2015年11月3日火曜日

アメリカ人の「自由市場」とは何か? ヴェブレン『企業の理論』の説明

 ヨーロッパの多くの人から見ても、アメリカ人、そしてかなりの程度までイギリス人(イングランド人)が相当な変り種であることは、よく知られている。経済の世界では、それはアメリカ人が原理的な「自由市場」論者であり、所有権と「契約の自由」を神聖にして譲り渡すことのできない「自然権」と考えるといった法的・政治的な態度によく示されている。
 例えば、アメリカは、先進国で唯一、労働・労働市場に関する ILO の多くの条約を批准していない。15歳未満の児童労働の禁止を定めた ILO の規約は批准されていない。またその他の「契約の自由」に抵触する規約にいまだに批准されていないものがある。
 こうした態度・観念はいったい何に由来するのだろうか?
 これについて、『有閑階級の理論』で有名なT・ヴェブレンは、『営利企業の理論』(1904年)で、次の二つの歴史的事情をあげている。
 その一つは、17世紀、つまりイングランドで王党派と議会派の間で内戦が生じた時代に、所有権をめぐる新旧の対立がクライマックスを迎えたとき、ジョン・ロック流の所有権の基礎づけが勝利を収め、その伝統がアメリカ北東部(つまり大西洋西岸)の植民者によって受け継がれたことである。ここでジョン・ロックの思想とは、封建制的・絶対主義的思想に対して、しかし当時まだ「手工業」と零細営業が支配的であったという経済状態を反映して、所有権を「自己労働」によって基礎づけた思想である。その後、18世紀〜19世紀に産業革命によって事態は大きく変化し、機械制工場が生まれ、多数の労働者を雇用する企業者経済が生まれたが、法制度においては、ジョン・ロックの思想から生まれた自然権としての所有権と契約の自由の不可侵性はびくともしなかった。事実、例えば18世紀、19世紀のイングランドにおける労働法の根本にあったのは、個別の人々(個人)による契約の自由を厳守するという思想であり、それは労働契約に労働組合が関与することを厳禁し、違反者は(つまり労働組合を結成し、団体交渉を行なった者、あるいは行なおうと相談=「共謀」した者)は投獄されることとされていた(団結禁止法、主従法)。(この状態に対する批判は、19世紀後半に盛んになった。マルクスの『資本論』、ウェッブ夫妻のフェビアン協会の設立、労働党の成立などがそれを示す。)
 もう一つの事情は、アメリカの北東部に入植した人々が、17世紀のイングランドには存在していた因習的な法と制度を持ち込まなかったことである。当初、ジョン・ロックによって自己労働を根拠として公正に設定された自然権としての所有権に由来する契約の自由、とりわけ金銭契約の自由の観念は、米国では、独自の展開をとげ、やがて自然権として憲法にまで持ち込まれた。それは米国民のいわば法的な「常識」となり、神聖にして譲り渡すことのできないものとしてまつりあげられるにいたった。
 
 しかしながら、これはアメリカにおける事態の一つの側面であり、別の側面がある。そして、これもヴェブレンの示すところである。
 つまり「法的には」(de jure)、金銭契約の自由は侵すべからざる自然権であり、したがって裁判所、とりわけ上級の裁判所が判決に際して、それを最高度に斟酌してきたとしても、「事実上は」(de facto)には必ずしもそうではなかった。何故ならば、金銭契約の自由は「事実上」様々な社会的な不都合をもたらしうるからであり、また実際もたらしたからである。このことは具体例をあげるまでもないであろうが、労使関係の領域ではとりわけそうである。というのは、自由な契約が無力な労働者大衆に大きな不利益を意味したからである。そこで産業上(労使関係上)の自由の問題については、法と事実とのギャップが生じることはしばしばであり、そのようなギャップは特に労働者大衆とその雇主あるいは所有者の間の紛争に関する裁判所の判決に現れることがたびたびあった。裁判所、とりわけ上級裁判所は、金銭契約の自由を損なうとして労働側に不利な(所有者・経営者に有利な)判決を与え、国民の多くのから不信の眼で見られることとなった。(裁判所は、金権主義であり、コーポラティズムであり、腐敗している、等々。)
 なお、ヴェブレンが『企業の理論』を書いた30年ほど後のことであるが、ローズベルト大統領がニューディルを実施するために様々な法律を議会で通過させたが、それらが最高裁判所で「違憲」判決を受けたことはよく知られている。もっとも違憲判決があっても、同じ目的の別の法律を制定すればニューディール政策を行なうことは可能であったが、ともかく、これは1930年代の米国の最高裁判所が「金銭契約の自由」についてどのような観念をもっていたかを示すためのよい一例である。
 
 以上の事態はまた、興味深い事実を示している。それはアメリカ人が「ダブルスタンダード」の上に立っているということである。アメリカの普通の人々にとって常識的・法的には「金銭契約の自由」(自由市場、選択、競争)は因習的な自然権のように思われる。しかし、事実上、近現代の経済状況はそれを許さず、大幅に修正することを求める。
 実際、アメリカ政府は、しばしば米国経済が「自由市場」にもとづく経済であることを主張し、外国にも「自由市場」を求める。しかし、その実態はと言えば、(例えばGDPの40〜60%に相当する金額が政府の管理するところ(教育、社会保障、軍事、ヘルスケアなお)であることが示すように)自由市場はとうに放棄されている。政府が介入しても自由な市場が存在していると感じているほど、政府の介入は普通になっているのである。まさにジェームス・ガルブレイスが主張するように、「保守派」(共和党)でさえ実際は自由市場を放棄しており、プレデターたち(金融、企業のCEOs、他)は国家を餌食にしている。


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