2020年2月2日日曜日

労働価値説とは何だったのか? 観念論的形而上学化と経験科学

 大学の経済学部に入学してしばらくしたときのことを今でも思い出す。
 それなりに経済学に関心を持っていた私は、マルクスの『資本論』(岩波文庫本)を読んでみた。周知のように、それは「資本主義的生産様式の社会における富は巨大な商品集積として現われ、個々の商品は富の原基的形態として現れる」という文章から始まり、「商品の分析」に入り、いわゆる労働価値説に進んで行く。

 ところで、労働価値説とは何か? 正直にいって、今でもあまりよく理解しているとは言えないが、ごく大雑把に言えば、資本論では、交換される二つの素材を異にする商品の交換価値は、同質・同量でなければならないとされ、結局、それ(実体)は抽象的人間労働でなければならないとされ、さらに等しい労働量が交換されるという結論に至る。

 ここで、少し後知恵的なことも交えて、当時の私の当惑を記すと、次のようになる。
1)例えば1000円の本と1000円のセーターには、等しい労働量が投下されている(結晶化または対象化されている)ということになるが、それはどのような経験的事実によって確認されたり、保証されるのであろうか?
2) あるいは、本当に等しい価格のものには、等しい労働量が対象化されているのであろうか? 例えば1000円の本にも1000円のセーターにも一時間分の労働が対象化されているのだろうか?
3)それとも、現実はそうはなっていないことは明らかに見えるが、この理論は現実の姿(Sein)を示すというより、むしろ「そうあるべき」(shall, sollen)だということなのであろうか?

 もちろん、18歳以上となれば、それほど子供ではないので、現実には等しい労働量が交換されているなどということは経験的にみて私には信じられなかった。
 しかし、マルクスは、一つには、複雑労働と単純労働が異なっており、前者は後者の何倍かの労働に値すると言っており、また二つめには、個々人の能力が相違していることを前提として「社会的な平均」に言及している。

 しかし、これは、根本的な疑問を持っている人にとって効果的な回答であるようには決してみえない。というのは、マルクス自身が言っているように、現実の商品をどんなに観察しても、そこには生産に要した労働時間などなにも表示されていないからである。
 商品が対象化された労働量に応じて交換、あるいは貨幣を介して売買されることを説得するには、それなりのメカニズムの説明が必要であろう。
 
 実際、資本論が出版されたのち、マルクスの知人であったある医師は、マルクスに宛てた手紙で、資本論は、労働価値説を前提して書かれているが、決して労働価値説を説明してはない、と書き送った。そして、これに対するマルクスの返信は、もし社会全体が労働をやめたならば、その社会は一週間と持たないだろう。というのは、すべての生産物は労働によって生産されるのであるから。あるいは労働は富の唯一の主体的要因である。
 もちろん、このことは自体はまったく疑うことのできない事実であり、数式が好きな人なら、若干単純化して、次のように書き示すかもしれない。
  Q=α*L   Q:産出量、 α:労働の生産性、 L:労働時間(労働量)

 しかし、これは交換される二つの商品に対象化された労働量が等しいという主張とはまったく異なるレベルの主張である。

 そこで、異なった素材の価格の等しい商品には等しい労働量が対象化されているという意味での労働価値説は、当為(Sollen)を説く道徳または観念論的形而上学として放棄するべきであるという見解が、広い意味でマルクス経済学の立場に立つ人の中にも出てくることになる(カレツキなど)。ただし、マルクスの意義はそれでなくなるわけではない。
 
 一つには、上式(Q=α*L)という意味での労働の意義は、決してなくなっていない。またもう一つ、私には、かなりルーズな意味になるかもしれないが、労働量が価格形成に大きい影響を与えていることは間違いないように思える。しかも、それには経験科学上の裏付けが可能である。

 シェークスピアが語るように、人は(夜見る)夢と夢の間に囲まれて生きている存在である。一日は24時間であり、その時々の社会の習慣、条件などによって人が生活のために労働する時間は一定の幅に制限されている。例えば週40時間、35時間など。そしてこの時間の労働によって人は生活のための特定の所得(主に賃金)を得る。言うまでもなく、この所得は、基本的な厚生要素として商品の生産費の中に入る。その他に生産費に入るのは、企業者(経営者や株主)の得る純利得、不労所得である。
 この不労所得が生じるという理由から、アダム・スミスは、現代では商業社会以前の古い社会に見られたような労働価値説が(厳格、正確に?)成立しなくなると結論した。しかし、かりにそうだとしても、等しい時間働けば、等しい所得が得られたような社会のありかたがそれによって根本的に瓦解してしまったわけではない。人々が労働によって暮らせるようにという古い原理はいまでも生き延びている。この原理は、人々がこの世に生きている限り、成立する原理である。それは新古典派の形而上学的・観念論的・非現実的な「効用理論」とはまったく異質なものである。この効用理論たるや、人が主観的に感じる効用だけを論じていて、人が如何にして労働するのか、生活するのかをまったく視野の外に追いやっている。しかも、その効用たるは、経験的に測定することも、計算することもできない代物である。

 さて、アダム・スミスが現代では利得が生まれたために、古い労働価値説が成立しないとした、その利得であるが、これこそが実は大問題である。
 先ほどの Q=α*L の示すことと、労働による所得の原理との二つを組み合わせると、どのような帰結になるのか? これこそが重要である。
 観念論的・形而上学的な労働価値説に安住した人々は、経験論的な地平から逃避し、マルクスの信用を地におとしめたように思えるが、私には、経験論的な地平に立って理論を再構築する必要があるように思えてならない。
 先ほどの参議院選挙で、ある野党の候補は、「8時間働けば、普通に暮らせる社会」を作ろうと呼びかけて闘ったが、これは、経済学の価値論の世界の言葉に訳せば、8時間労働によって(なるべく平等な)所得分配を実現する、また高利得を廃するという事にほかなならないだろう。そして、それは(なるべく)等しい労働量(労働時間)の交換を実現する経済社会ということに他ならない。(結果的に、何故そうなるのかの説明はごく簡単であり、省略するが、できれば後日行いたい。)
 経済学はモラル・サイエンスである。それは、等しい労働量が交換されていない不等価交換社会の不正義を廃絶した上に、より公正な、自由な、豊かな社会が実現できることを示すことも可能である。ただし、経済学の限界もある。それを実現するのは、実際にこの世界に住み働いている人々の政治的な声である。

 

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