2013年12月15日日曜日

ケインズ『一般理論』第24章の4 戦争の要因について

 ケインズの『一般理論』は、閉鎖経済(つまり対外経済関係を捨象した国民経済)を前提として経済社会のあり様を論じており、国際体制についてはほとんど議論を展開していません。しかし、23章と次の24章(最後の2章)では、それまでの議論を踏まえて戦争と国際体制、国際貿易について論じています。
 それは決して長い文章とは言えませんが、きわめて示唆的な部分です。そこで、その内容を紹介し、ごく簡潔に解説を付しておくこととします。

 24章の4で、ケインズは「旧体制に比べれば新体制は平和にとってはるかに好ましい体制だということ」を指摘し、その後で、戦争の理由について述べています。ここで旧体制というのは、第一次世界大戦以前の体制のことであり、新体制とは第一次世界大戦後、つまり1919年のヴェルサイユ講話条約以後のことです。
 ケインズが戦争の理由としてあげるのは、次の2つです。
 1)その一つの理由は、国民を戦争に導きたがる好戦的な独裁者やそれに類した人間の存在にあると考えて、ケインズは次のように書きます。
 「少なくとも戦争を頭に思い浮かべることが、スリル満点の楽しみとなっている独裁者やそれに類した人間にとって、国民の中に眠る、好戦的気質を目覚めさせることなど、なんの造作もないことである。」

 2)しかし、それよりもいっそう重要な要因があり、しかもそれが第一の要因をたやすくする、とケインズは考えます。
 「それよりもはるかに重要なのが(戦争の)経済的原因、すなわち市場獲得競争であって、これは人々の炎を煽るという彼らの仕事をたやすくする」。
 さらにケインズは、これらの要因が現実の歴史において果たした役割に触れ、「第二の要因は19世紀に主導的な役割を演じた」ことを指摘したのち、「現在(1930年代)にもふたたび主導的な役割を演じようとしている」、と述べます。
 簡潔な叙述ながら、現代世界経済史の研究成果(イギリス帝国主義研究、ハンス・U・ヴェーラーのドイツ帝国研究など)ときっちりと整合します。が、徐々に説明しましょう。

 では、市場獲得競争を戦争に駆り立てる動機は、何故、生まれるというのでしょか? 実は、これこそが最も重要な点であり、ケインズの経済学研究の核心部分と関係しています。また、それは単に過去の出来事(2度の世界戦争)を説明するだけでなく、現在の各国間のフリクションを説明するものでもあります。

 ケインズは単刀直入にいいます。「国々が自らの国内政策によって完全雇用を達成するすべ」を学ばずに、「ただ失業問題を競争に破れた隣国に転嫁するだけ」の時にそのような動機が生まれる、と。
 ここで言う「ただ失業問題を競争に破れた隣国に転嫁するだけ」の政策とは、どのようなことでしょうか? これは現在では「近隣窮乏化政策」と言い習わされているものですが、これを理解してもらうためには、以下の事情を説明しなければならないでしょう。(実際、ケインズも15世紀以降の経済と経済学の歴史までにさかのぼって、説明しています。余計なことかもしれませんが、この辺が並の経済学者とは大きく異なるところでしょう。)

 1)雇用は生産量に比例し、生産量は有効需要に比例する。
 ケインズ(およびカレツキ)の天才的能力は、重商主義の経済学者が直感的に理解しており、その後、古典派(アダム・スミス、リカードゥなど)によって否定された見解を復興させました。それは、「有効需要」(つまり消費支出、投資支出、純輸出=輸出ー輸入)が生産の規模を決め、雇用量を決めるという見解です。
 それまでは、マルサス、マルクス、ホブソン、ゲゼルなどの大経済学者を例外として「供給がそれ自らの需要を生み出す」という定式化が「法則」(セイ法則)として絶対視されていました。「セイ法則」に疑問を提示し、否定しようとした人は、まず無能力者扱いされて大学等で教えることができなかったのですから、ケインズやカレツキが「革命」を行ったいっても決して過言ではありません。
 さて、ケインズが明らかにしたように、現実の経済では、人々が消費財を購入するために貨幣を支出し、また企業が生産財を購入するために貨幣を支出する(投資する)ときにはじめて、消費財や生産財の生産と販売が可能になります。
 これに関連してもう一つ重要なことがあります。それは貯蓄と投資との関係です。この関係も古典派によって誤った扱いを受けてきました。この点では、古典派より以前の重商主義の経済学者の直感の方が正しかったほどです。
 さて、貯蓄とは、所得のうち消費されなかった部分であり、資金の供給を意味します。一方、投資とは実物投資(設備投資)のことであり、資金に対する需要を意味します。この両者の関係についてもケインズは古典派の思想(信条)に対する革命を達成しました。
 古典派は、貯蓄が投資を決定する(まず貯蓄が決定され、それに等しい額の投資が行われる)と考えました。この思想によれば、経済が停滞し、投資活動が不活発になるのは、貯蓄が十分に行われないからだということになります。また、そこからは、貯蓄を殖やすためには消費を削るべきである(節倹の美徳)という結論が導かれます。
 前に本ブログでも説明しましたが、これに対してケインズは、両者の関係がまったく古典派の想定とは異なる(正反対)と考えます。何故そうなるのでしょうか? 確かに貯蓄(資金の供給)と投資(資金の需要)とは事後的に必ず一致します(S=I)。しかし、それは事後的な一致(post)であり、事前の期待(ante)ではありません。事前の期待に関する限り、現実の経済では、歴史をさかのぼれる太古から(ソロモンの昔から)常に、貯蓄が投資を超過するのが一般的な姿でした。(つまり、貯蓄性向が投資誘因より高い。)多くの場合、これは人間の貨幣愛(love of money)から説明されます。現代でもそうです。しかし、古い時代はともかく、現代経済では現実の投資は、個々の企業家によって期待利潤率によって独立に決定されます。それは決して社会全体の貯蓄の供給金額を配慮してなされるのではありません。したがって事前にはどのように貯蓄性向(貯蓄衝動)が高くても事後的には、貯蓄は投資に等しくならざるを得ません。もし無理に貯蓄の増殖を実現しようとすれば(つまり流動性選好を強めれば)、それは消費支出を犠牲にするしかありません。しかし、消費支出の削減は、社会全体で行われれば、総需要(さしあたり消費需要の項目)を減らし、それが企業家の期待利潤率を引き下げることによって投資支出を減らすことになるでしょう。
 このように現代の経済では、「節倹の美徳」は成立せず、むしろ消費支出を減らし、投資支出を減らし、それによって完全雇用を維持するのに必要な総需要を実現するとは限らない、これがケインズの経済学から導かれる一つの重要な結論です。

 「われわれが生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富と所得の分配が恣意的な不公正なことである。」

 2)総需要を拡大させる政策によって完全雇用を達成することは可能
 しかし、ケインズは、政府が適正な政策を実施すれば、あるいは適正な制度を構築することによって総需要を拡大し、完全雇用を実現するために必要な生産量を達成することは可能であるといいます。この点は、今回の課題ではないので、簡単に済ませますが、次の点にだけは触れておきます。
 古典派の場合には、生産を拡大するためには貯蓄(→投資)を増やすことが不可欠であり、そのために高金利が欠かせないと考えられていました。何故なら、金利が高いほど、貯蓄(正確には預金などでしょうが)の供給が増えると考えられていたからです。現在でも、新古典派の金融に関するマーシャリアンクロスでは、貯蓄の供給曲線は利子率の増加関数(右上がり曲線)になっています。
 しかし、ケインズの場合には、投資を決めるのは、企業家の期待利潤率であり、むしろ高金利は投資を抑制するものと捉えられています。

 3)国際貿易、特に輸出と貿易収支の黒字について
 いよいよ戦争の理由(外国市場獲得競争)の核心にせまってきました。
 現在でもそうですが、国内経済が不振に陥ったとき、多くの人々(政治家、経営者、エコノミストなど)が考えるのは、外国への輸出を増やせばよいじゃないか、ということです。また輸入をなるべく控えるべきだという思想が付随している場合もあります。それは結局貿易収支(純輸出)を黒字にすべきだということに帰着します。
 この思想には、もっともな点があります。まず国内需要が低迷しているときには、輸出の拡大がそれを補い、総需要を拡大するからです。また、貿易収支の黒字は、国内に外国からの金融資産が増えることを意味します。(国際金本位制の体制下では、金貨を保有することも可能でした。)それは言葉の広い意味では対外投資が行われることを意味します。そして、それは上で指摘したやっかいな問題(貯蓄性向は投資誘因を超過する傾向がある!)を解消するのに役立つでしょう。当該国の人々は、それによって総需要を拡大するとともに、自らの貯蓄性向(貨幣愛)を満たし、場合によっては投資(ただし対外投資)を実現し、かくして「一石二鳥」になったのですから。
 しかしながら、すでに重商主義の理論家も気づいていたように、すべての国が同時に貿易収支の黒字を達成することはできません。
 ある国の黒字は国外に必ず貿易収支の赤字国が存在することを前提とします。そして、その赤字国では、上記の2つの問題がより増幅することになります。完全雇用を実現する水準から見た場合の貯蓄(S)超過と総需要(C+I )の不足がそれです。

 ちなみに、1970年代以降の変動相場制の下では、この問題は為替相場戦争の形を取ってきました。例えばもっとも分かりやすいのは、「アベノミックス」とされるものの為替相場(円安)の部分です。円安が輸出を促進するといって大喜びしている人々が多数いるではありませんか? もちろん、外国からはそれが「近隣窮乏化政策」だという非難があびせられ、それに対しては日本の政治家やエコノミストから、<円安は輸出を促進するために人為的に発生させたものではない。だから隣人窮乏化政策ではない>といった反論がなされます。
 しかし、意図されたものであれ、そうではなかれ、当該問題が上で指摘した問題と密接に関係していることは言うまでもありません。
 最初の課題に戻りましょう。19世紀末〜20世紀初頭、そして1930年代にはこうした問題が世界戦争を引き起こすほどの大問題となったことを忘れてはいけません。また「隣人窮乏化政策」に訴えるのではなく、各国がそれぞれの国内で完全雇用政策を実施するべきだというのがケインズの訴えでした。ケインズが戦後国際通貨体制の構築に際して、「ケインズ案」を考えていたことはよく知られていますが、その際、彼は貿易収支の均衡するような為替相場メカニズム(貿易赤字国だけでなく、黒字国にも不均衡の責任を求めるようなメカニズム)を提案していました。これについては、以前のブログで説明していますので参照してください。


 4)付録 J・ストレイチーの現代資本主義論
 最後に補足的に、1930年代以前と戦後(1945年以降)の経済のあり様について補足しておきます。
 戦後、ケインズ案は採用されませんでしたが、ブレトンウッズ体制の下で、貿易収支の均衡達成を義務づける制度(準固定相場ドル本位制)が採用されました。この通貨体制下では、貿易収支の赤字国だけが通貨の切り下げを求められていました。実際に、イギリスはポンド・スターリングの切り下げ(減価)を実施しています。
 戦後の「黄金時代」には、多くの国で完全雇用がほぼ達成され、賃金率も労働生産性の上昇に応じて引き上げられてきました。そして、それは人々の勤労所得水準を引き上げ、消費支出)を拡大し、またそれに応じた投資支出を実現させることになったため、生産量を拡大し、雇用率を完全雇用水準に近づける働きをしたと考えられます。
 戦後は、この点でも以前とは大きく異なっています。ストレイチー(『現代の資本主義』)が指摘するように、19世紀からの古典的な資本主義経済では、賃金は常に抑制される傾向にありましたが、それは総所得を、したがって総需要を抑制し、景気を悪化させ、失業率を高める作用を果たしてきました。しかし、「現代の資本主義」はようやくそこから決別したかに見えたのです。
 
 しかしながら、そのような幸福な状態は長く続きませんでした。
 1979年におけるサッチャーの英国首相への就任、1981年におけるレーガンの米国大統領への就任はふたたび古典的資本主義(新自由主義という名の自由放任主義)への回帰をもたらし、それとともに古典的な問題(国内の失業、対外的フリクション)をもたらします。しかし、これについては、項を改めて説明することにします。

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