2015年8月31日月曜日

ハイエク:特定国の政府を憎むあまり、現実の経済社会を無視した哲学

 ハイエクという経済学者がかつていた。日本ではあまり知られていないかもしれないが、とにかく「自由市場」を擁護した経済学者である。ジョン・M・ケインズと論争したことで一番よく知られているといってよいかもしれない。また『隷従への道』の著者として知られ、さらにはジョン・ロックなどのイギリス個人主義の哲学を賛美する一方、ルソーなどの平等主義を説くフランスの哲学を嫌ったことでも知られているかもしれない。
 ある意味では首尾一貫していると言えるが、簡単に言えば、ソ連の計画経済は論外であり、ケインズなどのような国家(政府)の市場経済への介入や、ルソーの平等主義哲学さえ最終的にはきわめて抑圧的な全体主義にゆきつくと主張したのであるから、その意味では相当な人物である。1970年代にチリで民主的に誕生したアジェンデ政権をクーデターで倒し、新自由主義政策(市場原理主義にもとづく経済政策)を実施するように促したのも彼である。ハイエクにとっては矛盾ではなかったのかもしれないが、CIAと軍部による反民主的クーデターとその後のピノチェ(Pinochet)によるテロ支配(弾圧、虐殺)も、「自由市場」の実現のためには正当化されたのである。
 そのような訳で日本では(またかなりの程度に世界でも)ハイエクは評判がかんばしくない。というより嫌いな人が多い。実は私も大嫌いである。
 それでも一定の評価を与える人がいるので、黙っているわけにはいかない。

 さて、ハイエクの頭にあったのは、科学(学問)というよりも「信条」「信念」「思想」のようなものだったと思うので、誰が何と言おうと、彼はその態度を変えなかったと思われる。そしえ、そのことが示すように、ハイエクの立論には独断(定言的命題)がきわめて多い。
 その一つは、彼が現実の経済社会(資本主義)が「複雑な社会」であることを認めながら、他方では、個々人の「契約関係」=「自由市場」=「競争」の連鎖であることに固執したことである。彼は現実の経済社会を構成する主体、例えば企業が決して市場、契約というカテゴリーでは説明しきれないにもかかわらず、無理にそのように議論を持ってゆく。一例をあげよう。「複雑な社会に生きる人間には、彼にとって社会過程の盲目的な初力と見えるに違いないものに自己を適応させるか、もしくは上司の命令に従うかの二者択一しかありえない。・・・前者は彼に少なくとも何らかの選択の余地を残すものであるが、後者はまったくそれをまったく残さない。」
 ここで彼は後者(命令)を「中央集権的計画」ととらえ、前者を「市場の非人格的諸力」に自己を適応することと捉え、単純化した上で、後者を非難する。それは『全体主義」への隷従を導く、と。

 なるほど、と言いたいところだが、これはまったく事実に反する。そもそも企業を構成する人々は「自由市場」または契約関係の連鎖からなるものではない。企業は有機的な組織であり、そこにも「命令」はある。その命令に逆らうことが何を意味しているかは、一度でも企業で働いたことのある人なら分かるであろう。他方、ソ連のようなかなり抑圧的と見られていた体制にも、自己を適用させる余地はそれ相応にあった。それはアレック・ノーヴなどの西側における最高のソ連経済の研究者の書いたものを読めばわかる。
 
 結論しよう。ハイエク(そしてその弟子のフリードマン)の言うことに従ったらどうなるか? 人々は企業という別の巨大組織、ガルブレイスの言う官僚組織とその命令に隷従することを強要されるであろう。それはもう一つ別の「隷従への道」に他ならない。これは単なる可能性ではない。近年の世界の新自由主義、コーポラティズム(corporatte predation)はそのことが現実となりつつあることを示している。



なぜ現代経済は不安定化したのか?

 近年の資本主義経済がきわめて不安定化したことは、経済の専門家、非専門家を問わず、多くの人々が広く認めている。
 その理由はどこにあるのか?
 グローバル化と金融化の2つの要因をあげることができよう。
 1)グローバル化
 グローバル化とは、「自由市場」、つまり市場優先主義または市場原理主義の世界的な普及であるが、これは従来からの国民経済を根本的に不安定なものとする。何故か?
 それは根本的には有効需要が不安定化することに由来する。
 比較のために、まったくグローバル化していない経済(閉鎖経済)を考えよう。このケースでは、国内の有効需要(総需要)は、次の式で示される。
   Y=C+I+G  総需要=消費需要+投資需要+政府支出
 有効需要の各項目は、よほど危機的な状況が生じない限り、安定的である。たしかに個々人は個人的な事情により消費支出の金額をかなり大幅に変えるかもしれない。またその内容(構成)は漸次的に変化する。しかし、社会全体では大数の法則が作用するため急激な変化は生じない。変化は生じるとしてもゆっくりしている。そのため投資額の変動も比較的小さい。たしかに、投資が将来の消費需要に関する期待に依存し、例えば消費支出が拡大すると企業が期待すれば、積極的な投資がなされ、機械産業はムームを迎えるであろう。また逆に消費が停滞すると期待すれば、投資も抑制される。
 問題は政府であるが、政府が(例えば1980年代のサッチャー首相や、1997年の橋本首相のように)緊縮財政をとらなけれは、経済を安定的に維持するだろう。ただし、緊縮財政は景気を急速に悪化させる(経済を不安定化する)危険性がある。例えば1980年代のイギリスでは政府は社会保障関係を中心として政府支出を大幅に縮小するというマネタリスト的緊縮政策をとった。その結果は、激しいデフレ不況であった。(これについてはイギリスの経済学者、カルドアの『マネタリズム』等に詳しい。)また1997年のように消費増税と公的医療費の引き上げを行ないながら(つまり11兆円ほどの国民の購買力を奪いながら)政府支出を増やさないような場合も、事実上の緊縮政策であり、それは国民の財布からの消費支出を2パーセントほど引き下げた。
 しかし、政府がこのような誤った緊縮政策を実施しない限り、経済は安定的である。もちろん、その場合でも、景気循環(在庫循環)は生じるであろうが、それは短期間かつマイルドなものにとどまる。
 しかしながら、開放経済のモデル(つまり現在のグローバル化した経済)の場合にはそうはいかない。有効需要には輸出と輸入の2項目が加わる。
 これは外国における景気循環に大きく左右される。これらがきわめて大きく変動してきたことは、ちょっとでも国際経済統計をかじったことのある人なら、常識である。とりわけ輸出は外国(残余の国)全体の景気に左右される。外国の経済規模は一国の経済規模に比べてはるかに巨大であり、それらが相互に関係しあっている。その大きなインパクトが貿易を通じて国民経済に与えられる。
 しかも、近年、そのインパクトが拡大する傾向がある。
 その一つの理由は、FDI(外国直接投資)と企業の多国籍化にある。先進国の企業は相互に相手の国に浸透しあっている。また先進国の企業は開発途上国に進出し、技術を移転させるとともに、低賃金を利用してより安価な製品を生産・販売し、莫大な利益を上げている。しかし、それが実現した付加価値の(すべてではないとしても)多くは企業の利潤に含まれ、配当として株主に、経営者報酬としてCEOsに支払われるか、会社の内部に留保される。先進国の労働者はその分け前を要求する力を持たず(いや、むしろ交渉力をしだいに失ない)賃金シェアーは低下する。しかも、開発途上国における「過剰労働力」のプールの存在によって「失業」という脅しを受ける。
 理由のもう一つは、金融化にかかわる。

 2)金融化
 金融化とは、金融にかかわる一握りの人々がきわめて多くの利得(金融所得)を得ることである。例えばCEOsは、株主の利益に奉仕ることによって、ストック・オプションという報酬を得ることができる。また株主(投資家と呼ばれるが、実際は投機家)は利潤の中から配当というインカムゲインを得るだけでなく、金融資産の売買によってキャピタル・ゲイン(資産の売買差益)を得ることができる。そして、そのためには株価が上昇しなければならないが、それは「株主価値」を高めるために会社のトップ経営者が利潤を、そして配当を高めるためにあらゆる方策を用いて努力することによって実現される。そして、そのような行動の中には労働者の賃金を抑制することが含まれる。さらに商業銀行や投資銀行(証券会社)、保険会社が金融化の受益者となる。商業銀行は、言うまでもなく様々な制約(例えば現金準備、BIS規制など)の範囲内であるが、自由にマネーを生み出すことができる。このマネーは、実体経済活動を行なう企業に貸し付けられることもあるが、投機者(個人や金融機関)に貸し付けられることもある。後者の場合、資産を運用する人は10倍〜30倍もの資金を借用によって得ることになるであろう。そのような巨額の資金が資産市場に流入すれば、当然、資産インフレーション(バブル)が生じる。そして、膨大なキャピタル・ゲインが生じれば、多くの「あと馬鹿」(greater fools)が資産市場に資金を投じるであろう。
 現在、つまりブレトンウッズ体制が完全に崩壊した1973年以降は、変動相場制の下で、外国為替市場自体が投機の場となり、不安定化してしまった。1980年代のBISの調査が明らかにしたように、現在、為替売買は実需取引の30倍以上に達している。これは外国為替市場が投機の場となり、為替相場が投機によって動かされていることを意味している。そのため為替相場自体が不安定化する。そして、投機によって決定された為替相場が輸出量・額と輸入量・額に大きなインパクトを与える。
 ちなみに、1973年以降も米ドルは基軸通貨でありつづけているが、それはブレトンウッズ期と同様に、ドルは不変の価値尺度であり、ドル以外の様々な通貨の価値がドルを基準として度量されていることを意味している。(ただし、ドル以外の通貨を共通のバスケットに入れて、一つの通貨と考えれば、ドル高もドル安もありうる。)
 
 近年の経済は金融化によって実体経済(賃金、設備投資など)がますます脇役の地位に追いやられてきた。これは2008年のリーマンショックの前に金融会社の利潤総額が非金融会社の利潤総額に匹敵するほどになっていたことからもうかがわれる。金融会社ではたらく人々はアメリカの全労働力の1パーセントにも達していなかった(!)にもかかわらず。
 しかも、金融化とともに登場した金融崩壊のインパクトは強烈である。それは膨大なキャピタル・ロスと不良債権を生み出し、その上、実体経済を破壊した。米国の失業率は事実上10パーセントを超えたと考えられている(労働統計局のデータ)。
 現在、人は、2008年の金融崩壊・債務危機が大した事件ではなかったと思っているかのように見える。しかし、それが大した事件とならなかったのは、中央銀行と政府がなりふりかまわず巨額の公的資金を投入したからである。その金額は米国だけでも100兆円を超えている。
 
 余談ながら、米国の金融崩壊ののち、米国のバーナンキFRB議長は、金融危機は、グローバルな(特にヨーロッパの)「投資家」が米国の保証債(財務省証券など)に向かい、米国の投資家が安全な資産に向かうことができなかったと述べ、問題をグローバルな過剰資本の存在のせいにしようとした。しかし、それは正確ではない。「過剰な資金」(投機資金)は銀行によって人為的に生み出されたものであったからである。
 
 不安定化した世界経済を安定化するためには何が必要なのか?
 その答えは一つしかない。グローバル化(「自由市場」、市場原理主義の世界的波及)と金融化をやめることである。世界の経済は地域や国の文化・制度の尊重の上に構築されなければならず、人々は決して巨大多国籍企業の要求のままに行動してはならない。金融化もまた大幅に制限されなければならない。金融からの不労所得(CEOsの不労所得、インカムゲインとキャピタルゲイン、金融機関の利潤など)ではなく、勤労所得を増やすことが個人の自由を尊重し、平等で真に生き生きした社会を創る上で重要である。
 
 1970年代から長い時間がかかったが、やっと人々はそのことに気づいてきた。

2015年8月30日日曜日

賃金はなぜ低下したか? またはPOWER to the PEOPLE by John Lennon

 賃金はなぜ低下したのか?
 1997年から現在まで、名目賃金(貨幣賃金)は趨勢的にずっと低下してきた。昨年度は貨幣賃金が増加したが、物価がそれ以上に上昇したため、実質賃金は低下した。
 なぜだろう?
 理由は簡単。貨幣賃金を決めるのは企業であり、その企業が従業員の貨幣賃金水準が低下するように決めたからに他ならない。
 それでは、企業はなぜ賃金水準がより低くなるように決めることが出来たのだろうか?
 その理由も簡単だ。労働側の力が弱く、経営側の力が強いからだ。
 そもそも企業は、費用が低いほど競争上有利である。その費用には様々な種類があるが、最も重要なのは人件費(賃金)である。もし自由に賃金を引き下げる立場を実現できれば、実際に賃金を抑制し、より多くの利潤を獲得するか、製品価格を引き下げるかして、いずれにせよ競争相手に対して有利な立場に立つことが出来る。
 しかし、賃金は労働者にとっては所得である。いくら企業が引き下げようとしても、それに対して様々な手段、チャンネルを通じて抵抗するだろう。またかつてマルクスが論じたように、その社会に特有な最低限度が存在する。もしそれ以下に低下したら、労働者の生活が崩壊し、社会自体も崩壊を免れない。この限度がどれほどかを論じることは、今ここでの課題ではないので、この点についてはここまでにしておこう。
 もう一つ賃金所得は有功需要と密接に関係しているという事情を忘れてはならない。つまり、社会全体の賃金所得(W)からはかなりの消費支出CLが行なわれる。いま、簡単のために労働者の賃金所得からの貯蓄はなく、すべてが消費されるものとすると、
   W=wN=CL   w:一人あたりの賃金、N:労働者数
 したがって個別企業にとっては、一人あたりの賃金wを引き下げ、賃金総額wNを減らすことが理に適っているとしても、社会全体では、消費支出を湿らせてしまい、景気を悪化させる可能性がきわめて高い。*
 *実際、日本では、生産年齢人口が1997年頃から減少しはじめ、それと同時に非正規雇用の多用による一人あたりの賃金率の低下が計られたのであるから、ダメージはダブルとなっている。つまり、wの低下+Nの低下→wN=CLの低下である。なお、利潤が増えるという反論がありうるかもしれないが、利潤からの消費性向はきわめて低い。したがって賃金の低下による負の影響を取り戻すことはできない。

 しかし、社会全体では景気を悪化させるように作用しようとも、個別企業にとっては、そんなことはどうでもよいのかもしれない。企業は労働側の力が弱ければ、賃金を引き下げることができる。そして、人々のより多くが貧困に沈もうと、景気が湿らせられようと、それは自分たちの責任ではないと主張することが可能である。

 それにしても、労働側の力は、なぜ弱くなってしまったのか? 
 今私は弱くなったと言ったが、強かった時はあったのだろうか? 
 少なくとも、国や地域によってことなるが、1970年代、1980年代頃までは相対的に労働側の力が強かったときがあったことは事実である。しかし、その後、ほぼ世界中で労働側の力が弱くなった。その理由はなにか?
 そもそも企業と労働者は労働契約を結び、雇用・被雇用関係に入るが、そのとき、現代の経済体制では、企業は普通独占体である。日本の法人企業のほとんどは小企業でも従業員数が100人を超えるかなり大きな企業である。巨大企業の中には従業員数一万人、数万人を超えるものがある。このような状態で、企業と労働者が対峙するとき、その力(power)の差は歴然としている。巨人とアリのようなものである。
 だからこそ、戦後の混合経済体制(ケインズ主義的福祉国家体制)の下では、政府が一定の労働保護政策を実施して、「組織された労働」=「労働組合」に団体交渉権を認めることによって「対抗力」(counterveiling powe)を与えることとなったのであり、したがって戦後の何十年かは労働側はそれなりに力を持ったのである。
 だが、企業経営者にとっては労働組合は煙たい存在である。それがなければどんなによいことだろう! 労働組合がなければ、貨幣賃金をはじめとする労働条件についてややこしいことを考えずにすむ。企業が投資と技術革新によって生産性を上げ、付加価値を増やしても、それを労働側に分配せずにすむ。企業はどんなに発展することだろうか! 企業が考えるのは、こんなところである。

 ところが、この思想は1980年代に米国と英国で思わぬ形で実現されることとなった。つまり、1970年代のハイ・インフレーションがきっかけとなり、サッチャー首相とレーガン大統領(およびヴォルカーFRB議長)の「革命」によって労働側の力が大幅に削がれることになったのである。それは一言で言えば、労働組合(組織された労働)の「対抗力」を削ぐというプログラムであったが、そのメニューはかなり多様である。ざっと示しておこう。
 1)高い失業率(当初は、高金利=米国と、財政緊縮=英国)
 2)労働市場の柔軟化(労働組合の無力化、最低賃金の引き下げ、制度自体の廃止、失業手当の引き下げ、解雇規制の軽減・撤廃、派遣などの非正規雇用の容認など)
 3)インフレーション(物価上昇)の責任をすべて高賃金のせいにする失業理論、マネタリズムの自然失業率、NAIRU(インフレーションを加速しないためには一定率以上の失業率が必要!という理論)。これが先進国の政府の公認の理論!であることは、国民には秘密にされている。構造改革はこれを推進する政策のこと。
 4)株主価値の喧伝。ストック・オプション(利潤→配当→株価が上がると経営者に与えられるご褒美。これは賃金を抑制して利潤と配当を増やそうとする経営者を増やした)、など。
 5)グローバル化(企業が低賃金国に進出し、ハイ技術を移転するとともに、低賃金を利用して低価格製品を輸入するシステム)
 6)金融化(資産インフレーション、金融危機→高失業)
 7)その他(例。すぐ上で示したように賃金の低下が景気を悪化させ、失業を増やすことなど。)
 
 これだけの反動攻勢があれば、労働側が「対抗力」を失って、賃金がさがることになるであろう。まったく単純なしくみである。

 最後に、もう一つ大きな質問をあげておこう。それは賃金が低下すれば、企業は雇用を増やという結果がもたらされ、あるいは日本の企業が国際競争力をつけて輸出を増やすという結果がもたらされ、経済の好循環が実現するだろうか、という疑問である。
 残念ながら、それはまったくない。むしろ逆である。というのは、社会全体の消費支出が湿り、消費財の生産が大幅に抑制される。すると企業は将来も消費の抑制が続くと期待し(予期し)、生産能力を拡張しようとも思わなくなる。その結果、投資需要が抑制され、生産財(設備、機械類)の生産もスランプに陥る。
 これは私の創り話しではなく、実際に近年の日本で生じたことである。小売り売上高はずっと停滞しており、純投資(粗投資から減価償却費を差し引いた額)は近年ずっとマイナスとなっている。そして、その結果、企業が利潤の中から留保した(内部に蓄積した資金)は国内では使い道がなく、日本企業の海外進出(多国籍企業化の推進)のために利用されている!
 もちろん、その背景には、一人あたりの貨幣賃金の眼をおおうばかりの低下がある。(政治的な理由で、自民党の政治家は決してこれを口にしない。)またそれと並んで、1997年頃から生産年齢人口が毎年減少しはじめたというきわめて重要な事実がある。(これが近年の日本経済の動態の根本にある事態である。これを直視しない安倍政権の政策、例えば「異次元の金融緩和」などデタラメ経済学もいいところである。)

 これに対して、1980年代以前、すなわち賃金がまだ上がっていた社会は、消費需要も成長し、投資・技術革新が行なわれ、活力に満ちていた。もちろん、いつまでも高成長が続くわけではない。しかし、1997年以降「構造改革」「雇用の柔軟化」とともに賃金を含む労働条件が悪化するとともに、企業はブラック化し、社会全体の活力も失われた。

 最後に一言。ジョン・レノンの POWER to the PEOPLE という歌がある。これは経済学的に見ても、正しい。たとえ企業経営者が組織された労働がどんなにうっとうしくても、それは社会全体から見れば必要な費用であり、むしろ景気を支える制度的保証だったのである。めざわりなものを除去したいという気持ちはたぶん多くの人々が持っているものである。しかし、本当に生き生きとした社会は不純物を含むものである。純化された社会(粛正された社会!)は活力を失う。「人々に力を」。これが日本社会の実現するべき目標である。

2015年8月21日金曜日

アメリカ合衆国が日本に戦争法案実現の圧力をかける理由

 なぜ米国は集団保障体制を日本に求めるのでしょうか? 米国はなぜ日本にとって「密接な国」(端的にいって米国)やその軍隊が攻撃されたら(あるいは攻撃されそうと日本や米国が判断したら)、日本がその国に対する攻撃をするという日本にとってきわめて危険なことを求めるのでしょうか?

 その最も重要な理由は簡単です。
 米国の「軍産複合体」、つまり政治家、ペンタゴン(国防総省)、軍事産業(ロッキード社などの軍需企業)などからなる利害共同体を守るためです。
 
 このことを説明するために、まず第二次世界大戦後の歴史的経緯を簡単に見ておきましょう。
 戦後、第二次世界大戦中に米国は「世界の武器庫」(arsenal of the world)の役割と「世界の銀行」(the world's banker)(つまり米ドルの供給)の2重の役割を果たしましたが、その役割は戦後になって終わったのではなく、ずっと続きました。まず後者については、ブレトンウッズ体制が成立し、米ドルが基軸通貨となりました。これは米国以外の国(ただしソ連圏と中国を除く)がドルを信任し、基軸通貨として受け入れることを意味しています。(1971年までは、そのために金とドルとの交換が約束されていましたが、それは同年8月15日のニクソン声明によって破棄されました。しかし、ドルは依然として基軸通貨として維持されています。)
 この米ドルの基軸通貨としての地位は、前者、つまり米国軍の世界支配を前提としていたと考えられます。実際、米国はおそろしく巨額の軍事支出を通じてそれを達成しました。1970年代に至るまで米国の軍事支出は連邦予算の50%を常に超えており、GDPの7パーセントを超えていました。特に軍事支出が増加したのは、トルーマン(民主党)、ケネディの暗殺後に大統領に就任したジョンソン(民主党)、1980年代にソ連を「悪の枢軸」として軍事支出を拡大したレーガン(共和党)のときです。そして、21世紀になってからは、ジョージ・W・ブッシュが 9.11 の後、「テロに対するグローバル戦争」の名の下にイラク攻撃、さらにアフガニスタン侵攻、パキスタン侵攻を行い、軍事支出を大幅に拡大しました。その金額は1980〜1990年代の2倍以上に達し、GDP比でも1990年代の3パーセント台から21世紀には一時 4パーセント以上の水準に上がっています。ちなみに、ジョセフ・スティグリッツの2008年に出版された著書(日本語訳『世界を不幸にするアメリカの戦争経済』徳間書店、2008年)では、ブッシュによって始められた戦争経済のための支出は3兆ドル(360兆円!)を超えると推測されています。実際、2001年〜2014年の軍事支出は3兆ドルをはるかに超えていることが明らかにされています。
 しかし、ご存知のように、イラク侵攻は失敗しました。イラクの経済社会は崩壊し、サダム・フセイン時代より悪化しています。その上、ブッシュは急速な民営化と規制撤廃をイラクで行いました。(このように戦勝国が国有財産を売却することは国際法上禁止されていることがらです。)そしてそれはイラク経済をさらに悪化させ、失業者を増やしました。まさにテロの温床を積極的に作り出しているようなものです。治安は悪化し、泥沼状態の中でアメリカ軍(兵士)も悲惨な状態に置かれています。しかし、失敗したといってもそう簡単に撤退できるわけではありません。

 さて、重要なことは、このような軍事支出がアメリカ経済にも様々な陰を落としていることです。その一つは連邦財政の負担能力が限界にきていることでしょう。そこでオバマ政権の下で2011年から強制的な軍事支出の削減が行なわれています。(下図を参照)
 しかし、いったん拡大した軍事費を縮小するのは簡単ではありません。その最大の理由は軍事支出の削減が「軍産複合体」の利益に反することです。そもそも「軍産複合体」とうのはトルーマンの後に大統領に就任したアイゼンハワーの作り出した言葉ですが、彼もいったん増やした軍事費を縮小するのがきわめて困難(むしろ不可能)だということを思い知ったでしょう。真偽のほどは不明ですが、ケネディの暗殺の背景にも「軍産複合体」があるという説があります。その状況証拠としてあげられるのが、ケネディの副痔統領だったジョンソンの時代に軍事費が大幅に拡大したという事実です。(証拠はありませんので、断定しているわけではありません。)
 オバマ政権による軍事費の強制削減ももちろん「軍産複合体」、特に軍事企業にとっては痛手です。これほど美味しいごちそうはなかったからです。軍需も名目上は競争入札されますが、ひとたび受注が決まってしまえば、金額を大幅に増やすことなど朝飯前です。
 しかし、外国(日本です!)がアメリカの兵器・武器を購入してくれれば、これほど美味しい話しはありません。アーミテッジやナイなどという人々(NHKなどは「知日派」といっていますが、日本国民から見れば、日本を食い物にしようとしている人々です)がそれをねらっていることはあきらかです*。しかも、武器・兵器の購入だけではありません。湾岸地域などの戦争に日本が参加すれば、彼らの人的負担も減るわけですから、彼らにとっては願ったりもないことです。(ちなみに、ジェームス・ガルブレイスは、昔作成された映画の「プレデター」(エイリアンと同じく、宇宙からやってきた捕食者)のようなものだと言っています。)
 *アーミテッジ・ナイのレポートはこちら。 
 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/56226 

 安保法案(戦争法案)が成立したら、日本は毎年のように米軍との共同軍事行動をさせられ、自衛官の戦死者もでることでしょう。
 しかし、心強いことに、今年になってから戦争法案に対する反対する人々が急速に増えてきました。もちろん、その理由は、法案が違憲だというだけでなく、きわめて危険だということを多くの人々が理解してきているからです。決して一部のマスメデイアが言うように、法案に対する説明不足からではありません。
 




2015年8月9日日曜日

アベノミクス 「第三の矢」は毒矢

 山家悠紀夫氏の『アベノミクスと暮らしのゆくえ』(岩波ブックレット、No.911、2014年)でも指摘されていますが、いわゆるアベノミクス「第三の矢」は毒矢に他なりません。なぜそう言えるのか、なるべく簡潔に要点を説明したいと思います。

 第三の矢。それは「成長戦略」であり、「世界で一番企業が活動しやすい国」を創り上げることをターゲットとしていることは、安倍氏本人も主張していることです。
 その具体的中身は、「「日本再興戦略」改訂2014ーー未来への挑戦」で述べられており、論点は多様と言えば多様ですが、骨組は比較的簡単です。
 そのメインの主張の一つは、投資が近年低下してきたという点にあります。実は、山家氏が明らかにしているように、日本の投資率(GDP=国民粗所得に対する設備投資額=粗投資の割合)は欧米と比べて決して低いわけではありません。しかし、日本に限定して言えば、1980年代から現在まで投資率が趨勢的に低下してきたことはたしかに事実です。
 とはいえ、問題はなぜ投資率が低下してきたのか、その理由です。「日本再興戦略」にはその客観的な理由は分析されていません。ただそこから読み取れることは、企業がもっと儲ける(つまり利潤を増やす)ことが出来れば、また企業の負担(例えば法人税)を引き下げれば、企業が自由にすることのできる利潤が増え、投資が増えるだろうという、それだけでは理論的ともいえない主張だけです。また企業が自由にできる利潤を増やし投資を増やす、高成長が実現できれば、低所得者へのトリックルダウン(trickle down)が生じるだろうという楽観的(ノーテンキな)期待もみられます。

 一見すると、これは正しい見方のように思われるかもしれません。しかし、決してそうではありません。
 そのためには、そもそも企業はなぜ(設備)投資を行なうのかを考えておく必要があります(ここでは資産価格の上昇によってキャピタルゲインを得ようとして行なう資産運用の行動=「投機」と区別して投資を企業の設備投資の意味で用います。)
 一国の経済で投資が行なわれる理由はきわめて簡単です。まず(設備)投資を行なうのは企業ですが、その大小を決めるのは、もし消費財の生産企業であれば、消費需要が将来増加し、現在の潜在的な消費財生産能力を超えるだろうとう期待(かなり不確実な期待)であり、その程度の如何に他なりません。また資本財の生産企業であれば、消費需要の増加の期待を背景にして資本財(機械や設備)に対する需要が増加するだろうという期待の程度に他なりません。
 素人が自分の「実感」(所得があり、次にそこから支出するという生活感覚)から誤解するように、貯蓄があるから投資するという回路・循環(サーキット)があるわけではありません。

 アベノミクスの「第三の矢」が毒矢となる危険性を持つものであることは、それが「供給側の経済学」の立場に立っているからです。つまり、この立場が、仮に企業の税引後利潤を増やし、投資を増やし、成長を促進するという善き意図を持つものだったとしても、実際には企業の負担を庶民に転嫁することによって国民全体の消費需要を抑制する危険性をはらんでいることに注意しなければなりません。
 それに関連して2点を補足しておきます。
 1)日本の法人実効税率が他国に比べて高いという言説について
 たしかに日本の法人税率は米国についで高く、欧州より高い水準にあることは間違いありません。しかし、企業の負担は法人税だけではありません。社会保険料負担率(税引き前利潤に対する比率)を見ると、日本は欧州(ドイツやフランスなど)よりかなり低い水準にあります。こちらのほうについては、どうして沈黙するのでしょうか? もし社会保険料負担率をそのまま(低いまま)にしておいて、法人税率を下げるだけならば、日本は世界的にみて企業負担のきわめて低い国となるでしょう。しかも、一方では消費増税のように相対的に所得の低い人々に対する課税を強化していることにも注意しなければなりません。こうした政策(税制の変更)は国民の消費支出をさらに萎縮させ、結局のところ、企業の(設備)投資に悪い影響を与えます。
 2)アベノミクスでは、1990年代から長期の「デフレ不況」が持続していたとされていますが、これはまったくの事実誤認です。「デフレ不況」と言われるような事態が現れたのは1997年以降であり、その状態は他国と著しい対照をなしています。
 1997年から現在までに日本の経済と欧米の経済を比較して一番顕著な点はどこにあるでしょうか? それは欧米ではどの国も「貨幣賃金」(一人あたりの平均賃金率と国全体の総額)を増やしてきたのい対して、日本では趨勢的にずっと低下してきたことです。もし「デフレ不況」という言葉を示す現象があるとしたら、この現象ほどふさわしいものはありません。
 ところが、上記のように、賃金からの消費支出は、有効需要の中の最も重要な項目ですから、貨幣賃金が絶対的に低下する経済が好調なわけがありません。効率賃金仮説が主張するように、人々の企業に対する忠誠心は薄れ、労働生産性にも悪影響が及び、人々の感情の「劣化」が生じます。

 要するに、日本の本当の問題は貨幣賃金総額の趨勢的低下の事実にあります。ここに目をつむって「異次元の金融緩和」(第一の矢)だ、「財政出動」(公共事業の拡大)(第二の矢)だといったところで、所詮は闘う相手を間違って風車に突進するドンキホーテにすぎません。

 それではどうして1997年以降、日本では労働者の受け取る貨幣賃金総額が趨勢的に減少してきたのでしょうか?
 事情の一つは、藻谷浩介氏が述べているように、「生産年齢人口」の減少です。これにどのように対処するのでしょうか? 私の読む限り、これに取り組もうとすることを感じさせるものは、アベノミクスにはほとんど何もありません。ただ少子高齢化が進むということを前提に対処療法を行なうだけです。
 もう一つは、政府の政策(構造改革)がむしろ事態を悪化させてきたことです。しかも、「第三の矢」もそうした政策の継続にすぎません。それは規制緩和、とりわけ労働に関する規制緩和、国家戦略特区、TPPの秘密交渉と妥結に向けた動き、原発の再稼働などなどに示されています。これらは、非正規雇用=低賃金労働を拡大し、賃金抑制をいっそうすすめ、人々を不安にして消費支出を削減する傾向を押し進めるものばかりです。(言うまでもありませんが、人々が消費を削減・抑制するのは、将来不安からすこしでも貯蓄を増やそうとするからであり、多くの人々がこれを行なうとケインズの言う「合成の誤謬」*が生じます。)
 第一の矢も第二の矢も問題の多い政策ですが、山家氏も指摘するように、一度始めたらやめられなく性質のものです。それをやめたら、株価が低下し、円高となり、経済は混乱するでしょう。これに対して第三の矢は「毒矢」となる危険性を持ちます。
 幸運にもTPPは挫折しそうですが、安心してはなりません。私たちの暮らしを悪いほうへ導く危険性を持つ政策が危惧されるからです。


 さて、こうした政策は、実は、1980年代に一時米国で流行し、すぐに失敗した「供給側の経済学」(サプライサイド・エコノミクス)や「トリックルダウン」説の再版に過ぎません。この関連を理解すれば、なぜ1980年代以降に米国で生じたことがその後の米国の経済を大きく歪めてしまったかをよく理解できますし、またアベノミクスの「第三の矢」の危険性もいっそうよく理解できるでしょう。
 そこで次にこの点に触れておきます。


 きわめてラフに整理すると、1981年から現在までの米国で生じたことは、2点に要約できます。第一に、供給側の条件を改善するために、累進課税のフラット化と法人税率の「事実上の」引き下げが実施されました。これによって米国連邦政府の税収は大幅に低下しましたが、企業の税引後利潤および富裕者の可処分所得は大幅に増加しました。しかし、このような政策の導入後、普通の企業の設備投資が増加し経済成長を加速化したでしょうか? トンデモありません。
 なぜでしょうか? レーガンの経済政策(「レーガノミクス」)は、様々な方法**を通じて労働者全体の賃金所得を抑制しました。正確に言うと、インフレが持続しているので、貨幣賃金総額が絶対的に減少したわけではなく増加はしていますが、労働生産性が増加しても、実質賃金がそれに比例して増加することはなくなりました。つまり賃金シェアーが確実に低下しました。また40年間に注意の労働者の実質賃金率も低下(!)しました。この影響は現在まで続いています。
 **高失業の状態、「株主価値」の喧伝、実質最低賃金の引き下げ(最低賃金の据え置きとインフレによる実質的低下)、グローバル化(NAFTAなど)、労働における規制撤廃などですが、ここでは詳説しません。

 ところが、労働者(99%)の取得する貨幣賃金は国民所得の最も大きな部分を占めます。そこで、賃金の停滞は、賃金からの(実質)消費支出を停滞させ、国全体の消費活動もさっぱり元気がでないという状態をもたらしました。なお、当時の米国経済を正確に理解するためには、1981年の税制改革=再建税制の前にヴォルカーFRB議長の金融引締めによる大不況、ドル高とその影響があったことを知らなければなりませんが、ここでは省略します。また、次の点も指摘しておかなければなりません。それは当時レーガン大統領の対外関係、とりわけ対ソ連政策に関連して、米国の軍事支出が(したがって軍需産業に対する武器購入額が)大幅に増加したことです。もちろん、一方で政府の租税収入が減少し、他方で軍事支出を中心に政府支出が増加したのですから、連邦政府の財政収支は大幅な赤字を計上することになりました。
 要するに、レーガンの個人的信条には反することだったかもしれませんが、1980年代の米国は事実上「ケインズ政策」を、つまり財政赤字を通じて政府支出の拡大による有効需要の創出を行なってしまったことになります。ただし、これは当時の米国の良心的な経済学者が指摘したように「福祉国家的なケインズ主義」ではなく、「軍事ケインズ主義」でした。これが軍産複合体の利益に沿うものだったことはいうまでもありません。
 要するに、企業(供給側)の条件を改善すれば、投資が増えるというのは、単なる「神話」にすぎません。 
 この1980年代以降の米国の失敗のケースに関連して、もう2つ指摘しなければならない点があります。第一に、国内で巨額の貯蓄がなされているのに、(国内需要の停滞によって)この貯蓄にふさわしい(設備)投資が行なわれない場合どうなるのかという点です。それはFDI(外国直接投資)または企業の多国籍化の動きを誘発します。その際、現実世界をよく知っている経済学者の間では常識ですが、企業は利潤が実現できるなら、大抵のところに進出します。ただし、その際、法人税や社会保障費などの負担が高いと不満を並べたり(あるいは泣いてみせたり)、また<高負担の国・地域から逃げる>という脅しも忘れません。(この脅しに多くの国の政治家が屈服するか、さもなければ積極的にPRすることもあります。)
 第二に、事が左様であれば、トリックルダウンなど生じるはずもありません。結局、巨大企業が利潤を増やし、富裕者がさらに所得と富(資産)を増やしてゆくという結果に終わることは必至です。巨大法人企業が負担を軽減され、また低賃金労働者の増加を通して賃金圧縮をはかり、利潤シェアーを増やすような政策は経済社会を決定的に破壊することになります。


*合成の誤謬(fallacy of composition)
 これは一種の論理学上の問題です。つまり、その他の事情が変わらない(ceteris paribus)という前提条件の下で、個人(またはごく少数の者)が貯蓄を増やそうとして消費を削るケースと、社会を構成する多くの人々が貯蓄を増やそうとして消費を削るケース(この場合には、ceteris paribus=その他の事情の不変が成立しない)は、論理的にはまったく別のケースです。前者では個人は貯蓄を増やすことができますが、後者は恐ろしい不況を招くでしょう。同様に、一企業が賃金を抑制し、それに応じて価格を引き下げることに成功した場合、その企業は販売量=生産量を増やし、雇用を拡大することができると考えてもよいでしょう。しかし、一国の多くの企業がそのようなことを行なった場合は、事情が異なります。当該国の賃金所得は低下し、消費需要は停滞し、雇用環境の悪化が危惧されます。
 現代の深刻な経済問題が供給側(企業側)ではなく、むしろ需要側(労働者の賃金所得、消費支出)の側にあると考えられる所以です。
 経済成長(もしこれが求められるならば)の本当の回路は、複合的であり、<消費需要の増加→投資需要の増加→技術革新・生産能力の拡大>および<消費需要の増加→賃金と利潤の妥協的な増加>という回り道(detour)に他なりません。一部分だけを近視眼的に見るのは、決して正しい見方ではありません。


2015年8月4日火曜日

ジョン・ガルブレイス The Economics of Innocent Fraud, 2004.

 日本語訳は、佐和隆光訳『悪意なき欺瞞』、ダイヤモンド社、2004年。
 「悪意なき」の原語は、innocent 。裁判所で「無実」「無罪」という意味で使われている語だから、「無罪放免されている」といった意味であろう。つまり、本当は有罪なのだが、無罪のままにされている欺瞞(Fraud)という意味だ。

 このようにジョン・K・ガルブレイスが「無罪放免されている経済学」と考える思考法の中でも重要なものをいくつかあげておこう。

 1)政府(公的セクター)と民間セクターを分離し、まったく異なったものとする欺瞞
 2)政府だけが官僚制であり、民間セクターは違うという欺瞞
  実際には、「経営」という言葉が選好される民間セクター、営利企業にも官僚制は存在する。
 3)民間=「自由市場」(?)を持ち上げながら、裏で政府を利用する欺瞞
 4)金融に対する欺瞞
 5)「軍産複合体」の実態を隠しながら、その支配を正当化する欺瞞
  実際に、ペンタゴン(国防総省)と政策を支配しているのは、軍事産業であり、政府、軍事産業、軍人の間に利益共同体が存在する。

 ガルブレイスがとりわけ最後まで大きな関心を持っていたのが「軍産複合体」だ。 

 「軍産複合体」というのは、故・アイゼンハワー大統領が退任する間際に述べた言葉であるが、ガルブレイスもこの「軍産複合体」がアメリカ社会、そして世界の人々にとっての最大の脅威であることを認識していた。次はガルブレイス生前の最後の言葉でもある。

 「戦争が現代文明社会を脅かす最大の脅威であることは、疑いを容れまい。そして、新兵器を企業が軍に売り込むことが、戦争の脅威をあおり、戦争を支持することになる点もまた、疑いを容れないだろう。爆撃による破壊と殺戮を正当化し、爆撃を行なった軍人を英雄扱いするのも、結局のところ、戦争にコミットする企業なのである。」

 「英米両国は、目下、イラク戦争後の辛酸をなめている。イラクの若者たちの計画的殺戮、そして年齢と男女を問わない無差別殺戮を、米英両軍が実行するのを、私たちは見て見ぬふりをしてきた。実際、第一次と第二次の世界大戦中と同じく、私たちには抵抗のしようがなかったのだ。私が本書執筆中にイラクで起きたことは、あまりに度が過ぎていると言わざるを得ない。」
 
 「いまもって戦争は人類の犯す失敗の最たるものである。」

 ガルブレイスの最後の発言が「軍事」「戦争」についてだったことを重く受けとめたい。





2015年8月2日日曜日

ジェームス・ガルブレイス『プレデター国家』(2008年) 5

 ケインズ主義? ニューディール?
 その通り。だが、ケインズ本来のケインズ主義ではなく「軍事ケインズ主義」(Militarist Keynesianism)と呼ぶべきものは行なわれている。また1930年代とは内容が異なるとはいえ、「ニューディール」は持続している。

 1981年、大統領に就任したレーガンは、いわゆる「再建税制」を実施した。それは、(1)減価償却期間の操作によって事実上法人税の減税を実施するとともに、(2) 所得税の減税、とりわけ高所得部分にかかる税率を大幅に引き下げることによって累進課税をフラット化し、富裕者の減税を実現するものだった。
 当然ながら、これらの減税によって米国連邦政府の租税収入は大幅に減少した。一方、ソ連を「悪の枢軸」と呼び、ソ連に対抗して軍事費を大幅に増額した(下図参照)。したがって1980年代初頭の米国連邦政府が大幅な赤字を計上したことは言うまでもない。
 しかし、これが意味することは何だったのだろうか?
 レーガン大統領は、この赤字を他の領域(人々の福祉=社会保障を犠牲にして)で埋め合わせようとしたが、それで赤字が埋められるわけではない。
 端的に言えば、それは不況時に「ケインズ政策」を意味するものだった。(先にヴォルカー=レーガンの金融引締政策が米国経済を破綻させたことは述べてある。)ただし、それは人々の福祉の向上を目的とした本来のケインズ政策ではない。当時、米国の経済学者が用いた言葉では、「軍事ケインズ主義」(Militarist Keynesianism)だ。それが武器弾薬に対する有効需要(軍需)の創出を通じて米国経済を回復させる効果をあったことは説明するまでもないだろう。アメリカの軍事費はあっという間に1970年代末の三倍に拡大した。しかし、これも言うまでもないが、軍事産業の成長は決して人々の福祉を向上させるわけではない。
 ここでもう一つ指摘しておかなければならないことは、レーガンが「新自由主義政策」(低圧経済政策)・マネタリズム・供給側の経済学を志向しており、ケインズ的福祉国家政策を嫌っていたにもかかわらず、政府支出の拡大による「ニューディール」(ケインズ政策)を実施したことである。それは決して国家の役割を縮小するものではなかった。

 同じことは、G・W・ブッシュ(共和党の大統領、息子)についても当てはまる。富裕者の減税は彼の政策の目玉である。一方、2003年から2008年にかけて軍事費は2倍に拡大した。しかも、この拡大は「変化」を訴えたバラック・オバマ(民主党の大統領)の時期にも続いた。もちろん軍事費の拡大は主にイラクに対する戦争によるものである。その額は7000億ドル(日本円で100兆円弱)に達した。凄まじい金額というしかない。また、これが連邦政府の財政赤字と累積債務の原因となったことも言うまでもない。そして、この連邦政府の軍事支出が航空機産業(ほぼ軍需産業と見なされる)と石油産業を潤した。つまり、レーガン大統領の時代と同じく「軍事ケインズ主義」の構造(ニューディールの持続)が再現したわけである。
 誤解のないように断っておくと、ケインズ自身は決して軍事産業を擁護したわけではない。彼が生きていたら、むしろそれを激しく非難しただろう。それにもかかわらず、これまで述べてきたことは、ケインズの有効需要の理論が正しいことを示している。
 政府支出はそれに照応する有効需要を創出するのである。 
 
 さて、ジェームス・ガルブレイス(2008年)は軍事に関しては指摘していないが、彼が指摘するように、プレデターは仲間・従者よりも、部外者を「餌食」とすることを選好する。この場合、部外者とは誰か? 一つはアメリカの納税者だが、もう一つは外国人、とりわけ日本国民といって間違いない。軍事行動の分担と軍事費の分担、これが軍事プレデターのターゲットとなることは必然と考えられる。実際、2015年4月29日に安倍首相がオバマ大統領に対して行なった公約(「新しい日米防衛協力のための指針」。内容は外務省の資料を参照)はまさにそのような "predation" というしかない。

出典)SIPRI

2015年8月1日土曜日

ジェームス・ガルブレイス『プレデター国家』(2008年) 4

 現在のプレデターたち、つまりCEOs(経営最高責任者)、金融(商業銀行や投資銀行、保険会社などの金融機関、巨大株主など)、ハイテク企業(Tech firms)は、巨大企業(巨大株式会社、corporations)と政府をどのように利用しているか?
 ジェームス・ガルブレイスの取り上げている一例を紹介しよう。

 ヘルスケア(医療)
 現在のヘルスケアの政治は、メディカルケアを民間セクターに戻そうとする偉大な保守派のスキームなどをめぐって展開しているのではない。国家の資金がなければ、医療セクターも経済全般も崩壊するということはすぐにわかる。(メディケアがなければ、多くの高齢者の生涯貯蓄が急速に枯渇し、彼らの寿命も低下するだろう。)どんな真面目な政治家もアメリカの医者を集めて、アメリカの病院を英国の国民健康サービスの複製品に変えてしまうことなど提案しない。そんな動きは、アメリカのヘルスケアの費用を英国なみに減らしてしまい、総医療費支出をほぼ半分に減らすことになるだろう。完全な民営化はいうでもなく、そんなことをすれば、医療セクターを崩壊させ、経済を解体させることになってしまう。
 そうではない。ヘルスケアをめぐる論争は、このシステムを拡大しようとする方向で行なわれているのである。問題は、どんな条件で、また現存するプレデターにどれほどの譲歩をするか、についてである。主要なリベラル派の目標は、健康保険のカバー度であり、特に子供への拡大である。民間保険会社はこれに反対している。どうしてか? 理由は、現在の顧客の一部、つまり子供を持つ家族を失いそうだからである。保険会社の経済的機能は簡単だ。それは相対的にヘルスケアを必要としないような人々に保険商品を売ることにあり、一方で最も病気にかかりそうな人々に売らないことでもある。改革は利益を減らすことになり、健康保険会社には防ぐべき利益と、利益をもたらす資源(あの利益そのもの)の両方がある。政治的論争はまさにこの点をめぐるものであり、他の何物でもない。

 国はそのような子供を持つ家族を民間保険にとどめおくことから何か利益を得るだろうか? それはどんな家族をも民間保険にとどめることから利益を得るだろうか? ノーだ。スクリーニング(差別)なく全人口を保証することは経済的には効率的である。それは現在スクリーニングに使われている資源を節約し、それは経済的および行政的な観点からみて、より安価となるだろう。他にも、より多くの資源が実際のヘルスケアに使われることができる。ハーバードの医療経済学者、デーヴィッド・ヒンメルシュタインとステッフィー・ウールはドラーは、民間医療保険の官僚主義的な浪費が年に約3500億ドルになると見積もった。これはGDPの2パーセント弱であり、軍事予算の半分より大きい。彼らはまた、人気のある、雇主への権限委譲というリベラル派の「解決策」が非効率的であり、多数の州で堅調な効果もなく試みられてきたと指摘している。「改革のための「権限委譲モデル」は完璧な政治的論理、つまりヘルスケアに対する保険会社の圧殺をなくすという論理にもとづいている。しかし、それは経済的に無意味だ。民間保険に依存することは、普遍的なカバーレッジ(補足)を実現不能とする。」*
 この争いは、まさにそれがゼロサムだから、壮大だ。ここに私たちは、正当化するという神話のはかりしれない力を見る。あたかも問題が市場の効率性または消費者選択の自由に関係しているかのように議論することによって、機能的でない利潤プールを擁護することが正当な政治的立場と思われるようにされているのである。
 高齢者に薬品の便宜を提供するというメディケアの拡張は、妥協が成立したとき、このシステムがどのように機能するかを例示している。この場合、新しい便宜が供給され、メディカル・ケアの構成がますます化学と医薬品療法に移るにつれて長年大きく成長してきた必要を満たす。しかし、このプログラムは、製薬会社への支払いをできるだけ大きくするように行なわれたのである。悪評高くも、米国政府はこのプログラムのために購入された薬品に対する大口の割引を交渉することを法律で禁止された。他の政府機関、例えば退役軍人行政(VA)によって日常的に行なわれている割引を、である。(この便宜が立法化される前には、米国製の薬品がカナダに船積みされ、カナダの行政当局の交渉した安い価格で販売され、米国に再輸入されるといった、マイナーな輸出入産業の展開があった。いうまでもなく、この裁定は自由貿易にとってのよりよい瞬間の一つを反映するものだったが、当時力のあったうわべだけの自由貿易派には不都合なものだった。)このようにメディケア薬品便宜は製薬会社に独占価格が支払われる一方で、その支払いの重い負担を部分的に一般納税者に転嫁することを保証することに役立ったのである。

*David U. Himmelstein and Steffie Woodhandler, "I am NOT a Health Reform,", New York Times op-ed page, December 15, 2007. 


注)ちなみに、米国の一人あたり医療費は、日本の2.7倍ほど。国民皆保険制度のない国の人々がいかに高い医療費を支払っているか、その典型的な事例。
 2010年の数値:日本(3035ドル)vs 米国(8233ドル)
 http://www.mhlw.go.jp/bunya/iryouhoken/iryouhoken11/dl/02.pdf