2015年8月9日日曜日

アベノミクス 「第三の矢」は毒矢

 山家悠紀夫氏の『アベノミクスと暮らしのゆくえ』(岩波ブックレット、No.911、2014年)でも指摘されていますが、いわゆるアベノミクス「第三の矢」は毒矢に他なりません。なぜそう言えるのか、なるべく簡潔に要点を説明したいと思います。

 第三の矢。それは「成長戦略」であり、「世界で一番企業が活動しやすい国」を創り上げることをターゲットとしていることは、安倍氏本人も主張していることです。
 その具体的中身は、「「日本再興戦略」改訂2014ーー未来への挑戦」で述べられており、論点は多様と言えば多様ですが、骨組は比較的簡単です。
 そのメインの主張の一つは、投資が近年低下してきたという点にあります。実は、山家氏が明らかにしているように、日本の投資率(GDP=国民粗所得に対する設備投資額=粗投資の割合)は欧米と比べて決して低いわけではありません。しかし、日本に限定して言えば、1980年代から現在まで投資率が趨勢的に低下してきたことはたしかに事実です。
 とはいえ、問題はなぜ投資率が低下してきたのか、その理由です。「日本再興戦略」にはその客観的な理由は分析されていません。ただそこから読み取れることは、企業がもっと儲ける(つまり利潤を増やす)ことが出来れば、また企業の負担(例えば法人税)を引き下げれば、企業が自由にすることのできる利潤が増え、投資が増えるだろうという、それだけでは理論的ともいえない主張だけです。また企業が自由にできる利潤を増やし投資を増やす、高成長が実現できれば、低所得者へのトリックルダウン(trickle down)が生じるだろうという楽観的(ノーテンキな)期待もみられます。

 一見すると、これは正しい見方のように思われるかもしれません。しかし、決してそうではありません。
 そのためには、そもそも企業はなぜ(設備)投資を行なうのかを考えておく必要があります(ここでは資産価格の上昇によってキャピタルゲインを得ようとして行なう資産運用の行動=「投機」と区別して投資を企業の設備投資の意味で用います。)
 一国の経済で投資が行なわれる理由はきわめて簡単です。まず(設備)投資を行なうのは企業ですが、その大小を決めるのは、もし消費財の生産企業であれば、消費需要が将来増加し、現在の潜在的な消費財生産能力を超えるだろうとう期待(かなり不確実な期待)であり、その程度の如何に他なりません。また資本財の生産企業であれば、消費需要の増加の期待を背景にして資本財(機械や設備)に対する需要が増加するだろうという期待の程度に他なりません。
 素人が自分の「実感」(所得があり、次にそこから支出するという生活感覚)から誤解するように、貯蓄があるから投資するという回路・循環(サーキット)があるわけではありません。

 アベノミクスの「第三の矢」が毒矢となる危険性を持つものであることは、それが「供給側の経済学」の立場に立っているからです。つまり、この立場が、仮に企業の税引後利潤を増やし、投資を増やし、成長を促進するという善き意図を持つものだったとしても、実際には企業の負担を庶民に転嫁することによって国民全体の消費需要を抑制する危険性をはらんでいることに注意しなければなりません。
 それに関連して2点を補足しておきます。
 1)日本の法人実効税率が他国に比べて高いという言説について
 たしかに日本の法人税率は米国についで高く、欧州より高い水準にあることは間違いありません。しかし、企業の負担は法人税だけではありません。社会保険料負担率(税引き前利潤に対する比率)を見ると、日本は欧州(ドイツやフランスなど)よりかなり低い水準にあります。こちらのほうについては、どうして沈黙するのでしょうか? もし社会保険料負担率をそのまま(低いまま)にしておいて、法人税率を下げるだけならば、日本は世界的にみて企業負担のきわめて低い国となるでしょう。しかも、一方では消費増税のように相対的に所得の低い人々に対する課税を強化していることにも注意しなければなりません。こうした政策(税制の変更)は国民の消費支出をさらに萎縮させ、結局のところ、企業の(設備)投資に悪い影響を与えます。
 2)アベノミクスでは、1990年代から長期の「デフレ不況」が持続していたとされていますが、これはまったくの事実誤認です。「デフレ不況」と言われるような事態が現れたのは1997年以降であり、その状態は他国と著しい対照をなしています。
 1997年から現在までに日本の経済と欧米の経済を比較して一番顕著な点はどこにあるでしょうか? それは欧米ではどの国も「貨幣賃金」(一人あたりの平均賃金率と国全体の総額)を増やしてきたのい対して、日本では趨勢的にずっと低下してきたことです。もし「デフレ不況」という言葉を示す現象があるとしたら、この現象ほどふさわしいものはありません。
 ところが、上記のように、賃金からの消費支出は、有効需要の中の最も重要な項目ですから、貨幣賃金が絶対的に低下する経済が好調なわけがありません。効率賃金仮説が主張するように、人々の企業に対する忠誠心は薄れ、労働生産性にも悪影響が及び、人々の感情の「劣化」が生じます。

 要するに、日本の本当の問題は貨幣賃金総額の趨勢的低下の事実にあります。ここに目をつむって「異次元の金融緩和」(第一の矢)だ、「財政出動」(公共事業の拡大)(第二の矢)だといったところで、所詮は闘う相手を間違って風車に突進するドンキホーテにすぎません。

 それではどうして1997年以降、日本では労働者の受け取る貨幣賃金総額が趨勢的に減少してきたのでしょうか?
 事情の一つは、藻谷浩介氏が述べているように、「生産年齢人口」の減少です。これにどのように対処するのでしょうか? 私の読む限り、これに取り組もうとすることを感じさせるものは、アベノミクスにはほとんど何もありません。ただ少子高齢化が進むということを前提に対処療法を行なうだけです。
 もう一つは、政府の政策(構造改革)がむしろ事態を悪化させてきたことです。しかも、「第三の矢」もそうした政策の継続にすぎません。それは規制緩和、とりわけ労働に関する規制緩和、国家戦略特区、TPPの秘密交渉と妥結に向けた動き、原発の再稼働などなどに示されています。これらは、非正規雇用=低賃金労働を拡大し、賃金抑制をいっそうすすめ、人々を不安にして消費支出を削減する傾向を押し進めるものばかりです。(言うまでもありませんが、人々が消費を削減・抑制するのは、将来不安からすこしでも貯蓄を増やそうとするからであり、多くの人々がこれを行なうとケインズの言う「合成の誤謬」*が生じます。)
 第一の矢も第二の矢も問題の多い政策ですが、山家氏も指摘するように、一度始めたらやめられなく性質のものです。それをやめたら、株価が低下し、円高となり、経済は混乱するでしょう。これに対して第三の矢は「毒矢」となる危険性を持ちます。
 幸運にもTPPは挫折しそうですが、安心してはなりません。私たちの暮らしを悪いほうへ導く危険性を持つ政策が危惧されるからです。


 さて、こうした政策は、実は、1980年代に一時米国で流行し、すぐに失敗した「供給側の経済学」(サプライサイド・エコノミクス)や「トリックルダウン」説の再版に過ぎません。この関連を理解すれば、なぜ1980年代以降に米国で生じたことがその後の米国の経済を大きく歪めてしまったかをよく理解できますし、またアベノミクスの「第三の矢」の危険性もいっそうよく理解できるでしょう。
 そこで次にこの点に触れておきます。


 きわめてラフに整理すると、1981年から現在までの米国で生じたことは、2点に要約できます。第一に、供給側の条件を改善するために、累進課税のフラット化と法人税率の「事実上の」引き下げが実施されました。これによって米国連邦政府の税収は大幅に低下しましたが、企業の税引後利潤および富裕者の可処分所得は大幅に増加しました。しかし、このような政策の導入後、普通の企業の設備投資が増加し経済成長を加速化したでしょうか? トンデモありません。
 なぜでしょうか? レーガンの経済政策(「レーガノミクス」)は、様々な方法**を通じて労働者全体の賃金所得を抑制しました。正確に言うと、インフレが持続しているので、貨幣賃金総額が絶対的に減少したわけではなく増加はしていますが、労働生産性が増加しても、実質賃金がそれに比例して増加することはなくなりました。つまり賃金シェアーが確実に低下しました。また40年間に注意の労働者の実質賃金率も低下(!)しました。この影響は現在まで続いています。
 **高失業の状態、「株主価値」の喧伝、実質最低賃金の引き下げ(最低賃金の据え置きとインフレによる実質的低下)、グローバル化(NAFTAなど)、労働における規制撤廃などですが、ここでは詳説しません。

 ところが、労働者(99%)の取得する貨幣賃金は国民所得の最も大きな部分を占めます。そこで、賃金の停滞は、賃金からの(実質)消費支出を停滞させ、国全体の消費活動もさっぱり元気がでないという状態をもたらしました。なお、当時の米国経済を正確に理解するためには、1981年の税制改革=再建税制の前にヴォルカーFRB議長の金融引締めによる大不況、ドル高とその影響があったことを知らなければなりませんが、ここでは省略します。また、次の点も指摘しておかなければなりません。それは当時レーガン大統領の対外関係、とりわけ対ソ連政策に関連して、米国の軍事支出が(したがって軍需産業に対する武器購入額が)大幅に増加したことです。もちろん、一方で政府の租税収入が減少し、他方で軍事支出を中心に政府支出が増加したのですから、連邦政府の財政収支は大幅な赤字を計上することになりました。
 要するに、レーガンの個人的信条には反することだったかもしれませんが、1980年代の米国は事実上「ケインズ政策」を、つまり財政赤字を通じて政府支出の拡大による有効需要の創出を行なってしまったことになります。ただし、これは当時の米国の良心的な経済学者が指摘したように「福祉国家的なケインズ主義」ではなく、「軍事ケインズ主義」でした。これが軍産複合体の利益に沿うものだったことはいうまでもありません。
 要するに、企業(供給側)の条件を改善すれば、投資が増えるというのは、単なる「神話」にすぎません。 
 この1980年代以降の米国の失敗のケースに関連して、もう2つ指摘しなければならない点があります。第一に、国内で巨額の貯蓄がなされているのに、(国内需要の停滞によって)この貯蓄にふさわしい(設備)投資が行なわれない場合どうなるのかという点です。それはFDI(外国直接投資)または企業の多国籍化の動きを誘発します。その際、現実世界をよく知っている経済学者の間では常識ですが、企業は利潤が実現できるなら、大抵のところに進出します。ただし、その際、法人税や社会保障費などの負担が高いと不満を並べたり(あるいは泣いてみせたり)、また<高負担の国・地域から逃げる>という脅しも忘れません。(この脅しに多くの国の政治家が屈服するか、さもなければ積極的にPRすることもあります。)
 第二に、事が左様であれば、トリックルダウンなど生じるはずもありません。結局、巨大企業が利潤を増やし、富裕者がさらに所得と富(資産)を増やしてゆくという結果に終わることは必至です。巨大法人企業が負担を軽減され、また低賃金労働者の増加を通して賃金圧縮をはかり、利潤シェアーを増やすような政策は経済社会を決定的に破壊することになります。


*合成の誤謬(fallacy of composition)
 これは一種の論理学上の問題です。つまり、その他の事情が変わらない(ceteris paribus)という前提条件の下で、個人(またはごく少数の者)が貯蓄を増やそうとして消費を削るケースと、社会を構成する多くの人々が貯蓄を増やそうとして消費を削るケース(この場合には、ceteris paribus=その他の事情の不変が成立しない)は、論理的にはまったく別のケースです。前者では個人は貯蓄を増やすことができますが、後者は恐ろしい不況を招くでしょう。同様に、一企業が賃金を抑制し、それに応じて価格を引き下げることに成功した場合、その企業は販売量=生産量を増やし、雇用を拡大することができると考えてもよいでしょう。しかし、一国の多くの企業がそのようなことを行なった場合は、事情が異なります。当該国の賃金所得は低下し、消費需要は停滞し、雇用環境の悪化が危惧されます。
 現代の深刻な経済問題が供給側(企業側)ではなく、むしろ需要側(労働者の賃金所得、消費支出)の側にあると考えられる所以です。
 経済成長(もしこれが求められるならば)の本当の回路は、複合的であり、<消費需要の増加→投資需要の増加→技術革新・生産能力の拡大>および<消費需要の増加→賃金と利潤の妥協的な増加>という回り道(detour)に他なりません。一部分だけを近視眼的に見るのは、決して正しい見方ではありません。


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