2015年10月24日土曜日

世界戦争はなぜ起こったのか? 1 ケインズはかく考えた


 第一次世界大戦は、欧米主要国だけに限ると、独墺土vs英仏露伊米の間で戦われた「総力戦」(total war)だったことは、言うまでもない。その直接のきっかけとなったのがセルビア人によるオーストリア皇太子の殺害事件だった。そして、この事件に対して、オーストリアはセルビアに10箇条の最後通牒をたたきつけ、セルビアはほぼこれをのんだものの、殺害事件の調査・裁判をオーストリアが行なうことだけは、主権の侵害として拒否した。ここから事態は急速に展開し、あっというまに同盟国(ドイツとオーストリア)と協商国(ロシア、フランス、イギリス)の総動員体制、宣戦布告合戦へと突入した。さらに同盟国でありながら、中立をきめこんだイタリアが協商国側に参加し、1917年のロシア革命・帝政崩壊後にアメリカ合衆国が協商国側に参戦した。
 戦争開始当時(1914年 8月)、ロシアもドイツもどの国も遅くとも秋までには、戦勝の報に接することができると楽観、豪語していた。が、・・・そうはゆかず、まず1917年にロシアが反戦・革命運動により事実上戦線から離脱し、1918年末には今度はドイツが革命により事実上戦線から離脱した。この間、英仏伊は、戦費を調達するために自国民から租税を取り立てただけでは済まず、米国から巨額の借金をしなければならなかった。(その額は、英仏伊の米に対する債務だけで 7 億ドルと見積もられている。)
 この第一次世界大戦の戦死者はほぼ1,100万人と見積もられている。(ホブズボーム『20世紀の歴史』)
 ところで、1919年のヴェルサイユ講話条約で、英仏が強行に独に賠償金の支払いを求めたのは、必ずしも理解不能というわけではない。独が支払った賠償金は、少なくともその一部は、英仏によって米国への返済にあてられた。
 しかし、この独からの賠償金取り立てに異議を申し立てたのが、ジョン・M・ケインズだったことはよく知られている。彼は、イギリス代表の一員ながら、英仏は理不尽なことをしており、それは将来世界に不幸をもたらすことになるであろうと、イギリス代表委員の辞表をたたきつけることとなった。この予言は、はからずもあたることになるが、それはここではおいておこう。
 さて、このような悲惨な第一次世界大戦はなぜ起こったのだろうか? 一人(オーストリア皇太子)の死の代償としてはあまりに大きいではないか? 戦死者1,100万人、国際的な借金18億ドルという数字がそれを示している。また当時は、グローバル化が進展しており、国際間の資本移動・貿易額(対GDP比)もきわめて高かった。もし総力戦が始まれば、すべての秩序が崩壊し、その経済的ダメージもはかりしれないことは知られていたはずである。また実際、戦争前には戦争は起きないだろうという意見が優勢であり、戦争を避けるための外交交渉も行なわれた。
 だが、当時であっても常識を超えたといわざるをえない総力戦ははじまった。
 やはり、セルビアで生じた一事件だけでは理解できない何かがあったのではないかと考えるのが、妥当というものだろう。
 事件に先行して何かがあったはずである。
 1936年に刊行した主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』でケインズは、その理由を説明しようとした。彼は、この著書の最初から22章にいたるまでは、経済をほぼ国内経済(閉鎖経済)を前提として転換し、国際関係については一切言及しない。ところが、一転して23章と24章では、対外経済関係あるいは開放経済に転じる。その際の最も大きな論点は、新重商主義、すなわち他国を犠牲にした市場獲得競争(あるいは「近隣窮乏化政策」と呼ばれるもの)である。
 ケインズは、「戦争がスリル満点の楽しみとなっている独裁者やそれに類した人間」の存在とともに、これこそがはるかに重要な「戦争の経済的原因」であるという。(下の引用文を参照のこと。)
 なるべく簡潔に説明すれば、次のようになろう。現代の資本主義経済では、雇用は次の式で示される。(実際はもう少し複雑だが、最も簡単なデモルで示す。)
   N=Y/ρ   雇用=産出高÷労働生産性
 つまり、雇用量は産出高に比例し(あるいは産出高の増加関数であり)、労働生産性に反比例する(労働生産性の減少関数である)。
 ところで、いま労働生産性を所与とすると、雇用量はY(産出高)によって決まる。もし産出高が少なければ、雇用は労働供給に比べて不足し、失業が生まれる。
 では、産出高Yは、どのように決まるのか? いま政府を捨象すると、それは次式で示される。
   Y=D=C+I+XーM   D:有効需要、C:消費支出、I:投資支出、
               X:輸出(外需)、M:輸入(需要のもれ)
 この式が端的に示すように、国内需要(C+I)が不振のときに、輸出を増やし、輸入を抑制すれば(つまり新重商主義政策をとれば)、有効需要 D が増加し、産出高は増えることになるだろう。
 だが、二つの理由からまさにこれが大問題となる。
 第一に、すべての国が 輸出>輸入(または輸出ー輸入>0)の状態を実現することはできない。したがってある国がこの方策を取り、それに成功すれば、残余の国は(必ずしもすべての国ではないが、全体としては)貿易収支を悪化させ、産出高を減らし、雇用を減らし、失業を増やすことになる。(まさに他国の犠牲である。)そして、もし他国がそれに対抗しようとすれば、それは市場獲得競争を、したがって当時の国際関係上は、植民地・勢力圏の分割競争を激化することになる。
 第二に、ケインズはあきらかに次にことを意識していた。つまり、19世紀末から当時にかけて、国内需要が不振だった原因の一つが賃金の抑制にあったことである。ケインズの時代には必ずしも実証的に明らかにされていなかったかもしれないが、この点は現在では完全に明らかにされている。つまり、イギリスでもドイツでもロシアでも労働生産性の上昇に比して貨幣賃金率は圧縮されていたのである。このことは、もちろん賃金シェアーが低下し、利潤シェアーが増加していたことを意味する。
 簡単な数値例を用いて説明しよう。
 よく知られているように、Y=W+R である(国民所得=賃金+利潤)。
 いま出発点(例えば1870年)で Y(100)=W(60)+R(40)だったとしよう。それから30年後に産出高=所得が倍(200)に増加したとする。もちろん労働者数も増えているだろう(例えば35%)。しかし、賃金率がほとんど上昇しなかった場合、所得の分配は次のようになる。(ここでは簡単のため、物価は上がらないと仮定する。)
   Y(200)=W(82)+R(118)
  さて、この時に何が生じるかは、もちろん正確には不確定である。しかし、きわめてラフには次の想定が成立する。まず賃金はほとんどすべてが(賃金財の)消費のために支出される。一方、利潤は、かなりの部分が貯蓄される。その貯蓄性向はかなり高い(いま 一定であり、 0.5 としておく)。そこで、例えば、
   1870年  Y=C(60+20)+S(20)    S/Y=0.2
   2000年  Y=C(82+59)+S(59) S/Y=0.3
 これはどのような事態を意味しているだろうか? 
 もし、利潤(企業と富裕者)からなされた貯蓄(S)がすべて設備投資に向けられるならば、そして同じ金額の投資が同じ金額の商品を生産する能力を産み出すと仮定するならば、明らかに過剰生産能力が生まれることになる。それは相対的には過小消費と言い換えることも可能である。このような事態にはなるのは、もちろん消費性向の高い労働者の賃金所得を抑制したためである。
 しかし、必ずこのようなことが生じるわけではないかもしれない。というのは、貯蔵された資金を海外に投資することが可能だからである。しかし、この場合には、今度は、海外への余剰資金の投資先を確保することが必至となる。
 だが、実際に生じたのは、これら両者の中間であっただろう。
 もう一つ重要な点がある。それは(ケインズは『一般理論』では検討しておらず、別の論文で行なっていることだが)投資が労働者一人あたりの労働生産性をかなり引き上げるという事実である。上の例では労働人口が30年間に35%(年に1%ずつ)増加し、この間に産出高が 2 倍に増えたと仮定したが、それはーー均衡においてはーー労働生産性が48%ほど上昇したことを意味している。この場合、雇用状況(失業)が悪化することはない。だが、この均衡が必ず達成される保証はない。実際の統計データが示すところでは、この時期の労働生産性はかなり急速の上昇している。そして、これは長期にわたり失業が生まれやすい構造があったことを意味している。ただし、実際には、失業者は数年〜10年ほどの周期で発作的に生じる不況時に急増し、その後の景気回復時に再び徐々に低下してくるというサイクルを描いていたこともよく知られている。

 ケインズが1936年から1937年にかけて直接・間接に述べたことは、以上にように説明される。だからこそ、戦争(の根本的経済要因)を避けるためには、新重商主義の克服、所得分配の改善、そして(これについては更に説明が必要となるが)国際通貨体制の改善が必要であった。(1943〜1944年の国際通貨体制に関するケインズ案は、以上の文脈の中ではじめて明らかになる。)
 ケインズにとって戦争を避けるために何よりも重要なことは、「国々がみずからの国内政策によって完全雇用を達成するすべを学ぶこと」であった。

 ここで、学問上の問題が一つある。それは以上の想定が経済史学によって実証されるかどうかである。
 これについては、ここではドイツ、イギリス、いずれの経済史の研究成果も以上の想定の妥当性を示している。ここでは簡単に示すにとどめておこう。一方では、英独では、労働者の間に政治的民主主義と産業民主制を求める社会主義運動(労働党、SPDなど)の高揚があった。しかし、他方では、それに対抗しつつも、それらを体制内に統合しようとする複合的な動きが生まれ、また何よりも国内の不満を外にそらそうとする運動(英・チェンバレンの帝国関税同盟、独・ヴィルヘルム二世の新航路政策)があったことが知られている。(イギリスについては多数。ドイツについては、さしあたりH・ヴェーラーの『ドイツ帝国』参照。)
 
 私たちにとっての問題は、ケインズの指摘が過ぎ去った過去のものだと楽観できないことである。197Ⅰ年以降にブレトンウッズ体制が崩壊し、ケインズの危惧した「新重商主義」が新しい条件の下に現れてきたことがそれを示している。実際、失業率が高くなり、景気が悪いと感じられるときに、必ず現れる言説は「外需」「輸出」である。 


ジョン・M・ケインズ『一般理論』第24章「一般理論の誘う社会哲学 一般的結語」
 (『雇用、利子および貨幣の一般理論』(岩波文庫版、間宮陽介訳より)

一 われわれが生活している経済社会の際だった欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富と所得の分配が恣意的で不平等なことである。・・・・

四 戦争にはいくつかの原因がある。戦争が、少なくとも戦争を頭に思い浮かべることが、スリル満点の楽しみとなっている独裁者やそれに類した人間にとって、国民の中に眠る好戦気質を目覚めさせることなど、なんの造作もないことである。だがそれよりもはるかに重要なのが戦争の経済的原因、すなわち人口圧力や市場獲得競争であって、これは人々の〔心中の〕炎を煽るという彼らの仕事をたやすくするのである。ここでの議論と深いかかわりをもつのが、おそらく十九世紀において主導的な役割を演じ、ふたたび主導的役割を演じようとしている、この第二の要因である。
前章で指摘したよ.つに、十九世紀後半を風廓していた国内における自由放任と国際聞の金本位制という体制の下では、国内の経済的困難を緩和するために政府にできることといえば、市揚獲得競争以外に何もなかった。というのは、慢性的あるいは間歇的な過少雇川状態〔を克服するのに〕役立つあらゆる手段が、貿易収支の改善という手段を例外とすれば、締め出されていたからである。
こうして当時布かれていた国際体制を国際分業の効験をあらたかにすると同時に国々の利害に調和を与える体制として称揚するのが経済学者の慣わしとなる一方で、彼らはあまり芳しくない影響は胸底に収めてしまった。旧大国が市場獲得競争から超然とするようなことがあれば繁栄は傾き萎んでいくと信じていた政治家は、常識と、そして出来事の推移に関する正しい理解とによって衝き動かされていたわけである。だがもし国々がみずからの国内政策によって完全雇用を達成するすべを学ぶことができるなら(そしてまた、もしも国々が人ロ趨勢における均衡を達成することができるとしたら、という仮定を付加しなければならない)、そのときには、一国の利害を近隣諸国の利害と擦り合わせることざらの経済諸力はなんら必要とされない。むろんその場合でも国際分業と妥当な条件での国際金融の余地はなお存在するであろう。だが一国が自国の商品を他国にごり押しし隣国の商品はこれを突っぱねる強迫的な動機は――そうする必要があるのは、そうしなければ買いたい商品への支払いができないからではなく、自国の貿易収支をひたすら有利にするために収支の均衡を覆すという明白な目的があるためである――もはや存在しなくなるだろう。今日、国際貿易は外国市場で販売を強い購入を制限することによって国内の完全雇用委を維持するための捨て鉢の手段とな,ているが、たとえそれが奏功したとしても、それはただ失業問題を競争に敗れた隣国に転嫁するだけである。だがそれも終わりである。外国貿易は自発的でなんの妨げもない、相互利益を旨とする財・サーヴィスの交換となるであろう。

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