2014年3月11日火曜日

ロシア史と近代寒冷化

 昨日は、14世紀初頭から17世紀にかけてヨーロッパ(西欧)の寒冷化とそれに伴う様々な事件・事象について触れました。しかし、この時期に西欧諸国で大きな変化が見られるならば、ヨーロッパの東半分でも何かあったのではないかと考えるのは当然のことです。

 14世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパの東半分というとポーランド王国・リトアニア大公国とロシア(モスクワ大公国)です。
 実は、ここでもとても大きな事件・事象が生じています。それについて概略を記したいと思います。しかし、その前に当該時期にこの地域の気温がどのように変化したかを示すデータを示しておきましょう。
 次のグラフは、NOAAの「北半球」(北緯30°〜90°)における平均気温を示すデータから作成しています。元のデータは、Ljungqvvist(2010)です。本当はモスクワ市あたりの歴史データがよいのでしょうが、中欧のデータは入手できても、東欧・ロシアのデータをまだ入手できていません。そこで当面北半球で代替させておきます。


ftp://ftp.ncdc.noaa.gov/pub/data/paleo/contributions_by_author/ljungqvist2010/ljungqvist2010.txt
(温度は、各々10年ごとの平均値で表示されています。各年の変動がここに示された数値より分散していることは言うまでもありません。)

 このグラフでも概ね10世紀から13世紀にかけて温暖期があり、その後、14世紀から17世紀にかけて変動しながら気温が低下していたことが示されています。また18世紀に入り、気温の急速な反転が見られます。

 14世紀から17世紀にかけてロシアで生じた変化とは何でしょうか? 端的に言うと、次のような出来事です。

 1)ロシア人口の北部から南部への移動
 2)村落住民の移動禁止令(ユーリーの日という慣習法の廃止)
 3)動乱(smuta)と専制国家(samoderzhavie)の成立

 実は、これら1)2)3)が何故当該時期に生じたのかは、これまで大いなる謎だったといってよいかもしれません。少なくとも私にはそうでした。しかし、西欧諸国でも寒冷化を避けて北部から南部への移動、高地から低地への移動が生じたように、ロシアでも同じことが生じたと考えれば、多くのことが説明できます。

 ロシアの大歴史家 B・O・クリュチェフスキーの『ロシア史講話』などを参照にして、当時生じたことを説明してみたいと思います。

 1)出発点となる時代の社会制度
 古い時代のロシアは「分領制ルーシ」(Udel'naya Rus')と呼ばれていました。当時のロシアではモスクワ大公国が特別の位置を占めていましたが、ロシアは事実上いくつかの公国に分かれていました。そして各公国の中では、公(kniaz')の他にボヤール(boyare)という貴族階層が存在し、これら統治者階級であった公とボヤールは自分たちの領地(世襲領地 <父から受け継いだ土地 votchina)を所有していました。
 それでは、被統治者階級の村落住民(農民、krest'iane)は、どのような状態にあったでしょうか? 
 まず村落定住様式から見ると、「村と諸部落・新開村」(selo s derevniami i pochinkami)という単位がありました。村(selo)とは、通常、3、4戸の農民世帯からなる集落であり、教会が置かれていました。新開村(pochinok)とは文字通りには新たに開かれた集落ですが、通常は1戸の定住地でした。この新開村が次第に成長して2戸、3戸からなる部落に転じてゆきます。こうした古い土地台帳上の「村と諸部落」は教区(prikhod)としての役割を果たしていましたが、それと同時に行政単位の役割も演じていたと考えられています。それらは「郷」(pogost, volost')とも呼ばれていました。まだ人口が希薄な時代にあっては、農民たちはこうした郷の領域の中で自由に土地を占取すること(土地の自由占取)を許されていたと考えられています。農民たちは郷の内部で一定期間土地を耕作したのち、しばしば耕作地を放棄することがあったため、「荒廃地」(pustosh)という名称も古い土地台帳には記載されていました。
 それでは、村落住民と公・ボヤールとの関係は、どのようなものだったでしょうか? 古い時代のロシアでは、農民たちは公やボヤールに人身的に従属する「農奴」(体僕)ではありませんでした。それは、農民たちが公やボヤールの土地(世襲領地)を自由に離れ、別の公やボヤールの土地に移動することができたことからも明らかです。ただし、農民たちは公・ボヤールの土地を耕作するためには、税(=地代)を支払わなければなりませんでした。したがって公とボヤールは農民が収穫後に税を支払うまでは彼らの移動(世襲領地外への外出)を禁止することができました。一方、農民の側も収穫が終わるまでは公とボヤールの領地から強制的に追い出されることもありませんでした。農民たちが世襲領地間を移動するための期間は、収穫後の一時期(1週間ほどの期間)に設定されており、それは「ユーリーの日」と呼ばれていました。

 2)しかし、このような状態は16世紀、17世紀までには決定的に変化していました。
 まず、ロシア・ソ連の歴史家は、その理由を明示することはありませんでしたが、村落住民たちが北部から南部に移動しはじめたことを明らかにしています。例えばクリュチェフスキーをよく読めば、そのことが理解できますし、また『東欧・ロシア農業史年報』に載せられた16〜17世紀の土地所有・村落定住・人口史に関する論文は、北部の村と諸部落がしばしば放棄されて、村落人口が減少したのに対して、南部(後に中央農業地帯と呼ばれた地域)に属する諸県(トゥーラ県など)では人口が増加したことを明らかにしています。また移住の動きが南部のステップ地域に向かっていたことも明らかにされています。
 
 さて、ロシアの中心地だったモスクワ大公国の存在した東北ロシア地域から南部への村落住民の大規模な動きが始まっていたとしたら、それはモスクワ大公国、そしてロシア全体にとってかなり危機的な事態だったはずです。それは村落社会のレベルでも、政治的上部構造の領域でも大きな変化をもたらさずにはすまなかったはずです。
 実際、14世紀から17世紀にかけてはロシアでもきわめて大きな変化が生じた時期でした。その詳細をここで説明することは出来ませんが、次の点だけ強調しておきたいと思います。
 第一に、政治的大動乱の中で、村落住民の移動が事実上、また法的にもはっきりと禁止されるに至りました。17世紀前半までには、「ユーリーの日」は廃止されており、また村落住民が自分の所属する村落共同体(郷、村、部落など)=本籍地(mesto pripiski)を指定され、逃亡地から本籍地に戻されることが「法典」によって確定されました。さらにその後、農民は最終的には国内旅券制度によって束縛されるに至りました。確かに場所的な移動の自由が完全に奪われたわけではありませんが、その場合でも、村落住民は国家に対して自分の納税義務を果たすべき場所を明示することを義務づけられました。かくして農奴制が制定法によって明示されたわけではなかったにもかかわらず、農民たちが土地に緊縛されるという結果(農奴制)がもたらされました。
 第二に、政治的な上部構造においても大きな変化が生じました。一つの変化は、モスクワ大公が他の公国を併合し、また教会・修道院の領地やボヤールの領地を没収し、全ロシアのツァーリ(最終的には皇帝)になり、それとともに公とボヤールは没落しましたことに見られます。また、それと並行してツァーリ権力をささせる階層として国家勤務者階層(pomeshchiki)と呼ばれる人々が登場してきました。彼らは、国家=ツァーリに対する勤務の報酬(秩録)として一代限りで領地(pomest'e)を与えられ、国家官僚として政府を支えることになりました。こうして16〜17世紀にロシアの地で西欧人からしばしば異質な体制と見なされた専制国家が登場してきたわけです。

 要約すれば、14、15世紀頃まで支配的だった公・ボヤール体制と農民の自由移動・自由土地占取の体制は、村落住民の南部への移動(「逃亡」begstvo)の中で危機に陥り、その中からロシア的な対応として移動の禁止と専制国家化が生じたと考えられます。
 同じ危機は、ポーランド・リトアニア大公国の領域でも生じたと考えられますが、そこでも北部における人口の減少、ウクライナへの村落住民の逃亡、動乱が生じました。しかし、それは結局ポーランド国家の弱体化をもたらし、分割されるという悲劇的な結果をもたらします。
 私には、どうして近代に東欧の人口の南方への移動が始まったのか、また大動乱が生じたのか、長年不思議でしたが、ようやく解決の糸口がつかめたように思います。

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