2015年5月23日土曜日

バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』(In praise of idleness)

 現代の経済では、(設備)投資によって技術が発展し、労働生産性が上昇します。したがって人々が前と同じ時間働けばモノがより沢山生産されるようになり、そこで人がより沢山消費しなければ、生産しても売れないという過剰生産(または過小消費)になります。それは一部の人々が過剰となり失業するという事態を招きますが、これは言うまでもなく不況というべき事態に他なりません。
 では、どうしたらよいでしょうか? これに対するイギリスの高名な哲学者、バートランド・ラッセルの回答は簡潔明瞭で、一人一人が働く時間を減らせばよいというものです。つまり彼は(昨日のポール・ラファルグと同じく)「怠惰」(idleness)を賞賛したのです。
  
 この単純な、しかし高遠な真理を理解しない人が経済学者の中にも多数います。
 そして、そういった人たちは、失業の原因を「高い実質賃金」に求めたり、彼らが「高い実質賃金」の原因と考える政府の労働保護政策(最低賃金制度、失業保険制度、解雇規制、団体交渉権の容認など)を非難し、労働市場の柔軟化を推進しようとします。

 もっと真面目で有能な経済学者、例えばマルクスやケインズ、カレツキ、カルドア、ガルブレイスなどは、もちろん雇用量(労働需要)が生産量の増加関数であり、労働生産性の減少関数であることを理解していました。
 簡単に数式で示すと次の通りです。
   N’=Y’ーλ’  労働需要の増加率=生産の増加率ー労働生産性の増加率

 これは次のように書き換えることもできます。
   Y’=N’+λ’

 これらの式の意味は、例えばGDPが2%成長するとき、労働生産性が1.5%成長するならば、0.5%が雇用量(必要とされる労働時間)の成長に当てられる、といったようなことです。
 この場合、例えば人口(より正確には人々の総労働時間)が1%増えているような経済では、失業者は増えるでしょう。しかし、それでも、(簡単のため単純化すると)各人が自分の労働時間を1%ずつ減らすことができれば(ワークシェアリグすれば)、失業者が増えることはありません。

 もちろん完全にさぼろうというわけではありません。労働生産性の成長に応じて少しずつレジャー(自由時間)を増やしていくのであり、すばらしいことではありませんか!
 もし資本主義体制が労働生産性の上昇に応じて、働く人々の賃金所得を増やしたり、レジャーを増やしてゆくことに成功するならば、その時こそ、資本主義体制は人間の顔をした素晴らしい体制であるとして堂々と自己主張できるはずです。

 ところが、上に示したように、実際にはどうもそうしたことを快く思わない人々がかなりいて、失業の原因を高賃金に求めたり、そうした高賃金をもたらしているのが政府の労働保護政策による労働市場の硬直性であるといって、雇用の柔軟化の名の下に、労働条件の低下を求めるわけです。

 実際のところは、どうなのでしょうか? 賃金は雇用にどのように関係しているのでしょうか? 近年のOECD諸国の経済実態に即して少し紹介しておきたいと思います。が、その際も、上式が雇用と失業の問題を考える際の基本的な式であることを頭に入れておき、忘れないように願います。

2015年5月21日木曜日

万国の労働者よ、競争せよ!?

 今から20年ほど前に英国・ロンドンのハーゲート墓地にマルクスの墓を見にいったことがあります。
 入口に中年の女性がいて料金を受け取り、かつ案内をしていましたが、別のある人から事前に言われていた通りでした。彼女は私のめあてがマルクスの墓であることを見抜き、「マルクス? この道をずっと行きなさい。途中左に曲がることがあっても、決して右に曲がってはいけません。」と注意してくれました。(この意味はお分かりと思いますが、・・・。)
 さて、墓には「万国の労働者よ、団結せよ!」(Workers of All Countries, Unite!)というスローガンが書かれていましたが、今私が思うのは、そのスローガンがいまやグローバル化の進展とともに、「万国の労働者よ、競争せよ!」(Workers of All Countries, Compete!)となっていることです。
 
 実際、グローバルなメガ競争の条件下で生き延びるには、低賃金・長時間労働を耐え忍びなさい、さもなければ失業しますよ、というトレードオフの主張がマスコミを通じて宣伝され、人々の常識になった感があります。
 しかも、私が驚くのは、どう考えても将来は企業に雇われて働く労働者(従業員)となるであろうと推測される学生の中にも、(明らかに自分の利益に反するにもかかわらず)それに積極的に同調する人がいるようだということです。が、その点は置いておきましょう。
 問題は、現在のような生産年齢人口が減少しつつあり、したがって社会全体の総需要=総生産が停滞しているような状況の中では、競争の激化が多くの働くサラリーマン諸氏にとって苦しい状況を生み出すという点にあります。
 ちょっと考えてみてください。人口も増加したけれど、それ以上に総需要が急速に拡大していたようなかつての黄金時代であれば、一人一人のセールスマンは販売量を拡大することができたでしょう。しかし、総需要が増えない現在では、一人が売上げを増やせば、他の誰かの売上げがかならず低下します。それは花札のように合計点がゼロになるゼロサムゲームのようなものです。
 このような状況では、勝者の出現とともに必ず敗者が出ます。多くの人が激しいストレスを感じて、脱落すること必至です。企業内の労働生産性も当然低下します。また社会は心身ともに病んだ人々で一杯になるでしょう。犯罪者も増えるかもしれません。
 このような時に精神論をぶってもむだです。ヤマト魂と竹槍で近代装備の米軍に勝てないように、原理上無理なのですから、どうしようもありません。
 
 ではどうしたらよいでしょうか?
 総需要を増やせばよいかもしれませんが、人々にとって不要なものを無理して生産して売っても、人々が豊かになるわけではありません。
 しばしば国内で売れないならば、外国への輸出を拡大すればよいという主張をする人がいますが、よくよく考えてみましょう。われわれは自分たちで消費もしない(つまり自分の豊かさに関係ない)モノを何が楽しくて自分たちの苦役によって外国人のために生産しなければならないのでしょうか? それとも今買いたいものはないけれど、将来のためにお金は貯めておきたいということでしょうか? これは苦役によってお金を貯めることを意味しますが、私の意見では、苦役によって心身を消耗させ、結局、医療費にお金を使うことになるよりは、楽しく自由な時間を過ごした方がいいように思います。

 もっといいのは、ワークシェアリングによって一人あたりの労働時間を短くすることですが、それは労働者の競争ではなく、団結によってしか実現されないだろうと考えられます。というのは、利潤の増加を目的とする企業はそのようなことを認めたくないでしょうからです。
 実は現代の最大の問題は、こうした企業の利己的な行動原理にあると考えられます。実に企業はしばしば生産能力を拡大するために必要以上に設備投資をすることがありますが、その結果、固定費が増加して以前より販売量を増やさないと利潤を増やせなくなったり、費用の増加を人件費のカットでまかなったりするためにリストラするという行動に走ったりします。もちろん、黒田さんがどんなに異次元の金融緩和をしても事態はかわりません。問題は貨幣供給(日銀当座預金)の不足にあるのではないのですから。

 私はここで社会主義を実現しようと提案するわけでは決してありませんが、「万国の労働者よ、団結せよ!」が社会全体の共生を実現する上で、実に素晴らしいスローガンであったと思わずにはいられません。
 

怠ける権利 または労働(苦役)からの解放

 有名なマルクスの娘婿、ポール・ラファルグの著書に『怠ける権利』(Le Droit a la Paresse)という本(パンフレット)があります。
 これを見て、道学者はなんとふざけたことをと言うかもしれません。いや、道学者でなくても、多くの人もそう思うかもしれません。
 しかし、私は決してそうは思いません。むしろ、その通りとさえ考えます。
 また歴史上多くの著名な経済学者もそのように考えてきました。ただ「怠ける権利」という言葉を使う代わりに、別の言葉を用いているにすぎません。
 マルクスなら「労働からの解放」(Befreihung von Arbeit)といったでしょう。彼の時代には多くの「労働貧民」(これは私の言葉ではなく、当時の用語です)が長時間労働を強いられていました。一日、16時間労働が普通だった時代です。そんなとき、苦役からの解放は(実際に苦役をしている人にとって)いかに人間的な要求だったでしょうか。労働時間の縮小は、当時の上流の非勤労階級にとっては経済社会を破壊するような、とんでもない要求だったでしょうが、多数の庶民にとっては切実な要求だったに違いありません。(もっともそれは実現不可能な事柄としてあきらめられていたでしょうが。)
 さて、それから百数十年がたち、長期経済統計の示すところでは、労働生産性が数十倍になりました。これは、文字通りにとれば、一時間あたりの労働によって作りだされる生産物の量が数十倍になったことを意味します。そこで、もしわれわれが19世紀の生活水準に満足するならば、われわれは19世紀の数十分の一の時間だけ働けばよいことになります。もとより、そうは言っても、一方では19世紀の生活水準に満足できないでしょうし、また労働生産性が数十倍に増えたという統計をそのまま真に受けることができないことも言うまでもありません。(竹中という経済学者は、そのことを信じており、われわれの生活水準が労働生産性の上昇分による実質所得増加分上がったと述べていますが、それは事実ではありません。というのは、簡単に言えば、19世紀と現在では生産物の内容・構成が異なるからです。)
 しかし、この点を割り引いて考えてみても、現在の労働時間はせいぜい19世紀の半分になったにすぎないことは府におちません。もちろん、かなり短くなったのだからよいではないかと主張する人がいるかもしれませんが、それは労働=勤労を神聖視・労働絶対化の見解に他なりません。
 このことに対して違和感を表明した著名な経済学者はたくさんいます。古くはジョン・スチュアート・ミルがそうであり、J.M.ケインズがそうでり、またJ.K.ガルブレイスもそうでした。
 なぜわれわれの住んでいる現代経済(資本主義経済体制)では、豊かさが実現されたといわれながら、人々は労働(苦役)からの解放ではなく、より多くの富(財とサービス)を生産するために駆り出されるのでしょうか? ひとびとは、労働生産性が上昇したとき、ワークシェアリング(一人あたりの労働時間の縮小)による完全雇用の実現をめずすのではなく、特定の人々を失業させ、その上、彼らを道徳的に非難するのでしょうか? これが彼らの解明すべき一つの大問題でした。
 
 19世紀の経済学者はまた労働の解放を語るときに、「労働における解放」、つまり労働が楽しい人間的な活動となることを夢見ました。しかし、現在でも多くの人にとって労働は苦役(toil and trouble)であり続けています。その最たるものは、ブラック企業によって酷使されている若者でしょう。私は、個人的に現代の企業社会の中で激しいストレス(精神的抑圧)を毎日感じ、そこから解放されたいと願っている人々を沢山知っています。
 現代の経済学者の中には、このような問題を提起すること自体を非難し、人々をより低賃金で長時間はたからせるべきと考える(主張する)人々が沢山います。J.K.ガルブレイスが皮肉ったように、新古典派の労働市場論はその典型的な「理論」です。(「新古典派の主張は次の2点に要約できる。豊かな人は所得が少なすぎるために働かず、貧しい人は所得が多すぎるために働かない。」)
 
 この文章を読む人は、私のことをジョン・レノンの歌のような夢想家(dreamer)と考えるかもしれません。たしかに、現代の体制を前提とする限り、そうかもしれません。しかし、19世紀以来の偉大な経済学者たちが考えた労働の解放(労働からの解放、労働における解放)の理想と、豊かになったといわれている現代になお根強い成長主義・生産主義・労働強迫症の見解のうち、どちらが人間的のか、経済学を学人はよく考えてみるべきではないでしょうか?