2022年12月5日月曜日

物価について 4 幼稚な、あまりに幼稚な貨幣数量説

  物価は変動しますが、中でもインフレーション(インフレ)と呼ばれて、物価水準の持続的な上昇傾向が現れることがあります。歴史上よく知られているものには、1923年ドイツの天文学的なハイパーインフレーション、戦後日本のハイインフレーション、1970年代の停滞(stagnation)を伴ったインフレーション、ソ連崩壊後のロシアの1991年のハイパーインフレーション、そしてロシアのウクライナ侵攻によって生じている現在の世界的インフレーションなどがあります。

 こうしたインフレはどうして生じるのでしょうか? 1970年代に世界的なインフレが生じたとき、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンは、インフレが「貨幣的現象」であると言い、また「貨幣数量説」を唱えました。彼は、後に俗に「ノーベル経済学賞」なるものを取っていますが、これは正確にはノーベル賞ではなく、「アルフレッド・ノーベル」の名を語ったニセのノーベル賞であり、正しくは「ノーベル記念スウェーデン国立銀行賞」です。これについても、いろんな話しがあるのですが、ここでは脇道にそれてしまうので、本道に戻ります。

 さて、インフレが まさに「貨幣的現象」であることには私も同意します。しかし、貨幣的現象だから貨幣数量説が成立するというのは、論理が完全に飛躍しています。それは幼稚すぎるほど、幼稚な理解とさえ言えるでしょう。

 簡単に言えば、この考えは、物価水準が貨幣(通貨)量に比例しており、通貨量の変動に応じて物価が変動するというように定式化されます。数式で表現すれば次の通りです。

 p=M/Q (p:物価水準、M:通貨量、Q:流通商品量)

 実は、この式には、様々な経済学上の問題点が含まれており、それを一通り説明するだけでも一苦労ですが、特に先を急いでるわけでもないので、ざっと説明したいと思います。

 まずQ(流通商品量)ですが、世間には数万品目とも数十万品目ともいわれる商品種類があります。そしてそれらの量(総金額ではありません!)を表現する方法は、残念ながら、まったくありません。例えば米なら昔は「俵」「斗」「升」などで表現され、今ではkgで計量表示されます。また鉄などの金属はkgやトンなど、車は「台数」で示されます。しかし、医療などのサービスに至っては従事する人の勤務時間を除いて量を表示する方法を私は知りません。これらの雑多な商品の総量(おそらく物理量というべきでしょう)を一つの単位で示すのは不可能というべきです。実際には、人は(もちろん経済学者も)貨幣で示した総額を物価水準で割って総量(とその変化)を類推しているにすぎません。(そして、これが実際に行われている方法です。物価統計を思い出してください。)ただし、仮に労働価値説が成立し、すべての商品の価格が投下労働時間に比例していると想定するならば、総労働時間が商品量を示す"proxy"(代替物)にはなるでしょう。

 しかし、この点はあえてスルーして、かりに商品総量が 物理量で計測できるとしましょう。次の問題は、通貨量ですが、これは現在ではどこの国でも行われている統計(中央銀行などの諸表)から知ることが出来そうです。しかし、ここにも問題はあります。というのは、学生向けの新古典派の教科書経済学では、貨幣は商品を売買するための手段としてしか登場しませんが、例えばケインズが述べているように、貨幣(通貨)には商品の売買のための機能以外にも様々な需要(用途)があるからです。例えばもしもの時の準備(予備)のための需要、資産保有のための需要(銀行預金など)、資産の売買のための需要などがそれです。つまり統計から通貨量を知ることができても、そのうちのどれだけが商品の売買のために使われたのかを知ることは、一般的に不可能です。もちろん、ある種の推計はできるかもしれませんが、それが事実に近いか、またどれほど近いかは「神のみぞ知る」です。

 もう一つことわっておかなければならないのは、これは「金」というそれ自体として価値を持つ商品が貨幣素材であった以前の金本位制の時代ではなく、金本位制離脱後の通貨体制のことだということです。 現今の通貨体制では、銀行は様々な法的制約を受けていますが、単に技術的ということであれば、人々の貸付を行うことによって、いわば無から通貨を創りだしています。もし私が銀行から10億円を借りることに成功すれば、私の銀行口座には、10億円の預金残高が記入されることになるでしょう。銀行員がPCに向かって私の銀行口座に10億円と記入すれば、それで終わりです。

 *ついでながら、銀行は、私たちが預金したお金を使って、それを他の人に貸し付けるという誤った理解をしている人がいるようですが、それはもちろん幼稚な誤解です。そもそも現今の通貨は、銀行が人々に貸付を行わない限り、社会に出てきません。

 *もう一つ、ついでながら、最近、ネットでも紹介されるようになったMMT(現代貨幣理論)ですが、これの成否について、このような小考で論じることができないことは言うまでもありませんが、一言のみ。まずMMTがここで述べたような通貨発行のメカニズムから出発していることは言うまでもありません。しかし、政府が大量の国債発行をし、それを日銀が事実上引き受けるというような体制について、例えば山本太郎さんが「借金をしている人がいるということは、他方で貸している人もいるということです」と言っていることについては問題があると思います。確かに簿記における負債=資産という恒等式が常に成立することは言うまでもありません、それが政府がどれだけ国債発行をしても問題はないという結論を導くことはありません。もっとも、彼も「インフレが生じない限り」という限定を付していることは注意しなければならず、また彼がクズ政治家の多い状況の中で、多くの点で、まともな政策を提言している野党政治家の中の一人であることは間違いないと思います。

 さて、ミルトン・フリードマンは、銀行がヘリコプターからお金(銀行券)をばらまくという比喩を使いましたが、現実にはもちろんそのような事は絶対にありえません。実際には、市中銀行が人々に貸付を行うことによって、通貨は社会に出てきます。

 さて、ここからが本論ですが、フリードマンは、生産量に比べて社会にでまわる通貨が増えすぎるので、インフレが生じると考えました。この思想は、上式から見て、正しそうに思えます。しかし、そこにはいくつかの虚偽の推論が含まれています。

 まず貨幣数量説は、頭の中の想像としてであれば、成立する余地はあります。もし何らかの事情で、突然、通貨量が2倍になったとします。その他の事情が同じならば、物価が2倍になってもおかしくないかもしれません。これは、例えば宇宙のすべてが2倍になったならば、私の背丈も、部屋も、物差しも、何もかも2倍になり、その結果、2倍になったこと自体が認識できないのと、似ているかもしれません。

 しかし、実際に考えなければならないのは、そのような妄想ではなく、あくまで現実の世界で人々が新たな貸付を受け他結果、通貨量が増えて行くという事態です。 これは、中央銀行や市中銀行が勝手にヘリコプターから通貨をばらまくという妄想とは異なるものです。

 はたして銀行(中央銀行を含む)は恣意的にばらまく通貨を増やしたりするものでしょうか? もちろん、銀行は人々(個人や企業)の通貨需要に応じて、貸付を行うものであり、かってに通貨(貸付)を増やすことなど決してできません。これを経済学の言葉でいうと、通貨量は「内生的に」(経済社会の必要に応じて)生じるものであり、銀行が「外生的に」(経済状況とは関係なく恣意的に)決めることができるものではありません。

 もっとはっきり言えば、実際には、通貨量が増えるからインフレが生じるのではなく、逆にインフレが生じるために、通貨需要が増えて実際の通貨量(貸付量)も増えるというのが実際に因果関係です。

 このことを示すものとして、実際に生じたインフレ時にどのような事が生じているかを示すのがよいと思います。どれでもいいのですが、例えば1991年のロシアで生じたハイインフレを取りあげましょう。この時も、ひとたび激しいインフレが生じると、その勢いは止まらず、あっという間に物価は千倍あるいはそれ以上に上昇しました。もちろん、ロシア中央銀行が意図的に1000倍あるいはそれ以上の通貨を発行してインフレを加速しようとしたわけではありません。彼らはインフレを抑えようとして、金利を引き上げ、通貨量を抑制しようとしました。しかし、主観的には通貨量を抑制しようとしても、現実には通貨不足が生じており(多くの地域で現物交換さえ行われるようになり)、通貨を求める声は高くなり、結局はそれに対応することを余儀なくされます。統計を見れば一目瞭然ですが、M/pの値は激しく低下してゆきました。もし通貨(M)の増発がインフレの主導的要因であれば、少なくとも物価水準pに比例して通貨量Mの数値が増えるはずですが、現実に生じていたのは、その逆だったのです。<激しいインフレの中の通貨不足>、これが1991年のロシアを襲った現実でした。

 では、インフレはどうして生じるのか? これをあらためて問う必要が出てきます。あらかじめ、現在の本当に有能な経済学者たちが見ている本当の要因を示したいと思います。それは、一般化して言うと「貨幣的要因」であることは間違いありませんが、通貨量ではなく、「所得をめぐる紛争」(conflict over income)に他なりません。「所得」、これはすでに本ブログでも示したように、価格決定の背後にあるきわめて重要な要因です。それが物価変動に大きい作用を及ぼしたと考えるのは、きわめて合理的なことです。が、この点については、稿を改めて検討してみたいと思います。

 (続く)

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