2014年2月8日土曜日

無理難題 人件費を下げたい、でも需要は増えて欲しい

 カール・マルクスの『資本論』(たしか1868年)は、今から150年も前の本。古めかしいという人も多いと思います。たしかにその通りです。しかし、古くても、現代経済の特質をずばり指摘している鋭い経済分析の本であることは事実です。
 その一つが、個別資本(企業)の立場と社会的総資本(一国の企業全体)の立場の区別と対立です。これは1936年にケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』で展開したこととも共通する論点です。簡単に言えば、次のようなことです。
 個々の企業は、社会全体の総需要が一定(不変)という仮定の下では、賃金(人件費)を引下げ、自社製品の価格を引き下げれば、売れ行きが増えるため、生産量を増やし、雇用も拡大し、利潤も増やすことができます。これは正しい命題です。
 しかし、一国のすべての企業が同じことをやったらどうでしょうか? 例えばすべての企業が貨幣賃金率を(例えば5%)引き下げるのです。もちろん、国全体の貨幣賃金総額が減少します。このとき、かりに製品価格が同じ率で(つまり5%)低下するとします。この場合、総需要は拡大するでしょうか?
 この答えは必ずしもはっきりと断定できませんが、総需要が必ず拡大するとは決して言えません。現代の主流派(新古典派)の経済学でも、実質賃金率(貨幣賃金率÷物価水準)が変化していないので、(貨幣)総需要は低下し、(実質)総需要は不変である、ということになります。
 しかも、もし貨幣賃金率が5%低下したのに、製品(販売)価格が(例えば)3%した低下していなければ、実質賃金率は低下したことになり、賃金からの(実質)消費支出は縮小することになります。
 ここでの問題の要点は、個別企業(だけ)の行動の結果と、社会全体の企業の行動は論理的に区別しなければならないということにあります。前者の場合、個別企業の行動(賃金率の引下げ、製品価格の引下げ)は、前提条件(つまり社会全体の総需要)を変化させないのに、後者の場合には前提条件(社会全体の総需要)を変化させるからです。
 ケインズは、それを「論点先取の欺瞞」と呼びました。考える能力さえあれば、子供(中学生や高校生)でも分かることです。しかし、これを理解しない経済学者がいることは嘆かわしいことです。

 さて、個々の企業は、<人件費を下げたい。でも需要は増えて欲しい>と願います。特に景気がよくないときや、市場競争が激しいときには、なおさらそうでしょう。
 その時、企業はどのような行動をとるでしょうか? これは必ずしも明確に回答できる問いではありませんが、2000年に日銀が行った調査(この前後に世界各国の中央銀行が同様な調査を実施しています)では、日本企業は製品価格を引き下げるために、非正規雇用の拡大を通じて人件費を圧縮したことが明らかにされています。(欧米の企業の対応は若干異なります。)
 しかし、その結果は、今では多くの人が知っているように、日本社会全体における賃金所得の低下であり、総需要(消費、投資)の縮小でした。
 しかし、企業は総需要が拡大するという願望を捨てたわけではありません。そして、それは次の2つの政策期待となって現れます。
 1 金融政策。ゼロ金利政策、量的緩和政策といわれるものです。
 2 円安誘導による輸出拡大。

 1と2の政策の主張は、日銀批判となって爆発することもありました。企業が自分たちで自分たちの首を絞めていることを棚に上げて、日銀がきちんと仕事をしていないと非難するわけです。
 ただし、2については、ここ3年間に日本の貿易収支が赤字だったことを考えると、まったく理解できないわけでもありません。(詳しいことは省きますが、従来も、貿易収支の大幅黒字が続くと、円高になって輸出が抑制されて貿易収支の黒字幅が小さくなり、すると日本の輸出企業が「涙ぐましい」努力(リストラを含む)をしたり、円安になったりしてふたたび輸出が増えるというサイクルが繰り返されてきました。この点で、昨年からの円安は必ずしも理解できないわけではありません。)しかし、大幅な黒字でなければ不安を感じるというのは、貿易赤字不安症の症状に他なりません。
 
 さて、量的緩和政策というのは、日銀が市中銀行に対してマネタリーベースを増やすということであり、ただちに市中銀行の企業等に対する貨幣供給が増えるということを意味するものではありません。それが増えるためには、銀行の貸出態度の改善も重要ですが、何よりも企業の投資(特に内部資金が不足しているために銀行貸付を不足している企業の投資)が増えることが必要です。しかし、そのためにはーー前に書いたようにーー消費需要が将来拡大するという企業の期待がなければなりません。
 
 端的に言いましょう。現在、円安による物価上昇率が1.4%にまで上がっています。その上、4月からは3%ポイントの消費税率の引き上げがあります。合計で最低4.4%の賃金引き上げがなければ、勤労者は実質的に賃金率が低下したと感じることになります。
 もとより消費税率の3%分が多数の、特に所得の低い人々の個人的支出を補うような形で政府によって使われるならば(例えば、教育費や医療費、年金など)、事情は異なります。しかし、それを期待している人々はどれほどいるでしょうか?
 
 先日、某テレビ局の放送を見ていたら、某エコノミストがインフレ率を超える貨幣賃金の引き上げは3ないし4年後になると述べていました。唖然としました。つまり、ほとんどすべての日本の勤労者にとって3、4年は景気の悪い状態が続くという結論になるわけです。

 人件費を下げたい。でも需要は増えて欲しい。この虫のよい、しかし切実な要求は、資本主義経済が誕生したときからの企業家の切なる願いでした。しかし、財政負担はしたくないので、財政政策には期待しない、という。(あるいは国際競争が厳しいという理由をつけて、法人税を引き下げ、消費税を引き上げるべきだという雰囲気をマスコミを通じて流す。)また金融政策が効くとエコノミストに言ってもらう。(特に株価が上がるとうれしいという雰囲気をかもしだす。)

 昔、まだ私が学生の頃は、多くの経済学者がマルクスやケインズを読み、個別資本の立場と社会的総資本の立場の区別、ケインズの有効理論のエッセンスを理解していました。また当時の企業家の多くも現代経済のしくみをそれなりに理解し、勤労者所得の引き上げと言う「妥協」が必要なことを知っていたように思います。

 バーゲート墓地のマルクスやケインズが聞いていたら、さぞかし嘆くことでしょう。もちろん企業家の虫のいい要望に対してではなく、エコノミスト諸氏の理論的なレベル低下に対して・・・。
 




4 件のコメント:

  1. 賃金を上げる≠人件費を増やすです。これがイコールで成り立つためには雇用量や雇用時間の賃金に対する感応度が低いことが必要ですが、実際には低くありません。賃金が上がった代わりに失業が増えたり残業時間が減ったり工場が週休3日になったりすれば国全体の貨幣賃金総額が減少し、総需要に悪影響を与えます。実際、時間当たり実質賃金はバブル崩壊以降も上がり続けましたが、国全体の貨幣賃金総額は実質でみても減少しました。

    あと、企業の目標は人件費を下げることではなくあくまで利益を増やすことです。この両者は必ずしも一致しません。

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  2. piccrcusさん、<賃金を上げる≠人件費を増やすです>にならないように緩和されたすぎた雇用規制を元に戻すこと、財政支援をきっかけとして必要でしょう。

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  3. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  4. Takashi Satouさん、解雇などの規制が強化されても、新卒採用を減らすなどの形で雇用量の賃金に対する感応は依然として残りますから根本解決にはならないでしょう。残業時間が減ったり工場が週休3日になったりして、時間当たり実質賃金が上がっても所得は逆に減ってしまうことに対してはさらに無力です。

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