2012年12月27日木曜日

マックス・ヴェーバーと Warm Heart and Cool Head

  Warm Heart and Cool Head. この言葉を述べたのは、イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall)です。マーシャルは、この言葉を、経済学を志す者に対する心構えとして述べました。意味はおのずと明らかです。経国済民の学を志す者はそもそも暖かい心から始めるはずだが、それだけでは不十分であり、冷静な頭脳が必要だということです。
 ところが、最近はどうもビジネスやまわりの評価、時流に乗ることにばかり夢中で、「冷たい心」を持つ人ばかりが目立つようになったように感じられてなりません。しかし、そうかといって冷静な頭脳を持っているかというと、「暖かい頭脳」の人が多くなったような気もします。というと若い人たちには酷な表現でしょうか?
 このようなことをどうして言うのかというと、マスコミでも、「経営者が安心して労働者を雇うことができるようにするためには、いつでも解雇できるようにしなければならない。そのために非正規雇用が必要だ」などと言う人が現れたからです。このような事が公然と言われるようになったのは、1980年年代以降、特にソ連の崩壊以降のことのように思います。しかし、私の意見では、このような人は心構えからして経済学者として失格です。日本がその多くを批准している ILO (国際労働機構)の条約のことも知らないのでしょうか?
 ここで思い出すのは、ドイツの社会科学者、マックス・ヴェーバー(Max Weber)です。ヴェーバーは1920年にこの世を去りますが、それまでハイデルベルク大学で経済学を講じていました。彼の論文にブレンターノ(Lujo Brentano)と共著の「社会科学と社会政策に関わる認識の客観性」(1905年)と呼ばれるものがあります。それは、社会科学的認識の妥当性は価値評価から自由であることを主張したものとされており、それはその通りと思います。ヴェーバーは、ロシアの文豪トルストイ(Lev Tolstoy)と同様に、どのように社会科学的認識を深めても特定の価値観を根拠づけることはできないという結論に到達しました。したがって社会科学者たちが特定の価値評価から出発して論争した場合、「神々の闘争」(特定の価値と別の価値との永遠の和解できない衝突)が避けれなくなり、社会科学的認識の妥当性の基準が失われてしまうことになります。そこで、ヴェーバーとブレンターノは、客観的な妥当性を持つ政策学を研究する者は、ある特定の政策理念(理想、価値、目的)が所与のものとして与えられた場合に、①それを実現するどのような政策手段が妥当か、を研究することを社会科学的認識と認めることを提案します。ただし、それだけではありません。さらに、②当該政策手段がそもそもの理念を実現する他にどのような作用(もちろん副作用を含めます)をもたらすか、③この政策手段がもたらす結果は、様々な理念に照らしてみたときにどのように評価されるか、④これらの評価に照らしたとき、当該理念や当該政策手段はどのようなものとして位置づけられるのか、を研究することも社会科学的認識の対象となりうると言います。つまり、所与として措定した理念、それを実現するための政策、それらの結果と他の理念との関係、これらすべてを反省する(reflex)ことは社会政策学の研究対象として許されると、ヴェーバーもブレンターノも考えたのです。
 さらに重要な点ですが、ヴェーバーは、社会科学の価値評価からの自由(価値自由、Werfreiheit)を論じましたが、生身の社会科学者自身が価値評価から自由になれるとは考えていませんでした。むしろ逆です。ヴェーバーは、何らの価値(理念・理想・目的)も持たず、ただひたすら無意味で無味な理論・分析装置をもって対象を眺めているに過ぎない専門家、世界の意味を問うことのない専門家を「精神なき専門人」として卑下していました。「精神なき専門人」。この言葉に込められたヴェーバーの侮蔑的な態度を最近よく考えます。

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