。簡単に式で示せば、

 Y=C+I  ΔY=ΔC+ΔI   消費性向=限界消費性向c=C/Y=ΔC/ΔY とすると、
 Y=Yc+I  ΔY=ΔYc+ΔI
 よってY=I/(1-c)=I/s=m・I     ΔY=ΔI/(1-c)=ΔI/s=m・ΔI
     (ただし、s=S/Y=ΔS/ΔY=(限界)貯蓄性向、S=I )

これは単位期間(例えば1年間)をとると、生産または消費と投資の間、またはそれらの増加分の間に乗数関係があることを示すものです。例えばある年の投資が100であり、生産が500ならば、乗数は 5=500÷100 となります。特に不思議な点は何もありません。

 ところが、この「乗数」が思わぬ展開を遂げ、議論の的となってきました。ほぼケインズの関知しないところでです。

 
 一つの理由は、ケインズの経済学が大西洋を越えてアメリカ合衆国に渡ったとき、「波及論」的な解釈が行われたことです。それを行った一人は、有名なサミュエルソン(Paul Sammuelson)です。
 もう一つは、政府の支出にこの乗数が適用されだしたことです。しかも、しばしば間違って、です。

 後者から説明しましょう。
 上の式に、政府支出の G を付け加えます。 Y=C+I+G
 
 
消費性向、貯蓄性向は、それぞれ c、s で示します。
 Y=Yc+I+G   ΔY=ΔYc+I+G
ここから、Y=m・(I+G)  またはΔY=m・(ΔI+ΔG)

この式で I の影響を捨象すると、Y=m・G  ΔY=m・ΔG
政府の財政支出(の増加)は、その乗数倍の生産・所得(の増加)をもたらす、というわけです。

 しかし、これは論理的にめちゃくちゃであり、まったく成立しません。なぜか?
 そもそも消費性向や貯蓄性向は、国民所得・国民生産全体に対してのものです。また本来乗数は、(民間)投資に対する国民所得・国民生産全体の割合(倍数)を示しています。他方、政府支出には、投資(公的資本形成)の部分もあれば、消費(政府消費支出)の部分もあります。したがって正確を期するためには、政府支出を消費と投資にわけるか、または、政府支出の影響だけを見るためには(その是非はともかくとして)、財政乗数なるものを考えて、その影響を考える必要があります。
 
 前者の場合には、Y=Cp+Ip+Cg+Ig=(Cp+Cg)+(Ip+Ig)=C+I となります。
 
 (ここで、C、I は消費支出と投資支出、添え字のp、g は民間と政府を示します。)
 
 しかし、この式から政府支出G=Cg+Ig の国民生産に対する影響を見るときには、消費(C)全体に対する消費性向(c)の数字を使うことはできません。あえて言えば、Cg+Igに対する Ig の割合を問題にすることはできますが、それにどんな意味があるのでしょうか?

 
 サミュエルソンの開発した「波及論」もきちんと検討するとボロだらけです。
 彼の例("Economics")は次の通りです。いまある人が材木小屋を大工等の業者に注文して建設します。値段は1000ドル。大工さんたちは、1000ドルの「所得」を手に入れます。ここで消費性向が2/3(つまり貯蓄性向が1/3)とすると、大工さんたちは、666.67ドルを消費財の購入のために支出します。そこで消費財の生産者は、666.67ドルの「所得」を手に入れます。彼らは、消費性向が同じならば、666.67ドルの三分の二、つまり444.45ドルを消費財の購入のために支出します。そこでその消費財の生産者は、444.45ドルの所得を得て、・・・・という風に経済的波及はどこまでも続く、というわけです。その波及は次第にしぼんでゆきますが、すべて終了したときにはどうなるでしょうか? 数学的には乗数は3であり、最初の所得1000ドルの三倍の経済効果が得られます。
 
 

 
 この考えのどこが、どうおかしいのか?
 ちょっと経済学を学んだ人ならば、いろんな疑問が出てくるはずですが、どうでしょうか?
 よくある質問は、波及はどれほどの時間を要し、いつ終わるのだろうか、というものです。上の例でいえば、三倍の経済効果が得られるのはいいが、それはほぼ一年以内に終わるのだろうか、それとも何年もかかるのだろうか、というわけです。また乗数関係は、波及効果が尽きるところまで追わないと語れないのだろうか、という疑問もわきます。
 別の質問は、上の例の最初の大工さんは、1000ドルの所得を受け取るという説明の奇妙さです。大工さんは、売り上げのうち、かなりの部分を原材料の支払いや、機械等の減価償却費に当てます。したがって1000ドルの売り上げ(収入)はすべてが所得ではないはずです。もちろん、大工さんが原材料の支払いを行うと、それは原材料を生産・販売した人の収入になります。その一部は所得になるはずですが、かなりの部分は原材料や減価償却費に当てられます。いったいどうなっているんだろうか、と考えるはずです。
 サミェルソンは、ノーベル経済学賞(正確には、ノーベル記念・スエーデン銀行賞)を受賞した頭のいい経済学者のはずですが、天才と馬鹿は紙一重とはよくいったものです。
 そこで翻って検討してみると、ケインズはそのことをよく理解しており、投資を問題とするときに、減価償却費を除いた純投資を問題としていたことに気づきます。

 同じことは、もちろん財政支出についてもあてはまります。
 政治家の人たちはこうしたことをきちんと理解しているのでしょうか? いや政治家だけではありません。オリンピックの経済効果などを語るエコノミストたちもです。
 

 
 
 
 誤解なきように、最後に一点のみ。
 私は財政支出の波及効果・経済効果について物申しているのであり、財政政策がすべて無意味であるといっているわけではありません。所得再分配や社会的共通資本の整備など、政府のやるべき仕事はたくさんあります。しかし、それらは波及効果のためにやるのではありません。よりよい社会を作るためであり、社会を安定化させるためです。
 
 かつて1933年以降、米国民主党政権はニューディール政策を実施し、大不況からの復興に貢献しましたが、それも最低賃金制をしき、雇用拡大政策によって失業を減じ、社会を安定化させたために、民間消費が回復してきたためです。決して波及効果の成果ではありません。
 
  
 
 
 

マルクス 2

 マルクスの経済学(または経済学批判)については、今日の時点で、どのような側面が大きな意義を持っているのか?
 まず言いうるのは、資本主義の制度・システム分析の面で、マルクスの経済学は新古典派の経済学などを大きく超えていることである。マルクスの後に、この点で大きな貢献がなされたが、マルクスの分析は基礎理論として意味を失っていない。
 しかし、大問題となってきたのは、労働価値説である。
 労働価値説というと多くの人々、特に専門家でない人は、すぐに相対価値論を考えるようである。相対価値論というのは、一定量の商品Aと一定量の商品Bが同じ価格であるとき、それらに投下された労働量は同じである(例えば10時間労働の産物である)といったことである。
 この相対価値論が証明しがたい議論であることを説明するのは、それほど難しいことではない。実際、例えばインド人の生産する商品£100と英国人の生産する商品£100を比較したとき、そこに同量の労働(時間)が投下されているということはあり得ない。いま現在の数値は調べていないが、私が学生の頃(1970年代)には、労働タームで見ると、インド人の10〜20時間労働が英国人の1時間労働と交換されるというような「不等価交換」が行われているという統計があったように記憶している。いや同じ国内であっても、同じ価格の商品に同量の労働時間が投下されている(体化されている)ことはなく、むしろ異なった労働時間が「含まれている」。
 これに対して無理に相対価値論を通そうとすると、次のような議論になる。すなわち、同じ労働時間であっても、労働の密度や複雑性が異なる、と。1時間の労働生産物が2時間の労働生産物と等価なのは、前者の労働が後者の労働の2倍の密度・複雑性・その他を有するからである、というわけである。
 しかし、この論理を実証することは無理である。われわれは労働時間を計測することができるとしても、労働の密度・複雑性・その他(相対価値に影響を与える要因)を誰もが納得できるように定量的に計測することはできない。したがってしばしば論理が転倒される。すなわち、同じ労働時間でも価値が2倍ということは密度・複雑性が2倍であるということを意味する、と。だが、このように述べた時点で、それは科学が依拠している経験主義の土壌から決定的に離れてしまう。それは新古典派の依拠する心理的な「効用」が客観的に計測不能であるのと、同様である。

 しかし、翻って考えてみよう。マルクスは、ここで示したような相対価値論を主張しようとしたのであろうか?
 実は、マルクスの価値論には、相対価値論とは別に、剰余価値論と呼ばれるものがある。また『資本論』では述べられていないが、マルクスが手紙で書いた事柄がある。後者から説明しよう。
 『資本論』の出版(1868年)ののち、マルクスは親友の医師から、『資本論』では労働価値論が前提とされているが、証明されていないという手紙を受け取ったことがある。理解を得られると期待していた親友からのこの手紙に対してマルクスはむっとしたらしく、労働価値論が正しいとする返信をすぐ医師にしたためた。その内容な誰にでもわかる簡単なものである。
 マルクスは、労働が唯一の主体的要素であり、それなしでは(誰も労働しなければ)社会が一週間も存続できないと述べている。確かにそうである。もし労働価値説がそのような意味で捉えられるならば、その通りであり、否定はできないだろう。それを最も簡単なモデルで示し、数式で書けば次のようになる。
  Y=α・L   ただし、Y:生産量、α:労働生産性、L:労働時間
この意味は明確である。生産量は、労働生産性を一定とすると、労働時間に比例するという意味である。したがって誰も働かなければ、生産もされず、諸個人は死に絶え、社会は崩壊する。これは経験主義的な観察にも合致する。この数式は、マクロ(社会全体)についても、ミクロ(個別の経済主体)についても成立する。

 実は、この式を前提とすれば、マルクスの労働価値説のもう一つ(剰余価値説)も一定の条件下で成立する。(これについては後に触れる。)
 だが、それでは、相対価値論は完全に放棄されるべきなのであろうか?
 これについて結論を出すためには、アダム・スミスの『諸国民の富』(The Wealth of Nations)の記述と論理を見ておく必要があるように思われる。(以下、続く)

シュルツェ・ゲーヴァニッツ 帝国主義と自由貿易 その2


 シュルツェ・ゲーヴァニッツは、ここでアイルランドとイングランドの精神史に、特に宗教改革の遂行の歴史的意義について述べます。
 宗教改革については、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」」があり、その内容は、理解の濃淡の相違はあれ、よく知られていると思います。しかし、シュルツェ・ゲーヴァニッツは、マックス・ヴェーバーの言及していない多くの事柄に触れており、きわめて興味深いものがあります。


 (シュルツェ・ゲーヴァニッツの続き)
 否定的な側面は、中世の諸個人が担い、支え、保護していた伝統と社会的結びつきの衰退、個人の精神的、国家的な解放を意味している。この運動の始まりは時間的にははるかに古く、場所的にはイタリアにさかのぼる。すでにダンテは、人間に理性があることを告げている。「汝はこれからは汝自身の司祭(精神的主人)であり、汝の侯(世俗生活における主人)である。」しかし、この目的がはじめてより広範な、経済的に指導的な国民階層についてのものとなったのは、オランドとイングランドの土壌においてであり、国民全体に到達したのはイングランドにおいてであった。
 他のすべての事の基礎となったのは、言葉の最も広い意味での伝統主義の粉砕であった。そんなに長い間、僧侶と教会が人間を宗教的な未成年扱いしており、そんなに長い間、彼は経済的な事柄において習慣と権威に選ぶことなく喜んで従っていた。そんなに長い間、近代のself made manは子供の学校にこっそり隠れていた。人間に経済的自助と自己責任を呼び起こし、「資本主義的精神」が高揚する土壌を準備するためには、過去との徹底した決別、一つの大きな精神的な打撃が遂行されなければならなかった。ヨーロッパ大陸はイングランド人を「商人根性の国民」として扱うとき、軽蔑だけでなく、同時に紳士をたらしこみ、しゃぶりつくす資本の秘密に満ちた力に対する恐怖を感じたのである。 
 しかし、この優越についての説明として「個人の解放」、「資本主義的精神」等のような言葉で安心するだけでは十分ではない。資本主義的精神自体は、きわめて複雑な精神史的な発展時代の所産である。教会改革との関連について、マックス・ヴェーバーは、最近、輝く強烈な光を投げかけた。(教会の)祭壇神聖視的伝統と権威は、カルヴィニストが全人間仲間から離れ、神だけに対峙するあの孤高の高みの下に深く横たわっている。説教からも秘跡からも救いを期待しない人、独自の解答を求めて聖書を解釈する人、人間に頼らず友情をさえ被造物神化として疑う人は、経済的自己規定の入口に立つ。疑いなく、そのような「異端者の資本家」は、すでにペティが示したように、資本主義発展の重要な経過点である。これは、ロシアについては、今日古信仰派(正教会から分離した宗派)とストゥンディスト(時間派と呼ばれた宗派)の間で繰り返されている現象である。だが、後には資本主義的精神は宗教的な支えをもはや必要でなくなり、純粋に此岸の土壌に自分の家を建てた最近の金融家で完成する。それは、宗教改革時代人の宗教的な寄せて砕ける波が引いた後では、沈殿物として余計なものとなっているあの本質的に否定的な世界観の土台で満足している。
 そのような「近代的な貨幣人」に対して、やっかいな世界観の問題を出してみよう。彼はそこから喜んで「実践的な」質問に移ってゆく。われわれが彼に見いだすわずかな、ステレオタイプの一片の制度は、総じて「イングランド製」(made in England)であり、しかも18世紀型のそれである。われわれはそれを次の文章をもって、三つの方向で簡潔に記述することができる。
 a. 長い間、人間は此岸について、価値ある彼岸に至る短くて、どうでもよい遍歴の旅と捉えており、長い間、彼の此岸における実在を整えることは、ホテルの部屋での退屈が家に向って急ぐ客にとってどうでもよいように、どうでもよかった。高みを目指す精神は修道院の現世逃避に入った。今でも、古風なアイルランド人、ロシアの農民、総じて多くの所で生活している中世的な人間はそのように考え、行動する。資本主義的精神は、実在の此岸化を求める。マックス・ヴェーバーは、ピューリタンにとって彼岸は確かに目的として存立しているが、此岸が選ばれた者と神の主人化の守護の領域としてどのように意義を得たかを示している。しかし、後になって彼岸は色あせた。それとともに子供と動物のナイーブな形而上学がふたたび打ち立てられ、それは啓蒙によってただ理論的な形にまとめられた。現実的なものは外的な、われわれから独立した物であり、それは経験によって模写される。その際、人間に固有な活動は重要ではないと考えられ、ますます背後に退く。つまり経験主義である。このような彼岸の廃止のための範式を見つけることがイングランドの哲学の課題であった。「反省」は「感覚」と組み合わされて、最終的に放棄される。
 実践的な関連では、発展は倫理を神学と形而上学から分離することに、エゴイズムの運動根拠に対する共感的なものを無視することに行き着いた。それとともにあの、近代の貨幣人を包摂する実践的な唯物論が発生した。イングランドの倫理哲学の発展全体が、ヘンゼルの強調するように、一目散にこの方向に向かい、それはベンタムにおいて頂点に達する。
 ベンタムではないとしても、何千人もの頭脳にあるベンタムの精神が、「地質学者の捉えられた水が地殻を粉砕するように、旧世界を粉砕した」。ベンタムにあっては、ほんのちょっと前のイングランド急進主義者と異なって、宗教的な前時代の記憶は完全に失われている。その倫理は純粋に此岸的である。善意の欲求は、エゴイズムの計算に還元されている。「最大多数の幸福」は、そうすれば個人の啓発されたエゴイズムにとって有用として現れるという理由づけだけで、追求される。統治者にあっては、通常、個々の利益が統治されるものの利益と乖離しているので、国家権力の所有者を最大多数の幸福に結びつけるためには人為的な統制手段が必要である。ベンタムの偉大さは、彼の首尾一貫した、しばしば学術的な一面性にある。それより好意を持てるが成果に乏しいのは、「すべての参加者の幸福」を倫理的な基準とし、功利主義から個人の幸福の犠牲者を蒸留しようとしたジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)である。
 求められる快感は、粗雑にも感覚的に捉えられ、それで事実上の一般的有効性という利益がもたらされる。食事、飲み、性交。洗練されたもの、おそらく希少な性質のものには「より高い」効用が考えられよう。美術的に形成された環境、芸術的な生活がスローガンとなり、その背後には単純な功利主義が隠れている。芸術(かつて高貴な世界の娘だった)は、贅沢の侍女となり、近侍、maitressen, 競馬、および多くの人の尊敬する「社会的地位」と同列に低下する。粗悪なものと素敵なものを慎重に混合する両種の快感を理解する者は最も確実にすすむ。ベンタムに従ってすべての快感を同等なものと見ることは最も首尾一貫している。ベンタムの考えでは、何か高貴なもののために音楽と詩歌を、事情によってはあれより多くの効用を準備することができるボーリングとして説明することは常套語句である。
 この教えの実施可能性は、生命の体系化を求めており、ピューリタンの自己管理はその前例を提供している。様々な効用と負の効用の感情は一様ではない。その量的な相違は、功利主義の求めているあの比較計量を妨げる。それを実践的に実施するためには、共通の名称が必要である。これを提供するのは、資本主義経済制度の土壌の上では、貨幣である。すべての効用は、名誉も愛も、貨幣で購入することができ、貨幣で交換可能である。「貨幣は、総じて個々の目的に特別の関係を持たないので、目的の総合のためにそのようなものを獲得する。」貨幣は決して目的とはならない。貨幣の中では、人間の目的設定のすべての量的相違が量的に失われているように見えるので、人間の生命の数学的な利得と損失計算を行うことが可能であり、複式簿記がそれを指導する。この土壌の上で、(苦悩と感情を気にせずに)人間と事物を純粋に理性的に、有効な簿記の目的に沿って取り扱う、あの型の人間が完成する。この経済的な急進主義は、ジンメルが正当にも強調するように、倫理には無関心である。しかし、まさにこの故に、それには世界を根本から変えるのに必要な意思の衝動が欠けている。それは功利主義的世界観の実践的エゴイズムと結びついてはじめて経済的前時代を粉々に粉砕する破壊力を与えられる。
 この見解は、リカードウで頂点に到達する。リカードウにとって、有効な簿記はすべての人間存在の目的をなしている。アダム・スミスに対立して、彼は、「純所得」が個々人にとってだけでなく、どれだけの人間があの所得の産出に従事したかに関係なく、国民全体にとって決定的な利益であると説明する。

ハイエクは、そんなに偉大か? その2

 ハイエクの「経済学」(というより後で述べるように「思想」)は、決して難しくありません。むしろ、その発想は驚くほど簡単です。彼の著書としては『隷従への道』が有名ですが、それを含む彼の著作の主張は次の2点にまとめられます。もちろん、彼は様々なことを述べていますが、その他のことは概ねこの2つの主張の「系論」(colorary)です。
 1 自由な経済活動とは「自由市場」における活動である。
 2 それを超え、社会的なものを志向する活動は、必ず諸個人の社会全体への「隷従」をもたらす。

 1 われわれは日常的に経済活動をしています。例えば市場で食料品を買い、貨幣を支払います。その時、肉や魚の値段を見て、購入するか、別の商品を買うか、別の店に行くかなどの決断をします。そのような日常の市場における諸個人の経済活動、これはハイエクにあっては「自由な経済活動」、彼の推奨する人間の活動です。
 2 しかし、社会的なものを志向する活動は、性質が異なる、とハイエクは言います。一例だけあげましょう。例えば所得格差が拡大しているとします。この場合、もちろん、まず所得格差が拡大しているという社会全体の傾向に対する知識が前提となります。その前提にもとづいて妥当な政策が追求されることもあるでしょう。例えば第二次世界大戦後に普及したように、累進課税制度が議会で制定され、実施されたように、です。
 しかし、ハイエクは、それこそが「隷従」を導く、社会的なものを志向する行動であるといいます。彼の見解では、それは「設計主義」、つまりあらかじめ社会全体を特定の方向に導こうとする思想に帰着し、結局は社会全体における諸個人の隷従を導くことになるというわけです。もちろん、ソ連の計画経済などはもっての他であり、ひとたびそのようなものが出来上がると、元に(どこへ?)戻ることができなくなるということになります。

 ハイエクのいくつかの系論(持論)は、ここから出てきます。
 1 近代の思想家のうちロック(John Locke)は個人主義の土壌に立脚するがゆえに、正しく、擁護される「べき」であるが、ルッソー(Jean Jack Rousseau)は、社会的正義の思想を含むがゆえに間違っており、危険であり、避ける「べき」である。
 これは社会思想に価値評価(べき)を持ち込むものですが、実際に彼の社会思想史に関する研究を読めば、事実であることがわかるはずです。
 2 自由市場における諸個人の「自由な行動」は許されるが、それを超える社会的な志向をもつ行動は許されない。したがって、チリの有権者の行動は、それが「自由と権利」(民主主義)にもとづいた行動であっても許されず、民主的・社会主義的な志向を持つアジェンデ政権も許されない。これに反して、それを阻止しようとした自分の政治的行動は許される。

 いやはや、である。「隷従」(全体主義)に至る道は、すべて阻止すべきである。たとえそれが人々の「自由と権利」(民主主義)を踏みにじり、人々を死に追いやることがあっても、だというわけですから。人の死は、個人的自由を守護するためには、何でもない!

 しかし、これこそ彼が自由主義という「隷従」の道に人々を追いやっている行為に他なりません。彼は言います。<私の言うことが正しい。言うことを聴かないと、ただではおかないぞ。>
 『アニマル・ファーム』(1984年)という小説があります。一人の社会的理想に燃えた人が理想的社会をつくろうとして結局は独裁国家を生むことになるというものであり、しばしばソ連社会主義を批判するものと解釈されています。しかし、それは実は、ハイエクにもあてはまります。市場自由主義という理想(ただし、彼は自由市場経済が様々な問題をもたらしていることを認めており、この点では確かに他の凡庸な新古典派経済学者と異なっていたかもしれません。しかし、そんなことは普通の学生でも理解できます)を守るためには、市場的・日常的知識しか許さず、それ以外の行動は禁止する。これこそ、市場自由主義版のアニマル・ファームに他なりません。
 
 社会的志向を持つ行動が「隷従」をもたらすという思想自体が誤りであり、したがってハイエクはしばしばケインズを批判しましたが、同時にケインズによってたしなまれたりしました。


ハイエクは、そんなに偉大か? その1

 昔、ハイエク(Hayek)という経済学者がいました。
 ときどき彼を論じる本が出版されたり、「ケインズとハイエク」というようにケインズと並び称する著書が書かれたりします。
 しかし、彼はそんなに偉大な経済学者なのでしょうか? 私には決してそのように思われません。
 まず経済学者としての評価の前に、人間としての評価をしましょう。何故ならば、経済学は「モラル・サイエンス」であり、何よりも人間の物質的生活にとどまらず、精神的な生活に直接・間接にかかわる学問であるからです。
 1970年代にチリで民主的に成立したアジェンダ政権が軍事クーデターによって倒されるという事件があったことをご存知でしょうか? 今日では、その背後に米国CIAの策略があったことがよく知られています。よく「陰謀史観」の人が根拠なしに憶測で「陰謀」で歴史が作られたことを主張する場合がありますが、それと異なって数多くの史料がそれを明白に明らかにしています。クーデターのあと、多くの人々が米国の支援を受けたピノチェ政権によって迫害されたこともよく知られています。何万人もの人々が行方不明になりましたが、彼らの多くは様々な方法で、例えば飛行機から突き落とすというような方法で殺されました。
 民主主義、自由と権利を標榜する国と人々がそのようなことを行ったのです。
 ところで、その時、ハイエクは、まさに軍事クーデターを支持し、ピノチェ政権を支援する活動をしていたのです。私は人間としげ決してハイエクを許すことはできませんし、したがって彼の経済学(らしきもの)を評価する気にもなれません。
 しかし、そのことは置いておき、彼の経済学なるものをも一瞥することにしましょう。
 (続く)

2013年10月3日木曜日

マルクス 1

 元IMFのエコノミスト、Nouriel Roubini がグローバル金融危機の勃発に際して、「マルクスは正しかった」と発言したことは、その道の人ならばよく知っているだろう。
 マルクスが資本主義経済の科学的分析の点で偉大な経済学者であったことは、言うまでもない。20世紀の最も偉大な経済学者がケインズとカレツキであったとするならば、資本主義的生産様式の包括的な制度分析を行った『資本論』(Das Kapital, 1868〜)の著者は、19世紀を代表する経済学者である。
 これに対して人は言うかもしれない。彼の構想した「共産主義」は失敗し、崩壊したではないか、と。しかし、その言説は正しくない。彼はソ連圏や中国で建設された計画経済や国家社会主義を推進者ではなかった。むしろ彼はそれの批判者であった。そのことは、彼の影響下にあったSPD(ドイツ社会民主党)の綱領的文書を読むことでもすぐに理解できる。計画経済(国家社会主義)体制は、資本主義経済よりも労働者にとって抑圧的であるがゆえに彼らの目標ではないことが明示されている。計画経済がマルクスの思想でるかのように宣伝したのは、ソ連・中国の政治的指導者であり、したがってソ連・中国の共産主義の失敗をマルクスの失敗だと単純に考えている人は、知らずに、ソ連・中国の宣伝を受け入れていることになる。
 それでは、マルクス本来の思想とは何であったか? 彼は資本家のもとに従属している労働者がより多くの自由を得ることを考えており、その方法とは協同組合的な経済社会、労働者が同時に所有者・経営者でもあるような自主管理的な社会であった。
 もちろん、そのような自主管理的社会、協同組合的社会はこれまで実現されてこなかった。むしろ多くの人々は、資本主義を完全に廃止するのではなく、現存する資本主義経済を間的なものに改善する方向をめざすことに同意してきたからである。西欧諸国における社会民主主義、福祉国家とはそのようなものである。
 ここで注意しなければならないことは、資本主義、特に19世紀〜20世紀初頭に存在していたような粗野な自由資本主義もまた20世紀に失敗・崩壊したことである。(1930年以降の世界恐慌を思い出そう。)
 ところが、20世紀末の国家社会主義の崩壊時に、資本主義が勝利したという誇大宣伝が様々な場でなされ、それと同時に、社会民主主義や福祉国家を否定し、19世紀の粗野な資本主義、つまり「自由市場」の純粋資本主義に戻るのが正しいかの言説が横行した。また実際にもそうした志向を持つ「改革」が行われた。いわゆる「民営化」「小さい政府」「規制緩和」「民間活力」などのキャッチコピーに示される構造改革、マネタリズム政策がそれである。
 しかし、そのような動きはふたたび悪夢を再現しはじめた。2006年〜2008年の金融危機、大不況、ヨーロッパ債務危機などは決して偶然に生じたのではない。
 マルクスは偉大であった。もちろん、われわれは原理主義者・教条主義者になる必要はない。ケインズが偉大であっても、カレツキの経済学の方により合理的な核心があることがあるように、マルクスも絶対視する必要はない。実際、フランスのレギュラシオン理論は、マルクス、ケインズ、カレツキ、制度派の理論の最良の部分を接合し、資本主義経済の実相を明らかにする点で成功をおさめている。
 結論しよう。マルクスは資本主義経済分析において当時の経済学者をはるかに超える偉大な貢献をした。資本主義経済が本来的に持っている問題性は、現代でも未解決であり、それゆえマルクスは今でも意義を失っていない。とりわけ彼が、巨大な多国籍企業の自由や利害などではなく、むしろそれに押しつぶされそうになる多くの人々の自由(個人的自由と権利)を考えていたことは、忘れてはならない。
 われわれにとって重要なのは、「常識」として繰り返される政治的プロパガンダ(宣伝)ではなく、真実、学問的真実である。

2013年10月2日水曜日

世界経済史Ⅱ 第1回

 今日の講義の要点

1 履修上の注意(略)
2 年代・時期区分
   第一次世界大戦(1914〜1919年)
   両大戦間期(1919〜1939年)
   第二次世界大戦(1939〜1945年)
   戦後
    戦後復興期(1945〜1950年代前半)
    資本主義の黄金時代(1950年代中葉〜1973年)
    黄金時代の黄昏(1973〜1979年)
    変調=ネオリベラル政策の台頭(1979年〜 )
3 講義の焦点
   ・「所得分配と雇用」を中心的主題として、それに関係する事柄を説明する。
   ・コンドラチェフ=シュンペーターの長期波動説は採用しない。
   ・しかし、ある傾向が一定期間にわたって持続することがある。
    その歴史的事情・要因を検討する。
   ・両大戦間期=「危機の20年間」
     ドイツに対する賠償金問題、超インフレ、ナチズム
     1929年の金融危機
     1930年代の世界恐慌
     SPDの対応、ナチスによる政権掌握と軍備拡張政策
   ・第二次世界大戦 戦時体制の経済社会への影響
   ・戦後の復興 国際経済秩序、国内経済秩序の形成
     混合経済、福祉国家、フォーディズム、完全雇用の政策目標
   ・黄金時代・黄昏・ネオリベラル政策
4 若干の理論ツール
   ポスト・ケインズ派、レギュラシオン理論、SSA、制度派の理論の有効性
   ・Y=W+R         所得分配
   ・Y=C+I+G+(XーM)  有効需要
   ・Y*=σK           生産能力(E・ドーマー)
   ・U=Y/Y*         稼働率(生産能力の利用率)
   ・N=Y/ρ         雇用(労働需要、単純化した現実的モデル)
   ・規模に関する収穫逓増   
   ・合成の誤謬(ミクロとマクロの接点)

 雇用(労働需要)
  新古典派の労働市場論は、マーシャリアン・クロス(右下がりの労働需要、右上がりの労働供給)を理論的に前提している。しかし、この二つの公準は、ケインズ(『一般理論』、1936年)、ダグラス大佐(『賃金理論』1936年)、スラッファ、ドッブ(『賃金論』)、ロビンソン(『ケインズ雇用理論』)などによって批判されつくしており、成立しない。
 これに代わるケインズ=ロビンソン型の雇用理論は、若干簡素化すると、N=Y/ρ で示される。すなわち、労働需要(雇用量)は、生産量(額)に比例し、労働生産性に反比例する。例えば1000単位の製品を生産する場合、一人の労働者が1日に標準的に10単位を生産することができるならば(労働生産性=10単位/人・日)、100人の労働力が必要になる。(現実には、一部分、必要労働力の非比例的部分がある。)
 ところで、生産量は、有効需要によって決まる。また労働生産性は、様々な要因(教育、技能・熟練、労働手段の性質など)によって決まるが、最も簡単なモデルでは、ドーマーが明らかにしたように、労働者一人あたりの標準的な固定資本ストック(K/L)に比例する。したがって労働力の要因を捨象すると、純投資(粗投資マイナス減価償却費)が行われている限り、労働生産性(ρ)は上昇すると考えることができる。通常の経済では、例えば景気後退のときでも純投資が行われている限り、労働生産性は上昇するので、生産額が減少しなくても、雇用量(労働需要)は低下することになる。
 これは、新古典派の労働市場論に代わり、現実をよく説明する理論である。この理論によれば、物価一定の下で、実質賃金率を引き下げるために貨幣賃金を多くの企業が引き下げると、社会全体の貨幣所得が減少し、総消費需要が低下するという結果が導かれるため、企業も投資を縮小し、総需要=総生産が縮小し、その結果、雇用はむしろ縮小する(もちろん失業者は増加する)ことになる。
 

地球温暖化? 似非科学と宣伝を超えて

 個人的な経験から話をします。
 昔、私がまだ子供だった頃、つまり保育園や小中学校に通っていただった頃の話です。西暦では1950年代〜60年代です。私の育った田舎(現在の新潟県糸魚川市)では、真冬になると沢山雪が降りました。一月、二月には晴れ間がなく毎日のように大雪が降り、子供心に「毎日雪が降り続け、降りやまなかったらどうなるんだろうか」と不安になったことを覚えています。あまりに雪が多くて、二階から出入りしなければならなくなるほどの大雪だった年もあります。
 ところが、大学に進学し、田舎を離れた頃から、つまり1970年代以降ですが、かつてのように雪が降らなくなり、年によっては雪が少し降ってもすぐに消えてしまい、「根雪」にならないことさえありました。「暖冬」という言葉が聴かれるようになったのはこの頃です。
 これはまさに「地球温暖化」を実感させる出来事だったと言えるでしょう。人間が経済発展とともに大量に放出しはじめた二酸化炭素が「地球温暖化」(global warming)をもたらしているという言説を実感的に納得させる経験だったと言ってもよいかもしれません。
 
 ところが、1990年代に入ったある年に、私の祖父が20歳の頃から70数歳までの間に書き残し、納屋に放置してあった日記(70年分)や書き物を日干ししながら、整理し、その中身を拾い読みすることがありました。その中には、東京、横須賀の他に、1920年に私の出身地に移転したあとは、そこ生じた災害(洪水、地震、火事)や、様々な出来事を記したものがありましたが、私の注意を引いたのは、暖冬化の記録です。例として昭和七年(1932年)の冬における降雪の記事の一部分をあげておきます。

 1月1日 地上雪ナシ無類ノ好天気 我軍錦州入城 ラジオ放送
 1月24日 地上雪ナク春ノ如ク日中室内温度華氏40度
  2月   4日 近隣ノ梅咲ケリ 蕗ノ玉モ出デタリ
      (以下略)

 1932年は、いわゆる満州事変の年です。
 言うまでもなく、私が1950年代や1960年代に一度も経験したことのない暖冬の記事です。<この頃にも暖冬があったのか。しかし、それは新潟県だけだったのだろうか、世界的にも温暖化があったのではないだろうか?> これは誰でもいだく疑問といってよいでしょう?
 私はしばらくして調べてみました。そして、1920年代から1930年代にかけての時期に「地球温暖化」があったことが間違いないことを発見しました。例えば北太平洋、北大西洋の海水温は、1920年頃から1930年代にかけて上昇していたことが知られており、日本海沿岸でも同様な傾向があったようです。(例えば http://www.climate4you.com/ ) 
 
 ところが、その後、1950年頃から1970年頃にかけて地球規模の寒冷化がありました。それはちょうど私の幼年時代に重なっています。根津順吉という人が『寒冷化する世界』という本を1974年に出版しています。
 
 この事はこの数十年の間だけでも気候の大きな上下変動があったことを示しています。もとより私は、ここに示した事だけで地球の気温変化について何か科学的に意味のあることを言おうとしているわけではありません。ただし、自分の狭い経験だけで、何かあることを盲信することの危険性を示しているということはできるでしょう。
 次のような言葉があります。
 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」
 ともあれ、上のことは、私が「地球温暖化」という言説を盲信するのではなく、様々な見解とその根拠を調べようと思ったきっかけです。その頃、ある人(元名大教授ですが、ここでは名前を伏せておきます)から人間が化石燃料の燃焼によって放出した二酸化炭素が地球温暖化の犯人であることを科学の名前の下に明言することはほとんど不可能であること、地球はこれまでもまだ科学的に明確には解明できていない何らかの要因(太陽黒点や地球との位置関係の変化、地球大気など)によって変動を繰り返して来たこと、を教えられもしました。
 
 日本では、<地球温暖化二酸化炭素犯人説>を自明のこととして信じている人が多い(ほとんど?)のようにも見えます。アル・ゴア氏のノーベル平和賞を受ける理由になったにもかかわらず、きわめて問題の多い著書(『不都合な真実』)が影響しているのかもしれません。もちろん科学は相異なる見解の切瑳琢磨によって発展します。もしかすると、二酸化炭素説が政治的理由(つまり「権益」)から主張されている可能性もあるかもしれませんが、もしそうならば何をかいわんや、です。

貨幣数量説 再論

 ミルトン・フリードマンの率いるシカゴ学派の貨幣数量説が成立しないことは、このブログでもすでに取り上げている。
 しかし、まだ一点だけ論じていないことがあるので、それに触れておこう。

 MV=PT という方程式で、右辺は商品の生産額(価格×生産量)であり、左辺はその取引を可能とする貨幣的要因である。左辺は貨幣量×貨幣の流通速度を意味する。
 シカゴ学派は、左辺の中央銀行によって決定される外生的・独立的な貨幣的要因(特に貨幣量M)が右辺(特に価格P)に影響を与えると説き、その際、時間差(半年から2年ほどの間で変動する)を根拠にMの変動が原因であり、Pの変動が結果であると主張する。時間的に先行する要素が原因であり、後で生じる要素が結果であることは、否定できないというわけである。例えばある人(A)が別の人(B)をたたいたので、B が怒る場合、Aが最初に行った「たたく」という行動が原因であり、Bの「怒り」はその結果である、のと同じである、と。

 しかし、それは決して正しくない。事はそれほど簡単ではない。
 貨幣数量説の方程式を、フリードマンは左辺から右辺にむかって読む。あくまでMVが外生的、独立的な原因であり、PTが従属的な原因であるというわけである。これが間違いであることは、すでに説明しているが、ここでは時間的先行についてのみ触れておこう。
 まず結論を先に示せば、PTが独立的な原因であり、MVが結果であっても、MVが時間的に先行することはありうる。何故か? それは、経済においては、生産量(T)を増やすという行為に先行して、その意思決定と準備が行われるからである。上のA、Bのけんかの例と異なって、行為は瞬時に行われるわけではない。
 企業は生産量を増やすという決定をすると、生産拡大に先行してより多くの労働者を雇い、賃金を支払いはじめる。また原材料の購入等のために事前に運転資本を増やすことを余儀なくされる。もちろん、それはまだ生産量が増えていない段階で貨幣需要を拡大する。
 時間差が発生するもう一つの理由は、貨幣に対する(実物生産のための需要ではなく)金融的需要に求められるかもしれない。資本主義経済においては、金融資産の価格が上昇するときにキャピタル・ゲイン(つまり資産の売買差益)が生じることは常識である。それは貨幣需要を拡大する。ところが、キャピタル・ゲインの増加は、資産効果を通じて消費需要を、したがってまた投資需要を刺激する。その結果、生産量が増加する。この過程を全体としてみれば、貨幣需要が先行的に増加して、次に生産量が増加し、その結果、好況の中で物価水準が上昇しはじめることになる。
 このことは、MV=PT という方程式の別の限界をも示す。そもそもこの式は、すべての貨幣が商品取引のために使われ、金融資産取引に使われることを示していないのであるから。

 というわけで、MVが時間的に先行し、PTがある時間差を置いて生じるという「事実」は、MVがPTの原因であったり、MがPの原因であることを示すものではない。
 
 フリードマンとシュワーツの研究手法は、1970年代の石油危機時にはあてはまらないし、さらに皮肉なことに、マネタリズム(数量説)にもとづいて英米で行われた1979〜1982年の実験時にはなおさらあてはまらない。マネタリズムがすぐに信用を失墜し、投げ捨てられた所以である。