T・ヴェブレン(2)
ヴェブレンは、また1917年11月のロシア革命以降のロシアを注視しており、その社会的、経済的、および政治的展開を注意深く分析していた。分析の対象は、まずロシア国内であるが、それと同時にロシア国外の列強諸国(欧米諸国)であり、その「不在所有者たち」、そして「老練な政治家たち」であった。
ヴェブレンは、まず旧ロシア帝国の領域を引き継いだボリシェヴィキ政権(ロシア社会民主党ボリシェヴィキ派、レーニン派)による体制の本質が、経済上の権益の廃止にあり、そしてそれが「所有権」にも及ぶことを論じる とともに、それをめぐる欧米諸国の人々、「不在所有者」「政治家」の利害を、また階層によるその相違を明らかにする。
ボリシェヴィズム(ボリシェヴィキ政権)は、当然ながら国内では権益を持つ人の強力な反対に出会ったが、しかし、権益を持たない圧倒的な人々によって支持されている。そのことは米国に流れてくる情報からさえも明らかとなる。欧米諸国の政治家の宣伝にもかかわらず、ボリシェヴィキ政権が維持されている理由がそこにある。しかし、国外では、特に欧米のとりわけ「不在所有者」にとってはそうではない。それは「脅威」以外の何物でもない。
この論文は、The Dial, Vol. LXVI, February 22, 1919 に掲載されたものである。
ボリシェヴィズムは脅威である――誰にとって? (T・ヴェブレン、1919年)
額面通りに受け取り、その最も近い英語の同義語に翻訳すると、「ボリシェヴィズム」は多数派支配という意味である。他の同義語は「人民政府」となり、また他には「民主主義」ということになるだろう。――ただし、後者の二つの用語は前者ほどに、特にアメリカで理解されているような民主主義ほどに近い翻訳ではない。
アメリカの用法では、「民主主義」は、根底にある経済組織にかかわりなく、特殊な政治祖式の形態を示す。一方、「ボリシェヴィズム」には第一義的には政治的な意味はなく、経済的組織の形態であり、それに伴って政治の領域における――大抵は消極的な――帰結をともなっている。
しかし、論争的議論にからまっており、そこで険悪な感情の台風の眼となるどんな言葉の場合にも、語源は、それを外国で熱狂的に賛美するか非難する人々の心の中でその言葉に含まれる意味に対する確実な案内役にはなりえない。
ロシア帝国の主要な領土を支配する革命的な党派を指し示すのに今用いられているような直接的な派生によれば、「ボリシェヴィキ」は、1903年のロシア社会民主党大会の予備投票で多数派になったロシア社会主義者の特殊な党派を意味する。その時以来、その名称がその特殊な党派につけられてきた。たまたま、この名称をその時このように得た社会民主党の党派が左翼、社会主義的信条の完全主義者(極端派)だったのである。そして、これらの人々が、人類の――人がどう見るかによるが――最愛の希望または恐れの重みを今日担うことになった彼らである。ロシアの国境を越えて、彼らが限界を破り、現存体制の根本原理を押しのけるところではどこでも極端派を指し示すためにその名称が受け継がれてきた。
ボリシェヴィズムは脅威である。今日の考え深い人は誰も、その人が味方するか、対立するかを問わず、自分の過去の慣習および現在の環境の命じるところに従って、それを疑うことがない。実際、たぶん、あの友好的に無能な才能、完全に均衡のとれた心を持つような傍観者として漫然と中立的な立場にいるようなかなり知性的な人にとってさえ、それは同じであろう。彼はボリシェヴィズムが脅威であるという事実をいまだに認めなければならないであろう。ただ彼は、もし党派的感情がなければ、「誰にとっての脅威か」という疑問にも直面するだけのことである。
ボリシェヴィズムは革命的である。それは産業の領域に民主主義と多数派支配を持ち込もうとする。それゆえ、それは現存体制にとって、またその現存体制と結びついている財産を持つ人々にとって脅威である。それは私有財産、ビジネス、産業、国家および教会、法と道徳、世界平和、文明、そして人類全体にとっての脅威であるという役割を引き受けている。また均衡のとれた心を持つ人がボリシェヴィキの運動からこれらの役割のうちの一つまたはすべてを取り去ることはまったく困難であることは間違いない。
その理論的目的とその信条の点で、平等および再建の根本的原理について、この運動は、おそらく他のどんな革命運動とも同じほどまったく有益な事例であると主張することができる。しかし、実践的な点では、現存する諸条件の下でのその目的と政策の有効な作用に関しては、いままでに届いた証拠は、多少とも広範だが、まったく容易に見ることのできる闘争、欠乏(飢餓)、および流血の跡を証拠するものであると、認めなければならない。
疑いなく、ロシアの地におけるボリシェヴィズムのこうした作用の利用できる証拠は、「一握りの塩」と呼ぶことのできるものというよりは、はるかに大きい許容度をもって受け取られるであろう。疑いなく、その多くはバイアスのかかった証言であり、疑いなく残りの多くは悪意を持った嘘である。しかし、すべてを割り引いて語ったときでも混乱、闘争、欠乏、そして流血の跡が容易に見られるのである。このあらゆる悲惨な恐怖と困惑の発生のうちのどれほどがボリシェヴィズム自体によって説明され、どれほどが旧体制とその擁護者によって説明され、また非難の重荷がどれほど両者間で公正に配分されるのか、それはすべてそれほど簡単なことではない。
ボリシェヴィズムは、革命運動であり、そのようなものとして、必然的に強力な敵対者を伴っており、事物の性質上、多少とも手ごわい敵対者に会わざるを得ず、多少とも不幸な帰結を伴わざるをえない。ボリシェヴィズムのようなどんな破壊的計画も、抵抗を克服することによってしか実現できないが、それは力に訴えることを意味する。
1917年春のロシアの民主主義革命は、多数の経済的再調整を含む政治的ならびに軍事的な革命であった。その運動のメリットはここでは問題としない。現在の関連では、それは主としてソヴェトとボリシェヴィキの独裁を生み出したみなもととなる後の革命――1917年11月の革命――の土壌を準備したものとして意味を持つ。後者は、特定の政治的企てと調整とを含むとはいえ、その意図と主要な効果は経済的革命にある。その政治的および軍事的な企てと政策は、少なくとも理論上、その経済的計画に対して全体的に予備的であり、副次的である。昨年7月に全ロシア・ソヴェト大会が公布した権利の宣言および憲法の条項に対するわずかな注意しか払っていないこともそれを明らかにするであろう。決定された政治的および軍事的な方策は、経済的変化の政策を実施することだけを旨として実施されてきた。この経済政策は、少なくとも臨時的には、ツァーリ政府の発行したロシア帝国債の否認を含む現存の所有権と営利企業のシステムを率直にくつがえすものである。
ソヴェト共和国のこれらの文書は、そこで概説されている政策を遂行してとられた後の行動とならんで、「誰にとっての脅威か」という質問に対する要約的な回答を与える。その文書は、権益と普通人との間に明確な区分線をひく。そしてボリシェヴィキの計画は、あらゆる権益の単純で包括的な否認に行きつく。それが本質的に狙いとされているすべてのことである。しかし、現在進行しているようなそのように高い決定の続きは、それだけでも十分に混乱の始まり以上のものであることを示すことになる。それゆえ、その最初の意図では、またそれ自身の目的の追求の中では、この追求が関心を持つ党派によって妨げられなかった限りで、このボリシェヴィズムは権益に対する脅威であり、他の何にとっても誰にとっても脅威ではない。
そのすべてがボリシェヴィキの信条と行動にもとづく(あり得るほどの)有望な建設を表現している。またそれはすべてボリシェヴィキのロシアにおける昨年の混沌の説明としてではなく、その運動の主要な目的の記述として受け取ることができる。しかし、このボリシェヴィキの混乱の本来的な実体と原因が権益と普通人との分裂と対立であり、また争乱全体が最終的には財産と特権の権益をめぐって展開することを心にとめておくべきである。カデットのような温和な自由主義者は、またそのようなケレンスキー政権は、特権の権益を許容しない準備があるが、所有の権益の不承認には同意しようとしない人々から成立していた。
そして、ヨーロッパ列強が問題とするのはこの点についてである。これらの民主的または似而非民主的な列強は、またそれらの民主的または似而非民主的政治家たちは、ロシアにおける階級特権と役得の不承認について、残念なことと思っていても、それほど大きい関心を持っていない。もちろん、それは十分に心配なことであり、ヨーロッパの状況をまかされてきた現状の掛け金(status quo ante)のヨーロッパの政治家たちは、必然的に、亡きツァーリの支配領域における階級的特権と階級的支配の断絶をいくらか不快に、疑いをもって見守るであろう。その類のことはすべてこれらのヨーロッパの政治家たちが浸って暮らし活動している権益システムにとって不安なことである。しかし、ただそのようなものとしての特権は、結局、ごく軽いものという性質を持つものにすぎず、もしもっと悪いことが身にふりかからなければ、それだけの非実物資産の喪失を上品に譲歩するのもやむをえないであろう。しかし、所有の権益についてはそうはゆかない。これらはこれらの老練な政治家たちが保持しようと関心をいだいている・あの同じ似而非民主的現状(status quo )の本質である。「所有権の断絶」は、老練な政治家たちの体制にとっては、また彼らが心にいだく利益にとっては、「最後の審判の日」に他ならない。
老練な政治家たちが心にいだく利益は、主に交易、投資および国民統合の利益であり、またそれを超えてこれらの交易、投資および国民統合の利益の影になっている秩序ある法と慣習のシステムおよびビジネスの繁栄である。またこれらの老練な政治家たちは、名誉ある紳士であり、またそのようなものとして自分たちのパン(糧)に忠実であり、ただロシア・ボリシェヴィズムが人類の最善の利益すべてにとって脅威であるとみている。
そこで、他の国における法と秩序のずる賢い守護者の中には「ボリシェヴィキの感染」の不安な政治家らしい恐怖が広まり、それは確実にロシアの国境を越えて接触または通信してくると考えられている。法と秩序の信奉者の中にはこの「ボリシェヴィキの感染」の問題について単一の理解の一致がある。そのため予防的な孤立化の方策――感染を防ぐための検疫のようなもの――が案出されている。ボリシェヴィキの感染に対するこの政治家らしい恐れは、常に、これら他の国における普通人が感染するかもしれないという恐れである。老練な政治家たちは、政治家自身がかなり向こう見ずにさらされていることによってさえボリシェヴィズムに感染しやすいことを、あるいは軍人階級、または聖職者、または地主、またはビジネスマン全体がそのような感染を受けやすいことを深刻に理解していない。実際、権益と維持されている階級は感染を免れていることは当然のことと想定されており、またその想定が合理的だと想定されている。したがって権益の方策は、失うべき権益を持たない社会内の階級を保護するものと常に計画されている。
ボリシェヴィズムが通信によって広まるのはいつも思想、または「原理」のシステムとしてである。それは思想、思考習慣の感染であり。そしてそれが悪賢い成功をおさめるのは、それが求めるこの新しい思想の秩序が極度にシンプルであり、主にネガティブな性格を持つためである。ボリシェヴィキ的な思想スキームは、新しい多くのことを学ぶことを求めず、主に古い多くのことを忘れることを求めるので、普通人にとって受け入れやすい。それは新しい領域の先入観の受け入れを求めず、そのため新しい思考習慣を獲得するためにわずかなことしか求めない。主として、それはより古い先入観、より古い習慣的確信からの解放である。また求められている新しい思想秩序は、置き換えられるべきこれらのより古い習慣的確信がもはや普通人の生活をいまや条件づけており、またそれゆえに自分の思想習慣を曲げることによって成果をもたらす物質的環境によって支持されていないため、それだけ容易により古い先入観を置き換えることになる。
機械産業が与え、機械的に組織された社会における日々の生活の経験が強化する訓練は、所有、階級的役得および自由所得という規範的な権利を支えない。この訓練は、既存の権利システムと目的を異にする普通人の精神的態度を変化させ、十分な刺激があればすぐに、普通人がそれらの妥当性を否定することを容易にする。また普通人が自分からきわめて遠い位置に離れているこれらの権益の原理に代わるものを見つける必要もほとんどない。
たしかに、紛争全体がこれらの規範的な権利の維持と回復をめぐって生じているのであり、これらの規範的権利はビジネス取引における経験の引き起こす思考習慣の一貫した支持を受けている。またビジネス取引はこれらの文明社会で行われているような生活の大変大きく重要な一部分をなしている。しかし、ビジネス取引は、普通人の生活における基調的な要因ではなく、ビジネス利益は自分の習慣的な外観に大きく影響を与えるほどに明確には普通人の利益ではない。事物の新しい秩序の下では、実質的に、ビジネス取引と普通人の思考習慣を形作る産業的職業との間に固定し広がってゆく溝がある。ビジネス界は、このビジネス取引に従事しており、所有と所得の権利にその慣習的な中心を置いているのであり、彼らの訓練と利益が命じるように旧秩序の一貫した信奉者である。そして、これらはまた、すでに上段で述べたように、どんなに悪賢いとしても、どんな破壊的宣伝に対しても免疫がある。実際、全困難が生じるのは、彼らの慣習的な外観および物質的利益の点から見た階級の分裂からである。またこの破壊的な宣伝が脅威となるのはこの分裂のためである。両者の党派は、確信にもとづいて行動しており、それゆえ両者が妥協する中間点はない。「自分の紛争を正しく知っている者は三度武装する。」この場合、紛争の両党派は彼ら自身の大義の正しさ(正義)を確信しており、同時に両者の物質的財産がかかっていることを確信している。ここから容赦なき力への依存とその全結果が生じることになる。
最初の意図により、また一貫した目的により、ボリシェヴィズムは財産と特権の権益に対する脅威であり、ここから他のことも生じる。権益は彼らの法的および道徳的な権利の内部にあり、そこで彼らがこれらの権利を愛想よく譲ることは期待できない。失う立場にあるすべての階級、派閥および利害関係者は極端派(急進派)に対して共通の大義をかかげ、実践可能なところでは軍事力を用い、彼らが命じることのできるようない陰謀とサボタージュの方策に依存してきた。そのすべてがある意味で合理的である。というのは、これらの権益利害関係者は彼らの知識と信仰の限り法的および道徳的に正しいからである。しかし、彼らの正しい反対、陰謀および妨害の帰結は、闘争、混乱、欠乏および流血であったのであり、疑わしく邪悪な将来が先に待っている。
この紛争の直接の帰結の中には、外部に流出することのできた報告によれば、輸送システムと食料供給をはじめとしてロシア領全体における産業システムの全面的な麻痺と崩壊が含まれている。そこから飢饉、伝染病および略奪が生じ、その中には統御されたものもあり、統御できないものもある。しかしながら、部分的には、それらが習慣的に見落とされるか、それとも公表された報告を修正するために習慣的に描かれないために、思い出すのが適切な特定の傑出した事実がある。ボリシェヴィキ政権はいまや一年以上も続いている。それは一収穫期を含む。この間に同政権はとりわけこの期間の最後の数か月に地歩を得てきた。そして、この獲得は多少となりとも権限をもって組織され、多少なりとも外部から十分な支援を得た積極的および消極的なかなりの抵抗にもかかわらずなされたのである。その間に「感染」は失われた大義を意味しないような仕方で拡大している。
その間ずっとこの政権は、多少とも拡大した規模で軍事作戦を遂行してきた。そして全体として、また特にこの時期の後半を通じて、その軍事作戦は規模を拡大し、軍隊と軍需品の多少とも十分な持続的供給を証するような成功の拡大を実現してきたように見える。これらの作戦は外部からの本質的な支援なしに遂行されてきており、そのため政権はこの費用のかかる時期に国内から軍需品を供給し、その消耗を復旧しなければならなかったであろう。もちろん時々、ボリシェヴィキ政権がこの時期に資金と物的供給のためにドイツの援助に頼ってきたことが語られる。そのように言われてきたが、信じられるかは疑わしい。まったくよく知られているように、ボリシェヴィキは、ドイツ人の援助を得て獲得したよりも多くを失った。そして、どの源からの軍事的供給の輸入もほとんど遮断されてきたのである。
公式の報告の形によって内部からやってきたそのような情報は、軍隊と弾薬をはじめとする軍事物資の必要な供給が主として手持ちの在庫から国内で、また政権の統御下で戦争目的のために産業労働を受け継ぎ、かつ操作することによって供給されてきたという趣旨のものであり、このことは、産業的崩壊と機能不全が恐れられたほどには、あるいは期待されたほどには完全でも広範囲でもなかったことを証する。実際、これらの報告は、同じ一般的話題に関連する連合プレスと完全にずれており、共感を失っている。状況証拠からはぼんやりと、ロシアのボリシェヴィキ政権はアメリカにおける民主党政権と同じ驚くべき経験に遭遇してきた――産業労働を受け継ぐことにつきまとう焦り、混乱およびつまづきにもかかわらず、同じ仕事は、その所有者によって私的利得のために前に経営されたときに習慣的に実現したよりも高い効率性でボリシェヴィキ政権下で結局実現してきた――ように見える。たしかに、その点は疑わしい。しかし、公的報告によって支持される状況証拠は、全体としてそのように進んでいるように見える。
輸送システムについても何かしら同じ様な効果があてはまる。ボリシェヴィキ政権は、明らかに、連合プレスが示すよりも多くの輸送手段を引き継ぎ、それらすべてをもっとかなり合理的な状態に保つことができた。よく知られているように、軍事作戦の成功は、こんにちまったく絶対的に十分な輸送システムを必要としているのであり、多くの失敗にもかかわらず、ボリシェヴィキ政権の軍事作戦は全体的に失敗というよりも成功してきた。ここで直接に問題となっている点にかかわる限り、この推論は簡単である。疑いなくロシアの輸送システムはきわめて悪い状態にあるが、標準的なニュース会社の提供する情報にもとづいている人が報告し、恐れt、期待したほどにはほとんど完全な崩壊状態にありえない。もしこれらの会社の選択的に標準化されたニュース報道を割り引いて考えるならば、例えば鉄道システムはボリシェヴィキ政権が統御していないシベリアよりもヨーロッパ・ロシアのほうがよく鉄と車輛を装備しており、よく修理されているという印象が残るであろう。これは、かなりの部分、ただ鉄道とその修理工場の労働者たちがシベリアでもヨーロッパ・ロシアでも心臓部でボリシェヴィキであり、またそれゆえ彼らがシベリアの鉄道が非ボリシェヴィキの手に堕ちるやいなや、そのシベリアの鉄道の列車運行と修理工場から撤退して、彼ら自身の仲間の中で同じ仕事に従事するためにロシアに移住したという事実によるものであろう。
輸送システムは完全に崩壊したようには見えない。軍事作戦の持続は、それだけのことを示している。それに、1918年の収穫年はヨーロッパ・ロシアでは全体的にみてむしろ例外的によかったことが知られており、そのため国内に残り、収穫を得ることのできる部分の人々の利用できる食糧は少なくとも乏しいながら余裕があるだろう。それに、誰の言うところでも、都市の市民は彼らに開かれている田舎または外国へ逃げることによってその通常数の一部に減少したことを指摘しなければならないだろう。どこか他所で生計を得るのに適したそれらの階級は、明らかに逃亡した。信頼すべき情報がないので、この説明では、都市の残った市民は、主に、おそらく全面的に、逃避できなかったか、どこでも自分たちの運をよくする展望をもたなかったいわゆる中産階級分子からなっていよう。これらは大半が商業者および彼らの特別な雇用者、生産的産業ではあまり役立たず、本当に必要な仕事によって生計を得る機会をほとんど持たない人々であった。彼らはより小さな「中間者」の階級に属しており、大部分がどんな場合でも余剰であり、彼らのビジネス取引は実質的にボリシェヴィキ政権によって中断されてきた。ロシア都市のこのような除かれた小ビジネスマンたちは、もしアメリカのプレーリー(大草原)州の小売商業があらゆる無用な重複をなくすように組織されるならば、そのプレーリ―州の田舎町の人口の九割がそうなるように、ボリシェヴィキ政権の下で無用かつ絶望的である。ただ相違は、ロシアのボリシェヴィキ政権が余剰な小売商業の多くを廃絶したのに対して、アメリカの民主的政権はその余剰な小売商業者の相応の利潤を補償する労をとっていることである。ボリシェヴィズムは小売商業と小売商業者にとって脅威である。
したがって、都市における極度の困難の詳細と具体的な事例が与えられたとき、これらの困難とは社会主義者たちがブルジョアジー、中間階級、ビジネス界、維持されている階級――より一般的には、低い社会的価値のものまたは田舎(soil)に近いもの以外――と呼ぶある階層または階級にふりかかった困難である。田舎により近く属するものは、概ね都市から脱出し、田舎に戻ったように見える。いまや、ドイツ人が「軍事的必要」の名の下に文明人に広く知らしめたような冷淡で粗野な称賛にもとづいて、これらの「ブルジョアジー」は、ボリシェヴィズムの目的にとって、部分的に無用であり、部分的に有害であると考えられている。ボリシェヴィキ体制の下では、彼らは「好ましくない市民」であり、生産することなく消費し、政権に敵対して陰謀を行い、機会があればいつでもその作戦を遂行すると考えられている。ここから、「軍事的必要」という冷厳で粗野な計算にもとづけば、必要な供給物が国内にあるかどうかを問わず、また輸送システムが必要な供給物を取り扱うことができるかどうかを問わず、都市のこの主にブルジョア的で不満をいだいている市民に生活必要品を与えずにおくことが知恵またはボリシェヴィキ的に都合のよい部分であるように見える。もちろん、その結果は飢饉であり、また飢饉とともに進行する諸事態であろう。しかし、かつて協商国が戦時中におけるドイツからの食糧の除去が世界平和の敵に対して採用された武器であると議論する立場にあったのとまったく同じように、ボリシェヴィキは国内における彼らの敵に対する防衛策として飢饉を選択的に適用していると言う立場にあろう。
不幸なことに、これらの考察はきわめて粗雑であり、一般的である。それは事物の一般的推移と終局に関する注意深い省察よりましというほどでもない。もう手元に届き、決して信頼できるとはいえない証拠にもとづくと、事件の詳細な分析を試みることも、まだまったく危険である。しかし、ボリシェヴィズムが国内・国外の権益にとって脅威であることを少なくとも明らかである。そのきまぐれがロシアの領域内で進行するかぎり、それは主に、直接的には、地主、銀行制度、産業企業、そして少なからずロシア都市の小売業者の権益にとっての脅威である。最後にあげたものは、相対的に失うものが少なく、またその少ないものが彼らの全財産であるため、おそらく最も打撃が大きいだろう。被害を受けている特権階級の構成員に与えられている承認済の社会的価値のスキームに従えば、より大きい同情は、疑いなく適正にも、すぐれて(par excellence)養われている階級に寄せられるが、より大きく、より切実な苦難は、より小さい商業者の部分にふりかかる。もちろん、これらはすべて権益とともに分類されるべきである。しかし、普通人もまた相応の苦難をこうむる。普通人は最終的にそのすべての費用を引き受け、その費用は最終的に欠乏と流血の形で支払われる。
しかし、それはまたロシアの外部の権益、とりわけ、ロシアの輸出入に利害を持つ事業体はもちろん、ロシアの産業と天然資源における投資家の権益にとっても脅威となる。後者の権利者の中には、いまや戦争の遂行中に最近ロシアと結びついた特定の政府、とりわけロシア帝国債の保有者がいる。後者の中ではフランスの市民が多いと言われている。またフランスの政治家は、いまや人類全体の状態と個別のロシア・ボリシェヴィズムの状態を熟慮している普通の種類の老練な政治家よりおそらく敏感にボリシェヴィズムの脅威を認識していると述べられている。
しかし、ボリシェヴィズムの脅威は、ロシアの所得と資源に請求権のある権益を持っている他国の普通人にも拡大する。外国におけるこれらの請求者のこうした権利は、法と道徳上はきわめて有効であり、またそれゆえ決まった言い方をすると、ロシアの所得と資源に請求権を持つ彼らの若干の市民のこうした権益を強化することがこれら外国政府の責務である。実際、もし必要なら武力に訴えてロシアの所得と資源に対するこれらの権益要求を強めることは、彼らが敬意を示しており、習慣上結びついているこれらの政府の責務である。また武力に訴えなければならないとき、普通人がその費用を支払うことはよく知られており、法と慣習においてまった正しいことである。普通人はそれを労働の喪失、苦悩、欠乏、流血および傷害によって支払う。そして、その見返りとして、普通人は、自分自身と同じ国民的体制に保護を求める権益はロシア投資による損失から正当に保護されるという事実にまさしく国民的プライドを増加させることになる。そのため「生産の回り道」によってボリシェヴィズムは普通人にとっても脅威となる。
例えばアメリカやフランスのような他の文明国に達する感染が生じる中でボリシェヴィズムの脅威にどう対処するか、これはかなり人を困らせる問題であり、有力市民およびその有力市民の財産を維持することを託されている政治家は、すでにこの問題に最善の注意を払いはじめた。彼らは本質的に心を一つにしており、ボリシェヴィズムが脅威であるという主要な事実についてまった一致している。そして彼らは再三にわたってそれが財産とビジネスにとって脅威であることを明細に述べるだろう。そしてその論点について異論はない。それを超えて議論の最後のところになると、普通人と彼の財産に対するボリシェヴィズムの終局的な関連にどう対処するかという点はあまり明確でなく、あまり直接的には心配の種となっていない。乏しい省察にもとづくと、普通人は失うべき権益を持っていないので、そのような事はどうでもよいと思っているように思われる。しかし、そのような性急な見方は、何かが国民経済にねじれて入り、それが正されるべきときには、普通人が最終的に費用を支払い、それを最終的には労働の喪失(失業)、苦難、欠乏、流血および傷害の形で支払うという大きい歴史の教訓を見逃している。ボリシェヴィキとは、「私は何を失う立場にあるか?」という問いに直面し、「失うものは何もない」という答えに到達する普通人である。そして、老練な政治家たちはそのどうでもよい希望を失望させるための調整をするのに忙しい。
0 件のコメント:
コメントを投稿