2013年12月7日土曜日

社会科学の裸の王様・経済学 2 富裕者に奉仕する原理


 経済学者は、自分たちの考えや理論を「科学的」であり、「価値自由」だと宣伝してきました。しかし、事実はまったく異なります。ここで「価値自由」というのは、19世紀末〜20世紀初頭のドイツを代表する社会科学者マックス・ヴェーバーの言葉であり、各人の持つ価値(目標、目的、理想、理念、倫理感)にかかわりなく客観的な妥当性を有することをいいます。 しかし、経済学、特に米国の主流派、つまり新古典派(新古典派総合、ニューケインジアンを含む)は「科学」と言える状態からはほど遠く、「価値自由」でもありません。以下では、そのことを示してゆきたいと思います。
 むしろ、それは著しくイデオロギー的であり、その結論は、ほとんどいつも、富裕者、地主、ボス、資本家、経営者の耳に心地よく響くものばかりです。
 残念ながら、このことは私の独創的発見ではありません。優れた先人たちが見抜いています。
 まずは昔のロシアの経済学者、クロポトキンの言葉から、
 
 「経済学は、社会で生じていることをいつも支配階級の利益に沿って述べ、かつそれらを正当化することだけを行ってきました。・・・資本家に有利なことを発見すると、経済学はそれを原理として打ち立てました。(クロポトキン伯爵『パンの征服』)

 次にアメリカ合衆国の20世紀最大の経済学者、ジョン・K・ガルブレイスから、


 「新古典派経済学は、次の双子の前提に要約される。貧者は多く支払われすぎているために懸命に働かず、富者は十分に支払われていないために懸命に働かない。」

 これらの言葉は、例えば私のこれまでの「失業」に関するブログを読んだことのある人には、よく理解していただけると思いますが、ここで簡単にそれをおさらいをしておきましょう。
 新古典派の労働市場論では、失業(ただし、彼らの議論では、すべての失業は自発的失業、つまり労働者が自発的に選んだ失業です)は、実質賃金が均衡水準より高くなっているために生じるとされています。そこで失業をなくすためには、実質賃金を引き下げるべきということになります。また、このような結論を導きだすために、マーシャリアン・クロス、つまり右上がりの労働供給曲線と右下がりの労働需要曲線が引かれ、交点=均衡点が存在することが前提とされます。

 この雇用と失業を説明する「理論」なども、上のクロポトキンや、ガルブレイスの名言にぴったりの事例です。
 もちろん、新古典派の労働市場論が客観的に妥当(つまり科学的)で、「価値自由」に成立する理論であれば、脱帽せざるを得ません。しかし、本当にそうなのでしょうか?
 決してそうではありません。
 そのように考えた優れた経済学者の一人がジョン・M・ケインズでした。彼は、その主著『雇用、利子および貨幣の一般理論」(1936年)を次のような書き出しで始めています。

 「・・・古典派理論の想定する特殊な事例はあいにくわれわれが現実に生活を営んでいる経済社会の実相を映すものではない。それゆえ古典派の教えを経験的事実に適用しようとするならば、その教えはあらぬ方向へ人々を導き、悲惨な結果を招来することになろう。」(岩波文庫版、間宮陽介訳、5ページ)
 *ケインズの用語法では、「古典派」は新古典派を意味します。

 実際、ケインズのいう「悲惨な結果」がグローバルな規模で生じています。それは1970年代以降、ケインズ批判の大合唱の中で新古典派が復活し、新古典派の教えが経験的事実に適用されるようになってきたからに他なりません。新古典派にとってケインズは憎い敵であり、それゆえしばしば新古典派による「ケインズ殺し」(ケインズは死んだ!)が行われてきました。彼らのほとんどは、ケインズなど読んだこともない人たちです。
 ちょっと先走ってしまいましたが、新古典派は何故誤りをおかしているのに自ら気づかない「裸の王様」だと言えるのでしょうか? 
 これはこのシリーズ全体の主題になりますが、今日は差し当たり、「反証可能性」の問題をあげておきます。

 「反証可能性」とは、カール・ポッパーという哲学者が、実証的な科学の条件として持ち出して来たものです。彼の見解では、科学が科学といいうるためには、「反証可能性」がないとならないとされます。例えばある理論があることを前提として組み立てられているとします。この場合、その前提が正しいか誤っているかを経験的な事実に即して検証することができなければ、したがって反証する可能性がなければ、そもそも経験科学と言えず、単なる形而上学または信念、信仰、教義、等々に過ぎないということになります。
 この見解は、もし反証可能性を持ち、しかも反証されたならば、その理論は否定されるということを意味します。(そうですよね、ポッパーさん。そうでなければ、反証可能性の意味がありません。)
 実になるほどと、うなづける意見です。
 そこでそれを新古典派の経済学にあてはめてみましょう。
 ここでは、マーシャリアン・クロスのうち、商品価格の決定を説明する商品市場論をとりあげましょう。
 この市場論でも、商品の供給曲線SSは右上がり、商品に対する需要曲線DDは右下がりに描かれています。そして交点=均衡点で、価格と量とが同時決定されます。多くの人が高校の政治経済の教科書等で一度は見たことがあるでしょう。
 しかし、私は中学生、また高校生のときから、この図をみるたびに違和感を感じてきました。どうしてでしょうか? その理由は2つあります。一つは、価格設定は人々=生産者の所得に関係していることに気づいていましたが、この図は生産量や所得分配の問題にいっさい触れていません。もう一つは、それに関係しますが、この図を本当に具体的に描けるのだろうかという疑問です。具体的に描くというのは、例えば米ならば、単位(例えば10kg)あたりの価格の変化(例えば0円→5,000円)に応じて需要量、供給量をきちんと示すことができるのだろうか、という素朴な疑問です。
 私は、その後も現在まで「需要・供給の抽象図」を見たことは何度もありますが、一度も、具体的な数値入りの図を見たことはありません。そうです。世界中の大学・経済学部で何億回となくこの図が描かれるにもかかわらず、実際の図が描かれたことはまったくないのです。
 その理由は明白です。描けないからです。それを描くためには、社会実験が必要になります。つまり、ある時間(年月日時)に10kg千円の価格を設定したとき、供給量、需要量がどうなるかを計測します。次にまた別の時間に(いつ?)10kg1100円の価格を設定したときどうなるかを計測します。次に・・・。
 社会実験ができず、具体図を描けない。それは反証不可能ということではないでしょうか、ポッパーさん? 
 しかし、私がこのように言っても、なんだかんだと言って雑音が聞こえてきそうです。
 
 他に調べる方法はないでしょうか? 高校生時代の私にはとても分かりませんでしたが、なくもありません。
 その方法とは、右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線の「根拠」を新古典派の人々に語ってもらい、それを検証することです。
 現在までに新古典派の経済学者が示した根拠は、次の通りです。
 1)右上がりの供給曲線→「収穫に関する費用逓増」
 2)右下がりの需要曲線→「限界効用の逓減」

 そこで、次にこれらが検証可能(したがって反証可能)なのか、また検証可能な場合、それは経験的事実に照らして正しいのかが問題となります。
 しかし、結論的に言うと、1)収穫逓増は、経験的事実に照らして誤り(反証された)ことが明らかであり、2)「限界効用の逓減」は反証不可能です。

 それを次回に示します。
  

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