2015年10月29日木曜日

ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 3

 ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 3

 要約
 産出高全体の需要と供給、資本財と消費財の産出高


                   三
 伝統的理論と私との次の相違点は、産出高全体の需要と供給の理論を作り出す必要はないという伝統的理論の明らかな確信に関係している。すぐ上で述べた理由で生じる投資の変動は、産出高全体に対する需要に、したがって産出高と雇用の規模になんらかの影響を及ぼすだろうか? 伝統的理論は、この質問にどのように答えることができるだろうか? 私の考えでは、それはまったく答えることができず、この問題に一つの思想を与えることがなかった。有効需要、すなわち産出高全体に対する需要の理論は、百年以上もの間ずっとまったく無視されてきたのである。
 この問題に対する私自身の答えは、新しい考察を内包している。私は、有効需要が二つの要素ーー上で説明したように決定される投資支出と消費支出ーーからなるという。さて、消費支出の量を支配するのは何だろうか? それは主に所得水準に依存する。人々の支出性向(と私が呼ぶもの)は所得分配、彼らの将来に対する態度、そしてーーおそらくより小さい程度にであるがーー利子率のような多くの要因に影響されている。しかし、主として、通常の心理的法則は、総所得が増加するときには、消費支出もまた、それよりいくらか小さい程度に、増加するというものであるように思われる。これはきわめて明白な結論である。それは単純に言えば、所得の増加がある比率で、つまり支出と貯蓄の間で分割され、また私たちの所得が増加するとき、これが私たちに前より少なく支出させるか、あるいはより少なく貯蓄させるかさせる効果を持つだろうということはほとんどありそうにない、ということに相当する。この心理法則は、私自身の思想の発展において最も重要なものであり、私の考えでは、私の著書で主張されたような有効需要の理論にとって絶対的に基本的なものである。しかし、いまのところ、わずかな批評家またはコメンテーターがそれに特別の注意を払っただけである。
 このきわめて明白な原理から導かれるのは、一つの重要な、だがよく知られていない結論である。所得は、一部は企業者が投資のために生産することによって、また一部は企業者が消費のために生産することによって増加する。消費される量は、このようにして生まれた所得の量に依存する。そこで、企業者にとって生産に引き合う消費財の量は、企業者が生産する投資財の量に依存する。もし、例えば、公衆に彼らの所得の一〇分の九を消費財に支出する習慣があるならば、次のようになる。すなわち、もし企業者が彼らの生産している投資財の費用の九倍以上の費用で消費財を生産するならば、彼らの産出高のある部分はその生産費をカバーする価格では売ることが出来ない。というのは、市場における消費財は、公衆の総所得の一〇分の九以上の費用を持つことになり、それゆえ消費財に対する需要(これは定義上一〇分の九にすぎない)を超過するであろう、からである。かくして企業者は、自分たちの消費財産出高を、彼らの現在の投資財産出高の九倍をもはや超えない量に縮小するまで損失をこうむるだろう。
 定式化は、もちろん、この例解のようにそれほど単純ではない。公衆が消費しようと選択する所得の比率は、一定ではなく、ほとんどの一般的な場合には、他の要因もまた関係している。しかし、いつも、生産に引き合う消費財の産出高を投資財の産出高に関係させる多少ともこのような種類の定式は存在する。そこで私は自著で「乗数」という名前の下にこれに注意をうながした。消費の増加がそれ自体としてこのさらなる投資を刺激しやすいという事実は、ただこの議論を強化するものである。
 企業者にとって利益のある消費財の産出水準が、この種の定式によって投資財の産出に関係づけられるべきであるということは、単純で明白な性格の想定に依拠している。その結論は私にはまったく議論の余地がないように見える。だが、そこから導かれる帰結は、よく知られていないと同時に、きわめて大きい重要性を持つ可能性がある。
 この理論は次のように言うことによって要約できる。すなわち、公衆の心理を所与とすると、産出高と雇用全体の水準は投資の量に依存する、というものである。私がこのように表現するのは、これが総産出高の依存する唯一の要因だからではなく、突然の広範な変動に最もさらされているあの要因〔投資〕を直近原因(causa causans)と見なすことは複合システムでは通常のことだからである。もっと包括的に言うと、総産出高は貯蓄性向に、貨幣量に影響を及ぼすような通貨当局の政策に、資本資産の将来のイールドに関係する信任の状態に、支出性向に、そして貨幣賃金の水準に影響する社会的要因に、依存する。しかし、これらのいくつかの要因の中で、最も不確かなのは、投資率を決定する諸要因である。というのも、私たちがきわめてわずかしか知らない将来についての私たちの見方の影響を受けるのがそれら〔投資率を決定する諸要因〕だからである。
 したがって、私の提供するこの理論は、産出と雇用が何故そのように変動しやすいかという理論である。それはこうした変動を避け、着実な最適水準に産出を維持する方法に関する既成の治療法を提供するものではない。しかし、それは、当然のことながら、どんな所与の環境でも、雇用が何故今の状態にあるのかを説明するのであるから、雇用の理論である。当然ながら、私は、予測に関心があるだけではなく、治療にも関心がある。また私の著書の多くのページが後者にささげられている。しかし、私は、治療のための自分の提案が、明白ながら、完全にはしあがっておらず、予測とは異なった地平にあると考えている。私の提案は最終的なものというわけではない。それらはあらゆる種類の特別な想定に委ねられており、必然的に時代の特別な条件に関係づけられている。しかし、伝統的な理論から離れることについての私の主要な理由は、これよりははるかに深いところにある。それらは高度に一般的に性格のものであり、最終的なものというわけではない。
 そこで、私は伝統的な理論から離れた主要な根拠を次のように要約する。
 (一)正統派の理論は、私たちが実際に持っているのとはまったく異なった将来の知識を持っていると想定している。この誤った合理化は、ベンサム派の計算可能性の線に沿うものである。計算可能な将来という仮定は、行動の必要のために私たちが採用することを余儀なくされる行動原則の誤った解釈を導き、また完全な疑い、未決定、希望および恐れといった隠された要因の過小評価に導く。その結果は、誤った利子率の理論だった。ローンを持つことと資産を持つことの選択の利益を等しくする必要性は、利子率が資本の限界効率に等しくなることを要求するとうのは、その通りである。しかし、これはどのような水準で平等性が有効となるかを私たちに教えることはない。正統派の理論は、資本の限界効率がペースを設定するものであるとみなす。しかし、資本の限界効率は、資本資産の価格に依存する。またこの価格が新規投資率を決定するのであるから、それは、均衡においては、ただ所得水準の一つの与えられた水準とのみ一致するだけである。かくして、資本の限界効率は、貨幣所得水準が与えられなければ、未決定である。貨幣所得水準が変動可能なシステムでは、正統派理論は、解を与えるために必要なものを欠いた一つの等式である。疑いなく、正統派システムがこの矛盾を発見できなかった理由は、それがいつも秘密裡に、所得が所与である、すなわちあらゆる利用可能な資源の雇用に対応する水準にある、と想定していたためである。換言すれば、それは秘密裏に、貨幣政策とは利子率を完全雇用と両立できる水準に維持するための政策であると想定していたのである。したがって、それは雇用が変動しやすい一般的なケースを取り扱うことができない。かくして、資本の限界効率が利子率を決定するという主張に代えて、(そのケースの完全な陳述ではないとしても)資本の限界効率を決定するのは利子率であるというほうがより真実である。
 (二)正統派理論は、産出高全体の供給と需要の理論に対する必要性を無視しなかったならば、いままでに上記の欠陥を発見していただろう。私は、多くの現代経済学者が実際には供給がそれ自らの需要を作り出すというセイ法則を承認しているかどうかを疑わしく思う。しかし、彼らは密かにそれを想定していることに気づかなかった。かくして乗数の根底にある心理法則は注目されなかった。企業者にとって生産に引き合う消費財の量は、企業者にとって生産に引き合う投資財の量の関数であることは観察されてこなかった。私の想像では、その説明は、どの個人も自分の所得の全体を消費に使うか、それとも直接または間接に新規に生産された資本財を買うのに使うという暗黙の想定の中に発見されるはずである。しかし、ここでも繰り返すが、より古い経済学者は明示的にこれを信じていたのに、多くの同時代の経済学者が実際にそれを信じたどうか、私には疑わしく思われる。彼らはその帰結に気づかずに、これらの古い思想を投げ捨ててしまったのである。
                ジョン・メイナード・ケインズ
                   ケンブリッジ、キングス・コレッジ



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