2022年12月2日金曜日

物価について 1

  しばらくぶりに本ブログを更新することにします。

  この間ずっと、T・ヴェブレンの翻訳に取りかかってきましたが、5回目の訳文の推敲が終わりに近づき、何とか出版できるような日本文になってきたように思います。これまで一パラグラフずつ、そして一文ずつ、きちんと意味の通じる訳文になっているかを確認しながら、またそのためにパラグラフごとに二行以内の要旨をつけながら(アダム・スミス『諸国民の富』がそのような形式になっています)、やってきて、ほぼ誤訳や不適切訳をなくしたのではと思っています。

 それはさて、「物価」ですが、今年になって日本でもかなりのインフレーション(持続的な物価水準の上昇傾向)が生じ、この間もこれまでスーパーで498円で売られていた海鮮丼が598円と20パーセントも上がっていました。この物価上昇は、言うまでもなく、輸入インフレ(輸入品の物価上昇)によるものであり、それがまたロシアによるウクライナ戦争、そして日本にとっては円安(ドル高)によるものであることは言うまでもありませんが、これに関するラジオ、テレビ等における各種の解説に違和感を覚えるものがかなりあったので、ここに私自身の考えてきたことを、きちんととは行きませんが、雑感風に綴ってみたいと思ったしだいです。

 市場(market)で売られている財やサービスに「価格」がつけられていることとは、小学生や中学生はもちろん、幼稚園児でも知っていることと思いますが、それがどのようなメカニズムによって決まるのか、どのようなメカニズムによって変動するのかは、かなり複雑であり、また複合的な性質をもっているため、それをきちんと説明するのは、専門家にとってもそう簡単なことではないと、私は思います。

 こういうと、もしかすると人の中には、高校生(中学生)の時に、社会科の教科書に「×」(クロス)の図が載せられていたのを思い出して、需要曲線と供給曲線の交点で決定される(供給量=需要量と価格が)に決まっているジャンと思う人がいるかもしれません。私が大学の演習でこの問題を扱っていたとき、右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線の交点で価格も量も決まりますと、答えた学生がいました。

  しかし、これは誤りです。少なくとも私はそう思いますし、多くのまともな経済学研究者もそう考えています。この「物価について」では、この点から始めて、物価の様々な問題について述べて行くことにしたいと思います。

  さて、×(クロス)の思想がなぜ誤りなのか、経済学史(経済学の歴史)を紐解きながら、解説することにします。

 この図(が示す思想 )は、何となく正しそうが気がします。繰り返しますが、何となく、です。が、何となくなので、その根拠を問われると、答えに窮する人が多いでしょう。わが学生も、私が「どうして?」と問うと一瞬戸惑い、次に「消費者(購入者)は価格が低いほうが有利ですし、反対に生産者(供給者)は、価格が高い方が有利です」という風に答えたように思い出します。たしかに人々(需要側、供給側)の「希望」がそうであることは間違いないでしょう。しかし、「希望」はあくまで「希望」であり、現実のメカニズムもそうなっているとは限りません。困りました。

 そこで、次に「あなたは現実の商品、例えば米について今時点でのクロス図を描くことができますか?」と問うてみるとします。よく米を買いに行く主婦(または主夫 )ならば、5kgの米が1500円~2000円程で買えることは知っていると思いますが、それは無限にある点の中のただ一点=交点(p、Q)の情報にすぎません。

 


 しかし、実証科学をめざす経済学ならば、この図がインチキと断定されないために、十分なデータがあれば、「描けるはず」ということを示さなければなりません。すくなくとも、原理的には可能だということを示すことができなければ、話しになりません。

 そこで、この点では有能と認めざるを得ない一群の人々は、次のような思想に到達しました。

 

1)右上がりの供給曲線(SS)の根拠

  単に「希望」ではなく、実態的な根拠があるというために考え出されたのは、モノ(財やサービス)を作るのに必要な費用が逓増するという「理論」でした。モノを作るのに費用がかかり、モノの生産量が増えるにしたがって総費用が増えるというのは、誰も否定しえない自明な事実でしょう。しかし、それだけでは十分と言えません。生産量が10単位のとき総費用が100円であり、生産量が20に増えたとき総費用が200円だとします。この場合、一単位あたりの生産費はいずれも10円であり、費用は逓増したとは言いません。

 そうではなく、生産量が増えるにつれて単位あたりの費用が10円、15円、20円・・・と上昇してゆくとき、費用は逓増すると言います。そして、このように費用が逓増するからこそ、物価が10円、15円、20円・・・と上がって行くのに応じて、生産者は利益が出るギリギリの点まで生産量(供給量)を増やして行く、という思想です。うまいこと考えました。その頭のよさには脱帽してしまいます。・・・が、この思想が正しい(つまり現実に即している)かどうかは、別のことです。これについては、後で検証します。

  2)右下がりの需要曲線(DD)の根拠

 こちらも単に「希望」ではなく、「疑いない事実」にもとづく根拠があるということが実証科学としての経済学には必要ですが、そのために考え出されたのは、効用の低減という思想でした。つまり、私たちは、モノを買うとき、必要があって買うわけであり、ある種の効用を感じるから買うという事が何となく正しそうと思われます。米を例に取れば、最初の5kgには100の効用を感じ、それを含めた10kgには200の効用を感じ、さらにそれらを含めた15kgには300の効用を感じるという風に考えると、単位(5kg)あたりの効用は、100と変わらないことになります。しかし、一連の理論家たちは、購買量が増えるにしたがって、この効用(限界効用)が次第に低下してゆくと考えました。このように考えると、個人レベルで考えても、まだ集団で考えても、購買量が増えるのは、限界効用の低減に応じて価格も低下してゆく場合です。(したがって、この定理では、効用と価格には一定の正比例関係があるということになります。

 実に美しい理論というべきではないでしょうか?

 しかし、(これの提唱者にとっては)悲しいかな! 現代の科学は、自然科学であれ社会科学であれ、「疑いなき事実」(matter-of-fact)にもとづいており、そこから出発し、そこに回帰します。そして、上の理論(以下、「公準」といいます)は、この点からみて、決定的に怪しいことが分かっています。

 これについての詳しい紹介は、おいおい実施することにしますが、ここではさしあたり簡潔に次の点だけを示しておくことにします。

1)ほとんどの調査は、費用の低減を否定している!

 これまで欧米でも、また日本でも各種の調査が商品の価格設定に関連して行われてきましたが、その結果、ほとんどの製品について、費用は逓増するどころか、逆に低減していることが明らかにされてきました。このことはすでに19世紀末には明らかにされています。

 しかし、よく考えれば、当然のことです。モノを生産する企業が生産量を増やしてゆくほど、効率よくモノを生産することができ、より安い価格で提供できることは、よく知られています。企業がより多くの商品を売るために、商業的努力をしていること、さらにはより多くの商品を購入する顧客に特別のよい条件を提供することもそれを裏書きすることになるでしょう。

  ただし、念のためにつけ加えますが、農業などの第一次産業では事情が少し異なっており、(限界)費用は逓増する場合が多く見られます。これは、すでに農業に適した土地がすでに利用されており、それ以上に生産を増やそうとした場合に、不適地を耕したり、肥料などの追加投資を必要とするためと考えられています。しかし、企業調査は、そのような分野が総生産の数%ほどを占めるにすぎないことを示しています。

 2)効用は測定不能です!

 一方、そもそも限界効用の逓増、低減を語るまえに、効用は測定可能なのかという問題があります。そして、結論を言えば、それが測定可能と証した人は一人もいません。仮に測定可能とはどういうことかについても述べておきましょう。まずそれには単位が必要となります。また個人ごとに異なる効用評価を比較したり、合計したりすることができなければなりません。あなたは米5kgに対してどれだけの効用を感じるでしょうか? またそれを数字で表すことができるでしょうか? もちろん、それは各人の心の中の心理的事実として否定はできないかもしれません。が、同時に、物価の根拠となりうるためには、客観的・外面的な数値によって示すことができなければなりません。そして、結局、この難題に答えることのできる人はいませんでした。

 この状況に最後まで抗った人はいます。中には、効用は(量を表すための)基数ではなく、序数だといった人がいます。例えば、私はバナナが一番好き、リンゴが二番目で、蜜柑が三番目・・・。K君はリンゴが一番好き、二番がカレーで、三番がラジオ・・・・しかし、これが何の役にたつのでしょうか?

 もう一つの残念なあらがいは、例えばleets(steelの逆)なる単位を考え、それが価格に比例するというものでした。例えば10 leets=100円という等式が成立すれば、1000円のモノの効用は10 leets ということになります。しかし、これは主客転倒しています。本来は、効用が価格を説明しなければならないのに、価格が効用を説明するという逆転が生じているわけです。よく言っても「同義反復」(tautology)にすぎません。

 こうしてクロスの思想は、経済学史上は消え去りました。ところが、です。それにもかかわらず、高校の教科書には載せられており、また大学の新古典派経済学の教科書には、載せられています。ただし、多くの場合、その根拠は、「当然の公理」として書かれていないか、書かれていてもぼやかされているか、です。これは、今日の物理学がそのよって立つ根拠となる事実を明示的に示し、そこから出発するのとは大違いです。

 が、今日のところは、ここまでにします。


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