2020年2月2日日曜日

ヴェブレン 推敲三回目 ようやく日本語らしくなってきたか?

 調べて見たところ、私の同郷人だった猪俣津南雄(いのまた・つなお)もヴェブレンの著書(邦訳名『特権階級論』を訳している。その訳者序文に、次のようにしるされている。
 「氏の文体、措辞、行論の姿がまた極めて特異なもので、"Veblenian phraseology"(ヴェブレン流の言い廻し)などという言葉が、成句があるほどである。その一種独自のユーモアとアイロニーに富む氏の文章を、邦語に翻訳して、いくらかでも原文の面影をしのばせ得るものにするのは、極端にむづかしい。云々」

 ちなみに、某首相は、「云々」を国会で得意げに「でんでん」と読み上げたそうだが、それはともかく、私にとっては「原文の面影」どころか、よく理解できないところがあって、困ってしまっている始末である。ともかく、横のものを縦に直すには直したが、しばらく時間をおいて読み直してみると、よく分からない箇所が相当箇所に見られる。これは誤訳、不適訳の類いであることは間違いなく、その他の脱落、てにをはの間違い、理由不明のミスなど、不備もかなりある。

 ヴェーバーの翻訳のときもそうだったが、段落(パラグラフ)ごとに筆者の主張の要点をまとめながら、自分の頭を整理してゆくのがよいのではないかと考え、段落ごとの「小見出し」をつけながら、推敲している。この小見出し(多ざっぱな要約)をつける方式は、アダム・スミスの『諸国民の富』(英語版)にも採用されており、漫然と通読するよりはかなり有効なように思われる。だいたい一章に数十の段落があり、全8章+注記があるので、500段落くらいはありそうだが、これまでに6章までに進んだので、今月中には終えたい。

 訳文をつくるという作業は、手工業的な手仕事であり、少しずつ piecemeal に感性に向かうしかなさそうである。例えば、"Live and let live” なる成句の訳もそうである。これは、各人が自分の思い思いに活きるという意味であることは間違いないが、おそらく「(相互)不干渉」と訳すのが最適ではないかと思うようになった。これと同じような様子は、anarchy, quasi-anarchy という言葉で表現されており、通常、「無政府主義」「無政府状態」と訳されている。ある研究者は、「無秩序」と訳しているが、私には適訳には思えない。というのは、王朝国家以前の古代社会にも社会・共同体は存在し、なしがしかの「秩序」はあったからである。そしてその「秩序」(思考習慣、制度)が相互に干渉せずに活きるというものであった。したがってアナーキーは、通常の辞書の訳語通りに「無政府状態」などとやくすのが適切なように思う。effective も有効的か効果的か迷う場合があり、場合によってはどちらでもよいのかもしれないが、結局は個人の感じ方によるとしか言いようがないのかもしれない。予断、先入観と訳せる preconception も適切な日本語
の言い廻しがなかなか見つからない言葉である。この含意は、すべての地域、国、階層などの人々(個人個人)には、その環境の中で育つときに埋め込まれたバイアス(bias、偏りや傾向)があり、したがって感じ方も、反応・対応も異なる、ということにある。それを先入観と訳すと非難めいた響きがつきまとう。非難めいた響きのない言葉がないということは現在の語彙の貧困のせいなのであろう。もちろん、バイアス(bias)という言葉もそうである。ヴェブレンの語彙では、ある意味で、すべての人が「偏見」をもっていることになるが、「偏見」という言葉の非難めいた語感は抜き去りがたい。

 

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