2013年8月27日火曜日

シュルツェ・ゲーヴァニッツ「イギリス帝国主義とイングランドの自由貿易」


 19世紀および20世紀の世界史における最大の出来事は、2つのアングロ・サクソン民族の国(イギリスと米国)の<世界支配>である。世界支配という言葉に違和感を持つ人がいるかもしれないが、わずか世界人口の10%ほどの民族が世界政治的・経済的に指導的な役割を演じていることは言うまでもない。
 われわれはその事実をあるがままに受け入れており、その理由を問うことはまずない。またその事実が持っている意味も問うことはない。それは余りにも難しい問題であり、常人(大学で研究している学者も含めて)には答えることがほぼ不可能だからでもある。
 しかし、社会科学の領域では、それを成し遂げようとした巨人が存在した。カール・マルクス、マックス・ヴェーバーなどがそれである。
 ここでは、それに比べるとほとんど知られていないが、ハイデルベルク大学でヴェーバーの同僚であり、きわめて博識で知られていたシュルツェ・ゲーヴァニッツの「イギリス帝国主義とイングランドの自由貿易」(1901年、出版)*を少しずつ訳出する。また解説も少しずつ付すこととする。
 この出版物については、1901年に出版されたのち再版はされておらず、著作権は適用外となっている。したがって、原文は様々な図書館の電子媒体で閲覧することができる。
 *Gerhard von Schulze-Gaevernitz, Britischer Imperialismus und englischer Freihandel, 1901.
 なお、以下の訳文は、ざっと直訳しただけであり、日本語としてこなれていないが、逐次、改訳する。


序論 イギリスの世界権力の基礎

 世界史的な視点から見ると、19世紀の最も重要な出来事はアングロ・サクソン民族による世界支配である。19世紀の始め頃、イングランド人2人に対してまだフランス人は3人の割合だった。それ以来、英語を話す人間の数は5倍になり、今日では言語上、一人のフランス人1人、ドイツ人2人に対してイングランド人3人の割合である。英語は世界の最も広まった言語であり、1億2000万から1億3000万の人口、文化的に高い位置の平均の人口を捉えている。
 人は一つのアングロ・サクソン海について語ることができる。それは陸地面積を超えており、その他の国民および文化は、そこから一部は島として、一部は大陸(ロシア、中国)として分断されている。
 政治的には、世界の頂点に2つのアングロ・サクソン列強(英・米)が存在しており、そのうち以下では英国という世界権力を取り扱うことにする。大英帝国はまず政治的な権力組織であり、しかも世界で最も広範な帝国である。そのようなものとしてそれはイングランド海軍の海洋支配に立脚している。それは陸地面積の4分の1を、また人口の3分の1近くを捉えている。しかし、英国の世界権力は、ロシア帝国のように政治的組織であるにとどまらない。大ブリテンの政治的権力は同時に最も広い経済的な基礎の上にある。確かに英国はもはや19世紀中葉におけるように世界の「工場」、すなわち工業国家ではない。しかし、それはまだ大きな規模で世界の貨物運送者であり(世界の総トン数の50パーセント以上がイングランドによっている)、世界の銀行家、債権者である。イングランドはまだ第一等級の工業国家である。政治的世界権力とならんで、大ブリテンの経済的世界権力も健在である。
 もし一人の教養あるドイツ人に50年前にこの素晴らしい高揚の基礎について質問したならば、彼はおそらくイングランドにおける政治的および経済的な自由、議会制度、市民的職業の重視、および軍国主義の欠如を指摘しただろう。マルクス主義者ならばこの質問に対して、イングランドではブルジョアジーがきわめて純粋に支配を達成し、資本がここでは何よりもその需要に応じて大規模な国民経済全体を形成したことをもって答えたであろう。ビスマルク時代の世代のドイツ人ならば別様である。そのようなドイツ人ならば、コブデンとブライトまでの大ブリテンの世界的地位は主に政治的権力手段と絡み合わされたことを強調するであろう。イングランドの指導的な人物自身は、自由貿易時代まで他のことをあまり考えなかった。周知のようにアダム・スミスは、彼の思想にきわめて反する航海条例をイングランドのすべての商業的秩序の中で最も賢明なものと捉えている。
 事実、歴史的な反省は、英国の世界支配が生まれたあの長い生成と成長の年月の間に政治的要素を前景に引き寄せることに注目する。イングランドは、そのライバルに勝利したが、とりわけまた第一にイングランドが強国、卓越した軍事力を自分のものとしたがためにである。
 周知のように、イングランドの世界的地位は何よりもまず、短いが決定的なオランドとの戦争から、ついでフランスに対する200年にも及ぶ戦争から生まれた。
 オランダは海上商業を持ち、イングランドは、まず戦争の目的のために派遣されたオランダの東インド航行者のために考えられた軍船を建設し、海軍を持っていた。さらにイングランドはよりよい船舶建造所を持っていた。それによってイングランドは、ヴィルヘルム三世が第二級の怠惰な同盟仲間の役割に引き下げてしまったオランダの政治的・経済的な世界的地位を破った。それ以来、オランダ、つまりはじめて世界を政治的、経済的および精神的に支配していた国は歴史なき停滞に衰退し、同国はそこからようやく最近になってからドイツの後背地の高揚によって目覚めたに過ぎない。
 フランスとの争いはそれより困難であった。フランスはこの争いの最初の頃はイングランドを経済的関係では優位にあった。フランスはイングランドよりはるかに多くの人口を擁していた。フランスはコルベール以来、ヨーロッパの最初の工業国であり、イングランドはそれに並ぶものを持っていなかった。フランスは、より多くの国家収入を持っていた。植民地の領域でも、フランスは周知のように先を行っていた。北米の東部海岸へのイングランド人の定住はフランスによって後背地に追いやられていた。カナダ、ミシシッピ渓谷、ルイジアナ、繁栄する西インドはアメリカにおけるより偉大なフランスの途切れのない関連を示していた。インドでもフランスはイングランドよりも早く立ち上がっており、イギリスによるインドの領有はまったくフランス人の努力の防衛の中で——”Citoyen Tippou”に対するイングランドの戦いまでは——行われた。
 これ以外にもまだある。フランスはイングランドが性格を対抗させるしかなかった天性を持っていた。Dupleixは、インド兵、インドの租税支払者、およびヨーロッパの一握りの指揮官の間でインドを領有するための秘密を発見した。彼は、インドが国民ではなく、地理的な概念(文化的に分裂しており、外国支配に慣れており、横領者の力に従属する国)でしかないことを認識した。Dupleixの思想は、Seeleyが明示的に述べたように、後にイングランド人たちに利用された。アメリカ独立戦争の間にも、天才的な Suffren はインド洋、われわれが今日イングランドの本来的な所有物と見なしている海を支配していた。しかし、フランスは、Suffrenの学校の多数の海軍将校を国王派として処刑し、海軍の伝統を計画的に破砕することによって、革命の中でその本らの海軍を無にした。確かに Carnot は、革命運動、および頂点にあった公会によって営む国家全権を利用して、陸軍を再建した。しかし海軍は改革されなかった。この状態の中で、フランスにとってもう一度前例のない天才が現れた。
 ナポレオンの明らかに素晴らしい、また相互に関連する政策は、指導的な思想を捉えたときにはじめて統一的かつ全面的に理解することができる。イングランドに対する戦いがナポレオンにあってはすべてを支配した。彼が「第二のオレロン島」に下げようとしたイングランド。イングランドに対抗してエジプト行きの列車が整備された。イングランドに対抗してヨーロッパ大陸の征服がはかられ、それについて彼は軽蔑的に言った。「cette vieille Europe m’ennuie」。イングランドをドイツに押し込めるというナポレオンの思想は、われわれが当時のドイツ・イングランド商業の高揚を考えるならば、理解できる。フランスによるオランダの征服以来、ハンブルクはアムステルダムのエルベ河となった。1800年頃、北ドイツはイングランドの最重要な商業地域であった。1792年には9%、1800年には31.5%のイングランドの総輸送がこの商業(プロイセンの中立性を政治的にカバーした商業)にあった。イエーナのシュラフタ(ポーランド人の小貴族)は、ドイツの海岸でイギリス商品を扱うことを禁止するベルリン勅書に従っていた。ロシアに対する戦争の始めの頃、ナポレオンは書いた。「それはすべて喜劇の一幕のようなものだ。イングランド人はシナリオを変更する。」イングランドに対抗してモスクワ行きの列車が整備された。陸路でインドに到達するという思想は、ナポレオンを以前からすでに捉えていた。インドへの進撃によって、ナポレオンは海軍なしでも「航海の自由を得る」ことを望み、その際、彼は当時のイングランドにとってのインドの意義についておそらく思い違いをしていた。
 フランスに対する有為転変たる戦いで、イングランドは勝利した。フランスの敗北はファショダによって最近得られた。それ以来、フランスは植民地政策上、イングランドが許すことを許されている。しかも、ライバルでなく、仲間だからという事情の下で、だ。イングランドの勝利は、明らかに次の基礎にもとづいていた。その地理的な状態がすべての力を海軍力の一面的な形成に向けることをイングランドに許した。すでにベーコンが求め、スチュアート家以来イギリス国民がその相続財産と見なしていた海の支配がそれによって事実、19世紀の最重要な政治的事実となった。これに対してフランスは、政治家としても偉大なライプニッツの助言に反して、無益な国内戦でその力をつまらないことに使ってしまった。国内戦はおそらく今日(国内戦が始まったときの)限度に連れ戻されている。イングランドは、その内戦を給料を出して雇った大陸の強国(オーストリア、プロイセン)によって遂行した。それは後者がフランスと争っている間に世界を征服したのである。セダンにあっては、ドイツのカノン砲がイギリスのために音をたて、第二帝国とともに、ドイツ軍はエジプトにおけるフランスの権力的地位を粉砕し、それはスエズ運河の開通によって非常に輝かしく展示されたのである。
 イングランドのフランスに対するこの政治的勝利は重要な経済的結果をもたらした。この戦争の間に、イングランド人は巨大な植民地帝国を獲得し、それをはじめて独占的に搾取した。ナポレオン戦争の間に彼らは一時的にすべての海上市場を独占した。これに対して、ヨーロッパの諸国民にその意思に反して課された大陸封鎖は周知のように至るところで(例えばヘルゴランド、シチリア、ドナウ公国から)粉砕された。1807年の東プロイセンの出兵ではフランス軍は大部分が、禁止されていたがベルリン勅令に反してハンブルクから輸入されたイングランドの布を着ていた。ここには、あらゆるイングラド以外の商船隊の粉砕があった。ナポレオン戦争の間に、イングランドは4000のヨーロッパ船を自分の商船隊に併合したといわれる。例えばイングランドは、世界商業商品の積み上げ、分配の中継地となった。当時まだ乏しい量のために商業がもたらしていた高い利得のために、イングランド国民の財産の異常な増加がここから生まれた。そこで、ピットは、戦争の7年後、1801218日に議会で語ることができた。「この戦争の年を昔の平時年と比較すると、われわれの購入額およびわが商業の進展に逆説的で驚くべき像を見いだす。われわれはわが国外および国内商業交通を以前より高い段階にもたらした。またわれわれは現在の年月を、当時国が置かれていた立派な年月として眼を向けることができる。」
 もちろん後にナポレオンの政策はイングランドの富に困難な傷を与えた。それは困難な傷であるが、確かにますます新しい戦時税の計上によって財政を維持しなければならないフランスの富裕にとっても困難な傷である。イングランドはこの戦争で紙幣に移行したので、その相場は最悪の年(1813年)にも71より低下しなかったことは、大きな経済力のしるしであった。この経済的な躍進は、当然ながら政治的領域にも強く反作用したに違いない。イングランドは「一人富裕」だった。すでにスペイン継承戦争で、とりわけ革命戦争とナポレオン戦争で、それはその補助を通じて一度ならず大陸の同盟国を結集した。
 しかし、イングランドが当時経済的にもそのライバルに優位にあったとき、疑いなく純粋に政治的な因果系列以外に反作用する特定の要因がともに作用していた。私は最初の近代的な工場制度の躍進を思い出す。われわれは、確かに高い意義を持つ政治的要因を一面的に強調することを警戒しなければならない。疑いなく、その顕著さの中には、最近の心理学的に彩色された形態であれ、マルクス主義的な歴史把握に対するのと同様に、前時代の国家なしの自由主義に対しても健全な反動がある。事実、灰色の理論は次のようなものだろう。早い時期の、近代資本主義のおそらく模範的な発展はイングランドの地盤において「資本の増殖努力」からのみ(ネルソンやトラファルガーなしに)明らかにされる、と。しかし、この政治的要因、総じて「単一の原因系列」で満足することも同様に不当であろう。それでは歴史は、経済史も、「現実科学」としての性格に不誠実となる。歴史的事件が重要であるほど、その原因の分岐性を様々な側面から検討することがますます必要になる。そして、最近の歴史の中にイングランドの政治的ならびに経済的世界支配以上に重要な出来事はあるだろうか?
 イングランドがそのライバルに勝利したのは、それが強い国家を持ったからだけではなく、強い諸個人(Einzelmenschen)を持ったからでもある。
 最初に、この観点から特定の自然的な利点を考えよう。人種理論家は、ここに彼の考察にとっての豊かな土壌を見いだすであろうが、私はその不確実性のために無視しよう。ただ次のことは疑いないように思われる。すべての歴史は、これまで少なくとも文化に対する奉仕が国民の物理的な基礎を摂取することを教える、と。中世の間、文化圏の周辺にあったイングランドにとって問題となったのは、主に古い国民に対する戦いであった。ローマ人に対して、イングランドは若い頭脳の利点を持っていた。
 地理的な位置も作用した。北海の空気がブリテン島に流れて来た。その住民についてはフリードリヒ・リストの言葉が当てはまる。「海で諸国民は元気づけの水浴びをし、その手足をリフレッシュし、その精神を大きなことに感じやすくし、その肉体的および精神的な眼を遠くを見ることに慣らし、肉体からすべての国民的発展にとって妨げとなる俗物の汚物を肉体から洗い去る。」いずれにせよ、海に慣れている北イングラド人は、もうすでに大陸的な南イングランド人、特にロンドン人よりも堅い木材から彫られている。アングロ・サクソン世界の内部で最も力のある型を表しているゲルマン系スコットランド人という小国民に対して大ブリテン人はまったく何も負ってないのだろうか?
 しかし、この自然的な基礎だけが確かに決定的だったのではない。近代のアングロ・サクソン人は、ある特定の精神的刻印を帯びている。この「文化」によって、彼らは大陸の諸国民から、中世以上に今日でも、区別されている。ここでも、いわゆる「精神史」が経済史に対して因果的に考察される。
 誤解を避けるために、次の中間的な注意を許してもらおう。私は、ここでもおそらく以下と同様に、文化という言葉を一義的に、また一国民の財産の理想に対する関係としての技術および文明に対立させて、使う。理想という言葉を、私はカントに従って普遍的な意義を持つ(規範的な、事実上は普遍的ではない)目的と理解する。その際、その目的を課題として追求することは確定しているが、一方、此岸の土壌におけるその実現は不可能である。そのような目標、科学的、芸術的、倫理的、特に政治的および社会的な、最後に宗教的な目的が存在し、それに応じて文化発展または精神史の様々な側面が区別される。
 近代のアングロ・サクソン文化は、イングラドを遅くなって、しかし次いできわめて深く捉えた宗教改革によって刻印されている。カーライル以来、この精神的な転換の2側面(否定的および肯定的側面)を区別することが一般に行われている。(続く)
  

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